償いの書(120)
天気は快晴で、裕紀はベランダに立っている。洗濯物を干し終えてもそのままぼんやりと外を眺めていた。開いた窓からは小鳥のさえずりが聞こえた。彼女の化粧っ気のない顔と無造作に結んだ髪が見える。次第に顔色も良くなり、傍目には元気そうに見える。体内からも異物は、もう消えたのだろうか? 思い出すことは減ったが、やはり、ぼくは病院で寝ていた裕紀の姿を払拭することができなかった。当然といえば、当然だが。
「終わった?」
「うん。鳥が鳴いている」
「聞こえてるよ」
「地元とは、違う音だと思わない?」不思議そうな表情を彼女はしていた。
「そうかな」
「そうだよ」彼女はかごを抱え、それを洗濯機の横まで持っていくのだろう。テーブルの前を通り、一瞬そこに消えた。
「どっか、行く?」ぼくは、休日のひげの伸びた頬をいじった。
「笠原さん、いや、高井さんに誘われた写真展があるよ」
「そうだった」笠原さんの職場が企画している写真展があったのだ。その招待券を裕紀は引き出しから取り出した。世界の風景が鮮やかなカラーで撮られている。
「いいね、こういうところ。もっとわたしが元気になったら、旅行に連れて行って」
「まだ、不安?」
「ううん、別に。仕事も忙しいでしょう」
「有給がたまっている。社長にも頼める。優秀な社員だから」
「だったら、いくつかパンフレット貰ってくるよ」
「でも、言葉は裕紀に頼りきりになる」約束を待ち望んでいる未来。それをいつか果たすべく計画を練る。それも人生の一部だった。
ぼくらは着替え、外にでた。先程の鳥と同じものかは分からないが、同じような鳴き声を出していた。
「やっぱり、違うか」
「なにが?」
「地元では、あの鳥の声、もっと涼しげだった」
「都会では、爽やかさがなくなるのかも」
「裕紀は、あっちに行ってないね」
「ちっちゃい子たちに会いたいね」それは、甥や姪のことだった。退院してからもずっと会っていない。いつか彼らは手紙をくれて、裕紀の涙を誘った。しかし、現実の波は忙しく、ぼくらを無残に置いていく。それからも、電車の座席にすわり、甥や姪の成長について話した。彼らはたくさんの言葉のフレーズを自然と覚えていく。自分と他人の領域を考え、自分のことより妹の要求を優先させることを知る。それが普通にできていく。その過程を絶えず見ることのできる妹夫妻の幸福についても話した。
写真展が行われる最寄りの駅まで着いた。さっきの鳥が追いかけてきたのか、歩道の樹木の上で同じように鳴いていた。姿は見えなかったが。道にそって歩いていくと、ぼくと裕紀は笠原さんの姿を見つける。段々と仕事を覚え、たくさんの企画をつくり、そのひとつひとつをきちんと成果として産み出していった。知らない写真家を発掘し、その要望をききとり、写真を選び、レイアウトを考え飾っている。ぼくが知っていた彼女は頼りなさが可愛くもあったが、いまは、頼られるのが自分の一部にでもなっているようだった。
「ありがとうございます、来てくれて」
「笠原さんの仕事だもん、来ないわけには行かないよ」
「ひろし君は、言われるまで忘れてたんだよ」裕紀は彼女に告げ口する。
「まあ、忙しかったからね、今週は」しかし、笠原さんは笑って、頷いただけだった。
ぼくらは中に入る。適度にひとがいて、活気もあった。しかし、大混雑というわけでもなく、小声で話しても誰に迷惑をかけるようでもなかった。それで、ぼくらは、それぞれの印象を話す。アフリカがあって、中南米の道と前時代的な車が写っていた。エコロジーとは無縁の大型の車が自己主張をしていた。それは無遠慮とかではなく、ただ、そのひとの持つ個性が勝手に溢れてしまうというような印象だけがあった。人間も同じようなものだろう。自分を主張しすぎないでも、ある面では、そのひとの放つエネルギーが他人にも届くものだ。咳払いひとつで、機嫌の良し悪しが分かってしまうように。
ぼくは並べられた写真を見ながら、知らない場所が多すぎることを発見している。ぼくが暮らした小さな町から東京に出て、たくさんの知らない場所と対面したが、それをもっと拡大させないと世界のある部分は分からずに終わるという事実と直面する。いつか、ぼくは裕紀とこのような場所を巡ってみようという単純な決意をここでした。
「疲れた?」小一時間も眺めていたのだろうか。ぼくはそう尋ねる。
「ちょっと座ろうか」ぼくは彼女の背中を支える。笠原さんが、すると近付いてきた。
「あそこのお店で、ちょっとお茶でも飲むよ」ぼくは、ある方向を指差す。
「わたしも、休憩もらいました。いっしょに」
「そう」ぼくらは、歩く。
「わたしが考える理想の夫婦像ですよ」ある店に入り注文を終えると、笠原さんが華やかな笑顔で言った。
「誰が?」
「え? 近藤さんと裕紀さんのことですよ。やだな」
「喧嘩もするけどね、わたしたち。意見を変えないひろし君の頑固さに辟易することもある」
「でも、理想は理想。上田さんのお宅もそうですけど」
「彼は?」
「いま、もっと大きな仕事に関わっていて、昨日も徹夜みたいでした。いまごろ、寝ていると思います」愛すべき先輩を尊敬する気持ちがそこにあるようだった。普段、言葉にはしないのであろうが、そこにはきちんと温かな感情が滲み出ているようだった。ぼくも、このような尊敬を受けるに値するのかを考えていた。だが、自分でそれをどうこう操作できないことも充分に知っていた。
