爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
http://snobsnob.exblog.jp/
へ変更

償いの書(88)

2011年07月31日 | 償いの書
償いの書(88)

 仕事から家に帰ると、裕紀はテレビの前で泣いている。テレビのドキュメンタリー番組を見ていて、アジアの少女が安い労働力として駈り出され、働かされている。それに憤慨し、また無力や絶望感をいだき泣いている。ぼくもカバンを置き、ソファの横にすわり、仕事のときと同じスーツ姿で後半を見た。彼女の涙は止まらず、ぼくもそれに同調した。たまたま、日本に生まれ、ぼくらは恵まれた生活を送ってきてこられた。今更ながら、高い教育を与えてくれた両親に感謝し、その途中で会うことができた友人や、素晴らしいひとびとからの愛情を思い返した。彼らの何人かは、ぼくのことを心配したり励ましてくれたりした。いつも、一緒にいてくれた数人にはとくに感謝している。それは、裕紀であり、また雪代でもあった。ぼくも彼女らの思い出があるならば、彼女らのこころのなかにもぼくは居座り続けるのだろう。そういう根本的な喜びをしらないまま、アジアのどこかで安価な労働の代償として、青春を奪われるひとびとがいた。でも、それはどこかテレビの向う側の話になりかねなかった。

「ごめん、ご飯にするね」
「いいよ、散歩がてらどっかで食べようか?」
「そう? なら着替える」
 彼女はとなりの部屋に消え、数分後にでてきた。ぼくは、彼女の少女のころをそこに見つけようとした。まだ、誰も愛したことはなく、愛の対象は猫や犬や人形である、というような存在として。しかし、見つけられそうで見つけられなかった。時間は現在という体系に執着した。ぼくも、いまはそこだけにいた。

「どこにする?」彼女は後ろを向き、鍵を閉める体勢できいた。そういっても、ぼくらの町にそう選択肢があるわけでもなかった。数店舗のうちのどれかだった。
「あそこでいいよ。パスタとサラダがあれば」
 彼女は手をつないできた。彼女はそういうことにずっと恥じらいを見せなかった。それは、ぼくらに子どもがいないせいだとも思えた。ぼくらは親という状態にならないことで、互いを必要とする関係に留まっているようだった。第三者は介入せず、ぼくらはお互いを見つめ合った。裏切ることはできず、それはたまにはしたが、ぼくらはずっと相手のことを優先させるようにできていた。

 裕紀の指は、華奢であった。安価な労働力の餌食になることもなく、自分の語学で仕事を得ていた。ぼくは、いくつかの仕事とは無縁になりつつある資格があったが、どうにか、スポーツで得た体力と人間関係のもとで暮らせていた。ぼくの周りの何人かを浮かべたが、みな、それぞれの個性を生かすことが、そこそこにはできているようだった。

 5、6分で店に着いた。ぼくらは座席に案内され、メニューを渡された。
「いまの子、見た?」裕紀はバイトの店員の方を見ながら、訊いた。
「見たよ。似てたね」
「やっぱり、そう思ったんだ」それは、ゆり江という女の子に似ていた。裕紀は彼女を幼いころから知っていて、ぼくは妹と同級生であった彼女に一時的に好意をもった。そのことを裕紀は知らず、ゆり江も決して話さなかった。ふたりの秘密であり、それは死ぬまでつづくのだろう。どちらも裕紀のことを愛しており、それゆえにぼくらはその気持ちであったものを押し殺した。
 その似ている子が注文を取りに来て、ぼくは何品かを彼女に伝えた。裕紀は無言で、その子の様子を伺っていた。

「あんまりじろじろ見つめると、女性のことが好きなひとと間違われるよ」ぼくは、優しい口調で注意したが、もしかしたら見たかったのは自分の方かもしれなかった。

「ひろし君も見てたよ」
「それは注文する相手に失礼だからだよ」ぼくらは、似た人を見ただけで、さまざまな感情が芽生えることを知った。ぼくは、彼女との甘い瞬間やささいな喧嘩のことを。裕紀は、幼き日のゆり江のことを。
「結婚して、どうなったかな?」
「そうだね、楽しそうに暮らしているのかな」ぼくは、彼女が台所にいる姿を想像し、それは過去にあった時間でもあった。小さなアパートで、あの子はてきぱきと動いていた。彼女も自分の意思が生かせるところで暮らした。ある時はぼくを選び、ある時はぼくの未熟さをなじった。そして、料理を運んできた店員が、その姿と瓜二つであることに驚いた。
「ひろし君、どうしたの。なにか、あった?」

 ぼくの動揺は隠せるようなものではなかったのかもしれない。いずれ、そのことを何十年後かに話してしまうようになるのだろうか。それは罪でもないが、自分のなかに閉じ込めておくのには段々と狭く、また苦しみを伴うようになってしまうのだろうか。裕紀には秘密を作りたくないというぼくの気持ちを正当化させるための言い訳だったのだろうか。ぼくは、茹で上がったばかりのパスタを口に入れ、そう考えていた。

 食事も終わり、お会計もその子が担当した。裕紀は、「ごちそうさま」と言い、おつりを貰ったぼくは、「ありがとう」と言った。彼女はサービス券をくれ、「また来てください」と伝えてきた。ぼくは、あの小さなアパートでぼくを送ってくれたゆり江を思い出している。彼女は淋しげで、ぼくが雪代のもとに帰ることを恨みもせず、ただ真っ直ぐであろうとしていた。ぼくは、自分の過去の卑怯さに打ちのめされそうになり、だが、それをすべて知らない裕紀の指に自分の手が絡み付けられながら、また来た道を戻った。夜は、静かだったが、ぼくの頭は少しばかり騒いでいるようだった。

償いの書(87)

2011年07月30日 | 償いの書
償いの書(87)

 仕事から帰宅して何日か振りに家の照明がついていた。そこには、裕紀がいることの証拠だった。ぼくは、握りなれたドアを開ける。
「お帰り」
「ただいま。どうだった?」家の中にはバックから出された荷物が広げられていた。
「楽しかったけど、やっぱり、少し疲れた」実際に疲れた様子がうかんでいた。「あの子、きれいな女性になっていた。今度、写真見せるね。帰りに写真屋さんに寄って、現像してもらうようにしたから」

 ぼくは、彼女をこのように目の前に見る喜びに打たれていた。いつか、若い彼女は遠くに行った。そこから戻ってきた瞬間も知らなかった。ぼくらには、思った以上の距離ができ、10代のままの彼女が最後の記憶になる可能性もあったのだ。だが、一度、彼女はニュージーランドに高校生のころ、旅行にでかけた。そこから戻ってきたときは、ぼくは何かプレゼントを貰ったはずだった。でも、それが何かは覚えていない。

「ひとりで、どうしてたの?」
「いつも通りだよ。仕事して、ご飯を食べて、少し飲んで、寝て」
「外食ばっかりだった? ごめんね」
「いや、会わなかった友人たちとも会えたし、裕紀も思い出が増えたんだろう?」
「うん」と言って彼女は急に抱きついてきた。彼女はたまに感傷的になった。「あんなに楽しい結婚式にでれてよかった」
「よかったじゃない。よかったよ」
「帰りに、途中の店で買ったものがあるから、用意するね」と言って、裕紀は荷物を放り出し、キッチンへと向かった。スイッチの何個かを触り、近くの明かりがついた。もしかしたら、そのスイッチが触られるのも何日か振りかもしれない。ぼくは、シャワーを浴び、頭を拭きながら冷蔵庫を開けた。急に冷蔵庫の中味が増えていて、それに驚きながらもビールの缶をとった。

 見慣れないものが皿の上に置かれ、テーブルに並べられていた。ぼくは、裕紀の声をきく。彼女の音域はぼくの耳に馴染んでいることを思い出す。この声が裕紀なのだ。もし、仮にぼくの目が見えなくなったとしても、この声で裕紀がどこにいるか分かるのだと思った。

「どうしたの、目を、つぶって」
「裕紀の声だなと思っていた」
「どうしたの?」ぼくのこころの変化に気付かない裕紀は怪訝な顔をした。もしかしたら、それも見慣れて、かつ、取り戻したい表情だったのだろう。

 ぼくらは面と向かって座り、会わなかった期間の話をした。もちろん、話題が豊富なのは裕紀の方だった。ぼくは、口をたべもので満たしながら、頷いてそれをきいた。友人たちもそれぞれ年を重ね、環境の変化があった。裕紀もぼくの写真を見せ、「マイ・ハズバンド」と言った。彼らはそれぞれ感想を言ったが、それはぼくとは別人のように響いた。スマート? ワイズ?

