爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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最後の火花 21

2015年01月31日 | 最後の火花
最後の火花 21

 母はぼくに腹を立てていた。その証拠として、「一体、誰に似たんだろう!」と漏らした。それは、ここにいない誰かを差しているようだった。

 ぼくは段々と山形さんに似ていく。座り方や、話し方も似てくる。いっしょにいるという単純なこと自体が師でもあり、悪いお手本ともなり得る可能性がある。

「男の子は、それでも宝だよ。将来の働き手になるんだから。お母さんはああいうけどね」

 山形さんは労働が浸み込んだ手のひらを揉んでいた。自分のやわな感触とはまったく異なっていた。

 いない父に似ることも当然あるが、ぼくに証明の手立てもなく、確認の方法もない。ぼくのぼんやりとした疑問を山形さんは遺伝ということばで形にした。

「王様に男の子が生まれれば、あとで王子という名前に変えられ、いずれ自分も王様になる。また男の子が生まれる。王子となって王様になる。歴史はその繰り返しなんだよ」

「女の子は?」
「別の王子様と結婚する」
「王子様って、そんなにいっぱいいるの?」
「いるさ。王国というのがあればいいんだから」

 それから山形さんは凡その政治形態の解説をしてくれたが、ぼくには一切わからなかった。その様式を維持するためには(別のあらゆる形態でも)税金や年貢というものが必要であるようだった。

「役割ってずっといっしょなの?」ぼくは毎日、同じ遊びをする退屈さと比較していた。
「個性があるから、ちょっとは変わるよ。それに善政もあれば悪政もあるからな」ぼくはその差も分からない。お小遣いを与えられ、やりくりも消費も税金も無関係なのだ。だが、ぼくはどうやら王子の家系ではないことぐらいは分かった。一生、入れない場所に一生会うこともない人々がいるのだろう。そのひとたちは何に喜び、何に悩むのだろう。そのときに使うことばはぼくや山形さんのことばと似ているのだろうか。だが、そもそも遠い過去の話をしているのだろう。古くないと何人も王子が生まれたことにはならなくなる。

「善い政治と悪い政治って、どう違うの?」

「そうだな、大多数が幸福になっていると思える社会は、善い政治なんだろうな」
「全員じゃ、ダメなの?」

「そういう理想は通用しない社会なんだよ。まだ、まだ。学校でもみんなが好きな規則なんてものも存在しないし、大人になると分かるよ」

「会社では?」
「好きな仕事ができて、好きな同僚に囲まれるといいけどな、これもなかなかだよ」
「なかなか、なに?」
「実現しにくいということ」

 ぼくはもう一度、王子の話題にもどった。山形さんの口は、「カエルの子はカエル」という聞き慣れないことばを発する。それが良い意味での例えなのか、悪い風にもとられることもあるのか、ぼくには分からなかった。どうやら似るという前提は間違っていないようだった。ぼくに対する母の衝動的な怒りをぼくは有していないと感じているが、これも誤りなのだろう。印象というのは身近なものに対して誤ってしまう。効果を発揮しない。他人のぼんやりとした印象のなかにこそ正確な判断があるのだろう。すると、身近なもの、深い関係になることを恐れてしまう、避けてしまいそうな自分もいた。

 山形さんは次にまったく正反対の理論をもちだした。「とんびが鷹を生む」と言い、その成り行きを説明した。ぼくは混乱して、困惑する。大人は逆のことも受け入れているのだ。すると、好きもキライもなくなってしまう。

「大人は平均ということも考えているんだ。こっちの力が不足していても、こっち側で補う。つじつまがあって、能力も平均化する」
「平均した方がいいの?」
「魅力があるのはひとつのことに飛び抜けた能力がある方だよ。誰も太刀打ちできない才能の持ち主がね」

 ぼくは再び、混乱する。平均を愛すれば、突出したものが欠けてしまう。ひとが美談にするのは平均さなどではないこと。ぼくは自分がどういうものか分からなくなる。

「計算に負けないひともいる。歴史のことに詳しいひともいる。地図や方向感覚にまぎれもない才能をもっているひともいるんだ。だが、学校ではそのどれをも伸ばそうと子どもたちに教えるから、どこかでいびつになる。それも平均のうちだよ」
「でも、通らないといけない」
「そういうこと」

 母の料理は山形さんによるとおいしいらしい。ぼくは、この味しか知らない。母は学校で料理を習ったわけではないようだ。山形さんが有している資格も仕事柄、覚えなければならなかったものだ。学校で机に向かうと、どのような能力を与えられるのだろう。

「もっと、いい子になってね」と、帰ると母は優しく言う。そして、抱きしめる。母の匂いというものがあった。機嫌によって多少だが、変わる。

「とんびが鷹を生むこともあるよ」と、ぼくは覚えたてのことばを使った。

「こら。いい子になるはずでしょう」母の手は固くない。何度、叩かれても痛くないだろう。
「カエルの子はカエル」と山形さんは言う。母はそのことに不服なようだった。ぼくにもっと立派な未来が訪れることをかすかに望んでいるようだった。母がどこかの大きな家でのんびりと暮らせるよう、ぼくは勉強をして偉くなろうと固くはないが、誓ってもいた。

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最後の火花 20

2015年01月29日 | 最後の火花
最後の火花 20

 公平というものを、ぼくはなぜだか常に考えている。

 光子はぼくの両親のご機嫌をうかがわなくてもよい。そもそも、そんな立場のひとがいないのだ。ぼくは反対だ。光子の後ろに陣取るひとたちを視野に入れる。ぼくの過去を美化もせず、肯定も否定もせず、ただありのままにさらけ出す。さらけ出すということに美しさを感じ過ぎるのもまた若さのもつ浅はかさであった。隠せるものは上手に隠す方が正しいこともあるのだ。手品師の黒い幕のなかでのみ待つ運命。

 このままいけば、姑というものが彼女には存在しない。小さないさかいもなければ、大きくもたれるということもしなくてもよい。そうしなくても人間関係など探せば無数にあるのだ。濃淡もある。関係性の網目からの逃亡もなく、同じ意味合いで災いもない。ぼくはののしられた分量と、誉められた分量を数えてみる。わざわざ、そんな手間をかけなくても答えはとっくに出ているものだ。これが関係のなかで生きている自分だった。

 役割が与えられる。学校で義務にともなう勉学をして、一定の水準までの知識を取り込む。ひとより際立ったものが欲しければ、より上の勉強をしなければならない。費用をかける。それに見合った給料を得る。そのやりくりを教えてくれるのが親だった。ぼくはその親身さを持続できなかった。だが、これは世界でぼくだけではない。地雷で足を吹き飛ばされる運命だってあったのだ。いくらか、ましじゃないだろうか。

