爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

仮の包装(20)

2017年02月28日 | 仮の包装
仮の包装(20)

「むかし取った杵柄」

 とひとり言を言いながら働いている。そうむかしでもない会社員時代。指揮命令に従う。なんどか失敗して、失敗の何たるかを覚え、同じ過ちを繰り返さなくなる。その一連の行動自体が杵柄ということになるのだろう。

「その席、ひとつ足りないよ。ボーイさん」

 レストランの団体の昼食を準備している。数は大事だ。頭数。多くても少なくてもいけない。ぴったりの数。

「分かりました」

「分かってるなら、ちゃんとやって」険しい顔の先輩はぼくを名前で呼ばない。そのときの役割を用いる。いまはボーイさん。受付に立てば、フロント係だった。それは一人前になるまでは存在を認めないということと等しいようだ。悔しくないといったら嘘になるが、あの地の新たなホテルで自信をもって働くまでの訓練期間だと思えば、そう辛いことでもなかった。

 人手が足りなくて、もちろん研修なのでいろいろなことをやらされた。ぼくは事務室で電卓を叩いている。レストランの団体さんの計算。合っている。

「数字が好き?」

 支配人がぼくの後ろからノートを覗きこんでいる。
「好きか、どうか考えたこともないです」
「考える前に好きになっているのが恋だよな。そして、気付いたときからいろいろ考え込んでしまうのも恋だよな」

「誰のことばですか?」
「ゲーテ。うそだよ、オレの自論だよ」彼は楽しそうに屈託なく笑う。「好きになれば大体のことは我慢できる。あいつはきびしいけど、裏表がないから」
「誰のことですか?」
「胸に手を当ててみろ」

 彼は立ち去る。ぼくは計算にもどる。この立場の名称を予想する。事務さん。会計さん。しかし、彼女はやって来ない。うわさに聞くと、事務の仕事が苦手なのだそうだ。ひとを教えることに生きがいを感じているのだろう。ときにはきびしいが、ぼくが所属していた運動部の先輩に比べれば、大したことはなかった。ひとは恐怖や威圧に対して尊敬をいだくのだろうか。のらりくらりと楽しそうな支配人をも尊敬できるので、正しい理論ではない。ぼくはコーヒーを飲む。お客さんも飲むものなのでとてもおいしい。事務室にいる限り、ぼくは自由だった。もっと計算するものがないか探すが、専門のひとも暇そうに会話をしているので、ここらで切り上げる。扉を開く前に鏡で襟元や髪形を点検する。ぼくはあの民宿でひげも剃らない自分がなつかしかった。

 夕食後、ぼくはももこに電話する。あの民宿が更地になったことを告げられる。その前から周囲にはなにもなかった。重機が入り、設計図をもとにした建物が生まれる。ひとは形のあるものを愛するのだろう。好きになるというのが簡単なことなのか、むずかしいものなのか電話を切ったあとも考えていた。


仮の包装(19)

2017年02月27日 | 仮の包装
仮の包装(19)

 古びた駅舎に、女主人とももこと彼女の家族がいた。正午に近い。女主人はおにぎりを作ってくれていた。ぼくは座席を確保して窓から手を振る。ここに来たときは知り合いがひとりもいなかったが、いまはぼくのことを数十人は知っていて、そして、良く思っているひとも少なからずいた。ありがたいことだ。

 電車は走り出す。やはり、来たときと同じように車内の端にトイレがあった。外の風景は海から離れて、素朴なミレーの描くような色合いに変わった。いつか、ももことバルビゾンに行ってもいい。しかし、夢想に興じるより仕事を覚えるのが先決だ。身だしなみもよくしなければいけない。接客のプロになる。では、プロとはいったいなんだろう?