 食事も終わり、これも何日か振りに裕紀の身体を横に感じながら寝た。
「日本に戻ってきたとき、ぼくのことを思い出した?」
「今日? もちろん、仕事してるんだろうなと。朝、なに食べたかなとか」
「違うよ。もっと前の留学を終えたときに」
「どうだったろう。多分、思い出したんだろうね。いつか、また会うときがあるのかなとか、どんな20代で、いま、満たされてるのかなとか」

 ぼくは願えば、その日に戻れるような錯覚を感じている。鮭が源流に戻るように。ただ、ぼくは違った河上に向かっていたのだが。
「ひろし君は?」
「ぼくは会う資格がないと思っていたよ。長い間ね。それで、どっかで幸せを掴んでくれていればいいとでも」
「コンビニで会ったときも、だから、ずっと、気付かなかった」
「あれは、東京とこちらの会社に慣れるので精一杯だった」

 ぼくらには歴史が増えた。それは誰の目をも証拠にはしないが、確かにぼくらには新鮮で貴重なものだった。それを押し流されないように、重いものを乗っけて動かさないようにしたかった。話し足りないような気もしたが、彼女は疲れていたらしく、直ぐに眠った。ぼくは、彼女の寝息をききながら、いつの間にか夢の中にいた。ぼくは、その夢の中で10代後半だ。彼女はスーツケースを持ち、長い白い廊下を歩いている。急に離れた場所で振り返り、「待っててね、戻るから」と小さい声で言った。その距離は300メートルにも500メートルにも感じた。ぼくは何かを叫ぼうとするが、彼女の小さな声は届いても、ぼくの発する声は、無音でその無機質な廊下を揺らせることはなかった。その瞬間にぼくは慌てて、目を醒ます。すると、裕紀はベッドの端に座っていた。

「どうしたの?」
「時差ボケがあることを忘れていた。ぜんぜん、眠れない」
「そう、どうしよう」と言って、ぼくは彼女のパジャマの上から腿をたたく。
「とりあえず、横にだけなっとく」と言って、また身体をベッドの上にすべらせた。ぼくは彼女の身体を両腕で抱き、ぼくは逆にそれに安心して直ぐにまた眠ってしまった。
 次に起きたときは、ぼくの両腕のなかは空で、彼女は朝ご飯を調理していた。その匂いが懐かしいものに感じる。
「あれから、寝たの?」
「マイ・ハズバンドだけがすやすやと寝ていただけ」
「昼寝でもするといいよ」
「そうすると、また夜中も一晩中、起きてるよ」と言って、裕紀は楽しそうに笑った。

償いの書(86)

2011年07月24日 | 償いの書
償いの書(86)

 ぼくらは空港を離れ、また上田さんの車の後部座席に乗り、都心に戻ろうとしている。裕紀の乗った飛行機は太平洋を渡り、向こうの大陸に向かっている。だが、10時間近くは窮屈な姿勢でいることなのだろう。
「淋しい?」智美が訊いた。
「まあ、少しはね。だけど、その分、思い出が作られるわけだから」
「今日、別に用事はないんだろう?」
「ええ、とくには」
「笠原でも呼ぶか?」
「いいですね」

 だが、彼は車を走らせたままなので、そのような行動に移ることはなかった。途中で、高速を降り、昼食を食べてショッピング・モールのなかをぶらぶらした。なんの変哲もない日曜は過ぎていき、ぼくの横には裕紀がいなかった。それから、車に乗り、上田さんの家の近くまで戻ると、彼は車を置いた。そこから、夕方になった空気のなかを歩いていると、笠原さんが出て来た。
「あれ、いつ連絡したんですか?」ぼくは不意に打たれ、そう問いたずねた。

「さっきの買い物の途中に。こいつ、妻が旅行中の中年男性」と上田さんが笠原さんに向かって言った。
「こんにちは、そうなんですか。淋しい?」
「まあ、少しは。だけど、それほどでも」
「そればっかり。あそこでいい?」と、智美は上田さんに行く店のことをたずねた。彼は頷き、ぼくらは歩を進める。ぼくと笠原さんは用がなくてもたまに会った。裕紀もぼくらが会うことは嫌がらなかったからだろう。だが、上田さんの会社のひとでありながら、ぼくらは上田さんや智美を交えて会うことはしてこなかった。ぼくらの関係はなにかを介在にして保つという範囲から越えたからかもしれないし、別の要素があるのかもしれない。ただ、彼女といて流れる時間はとてもここちの良いものだった。

「裕紀さんはひとりで?」
「彼女は学生のときに留学して、そのときに親しくなった女の子が大人になって、今度、結婚することになった。それに出る」
「うらやましいですね」
「彼女は友情を必要としている」
「誰でもでしょう?」
「まあ、そうだけど。とくにという意味でね」
「なんで、留学したんですか?」
「それを望んでいたからだよ。もっと前から」
「だけど、近藤の浮気がばれて、ある日、突然にいなくなった」
「事実?」
「限りなく事実」

「上田さんが言う第三の女性ですね」ぼくは、そのことを考えている。彼女がもしかしたら主人公かもしれなかった。そして、島本さんがいて、ぼくが第三の男というように。
「でも、結婚している」

「そこが不思議なんだよ」上田さんはいまだに謎が解けない質問を浴びせられたような顔をしていた。「オレたち、ちょっと用事があるから、先に帰るね」と言って、上田さんと智美は消えた。ぼくは、その後ろ姿を目で追った。
「男性は、そうやって浮気をする?」

「ぼくの体験談では、どうやっても否定できないけど、すべてまじめな気持ちでもあった。実際、ぼくは裕紀のあとにその女性と長いこと、付き合った。離れている期間もありながらね」
「正当化しているみたいな気がしますよ。彼も浮気をするのかしら」
「された?」
「されてない」それは、強目の言葉だった。そして、断定的だった。だからといって、断定が世界を決めるわけでもない。ぼくは、彼女との会話を楽しんでいる。いくらか、若い気持ちを取り戻し、裕紀のことをすこし忘れた。それでも、彼女は、いまごろもう到着しているのだろうかと確認するために店の時計のほうに目を向けた。
「つまらない?」
「なんで?」
「時計をみた」
「いや、あいつ、向こうに着くころなのかなと思ってね」
「心配?」
「まあ、すこしは心配だよ。落ちる確率はすくないからといって、まったくないわけでもないからね」
「飛行機、怖いんですか、近藤さんは」
「怖くないよ。ただ、急になにかを喪失するのは怖いけど」
「経験した?」
「経験しない人なんて、逆にいるの?」

「さあ。次、飲んでもいいですか?」どうぞ、という風にぼくは手のひらを彼女に向ける。夜も酔いも深まり、ぼくはリラックスした雰囲気に放たれる。そして、幻影を見るかのように、裕紀の15年前を思い出そうとしている。彼女は旅立った。交際している少年は、ラグビーの準決勝を勝ち、意気揚々となっていた。全国大会も目前にせまり、そして、憧れをもっていた女性と会う。裏切りということが起き、そこからは疎遠になる。許す機会もなく、許されようと懇願する少年は遠くにいて、会うことはない。そもそも、彼は許されようと思っているのだろうか、わたしを本気で好きであったのだろうかと執拗に自分に問う。恨みは入り込む余地がなく、疑念だけが大きくなった。遊びに来た両親をその地で事故で失い、もどった東京で少年期を過ぎた男性と再会する。彼は、その女性と別れていて、わたしとの復縁を求めた。わたしは、それを許す機会と認めた。

「どうぞ!」という頃には店員が別のグラスを持ってきていた。
「え、なんかぼんやりとしてますね」
「酔ったかな。いろいろ、分からないかもしれないけど、むかしにした悪いことを反省する年代になった」
「遅すぎません?」
「遅すぎるかもしれないけど、自分には、このタイミングでしか考えることができなかったんだろう」
「グラス、空ですよ」
「グラス、空だね」ぼくは言われたままを復唱した。これからの何日間かひとりで夜を過ごさなければならない。ぼくはその予定を考え、どうやって埋めようかと思い当たる誰かの顔を探した。明日にでも、何人かに連絡をとって、すこし遠退いてしまっている友人たちを引き付けられるチャンスを作ろうとした。

償いの書(85)

2011年07月23日 | 償いの書
償いの書(85)

 裕紀は、学生時代に西海岸に留学していた。当初からのそれは彼女の希望だった。その機会を早めてしまったのには、ぼくが原因を作ったのかもしれない。自分の娘が裏切られたのを知った彼女の両親は、そういう方針をとった。だが、彼女はぼくを許す機会を作ろうと考えていたそうだ。ぼくは、ずっとひとから恨まれているという恐怖をもって生活していた。再会後、その気持ちを知りぼくは安堵した。安堵をして、それをきちんと結果として残そうと思い、結局は結婚に至った。

 彼女は手紙やたまには電話でそこのひとたちといまでもやり取りを交わしている。その当時、彼女はある家族と親しくなり、そこの家の10歳ぐらいの少女と交遊をもった。基本的に誰かを可愛がることが好きな彼女には、自然とこのようなことが転がり込んでくるようになっていた。その少女は20代の半ばになり、今度、結婚することが決まった。
「招待されたんだけど、行ってもいいかな?」

