爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(120)

2011年10月30日 | 償いの書
償いの書(120)

 天気は快晴で、裕紀はベランダに立っている。洗濯物を干し終えてもそのままぼんやりと外を眺めていた。開いた窓からは小鳥のさえずりが聞こえた。彼女の化粧っ気のない顔と無造作に結んだ髪が見える。次第に顔色も良くなり、傍目には元気そうに見える。体内からも異物は、もう消えたのだろうか? 思い出すことは減ったが、やはり、ぼくは病院で寝ていた裕紀の姿を払拭することができなかった。当然といえば、当然だが。

「終わった?」
「うん。鳥が鳴いている」
「聞こえてるよ」
「地元とは、違う音だと思わない?」不思議そうな表情を彼女はしていた。
「そうかな」
「そうだよ」彼女はかごを抱え、それを洗濯機の横まで持っていくのだろう。テーブルの前を通り、一瞬そこに消えた。
「どっか、行く?」ぼくは、休日のひげの伸びた頬をいじった。
「笠原さん、いや、高井さんに誘われた写真展があるよ」
「そうだった」笠原さんの職場が企画している写真展があったのだ。その招待券を裕紀は引き出しから取り出した。世界の風景が鮮やかなカラーで撮られている。

「いいね、こういうところ。もっとわたしが元気になったら、旅行に連れて行って」
「まだ、不安?」
「ううん、別に。仕事も忙しいでしょう」
「有給がたまっている。社長にも頼める。優秀な社員だから」
「だったら、いくつかパンフレット貰ってくるよ」
「でも、言葉は裕紀に頼りきりになる」約束を待ち望んでいる未来。それをいつか果たすべく計画を練る。それも人生の一部だった。

 ぼくらは着替え、外にでた。先程の鳥と同じものかは分からないが、同じような鳴き声を出していた。
「やっぱり、違うか」
「なにが?」
「地元では、あの鳥の声、もっと涼しげだった」
「都会では、爽やかさがなくなるのかも」
「裕紀は、あっちに行ってないね」

「ちっちゃい子たちに会いたいね」それは、甥や姪のことだった。退院してからもずっと会っていない。いつか彼らは手紙をくれて、裕紀の涙を誘った。しかし、現実の波は忙しく、ぼくらを無残に置いていく。それからも、電車の座席にすわり、甥や姪の成長について話した。彼らはたくさんの言葉のフレーズを自然と覚えていく。自分と他人の領域を考え、自分のことより妹の要求を優先させることを知る。それが普通にできていく。その過程を絶えず見ることのできる妹夫妻の幸福についても話した。

 写真展が行われる最寄りの駅まで着いた。さっきの鳥が追いかけてきたのか、歩道の樹木の上で同じように鳴いていた。姿は見えなかったが。道にそって歩いていくと、ぼくと裕紀は笠原さんの姿を見つける。段々と仕事を覚え、たくさんの企画をつくり、そのひとつひとつをきちんと成果として産み出していった。知らない写真家を発掘し、その要望をききとり、写真を選び、レイアウトを考え飾っている。ぼくが知っていた彼女は頼りなさが可愛くもあったが、いまは、頼られるのが自分の一部にでもなっているようだった。

「ありがとうございます、来てくれて」
「笠原さんの仕事だもん、来ないわけには行かないよ」
「ひろし君は、言われるまで忘れてたんだよ」裕紀は彼女に告げ口する。
「まあ、忙しかったからね、今週は」しかし、笠原さんは笑って、頷いただけだった。

 ぼくらは中に入る。適度にひとがいて、活気もあった。しかし、大混雑というわけでもなく、小声で話しても誰に迷惑をかけるようでもなかった。それで、ぼくらは、それぞれの印象を話す。アフリカがあって、中南米の道と前時代的な車が写っていた。エコロジーとは無縁の大型の車が自己主張をしていた。それは無遠慮とかではなく、ただ、そのひとの持つ個性が勝手に溢れてしまうというような印象だけがあった。人間も同じようなものだろう。自分を主張しすぎないでも、ある面では、そのひとの放つエネルギーが他人にも届くものだ。咳払いひとつで、機嫌の良し悪しが分かってしまうように。