 ぼくは包みを開き、おにぎりをひとつ取った。重さも海苔の湿り気も完璧だった。反対に、完璧ではないおにぎりも想像できなかった。個性を埋没させることが、ある面では勝利につながるのだ。おにぎりに勝ち負けを要求しても仕方がない。ぼくは頬張った。ぼくの目の奥には感動の隠し部屋のようなものがあり、そこで誰かが暴れていた。閉じ込めておくのも大変だった。とくに水分は低きに流れやすいものなので。

 電車を乗り換え、南に行く急行に乗った。おにぎりはもうなくなっていた。ぼくはペット・ボトルのお茶を飲み、窓外の風景を眺めた。ひとは移動する。ぼくは歴史の授業で学んだ鎖国のことを急に思い出していた。ある日、大きな船が来る。開国をせまる。賛成も反対もある。ぼくは次の駅のローマ字表記の駅名を見つめて、口のなかでもごもごと言った。

 夜という玄関口を勝手に過ぎてしまったころ、目的地に着いた。駅前にはお客用のバスが停まっており、ぼくは運転手に用件を告げ、同乗させてもらう。道は悪かった。鬱蒼とした森を抜けると、急に開けた場所に大きなホテルがあった。

 ぼくは裏口のような場所を探していたが、駐車場からもどってきた運転手に手招きされるまま、後についていった。

「支配人が待っているよ」

 ぼくはひとつのドアを叩く。なかから声がして戸を開ける。
「よ、疲れたか?」との気楽なセリフが待っていた。
「そうですね。緊張と不安で」
「まあ、きょうは温泉にでも入ってゆっくり寝なさい。食事は裏で頼めばいいし」
「ありがとうございます」

「お客さん扱いは今夜で終わり。明日からはびしびしとしごくから、覚悟しておくんだぞ」と言って、高級そうで、かつ柔らかそうな椅子を回転させ後ろを向いた。壁には、その支配人の荒いタッチの肖像があった。

 ドアの外に出ると、いかにもな感じのきびしそうな顔付きの女性が立っていた。ぼくの名前を呼び、これからのことを説明した。ぼくは手の平にまだおにぎりがあるように指を軽く曲げ、きびきびと歩く女性のあとを追っていた。


仮の包装(18)

2017年02月26日 | 仮の包装
仮の包装(18)

 最後の日になった。夕飯も終わり、浴室も掃除する。丹念に洗っても、お客はもう来ない。女主人はあと一月ほどのこる。ぼくは荷物を周到にまとめているが、あと数日は猶予があった。

「ももこちゃんにも会えなくなるのね?」
「たまには、帰ってきますけど」
「帰ってくると表現できるのね、さすが」

 ぼくは最後の給料で、ましなスーツを買った。以前のものは実家にある。一度、もどって会社員に必要なものを探さなければいけないだろう。替えの靴とか、数本の予備のネクタイとか。だが、制服もあるのだ。自分の自由は目減りする。それにしても、自由なんてウエストのサイズと同じで適度な頃合いがあるのだろう。

 朝、民宿の玄関をていねいに箒で掃く。自分がここの門をくぐったのはどれぐらい前だったのだろう。その後、植木に水を撒く。きれいさっぱりとなくなるのに無意味だと思いつつも、それだからこそかえって行いが貴く思えた。

「もうそれぐらいにしたら」

 縁側で女主人が言う。身体から生気のようなものが抜けつつある感じがした。ぼくはそれから、大きな布袋で代用している財布兼用メモ帳入れのようなものを手に、お得意先を駆け足で回る。つけで買ったものをきちんと清算して、お皿やたまってしまった品々を返す。この場に相応しいのかどうかも分からないが贈答用のタオルも渡す。それは正直にいえばぼくの役目ではないのかもしれないが、主人に任せるわけにもいかなかったのだ。彼女はこの地上から徐々に離れてしまうようにも映った。

「全部、済みました」
「ありがとう。その自転車、どうしようかしらね?」
「だいぶ、骨董品だけど、値はつかなそうですね」
「わたしと同じ」
「またまた」

 ぼくは屈んでその自転車をきれいにした。そして、手がその分だけ汚れた。この汚れも勲章なのだ、生きた証なのだと大げさに考える。

 ぼくは部屋にもどり、ももこが働いている信用金庫の通帳の残高を寝転がって眺めた。数字が示すものはわずかだった。高校生のバイト代程度だ。そして、壁にかかっている新しいスーツを見た。ひとは、衣服の質で判断される。ぼくは古びたバッグのなかも調べる。ここがスタートであり、自分のなにかのゴールにもなっていることを知っている。知っていたからといって賢くなる類いのものでもないことがあるのをバッグの中身で教わる。