「もちろんだよ、こんな機会はめったにないし、ゆっくりと滞在してくるといいよ」
 何ヶ月か前に、こういう話し合いがあった。彼女のすました表情で写っている写真が貼ってあるパスポートをぼくは思い出している。それから、いくつかのその少女との思い出を教えてもらった。

 そこは他愛もないことが多い、10代後半の女性と10歳ぐらいの少女の話だ。映画を観に行ったり、ショッピング・モールで洋服を選んだり、その合間にアイスを食べたりした内容だった。だが、ぼくはそこに食い込めない思い出が詰まっていた。もし、仮にぼくらの交際があのまま続いていたとしても、ぼくは彼女と離れていた期間が挟まってしまう事実を知った。それならば、いまと同じような気持ちなのかと問えば、実際は多少の差異があるのだろう。離れてしまった人と、引き裂かれた関係というように。

 その日が近付くにつれ、彼女はメールで頻繁にやりとりをしている。英語で書かれた文章を彼女は訳す必要があるのか、それとも、そのまま受け止めているのかぼくには分からなかった。ぼくは、仕事でアジアのひととも連絡を取り合うようになっていた。違う言語を話す人たちだったが、目的は同じなので何とかクリアできていたが、それは目の前にいて、ということが前提条件になっていた。

 ある日曜だった。上田さんが空港まで送っていく、といってきかなかった。それで、ぼくの家の前まで迎えにきてくれた。裕紀のスーツケースは後ろのトランクに入れられ、上田さんの手がそれを閉めた。

「こういう風に、誰かをきちんと送ったり、迎えたりするのがオレは好きなんだ」と上田さんは笑いながら言った。智美もそれに同意した。ぼくと裕紀は後ろに座り、窓外の景色を眺めている。「近藤は、どうだか分からないけど」
「また、それですか?」と、うんざりしたように言う。
「裕紀ちゃんが、お前を許したのが、たまに信じられないんだよ」
「上田さんと、違う人間もいるんですよ」

「その話は、きょうは止めましょうよ」裕紀の悲しそうな顔を見たからか、智美は制止した。実際、このような条件で彼女は、15年近く前に旅立ったのかもしれない。ぼくは若く、自分の気持ちしか考えられなかった。あの過去の自分に、いまの自分が声をかけるとしたら、どうなるだろうかと想像した。結局は、若いんだから、やりたいようにすればいい、という結論かもしれない。無鉄砲な時期は、無鉄砲に過ごしたほうが良いのかもしれない。そう自分を正当化し、自分の冷酷ささえ励ました。大人になってから、無鉄砲になるより、余程ましかもしれなかった。

 ぼくらは空港に着き、ぼくは裕紀のスーツケースを引っ張っている。彼女は小さなバックのなかの荷物を点検した。パスポートや航空券が入っており、小さな鏡を取り出して、自分の目元を眺めていた。ぼくらはお茶を飲み、時間が来るのを待った。何日間か彼女はぼくから離れ、過去の自分と邂逅する。色褪せない思い出が詰まった町に行き、その当時に感じたことを思い出したり、忘れてしまったようでいてきちんとこころに残っているいくつかのことに気付くのだろう。何かを再燃させ、何かを葬るのかもしれない。それは、ぼくには分からないことだったが、ぼくにもそのような町や生活があの場所に残っていた。

 裕紀は華奢な腕時計を覗き込み、「そろそろ行かないと」と言って立ち上がった。ぼくはぎりぎりのところまで荷物を引っ張り、最後に彼女に手渡して、その代わりに手を振った。彼女は微笑み、ぼくはずっと前にこのように彼女をこころよく送り出すチャンスを逃した自分を恥じていた。だが、仕方がなかったのだ。ぼくは雪代の魅力に溺れてしまおうと決意していたのだから。

「できたら、電話かメールするね」
「ぼくのことは心配しなくていいから、楽しんできなよ」
「そうしなよ、こいつのことなんか忘れて」
「忘れられるわけないよ」

 ぼくと彼女が離れていた期間にぼくは寂寥のような気持ちをもっていたのも確かだ。自分は罪を犯し、若い女性を、それも受ける必要もない悲しみを与えてしまった。その彼女が恨み以外に自分に対して感情をもつことなどありえないと思っていた。だが、その期間にも、ぼくは彼女の胸のなかに眠っていた。だったら、この数日にもきっと居続けることは簡単なことであろうと予想ができた。

 ぼくは、空港の片隅で彼女を視線のなかから失い、見慣れたふたりの友人に囲まれている自分を発見する。

償いの書(84)

2011年07月22日 | 償いの書
償いの書(84)

 裕紀の兄には娘がいた。その姪っ子はピアノを習い、発表会があるらしく、彼女は叔母と聴きに行った。ぼくと彼女の家族との関係は、かんばしいものではなく、その理由は、ぼくが裕紀と別れ、その留学先に彼女の両親が遊びにいって亡くなったのが遠因だ。ぼくは不幸を導く原因を作り、それを気にせずその女性を妻に迎えた無責任で、無神経で、繊細さに欠ける人間という訳だ。はっきりといって自分をそう定義したことはなく、逆な人間だと思っているが、自分の幸福の追求に向け突進したことは否定できない。それで、ぼくらの間には疎通や交流もなかった。

 彼女は、それから帰ってきてその様子を話した。彼女も幼い頃、同じようにピアノを習っていて、その段階ごとに困難があることを説明した。しかし、ぼくは具体的にどういうものか分からず、その成し遂げた結果だけに興味があった。つまり、うまかったのか、もっと成長するのかというように。

 若い頃、ぼくらはデートをして、楽器屋のなかの鍵盤を裕紀は見事に弾きこなした。その手は繊細で、その当時、ラグビーで節くれだった自分の手が、その裕紀の可憐な指を握ったことを思い出している。ぼくは、そのことを話した。自分たちに甥や姪など存在することも信じられなかった時代。だが、時間は容赦なく過ぎていった。しかし、時間が解決することもないことがあり、それは最初に書いた通りだ。裕紀も当初は疎んじられたが、あんな馬鹿な奴となぜ、暮らせるのか、というようなことだが、そこは両親を亡くして残された兄弟ということで、いつしか修復に向かった。それは、望ましいことだが、ぼくはそこから追い出され、他人のような関係のままでいた。それは淋しさというものではなく、指にとげが挟まったままというような状態だった。

 ぼくを慕ってくれる甥もいたし、無防備に親しくしてくれる友人もいた。彼らは大切な存在だが、近くなりたいひととはそのままの距離でくっつくことはできなかった。ぼくは、それでも良かったのだが、裕紀が淋しがっているかもしれないと思うといくらか憂鬱だった。もちろん、そのことを絶えず考えているわけもないのだが。

 職場からカバンを持って、外出しようとしている。そこで、ある女性に会う。
「待ち合わせ?」彼女は、なにか違ったものが見える能力を持っていた。だが、ぼくのそのときの様子をみたら、誰もが仕事で外出する格好なので、その質問につい笑ってしまった。
「ええ、仕事で待ち合わせです」
「なんか、軽やかな気持ちみたいね」
「そうですか」ぼくは、彼女が連れている犬を撫でる。それに応じて、その犬は尻尾を振った。
「奥さんには音楽が流れているようね」
「家でも、いつも音楽をかけてます。ぼくが買ったステレオは彼女のものになっている。それに、家族にはいくらか音楽の才能らしきものがあるみたいですね」
「よく知らないような言い方ね。仲良くしたいのに?」
「さあ、どうかな」ぼくは、自分に言い聞かせるようなつもりだったので、言い方がぞんざいになった。
「川の向こう岸を歩いているひとが見えている」

「そうですか」ぼくは、時計を見て、「じゃあ」と言って小さく会釈してその場を引き去った。

 向こう岸を歩いているのは誰かをぼくは頭の中で探ろうとした。それは、裕紀の兄のようでもあった。だが、逆にこちらにいるのは自分だけだったのだろうか? そこに裕紀は居続けるのかを確認した。ぼくは、撫でた犬の感触を思い出し、その手が電車の吊り革という無機質なものを握っているのを感じた。

 ぼくは新しいマンションの一階部分の店舗をすすめるために言葉を尽くして説明する。その説明に興味や関心があるひとびとの表情として生まれる楽しみを知る。そういう機会が裕紀の兄ともできればよいが、ぼくは、しかし、うまく説明できないことも知っている。ぼくは、10代後半のイノセントであった裕紀を捨て、彼女はのちのち留学する予定はあったのだが、それを早め外国に旅立った。ぼくは、それで自由になり別の女性に走った。その兄から見れば、ぼくは確実に有罪であり、酌量の余地はなかった。簡単にいうとぼくの物語は、こういうことなのである。その女性と再会して、ぼくは妻にした。その間に彼女は両親を亡くし、ぼくは別の女性との楽しい思い出を作り、その関係を失った。だが、どれも自分には必要であったことを知る。ぼくには雪代と過ごした生活が自分にとって掛け替えのないものであったことを知っており、それがなかったら、どれほど自分の人生は無価値になるものだろうということを焦燥をもって感じている。

