爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

繁栄の外で(60)

2014年06月30日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(60)

 スペインから帰って、新たな職場に移った。同じグループ内にいるので大まかな仕事の流れは分かっている。偶然にも前のところと今のところの上司同士は知り合いだったらしい。世界は、限りなく狭いのだ。

 するべきことも大体は覚え、給料以上のはたらきはしていたと思う。そこが問題なのだ。少ないお金でたくさん働くこと。だが、そうはいっても残業もしなくなってしまった。夕方の一定時刻になれば、外にでてこのころからか自分の地元の安酒場で飲むことが頻繁になっていく。

 ひとりで飲むことも覚えたし、またその反動で大勢で飲むときには度を越して騒ぐようにもなってしまった。

 いままでの職場の環境と違うことは主婦が多かったことだ。その子どもたちの話を聞くことが、ぼくは好きになっていく。ある男の子は小学生低学年なのに、なにかあるとリフレッシュのためシャワーを浴びてしまう。お母さんにきつくしかられ、部屋にこもって落ち込んでいるのかしら? とそこを覗くと彼の姿は見えない。反省していない素振りで、彼は風呂から上がってきている、というような話を日常的にきいた。子どもっていうのは面白いものだ。

 土日はきちんと休み、たまには遠くに行けないので日帰り旅行をした。箱根をまわり、江ノ島に行った。同行者といつもデジカメで景色をとりまくっていた。

 数人の女性のことも頭に浮かぶ。前の職場にいた長身の子が自分の頭の中に出てくるようになった。そんなに会話らしいこともしなかったし、たぶん向こうもぼくのことを覚えていないとは思っていた。一度、彼女の友人が会社を辞める際に(そちらの辞める子とぼくは同じグループだった)目にして楽しい環境で話せたが、どうも別の会話からもう決まったボーイフレンドがいるらしく、自分はただその話をきこえないふりをしただけだった。それで、なにも発展しないままで終わる。

 旅行でツアーにいると大体きれいな子がいるものだ。自分は、もう以前のような人見知りはしなかった。連絡先をきくぐらいのことは出来るようになっていた。それで気になった子ができても、自分は意図的にきかなかった。どこかで、運命論者でありつづけようと努力した。もし、会うべきひとがこの世でいるなら、街中のどこかで再会するべきだし、きっかけは向こうからやってくる必然性を感じていたかった。このように無計画な人間には、あまり幸せは追いついてこないようにも思えた。だが、結論としてはそれで良かった。

 ある日、職場の上司が自分のことを目にかけてくれるようになっている。ぼくを誉め、その仕事ぶりを評価し、のちのちは社員にしてあげる、というようなことまで言った。ぼくは、父親との関係があまり良くなかったものなので、年上の男性ともきちんとした関係をもつことが苦手だった。その反面、どこにいっても年上の女性とは仕事上で問題を起こしたことはなかった。ある面では決定的にマザコンなのだろう。

 その上司の執拗さで、何回か面接を繰り返し、契約社員になった。時代は、世界恐慌のちょっと前である。そんなに大成長は見えないかもしれないが、なんとなく破滅は避けられたという日本の経済の状態があった。自分は、少し前にちょっとだけ株をやり、ほんの少しの儲けとさらにもっと少ない損をだしたことで、お金の流れとそのヒントを現場的に学んだ。だが、もともとの元金が少ないので、直ぐやめてしまった。

 上司も周りの同僚たちも良かった、と言ってくれ、そのことを両親にも話しなさいと口を酸っぱくして言って来た。自分は仕方なしに、自分の現状を報告した。だが、自分はこころのどこかで、これはまぼろしなんだ、と思い続けていた。

 契約期間が切れる前に、また何度かテストを受け、面接をしてもらった。ぼくの上司と人事権のある別の部署の上司には温度差があり、ぼくに対する評価ももちろん一定していなかった。さらにアメリカ発の金融危機(それでもアメリカを好きでいられるのか?)があり、世間は切り詰められる箇所を考え続けていた。そして、ぼくの存在は会社にとっていらない、ということになり最終決断が下された。面接の評価が悪かったらしいが、そもそもそこに座ったときに、辞めさせる理由を見つけることだけに励んでいる彼らの姿があった。だが、多くの人事を経験したひとの評価はすべて正しいものである。ぼくに、なんの抵抗もこだわりもなかった。だが、時期的にはいちばんまずい時期だった。

 しかし、この決定を生かすも殺すも今後の自分自身の在り方であった。あの時、あの決定があって良かったなと思えるように、ぼくはこれから暮らすことになるのだろう。その前に、限りなくぼくの評価を上げ続け、甘い採点をしてくれた上司に感謝することにする。

 世間の評価など、いささかも気にかけて生活したことはないが、こころの数パーセントでは、それを望んでいたのかもしれない。誰かが、ぼくの耳元でそっと、ぼくに対しての愛ある言葉を吐くことを願っていたのだろう。そのことは、ぼくはいたく感謝している。

 だが、世間的にはぼくはこの無常な世界に放り出され、新しい職を見つけなければならない。もうすでに40になろうとしていた。これといった資格もなく、これといった特技もなかった。だが、育てるべき子どももいないということは幸いだろう。日本にいる何人かは、そのような状態に置かれたひともいるのだろう。家のローンが滞ることを恐れる感情ぐらいは、当事者ではなくても理解できた。

 こうして、およそ40年の人生を書き終えることにする。何人かの友人は残り、何人かのメール・アドレスは携帯電話に入っている。電波がつながっている以上は、まったくのひとりでもないのだろう。

 多少の暑さ寒さはあっても、快適な青空がぼくを待っている。それに所有されているという感覚がある。顔を洗ってヒゲでも剃って、出直すことにしよう。アイロンのきいたワイシャツもあることだし、ネクタイの結び方も簡単に忘れるわけもないのだし。 


(終わり)

繁栄の外で(59)

2014年06月29日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(59)

 その後、フランスに行って、スペインに行って、またフランスに行った。モンサンミシェルを2度見て、1回サグラダ・ファミリアを見た。どうしようもなくヨーロッパに引き寄せられていた。いつも感じるのは、生まれるべきところを間違えてしまったのではないか? ということだった。だが、自分が作られる過程として、ぼくの育ったところも捨てきれなかった。

 自分が過去にした選択で一番良かったであろうことは、積み立て式の生命保険に入ったことだ。毎月、一定額を銀行から引かれたが、数年置きにまとまったお金が使えるようになった。それを、自分は旅行代金に充てた。保険に入る必要もないほど、自分の肉体は頑健であった。その健康であることを捨てない身体は、狭い機内に耐え、その後の喜びはひとしおだった。

 スペインはイスラム文化の影響が濃く、点在している建物もイスラム建築が残っていた。それは、どのような様式よりも美的な観点からも優れていた証しとなっていた。アルハンブラ宮殿で自分の目を楽しませ、街往く黒髪の女性の美しさも堪能する。しかし、いつでも言語に限界を感じた。ぼくらは、アメリカの方に目を向けて育っていた。英語を使いこなせるようになれば、世界は自分のものになるという誤解があった。それは、世界共通語としても、普通には使えなかった。イタリア人はサービス精神が旺盛であるため、片言の英語でもなんとかなったが、スペインのバールで赤ワインをおいしそうに飲みながら話しかけてくれるおじさんへの応対としては、使えるものではなかった。フランスでは、それは何の役にもたってくれなかった。こうして、誤解が誤解として機能しており、それを取り除くには、自分の脳はもう堅くなり始めていた。

 料理もその地方独特のものもあった。自分は、こだわりが意外とすくない人間であることを認識する。ある人々は肉が硬過ぎる、と言い、ある人々はサラダの味付けに文句をいった。彼らは、総体的に言っているだけで、それを文句としてすら考えていないのかもしれないが、ある面では自分の楽しい気持ちがそがれた。ぼくらは、家で自分の料理を作っているわけではないのだ。できるだけ譲歩する必要がある。

 しかし、すべては楽しいものだ。若い頃に考えていたことだが、自分はパリにある主要な美術館を網羅する必要をかんじていた。それは、ルーヴルであり、オルセーであり、オランジェリーであり、マルモッタン美術館であった。本来なら一日、一美術館をゆっくり時間をかけて観覧したいところだが、時間の関係もありすこし急ぎ足だが、それらを廻ることもできた。意識してテレビ番組をみて作品の知識を増やしていたが、それらの本物を観る喜びは何にも替え難いものだった。

 モナリザはきょうも微笑んでおり、ロダンの彫刻は堅牢に立っていた。シスレーやピサロはあるべき形できちんと評価され(送りバントのうまい2塁手のようか?)居場所を確立していた。しかし、あまりにも量的なものがぼくの脳を侵し、段々と正当な評価を下せなくなっていく。春の浜辺に眠っているアサリのように、それらはただごろごろと転がっていた。本場のもつ力でもある。

