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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 ae

2014年09月08日 | 悪童の書
ae

 リーヴァイス501が求める体型に迫らなければならない。肉薄という程度までに。裾上げという妥協と調整と、手加減を抜きにして。

 イタリアのローマ銀座にある夫婦だけで営むような小さな洋品店でシャツを買おうとしている。自分の首は太く、腕もどうやら短いようであった。ここに基準を置くと、こちらに影響が出て、ここに力点を置けば、下流はせきとめられた。自分は平均点にならなければならない。

 柔道着を着るための体型として進化した民族ではない。

 お父さんと呼ぶべきような風貌の店員は、笑いを隠し切れないでいた。まったく厭味のないすがすがしいほどの笑みである。そこで結局、一枚のシャツを買ったように思う。成長すれば、いずれ腕も伸びる。または旅の恥はかきすてとも言えた。夫婦はこの日の夕飯時に、シャツを買ったアジア人を思い出して、笑い合ったかもしれない。夫婦の間柄を永続させる緊張の緩和は、アジア人の腕の短さがもたらした。現代のマルコ・ポーロがジパングから来たのである。

 決して突出しないこと。できれば、一定のところより劣らないこと。たまに水面に顔を出すぐらいの標準値で我慢すること。

 緯度や経度や赤道ということが頭のなかでうまくつかめない。もうメジャー(巻尺)で簡単に計れるようなサイズではなかった。同じ競技をしているはずの野球も、大きいグラウンドとか小さなスタジアムという表現でも明確であり、かつアナウンサーの情報でも真実を上塗りしているが、球場自体のサイズが違うことを大目に見ていた。なんだか腑に落ちない自分がいる。

 しかし、目と鼻と口の数は同じでありながら、美人と不美人を分けている自分もいた。機能は同じである。別に機能で愛を発生させたわけでもない。

 シャネルのコマーシャルに出て、その広告塔になるべき姿を有していることを想像する。不平等な世の中だなと思うが、もし彼女が交際相手でもあれば、不平等であることを忘れ、運という得難いものを手に入れた自信で、眠りさえストップさせる興奮をおぼえるだろう。その姿がポスターになり、看板になり、勝手に基準をつくりあげる。

 そこに個性がなければならない。絶対的な個性。

 写真という表面でなにが具体的に分かるのだろう。ひとは写真をつかって見合い相手を判断する。CTスキャンの映像をもとにして見合いする輩もいない。あるいは、レントゲン。

 3Dのプリンターがつくられる。一体でかまわないが、自分の立体の模型を作製して、きちんと彩色(夏バージョン。色白バージョン)をほどこし、仮に洋服を試着させれば、客観的な自分が発見される。いつか、自由に。

 ゴルフの番組を見れば急に長さの基準、名称がかわった。ぼくは頭のなかである程度の変換を余儀なくされる。基準がずれれば、もうどう正確に判断すればよいのだろう。その世界はぼくの腕の短さを決して笑わなくなるのだろうか。この日に拘泥している。

 カラフルな国の、カラフルな下着のトランクスを自分のために購入する。肌触りもよい優しいコットン。これは世界基準である。試着時に、店員は笑わずに、目を丸くした。と言いたいところだが、試すこともなくパッケージのままレジに数枚、もっていっただけで終わった。いつもの愛用のものと比べれば、サイズという無言の圧力は自己主張をしてこなかった。マフラーもネクタイも同様である。手袋にもそんなに差異はない。不思議と女性たちはぼくの指を褒めた。優美でほっそりとしているそうである。これは、遺伝ではないような気もする。この美点が首にも、腕の長さにも影響として到達しなかったことが謎である。

 手袋屋にいる。

「ユー?」と訊かれている。

「ユー」とぼくは答えている。自分用のとして。もちろん、答えは「ミー」である。なぜ、ぼくははじめて見た店員に急に手袋をプレゼントしなければならないのだろう。いくら、きれいであったとしても。

 空港でビールを飲んでいる。アジア人の自分がひとり憮然として鏡に映っている。機能とすれば、このぐらいの鼻の高さで充分だった。外国人の何人かの鼻は過剰すぎるきらいがあった。目の大きさも、小ささもこれで過不足なく見える。ここに来る前に入った公衆トイレの位置は意に反して高かった。子ども時代の切なさがこみあげてきそうだった。さらにお代わりする。クレジット・カードの縦と横の長さは世界共通である。コインはまちまちだった。どういう細かさが妥当なのか誰が決めているのだろう。ポケットのなかでじゃらじゃらいわせ、サイズで認識することなど一週間ほどでは不可能だ。

 飛行機にもちこむカバンのサイズも決められる。スーツケースの大きさですら、誰かが決めている。越えれば超過料金を支払う羽目になる。腕の短いあなたは、料金が安くなりますと、女性スタッフが言う。すがすがしい笑顔で。

 飛行機に乗る。バスの運転手の息子は車を運転しなかったが、備わった機能の所為か、乗り物酔いをまったくしなかった。それが、どういうものなのかが経験としても分からない。シートベルトをしめる。サイズがある程度、決められているのだろうが融通が利く。このあいまいな融通ということばに、ほんのりとした優しさを感じる。ロッソとビアンコという簡単なふたつのことばを覚えただけで、世界は幸せに、ほんのりとした幸せにも近づく。