 ぼくは想像する。光子が働いている姿を。その健気さを御曹司が見つける。爪をみがきながら。指先の光沢を陽にかざして。ぼくに勝った立場もない。固定した恋人という役割などないのだ。みんな仮の姿を恒久的なものとしようと励んでいた。

 この直接に関与できる現実と「いま」という時間だけが未来を創るのだ。無数の祖先とひとつの未来の命を結ぶぼくという役割。接地面。生存の連鎖ということを唯一のゴールにするならば失敗も成功も、優秀も不備もそれほど大差はなかった。だが、過去の女性はある重要なひとの先祖になる栄誉を与えられた。姑から離れない一点を固持したために。

 ぼくはその話の実際性を模索している。選ばれるという受動的なものと、選ぶという能動的なものの違い。その区分けの幅は大きく、あるいは視点を変えれば小さく狭かった。ひとは捨てることに躊躇すべきではないという話なのだろうか。得られる直前には捨てる。得られる可能性が芽生えたので失うことが恐くなくなる。新車が手に入るので中古車屋に前の車を売る。ローンに充当する。

 義理の関係でも真実に近付く、または上回る関係を構築できるという健全なアドバイスなのだろうか。ぼくは義理の父となるべきひとと相性が合うかもしれない。そもそも関係を選択するほど恵まれた人生でもなかった。山形さんはある日、消えた。手の届かないところで生活をはじめた。同時にぼくの生活も一変した。手品で一瞬にして物が消えるように。

 ぼくの親代わりとなった数人のひとは愛情を差し出すことをためらっただろうか。そんなことはまったくない。ぼくがここにいる限り、反論はできないのだ。ぼくは生き延びたのだ。どうにかこうにかという危うさではなく、筋肉も歯もあごも充分に発達した男性となるべく手をかけられて育ったのだ。

 過去は選べたのだろうか。未来を受け入れるのだろうか。動物は種をのこす。達成はあるのか。衝動だけで促されているのか。人間は次世代の生命をのこすことだけに価値を置いていない。歴史的な発明があり、医学的な、科学的な発見もある。何光年と、もうぼくでは計算できないほどの遠い距離の恒星を視覚でつかまえる。剽窃があり、無数の裁判に司る弁護士がいる。次世代の生命をその間につくる。喜びと犠牲と疲労を感じながら。

 御曹司は有利な立場にいるのだろうか。彼らや、彼女らもきっと、自分に見合った、家柄に応じたという基準を持ち出されるのだろう。種の優劣。ある女性は姑に付き従うという一点のみで祝福された。ぼくも一点だけを大事にしようと願う。

 その一点はどこにあるのだろう。ひとりの女性を途中から最後まで見守る。変化のないおとぎ話。結論から更新されない内容。その後もある。その後だけが重要なのだ。

 ぼくは親の了承を得る必要もない。年に何度か帰省する楽しみも面倒もない。日々の雑事のくりかえしが、人生のすべてだとも言えた。

 大きな転換など一生でそう多くない。ぼくにはとっくに起こってしまった。もうあれ以上の大変化は訪れないだろう。だから、ぼくの物語が仮にあるならば、あの地点が結末となる。ぼくのいまは書かれなかった続編であった。続編などヒットを狙っただけの出来の悪いものだと相場は決まっていた。それと比較するならば、ぼくの現状は美しかった。その美しさは、光子が持ち込んだものなのだろう。ぼくは彼女の親に会う。親というものが存在している日常に戸惑っている。彼女の小さなころの思い出を母は話している。ぼくのそのころを深く記憶しているひとをぼくは強く探した。もっとふさわしい表現があるはずだと頭の中味を揺する。探索。追跡。だが、答えが見つかったとしても、むなしい現実しか待っていないことも知っていた。

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最後の火花 19

2015年01月27日 | 最後の火花
最後の火花 19

 ひとはひとから影響を受ける。生き方の変更を迫られることもある。自分と違う名前を呼ばれたら返事をしなくてもよい。それなのに女性は軽々しく苗字を変えた。そのことを当時のぼくは知っていたのだろうか。自分もそう名乗っている苗字。疑いも挟む余地もない。もちろん、山形さんには山形という固有ものもがある。ぼくらとは別に。それをどこか別の地域のひとも使っているということも知らなかったかもしれない。山形というものでイメージできるのは山形さんの外見だけに限られていた。

 ぼくはひとりで家にいた。荷物を配達してくれるひとが来て最後に印鑑を押してほしいと言った。ぼくはその形には覚えがあるが、保管している場所を知らなかった。明らかに不服そうな顔をしながらも配達員は荷物を置いて行った。わざわざ、また印鑑は押してもらいにくるということだった。ぼくは母の帰りの時間を言う。その間にもう一軒、別の家に寄ってから戻ることにするらしい。

 家に帰った母も不満だった。ぼくの注意力の欠如についての不満。ぼくは次からきちんとできる。失敗こそが成功の近道だった。

 再度、配達員はやって来た。ぼくは朱肉をつけて紙に押した。彼は笑顔になる。後ろから母がやり取りを覗きにくるとさらに笑顔になった。そして、ぼくのことを聞こえるように褒めた。先程とは、明らかな変化だ。

 外で軽トラックのドアが閉まる音がした。数秒後にまた玄関のドアが開く。ぼくは立ち上がりそこまでもう一度向かった。配達員かと思っていると、山形さんだった。

「何か、荷物が?」

 ぼくは印鑑の件を話す。山形さんの職場にもあの配達員は来るそうだ。ぼくは会社の印鑑には、いったい誰の名前が彫ってあるのか想像する。自分もいつか自分独自の印鑑を自分で彫ってみたいと考えた。消しゴムのようなちゃちなものではなく。

 また夕飯の仕度が終わるまでぼくは山形さんと近くを散歩した。母はなぜかおとぎ話の鶴のように労働の姿をさらすことを嫌った。ぼくらは手伝うこともなく完成したものを見て食べるしか役割を与えられていない。慎みなのか傲慢なのか、見方によってはどちらにも取れた。

「人間はいっしょの時間に生まれて、いっしょの時間に死ぬことはできない。大きな災害があれば、いっしょの時間になくなってしまうこともあり得るけど。生まれたのはそれぞれで、生きた期間もそれぞれになるね」