 そして、生きるということの不器用さにかけては、誰も到達できないゴッホがいた。彼の自画像は自分を圧倒的なまでに魅了した。彼は自分の汚れ切って履きつぶした靴を描いてすら、自分自身になっていた。ぼくも文章でそんなことを表現できたら、と常に考えていた。ローマ史や幕末の話を読むことが好きな自分であったが、根本的には自分にもたれかかったことを書く以外のことはできそうになかった。

 オルセーには彼のための一室があった。生きている間はドタバタしていたであろうが(弟がいなかったら、この人の生存自体が危うい)、きちんと空調のきいたしっかりとした部屋で、ゴッホの絵画は保管されていた。ぼくは、それらを前にして目の奥が熱くなってきた。そして、ひとの評価は大事だろうが、それを今日や明日に求めてはいけないのであろうな、とも思う。普通に生きるためには、それは恐れるべきものでもあった。生きている誰かに暖かい言葉をかけられるために(たまにはがっちりと腕をからめられた抱擁に)存在しているのが人間であるならば、それを放棄するのがどれほど困難であるかを、ゴッホは身をもって教えてくれた。また、そうまでさせてしまう彼の内面の衝動にも単純にびっくりする。いまも、地球のどこかで、そのようなひとがいるのだろう。アフリカの荒地でくずれかけたサッカーボールを追いかけている少年かもしれないし、南米のどこかで自分が作ったきれいな洋服を全世界で着られていることを望んでいる少女かもしれない。ゴッホの一枚の絵は、ぼくにそのような果てしない希望を与えてくれた。

 ぼくはパリにいる。レストランでチップを払うことも大した出費ではない。だが、絵の具のことを心配し、そのことを必死に弟への手紙を書き綴った彼も、ここのどこかにいたのだろう。そう思い、ぼくはその空気を吸う。


繁栄の外で(58)

2014年06月28日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(58)

 ぼくは、38になっている。8月から前に関連した職場にかわった。前にいたときから電話で問い合わせたりしていた同僚は、ぼくが移る新しい職場のことを「すごく忙しいよ。かわいそうに」と言った。その言葉どおり終電で帰ることも少なくなかった。翌朝は、眠気を振り払うのに大変だった。終電でも遅いと思ったが、たまには夜中でタクシーを使って帰らないことに、上司は冷たい視線を送ってよこした。

 しかし、そこに入って今でも付き合っている仲間が出来たことは幸運だったのだろう。趣向を変えて以下は、そのことをエッセー風に書いてみることにする。そうしないことには、リアルすぎて生臭くなってしまうかもしれないから。

『同期に入社した仲間が、その後自然と親しくなっていった。

 心細い状況の仲間にとって、直ぐに悩みや心配事をはなせる人もあたりを見廻してもいなかった。口に出しては言わないが、お互いずっと仲良くいようぜ、と瞬時に思っていたのも隠れた本音だろう。

 休憩時間にコーヒーをともに飲んだり、勤務が終わったあとにも二人で話しをすることがあった。そのような時間があれば、仕事以外のことを話すのも当然の流れだろう。そうすることによって、趣味が近いことが分かったりする。

 緊密になるきっかけの一つとして、二人とも旅行や散策とデジカメが好きだったことが挙げられるだろう。

 どちらからともなく誘い、休日にはカメラ片手に旅先を歩いている。ふたりとも契約関連を扱っている部署にいたので思考自体が、そうなってしまったのだろう。簡単な見積もりを提示し、不自然な部分は妥協がないように交渉し、やっと双方の同意が得られれば判子を押すように、次の旅先が決められていく。

 そのようにして、メールで行き先や費用などをやりとりし、スケジュールが合えば、一緒に旅をした。ぼくも計画を立てることが好きだったが、彼のプラン作りにも抜かりがなかった。こうして同年代で趣味も同じならば、より休日が快適なものに近付いていく。

 二人ともブログを開設していて、似たような、またちょっとニュアンスが違う写真をお互いがアップする。それについて、住んでいる距離は離れていてもコメントを通じて、親しさが増していった。

 時間が過ぎ、いまは、それぞれ違う会社に立場を置いているが、友人がひとり増えた事実は間違いないことであろう。大人になって、そういう関係をいちから作り上げることは思ったより難しいものになるのだ。

 いずれ、もっと遠くまで旅をしような、という約束もしたが、それは、なかなかスケジュールも合わず一緒には果たしていない。

 それでも、互いのブログを見ては、彼のひとり旅の楽しさを追体験したりすることもできている。

 沖縄の青い空、韓国の世界遺産。タイの屋台や、出張先である京都の紅葉などは、友人のブログを通じ、身近なものになっていった。

 それを見て、まだまだ知らない景色は多く存在するという事実にも唖然とする。
 
 彼が、ぼくのブログを見て、どう思っているかは問いただしたことはないが、彼のカメラの腕前が徐々に上がっているのを確認しているように、ぼくの文章も多少ましなものに成長出来ていたらと、評価を期待していたりする。

 またメールでスケジュールをやりとりし、一緒に旅をしたいものだと思う。

 ブログが、あれば再び会った時に、近況を言い合う手間が省けることは、知らない間にメリットであることにも気づいてきた。

 インターネット上でのやり取りは面と向かって話し合うほどには密なものではないかもしれないが、いまのところ、忙しい二人にとっては代替案としての成功は守られている。

 その反面、旅を通して、おなじようなハプニングを共有したいという気持ちも捨てきれないでいる。

 いつか、少しだけ自由な時間が与えられれば、遠くまで旅をするという約束を果たしたい。お互い、家族ができてしまえば、青かったころにした約束などは、忘れてしまったり過去に置いてきてしまうようにもなってしまうかもしれないだろうから。』

 このような内容で美しく書きすぎたきらいがあるが、友人がひとりできた。彼は、目的をもって生活してきたらしく、資格を生かせるような仕事にかわってしまった。ぼくも、その後、自分にとってより重要になってしまった旅行のため、その職場をあとにした。そもそもの計画通りにことは運んでいた。

 辞めるときには、盛大に祝ってもらった。皆から、あんなに引き止められるとは思ってもいなかったが、それは自分に対する評価としてはうれしいものだった。もらった有給を使い果たしてから、次に行く職場も決まっていた。もう自分がどれくらいの能力があり、どれだけが限界点であるかを知ってしまったのかもしれない。そう考えると、成長という時期はとっくに過ぎ、あとは下降しないことを祈るばかりになっていた。


繁栄の外で(57)

2014年06月27日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(57)

 またもや自分の働いていた業務は終わり(企業も生き残りと経費削減に必死である)、新しいところに移る。自分は、前に短期で働いていたところに空きが出たということで、そこに誘われる。以前にそこでお世話になっていたとき、なかなか楽しく働けていたので、自分は戻ることには躊躇はなかった。

 短期のときに日比谷公園でおなじ職場の女性たちと、ランチを買って桜を見ながら食べた。丁度良いタイミングだったらしく、ピンク色の花びらはあざやかに公園内を彩っていた。そのことが楽しい思い出の象徴となり、またあの人たちに会いたいと思っていたが、再びいくと彼女らはいなかった。そのことでひとの入れ替わりが早いなにかの理由があるのであろう、とぼんやりとだが予感する。

 仕事中は、パソコンの前に座り続け、指先を動かした。となりのひとが何をしているのかも分からないほど集中するときもあった。

 ストレスも残業も増えたが、それがいやだったら生き残れないので、適度には頑張る。その頑張りで正社員さんたちにはきちんとボーナスが供給され、安定した生活が確保される。なにも恨んではいないし、不平等だとも思っていない。ただ、自分の過去の選択の集約の結果である。

 これでつまらないのかと言えば、まったくのところそうではなく、ここにいた間は日々楽しく過ごすことになる。自分には悲観的な要素を忘れてしまう、誰にとって都合が良いのだか分からないが、すべてを楽観視する能力があった。それで駄目なら、仕様がないし考え方としても間違っているとも思えなかった。

 業務中に暇な時間ができると、女性たちをからかい、また女性たちにもからかわれた。彼女らは、同僚の男性たちの悪口を言ったりもしたが、欠点の多い自分にはなぜか目をつぶり、大目に見るということを忘れなかった。不思議なものだ。その子らと仕事帰りに水族館に行ったりもした。彼女らはぼくの酒の飲み方だけは大目に見てくれず、自分もそのことだけはためらった。だがそれも、そのひとたちの前で飲まなければ良いだけのことだ。それを避けるには、いくらでも方法があった。

 彼女らと仕事帰りに花火にも行った。道中でビールを買い焼き鳥を食べた。蒸し暑さと多くの観客のせいでかなりの湿気があり、ワイシャツは汗で濡れ、夏用のズボンも身体に貼りついてしまった。芝生に腰を降ろしていたが、打ち上げが終わり帰り際いっしょに行った女性の一人が立ち上がるときにぼくは自然と手をかした。彼女は立ち上がり小さな声で「ありがとう」と言った。もうかなり前に忘れてしまった淡い恋心を思い出すことになる経験だった。