 ぼくは立って、大きな時計を見つめる。民宿の部屋毎に時計があった。ぼくは明日、古道具屋を呼ぼうと考える。いくらかだが女主人の足しになるかもしれず、ならなければこのまま跡地に埋めてしまいたいとも思っていた。数百年後の人類が時計の群れをどう分類するのか、ぼくは予想する。その頃には、教会で結婚するひとは増えているのだろうか、それとも、減っているのだろうか、調査の基準もないまま考えていた。しかし、ホテルの建設時にあっさりと掘り起こされてしまうだろう。力ないものの虚偽や隠ぺいのように。白昼にさらされて。


仮の包装(17)

2017年02月23日 | 仮の包装
仮の包装(17)

 日常の仕事を片付けながらも、この作業も今回で最後かもしれないと思うと自然と感傷的な気持ちになった。ひとは漠然とルーティーンをつくる。反対にある日、連続性は破綻して、途中で断ち切ることも起こり得る。若さを最前列の攻撃にもってくれば、なにごとも耐えられるだろう。別れは成長の機会なのだ。だが、段々と大人は軽々しく手放せなくもなってくるのだ。未練や愛慕と名付けて。形があるかのように見せかけて。

 ぼくは自分に言い聞かせている。ホテルで働くには研修があり、その後も別の場所で一時的だが勤務する時間も必要だった。ぼくは地元となった海辺の町を愛しながら、そこの一部を破壊する計画にも加担する。裏切りと見るひともいるかもしれず、同情をこめて発展と考える方々もいる。その波に乗るという判断も不可欠ながら、自分の馴れた方法を捨て切れないのが普通の人間だった。

「じゃあ、仕事の問題はなくなったんだ?」とももこが訊く。
「ないといえばないし、あるといえばあるし」
「すっきりしないみたいだね」

「ぼくはなんで、ここに来たのかと考えてみると」
「考えてみると…」
「最後の自由を味わいたかったのかもしれないなって。大人になり切る前に」
「どうだった?」
「限りなく自由だった」

 ぼくは新たにつく仕事の参考となる資料を送ってもらっていた。形だけの面接と採用試験があり、別の場所で働く。そこには寮があるが、連休にでもなれば、みんながそれぞれの地元に帰るのだろう。ぼくもそうするはずだ。だが、ここに戻ってきても泊まるところがない。そうしたもろもろの不安がありながらも雇用という段階にまた入る。

「泊まるとこ、どうしよう?」
「お父さんに相談してみるよ」
「そこまで甘えるのも、なんだかね」
「そのときは、そのときで。わたしも一人暮らしをするかもしれないしね」
「あんなに家と職場が近いのに?」
「可能性の話」

 あと十日ほどで、いまの仕事も終わる。予約した人数が増えることはない。ひとりひとり泊まるお客が減る。最後の風呂。最後の朝食。二度と来ない場所。

「電話くれる?」

「もちろん」ぼくは力強く宣言する。電話をするのなんか簡単なことだった。いくつかの数字を押して、受話器を耳に押し付けるだけ。それでひとっ飛びに空間や距離を無視できる。ぼくらはその場を去り、ぼくは夜の仕事にもどる。自由と自分はいった。しかし、緊密というのは不自由と同義語のような気もする。なにかを終わらせ、なにかを始動させる。自分は真新しいホテルで働くことになる。仕事はもっと細分化され、たくさんのひとの手を介して、達成というのも個人の力量ではなく、責任も栄誉も分散させるような形で会社の業績につながる。

仮の包装(16)

2017年02月22日 | 仮の包装
仮の包装(16)

「接ぎ木って、君は知ってる?」

 ぼくの前には不動産屋さんがいて質問をしている。買い出しの途中で偶然に会い、コーヒーをおごってもらっていた。

「まあ、なんとなくですが」質問の意図が分からない。そして、偶然というのも世の中にはない気がしている。偶然とは誰かの計算高い泥まみれの作為の結果なのだ。
「佐野さん(女主人の姓)から君のことを随分と後押しされて、勝手ながら調べさせてもらったよ」彼は急にFBIのような一面を見せた。

「仕事のことで心配されていますからね」
「そうだろう、大事な従業員の行く末なんだから。そのたったひとりの君は優秀な大学を出て、そこそこ優秀な会社に入った。しかし、いまはここにいる」
「簡単にいえば」
「ここにホテルが建つ」彼は目の前に両手で四角いものを身振りで空中に示した。「その責任者はぼくの兄だ」