 ぼくらは、握手をもって仕事の話を終える。それからは、彼の家族の話をする。ぼくらは同年代なのだ。野球をしている少年の父の一面がでてくる。彼の日曜日をぼくは頭のなかでイメージする。Yシャツは剥ぎ取られ、ネクタイも消えた。少年に歓声をおくる姿。それをぼくは見たような気がする。そのために雑な仕事はできないことに気付く。もちろん、いままでもしていないが、より一層にという意味合いで。

償いの書(83)

2011年07月18日 | 償いの書
償いの書(83)

「あれ、裕紀じゃない。わたしたちが初めて会ったころの」うちに遊びにきた智美は驚いたように言った。
「わたしのおばも見て直ぐにそう言った」
「どういった経緯で手に入れたの?」
「結婚記念日のプレゼントとしてわざわざ誰かに描いてもらったのかと思っていた。これが偽の情報」
「本当のことは?」
「ひろし君のお客さんで画廊のひとがいるらしく、そこに置いてあった。亡くなった島本さんのお友だち」
「まだ、付き合いがあるの?」上田さんも驚いたように言った。
「どこかで偶然に会ったんですよ。な、裕紀?」

「そうか、あのひと」裕紀はふと、思い出したように言った。
「いま、島本さんの友だちって言ったじゃん」ぼくは確かめるように訊く。
「あ、なんかつながっていなかった、ふたりが、そうか」と自分で納得させるかのように、その後の言葉をのんだ。
 ぼくらの家の壁に一枚の絵が飾られ、それが不思議な影響を及ぼしていく。みな、それを見ると過去の裕紀を思い出し、ぼくらの親しかった関係にも思いが移り、それが途切れたことは思い出していながら口に出さないようだった。そして、愛らしい絵のような女性と離れることができる人間への理解が許容の範囲外であるようだった。

 その絵の確認が目的のような一日だった。ぼくは嘘を通して、わざわざ誰かに頼んで描かせたという別のストーリーに魅力を持った。しかし、すべては偶然だったのだ。ぼくと島本さんがある日、東京のどこかでばったりと出会い、その連れの女性を顧客にすることができ、彼女の画廊にその絵は残り、ぼくは裕紀かもしくは自分のためにそれを入手した。どこかで、なにかが狂えば、それはすべてぼくからもぎ取られるような印象がかすかにだがあった。島本さんがいなくなったことを今更ながら蒸し返し、それにいちばん痛みを持つであろう女性のことを想像した。絵への関連で思考は別のところに飛躍した。

 ぼくらは、ぼくの家から出て、駅に向かった。あるデパートの屋上でイベントがあった。ハワイや沖縄やラテン音楽を演奏する企画だ。それを上田さんから聞き、ぼくらはそこに向かった。

 太陽の日射しが強い頃で、ぼくらは大きな日傘にかくれて太陽をさえぎった。
「笠原と、たまに会うんだろう」上田さんはぼくに問いかける。
「妹の代用ですかね。いつまでも、ああいう子の挙動を心配してしまうようなところがあって」
「年上に甘えてしまうようなところがあっても」
「人間って、一元的なものじゃないですから」
 そこには、裕紀と智美はいなかった。飲み物を買いに行っていた。
「おかしなことはしない?」
「もうずっとしてないです。上田さんは?」
「オレも余裕がない」
「余裕の問題じゃないと思いますけど」

 そこにふたりが帰ってきた。涼しげな色のものや、中味は分からないけど、琥珀色のようなものが混じり合って、その上にストローが挿されていた。ぼくは、普通にシンプルなビールを飲んだ。それは、日曜の午後を彩るにはもってこいの雰囲気と音楽だった。世界は幸福に満ち、愛すべきひとが横にいた。警戒することもない親しい友人がいて、その妻は陽気でいることを世界に誓ったような女性だった。

 ぼくらは音楽が高揚させた気持ちでそこにいた。大事な話ではないかもしれないが、必要な会話をかわした。裕紀はぼくと家にいるときよりも、数倍はしゃぎ、彼女のもっている特性をさらに花開かせるようだった。
「あの画廊の女性は、わたしを見る目が冷たかった」音楽が一段落すると、裕紀は思い出したかのように言った。「あのひとの目、怖かった」

「裕紀ちゃんが可愛いからだろう。無邪気で、な?」上田さんはぼくの方に視線を向けて、次の言葉を促した。
「ぼく、だけど、覚えていない」
「そういうトンチンカンなところがあるのよ、ひろしには」智美の顔はすこし紅潮し、目も潤んで見えた。
「なにかを奪うことを目的にしているような目」
「それは、裕紀とは違うよ。優しさに溢れた人間とは」智美がそう付け足す。
「わたし、優しくないよね、ひろし君。いつも。ときには、いらいらするし」
「誰でもいらいらするよ。とくにこいつとなんか住めば。オレも融通の利かない後輩が入ってきた日を覚えてるよ、いまだに」ぼくは、笑った。

「裕紀はぼくが会った中で誰よりも優しい人間だよ。じゃなければ、一緒にならなかった。いまも、それは続いている」そう言うと、ステージの調整も終わり、次のバンドが出て、演奏を開始した。それは、レゲエのリズムを代用した歌謡曲のようなものだった。だが、真摯な音楽を求めていない今の気分には不思議とマッチした。

 ぼくは、その心地良く崩れるような神経のなかで、ぼくに優しくしてくれたひとたちの瞬間を思い出すことになる。
 裕紀は存在そのものがそうだった。もちろん、後輩の面倒を見る上田さん。その父である世話好きな社長。雪代とぼくが最初に会ったときに手渡してくれたジュースの感触。最後には、そこに戻った。優しさとは無縁な関係であるしかなかったぼくと島本さんのずっと続いた関係。それも、途切れてしまった。途切れそうにもないレゲエのリズムのなかにぼくはとどまり、終わってほしいことや、終わらせたくもないのにピリオドが打たれたいくつかのことに思いを逸らせていった。

償いの書(82)

2011年07月17日 | 償いの書
償いの書(82)

「うん、分かった。ひろし君、大きな荷物が届いたけど、勝手に開けちゃった。良かった?」
「あ、言い忘れてた。そうだ」帰りが遅くなることを告げると、裕紀はそう返答した。「帰ってから、説明するね」

 ぼくは、結婚記念日の品を笠原さんの目利きに頼り、デパートに寄っていた。もう何年も経つと、プレゼントの順番は網羅され、なにも思い浮かばなかった。愛という形状は、ぼくらの場合、薄まるようなことが不思議となかった。そういう関係の有無を当然ながらぼくも知っている。それで、ふたりの場合は奇跡だったのだと考えるようにしていた。その為に、どこかに犠牲が強いられるのかもしれず、子どもはぼくらには授からず、彼女の残された家族とぼくの間柄も親しくはなかった。

 品物を選び、ついでに笠原さんにも買った。付き合ってくれたお礼だ。その後、ふたりで食事をした。彼女の交際相手の情報のストックがぼくにでき、同様に裕紀の生き方についてのもろもろのことを笠原さんは知った。そこから反論や尊敬が同性の彼女にはあるらしく、ぼくはそれも楽しくきいた。そこで、ぼくの裕紀への判断はあまり変わることもなく、ただ違ったサイズの鏡を通して、裕紀の一面を覗くようなことはできた。

「ただいま」
「ありがとう!」
「うん、なにが? プレゼントはまだ渡していないよ」そう言って、ぼくは手提げ袋を渡した。彼女はそれを受け取り、袋の隙間から中身を確認するような表情をした。
「違うよ。あの絵。いつから頼んでいたの?」彼女は嬉しそうに目を光らせた。それは涙の予兆なのだろうか?「写真かなにか見て描いたのかしらね」
「なんのこと?」

「だって、そうなんでしょう。良く似てる。うれしかった」彼女は誤解をしていた。ぼくも、似ていると思っていたが、本人はそれ以上に感心しているようだった。そして、本当のことを伝えるべきかぼくはちょっと迷った。誤解をそのままを継続させた方が、彼女の嬉しい気持ちを消してしまう可能性は減った。だが、ぼくはなるべくなら裕紀の前で本音を語ることを誓っていたのだった。