 昼休みには日比谷公園で陽射しを浴びた。多くの人も、ランチを食べたり、携帯電話をいじったりと思い思いのことで、のどかに休んでいた。雨が降れば図書館に入り、ジャズの雑誌を読んだりした。いまだに表紙に選ばれる多くのひとは、もう既にこの世にいなく、そのことだけでもこの音楽には廃れ行く運命が待ち構えている気がした。また、そのような商売が成り立っていることも、自分は疑問を感じた。

 残業時間が多くなりいくらか増えた収入で、ミニコンポを買い替えデジタル・カメラを新しくした。初代はよく頑張ってくれ、ぼくの記憶の助けになってくれた。ご褒美をあげるという自分の性格は、小さなころ歯医者に通った帰りに母がミニカーを買い与えてくれたため、ぼくの幼いこころに刻み込まれていた。それで、余ったお金で自分に甘いものを与えた。

 それまでの長年の内気な性格を克服したく、それが度を過ぎてしまい酔っては見知らぬ女性たちと話していた。自分には話せるべき経験がインプットされ、それをある面では構築し、ある面では話を膨らませた。その最終形として、ぼくは友人とグアムに行ったときの話しだ。レストランの隣の席には日本人の女性がいて、いつの間にか席を移動しいっしょに飲むことになり、ふざけ合って騒いで飲んだ。友人は、ぼくの内気時代をはっきりと記憶しており、ぼくの態度に驚いていた。あとできいたことだが、隣の席の現地のひとも、ぼくらの騒ぎ方に驚いていた。彼女らは、とても面白くぼくの話でも笑ってくれ、ぼくも彼女らの話でたくさん笑った。それをきっかけとして、長年の腐れ縁であったはずのぼくの内気時代は終幕となり、以後はそれを出したり引っ込めたりとコントロールできるようになった。コントロールできるようになってやっと一人前なのだろう。長い格闘であった。

 それでも、すべてが自分の思い通り行くはずもなく、ひとりの女性はなんど誘ってもなびいてはくれなかった。違う部署のその子は、ビル自体が違う場所にあって、ぼくらの部に用事があると、わざわざこちらまで来る必要があった。機会を見つけては、声をかけてみたがそれでも何も発展しなかった。自分の話術の限界を痛いほど感じた瞬間でもあった。

繁栄の外で(56)

2014年06月26日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(56)

 ある日、自分のこころから信仰心がなくなっていることを発見する。それは誰よりも、自分にとって驚きだった。その様子をセミの抜け殻を振り返ってみるように、確認する。あれは、置いて来てしまった自分であった。ある別のイメージでは流れ去ったそうめんであり、また別の面では飛んでしまった風船であった。自分は、もう掴むことはできないのであろう。それで、悲しい思いもしたが、抜けてしまった乳歯を忘れてしまうように、新たな自分と折り合いをつけることにする。

 だが、理由はいくらかあり、決定的なものとしては、イエス・キリストの呼びかけの言葉である「疲れた人、重荷を背負っている人、私のところに来なさい。そうすればわたしが安らかにしてあげる」ということを本気で信じられなくなったのである。自分は、それを信じたばっかりに余分な荷物を負い、段々と疲労が蓄積され、誰かに話しかけられることにひたすら脅え、淀んでいったのである。だが、その選択をしたのもまぎれもなく自分であり、それを失っていくのも自分であった。

 そこからは、選ばれなかった人間を全うするように、ふたたび悪に足を踏み入れるのであった。しかし、それは直ぐにではなく順々にだ。背番号のない補欠のような人間になっていくのだ。

 すべてが一面的にとらえることが出来ないように、その信仰がきっかけで仲間が出来たのも事実であった。ある共通の信じているもののために集合し、その中で親切な人をみつける。

 自分の過去の幸せなイメージのひとつとして、こんな場面もある。土台には同じ気持ちがあり、そのひとはぼくのことをよく自宅へ招いてくれた。たくさんの食事があり、招待された方は数本のワインなどを持ち寄って楽しく歓談した。ぼくは、その家で楽しんでいる自分がなにより好きであり、また自然な自分でもあった。あの経験がなかったら、本来の自分というものを最終的に発見しないで死んでいたかもしれない。それぐらいに自然な姿でそこにいられた。

 また、ある面でぼくのユーモアと真面目さとを兼ね備えた変な性格を単純に愛してくれるひとたちがいるということも理解する。それを知ると、自分は甘えん坊のようになり、その位置に安住した。居心地の良い座布団をみつけた猫のようにである。

 そこには女の子がふたりいた。まだ、最初は幼稚園ぐらいの子たちだった。そこから小学生になり、運動会で活躍したようすをきき、ものごころがついてきて、物事の好悪を自分で判断するようになる。そこから、もう一段うえの学校に進級する。彼女らの成長を自分の娘のように暖かく見守っていた。

 その成長の段階自体が、ぼくの信仰心と重なり合った。目に見えるかたちでもあった。だが、ぼくはその両面を失ったのである。

 それらがあった時には、神楽坂近辺で働いていた頃と一致する。ぼくは、ジャズのライブに足繁く通うようになる。時間のゆとりもいくらかできた。そこで見た、日本人のジャズ・プレーヤーで才能のある人たちを見出す。ある人はドラマーであり、ある人はベーシストであった。ふたりを別々に聴いたが、ある日、いっしょに演奏をする姿を見たときが、ぼくのジャズ体験の頂点のひとつであった。

 ぼくは、ベースラインを追うことがそもそも好きであった。もともとは「モータウン」のベーシストの華麗なる音階を追い、彼の決定的な躍動感に魅了された。それ以来、どの音楽を聴いてもベースが気になった。馬鹿馬鹿しい話だが、「日本昔ばなし」のテーマ曲でさえベース音を追った。

 それから、翌年にはドイツでワールド・カップが行われた。それを職場の同僚たちと酒を飲みながら、見たのも良い思いでのひとつになっている。いま(2009年の夏)から3年前の話だ。

 ある日本の名選手は、選手であることを辞めた。彼のイタリアでの活躍が、いつも昨日のことのように思い出され、それは大切な記憶のひとつになっている。彼は、疲れ切った姿で芝生のうえに寝そべっている。相手に倒されそうになっているのを堪えてきて彼がである。しかし、人生にはさまざまな敗北の形があり、いくつかの勝利のかたちがある。

 ぼくも自分の過去を振り返る。サッカー選手のように誰かがそれを追いかけ、分析してくれ、空港で待ってくれることもないが、自分ではいくつかのことを理解し、スター選手と重ね合わせることもできる。その芝生のうえで寝そべっている永久のような時間が、ぼくにもあったのだ。だが、自分で立ち直り、起き上がることをしないことには明日は来ないのである。観衆はいないが、それを自分はひとりでした。

繁栄の外で(55)

2014年06月25日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(55)

 仕事は最後の1ヶ月ほど違う部署で働き、このことで同じルーティンをこなすということが嫌いになった。飽きっぽい人間の誕生です。もともと持っていた種子があることをきっかけに花開く場合がある。昨日の自分のくりかえしを何よりいちばん恐れた。それは進歩ではないという感覚で、そのまま気持ちは退化につながった。それでも自発的に仕事をこなしていき、そのことで自分に余裕をあたえた。誰かの役割を演じて、お金を貰うということが段々と理解できるようになった。ありのままの自分には金銭は流れてこないのだ。仕方がないので、いつもなにかを演じるようになる。それを忘れるように、こっそりひとりで酒を飲んだ。だが、もちろん酔いというのは気軽に付き合ってくれるものでもない。ぼくの酔いとの間柄はシャイで気難しいタイプでもあった。

 最後には、会社がお金を出してくれなかなか盛大なパーティーが開かれた。誰かのグラスにビールをつぎ、自分のグラスも満杯になるという、あの感じだ。何人ともその後も付き合うようになるが、その後会わなくなってしまう人の数も少なくなかった。それが生きることだといえば、その通りであるかもしれない。もっと後に電話番号を変えたときに、以前のほとんどの人の番号も消えた。なんとか残そうとおもっていたが、ついつい移行しそびれ、しかし、本当に望んでいたかどうか、潜在的な気持ちまでは自分の理解の範疇外であった。

 その後、いくつかの仕事を転々とした。ある時は、パソコンの操作に詳しい人たちに囲まれ、またあるときは、山ほどの残業をこなした。別の派遣会社で同じようにパソコンに文字入力したりテストを受けたりした。またしても、滑稽な役割をすることになる。それを通してまた別の職場に出向き、いくらか学ぶべきことが控え、忘れ去るひつようがあるものも順々に増えていった。そして、低賃金ではたらけばはたらくほど、社員の給料は安定することになるのだろう。そこに差別社会の根がいくらか垣間見えた。

 だが、もし階級社会というものが現実に存在するならば、底辺にいたいという愚かな思いもあった。上からでは見えてくる景色がリアルではないというただ一点のためだけに、そのことを願った。両親や教師が恐れるのは、こうした人間の思考そのものとぼくの傾向なのだろう。だが底辺から見たい、そのために、トーマス・ハーデイーが書くところの負け戦を挑み続ける主人公に肩入れして読むことになり、ずっと好意をもっていた。