「一族で裕福なんですね」本当の意味はしたたかなんですね、ということだ。
「実入りもあれば、借金もある」
「資本投下」

「わたしたちはここを植民地にしたいわけじゃない。君はここに来て、一から関係性を築きあげた」
「そこまでの評価は採点が甘過ぎです」
「事実は事実だ。ここも一年後には違った景色になるが、そこで働いてみる気はないかね?」
「ありがたい提案です」

「君みたいな人物がいれば、揉めることも少ないかもしれない。たまには、ベーブ・ルースみたいなユニフォームに包まれて野球でもすれば」
「見てたんですか?」

「調査も重要な仕事だよ」彼は、味覚がないひとのようにコーヒーをすすった。「悪くない話だろ?」
「ええ」取引やトランプの駆け引きのようなことを考えながら、ぼくもコーヒーに口をつける。ぼくは、自分の入れるコーヒーの味と比較する。ひとは長所を伸ばすべきである。

「ビーチに面して結婚式場もつくる。清潔な祭壇があり、日本語がたどたどしい神父もいる。社員がリハーサルを兼ねて第一号になるのも、それほど悪くない景色だ。ビーチ、オーシャン、ラ・メール。海はどう呼んでも美しい。アーメン」
「誰の話ですか?」
「君と、君の可愛らしい彼女の話に決まってるよ」

 ぼくの生活は看視されていた。グラウンドの不格好な姿を目撃され、ももこの愛らしさも知られていた。だが、無職であるよりもきちんと働いていた方が当然のこと自信もつく。ぼくはももこの花嫁姿を想像する。その名称はやはり旧式過ぎた。ウェディング・ドレスだ。ぼくもみすぼらしいサイズの合わない服ではなく、きちんとしたしわ一つないタキシードを着ている。ぼくは身なりのことばかりを気にしている。

 ぼくらは仮約束をして別れる。中途採用の未来の花婿が目にするであろう夕日は、きょうもきれいだった。

「なにかいいことあったの?」と女主人が訊く。目敏い。ぼくは曖昧に頷く。忠節や忠義という犬でももっている感情をぼくも捨てたくはなかった。主人はひとりであり、ここが壊されるまで精一杯働くのが武士の末裔の仕事であるが、突然放たれた、「あの写真、見たわよ」と空元気を打ち消すひとことで現実に簡単に連れ戻される。

仮の包装(15)

2017年02月14日 | 仮の包装
仮の包装(15)

 借りてきたユニフォーム姿を鏡の前で点検した。上は大きく、ズボンはウエストは緩いがサイズ自体が小さかった。裾はひざ下までかろうじて届かず、ゴムだけがぴっちりとして自身の機能を存分に果たしていた。むかしの白黒写真のベーブ・ルースを思わせた。別にオーダー・メイドが欲しかったわけでもないが、これではあんまりだ。

 ぼくは車輪の回転の鈍い自転車を借りた。民宿の電話番号も横に入っている。ぼくは旧時代からよみがえった人物なのだろうか。しかし、我慢してこぎつづける。これだけで体力が消耗しそうだった。

 グラウンドにはももこがカメラをもって待っていた。ぼくの晴れの姿を写すときに失笑を隠さなかった。

「似合うとかの問題ではないぐらいだよな。ひとりだけ違う競技だよ、これじゃ。いじめ」
「テレビで放映されるわけでもなし。見るのも三十人もいないよ」
「でも、こうしてももこが見てるよ」
「そんなんで嫌いにならないよ」言質というのは、刻まれた波打った文字の石碑を遺跡から見つけることに近い。

 試合がはじまれば、いちばん若い自分は活躍した。何度かむずかしいフライを転げながら捕り、走者をかえすヒットを左中間に打った。しかし、塁上でぼんやりとして牽制でアウトになった。ぼくは野球に興じながらも、明日の心配をする身でもあるのだ。

 民宿で風呂に入り、仕事に励んだ。腕には勲章としての小さな擦り傷もある。いまごろ、みんなは浴びるほどビールを飲んでいるのだろう。皿を洗いながら、日本人は一日で醬油をどれほど使い、どれほど排水口に流しているのだろうかと無意味なことを考えている。