「ずれている?」
「そういうこと。夫婦でも、どちらかが先に亡くなっちゃうこともある。あるひとの話だ」山形さんは川原の小石をつかんで投げた。身体を横にしての投法で、小石は水面を数回だけ出たり潜ったりした。「あるひとは息子を亡くす。お嫁さんにそれぞれ実家に帰るように提案したんだ。家族といっても、それぞれ別の家のしきたり内で育ったもの同士だ」

「みんな、どっちが楽しいんだろう」
「生活の基準って、大人になると楽しさだけでは選べないんだぞ。だから、帰ったものもいるし、帰らないことに決めるひともいるんだよ」

 ぼくは母が帰るべき場所を探した。もうそこはどこにもない気がする。母の台所はあそこだけであり、母の生活の土台もあそこだけだった。印鑑の置いてある場所。

「でも、どうして帰らないんだろう?」

 山形さんはぼくが結婚したという架空の話をした。結婚するぐらいだから、ぼくと仲が良くなるのは当然だが、ぼくの母とその女性が仲良くするのはなかなかむずかしいことなのだと説明する。ぼくが仕事をしている間に、そのふたりはケンカをするかもしれない。もともとは違う場所で、異なった順番で生まれたひとたちなのだ。時代も違う。時代が違うということは、考え方や大切にするものの順番も違うことなのだと山形さんは付け加える。

「ケンカというのにはいろいろな方法がある。いや、いろいろな出口だな。簡単なのは殴り合うこと。言い合うこと。ののしり合うこと。最終的には無視し合って、口もきかなくなる」

「いやだね。さびしいね」
「オレと、お前はうまくいっている。お母さんのことを両方とも好きだ。ずっとこの関係がつづけられるといいな」

 ぼくは、母を介在にした不思議な密接さのなかで暮らして成長している。育つのは土だけではなく、鉢のなかでも良いのだ。ぼくはその鉢ごとどこかに移される。その方が身軽で良い立場にも思えた。地中に根を張り巡らせるということも美しく強いものなのだろう。だが、ぼくはここだ。ここにいるのだ。

 帰り道になっている。家の窓から母が動く姿が見えた。

「そのお母さんから離れなかったひとは結局どうなるの?」
「貧しさにも負けずにけん命に働いていた。その姿をみそめて好きになる裕福なひとがいた」
「もう一回、結婚してもいいの?」

「いいんだよ、何度でも」山形さんは外の水道で自分の手を洗った。母は窓から顔を出した。
「できたから、戻っておいで」
「貧しくてもまじめに働くのは美しいものだよ」

 ぼくは山形さんの話のなかに登場した女性の映像を母の姿と顔にする。当然のこと、ぼくのもっとも身近にいる女性であり、それ以外の選択肢などぼくに与えられてはいなかったのだ。恋というものに悩まされる大人になるまでは、一先ずは。

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最後の火花 18

2015年01月24日 | 最後の火花
最後の火花 18

 自分は好きになるのに条件も基準も取捨選択もなかった。ただ台風の渦にのみ込まれ、そこから逃れるだけだった。ほんとうは逃れる必要もない。どこかに流されてしまえばよい。洪水となって行き着くところまで行けばいいのだ。

 法律に抵触することもない。日本にいるのだ。訴えられることもそれほど多くない。だが、小さないさかいがない訳でもなかった。

 法律と美。ぼくは美だけに観点を向ける。光子という美しい存在。では、なぜ美しいのか。美をどう表現して解釈するのか。美は破綻ではなく、制御であると仮定する。限りなく抑えられた平均値。これこそが美なのである。突出しない。際立たない。だが、美人は目立つものだ。ぼくの母はどこかで破綻していた。彼女も美しい側にいる。ぼくの仮定は否定される。

 ぼくの体内に美の幻想があり、それに合致するものを美だと認識する。すると驚異を与えるものはすべて美ではなくなる。これも当たっていない。解けない問題をずっと考えていると、ある日、解答が降ってくることもある。だが、美は回答でもなく、正解でもない。誤りや誤解だって美に該当する。一面の雪景色が美であり、夕焼けが美であった。抵抗も困惑も起こさせないのが美だと次の仮定をする。

 ぼくは美についての条項を作ろうとしているのだろうか。そうすると、美は外部でしか成り立たなくなる。内にも美が入り込んでも、居座ってもいいはずだ。ぼくの中に美はないのだろうか。漠然としたものや、口伝だけでは正確さを維持できない。厳格であればあるほど筆の力を要する。その厳格さだけがほとんどは生き残るのだ。厳格さを相手にも無節操に押し付ける。文で残っているものなので。

 美は厳格ではない。許容するものなのだ。しかし、跳ね除けるのも美である。完成が美であり、途中も同時に美である。途中が醜でも美に転換する場合もある。

 美は自由であり、暇であり、怠惰なものだ。美は準備に過ぎず、笑顔にするものだ。美は肯定であり、サイレントであり、手垢がつかないものたちだ。美は犠牲でもあり、なけなしの財産とも交換する価値のあるものだ。美は余剰でもあり、贅沢の一部の中でしか存在しない。美はスピードであり、滑走であった。美は下り坂であり、上り坂で苦しむなかで見る側道の花である。美は無意味である。現実の生活は汚れた手を石鹸で洗うことだけで成り立っている。

 美は僧服であり袈裟であり、儀式である。美は切腹であり、誤解である。美は富士山だけであり、実際は、汚れたものの捨て場所である。美は下ろし立ての下着であり、個性と相容れないものだ。美はキュビズムであり、忘れられた最後方の手法である。美はレンブラントの光であり、同様にレンブラントの陰影である。

 美は無駄口のなかにキラッとひかるものであり、無駄口は醜そのものである。美は市川雷蔵が刀を振り回す姿にしか宿らない。

 光子はすべてを有していない。だが、美のそのものでもあった。新品の下着の有効期限など短いものだ。美はにきびのない顔であり、コマーシャルの題材である。同じ意味で美は植毛である。

 美は橋の強度とデザイン性のわずかな差のなかにしかあり得ない。美は海峡のなかにある渦である。そこに飛び込むことで美が体現される。

 美は無数にあって、表現はひとつの美としか呼び名がない。美は潤いであり、乾燥である。砂漠も美であり、南国の密林も美である。そのどちらにも敷衍され、展開する法律などあるはずもない。美は普遍ではない。美は片意地なまでに独自である。

 ぼくは教えられ、しつけられたから育ったのか。その規定は今後も生きつづけるのだろうか。ぼくは儀式ではない。儀礼的な人間でもない。本質に到達したいと願っている。糸くずのような表面的なものにはこだわりたくない。だが、表面の結集がそのひとのすべてと近いとも知っていた。