「あれ、やっぱり、そう思ったんだ。ただ、ぼくのお客さんの画廊にずっとかかっていたので、気にかかっていた。ぼくも裕紀に似ているな、とくに、高校生のときになんかにね」ぼくは、そのときの彼女を思い出そうとしてみる。それは意外なことに今日はとくに容易だった。「でも、前から誰かが描いていたもので、仕事がうまくいったご褒美として手に入れた。それから、送ってもらった」
「そうなんだ。もっとロマンチックなことを予想していた」
「がっかりした?」

「そういうわけじゃないけど、そうすると逆に不思議すぎて、なんとなく納得いかない」彼女は実際に不可解というような表情を作っていた。「あれ」彼女は指差し、「わたしに似ているとひろし君も思わない?」
「思ったから、もらったんだよ」
「そうだよね」
 それは、タンスの前にこちらを向いて地面に置かれていた。ぼくは適当な壁を見つけ、それを手に持ちうろちょろした。「この辺にあるといいかな?」
「若い頃のわたしを前にして、こっちを見たら、30代でがっかりしない?」彼女は背中を向けてなにかの用事をしながら、そう言った。

「じゃあ、こっち見てみなよ」彼女は振り向いた。「がっかりしたように、ぼくが見えた?」
「分からない。表情に表さないように努力をしたのかもしれないし」
「そんなこと出来ないよ」
「ラグビーのキャプテンのときはしてた」そして、ぼくは表情も変えず、裕紀のものとを去って、別の女性に向かった。そうならば、やはり過去はそうしていたのだ。だが、彼女はただ事実を告げただけで、意地の悪い意味は持っていなかったらしい。
「してたかな」
「よく世界には何人かの似ているひとがいるっていうけど、ひろし君は信じる?」
「60億人もいるんだから、何人かはいるのかもしれない。全員にあうことができたら、見つけられるかもしれない」
「いないかもしれない」

「ぼくたちが出会う人間なんて限られている。だから、そのひとたちとの関係を深めたり、温かい状態のままにしておきたい」
「わたしも、してるよね。加わってるよね?」
「ぼくが、いつも一番に考えているのは裕紀だよ」たまに、裕紀はこのような言葉を聞きたがり、耳に入れることを望んでいた。ぼくは、それを経験から知り、そうするように努力した。努力はいつの間にか、自分の一部になり自然なものとなった。
「でも、似ているな。今度、おばさんたちにも確認してもらおうかな」
「上田さんや、智美にも」

「そうだね」ぼくは、その絵を手に入れられたことを喜んでいた。逆に贈り主にも感謝のような、またときめきのようなものを感じていた。それは永続するものではないが、火花のように必要なものだったのかもしれない。夏の花火。積もることもないがはしゃがせてくれる子ども時代の雪のように。

 彼女は浴室からでてきて、つるっとした肌でぼくの前を通りかかった。ぼくはその顔を20年近く見てきたのだ。中の何年かはそれは不幸にも知ることはできないが、それでも、あの絵がぼくらの過去と現在を結び付けてくれるような予感があった。さらに未来への大切な架け橋のような役目ももつのだろうという不確かな気持ちも持った。

償いの書(81)

2011年07月16日 | 償いの書
償いの書(81)

 ぼくらは日常に戻る。仕事をして、休暇には映画を見たり、日帰りの旅行をしたりした。ぼくは裕紀の手の平の温度を知り、爪の色が変わるのを眺めた。ときには、水色の日があり、茶色の日もあった。同じ速度で年を取り、それだからこそ大幅な変化には気付かず、些細な小さな変化には敏感だった。人間とは不思議なものだ。髪の長さが変わり、洋服の厚さが変わった。再会してから7、8年が経とうとしている。ぼくの給料もいくらか上がり、その分、面倒を見る後輩ができ、責任も増えた。それも、毎日のかすかな変化のため、重圧とまではいかなかった。

 裕紀は、自分用の机の上に仕事の資料を積み重ねている。その厚みは増えることもあり、減ることもあった。ぼくはそれを手にすることはなかったが、たまに確認のため横目で眺めた。必要以上に、また過度に疲れるようなことはしてもらいたくなかった。いつも、彼女には元気でいてもらいたかった。ぼくは、若い頃に彼女を悲しませてしまう原因を作ったのだ。そして、ある日、今後はそういうことを少なくしてもらうようなにかに誓ったのだ。その誓いを破るようなことはできなかった。だが、当然のようにたまにはした。

「お店の場所を変えたいと思っている」と、筒井さんという女性は電話で言った。「最近、ここが子どもっぽい場所にかわってしまい、そのことを私たちは嘆いている」セリフのような口調で彼女は言った。
「少し、お時間をください。気に入ってもらえるところを探してみます」
 ぼくは、そうきっぱりと言った。ぼくと彼女は島本さんを介在にして出会った。ぼくは、筒井さんと彼の死を弔うような形で寝た。その前にもそういう関係を持ったが、あの日以来、ぼくらは離ればなれになった。ぼくは島本さんと関係のあるものに魅力をつい感じてしまうのだろうか? そうすると、島本さんから隔たってしまった彼女には興味を抱けないのだろうか? そのような取り越し苦労をぼくは店舗を探しながらも考えていた。

 筒井さんは画廊を開いていた。中国のどこかの都市を描いたような絵が前にあった。ある少女の横顔が半永久的に幼さと大人の微妙に入り混じった表情で描かれているものもあった。それは、不思議と裕紀の高校生のときの顔と似ていた。それで、印象がつよく残っている。

 ぼくは、いくつかの鍵を持ち、駐車場に向かった。最近は会わなかった犬を連れた女性がそこで座ってタバコを吸っていた。
「行儀が悪くてごめんなさいね」
「いいえ、とても素敵に見えますよ」
「誰かが死んだみたいね。体力のありそうな男性で」
「さすが。その通り」
「間違いを犯す人間」
「どういう意味で?」
「選択の善し悪しを判断できないという意味で」
「それが、人間でしょう」
「そうよ、近藤さんも人間。わたしも人間」
「哲学的ですね。待ち合わせに遅れるとまずいので、失礼します。もっと、哲学を討論したいですけど」とにこやかな表情を作り、ぼくは言った。

 間違いを犯す? それは、雪代を選ばなかった自分か。いや、雪代を選び、裕紀を捨ててしまった自分か。筒井さんとの関係を選んだ自分か。死を求めた島本さんか。答えはいくらでもあるように思えた。

 車を走らせた後、コイン・パーキングに入れ、筒井さんの今の店に寄った。彼女に惹かれた自分は一時のことだと認識していたが、それは間違いだった。彼女はさらに魅力的な女性に変貌していた。

「どうかした? 死んだのは私ではなく、島本君よ。死んだひとを見つけたみたいな顔」
「いや、そういう意味じゃなくて」ぼくは店内を見回した。いまが完璧な場所で、ここ以上の場所はないようだった。それぐらい、美というものに包まれている雰囲気があった。「ここ以上のところを探すんですよね」ぼくは急に弱気になった。
「外を見て。ここのお客になるような人が歩いている?」
「そういわれると、そうですけど。でも、画廊に入るようなひともしらないですからね、正直言うと」目をあちらこちらに向けると、裕紀に似た少女の肖像がまだあることに気付いた。「あれ、まだあるんですね」
「可愛い娘。ああいう女性はどういう大人になるのかしらね。良い場所をみつけたら、あれ、上げる。ずっと、売れ残ってしまっている」
「そうですか、嬉しいですね。頑張ります」

 ぼくらは車に乗り込み、数軒の場所を見て廻った。筒井さんの気に入った場所は直ぐに見つかり、ぼくはあの絵を手に入れることができた。彼女にぼくの住所を教え、送ってもらう手筈になった。裕紀がそれを開けて見た瞬間をぼくは思い浮かべ、そして微笑んだ。

「会社に戻る?」
「車を乗りっぱなしなので、一回、帰ります」
「そう。新しい店のために祝ってくれると思った」
「じゃあ、今週の金曜はどうですか? その日は予定がないので」
「ありがとう、じゃあ、その日に」
 ぼくは車に乗り、間違いを犯す人間という言葉のエコーをきいた。ぼくが、その間違いのもとであり、筒井さんも共犯者だった。そうなるのを知っており、また望んでおり、裕紀の悲しむ姿を思い浮かべた。だが、ぼくは裕紀の顔を思い出しているのではなく、イノセントなさっきの絵のほうを思い浮かべているようだった。

償いの書(80)

2011年07月11日 | 償いの書
償いの書(80)

 松田の車の助手席には荷物が乗っかっており、ぼくと裕紀は後部の座席に座った。
「今日の試合、良かったね。パス回しも良かったし、何より躍動的だった」ぼくは、率直な感想を言う。
「オレが、小さいときに教えた子たちも多くいるんだぜ、自慢じゃないけど」