 あるときは通帳の残高は翌月までいくらかの水準を残し、あるときはぎりぎりまでになっていた。マイナスになることもなかったが、大幅なプラスも待ち構えてはくれなかった。

 自分の住んでいる足場を仮の場所として考えていたが、それも限界に来ていた。現実こそが、圧倒的なまでに愛される対象であることを再認識する。長いこと、その結論に到達するまで悩み続けていた。

 そのころに以前交際していた女性が婚約したという噂を耳にする。かなり遠い昔に置き忘れていた記憶が、意外と自分にショックを与えることに自分自身で驚いていた。だが、世の中のすべてのひとが幸福をにぎる権利をもっていた。実際になれるかどうかはまた別問題であるが、そのひとにもそうなってほしいと思っていた。だからといって、なにも出来ない自分であった。

 ある日、知り合いの携帯電話の中に保存されている写真を見せてもらったときだ。最近の旅行の写真があり、写り具合を感嘆の声をあげながら見ていた。友人は、その場を離れそのまま操作を教えてもらい、次々と見ていたときに、その交際相手と婚約者の写真を目にすることになる。自分は、なぜだかうろたえた。そのまま、待ち受け画面に戻し、自分はそのことを忘れようとした。

 そのころは、いろいろな面でも忙しかった。仕事以外にもやるべきことが多く、自分のためだけに時間を使うことなどできなくなっていた。こころの中を象徴するように自分の部屋は散乱していった。聴く時間をとれないままの音楽は壁を占領し、一生読み終えることのない量の本が床に置かれた。自分は賢い人間になろうと願っていたが、賢さ自体の基準ももう忘れていた。

 2004年の年末にはスマトラ島で地震と津波があり、翌年の3月末にも2回目のそれがあった。かなりな数の被害者がでて、凝視したくない気持ちもあった。これは、そのころの話だ。災害で自分の記憶をたどるということが不本意でもあり失礼でもあるが、それが現実でもあるのだろう。ぼくは、35から36才になろうとしていた。

繁栄の外で(54)

2014年06月24日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(54)

 ある日、仕事を休んで見るともなしにテレビをつけた状態でいる。その日は、特別な一日が待っていたらしく、テレビの中で日本の首相が飛行機のタラップから降りてくる。降り立った場所は隣の国だった。行った目的は、そこにいる日本人を取り戻すことだったらしい。最近でも、アメリカ合衆国の元大統領が(妻の方が有名であったりします)同じような用件で行った。

 そして、マッチョな国は実力を発揮した。

 話はトントン拍子に進み(いろいろな根回しは、知らない)実際に連れ去られた日本人は存在し、彼らは再び日本の土地に足を踏み入れる。その後の経緯ではそこには、アメリカ人の元兵士もいて脱走をしたあとで、むちゃくちゃな人生が待っていた。そのことを、ぼくは彼のこれまで過ごした生活が書かれた本を読み、それを理解しひとりの失われた人生のことを思い悲しんだ。

 まだ、居るのか、もう見つける気力を政府は捨ててしまったのか分からない。ただ、普通の親子のこととして理解すると、もし別の場所に暮らしていたって、盆や年末の連休に高速道路や新幹線で疲れながらも帰省して会うことが、当然の権利としてあることがまっとうな人生だ。たまには喧嘩をしたっていいし、たまには悪口を言ってしまうこともあるだろう。だが、当然そこには和解をするチャンスがあり、関係を修復する糸口が残っているはずだ。常に、いないひとの存在を考え、その喪失感とともに生きる人生などを誰かが与えてよいはずもなかった。しかし、それも継続中の問題である。いつか、お雑煮などを食べながら、なんの悩みもなく出会える日々がくれば良いとも思う。

 ここで、政治の話をする必要もなかったのだ。これはぼくの話で、ぼくと回りとの関係性を書く導入として、それは必要だった。

 ある日、友人ができている。彼と知り合ったときには、彼はもう離婚していた。なので、その妻と子どもたちの写真を見せてもらうまで、どのような生活を過去に送ってきたのか、あまり把握出来ていなかったかもしれない。だが、育った環境が近いので、どのような少年、青年時代を送ったのかは理解できた。ぼくらは同じ区内にいた。頭の中身より、ユーモアや腕力が幅を利かせる地域だった。もしかしたら、ぼくは彼のようになっていたかもしれないし、彼はぼくのようになっていたかもしれない。だが、本当はどちらも仮定としては間違っているかもしれない。

 彼には2人の子どもがいた。ぼくが見せてもらったころは小さかったが、もっと大きくなっているのが現在の状況だろう。誰よりも子どもを愛し、誰よりも優しい存在である彼にとっては、会えないということはとてつもない苦痛であったろう。彼よりも冷たく、彼よりも子どもを苦手としている自分にとっても、想像だけでも理解できることだった。

 彼は、大きなマンションなど必要としていなかった、と言った。だが、妻と母に勧められマンションを購入した。そこにいなくなった人々のためにローンを払っていた。ぼくは、彼の近所で連れ立って酒を飲み、その後、彼の家で飲みなおし、ある一室で熟睡した。そこは家族がいない人間が住むにはあまりにも広過ぎであった。実際の彼の内面も、そのような空白の場所がひろがっていることだろう。

 目を覚まし、ぼくらはサウナや日帰り温泉に行った。ある時は、小さな旅行もした。運転の嫌いな自分は、それを彼にすべて任せ、早いうちから酒を飲んだ。しかし、彼の方がよっぽど酒に好かれる性質だった。

 彼は失業した。うそのようなエピソードだが、別の友人がコンビニ強盗が家の近くでありそこでポスターなどを見たのだろうが失業している彼に似ていると、ぼくに言ってきた。証拠をたしかめたくてきちんとした大きな警察署までいって調べてきた。ぼくにも、それとなく本人に訊いてみてくれないと言われたが、「そんなこと出来るわけないじゃん!」と一方的に断った。だが、執拗に要求されると、ぼくも数パーセントはそんな間違いもあるのかな、と自分の判断が揺れた。結局は、赤の他人であることがはっきりし、ぼくらは本人にそのことを告げ、あとあとは決まってその話で笑い合った。やっぱり、ひとのことは信じましょうね、と自分はその帰りにちょっとした生存の悲しみをしるのであった。

 見知らぬ土地に会いたがっている人々がいて、それはベルリンの向こうとこっちであったり、塀の内側と外側であったりするのでしょうが、いつか解決される日がくるといいですね。すべてのひとの幸福など総体的に無理だとは思いますが、それを願ったりする気持ちがあるのが人間なのでしょう。欠点もやっかいなぐらいに多いぼくや彼や人間ですが。

繁栄の外で(53)

2014年06月23日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(53)

 子どものころから知っている幼なじみが結婚することになる。もうかれこれ四半世紀の付き合いだ。こうした義理のある関係が残っているのは、さらにもう一人だけだったが彼はまだ先になりそうだった。そういいながらも、自分にもその予定はなかった。

 ある秋の晴れた日に地下鉄の表参道駅で降り、青山の方に歩いていった。小じんまりとした場所でそれは行われた。友人というのはやはり持つもので、ぼくのために辛口のスパークリングワインが多めに用意されていた。別の友人の披露宴でそれが好きだったことを覚えていてくれたらしい。ぼくは、それを飲むためにいったようなものだ。他にもその新たな関係を見届ける必要が、当然のようにあったが。

 過去に、同じような悪いことをして友情を深めたひとたちもいた。彼らも、それ相応の容貌を身に着けていた。時間は、平等だと教えてくれるサンプルがそこにはあった。それに反逆できるほど、もう若くもなかったが、未来を書き換えられる力が残っていないと考えるまでには年老いてもいなかった。それぞれが考えていた30代と一致しているのかは分からないが、そこそこの人生と幸せを彼らはつかんでいるようだった。

 翌日から彼らは、新婚旅行に行く。タイだか、シンガポールだかのあの辺だ。ぼくも同じようにその日から2度目のイタリアに行くことになっていた。最初の経験から2年が経っていた。今回は、ヴェネチアが旅程に含まれ、自分がそこに足を踏み入れることなど想像できなかったが、となりの町から船でそこに到着した。本物の人生には、いくらかの余裕のある金銭があれば、楽しいものに化けてくれるもののようだ。潮の関係なのだろうが、ナポレオンが世界一きれいな広間(応接間という感覚でしょうね)と言ったらしいサンマルコ広場の路面は少し濡れていた。そこには予想もできなかった美しさがあり、自分がその後、運河というものに興味をひかれる原動力ともなった。

 それから、またもやフィレンツェに行き、ローマにも向かった。友人たちとは別れ、違うホテルから専用の観光バスでポンペイにも行った。ナポリを経由し、西暦80年ごろの火山噴火で急激に滅びた町は、掘り返されそのままの形を当時の復元ではなく見せた。陽射しも暑く、秋という感じはしなかった。もっと南にも向かいたいが、限られた日数では、それも難しかった。