 美は目次であり、最終ページのなかだけにあるものである。美は熱であり、限りなく冷酷なものである。

 光子は寝て、起きる。どちらも美のなかにいる。するとまぶたの奥の瞳は無関係のようにも思える。だが、美は瞳である。黒目と白い部分のバランスが美そのものである。

 美は色彩だった。それにしても白黒の写真も美しいものだ。美は午後の気怠さのなかに生き、朝のきびきびした労働のみに住まう。夜空の月が美しさの源であり、青い空と白い雲が美の最高峰である。光子は美であり、二十年後も美人なままだろう。ぼくの母が美の源流であり、そこから産み出されたぼくも美を継承している。だが、ぼくに美しさなどない。鍛えようとも思わない。ぼくはぼく自身であり、勝手に生きる術を自分で編み出してしまった。その毛糸のひとつひとつ自体がすでに汚れている。当然、それで作られ、複製されたものは美から遠退く。ぼくに美は介在しない。ちょっともない。ないままでいてほしい。だが、美を求めている。困窮している。美は満足を与えない。不満の要素をのこす。光子の瞳を見る。美しいものに映るぼくは紛れもなく美である。美に包まれる。抱擁される。美は一体となる。すなわちぼくが美である。

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最後の火花 17

2015年01月21日 | 最後の火花
最後の火花 17

「また、忘れてる」と母の声がする。それはどうやらぼくに向けられての発言らしかった。ぼくは注意される事項があることすら忘れている。忘れているという状態の本望を享受する。気付いていれば、どう転んでも忘れることもできないのだ。

 怒りの矛先がぼくに向かってくる前に、山形さんは仲裁に入ってくれて母をなだめてくれた。ぼくは、母の怒りが届かない領域の外へ連れ出され、山形さんに注意とアドバイスをもらう。

「やることを箇条書きにするといいよ」
「どういう意味?」

 彼は説明してくれる。そして、やってはいけないことも同様にするといいよと教えられた。

「世の中は、実際にはそういうもので満ちているんだ。法律とも呼んでいる。みんなが集団で生きるためのルールとして。最低限の」彼はことばを止める。「最低限かどうかは誰も分からないな」

 ぼくらはしばらく散歩をする。その間に夕飯は作られ、母の怒りも消える。もしかしたら、消えないのかもしれない。再燃する可能性もある。ぼくは、箇条書きというものを紙に書き付け、部屋中に張り巡らせようと想像する。書道教室のなかのように。ひなびた中華屋の壁面のメニューのように。

 母の怒りは消えていた。自分の料理の出来具合いに満足らしい笑みを浮かべていた。ぼくは箇条書きということだけを考えている。法律。

 ぼくは夕飯後、明日にやらなければならないことを書いた。歯磨きと洗顔などをふくめたら無数になってしまった。山形さんはそれを覗き見て、要点ということを教えてくれた。ぼくはその境目を難しく感じている。

「いつもと違うことだよ。絶対に忘れてはならないことたち」

 それらを詳細に点検すれば、ぼくにはほとんどなかった。だから、忘れるのだ。自己流という年齢でもない。その度ごとに教えられ、その度ごとに実施する。それしか解決はない。だから、子どもなのだ。

「おじさんには? 忘れないの?」
「大人はこころのなかにちょっとしたメモ帳があるんだよ。逆に忘れられなくなることも多くなるんだけどな」山形さんはグラスのなかにあるお酒を飲んでいる。「これで、もしかしたら忘れられるかもしれないぞ」

 メモ帳という便利なものがこころにあるのだ。それでは子どもと比較にならないぐらいに賢くいられるだろう。

 ぼくは次の日に友だちと遊んだ。ぼくの持ち物を友人はなくしてしまう。今度は母は責めることをしない。代わりに山形さんはここでもメモの効用につなげていた。

「大人は約束とか取引とか、とても大事なことを文章にしてふたりでもっておく。なにかあったらそれを証拠として、請求したり、支払わなければならない。子どもたちは、そう目くじらを立てることもないけど。情報だけでものこしておくから、いつか役に立つかもしれないな」

 子どもは忘れて、なくした。大事なものもそれほど多くはない。代用も利いた。いつか逆転して、母の忘れたことに注意できるようなしっかりとした人間になれるかもしれない。そのときまでは随分と日数がかかるだろう。その間は、自分だけに注意をはらえばいいのだ。簡単なことだった。だが、それもとてもむずかしい。

 友だちは代わりにひとつのおもちゃをくれた。取引ということばも知らない時期だった。損失と補てん。埋め合わせ。

 さらに次の日、山形さんはお酒と醤油の空の瓶をもっている。ぼくはいっしょに歩いていた。空になったものに注ぎ足してもらうのだ。

「ある役割になると、さまざまな規定ができる。お酒を造るのにも免許があって、料理を出すのにも権利とか届けとかが必要になる。いちいち覚えることもないけど、役目には役目なりのルールが世の中にはあるんだ」

「おじさん、なんかもってるの?」
「工場で必要だったから、若いときに資格をとった。それがあるから、いまのところで働けるんだ」
「ぼくは、なにが向いているかな?」
「そうだな」山形さんはぼくの長所を並べた。自分の魅力が長いとか短いで分類されることをぼくは不可解に感じる。

 店に入って、お酒や醤油の瓶が満タンになる。ふたを閉め重くなった瓶をぼくは一本つかんだ。
「落とさないようにしろよ」

 集中すると周りのものが見えなくなる。ぼくはいつものきょろきょろした目を町のいろいろなものに向けられない。指と足の動きと瓶の揺れしか考えられなくなる。山形さんはのどかそうに口笛を吹いた。ぼくも同じことをしようとしたが、かすかな息がくちびるを通り抜けるだけだった。

 家に着き、重い荷物を玄関のうえに置いた。母は台所に運ぶ。ぼくの役目は終わる。また靴を履いて表に出かけた。ぼくはきょろきょろとしてあらゆる物を見る。電気を各家庭に運ぶおおもとの場所はフェンスで囲われている。そこに注意書きがあり、誰がなかに入れるかを示しているようだ。山形さんの意見によれば、その資格あるものだけが入ることができ、触れることができた。ぼくはただ上空を眺める。電気というものは見えないのだ。だが、電線は見える。危険なものでありながら、ぼくらの夜を照らしてくれる。母も、ぼくのこころを照らしてくれる。