天気は快晴で、裕紀はベランダに立っている。洗濯物を干し終えてもそのままぼんやりと外を眺めていた。開いた窓からは小鳥のさえずりが聞こえた。彼女の化粧っ気のない顔と無造作に結んだ髪が見える。次第に顔色も良くなり、傍目には元気そうに見える。体内からも異物は、もう消えたのだろうか? 思い出すことは減ったが、やはり、ぼくは病院で寝ていた裕紀の姿を払拭することができなかった。当然といえば、当然だが。
「終わった?」
「うん。鳥が鳴いている」
「聞こえてるよ」
「地元とは、違う音だと思わない?」不思議そうな表情を彼女はしていた。
「そうかな」
「そうだよ」彼女はかごを抱え、それを洗濯機の横まで持っていくのだろう。テーブルの前を通り、一瞬そこに消えた。
「どっか、行く?」ぼくは、休日のひげの伸びた頬をいじった。
「笠原さん、いや、高井さんに誘われた写真展があるよ」
「そうだった」笠原さんの職場が企画している写真展があったのだ。その招待券を裕紀は引き出しから取り出した。世界の風景が鮮やかなカラーで撮られている。
「いいね、こういうところ。もっとわたしが元気になったら、旅行に連れて行って」
「まだ、不安?」
「ううん、別に。仕事も忙しいでしょう」
「有給がたまっている。社長にも頼める。優秀な社員だから」
「だったら、いくつかパンフレット貰ってくるよ」
「でも、言葉は裕紀に頼りきりになる」約束を待ち望んでいる未来。それをいつか果たすべく計画を練る。それも人生の一部だった。
ぼくらは着替え、外にでた。先程の鳥と同じものかは分からないが、同じような鳴き声を出していた。
「やっぱり、違うか」
「なにが?」
「地元では、あの鳥の声、もっと涼しげだった」
「都会では、爽やかさがなくなるのかも」
「裕紀は、あっちに行ってないね」
「ちっちゃい子たちに会いたいね」それは、甥や姪のことだった。退院してからもずっと会っていない。いつか彼らは手紙をくれて、裕紀の涙を誘った。しかし、現実の波は忙しく、ぼくらを無残に置いていく。それからも、電車の座席にすわり、甥や姪の成長について話した。彼らはたくさんの言葉のフレーズを自然と覚えていく。自分と他人の領域を考え、自分のことより妹の要求を優先させることを知る。それが普通にできていく。その過程を絶えず見ることのできる妹夫妻の幸福についても話した。
写真展が行われる最寄りの駅まで着いた。さっきの鳥が追いかけてきたのか、歩道の樹木の上で同じように鳴いていた。姿は見えなかったが。道にそって歩いていくと、ぼくと裕紀は笠原さんの姿を見つける。段々と仕事を覚え、たくさんの企画をつくり、そのひとつひとつをきちんと成果として産み出していった。知らない写真家を発掘し、その要望をききとり、写真を選び、レイアウトを考え飾っている。ぼくが知っていた彼女は頼りなさが可愛くもあったが、いまは、頼られるのが自分の一部にでもなっているようだった。
「ありがとうございます、来てくれて」
「笠原さんの仕事だもん、来ないわけには行かないよ」
「ひろし君は、言われるまで忘れてたんだよ」裕紀は彼女に告げ口する。
「まあ、忙しかったからね、今週は」しかし、笠原さんは笑って、頷いただけだった。
ぼくらは中に入る。適度にひとがいて、活気もあった。しかし、大混雑というわけでもなく、小声で話しても誰に迷惑をかけるようでもなかった。それで、ぼくらは、それぞれの印象を話す。アフリカがあって、中南米の道と前時代的な車が写っていた。エコロジーとは無縁の大型の車が自己主張をしていた。それは無遠慮とかではなく、ただ、そのひとの持つ個性が勝手に溢れてしまうというような印象だけがあった。人間も同じようなものだろう。自分を主張しすぎないでも、ある面では、そのひとの放つエネルギーが他人にも届くものだ。咳払いひとつで、機嫌の良し悪しが分かってしまうように。
ぼくは並べられた写真を見ながら、知らない場所が多すぎることを発見している。ぼくが暮らした小さな町から東京に出て、たくさんの知らない場所と対面したが、それをもっと拡大させないと世界のある部分は分からずに終わるという事実と直面する。いつか、ぼくは裕紀とこのような場所を巡ってみようという単純な決意をここでした。
「疲れた?」小一時間も眺めていたのだろうか。ぼくはそう尋ねる。
「ちょっと座ろうか」ぼくは彼女の背中を支える。笠原さんが、すると近付いてきた。
「あそこのお店で、ちょっとお茶でも飲むよ」ぼくは、ある方向を指差す。
「わたしも、休憩もらいました。いっしょに」
「そう」ぼくらは、歩く。
「わたしが考える理想の夫婦像ですよ」ある店に入り注文を終えると、笠原さんが華やかな笑顔で言った。
「誰が?」
「え? 近藤さんと裕紀さんのことですよ。やだな」
「喧嘩もするけどね、わたしたち。意見を変えないひろし君の頑固さに辟易することもある」
「でも、理想は理想。上田さんのお宅もそうですけど」
「彼は?」
「いま、もっと大きな仕事に関わっていて、昨日も徹夜みたいでした。いまごろ、寝ていると思います」愛すべき先輩を尊敬する気持ちがそこにあるようだった。普段、言葉にはしないのであろうが、そこにはきちんと温かな感情が滲み出ているようだった。ぼくも、このような尊敬を受けるに値するのかを考えていた。だが、自分でそれをどうこう操作できないことも充分に知っていた。