 別の要素として、このときに初めてデジタル・カメラというものを購入した。それ以後は、メモ代わりに写真を撮ることが習慣化され、頭の中に記憶されなくても(強い衝撃しか残らないという不確かな要素が脳であるかもしれない)コンピューターのどこかに保存されている。それを、確認すれば大体のことは思い出せるようになった。だが、頭の中だけにはある現実と微妙にずれた映像をも自分は大切にしたいと思っている。

 結婚した彼らには、それから2人の子どもが生まれた。彼らは保育園に行き、彼らの両親はともに働いてマンションや車のローンを返済する。そのような普通の生活が自分には実際の手触りとして理解できなかった。それよりも夏目漱石の三四郎のようなものを読んだり、書いたりしたいと思っている自分がいまだにどこかにいた。そして、いくらかのお金が手元にあれば、ヨーロッパに行きたい衝動と戦うことになる。そして、その戦いにあえて負けることをよしとする。

 頭の中では、渋谷に行く程度の感覚で、ヨーロッパに行きたいと思っている。肩肘張らずに、ちょっと電車で1時間ぐらいの距離を移動する感じで、丁寧に見ることから漏れた町を塗りつぶしていきたいとの願いがあった。そのためには、家族や子どもという、とてつもない宝であろうものを自分の実際の人生と比較して手に入らないかもしれないと考えた。それは、それで仕方がないことだ。車のトランクの容量は限られており、ぼくにはぼく用の荷物があるのだろう。

 しかし、もし未来というものが未来としてきちんと機能しているならば、その子どもたちには、ありふれたながらも幸せが訪れて欲しいと考えている。ぼくが幼少のころに育った町に彼らはいた。そこで大きくなるという幸福感をぼくはもっているし、不思議なことにそこで育ったひとはなぜかその気持ちを共有している。そのことが、少し離れた土地(ほんの少ししか離れていない)にいると身にしみて分かるものである。彼らも、25年以上も付き合うことになる友人たちを手に入れることができるのだろうか? だが、それもぼくの問題ではなく、小さな魂の問題である。

繁栄の外で(52)

2014年06月22日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(52)

 32才から35才過ぎまで、ある場所で働いた。ある場所で行われることは、かかってきた電話を取り、きちんと求められていることを説明し、システムに記録し、別の部署に報告するものは報告し、揉み消せるものは揉み消し(多少のうそ)という内容だ。簡単にいえば、コール・センターです。小さな部屋に30人ぐらいが常駐し、もちろんのことその中で働いているひとたちとも親しくなる。

 ある人は、主婦であったり、ある人は何かの試験を受けるために勉強中だったり、ある人は、本業の傍らの空いた時間にそこで働いていた。ぼくは、個人的な理由で社会的な成功を避けなければいけなかった。誰よりも目立たず、誰よりも社会の底辺で見つからずに暮らすこと、というのがテーマであった。まあ、なかなか人生とは難しいものだ。

 仕事はときには怒鳴られ、ときにはお褒めの手紙やメールをもらった。電話というツールはコミュニケーションを取ることに、あまり向いているものではないのかもしれない、という感想をもつ。ある人はそれを介して徹底的に自己の正当性を主張し、ある人は、自分がなにをしたいのかを言葉に変換することに難儀を感じているようだ。だが、多くは何事もなく一日が過ぎていく。自分が望んでいるのは、ただそれだけだった。

 中で働いている人たちはラグビーのスクラムを組むかのようにまとまり仲良くなっていった。ぼくも、そこの一人であることの楽しさを充分に感じていたし、あのような経験ができた職場を今でさえ好ましく思っている。辞めた後も、(ある日、会社の経費の関係なのだろうが、その業務の委託が別の場所に変わり、ぼくらは空中分解した)誰かの記念日であったり、誰かが東京を離れるというときには、自分のことのように心配し、集まり合っていた。どのようなバックグラウンドの共通さが、あろうがなかろうが、同じ空間と時間を共有したことを無駄にしてもいないし、その種に定期的に水分を与えることを欲していたのかもしれない。

 あるひとは、自分でバンドを組み、インディーズで曲も出していた。そのころには生で見たこともないし、どのくらいの実力の持ち主であるかもしらなかった。ただ、彼と話していて、自分が好きな音楽と彼の好きな音楽がある面では重なっていることから、楽しい情報をもらうこともできた。

 2人ともジャンル分けできない部類の音楽が好きだった。ジャズでもないし、ソウルでもないしR&Bでもないしという溝の中にはいっている曲と演奏を聴くことの喜びを感じていた。そこにはスープの溶けた具材が分からなくなりながらも味としては、おいしい以外の表現が見つからないという部類の音楽のごった煮があった。そこには、オルガンがあり、下品スレスレのサックスの演奏があったりもした。彼の姿を最近になってテレビで見ると(有名ミュージシャンの後ろにいる)、あの楽しい会話を思い出す。そして、ぼくらの好きだった音楽を存分に表現できる場が与えられれば良いのになとも思うが、それは彼の問題であり、ぼくが入る隙間のない問題だ。

 また別のある人とは、いっしょにジャズを聴くようになった。その後には、発展して肩肘張らずにお酒を飲むような間柄になった。

 レイ・ブライアントを小さなステージで見て、マッコイ・タイナーを見た。ソニー・ロリンズは見逃し、多くの古いころから頑張っているミュージシャンは聴きたくてももういなかった。カウント・ベイシーがいなくなった楽団の同窓会のような音楽も楽しんだ。ぼくの個人のひとつの問題として、仕事のことを日常に持ち込みたくないので、同じ職場のひとと付き合いたくなかった。上司の悪口を言う暇も余裕も自分自身に与えたくなかった。だから、すべてが終わったあとに、さらに交遊を深めていくことも自然の成り行きかもしれない。

 面白かった数人がいつのまにか順々に辞め、長年いるとそこの環境をよくするようにと自分の枠を超えたことも考えるようになる。そのようなときに若い子でぼくをからかうようになるひとも出て来る。必要は発明の母だ。

 女性数人がまだ新しかった新宿のルミネでお笑いのライブを見るということなので、そこにむりやりに加わり、いっしょに同行したことを思い出す。たぶん、目の前にいるひとを笑わすということが世界で一番、価値があり貴重なものであると考えている自分もいる。頭の中を空白にし(実際はたくさんの話を映像化していると思われるが)笑い転げていると、なによりも幸せな気分になれる。あのような職場があって、自分もそこにいた、ということが奇跡のように感じる日もたまにあった。だが、「花に嵐のたとえもあるさ、さよならだけが人生だ」、なのでしょう。淋しいけどね。

繁栄の外で(51)

2014年06月21日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(51)

 2001年の6月中旬に新たな職場に勤め出す。そのことは後にして、それから数ヵ月後の9月にはニューヨークにおいて壮絶な事件が起きる。世界は、最終段階に突入したのだと思ったが、やはり早合点だったかもしれない。しかし、その2つの高層ビルが倒れる瞬間をみて、新しい世紀の運命は決まってしまった。前世紀からの暴力をきっちりとした形で受け継いだのだ。それをさらに発展していくのだろう。

 ぼくにとっては、もっとも重要なこととして、その翌月に友人たちとイタリアに行ったことが記憶に残っている。たぶん前と後では、違う人間になったといっても過言ではないかもしれない。

 友人のひとりがバリ島が好きで数回行って、また何度も行きたいという印象をもっていた。けっきょく3人で行ったのだが、自分はどちらでも良かったが、行き先はなぜかイタリアになっていた。ぼくが、その後どれほどはまるかなどはその時はしらない。ただ、数日休んでリフレッシュしたかっただけかもしれない。資金は、24ぐらいから28才ぐらいまでに貯めたお金が残っていた。

 オランダの航空会社の飛行機に乗り、経由地のアムステルダムで時間をつぶす。警備もものものしく、ぼんやりと眺めているCNNのニュースでも、ニューヨークへのテロ事件がたくさん報道されていた。さらに自分も、なにかの事件に巻き込まれてしまうのではないかという不安と恐怖感があった。

 そして、そこから数時間でフィレンツェに着いた。町並みというものを、どのように組み立てればよいのかという理想像がその町にはあった。広場があり、ミケランジェロの彫刻が雄大にたっていた。ドゥオモは限りない美しさで、馬鹿みたいに上を見上げた。写真の枠に入らないほど、それは大きいものでもあった。

 電車に乗り移動し、ピサの斜塔を見た。それは、画面で見るよりもずっと傾き、いつ倒れても良い状況であるように思われた。まわりの芝生も美しく、空間的にきれいに散らばっている古代の建物が、美しさをより一層ひきたてた。もちろんその斜塔を眺めながら飲むワインも限りのないおいしさだった。

 帰りには、いくらかの小さな都市を欲張りを起こして(大体、最終的には計画より欲張りになる)みて回りたかったが、反対の電車に乗り込み、目的地ではない終点にぶつかってしまった。電車の切符を間違えてしまった、と正直に告白するもイタリア語しか話さない車掌さんは、ぼくらのミスに目をつぶってくれた。

