爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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リマインドと想起の不一致(28)

2016年04月29日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(28)

 友人が失恋をして悲嘆にくれていた。ぼくはなぐさめるが、自分の立場は無事で安泰だった。看護する能力があるものは病んでいない。自分にそうした順番がいつかめぐって来るとも思っていない無頓着のころの話だ。

 ぼくは、だから彼が身に受けている等身大の悲しみを実感することができない。その喪失のあるがままの実態や、手づかみの重さを知らない。経験というものが世の中でいちばん大切なものならば、これも経験した方が良いもののひとつだろうか? 悠長に考えなくても、そうともいえないだろう。だが、ぼくらはオニにつかまるように、ある日、無防備なところで不意に背中を叩かれる。ぼくらは見えざる手から逃げまどっていたが、今度は追いかける側に回るのだ。故意にしてしまう大人となって。

「次もある」ともう一人の友が言った。アイスを地面に落としても店の中には、まだたくさん残っているという理屈だ。

「お前の良さが分からないなんて」と、また誰かが言う。負け惜しみに尽きる言い草だと思う。
「時がいやすよ」と、無惨な状況のすべてを未来に預けることを誰かが持ちかける。悲しみは銀行の預金と同じようなものなのか?

 結局、別れてぼくは歩きながら一人考えていた。それは彼の悲しみについてではなく、ひじりとの明日以降の約束のことだ。こうした約束も、もし別れてしまえば、すべて無効になってしまう。ぼくはそうした段階を無条件に理解しなければならなくなる。昭和二十年のあの国民のように。

 友人と別れた女性は他の誰かと新たな約束を交わしているのだろうか。誰かを好きになった感情は交換が可能なのであろうか。ぼくは何事も分からず、解決に近付くこともできなかった。

 ぼくはひじりにこの日の出来事を話す。彼女はただ「可哀そう」と言った。そして、「わたしたちは絶対にそうならないようにしよう」と誓いのようなことを言った。ファンファーレを鳴らすように。「そうだよね」とぼくは当然のこと同意する。未来は今日のつづきであり、アスファルトを引きはがすようなことにはならないと単純に決めていた。未来は突然のまぶしさを有せず、おどろかす意図も生まず、まっすぐな安定したレールを走り抜くだけなのだ。

「新しい彼女を紹介してあげなよ」とひじりはアドバイスをする。

「誰も思いつかないよ。親しい女の友だちもいないし」ぼくは、それでも何人かの女性の映像を無理矢理、頭に浮かべようとした。
「友だちがい、ないのね」
「ひじりの友だちで、いないの?」
「いないこともないけど」
「もったいぶるね」

「気に入ってもらえるか分からないし」
「でも、会ってみないと、すすむものもすすまないから」ぼくは電車の乗り継ぎを心配する駅員のようだった。
「ま、そうだよね」と言って、ひじりは楽天的な吐息をもらした。ぼくは自分の耳のそばで、生身のような感じをそれに対して受けた。

リマインドと想起の不一致(27)

2016年04月24日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(27)

 ひじりが友人を連れて来る。彼女が作る新しい社会からやって来た。彼女はぼくとひじりが生み出した関係性に立ち入る。ぼくは、ぼくら二人が並んだところが似合っているかどうかを気にしていた。客観的に眺められる目を通して。

 彼女らは背丈が近かった。後ろ姿を見ると良く似ていた。振り向くともちろん違う。でも、生まれた日も当然のごとく、一年とは離れていない。同じ高校に通い、同じことばを用いる。差異というのは、どこを発信源にするのだろう。顔だろうか? 暮らし向きだろうか? 裕福さの度合いなのか。

 ぼくの記憶に新たな名前が加えられる。それは一つの映像を伴っている。十六才。女性。ひじりの友人。見ず知らずの十五年間。

 だが、誰もが似たりよったりの関係だ。新たに会うひとは、過去を共有していない。良かれ悪しかれ。新しく知人となってからその空白を埋めるように会話をする。そして、思い出の地があれば、いっしょに訪れる。未来を共にするのにいくつものトンネルをくぐり抜ける。その途中で象徴的な意味合いで手が離れてしまうことも起こり得た。

 ぼくは自分の学校では、生まれながらの人見知りを発揮して、なかなか友人を増やせなかった。放課後の運動もせず、バイトもしていない。ぼくの地域から通学している面子も少なかった。それより、ぼくは思春期から脱皮するための個(これも新たな鎧に過ぎない。ただの新旧の交換)の確立というものを大切にしようとしていた。自分は一体、何になれるのか分からないながらも、自分を見つめる姿勢を捨て切れなかった。悩みは尽きず、そして、悩んでいられる状態を永続させるほど、暇でもなかった。

「あの子、可愛いでしょう?」

 いまのぼくは、こうした質問がただの確認や同意ではなく、ある種のテストを含んでいることも認識している。しかし若さというのは愚かであるから素晴らしいのだ。

「本当だね、可愛かった」

 その言葉を真に受け、ひじりは気分を害した表情をする。「わたしより?」と質問はさらに追加される。
「それは、分かっているじゃん」
「言わないと、分かんないよ」

 ぼくは放り投げられた餌を一心に探す犬のように、その場から走り去りたかった。同時に未来に対して後戻りできなくなる決定的なことも口にしてみたかった。だが、選択に与えられた時間に猶予もなく、あっさりと直ぐに消えてしまう。ぼくは黙っていて、歩いているスピードをいくらか早めただけだった。

「ちょっと待ってよ」と言ってぼくの服の腰辺りをひじりはつかむ。つかまれているのはぼくであり、未来のぼくとは無関係のようでもあった。


リマインドと想起の不一致(26)

2016年04月21日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(26)