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最後の火花 16

2015年01月19日 | 最後の火花
最後の火花 16

 光子は船のうえからカモメに向かってスナック菓子を放り投げていた。それらは器用に動いて自分のくちばしのなかに納めていた。ぼくらは海のうえを周遊しているだけで時間がくれば元の岸辺に戻ることになる。自分の存在も立場もまったく変わらない。鳥の餌になった菓子の分だけ身軽になるだけだ。

 陸に着く。船の揺れの影響か、かすかに地面が動いている気がする。錯覚なのだろうが、その事実は錯覚以上のものになって現実に到来する。受けた印象やダメージがそのままの事実であり、客観的な判断など自分にとっては無意味となり、無効となった。

 母はあの日、空のカゴだけを見て、ぼくらの仕事ぶりを憐れんだ。ぼくも山形さんもクワガタを逃がしたことを伝える機会を失っていた。だから、ぼくたちは数時間、山のなかをさまよっただけのことになる。事実は違う。ぼくは舟にクワガタを乗せ、さらに他の数匹も手放したのだ。

 自分も小舟に乗って、たまたま拾ってくれたひとに育てられたのと大差がない気もする。ぼくは選んでいない。能動的に選んでいない。母は一年近く、ぼくをお腹のなかにおさめていた。愛情も育ち、以前の自分から徐々に変化する喜びもある。分身に話しかけることも無数にあっただろう。ぼくはどれひとつも覚えていない。母の声の記憶は、三才ぐらいからのものだろうか。だから、十年にも満たないのだ。そして同じ年数近くが経てば、その実際の声も失われてしまっている。得ているのは、ぼんやりとした面影のみだ。

「餌をあげたら、わたしもお腹が空いた」という論理的ではない意見を光子は言う。

 ぼくらは歩き出す。観光地という普段とは隔絶した場所だが、肉体的には普段とまったく同じことが起こる。眠くなり、空腹になり、いくつかの欲望が起こり、それを受け止めてもらう。新鮮な驚きがあって、いつもと同じ愛情もある。

 ぼくらは寿司屋に入った。海の近い場所は新鮮さが違う。どんなに流通が発達して冷凍技術が向上しても現場の近くにいるということは幸福なのだ。ほんとうは遠いどこかの工場から運ばれていたにせよ、そうした錯覚は常にひとの感覚を上回った。

 ぼくは思い出せなくなる。そもそもないものだって多いのだ。ないものは追加されない。母や山形さんの寿司の握りの好みなどぼくは知らない。親子であれば似たようなものが好きになる傾向もある。疑似の親子の味覚などにどれほどの相違があるのかは計りようもなかった。味覚というのは先天的なものだろうか。それとも、後天的な度合いがより深部まで達するのだろうか。答えは欲しいわけでもない。答えはなくてもかまわない。ただ、誰かとそうした無意味なことを話し合いたかっただけだ。とくに不在になってしまってからは。ぼくは頭のなかで幾度もそういうつまらない質問のやり取りを繰り返した。その行為が自分を内省的にした。

 二貫ずつ目の前に並び、ひとつずつ食べた。途中で光子は脱落して、ぼくはさらに四つの貝を追加した。魚と数百粒のご飯だけで仕事ぶりが異なる。熟練するには無数の魚がさばかれる。反対に若さのみが魚には大事なのだ。光り輝くうろこ。生きのいい丸い目。

 ぼくらはまた観光地を歩く。彼女は夜ご飯のメニューを相談する。ぼくは考えたくもなかったが、同意をしたり否定したりする。この満腹も永遠ではない。持続しない。カモメも誰かの投げたものを明日も待ち、遊覧船のそばを飛び回る。衣食住の一部を人間に依存している。ぼくはあの日々、すべてを依存していた。子どもというのはそういうものなのだ。ぼくは彼らに反抗する機会もなかった。母に従順ではないこともできなかった。ケンカも口答えも愛情の一部なのだろう。ぼくは完全なる保護のもとでそれらを行えなかった。だから、心配もなく刃向うこともできない。ぼくは内省的になるしかないのだ。

 ぼくは言い訳をしている。誰に説明する理由もないまま言い訳をしている。ぼくは頭のなかだけで会話を組み立てることに馴れてしまっている。

 ぼくらはベンチに座る。聞きなれない時計のチャイムがなる。四時になっていた。だが、夜に向かっている感じもなく、完全な昼であった。

 光子は案内所でもらった簡易なガイドブックを見つめている。楽しむためには、誰かの誘導とヒントが必須であった。いくつかの店があり、博物館もあった。ぼくらは立ち上がってそこに向かう。虐げられるということがぼくには分からないらしい。ぼくは幸福だった。美しい女性が腕をからませてくる。楽しそうに話しかけてくる。ぼくは無言でいた子ども時代が長すぎたようにも感じていた。自分は冗舌にも無口にもなる可能性があったのだ。無駄なおしゃべりを愛し、親子で腹をかかえて笑い合うこともできたのだった。だが、過ぎたものに変更を加えられない。最後に来る幸福とか、最後に振り下ろされる不幸というようなことをあの山で山形さんは言った気がした。途中も大事なのだ。潮風を横顔に感じ、きれいな女性と歩く途中がとても大切なのだ。その途中経過をずっとずっと長引かせたかった。最初も最後もない観光地という仮の地で。

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最後の火花 15

2015年01月17日 | 最後の火花
最後の火花 15

 ぼくは捕まえたクワガタを手製の舟に乗せ、水のうえに浮かべた。バランスが悪くユラユラとしていた。しかし、転覆する事態までには至らない。だが、もし落ちたとしてもカゴのなかにはまだ数匹いた。ぼくは目を離して、現場に背を向け、もってきた水筒の飲み物を飲んだ。

 そのちょっとした隙に舟は手の届かないところまで運ばれてしまった。ぼくは棒を探す。手頃なものがなく、段々と遠ざかってしまった。すると後ろから山形さんがもう少し長い棒を探し、舟のへさきにひっかけてクワガタを救ってくれた。

「大事な一匹」と彼は言った。

 ぼくはクワガタを取って再びカゴに入れた。その行為を昆虫がよろこんだかは分からない。どちらにより自由があるのだろう。ぼくは自分が舟に乗ってどこか遠い地まで揺られていく姿を想像する。バナナがたわわに実る南国。雪に閉じ込められる冷たい国。適応するのにいちばん大事なのは食べ物だろうか、それとも、ことばだろうか。風土と暑さ寒さの加減のこともある。しかし、もうそれ以上考えを巡らすには、自分の経験はすべてのことで不足していた。