 その後、ローマに行って(車内で日本の女優さんを見て、あまりのきれいさに衝撃を受けるも、これはまた別のはなし)遺跡を見たり、バチカン内の美術館にはいったりした。

 いくらかの変化を分析的に綴ると、先ず自分にはそれまでは歴史という感覚自体がなかった。知っているのはアメリカの50年代以降の、映画と音楽とそれに付随するものしか知らなかった。系統的に歴史を学んでいないという事実をまざまざと自覚した。世界の歴史は深いのだ。ポロシャツと半ズボンの(実際にそういうひとがいるけど)国とは歴史の距離も深さも違うのだ。そこから、ぼくは西洋史というものに興味をいだくようになった。

 メディチ家という資産家は、そのお金を利用してルネサンス芸術の立役者になった。日本のバブルという経済の繁栄でいったいなにを残したのだろう。そこには一人のダヴィンチもいなかった。もともと個性を良しとしない国民性であるから仕方のない部分もあるが、それではあまりにも貧しすぎた。
 あるひとが言う。日本はお金があるというけど、イタリア内にある芸術品を一気に売りさばいたら、どれほどの金額になるか知らないでしょう? と。それは紛れもない事実であった。そこが、簡単にいえば文化かもしれなかった。

 あとは、「ラテン気質」の話である。レストランで隣で話すひとたちを観察していると、彼らの脳裏には、「以心伝心」や「不言実行」などの日本的な美的な感覚がまったくのこと欠如されていた。言われなかった言葉は存在せず、口に出さなかった愛情の言葉なども無いようであった。すべては、虚しかろうとはったりであろうと、すべてを言語に変えて言葉にした。そこにいる夫婦たちや友人たちは言葉をつむぎだし(能ではなくオペラの国であるわけだ)「ふろ、めし、寝る」的な言葉の簡素化は絶対的に見当たらなかった。

 自分は、それを見ていくつかの命令中枢が組み換えられていく。大豆の遺伝子をかえるようにぼくの中のなにかもかわっていった。

 意思を伝えるために言葉を用意し、見知らぬひとにも警戒感を解き話しかけ、お世辞を思いつき、楽しい話をきけばこころの底から笑うようにした。

 そのような組み換え作業はいくらか効をそうし、長い時間はかかったが、これ以後に最初にぼくに出会った人々と、ぼくを過去から知っている人々の印象はいくらか違うものになった。若いときの内気さと(友人なんか数人以上にひろげないという契約をしていたかのように)狭量さはいくらか消え、一度も深く悩んだことがないような能天気におもうひとさえ出てきた。そのときに無性に否定したい気持ちがあるが、それをいくら努力しても彼らは聞く耳を持たなかった。いや、いまだに悩める人間です。

 また飛行機に乗り、日本に帰ってくる。だが、もう一度行きたくて仕方がない気持ちが膨らんでいる。なにが、ぼくの中でそんなにも引っかかり、なにがくっついてしまったのだろう。32才が人生の半分だと考えれば、それは時期的にも丁度良いときに経験したのかもしれなかった。

繁栄の外で(50)

2014年06月20日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(50)

 それで、外回りの仕事を見つけた。都内のオフィスがある場所を駆けずり回っている。いまでも、どこでも迷わずに歩き回れるのは、このときの記憶のおかげだ。見ず知らずの男性や女性と話すことを不安に感じもしたが、習うより慣れろという言葉がある通り、やってしまえば意外と簡単にできることを知る。

 東京都の地図を平面に並べると、仕事を抜きにしても、東京の真ん中より右側が好きだった。文京区や台東区あたりの気取らない感じにも、いつも好印象をもつ。

 同年代の男性が多かったので、仕事がはやく片付いたときには集まって時間をつぶしたりした。みんな個性的なひとが多く、それぞれが人間としての魅力があった。なかには女性もいて、いっしょの方面のときは仕事の前にお茶を飲んだりした。気さくで気取らないということに、いちばん重点をおいて考えていたのだと思う。そういう自分も作為的なことが嫌いだった。

 ひとりの女性は、ある日から目と目が合うこともなく、挨拶もままならない状況だったが、会社を離れるとメールが送られてきたりした。一体、どういう気持ちなんだろう、と考えてまた翌日を迎える。こちらから話しかけようとすると、また素っ気ない態度である。そして、また電車内などでメールを目にする。女性って不思議な生きものだなと、免疫が壊れ始めている自分は考えた。

 東京の中をローラー的に網羅すると、少し離れた大都市にも足を向けた。オフィスがたくさんあれば、どこにでも行く予定であった。幕張にも行ったり、みなとみらいや横浜にも行った。新横浜もすみずみまで歩き回った。自分の地元は、昔からの曲がりくねった道路があったが、このように整備された区画をあるくことの爽快感と、無機質さの両方を同時に感じる。迷うこともないが、都市としての魅力もいくらか減少してしまうのだろう。夕暮れ時に曲がりくねった路地をあるくことの楽しさとワクワク感というものが、自分の中にはきっちりとあった。

 営業を長年おこなってきたひとたちといっしょにオフィスを訪問した。そこで、実践的になにかのきっかけをつかむ。彼らの、会社内へ足を踏み込む様子を観察する。彼らは、部外者が来たという態度を見せなかった。いかにも、忘れ物を取りに戻ったかのようなそぶりでそこに入った。そして、あまりにもナチュラルな表情で応対するひとびとに接した。もっとプロから見たら、違うのかもしれないが、ぼく自体にはとても参考になった。ひとは、それぞれ初対面のひとに好印象をもってもらう必要があるのだ。次第にそのひとの良さが分かってくるということも、とても大事だが、そのような過程を省くことも大切であることは間違いないだろう。

 また、それらの営業のひと同士で、ロールプレイングもおこなった。目の前で、会話や挨拶を見せあい、採点し合ったし、チェックしあった。参考になるというより、恥ずかしさの気持ちを消滅させることが第一の主題であったかもしれない。しかし、ひとがひとであることの価値は、些細な「はにかみ」の分量の差異であるのかもしれない。

 スーツとネクタイのバランスも考え、無駄なしわが寄っていないか、との普通の外見へのこだわりも考え出す。段々と自分が薄っぺらな人間になっていくような思いもあるが、その経過も楽しんでいた。

 幕張にいたときだ。思ったより仕事がはかどり、電話をかけあって夕方に同僚たちと待ち合わせをした。会社には戻らないという電話をかけ、安い料理店にはいった。そこで、お得なサイズのワインのデキャンタを何回もおかわりし、みんなでさわいでかなりの具合で酔っ払った。

 それぞれの人間に過去があり、話せる楽しい経験の2、3を披露しあい、これからの夢を語り合った。そう考えると楽しい仲間たちだったな、と思い出すこと自体に魅力が芽生える。

 もうそこを辞めて、日にちが経っていたときだが、そのうちのひとりから電話がかかってきた。久し振りの電話というものが、いつの頃からか幸運を運んでこないものに変わる年齢がある。ぼくも、そのボーダーラインを越えてしまったのだろう。それぞれが知っているあるひとの名前を出し、「・・・さんが亡くなった」ということを告げられた。

 そのひとは、かなりぼくらより高齢であったが、独身で一人暮らしの部屋で亡くなっていることが発見されたとのことだった。ぼくに電話をくれた相手も参考までにということで警察から事情を訊かれたとのことだ。ぼくらは、ある土曜に久し振りに会った。数人の見慣れた顔もあった。いきさつを丁寧にもう一度きき、互いのいまの会話になり、それで話は尽きてしまうので、その後、みんなでたまに会ったので飲みにでも行こうかという行きがかり上、当然の帰結になった。ぼくは、そのころなかなか忙しく、その誘いをいとも簡単に断ってしまった。いまから考えると、それぞれにしんみりとした気持ちもあり、心細げな気持ちもただよっていた。自分の忙しさを理由に断ることなど、ルール違反のような気もしたが、それも仕方がないことだったのだろう。

 いつしか、互いに電話番号がかわったりして、連絡先をしらなくなるのが常である。こうして過去の一部が、ひび割れ、そこから剥がれて行き、その欠けらは風に飛ばされ、いつしか消えてなくなってしまう。

 しかし、同世代の仲間というものはかけがえのない存在であるのだが、気付いたときには連絡先すら知らないことになっている。

繁栄の外で(49)

2014年06月19日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(49)

 31才から32才になろうとしている。時代は21世紀に突入しようとしていたが、幼少のころに考えていた時代の変化はなかった。ロボットとは町ですれ違うこともなく、医療費もあいかわらず政府の負担のひとつになっている。解決することは山積みで、次の世紀というものもバラ色の未来であるということは考えづらかった。

 新世紀の変化というものはなく、まったくの昨日のつづきであった。今日の問題は、明日にそっと先送りされなければいけない。

 ぼくは同じ職場で3年半近く働いていた。世の中を良くするであろうものを信頼していたが日々の生活には実際のお金が支出され続けていた。未来というありのままの存在を自分の手元に返す努力もふたたび考え始めた。数年間かけてためた貯金も、いくらか目減りしてきた。家のなかの米に悪い虫がついてしまったように、これまでの生活を振り分けて捨てるものを判別して捨てないことには、被害もひろがりそうに感じ始めていた。