「自慢にきこえるよ」そうからかったが、ぼくは彼の小さな歴史をうらやましく感じる。ぼくは東京に出てしまったことで、ここでの暮らしの歴史が途絶えてしまった。もし、そのままいたらぼくにも彼のようなひととの触れ合いを通しての歴史があったのかもしれない。だが、それは裕紀と再会しないことを意味しており、やはり、そればかりはぼくに考えられない運命の力が働いているのかもしれなかった。

「彼は、いつもここでの生活を懐かしんでいる」と裕紀も言った。
「そんな風に見えてる?」
「うん。わたしの知らない思い出を大切にしているときがある。それに入り込めないときもある」
「まあ、裕紀ちゃんもこっちにちょくちょく来て、思い出を作るといいよ。裕紀ちゃんのファンはたくさんいる。ひろしの人気より大きい気がする」

「事実かもしれないね」ぼくは、そう言ったが、ぼくをきちんと正当に受け止めてくれる人の顔が脳裏にたくさん浮かんだ。
 車は直ぐ彼の家に着いた。ぼくがむかし訪れた小さなアパートではなく、きちんとした一軒家だった。家の前の駐車スペースに車を停め、玄関から那美さんが顔を覗かせた。

「いらっしゃい」と言った顔が、満ち足りた人間の表情の見本のようなものだった。ぼくと裕紀は松田から背中を押され、なかに入った。そこには高校生の汚れたスニーカーがきれいな掃除の行き届いている玄関や前の敷地と対照的に置いてあった。それは、ぼくの家に戻ったような錯覚があった。ぼくの家もまだ、ぼくが学生時代のときはこうだった。
「散らかしてるけど」と、松田は言った。

「私たちの家は、散らかしてしまう人間もいないから。育ってしまう前は大変だったでしょう?」と、裕紀はあることを思案しているような顔で言った。
 ぼくらは、リビングの椅子に座った。寛いでいる間に那美さんは料理を運んだ。それを裕紀も手伝った。ぼくと松田はビールを飲み始め、思い出話を語った。そこには、ある友人たちの現在の生活の解説があった。それぞれが苦労をしながらも、懸命に生きている証拠があった。何かを叶えた人間もいれば、何かを失った人間もいた。失ったことを乗り越えるひともいて、希望を捨てないひともいた。ぼくは、この町での思い出を、そのように新たな情報で更新しようとしていた。
 料理が並ぶと、階段を降りてくる青年がいる。

「あ、近藤さん、こんにちは。裕紀さんも」と彼は照れたような様子で会釈する。「ぼくのこと、覚えてます?」
「当たり前だよ。まだ、小さな男の子だったけど、この前、出張先でニュースを見て、驚いた。あの子が、こんなになったのかと」

 その成長を証しするように彼の食欲は旺盛だった。一段落つくと、ぼくらはまた会話を楽しむようになる。まもる君も確かな受け答えをする人間になっていた。躾の仕方が良かったのかまじめな男の子だった。
「好きな子とかいるの?」裕紀は、からかうように訊いた。
「それは、いますけど。裕紀さんはどうでした?」
「わたしは、この通り、ひとりの人間しか信頼して来れなかった融通の利かない人間」
「うらやましいですね」
「どっちが?」那美さんは付け足すように訊く。

「どっちも。どっちも」彼は同じ言葉を2回、つぶやいた。「ひろしさんも、そうでした?」
「それは、あんまり訊いちゃいけない質問なんだよな」酔ったのか、松田はそう言った。そして、まもる君も口をつぐんだ。それは、あとで確かな証明になった。彼の成長を見るため、ぼくらはアルバムを見せてもらった。最近の様子から、段々とさかのぼるうちに、彼の写真のなかにぼくも登場する。その横には雪代が写っていた。以前のまだ小さなアパートにぼくらはテーブルを囲むような姿でいる。裕紀が皿洗いを手伝っている間にぼくはそれを見て、「あまり、よくないな」と、ひとりごとのようにささやきながら、そのアルバムだけを遠くに置いた。しかし、ぼくにはそのときの自分の幸福そうな表情と、不幸を知らないままの雪代がいることが刻み付けられた。ぼくが、ここで残した最大の思い出が、その中の一枚にあるようだった。それは揺るぎのない証拠だった。

 食事も終わり、後片付けもあらかた済み、コーヒーとともにケーキを食べた。裕紀のことを好きになる人が次第に増え、彼女と接すれば当然のことなのだが、最後には、まもる君も自分の恋愛相談のようなことを彼女にしていた。彼女は大恋愛を何回も繰り返したわけではなかった。そのもつイメージがたくさんのことから得られた情報ではないが、訊いている彼にとって深みのある回答が得られているようだった。ぼくらから少し離れたソファの上で、ふたりは寛いだ様子で話していた。

 松田はいつの間にか眠ってしまい、ちいさないびきをかいている。

「あまり飲まないけど、飲むといつもこうなるのよ。まもるにベッドに運ばれている」とその後の成り行きを那美さんは話した。
「東京に来たら、うちに遊びに来なさい」と最後に裕紀は、青年に言った。彼はただ男らしく頷いただけだった。ぼくらは那美さんの運転する車に乗り、泊まっているホテルまで送ってもらった。

償いの書(79)

2011年07月10日 | 償いの書
償いの書(79)

 ぼくらは車に戻り、市街地のほうへ車を走らせた。裕紀は横で少し寝た。その夢のなかにぼくらの思い出が充満している気がした。また、思い出を作ることができない期間があったことも、それがぼくのこころの中の一部分を責めること自体が、運転しているぼくのなかに残っていた。

 ぼくらは適当なレストランの前に車を停め、扉を開け中に入った。裕紀はスパゲティを頼み、炭酸水を飲んだ。ぼくはラザニアとスープを頼み、外の見慣れた景色を眺め、それらを平らげた。

「東京に来る前、同僚と来た店はここだった気がする」ぼくは、ふと思い出したように、そう言った。それは大切な印象深い記憶のしたに隠れていたが、思い出してみると、逆に急に鮮明なものになった。

「そう、思い出の場所だね」
「あの子、どうしているのかな?」何年か前に結婚をするということで仕事を辞めた。北陸のほうに嫁いだが、その後の情報をぼくは持っていなかった。

 ぼくらは、また車に戻った。途中で飲み物を買い、あるグラウンドに行った。そこでは、松田の息子のサッカーの試合が行われる予定になっており、ぼくらはそれを観戦することにしていた。

 試合の始まる前の興奮があり、強い日差しの中をぼくらは階段を登ったり、席を見つけるためにまた下ったりした。そうしている姿を見つけられたのか、幾人かに声をかけられた。

「お、ひろし」その声はぼくがバイトをしていた店の店長だった。
「あ、店長。奥さん」ぼくの呼び方はずっと変わらないようであった。
「なんだ、戻ってるんだったら、まゆみも来ればよかったのに。あいつ、バスケの試合があって来られないんだけど」
「そうですか、またいつか機会はありますよ」

 ぼくらは、自分の席を見つけるため、さらに下った。後方を振り返る松田と那美さんの姿を見つけ、ぼくらはその横に座った。
「久し振り」松田は言った。
「ごぶさたしています」と、裕紀は言った。裕紀はぼくらと違う高校に通っていた。だから、同じ時間を共有したという感覚は少なかった。松田は直ぐに高校を止める運命にあったが、ぼくらはその前に同じ砂の上を走り、たわいもないことで笑い合った関係があった。ぼくらは、その彼の息子の試合を見るほどまでに成長したのであった。

 たくさんの話すべきことはあったが、試合が始まってしまい、ぼくらはそれを見ることに熱中した。ある男の子が急に青年になってぼくの前で勇姿を見せている。それは、過去のぼくの姿のようでもあり、また松田が成し遂げたかった夢の実現のようでもあった。
「子どもって、いいもんだよな」ハーフ・タイムになると、松田はぼそっと口にした。ぼくも同感だが、なんとなく返事ができなかった。

「わたしも、こうしてひろし君を応援してた。まるで、違う世界から来た少年を見守るように」
 ぼくは過去のある日、その視線を意識してグラウンドで活躍できるように励んでいた。また、それと同じように別の女性の目も意識していた。応援されたことに恥じないように頑張ったが、ときにはそれは空回りになり、不甲斐ない姿を見つけられる結果にもなった。だが、そのときの苦みはもうぼくのどこにも残っていなく、ただ甘いものだけが記憶にあった。
 試合を終え、ぼくらはそこをあとにする。

「店長、お店は?」ぼくは再び会った彼にそう問いかける。
「むずかしいこと以外は、バイトの子がしてくれてる。オレは、大体がひとを信用するようにできているから」横で奥さんが笑った。ぼくは、彼に信用された思い出のいくつかを探っている。そして、彼の娘と遊んだ時間がそれの最たるもののような気持ちをもった。