「野球、楽しかった?」仕事が一段落すると、女主人が訊いた。
「ええ、とても。ヒットも売ったし、守りでも役に立ったし」
「何度、説明されてもルールが分からないのよね、わたし」
「自分でやってみないと覚えないものですから」
「哲学的ね」
「実証的です」

 お客さんの部屋の電気が消えた。ぼくは缶ビールを開ける。優勝チームのビール掛けに無駄に費やす量は、一日の消費量の何パーセントなのか考えてみる。ほんとうに微々たるものであろう。しかし、なるべくなら口に入れた方がいい。そのように作られているのだから。

 ぼくはまたもや風呂に入る。壁のタイルも整然とはいえなくなっている。これも取り壊されて素敵なリゾート・ホテルへと変身するのだろう。ぼくは湯ぶねに浸かり、支配人になった自分を想像する。その奥の個人の執務室にはきょうの一世一代の写真を飾ろう。ベーブ・ルース。ルイ・アームストロング。リンドバーグ。いつの時代にもヒーローがいる。支配人の制服はさすがに腕利きのテーラーに採寸され、サイズを細々と正確に測ってもらえるだろう。ぼくはユニフォームの洗濯をはじめた。また新たな被害者ができることも、おそらく楽しいものだろう。


仮の包装(14)

2017年02月13日 | 仮の包装
仮の包装(14)

 売るということが決まると、意に反して急に予約が増えた。宣伝もしていないのに。必要なものを買い足し、中途半端なものは伸ばした手にブレーキをかけ、躊躇してしまう。いらなくてもなんとかなる類いのもの。これからは在庫を抱えることは許されないのだ。皿が割れても補充はせず、タオルも新品のものがなくなった。少し毛羽立ったタオルの肌触りにも、消極的ながら納得させようという気持ちが働いた。満点はいらなかった。

「線香花火みたい」と、女主人はいう。最近は、すがすがしい顔をしていることが多い。
「ラスト・スパートですね」そう返答したぼくだが、ゴールを切ったあとの身の振り方も決まっていない。歓喜も栄光も祝福もないゴールを迎える。

「最後ぐらいボーナスを出そうかしら」
「期待しますよ」
「どうぞ。もし、就職先があれば暇を見つけて面接でも受けなさい。後押しできるか分からないけど紹介文も書くし」突然、現実的なことを言う。しかし、日本でそういう書面が効果的だとも思えなかった。新卒で入り、多くは死ぬまで奉公する。所属するという立場が一般的なのだ。ぼくのその所属や帰属が危うくなっている。風前の灯火。

 また不動産の方が足を運んだ。話し合いが静かに終わると、女主人はカレンダーに丸をつけた。

「その日は?」
「ここのカギを明け渡す日。わたしが別の場所に移る日」
「ぼくは?」
「この一か月前には、ここも閉めましょう。準備や整理もあるし」
「じゃあ、あと一月ちょっとですね」
「お疲れさま」
「まだ終わってないですよ」

 ぼくは皿を洗いながらいままでのこととこれからのことを同じ分量程度に考えていた。少しだけ魚がさばけるようになり、少しだけ船の操縦を覚えた。無免許といえば無免許なのだろう。横でしっかりと見守ってもらっていたが。いくらか日にやけ、身体が黒くなった。精悍ともよべるし、不潔ともいえた。ぼくはここが好きになっている。休日には社会人一年目のももこと会い、映画をみたり海のそばで話し合ったりする他愛もない時間も。

 明日は地域の大人たちが集まる野球に誘われた。女主人は数時間、抜けることをとがめなかった。ぼくの部屋には誰かのお古のユニフォームがある。それに袖を通して体を動かす。きっと、楽しいだろう。

 一日の仕事も終わり、自分の部屋にもどった。自分のという仮の所有も、あと一月ほどで終わる。ここに住みつづけるならアパートを探さなければいけない。その前に家賃が払えるだけの仕事もいる。ぼくはまた履歴書のことを考える。新品ではなくなった自分という車。中古車でもなく、廃車になるにはまだまだ早い。傷もなく、塗装も悪くない。だが、誰かが買おうと思わなければ、駐車場で無情だけが取り柄の風雨にさらされるだけなのだ。ぼくは、自分をすっぽりと包めそうな大きな傘のようなものを想像してみる。


仮の包装(13)

2017年02月05日 | 仮の包装
仮の包装(13)