 自分の父親もリタイアする年齢に近付いていた。そのことと照らし合わせ、人間の人生がいかにつかの間であることを考えないわけにはいかない。何人かの息子を世の中に放り込み、学校に行かせ、一人前になりそうになったら自分の人生が終わりに近付いている。仕事との関係が切れてからゆっくり過ごすことも念頭にあるのだろうが、そのときには身体の一部はむしばまれている。自分にも同じことが待っているのだ。

 いくらかは将来の理想像も残っていたかもしれないが、振り返ればもう決定的にそれは失われていたのだろう。ただ、見つめないということだけを必死に頑張っていた。

 父は、退職金でおそらく家のローンを払い終え、いくらかのまとまった金をぼくにもくれた。その後、旅行などの費用に役立ったのだと思うが、日々の雑事のために消えてしまう金額もすくなくなかったと思う。

 とりあえずは違う環境に入らなければいけないということで、新たな仕事を見つけようとする。手っ取り早い方法として派遣会社に登録するということが流れとしては簡単だった。世間は、22才ごろの運で決まっていくのだろう。自分は、そのスタート地点にも立たずフライングをしていた。フライングを誰かが止めてくれるわけでもないので、自分は勝手な方法で走り出してしまっていたから、いまさら引き返すことも、やり直すことも不可能だった。誰が悪いわけでもなく、これがリアルな自分の人生だった。

 だが、自分の気持ちがある。たぶんだが、さまざまな会社にいったん所属して多くの人間を見て、それを標本のようにジャンル分けすることを、自分は無意識的に行っていたのだと思う。さまざまな事物をそのように区別して理解したように、人間をもそのように同じ方法で、仕切りのなかにしまいこんだ。

 比較だが、40年ほど、5、6人の小さな会社で一生を終えるよりも、人間のサンプルを見ることは、こちらのほうにうまみがあった。金銭の問題というのを、根本的には自分は後回しにするしか方法を知らないのだろう。これも性分かもしれない。

 誰に頼まれたわけでもないが、なぜかそれらの考えが自分をとらえはじめていた。悪いウイルスに犯されたように身体全体にしみこみ、また、それを直す努力を意図的に避けた。

 派遣会社というものが、そのようにいつの間にか目の前に展開されていた。気になった職を探し電話をかけ、アポイントをとり、パソコンの操作のテストがあり、文章としてなんの魅力もない言葉の羅列を、間違わないようにキーボードに打ち込んだ。そこには創造性などまったく必要ではなく、ぼくらが未来の世紀にぼんやり憧れをもって考えていたロボットとまったく違いはないものだった。それより酷いものかもしれない。未来のロボットはいくらかは自分の意思をもっていた。逆に創造性もなしに、そのようにひとから評価されるしか、生き残る方法がないのかと考えると、そこから出た帰り道は憂鬱にならない方がおかしかった。

 あとは順番待ちである。薬局で薬を待つ患者のように、自分の身体に必要なものが出されるのを待った。目の前の電光表示の数字と自分の手のひらの数字が合うことを望むだけだった。しかし、すべてを嫌がっていたわけではもちろんない。小さな希望をもたないことには、明日の朝に目を覚ますことができなくなってしまうだろう。小さな出会いもあるし、また小さな自分の可能性の問題もあった。破壊されるであろう年金もきちんと払わなければならないし、ロボットに甘んじなければならないとしてもそれはそれである。

 野茂投手は、メジャーリーグでいくつかの球団を渡り歩いていた。評価も金銭もまったく自分とは違うものであるが、こころの中で感情移入をして応援をすることが癖になってしまった。そのいくつか目かの球団でノーヒットのピッチングを見せた。ぼくが32才になる前の話だ。その映像を思い出すと、そのときの自分を探すこともできる。苛酷でも、自分が生かされるところに行くのだ、と。

繁栄の外で(48)

2014年06月18日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(48)

 何年間かテレビのない期間があった。いままで使っていたものが突然故障になり、そのまま壊れた箱のままの姿で無視していた。やるべきことも多く、ないことのメリットも確かにあったかもしれないが、入るべき情報が減ることは、もったいないといえばもったいないものでもあった。新聞もとっておらず、世間と隔絶してしまうような感じもしたが、電車に乗って広告に目を向ければ、充分なぐらいには知るべき情報が載っていた。総理大臣はいつも責められ、スキャンダルを起こす人はいつの時代にもいた。

 株価などにはそのときは興味はなかったが、それを確認したからといって自分の貯金額が増えるわけもなく、どう考えても日本の経済が先細りに向かっていることは誰の目にも明らかだった。

 たぶんフランスのワールド・カップの記憶が乏しいので、その時期にもぶつかっていたのだろう。それを見なくてもアンリとジダンの凄さはとっくの前に知っていた。その後も、飲食店で注文した料理ができるまでざっと新聞を読み、食べながら野球の日本シリーズを見たときもある。

 そのように時折、目にするぐらいがちょうど良いものでもあるかもしれないし、また、たまに目にするとテレビというものはリアルで即興性で楽しいものであった。だが、料理を食べ終えて会計を済ませ、家に向かえばそれらの映像はなくなっていた。静かに音楽を聴き、静かに本を読んだ。もっと生きるために必要(根源的な部分で)とする読み物も読んだ。

 過去にヨブというひとがいた。これを現在に置き換える。

 ヨブは、ある大きな企業に勤めていることにする。きれいな妻もいて、2人の息子とその子らの下に娘もできたということにする。東京の海の近くに開発されている地域にマンションも買い、そのローンも順調に返済していき、たまにボーナスが増えると繰り上げ返済も重ねる。自分には、スピードのための車があり、家族用の大きな車も2台目としてもっている。維持費に悩むこともあるが、売り飛ばすまでにはいたっていない。

 ヨブには、自分の周辺への愛情も深かったし、偽りでもない信仰心もあったのだ。

 ここで論争があるのだ。

 ある者が意義をいう。

「このような羨望に値する恵まれている立場のひとなら、神を信じることは簡単ですよね。もし、かわりに彼がそれらを持っていなかったとしたら、どうでしょう。そう易々と神を信じることは可能でしょうか?」

 裁判というのは双方の主張の戦いでもあるのでしょう。もう一方も受けて立つ。

「ヨブの動機をお前は疑っている。それらを全部奪った後に、それでも神を愛しているか、確認すればよいではないか?」

 なにも知らないであろうヨブは不幸に襲われる。仮に失業したとする。仮に災害にあって、可愛い息子と娘の命は若くして奪われる。友人たちがきて、お前のなにかが悪くその責任をお前が取らされているのだろう、と追及される。夫婦仲も悪くなり、このような状況を呪って、死んでしまえ、と妻にまでののしられる。

 ヨブはじっと耐える。

 自分は裸で産まれたのだし、もし裸でそこに帰ったとして何の損があるのだろう。神は与えることも奪うこともできるし、褒め称えようではないか。

「地球が最初につくられたときに、お前はどこにいたのか・・・」とヨブの耳には聞こえるようになる。

 検察側と弁護側の互いの証言も終わり、ヨブは無罪ということになる。彼はその後、祝福され失った同じ人数の子どもたちをふたたび目にすることになる。また財産も得て、彼の娘はどこの子よりも美人であった。モデル事務所にスカウトされるぐらいに美人であった。

 良くできた話であった。ストーリーとしてもばっちりだし、なかなか論争の湧く話題でもある。いまの自分はこれらのことを常識程度で知っている人生というのも、また良いものであるという認識である。

 ウディ・アレンという監督の映画の中のセリフで「ヨブぐらいに貧乏だよ」というものがあった。それを字幕でみた瞬間に、笑わない観客のなかでひとり声をだして笑ってしまった。悲劇の追求は、圧倒的なまでの喜劇にもなる。

 ぼくは、その後知人の引越しを手伝った。汗をかき、のどを乾かし、その見返りとして2台も必要もないということで小さなテレビを手に入れた。久し振りにみるテレビは驚愕するほど面白かった。なにかの論争の真っ只中にいたわけでもないがぼくの財産はこの手にしたテレビぐらいなものであった。

 それはいつしか奪われ、いつしか手に入った。

 山ほどの広告を見せられ、ニュースでは各局が協定しているような同じ内容をなんども見せられた。それで賢くなっているのかといえば、大してなっているとも思えず、だがなにかで暇をつぶさないことには明日というものはやって来ない。

繁栄の外で(47)

2014年06月17日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(47)

 実家にほど近いアパートに一年半ほど住み、そこからは少し離れているが同じ区内の、駅では3つほど、車でも10分ほどの距離にある別のアパートに越した。子どものころに自転車でも通っていたところなので土地勘はあった。知人に紹介してもらい、安い家賃で借りることができた。もう家具はあったので、窓のサイズにあったカーテンを新調し、その後、買い集めた本が乱雑になったので大きめの本棚をもうひとつ備えた。しかし、それも直ぐに埋まってしまった。