「また、電話でもしますから」と言って、ぼくは彼らから遠退いた。
「まもるも帰ってくるから、きょうは、うちに来てくれよ」と、松田は言った。ぼくは、「そうする」と言って一回、実家にもどった。
 裕紀は姪っ子に会いたがり、彼らが待っているぼくの実家に寄った。生まれたばかりの子どもが、自分独自のものをもつように発達し、またそれは当然のことながら家族の誰かに似たものを受け継いでいく。甥っ子はぼくの幼少期の写真と似たような風貌をもった。とくに帽子を被っている姿など瓜二つと母に言われた。ぼくはそれで愛情を増す楽しさを知るとともに、責任というか何ともいえない縛られるような気持ちも生まれた。彼は、ぼくに似たものをもっているのだから、ぼくはその彼から慕われるような人間にならなければならないというもどかしいような気持ちだ。

 だが、実際はそんなことは意識もせずに、外の空き地でボールを蹴ったり、身体をぶつけ合ったりして遊んだ。その様子を見る母と妹には、言葉にはならないが、ぼくと裕紀にも子どもがいるといいのに、という感想があるようだった。裕紀もその横で姪っ子を抱き、なにかを話しかけていた。その姿は、ぼくの望んでいる形のようにも思えた。だが、それは一瞬の楽しみであり、裕紀はこの状態を直ぐに奪われることになる。

 しばし、遊んだあと、「またね」と裕紀は言って名残惜しそうに別れた。ぼくは迎えに来た松田の車に乗って、彼の家に向かった。

償いの書(78)

2011年07月09日 | 償いの書
償いの書(78)

 ぼくは、また特急電車に乗り、本社に戻ろうとしている。今回も週末を絡め、裕紀は自分の仕事の書類を手渡した後、遅い電車でやってくる計画になっている。それで、実家に泊まることはせず、ホテルを予約した。彼女が気兼ねしないようにと気を使った。なぜか、最近、疲れた様子を見せるようになった彼女を心配している。それは、いつもということではないが、周期的に訪れるようだった。

 仕事を終えてホテルに入ると、彼女は部屋のなかのベッドで寝ていた。いや、眠りから覚めたあとで、横たわっていた。
「どうした、疲れた?」
「いいえ、大丈夫だよ。なぜか、電車で眠れなかったし、昨日までの仕事がたたったみたい」
「社長に誘われたんだけど、ご飯を、断ろうか?」
「ううん、寝たら大丈夫になった。行こう」
 ぼくらは着替え、ホテルの鍵を受付に預け、そして、出掛けた。

「この夜の空気、ひさしぶり」彼女はこの土地で18年間過ごした。最後の2、3年をぼくは知っていた。それ以降、ぼくは彼女を失い、別の女性とこの町で過ごした。ぼくには甘美過ぎる思い出がたくさんあった。それゆえに懐かしさを通り越し、もっと自分に接近し身近なものに感じている。懐かしいという感慨は裕紀ほどには持っていなかった。

「こんばんは、久し振り、裕紀ちゃん」社長にとって、他人との境界というものはないらしく、直ぐ、その場で相手の懐に飛び込んだ。彼こそがラグビー選手のようだった。

「いろいろとお世話になっています」と、裕紀はすました表情で言った。こういったときに幼少のしつけのよさか彼女はいつも丁寧な対応ができた。それをぼくはよそよそしく感じるときもあり、また、感心することも多かった。

 社長は裕紀を相手にしゃべり、あまり言ったこともないがぼくの仕事ぶりをほめてくれた。そして、自分の息子の嫁と裕紀の交友のことを訊きたがった。ぼくは、自分も同じ家に住みながら知らない裕紀の一面に気付く。彼女の考え方や、物事の捉え方が社長の質問と相槌で自然と浮かび上がった。
 裕紀は酔いと疲れが混ざった様子を見せたのでそこを早めに切り上げた。眠る前に、
「明日、どうする?」という問いの答えをぼくは聞く。
「ここに、来る前に兄と会って、前の家の鍵を借りたので、行ってみる」
「じゃあ、その前に実家に寄って、車を借りてくる」
「もちろん、私もいくよ、あいさつしないと」

 翌朝、目を覚まし、ふたりで電車を数駅分だけ乗った。実家に寄り、世間話をした。ぼくの家族は裕紀のことが好きだった。だが、その愛情は、ぼくが彼女を捨てるようなことをした分だけ、正常なかたちでは表現されず、いくらか差し引かれた。息子の不義理を彼らは自分のことのように恥じていた。それは、裕紀がぼくを許していても変わらず、逆に許した分だけより一層、留まっているようだった。

 たまに彼女も、「ひろし君の家族はわたしに対して詫びるような気持ちがあるみたい」と言った。「わたしが気にしていないにもかかわらず」と淋しそうな表情を見せた。ぼくはその言葉に対して返答する覚悟も勇気もなかった。ぼくも、その両親の表情を見て、自分の過去の罪を思い返すのだ。そして、償うという行為も思い知らされるのだった。

 ぼくらは車を出し、目的地に向かった。道路や風景はいくつか変わってしまったが、ぼくらふたりの気持ちのなかにある原風景は描きかえられることはなかった。

「お兄さんは、どうだった?」ぼくは、彼らと会う権利を有しておらず、その様子を又聞きするしかなかった。
「さあ、最近はちょっと穏やかになったみたい」
「鍵も貸してくれたんだ」
「うん」と言って、彼女はぼんやりと外を見ていた。あっという間に目的の場所に到着する。彼女は門を開け、玄関の鍵を開けた。ぼくは、そのまま横から庭に抜けた。高台にあるその場所は眼下を一面に見渡せた。ぼくの気分はそこにいると直ぐに晴れた。

「ここ、覚えてる?」後ろから窓を開けた彼女がぼくにたずねた。ぼくは振り向き、少し上にある彼女の顔を見上げた。そこには不安気な表情があった。
「もちろんだよ、忘れることなんてできないよ」それは真実の言葉だった。ぼくらは、まだ17歳ぐらいだった。はじめてぼくは女性の身体を知り、彼女もそうだった。その場所がここだった。ぼくは、それから何人かの女性と親密な関係をもったが、あの最初の幸福感を忘れることはできなかった。そして、したくもなかった。

「そう、よかった」と言って彼女は目を閉じ、ぼくらは唇を重ねる。あれから、倍近くの年齢になり、ぼくらはまたここを再訪した理由と意図を探そうとしている。ぼくらには固い絆があり、何事もそれを離れさすことはできないという宿命にも似た気持ちがあった。いまの彼女は、そのような感情を求めているのだろう。ぼくもそれに意義はなかった。

 裕紀はコーヒーを入れ、ぼくらは縁側にすわり、それを飲んだ。ぼくは、彼女を失っていた月日を考えている。ぼくのことを思い出す日々があったのかということを夢想したが質問は避けた。ぼくは、彼女がぼくを思い出す場合には恨みしかないと脅えていたのだ。別の女性の胸に走った情けない男と定義して。

 だが、ぼくらは今日、ここにいた。コーヒーの旨さがきちんと分かる年代にもなっていたのだという仮りに若かりし熱情は去ったかもしれないが安定や積み重ねの大切さが分かった年齢でもあるということを安堵という重しにして。

償いの書(77)

2011年07月03日 | 償いの書
償いの書(77)

 笠原さんという女性から連絡がある。連絡をもらうまでは、もしかしたら頭の中から消えてしまっていた名前だ。消えるというのは言い過ぎかもしれないが、あえて思い出していろいろとこねくり回すということをしない対象だ。

 連絡をもらい、仕事を早めに切り抜け、ぼくは会いに行く。彼女は先輩の上田さんがいる職場で働いている。気転の利く賢そうな女性だった。そうだから曲がったことを許さなそうな一面も垣間見えた。彼女が交際している男性をぼくが紹介した。もちろん、そのこともたえず思い出している訳でもない。そうか、そういえば紹介したなぐらいの印象だ。それだからといって、責任がまったくないかといえばそうでもなかった。

「彼と知り合って、良かったです。プレゼントを何にしたらいいかと思って、選ぶのを付き合ってもらえます」という内容の電話からはじまった。
 夕方のデパートの前は人混みで混雑していた。バックや洋服を照らす明かりの前に彼女はたたずんでいた。
「待った?」
「ごめんなさい、急に呼び出して」
「ううん、たまには若い女性とも付き合いたい」
「そんなに、若くないですよ」
「そんなにね」

 笠原さんは困ったような表情をする。ぼくらはその表情を外に残したまま店内に入る。ぼくは裕紀の買い物に付き合うときはいつも別の場所で時間を過ごした。だから、女性の服が並んでいるところにずっといることはなかった。それで、笠原さんの気持ちも多少は分かった。男性の服や小物を選んでいるという状態に少しだけ耐えられないのだろう。

 シャツを見たり、ネクタイを見たり、財布の手触りを楽しんだりしながら、時間は緩やかに過ぎていった。店員はぼくらが交際していると勘違いして声をかけたり、やはり、他人であることを察して、笠原さんに、「どなたへ?」と質問したりした。その差をどう理解しているのかをぼくは考えた。ただ、それはキャリアの問題なのだろうか? それとも、人間としての勘の発達の度合いの違いなのだろうかと決められない問題をぼくはもてあそんでいた。

 結局は、シャツとネクタイを買った。ぼくのアドバイスがどう生きたかぼくは知らない。そもそも、彼がどのような色を好み、どのようなものが肌の色に合うのか分からなかった。ただ、ぼくは自分の好みを押し付けることだけは避けた。自分と同じような服を着ているひととすれ違うショックを逃れるためだろうか?

