爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 ak

2014年09月14日 | 悪童の書
ak

 カバンに重しを乗せて、用途に沿わないぐらいに薄くしている。その苦労もつかの間、三本線の入ったスポーツ・バッグを肩にかけ通学している。中味はシャーペンが一本と消しゴムひとつという至ってないほどの身軽さ。ノートなんかなくてもすべてを覚えられる厳かな自信。いまはそれもきれいさっぱりと廃れ、メモ帳の山を自分の周囲に置いている。そもそも、自分の名前は? おそろしいものである。「ほら、あれ?」

 先生たちが身なりを門番のように立ちはだかりチェックしている。関所である。ぼくらは住宅に隣接している壁を飛び越え、そのまま門を通過せずに教室にもぐりこむ。ある日、ぼくの遅刻の回数を見せられて驚愕する。一年のうちの早い途中段階で三桁ぐらいに膨れ上がっている。これも、いまは時間厳守を信条としている。遅刻なんかは病いのひとつなのだ。どうやっても根治できない。しかし、ぼくはした。子どもは眠いものである。

 体操着を数枚、余分に買ってもらってYシャツの代わりに着ている。母のアイロンの手間も省ける。大体が孝行にできている。この方が清潔でもあり、気楽でもあった。上はコットンの半そで、下は学生服のズボン。テレビなどで見るヘルメットをかぶって自転車で通学して、役所のひとの袖の黒い覆いの論理のように教室に居る間はジャージで過ごそう、という野暮な類いのものではない。田舎はおそろしいところだ。

 反対に田舎の医者の診療時のカバンように、または会計士や監査員の仕事帰りのように分厚いカバンをいとわない人々もいた。頑張ったからには賢くなる。クールというのは勉強したそぶりすらないことだとも思っている。額の汗は勲章にならず、愚かなレッテルと化す。生意気なものだ。

 もうひとつ前の年代の学校時代。暗黙のルールとして男子は大きなものにつかうトイレの個室に入り、疑われるようなことさえしてはいけなかった。ぼくらは固く閉じられた一室を叩いたり、蹴ったりする。その際の咳払いで、となりのクラスの先生であることを耳で確認する。走るのだ。逃亡をなんどすれば大人になるのだ。

 大人になる途中でその恥も見栄も見事に霧散する。牛乳も敵の一味になった。あんなにガブ飲みした時期が愛おしくて、なつかしい。ぼんやりとトイレの場所を把握している地下鉄の構内。さすがに壁を飛び越えることまではしない。

 カバンには音楽の携帯プレーヤーがあって、電話があって、入館証がある。大人はさまざまな拘束下にいた。身分証の提示を求められる機会も多く、複数の自分の身分や立場が証明できるものもある。

 みなが自分を知っている。学校という場所はそういうところだった。自己紹介も必要ない。反対に、先入観とレッテルが渦巻く世界である。誰も、その深い海から抜け出すこともできない。

 存在感のうすいひとも稀にいる。特徴がないということが隠れ蓑になる。目立つということは楽しいことであった。一目置かれ、軽んじられることもない。小突かれることもなく、金をせびられることもない。大人しいということは敵の目から見て弱点をあらわにすることだった。なんとしても避けなければならない。

 となり町に絶世の美女がいるといううわさがひろまる。源氏物語のような世界である。反対にケンカに強い大男がいるといううわさも立つ。目の前にすれば、ぼくと変わらない身長だった。ぼくは恨みもないのに殴り合いをしている。有利にすすんでいる。あわや勝ちそうになる。このままなら、ぼくの伝説が生まれてしまう。彼の先輩が横にいて、負けたら許さないとセコンドのように叫んでいる。ぼくはここで運をつかうべきでもなく、また彼の面子を生かすことも大切だと思い、さらにこの境遇しかない自分のあわれさを思い、結局は負けることにする。本物の大男は別の町にいて、イキガッテいる同級生の矢面に立つ役割が、なぜか自分にまわってきた。

 となり町の絶世の美女を口説いた方が楽しそうだが、ただ、受け入れるのは頬の痛みだけである。拳というのは狂気にもなり得る。この町と周辺で名声を得るというのは、つまらない方法しかなかった。

 数年後、居酒屋にいる。一学年後輩のとなり町の男性がいた。かなり酔っている。結果としてからまれる。ずっと聞こえないフリをしていた。大人の対応だ。

「兄貴が強かったから、お前も、イキガッテるんだろう!」

 という禁断の言葉を彼は吐く。ぼくは腹を立て、久々に暴力で解決することを願う。しかし、ぼくは味方である友人たちから羽交い絞めにされ、袋叩きに遭う。自分の評価を下げてしまう瞬間だった。だが、取り調べもなく、いくつかのグラスや皿が割れたぐらいで穏便に終わる。彼はどこかに消え、二度と会うこともなかった。

 やんちゃな世界である。美女などもいるはずもなく、血気盛んな若者がいただけであった。拳でしかアイデンティティーを表明できない愚かな群れであった。もう少し、まっとうな社会で育ちたかったと思うが、この地にいながら、ケンカと無縁でいられた仲間もいたのだろう。いまでも、スポーツでガッツを見せない集団に腹が立つ。これも、三つ子の魂の呪いであった。衣服と肌の間あたりに無言でとどまっている何か正体不明らしきものの切なる主張でもある。