 だいぶ使い込んだベッドのマットレスも新たなものにした。少しだけ柔らかい感触だったが、そのことは他のホテルの寝心地の良いマットの上に寝転がるまで、あまり気にはならなかった。また、自分の家に戻れば、それなりの満足感はあった。次回、もう少し硬いマットを選ぶかもしれないが、それは次回以降の話である。

 ベッドのマットレスが配達され、一晩ぐっすり眠った後、母から電話があった。うちで飼っていた犬が死んだそうだ。そのことを象徴的な出来事のように感じてしまう。ぼくのマットにもそいつは寝転び、いっしょに寝たこともあるのだ。あのマットを処分するなら、自分の記憶もなくしてしまうのか? との些細な抵抗のように。

 自分は悲しんだが、たまに元気な姿で夢のなかにその犬があらわれる。記憶がのこっていれば、その人は死んだことにはならない、というどこかの言い伝えのように、ぼくもこの犬のために正しいことなのだろうと認識する。

 いつかひとの世も終わるかもしれない。その前に病気が来る。あるひとは回復し、あるひとは頑張り続ける。

 弟からの電話だったのだろうか。母が病院に入院している、という報せがあった。自分は、重要な用件があったので、直ぐに駆けつけることはできなかった。比較の問題でもあろうが、責任感の追求は融通の利かない性格の自分にとって、より一層親不孝にした。

 それでも、その用件はキャンセルになり、地元に戻り病院にはいった。たくさんのチューブが母の身体につなげられ、そういうひとを見慣れていたはずなのに、自分はストレートなショックを受けた。早く良くなってもらいたいという当然の感情がありながらも、結婚もしていない、子どもの存在もいない自分も恥じていた。そのことだけでも自分は世界から消え入りたかった。

 いつか母の容態も良くなり、自分はそのことを忘れたかのように家に寄り付かなくなった。たまに実家に帰ってから、酔って、自分のアパートの階段を危なげな足取りですすみながら自分の家はやはりここだよな、とへんな郷愁感をいだくことになる。

 同じように父も、同じ病院に入院した。もう少しあとのことだ。自分は実家に戻り、母といっしょにその病室にむかった。そのときも、子ども時代に感じた違和感が自分にはあった。5分と離れていない病院までの同行中に、母はぼくが知らない近所の人たちと相変わらずすれちがいざまに声を掛け合い、ちょっとの間話し込んだ。これは、ぼくが小学生のときに感じたことの繰り返しであった。もう20年にもなっているのに。

 自分は、必要以上に世間話程度のものができないと自分自身にきめてかかった。たぶんこの母の様子を見過ぎた結果のことで、ほんとうはそうでもなかったのかもしれない。いや、そうだったのかもしれない。しかし、徐々にこのままでは良くない、人見知りという状態は幸福ではない、と自分にインプットし、いくらかモデル・チェンジを挑んだ。このころからさまざまな関係で自分は会うひとも多くなり、殻にこもった居心地の良さに安住しているわけにもいかなかったという必要もあった。必要は発明の母でもあった。意識することはやはり大切であり、いくらか変化がみられるようになった。しかし、手入れの悪い夏の朝顔のように、すぐにしぼんでしまうのもまた事実であった。

 病室に父は寝そべっていた。威厳を振りまいている父ではなかった。いくらか力強さは消え、心細げにすら見えた。自分は磁石のおなじ極同士のように父とくっつくことができなかった。ある面では似ていたのかもしれないし、ただ反発心の引っ込み時期を見失っただけかもしれない。しかし、このベッドに横たわっている父は自分に力を振るうこともできず、ただ守られるべき存在であった。それは、年数が経っただけの話かもしれないし、老いの話かもしれない。

 いくらか体内の一部を切られ、彼も退院した。もうふたりともかなりの年齢である。そのことは自分にも同じだけの年数が経過してしまったことだ。いつのまにかレースは中盤を越え、サーキット場は夕暮れに近付こうとしているころだろう。

 パソコンやテレビは何台か代わったが、自分はまだこのアパートに住んでいる。根が生えてしまったようだ。知らない土地を歩き回ることが大好きなのだが、この体たらくはいったいどこから来るのだろう。

繁栄の外で(46)

2014年06月16日 | 繁栄の外で
繁栄の外で(46)

 自分が運命のあやつり人形に過ぎないと感じてしまう一日がある。まさに、この日はそうだった。自分の意思などまったく考慮にいれられず世界はすすんでいくのだろうか?

 友人に誘われ、車で1時間半ぐらい離れた景色の良い川辺でバーベキューをすることになった。いつもより幾分はやく起き、ラフな身動きのとりやすい格好で友人の車を待っていた。食材やバーベキューに使う道具も用意され、ぼくはなにもすることがなかった。ただ、いくらか働き、いくらか肉を焼き、そして運転の心配もないので適度に冷えたビールを飲むことも許されていた。

 その日は、秋のとっておきの快晴が待っていた。空は高く空気は乾いていて、樹木のにおいも爽快な気持ちをふくらませることに役立っていた。川では、こどもたちが釣りをして、これも適度な大きさの平べったい石を川面にすべらせているひともいた。

 それでも、あまり大々的に紹介されてもいない場所らしく、ひとびとの間隔はきちんと確保され、混雑しているとはいえなかった。となりで他のグループの存在は確認できるが、声はきこえてこないというちょうど良いスペースが保たれていた。

 満足するまで食べ、最後にはデザートとしてならばボリュームがあり過ぎる焼きそばが作られ、それもみんなで食べた。ビールが入ったクーラー・ボックスは底を見せ始め、そろそろ後片付けをしようかという段階になった。いくらか一日分の日焼けのため身体が赤くなったが、夏のような陽射しでもないので、シャワーがしみるほどまではいっていないだろう。同行者の子どもたちも楽しかったらしく、また満腹にもなって身体を動かすのが億劫なかんじを見せた。自分もこのまま何もせずのんびり川原の大きな石に腰掛けたままでいたかった。空はまだまだ青かった。

 それでも、支度があった。使い終わった調理器具を簡単に洗ってしまおうと簡易的な流しがある場所にむかった。そこで下を向いて丁寧ともいえない感じですすいでいると、となりの男性が声をかけた。もう会うのは10年以上経っていたかもしれない。それで、いくらかその顔を自分の中のイメージと一致させることが難しかったのだろう。しかし、その2つのイメージは合致した。ぼくが、10年近く前に交際していた多恵子という子の兄だった。まさか、こんな場所で会うとは。

「よっ、久しぶり。元気にしてた?」と彼は声をかけた。
「まあ、なんとか」とぼくは、これもなんとか答えた。

 彼と最後に会ったのは、ぼくが彼の妹を傷つけ、その仕返しにぼくの頬をなぐったときが、きっと最後であるはずだった。きっとではない、ぼくは知っていたはずだ。確実に最後の場面を思い出していた。

「あの時は、悪かったな」と2人の脳裏にある事柄のため、彼はあやまった。今更、あやまってもらう必要もないし、彼女の痛手に比べたら、ぼくの頬などには蚊に刺されたくらいの痛みしかなかったであろう。それは、痛みともいえないかもしれない。

「多恵子は、どうしてます?」
「やっぱり、いまでも気になっていたのか?」と彼が言ったそばから、ぼくは首をうなだれるような形でうなずいた。彼は、「会わすわけにはいかないけど・・・」と言って少しためらってから、多少の酔いも無言の加勢となって手伝っていたかもしれない、おれについてこい、という様子をみせた。ぼくは、食器などを流しにおいたまま、その後についていった。

 彼は、首だけで方向を指した。木陰の向こうに女性がいた。それは、まぎれもなく多恵子であった。となりには7,8歳ぐらいの男の子がいた。その子の洋服の汚れでも取っているのだろうか熱心に手を動かしていた。こちらを見てほしいとも思ったが、このまま気付かずにいてもほしかった。ぼくには、数年来の安堵があった。

 ぼくは、そこから離れその残像とともに、乾き始めた食器を両手にもち歩き出した。彼女の居場所はこのまま分からないだろう。ただ、存在が確認できれば、それだけで良かった。そのとき、さきほどの少年が、サッカーボールを器用とは呼べない感じで転がしていたが、いつの間にか、それは歩いているぼくの目の前にまで転がって来ていた。両手はふさがっていたが、ちょうどテーブルがあったのでそこにいったん置き、ボールを蹴り返した。それはきれいな放物線を描き、彼の足元にすぽっと入って止まった。

「ありがとう」と、しつけの良さそうな口調で、その男の子はこちらにきこえそうな音量でいった。ぼくは、彼にありがとう、などといってもらう身分ではなかった。ぼくは、彼のお母さんを醜いほど傷つけてしまった過去があった。しかし、そのこととも別れる時期が来ていたのかもしれない。

 帰りの車の中で、自分はいつも以上に無口であった。しかし、誰も心配しなかった。ただ、疲れているだけだろうと思っていたのだろう。声をかけられないことに助けられ、いくつかの過去の映像を引っ張り出し、10年も前のぼくと彼女を思い出した。そして、アナザー・ライフというものがもしあるならば、きっと多恵子を離すことはなかったのにと、自分の失敗の利子を払い続ける人生を考えるのだった。