「ご飯ぐらい、いいですよね?」
 彼女は袋を手にし、その重みを計るようにぶらぶらさせながら上目遣いでぼくに訊いた。
「もちろん。そのつもりだった」
 ぼくらは駅前のロータリーを越え、ちょっと奥まった静かな場所にあるレストランに向かった。店内の照明は落とされ、ガーリックを炒めたような洋風な匂いがした。
「正直いうと、なぐさめるか、もしくは様子を伺うようにとも言われました」料理の注文を終え、少し寛いだ瞬間に彼女は言った。
「誰に?」
「上田さんに」

「何のこと? それより、ぼくと会うことも言ったんだ」
「彼といると、なんか隠し事ができなくなるみたいで。むかし、付き合っていたひとの旦那さんが亡くなったとかで」
「ああ、そのことか。もう何でもないよ」だが、そのことを他人の口からきかされると、ぼくの胸はうずいた。ぼくはずっと雪代の影響下で暮らすことになっているのだろうか、という心配も生まれた。
「でも、平気そうですよね。いつもと同じだった」

 スペインの国旗のような色合いのテーブルクロスを眺め、ぼくは自分の表情を考えている。そして、内面と外見の差異をひとはどのように感じているのかも案じようとした。そうするうちに料理は運ばれ、ぼくらは手や口を動かした。
「それより、高井君の話をきかせてくれよ。彼と知り合えて、良かったと言ってたね」

「ええ」と言って、口をナプキンで拭き、彼女はさまざまなことを話し出した。いったん、口が開けばそれは止まることを知らず、どんどんと流れ出すようだった。ぼくは、それを聞き恋のスタートの何たるかを知った。胸の高揚があり、多少の誤解と和解があった。新しい考え方に接し、それを吸収し変化する希望があった。ぼくは、そこにいない自分をなぜか恥じた。ぼくらは、もうそういうことを経験するには大人になり過ぎたようだった。ぼくらというのには、裕紀も含まれていた。そして、雪代はいつの日か誰か新しいひとを見つけ、そのような新しい希望を見出すのかと想像した。そして、ぼくの胸の中には小さな嫉妬があった。いや、嫉妬の手前のもっとわずかばかりの疑いの炎であったのかもしれない。だが、当然のことぼくが口を出せる問題でもなかった。

 ぼくは笠原さんを前にして、話題が仕事の話や上田さんの話にまで展開していることを知る。彼女といると心地良い感情が常にあった。彼女にはひとを和ます才能があり、ぼくは日頃のストレスが霧散していることにも気付く。いや、ストレスがあったことすら気付かないのだ。高井君もこのような状態を過ごしているのかと思うと、ぼくはそれにも嫉妬した。

 満腹になり、少しの酔いを抱え、ぼくらは店を出る。「今日は、ありがとう」という彼女の言葉がぼくの耳に残り、ぼくは吊り革につかまりながら、いま在るものと、むかしに無くしたものと、これから手に入れられるかもしれないいくつかのことを比較検討していた。

償いの書(76)

2011年07月02日 | 償いの書
償いの書(76)

 長らく関係が途絶えた相手に連絡をするのは、多少の緊張が入り混じるものである。時間は移ろいやすく、思い出は後ろに行き勝ちであった。大人からは容赦なく時間を奪い、逆に子どもには時間を与え、成長を、急速な成長を促す作用があった。自分の思ったとおりの時間のゆったりとした流れなど、もう自分の手にはなかった。ただ、どこかへ流されてしまわないように、頑強な浮き輪を見つけるような工夫が必要だった。そこに、裕紀もつかまっているべきだった。

 前置きが長いが、ぼくは久し振りに松田に電話をした。長い時間がふたりには挟まっていた。だが、友人というものが存在するならば、それは、時間を度外視して瞬時に前の濃密な関係に戻れることではないのだろうか。

「出張して泊まったホテルで何気なくテレビをつけたら、あの子が出てた」
「そうだよ、頑張っているみたいだ。いつも汚れたユニフォームを抱え帰って来る。でも、こっちのことをひろしは、忘れてしまったのかと思った」
「そんなことないよ。たまには本社にも戻っているし」
「でも、会いに来ない」

「そうだな、ごめん。社長と飲んで、家族と会って、妹夫妻と子どもに付き合って、という感じで直ぐ数日は潰れてしまう」
「雪代さんの旦那が亡くなったことは、知ってる?」
「もちろん」
「きれいなひとだよな、いまでも」
「そうなんだろうね」
「いつか、家に遊びに来てくれたよな」
「あの子は、まだ小さかった」

「あいつもなぜだか不思議とそのことを覚えている。遠くにきかされた昔話の一部のように」
「そうなんだ。良かった」
「奥さんは?」
「元気だよ」
「子どもは?」みな、いずれはその質問をした。善意もなく悪意もなく。それは、お腹が空いた? と訊くようなものと同様なのだ。

「いない。彼女は子どもが好きなのに」
「ひろしだって、サッカー少年と遊んでいるときがいちばん楽しそうだった」ぼくは、そのときの情景を思い出している。それは色褪せることなく、歴史による風化などありえそうもなかった。
「楽しかった。ただ、楽しかった」
「そういえば、ひろしがバイトをしていたスポーツ・ショップの女の子、うちのと同じ高校にいるよ」
「そうらしいね。まゆみちゃんという名前」
「こっちにもお前の歴史がある」
「みな、覚えてくれてるのだろうかね」

「地元の人間は、みな温かいものだよ。また裕紀さんと来ればいいじゃない」
「そうするよ」
「ひろしとの思い出を大切にしている人間が何人もいる。もちろん、オレも那美もだけど」
「いまもサッカーを教えるのは楽しい?」
「いまでは、あいつの父という役割にもなってる。それで、子どもたちが尊敬してくれる面もある」ぼくは、そのような事態を考えてみる。あの人間を教えた人は、当然、自分も同じような境地に運んでくれるのだという信頼感を。
「理想的だな」

「まあ、家族とか人間とか、自分が思ってもみない喜びを与えてくれるものだよ」彼は、世界を信用している。そのような境遇をずっと過ごしてきたのではないのだろうが、そう受け止めている。ぼくは、雪代に不幸を浴びせた世間を少しだけ、許していないのかもしれない。彼女が不幸せになってもいいのだろうか?

「裕紀も充分、与えてくれてるよ」ぼくは、負け惜しみのようでいながら、惚気のようなことも言った。
「うちの小さな会社だけど、ひろしのところからも仕事を貰うようになっている」
「そうみたいだね。ぼくが入ったときは将来性もなかったのに、ただ、社長の人柄を信じて入っただけなのに、思ったより成長した」その言葉は自分でも意外だった。しかし、紛れもない本心だった。もし、仮に社長の人柄が分からなければ、ぼくはもっと数字などを考慮に入れて仕事を選んだのかもしれない。だが、数字以上のものを彼らはぼくに与えてくれた。

 それから、少しだけ那美さんに代わって話をした。彼女は雪代のためにぼくに悔やみのようなことを言った。女性的な同情がそこにはあり、自分の夫への忠節のようなしっかりとした気持ちがあった。ぼくは、裕紀が、ぼくのことをそこまで信頼しているかを心配した。そして、もう両親のいない裕紀の境遇を嘆いた。ぼくは、せめて長生きをして彼女を守り続けようと考えている。

 電話の主はまた松田に代わり、ぼくらはもう重苦しい話は避けた。ふたりで遊んだ幼少期の思い出を語り、息子の未来を話した。それは、ぼくと彼の思い出の追体験ともなった。

「ひろしと関わった人間は、うちの息子もオレも、まゆみちゃんという女の子もみな、幸せになっている。ただ、雪代さんだけが、幸福を逃しているのかもしれない」

 ぼくは、その彼の客観的な言葉に驚き、自分の責任もどこかにあるのではないのだろうか、と心配した。だが、彼女はそれに耐えられることも、ぼくは何の確信もなしに信じていた。ぼくは、そういう魅力のため、遠い日々に彼女を愛したのだ。強かったどう制御もできない好意は消えても、その信頼はずっと無くならないものだということをぼくは電話を手にして感じている。