 ひじりがはじめて酔った姿を目にする。頬はトマトのように赤く、呂律はいささかあやしかった。彼女をおおっている外壁は(おそらくぼくはそれが第一に好きなのだ)ゆるんだゴムのような様相を示した。

 彼女という確固としたものは、その縁取りの定義をあいまいにした。下手な塗り絵のように輪郭をぼやかして。でも、いつものように甘えたり、からんだりする様子は可愛いとしか例えようがない。ぼくは詩人であり、科学者ではないのだろう。

 翌日、恥かしそうに電話を寄越した。覚えていることと、記憶があいまいな所の狭間に彼女はいる。ぼくだけが覚えているひじりが昨日のあの時間にいた。大きく捉えれば、このぼくの思い出の全部も、ぼくだけが所有しているのだ。彼女を刻々と観察し、整理しつづけた両親ほどに写真をもたなくても。

「気にすることないよ」とぼくはなぐさめる。はじめてお酒という緩和目的のものを口にしたのだ。前例のないことは常に失敗につながる。また本来の意味で飲酒の成功など、どこの世界にも決してない。何度か、あるいは何度も失敗して、ひとは大まかな場所や数値を知るようになる。

 ぼくらは次の週に図書室でテストの準備をしていた。ぼくらが使っている教科書は多少だが違っていた。だが、夜のニュースと同じように似た情報をかみ砕くこともなく教えたがっていた。千差万別という洗練された概念もなく、またあればあったで受験の当事者に影響する責任を無言で一方通行の教科書が負うことも負担が大き過ぎた。

 ぼくらは自転車でゆっくりと帰り道に向かっていた。早目に免許を取った友人のスクーターとすれ違った。身軽で、その新品のボディに光がぶつかった。彼はぼくらにまったく気付かなかった。ぼくらと目の追うスピードが違うのだろう。

 横にいるひじりの背も伸びたが、ぼくも同じぐらい伸びたので関係性は変わらなかった。ぼくらには依存という怪しいものもなかった。また学校という枠内では会わなくなっていたので平均という幻も視野に入れなくて済む。ぼくらは環境という不確かなものにいつも頼っているのだ。しかし、自由という幅もいくらか拡がったのも紛れもない事実だ。

 自由がありながらも時間も一方的に奪い取られる。彼女はバイトに向かう。ぼくは店のそばまで送った。ぼく以外の男性とそこで話し、また笑ったりするのだろうか。ぼくだけが獲得できる資格のある笑顔を。ぼくといない時間にひじりは何を幸福と思い、何に対して悲しんだりするのだろう。

 別の存在だから好きになったり、愛情を示せたりできるのだ。しかし、同一でありたいと無鉄砲に願うことも恋の構成する重要な一部なのだった。

 ぼくは帰り道、電話をして都合をつけた友人といっしょに夕飯にありついた。尽きない話しは、夜をいっそう短くした。

リマインドと想起の不一致(25)

2016年04月09日 | リマインドと想起の不一致
リマインドと想起の不一致(25)

 教室でウトウトした状態から目を覚ますと、おしゃべりが達者な同級生がいつものように自説の披露に酔っている声が聞こえてきた。

「キリストっていうのは、ヤクザの親分と同じで、子分の失敗とか、子分がした悪さとかを全部、引き受けたという男気で、自分に酔い痴れていたんだよ。お前らの失敗を買い取ったとか言って」そう主張する彼も相変わらず自身の能弁さに酔っていた。甘美に。

「でも、現実は下っ端が肩代わりして刑務所に入るんだよ」冷静に分析する相の手もある。

「その後でも身元ぐらいは引き受けるんだろう? 何年後かには」
「救世主は、授業中に居眠りさせてくれる、あいつだよ」とある先生の名を言うと。みんながどっと笑った。

 ぼくはトイレに向かいながら救世主という漠然としたものに形ちを与えようとしている。それは、何度くり返してもひじりの姿になる。ぼくは意味合いを間違えて考えているのだろう。アイドルとか偶像とか、畏敬とかそういうものの総合体でもあり、同時に断片でもあるものを集めて固めたのがその名に相応しい。

 さっき、名を勝手に使われた教師が黒板に文字を書いている。不信な五十ぐらいの数の生徒が彼から出る言葉を聞いている。どこといって取り柄のなさそうな大人である。生意気な若者から見れば、ほとんどの大人がこの範疇に入る。教師も親も、友人の親も、警察官もこの部類だ。数人の先輩という存在だけが、この無言の冒涜から無視される。すると、キリストの弟子というのも高校球児のように、数年上の先輩の活躍に一喜一憂する無邪気な若者たちかもしれなかった。高尚なものでもなくて。

 放課後になり、ぼくは春風に吹かれ帰ろうとしている。運動部は直ぐに止めた。能力が無限にあるひとが無数にいた。自分の良さは、その方面では突出していないことが、暴力的な真実さで理解できた。ぼくの引き出しには健気な努力という防腐剤は入っていなかった。

 ひじりはある店で週に何度かバイトをはじめた。救世主など金銭を重要なことと思わないのかもしれない。ぼくの偶像はおしゃれをして、甘い食べ物に興味がある。ぼくらは途中の駅で待ち合わせをした。二人とも、一歩家を出れば連絡したりする通信の手段がない。ゆえにどちらかが待ち、どちらかが遅れてやって来る。それだからか時間はのんびりと過ぎた。

 ぼくがひじりと認識している姿は、新しい制服姿として更新される。彼女は矢継ぎ早に新しくできた友人たちの話をする。今度、そのうちの一人の家に誘われているそうだ。とても広い家に住んでいるらしい。ぼくは、ぼくの家しか面積や体積を想像できない。感性が乏しいのだろう。出会うことがなければ救世主もありがたい人か、悪童なのかも感覚的に分からないものだった。