 ぼくは並べられた写真を見ながら、知らない場所が多すぎることを発見している。ぼくが暮らした小さな町から東京に出て、たくさんの知らない場所と対面したが、それをもっと拡大させないと世界のある部分は分からずに終わるという事実と直面する。いつか、ぼくは裕紀とこのような場所を巡ってみようという単純な決意をここでした。

「疲れた?」小一時間も眺めていたのだろうか。ぼくはそう尋ねる。
「ちょっと座ろうか」ぼくは彼女の背中を支える。笠原さんが、すると近付いてきた。
「あそこのお店で、ちょっとお茶でも飲むよ」ぼくは、ある方向を指差す。
「わたしも、休憩もらいました。いっしょに」
「そう」ぼくらは、歩く。
「わたしが考える理想の夫婦像ですよ」ある店に入り注文を終えると、笠原さんが華やかな笑顔で言った。
「誰が?」

「え? 近藤さんと裕紀さんのことですよ。やだな」
「喧嘩もするけどね、わたしたち。意見を変えないひろし君の頑固さに辟易することもある」
「でも、理想は理想。上田さんのお宅もそうですけど」
「彼は?」

「いま、もっと大きな仕事に関わっていて、昨日も徹夜みたいでした。いまごろ、寝ていると思います」愛すべき先輩を尊敬する気持ちがそこにあるようだった。普段、言葉にはしないのであろうが、そこにはきちんと温かな感情が滲み出ているようだった。ぼくも、このような尊敬を受けるに値するのかを考えていた。だが、自分でそれをどうこう操作できないことも充分に知っていた。
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償いの書(119)

2011年10月29日 | 償いの書
償いの書(119)

 ひとは、別のひとをどのように、また、どうやって記憶していくのだろう? 

 その記憶は年月とともに変わり、あの大変だったラグビーの練習も、ぼくにとっては甘美なものでしかない。そして、毎日の記憶は日々、更新され新たなものに書き換えられていく。しかし、昔の愛情や思い出は、もう一度ページを開かれるのを待っているだけだ。

 裕紀といっしょに過ごさなかった期間があり、ぼくはその為にひとりの女性というより、2人の女性として区分けしてしまうようなこともあった。前期の裕紀と、後期の裕紀。少女でありつづける裕紀。大人の女性になった裕紀。ぼくが手放した裕紀。ぼくが取り戻すことのできた裕紀。ずっと連続性があれば、そうは思わなかったのかもしれないが、同一人物でありながら、ここでは、昔の裕紀の一面があるとか、思ったりした。

 裕紀は、ぼくのことをどう思っているのかは知らないが、ある点では同じようなこともあるのだろう。スポーツ選手としての自分と会社員の自分。まだ未来を自分のものにしていなかったぼくと、生活をコントロールする術を身につけた自分。

 ぼくが彼女の前にふたたび表れた時、ぼくは高校生でもなければ、ラグビーもしていなかった。東京という場所でスーツを着て、コンビニエンス・ストアの中で飲み物や雑誌を物色していた。その姿を彼女は見つける。話しかけるのを戸惑う。ぼくは、その瞬間を第三者のように客観的に思い描いてみる。ぼくらが別れてしまって、数ヶ月後のことではない。8年ぐらいは時間が経過していたのだ。別人にもなりえたし、やっぱり、あのひとだと思えることもあるのだろう。ぼくも裕紀のむかしの面影を探し、また、前とは違う大人の部分を認識して把握しようとした。それは、人間の脳にとっては簡単で可能なことかもしれないが、もっと違う感情という領域では、異なった反応をする。ぼくには自分で犯したゆえの後ろめたい気分もあった。しかし、人間はまったくの別人になることはできず、その8年間の差をいとも簡単につなぎ合わせた。