「むかし、男の子が小舟に乗せられた。男の子といっても赤ちゃんに近かったのかな。たったひとりで。主張もできない赤子が」
「どうして?」ぼくは期待と不安をその映像に貼り付け、魅せられていった。
「赤ちゃんが生まれすぎた。のぞまれない人々の側で」

「お母さんと離ればなれに?」ぼくは父親というのを口にするのを躊躇する。
「先ず、拾ってくれたのが裕福なひとだったので幸運だった。さらに本当のお母さんも乳母として雇われることになった」
「乳母って?」
「親身になって育ててくれるひとだよ」
「自分のことを明かさないの?」

「訳があって手放したんだから、言い辛かったんだろうな」山形さんはカゴに指を突っ込み、クワガタに挟まれるフリをした。「身分のいい家に生まれたり、身分のいい家で育てば、同時に身分も無条件に付与される」
「幸運だったんだね」ぼくは、はじめてそのことばを使ってみたかった。幸運という比較を条件とすることばの真の意味合いをぼくは知らなかったのに。

「でも、そうは簡単じゃなかった。自分が大人になるにつれ、周りの家族と違うことが分かりかけてしまう」
「分かるとどうなるの?」
「虐げられる側のひとがいて、その状態に感情移入をして許せなくなるんだ。そうならないひとも、もちろんいっぱいいるけどな」
「なった方がいいの?」

「そうだろうな。そちらの方が優しいんだろうな。優しさを実行するには頑張りと勇気がいるかもしれないけど」

 ぼくには優しいという無償の態度を、肯定的な行動に転換することができなかった。そして、急に昆虫というものがカゴに入れられるのを望んでいないと思ってしまった。だが、一度つかまえたものを簡単に逃がすこともできずにいた。

 ぼくらは水のそばを離れて山道を歩いた。落ちた草花を踏む感触と音が快かった。たまにぬかるみもある。ぼくらは同時に避けて、またくっついて歩いた。

「また、何か話をして」とぼくはねだる。ひとの声というのを聞きたかった。
「残虐なことを見るに見かねて、自分を抑えられなくなってしまう。それを衝動というのかもしれない。理性でうまく抑えられることも賢いが、そんなように人間は作られていない。機械じゃないんだから」

「ぼくにも来る?」
「来るかもしれないな。もし、卑怯な方法でクワガタを捕ったんだろう? と、もし、訊かれたら」
「正直にいう」
「たまに、正直が通用しない社会もあるんだ。もちろん、そこが正しい場所ではないのは気付いているんだが」

「それで、衝動を試す?」
「衝動は試さないよ。勝手に出口を探すんだ」
「でも、悪いことなら罰せられるよね?」ぼくは母が何度となく使う罰ということを覚えていたし、どこか高いところに供えてもいた。
「罰は直ぐではないのかもしれない。最後の最後に訪れるのかもしれないよ。反対もありそうだな。幸せも最後に来てもらえると、うれしいだろうな」

 ぼくは頭を撫でられる。最後というのはどこを指すのか考えていた。ぼくはおじいさんになる。順当にいけば。すると、母も山形さんも存在しなくなる。順当にいけば。そこでぼくは幸福を見つけなければならないのだ。母のいない幸せ? そんなものがぼくにあるのだろうか。それを幸せの土台として規定してもよいのだろうか。クワガタにも母がいたのだろう。ぼくはどうやっても親子や兄弟を見分けられない。この虫たちは、自分たちの関係を認識しているのだろうか。山が終わりそうなときに、ぼくは全部を逃がしてしまった。自分たちの場所がある。ぼくの場所は母と山形さん以外のものを許容するには狭すぎるのかもしれない。

「逃がしちゃっていいのか? 捕まえるの大変だったのに」
「また来年、捕まえるよ」
「もう興味がなくなってるかもしれないぞ」と山形さんは優しい口調で言い、いままで握っていた長い棒を藪のなかに放り投げた。木にも名前がなく、それぞれ別個に名付けなければ、呼ぶものに愛情を示せないことをぼくは知ろうとしたのかもしれない。

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最後の火花 14

2015年01月13日 | 最後の火花
最後の火花 14

 真実が寿命をまっとうする。真実の延命措置をする。真実に生命維持装置をとりつけ、終局までの時間を長引かせようとする。

 その後も、ぼくが生きてきたなかでは海は割れもせず、干上がることもなかった。だが、こころは割れ、からからに干上がり、燃焼して、灰になるようなこともあった。経常的に潤うべき器官なのに。真っ二つという凡庸な表現が似合うこころたち。割れたので元通りにするまでは複数形だ。

 光子はプールで泳いでいた。優雅に泳ぐには幼いころからの定期的な訓練があるのかもしれなかった。教育や塾にお金をかける。予算内でやりくりして大人になるための準備をする。結果はどうあれ施すということが愛情なのだ。

「いっしょに泳がない?」と、光子は水のなかから手だけを伸ばして、ぼくを呼び寄せた。
「いいよ。疲れた」
「いいから、ほら」

 ぼくはタオルを横たわっていた場所に置き、そのまま水のなかに入った。ぼくの胸には期待していたわけでもないが、毛が生えるようなこともなかった。肩周りも肉体を酷使して生活したほどには発達しなかったが、劣っているわけでもなかった。その運動が収入に化けることもなく、ただのスポーツの効用がのこっただけだった。

 母は美容にお金をかけたこともなかっただろう。ぼくは光子の持ち物である鏡の前や風呂場に散乱しているあらゆる小瓶を頭のなかに並べた。きょうもスーツケースのなかに小さな容器に入れ替えてもってきていた。その結果がぼくを喜ばすのだ。あと数人の男性も喜んでいるのかもしれない。

 海は割れなかった。そう思っているとビーチの方から瓶の破片で足を切ったという声が聞こえた。きれいな砂浜にそのような欠けらも見られなそうだが、事実は事実だ。血が出て、そして、出血を止める役目に変わる。その物質のたちまち起こる素早い変化をぼくは不思議なことと感じていた。
 直ぐに喧騒は去り、また太陽の下で寝そべった。

 海は割れなかった。ぼくは執拗にそのことばを頭のなかでこだまさせる。逃げるということが必要な状況もなかった。逃げたのは幸運であり、親という存在だった。あの美しい海での日々だった。それが前半であり、ぼくは中盤に光子といる。平均をとれば、そう悪くもなかった。

 うそを生き返らす。うそに生命を与える。うそをけん命に引き延ばす。うそは別のルートを勝手に見つける。ほんとうのことが分からなくなる。うそだけが、真実に似たものとなる。ぼくはいない親の存在に対して、たくさんのうそを身代わりとして、生命を吹き込んだ。だが、うそは干上がる運命だった。ぼくは真実もうそもない大人になった。同時に未来に期待という余白を、パンの耳のような部分を付け加えられなかった。等身大しかない大人。青年。