 女主人は退院してもとの仕事にもどった。それほど大きくない身体がひとまわり小さくなったような印象をもつ。ここには体重計がなかった。ぼくも自分の体重の推移を数字として目にすることはない。最近は閑散としているので仕事の量も多くない。ぼくは漁師の家で細々とした作業を手伝い、糊口をしのぐ。するとももこが帰ってくる。もう制服ではない。大人びた洋服で会社からもどるのだ。

「おかえり」ぼくは、この家の人間のような言いぶりと口調に自分で驚いていた。
「ただいま。お客さんいないの?」今日も、という指摘が隠されている。
「なかなかね」

 ものごとを発展させる段階があり、もうあの民宿は成長の踊り場にいなかった。そこの一員になってしまった自分も正直にいえば八方ふさがりだった。

 ぼくは家族の一員のように夕飯を食べる。生活費を入れているわけでもないが親切にされる。なにかで恩返しをしたく思うが、そのなにかというものを大体の人間は見つけられないでいるのだ。

「ただいま帰りました」
「お帰り」女主人がいう。めずらしく男性の靴がきちんと履きやすいように外を向いて並べてある。

 静かな声がする。密談。相談。ここはプライバシーがあるようでなかった。
「お客さん、帰ります」そのことばを合図にぼくは玄関に向かう。「こちらが、従業員。短い間だったかもしれないけど」
「そうですか」スーツがよく似合うメガネの男性は気持ちよく微笑んだ。それを仕事にしてきた年月を感じさせるほどの。
「誰ですか?」扉が閉まってから一分ほど経ったであろうころ、ぼくは興味本位に訊いた。

「ここの不動産屋さん」
「どうするんですか?」
「そろそろ売ろうと思って」
「ぼくは?」
「どこかのお婿さんにでもなりなさい。まだ、若いんだから、東京にもどるのもよし」

 それは可能性と未来の話であり、年長者からの率直な忠告でもあった。
「もう、まとまるんですか?」
「おおよそは。あとは交渉次第で」彼女は不幸なひとのように無抵抗に笑う。「あんまりのこらないものね」
「ここは?」
「リゾート・ホテルにでもなるんでしょう」

 ぼくは開発された町をイメージする。頭に蓄積されていたとも思っていなかったデベロッパーという深い意味も分からないことばがでてきた。
「コーヒーでもいれますね」
「ありがとう」

 ぼくはテーブルのお茶を片付け、その場所に熱いコーヒーを置いた。ぼくに意見もなく、物事を変化させる力もない。ただどこかに居場所を見つけなければならない。ぼくは履歴書がのこっていたかを考える。ぼくのいままでは紙一枚でこと足りた。墓碑銘も数文字で完結するのだ。

「あなたのいれるコーヒーはおいしいのね」
「そうですか」ぼくは黒い液体をすする。ブラジルのコーヒー園で雇ってもらうにはどこに伝手があるのか、誰に相談すればよいのか空想家のようにぼんやりと頭の回路を揺すってみた。


仮の包装(12)

2017年02月02日 | 仮の包装
仮の包装(12)

 理想と現実との差で悩むのが若者の、もしくは人類の特権のようでもあった。理想というものを手放してしまった自分に悩みはなかった。朝起きて、朝食の配膳をして、掃除をして、布団を干す。買い出しに行って、夕飯を作り、風呂を沸かす。すると女主人が病気になった。

「ももこを手伝いに行かすよ」と漁師は言う。彼女の高校生活も終わっていた。働きはじめるのは数日先のことだった。

「相談しないと、バイト代はいくらだとか」
「水臭いこというなよ。そのときは、そのときだって」

 ぼくは自分の雇用契約書もない。休日の保障や、有給の不払いの件を必死に戦ってくれる弁護士も、もちろんいない。そんなことを考える時間はトイレで座り込んでいるときだけだった。ぼくは魚を卸し、煮物を作ってご飯を炊いた。間もなく、裏口からももこが入ってくる。