「裕紀なんだろう?」ぼくは、あの瞬間をちょくちょく思い出す。最近になっても。
「やっと、気付いた」
 そうすると、彼女もぼくの差などないということで、把握していたことになる。

 ぼくは、テーブルの前でこのような考え事をしていた。そこに、裕紀が買い物をした袋を提げて戻ってきた。袋から大根の先がとび出していた。ぼくは、その様子を眺めている。
「どうかした? 音楽、かけていい?」彼女はCDのケースを開け、盤面を取り出した。ブラームス。ぼくは、自然とその旋律を覚えてしまった。その曲を未知の場所で聴いても、裕紀のことを思い出すよう記憶はインプットされていた。その後、食料を選別して冷蔵庫に入れている。
「ビールでも、飲む?」
「うん、いいね」彼女はグラスを食器棚から取り出し、ビールを片手にこちらに持ってきた。
「裕紀の8年間を知らないと思ってた」
「留学して、こっちに戻って、働いた。その前の、16年間も知らないことを知ってる?」
「それは仕方のない期間」

「どっちも仕方のない期間。ひとくち、もらっていい?」裕紀は首をそらせ、喉に流し込んだ。その細い首をぼくは見ている。まだ、学生のときに彼女の首を飾るためにプレゼントを贈ったような気もしているが、あれは別の誰かだったのだろうか。「おいしい」

 ぼくの手にグラスが戻り、それを飲んだ。そして、注ぎ足した。裕紀はガスレンジを点火させ、なにかを炒めだした。ピーマンの匂いがして、火力が強くなった音がした。夕暮れになり、今日も一日が締め括られようとしている。ぼくは、かれこれ10年ほどの裕紀の継続した思い出があることを知る。26歳からの10年間。元気なときもあれば、病気で打ちのめされた時期もあった。回顧するには早い時期だが、ぼくはビールで軽く酔った柔軟な脳に、思い出のいくつかを浮かべ、それを楽しんでいた。

「これ、食べる?」料理が皿に並べられる。ぼくらは何度も一緒にご飯を食べ、話して笑った。ときには口げんかをして、どちらかが折れて謝った。それを10年ほどした。そして、これからも、もっとする。
「もう一本?」
「自分で取るよ」冷蔵庫の前にはメモが貼られていた。見たいテレビ番組の予約録画を忘れないことらしい。彼女が留学していた場所を旅行する番組があった。人間の記憶にある土地が鮮明に彩られ、その場所を見ただけで、さまざまなことを思い出すことになる。「これ、今日? テレビ」
「あ、そうだ。10時から。忘れてたら、言って」

「いや、いま、予約しておくよ」ぼくは缶ビールをテーブルの上に置き、いったんそこから離れてテレビの前に来た。リモコンを操作して、予約を成し遂げた。ぼくらはあそこで再会することが、プログラムとしてあったのだろうか? ぼくの別の人生というものが可能性としてあるならば、それは誰と出会い、誰がこのような家の中で料理をしていたのだろう。シアトルの番組を見る彼女。そこにも彼女の思い出があり、ぼくと暮らす家で、そのときを思い出す。行われた友人との会話や、いっしょに買い物に行ったときの楽しいエピソードを10時から彼女は披露するのだろう。その空白の期間のぼくの思い出は、別の女性のことを出さないと、なにも話せないような気がする。
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償いの書(118)

2011年10月23日 | 償いの書
償いの書(118)

 ぼくは、手帳に書かれている何人かの電話番号を仕事が空いた時間に眺めている。いつか、と思って連絡をとるのをやりすごし、いくらか疎遠になっている。だからといって、忘れているわけでもなければ、無視しようと決意しているわけでもない。良い時期になって、良いタイミングで再会できることを望んでいる。そのひとたちが永遠にいなくなることなど信じてはいない。