 ぼくは、はじめて光子からもらったプレゼントに驚いた。驚きは喜びを隠してしまった。だから、ぼくの気持ちは不満という風に決めつけられた。

「ほんとうにうれしいなら、うれしい顔や声をするもんだよ」
 と彼女は怪訝な様子で、自分の愛情の表し方と結果の差を埋めようとしていた。
「馴れてないから」
「じゃあ、これから馴れればいいよ」

 ぼくは馴れることにする。そう思わなくてもよかったのだ。現在というのは強力な磁石だった。いつか、この力が離れてしまったとしても、この誘引力のために、なかなか訪れるとは考えられないでいる。ぼくは、この快適さにひきつけられていた。多少は、プレゼントを贈る際のすがすがしさも知った。

 ぼくは窓から海面を見ていた。遠いむかしにカニが歩いて、ぼくの家までやってくることを想像したことがあった。サーフィンをしているひとが、そのぐらいの小ささで海に浮かんでいた。彼らも海がないと困る。逃げるところもない。ただ浮かんで波に上手に乗るのだ。無数の波。無数の挑み。

 浴室でプラスチックの容器が落下する音がした。水は停まった。ぼくはTシャツを脱ぎ、暗くなった窓に反射させるように自分の身体を投影させた。この身体があるから、ぼくは光子を愛することができ、また愛される可能性も生まれたのだ。ぼくの身体が、ぼくのこころを運ぶ。光子の気持ちがぼくを受け入れる。彼女もぼくのことを考える時間が生まれる。そのぶつかりという衝突があって、すべてを呑み込むように、割れた水も元通りになる。ときにはさざ波立ち、ときには穏やかになる。ぼくの後ろにバスタオルに包まれた光子が映る。

「暗くなってきたね」

 窓の外は夕陽の最後のような場面だった。室内はエアコンが効いており。外の暑さを忘れられていた。あの旅館で眠るのも億劫になるほどに暑かった夜のことを思い出していた。それでも、子どもの眠りなど簡単なものなのだ。爪楊枝を折るぐらいの力で、ぼくの眠りの入口の杖も簡単に折られた。次の記憶は朝に母が鏡のまえで身支度していたことだ。ぼくは部屋のそとのトイレに行く。仲居さんが、
「お父さん、ハンサムだね」と軽快に言った。ぼくは答える代わりに恥ずかしそうにトイレまで走ってしまった。その着物姿の女性は声を忍ばせることもなく、割れるように、破裂するように笑った。

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最後の火花 13

2015年01月06日 | 最後の火花
最後の火花 13

 母は水着を着ていた。小さなサイズのビキニだった。山形さんの胸には少しだけ毛があった。ぼくもその年だけしか履けない水着を着ていただろうが、柄自体にも無頓着だった。おしゃれなどとは無縁の時代だ。

 海は広かった。遠くで船の汽笛の音がして、一層のどかさを深めていった。ぼくはこの夏に泳ぎをおぼえたと言いたいところだが、その後もなかなか上達しなかった。簡素な造りの海の家で食べたラーメンの味が郷愁の原体験のようにも感じられた。

 母は大きな日傘の下で背中を向けて寝ていた。背中だけでは結婚しているのかも、母という立場であるのかもまったく分からない。しかし、濡れた身体でただ歩いているだけでも、若者そのままの姿であった。

「海が割れたことがあった」と、唐突に山形さんが言う。
「そんなことないよ」とぼくは即座に否定するが、反論も論ばくもない。ぼくはこの海にいる快適さを全面的に信じていた。壊れたら困る。

「地面も見えたんだ。刑務所のすき間の幅が広まるように。そうすれば脱獄も簡単だな」山形さんは囚われるという状態を説明しようとした。しかし、ぼくにはそこに入るそもそもの原因が理解できずにいた。「ひとはルールのもとに生きる。ルールは不自由なものともなるが、みんなが好き勝手をしたら、世の中、めちゃくちゃになる。例えば、海では水着をつける」

 ぼくはあたりを見回す。ルールという大まかなことばが海には不似合いと感じている。

「なんで、地面が見えないといけないの?」ぼくは山形さんを信じていた。疑うという行為が芽生えないようにしている。
「そうだな。この海に来て、旅館も楽しいけど、やはり、よその場所だ。自分の家ではない」
「そうだね」ぼくには、あの家に服もおもちゃもすべてがあった。

「だから、帰らないといけない」
「でも、しばらくいたいな」ぼくは母が泳ぎが堪能なことをはじめて知った。ぼくは山形さんと同じものを見ている。見るは所有でもあり、また所有ではない。山形さんの小さな笑い声がする。ぼくはジュースを受け取ったが、手間取ったため山形さんに戻して缶を開けてもらった。

「もし、旅館の代金を払わなければ帰してはもらえない」
「そうなの?」
「例えばの話だよ。もう清算は済んでいるんだ」
「よかった」

「新しい場所に行かないと出会いもない。オレが君らに会ったように。もし引き留められても、行かないといけなかった。どんなに追い駆けられても」山形さんは水平線を見ていた。「大人になると分かるかもしれないけれど、権力者という力を振り回すものがいて、理不尽になればなるほど、自分の権威を正当化させて威張り散らすんだ。絶対にそういうものだけには、なってはダメだぞ。遠いむかしに、そういう境遇の男性と一団が海を割って逃げた」

「自分の力で?」ぼくは力というものを無意味に、不用意に使いたくなった。
「自分の力じゃどうにもならないよ。見てごらん、波のひとつでさえ防ぐこともできないんだよ」

 ぼくは目の前にないものを想像するということに挑もうとした。その為に、話には説得力があるのが不可欠で、結論をいえば、山形さんの声にはそれが充分、含まれていた。

 母の髪の毛から滴が落ちる。それは塩辛いはずだが、そういう感じは受けなかった。どこまでも清らかな水であり、透明であった。
「もう一生分、泳いだ。お腹も空いた」
「もう帰るか?」山形さんがぼくと母に訊く。

「いいよね。身体も日に焼けすぎだよ」と母がぼくの背中を撫でた。ぼくはふたりの身体を見る。山形さんの胸のように、ぼくもいつの日か、毛が生えるのか想像して自分の同じ部分を触った。想像ということをその夏に教えてもらったのかもしれない。目の前のものとは違う一面や、異なった結果。ぼくは未来という感覚をまったく手にしていない。いましかなく、この海しかなく、この夏しかなかった。だが、子どもにとってそれ以上大切なものもないはずだった。