「手伝いにきたよ」
「ありがとう」天使到来である。

 彼女は皿に盛りつける。いつもと感じが違う。若者というのは年々、センスに磨きをかけていく。ぼくは火をとめ、様子を見守る。

「お風呂、入れます?」とお客さんに声をかけられる。
「いま、見てきますので、もうしばらくお待ちください」

 ぼくは湯加減を確認する。バスタオルを点検して、足ふきマットを敷く。ガラスの扉の立てつけが悪い。修理が必要でもあった。

 風呂から威勢のよい音がする。その間に食事を用意しなければならない。
「もう完璧だから」ももこは頭を布でターバンのように巻いていた。正面から見ると、その所為かかえって若々しく見える。だが、ほんものも若い。この洗い場もいつもより輝いてみえる。

 ぼくはコーヒーを入れる。食後の片付けもして、明日の準備も整った。
「もう終わったよ」

 ももこは民宿の電話から家に連絡するも母が手土産をもってこちらに向かっているそうである。切って数分後に裏口が開く。夜食がある。ぼくは瓶ビールのふたを開ける。

「ももこ、朝も手伝いなさいよ」
「大丈夫ですよ」
「明日、朝から用事があるじゃん」
「あ、そうか」

 ふたりは裏口から帰っていく。ぼくは孤独というものが何たるかをこの場で発見する。孤独を知った人類の最初の男。客室も静かになる。ぼくも風呂に入る。鏡をのぞきこむと会社員の顔つきはもうどこにもなかった。労働者の顔。ぼくは身体を撫でる。筋肉もついてきた。あの朝からどれほどの時間が経ったのか指折り数えてみるが、緊張の糸が切れた自分に結論を出す根気など、もうのこっていなかった。


仮の包装(11)

2017年02月01日 | 仮の包装
仮の包装(11)

 ももこの就職が決まった。近くの信用金庫らしい。
「高卒でも入れるんだ」ひとは不用意なひとことの連続をする運命なのだ。
「あ、バカにしている」そう言いながらも笑っている。
「違うよ、常識として。固定観念、一般論。先入観の奴隷として」
「気にしてないよ」彼女はもっと笑う。「親のコネみたいなもんだし。あそこの宴会、いつもお父さんの弟のところでしているし、わたしも手伝いしたことあるから」
「ああ、そうなんだ」

「なにか、言い忘れてない?」
「あ、おめでとう」ぼくはすこし困惑している。縁故で良い就職先なんて、まだある世界なんだと。「じゃあ、ケーキ屋さんも、もうすぐ卒業だ」
「そう、太る前にね」
「まだ気をつける年代じゃないよ。イタリアのマンマじゃあるまいし。お母さんも太ってないじゃん」
「気になる年代なんだよ」
「じゃあ、なんか祝おうか。あまり予算はないけど」
「ありがとう」

 社会人同士の交際は世間が認めてくれる。その世間というのはぼくの周りでは十人ぐらいのようにも思える。ぼくはその計画をあれこれ考えながら、また魚をさばいている。なんとか合格点をもらい、漁師はおいしそうに食べる。

「これなら、お客さんにも出せるよ。一流の料亭の見栄えを求めているわけでもないんだから」
「そうよね」ももこの母は言う。しかし、食べ終わってから追加された皿のうえの出来栄えをみると、雲泥の差があることははっきりとしている。ひとは一位になれないのだ。一位になる努力だけが美しいのだ。

「次は船の操縦でも覚えるか」
「お婿さんになるみたいね」と妻は言う。ひとは不用意なことを言い、どこかで願望を空中に飛散させてしまう。

「わたしにも選ぶ権利があるよ」ももこは紅い顔をしている。ぼくは金目鯛を思い浮かべるが、本日分の不用意な発言は出し尽くしている。
「そんなつもりじゃないけど、ここで生きていくからには、それぐらいできて当然だろう」漁師は酔いはじめていた。下戸の漁師というものを想像する。読書家の漁師。もし漁師がドラッカーのマネジメントを学んだら。

「この前、海で酔ってたよ」ひとは告げ口をする生き物でもある。
「あれは、二日酔いだったからだよ」ひとは言い訳を無数に考えだし、最善のチョイスができない生き物でもあった。
「なんでも、なれるよ」妻が言う。その通りだとも思う。ぼくは見知らぬ地で知り合いができ、ここちよい気持ちでいる。それがすべてだった。
「わたしも、はやく稼ぎたいな、自分の仕事で」ももこは野心的な面を見せる。ぼくは、あそこにいた方が、金銭的には潤っていたはずだが、こころのこりももうなかった。