「海が割れる」とぼくはか細い声でひとり言をつぶやく。

「割れたりしないわよ」母は素っ気なくいう。事実というのは空想を働かす必要もない。ぼくは事実というのもとても大事なものであることを知る。山形さんがいて、母がいるというこの事実。ぼくは両手をふたりに差し出す。だが、直ぐに後悔する。足元にカラフルなカニがいたのだ。ぼくは両腕をうえにもちあげたままで首だけを下方に傾けた。

「持って帰れるかな」
「ここにいるからいいんだよ」山形さんはぼくの軽すぎる提案に賛成しなかった。

 ぼくは割れた海をゆっくりと歩いてそのカニの集団がぼくの家の近くの海まで横歩きをしている姿を想像した。それは長い年月がかかりそうだった。随分とかかってしまう。長時間、海は不自然な形をとっていなければいけない。するとカニだけではなくあらゆるものがそこを利用してしまう。

「この夏を忘れないでね」母はぼくに優しく語りかけた。ぼくはさまざまなことをついつい忘れてしまった。言い付けを忘れ、お買い物の内容を途中で忘れてしまった。うっかりというものが入り込まない地点をどこかに作ってみたいと願ったが、その作用はぼくだけの問題ではなさそうだった。

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最後の火花 12

2015年01月05日 | 最後の火花
最後の火花 12

 東京の空を飛ぶ鳥は、賢さを十分に発揮しないと生き延びられない運命にあるのかもしれない。冬を越すには、山の豊かな恵みよりもゴミを漁るのに長けている方が、効果があった。人間も同じようなものだろう。詐欺をして、法の目をくぐりぬける。欲望の捌け口を探して、空気の悪さや水のまずさを受容し、許容する。でも、化粧と夜中の人目のつかない清掃と闇の数字の操作ですべてをごまかせる。

 一枚しかのこっていないぼくの母の写真を見て、光子は驚いている。ふたりは似ているのだ。ぼくは選ぼうと思いながらも選択は表層的な好悪とこだわりではなく、もっとぼくの深い(痛みにまで達する)ところの希求と選別に従っているだけなのだ。無理は承知で、こうして失われてから、得られるものもある。

 ぼくは宝物を校庭に埋めたできごとを覚えていた。だが、中味はどんなものか、その場所がどのあたりだったかも思い出せないでいた。いまなら自分は何を埋めるだろうかと考える。それでも、大人はそのようなまどろっこしい行為をしないことを知っていた。大体は、銀行にある。もちろん、手元にあるものが最も重要なものたちでもあった。

「これしかないの?」
「ないよ」
「一枚じゃ、似ているかどうかも正確な判断はできないね」

 ぼくらはふたりが似ているという前提で話すことにしてしまっている。ぼくの脳は、その写真がなければもっと違った母の実像を作り上げてしまったかもしれない。より洗練され、より美化した形で。もしかしたらまったくの反対かもしれない。写真を元手にぼくは立体的なものとして再構築できるのだ。なければ、忘却しか訪れない運命にある。埋めたままで忘れた去年の木の実のようなものとして。

 誰かがいたから設定値の枠が生じ、誰かの教えやしつけがさらに範囲を決め、無数にあるものから選び取れることになる。ぼくは親許から離れ、ひとりで育つことになった。ぼくの能力や特徴を見極めてくれるひとにも出遭わなかった。認められる才能がそもそもないのだから仕方がない。その少ない受け分を励ましながら育てようという愛情に溢れたひとはもういなかった。一枚の写真と数々の記憶しか残すことはない。

「光子の父親とかに、ぼくは似ているかな?」
「本気で?」この後に、訊いているのという言われなかったセリフがつづくのだろう。
「似ていないことぐらい知ってるよ、自分でも」
「あなたは、誰にも似ていないよ」

 一枚しかないものは複製やコピーができても、他のものを生み出すことはできない。

 むかしの英雄には再会すべき家族がいた。再会のよろこびを分かち合える兄弟がいた。ぼくのあの時期を覚えているひとは皆無だった。ひとは他人に証明できないことを真っ当に信じている。すがるように信じていた。

 川は汚れていた。プラスチック製の空の容器が浮かんでいた。うすい赤のふたも見える。風化でその色になったのだろう。木にはビニール袋が引っ掛かっており、風が吹くたびに不気味な音を放った。生きるということの真実の一面がここにもある。地面から掘り返した物質で文明をこしらえた。

 それでも、美しいものが周囲にあることを望んでいる。ぼくは光子を選ぶ。美の代表者であり、代弁者として。ぼくは彼女の写真をもっと撮ろうと思うが、その機会は旅行とかなにか特別なことがなければ日々、可能性が失われていく。手元にあるものに、複製はいらないのだ。それほど、保険をかける必要もない。

 ぼくにはコレクションもなく、貯めたものもない。嗜好品を愛するようになるのが大人なのかもしれない。凝ったデザインの腕時計を集め、コーヒーを入れるためだけにある器具を揃える。簡便に済ますということだけに成り下がれば、人生の色合いが消える。ぼくは子どものままであることを奥底では望んでいた。あの日々を。カケスのように地中に埋めて。

 無駄なもの。用途が限定されるゆえの美。汎用品ではないもの。

 地位や役職がその最たるもののようにも思える。ぼくに大掛かりな役割はない。誰かが規定したのだ、ぼくの人物像を。母を奪われたもの。父という家族の柱を第三者に委ねた家族。

「自分のも少ないね?」
「撮ってくれるひともいなかったからね」

 ぼくはカメラを残酷な機器だと決めつける。愛すべきものの一瞬を切り取るもの。その対象から外れれば、その機械は身近なものから遠ざかる。
「これから、撮ればいいじゃない」明るく、朗らかに光子はそう言ったが、写真などは過去の集積であった。未来の誓いではない。願望でもない。ありのままの、薄汚れた、あるいは光り輝く過去であった。
「そうするよ」

 誰かの成長の記録。失われた年月。むかしの英雄も外国での高い地位より、むかしの写真を並べてあれこれ言い合った方がどんなに良かったのだろう。ぼくは天秤にのせる。過去の写真ですら幸せの証しになるのだ。山形さんの写真。紙面を飾る写真。忘れてしまおうと望むだけだった過去。その過去に緩やかな川の流れのように追い駆けられている。目の前の浅瀬のゴミ。蹴飛ばしても遠くに行かなかった。

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