 積極的には会いたくもない島本さんだったが、彼の連絡先も書いてあることを発見する。そこに電話をかけても、もちろん彼は出ない。誰か別人にその番号が渡ったのか、それともただコール音が響くだけなのか分からない。もちろん、それを試してみる気もしない。ただ、いつかぼくらはお互い白髪になって、あのときに戦った一員として、(ラグビーでも、雪代のことでも)話してみるのもありだったなと感傷的になってしまった。その番号を見ただけなのに。

「なんか、大切な予定でもあるんですか? 結婚記念日とか。例えばですけどね。大体、忘れますよね、男性」となりの女性は、キーボードを叩きながら、ぼくに話しかけている。そのふたつの行為をしている脳の仕組みを考えている。
「大体、忘れるね、男性。なんか恨みとか、良くない記憶とかがあった?」
「いいえ、わたしは数日前に思い出させますから」
「そう、仕事と同じだ」
「そう、失敗とか、あの時ああ言っておけばとかいうのが、もっと嫌いなんです。だから」
「合理的」

「そういうかもしれませんね。それで、あのこと延びてますよ。近藤さん」ぼくは忘れようとしている仕事を思い出させられた。そうなのだ、あれをしなければいけないのだ。
「コーヒー飲んだらするね」
「そうして下さい。助かります」
 しかし、ぼくは相変わらず手帳を見て、記念日の総ざらいをしようとした。結婚記念日? 退院した日。それは永遠につづく作業のように思え出したので、切り上げて仕事に向かった。先ずは、電話をして予定を組み、それから逆算して資料を練る計画を立てた。

「今度、会ってくれるって。あの資料を期日までに作ってくれる?」
「もう、出来ているんです。プリントアウトしましょうか?」
「そう、早いね。して」彼女はコピー機の横に立ち、数枚の紙を丁寧にトントンと机で音を立て、角を揃えた。
「間違ってたら、あとで直します」
「間違いなんかないでしょう」ぼくは受け取った資料を眺め、赤のボールペンを握った。それは訂正するより、ただ紙の端にチェックを入れるために使った。「問題なし、相手のために3部作って、ホチキスで止めるだけ」
「なくすといけないので、前日でいいですか?」
「いいよ。合理的」

「外出する時間が迫ってるのを、知ってますよね?」ぼくは腕時計を見る。本当だ。紙コップを握りつぶし、トイレに向かった。ネクタイの膨らみを見て、自分の髪型を見た。好印象。それだけが自分を創っているような錯覚を抱いた。
「じゃあ、行って来ます」

「行ってらっしゃい」ある人間の段取りのことを考えている。学歴でひとを雇い、クリエイティブな面を見て、事務能力を見る。うまくフィットするひともいれば、もれるひともいる。ぼくは結婚するために裕紀のどこを見たのか、彼女は逆に自分のどこを見たのかと考えをつなぎ合わせた。最大の人事。

 仕事をしながら上田さんの会社のことを考えている。なにかを創作するということに長けたひとたちが集まっている。それを、とてもうらやましいと思っている。ぼくは建築を学んだが、それを現実の生活で生かすことはできなかった。ただ、相手が気に入るものと自分が持っているものを折衷するだけだった。だが、多かれ少なかれひとびとはそのような立場にいた。自分が買いたい靴は売っているものから見つけなければならず、それを最初から作るわけにはいかない。そういう気分で外出を追え、帰りに洋菓子屋に寄った。ぼくの居ない間にぼくのために(大きくいえば会社のため)働いてくれる人。自分の思いの翻訳者。そのために甘いものを買った。裕紀もいまごろは自分の人生のために働き、ぼくの暮らしのためにも用を片付けているのだろう。

「合理的じゃないかもしれないけど、こんなのが目について」とお菓子の箱をとなりの女性に渡した。
「ありがとうございます。なにか入れます?」彼女はぼくのマグカップを持つ。
「自分でするよ」
「わたしののついでです」
「じゃあ」でも、違った言い方もあるだろう、とぼくは考えている。しかし、そのひとなりの良さがあり、それぞれの欠点があった。ぼくにも数え切れないほどの欠点があり、みなは、それに注視することもなければ、逆に補ってくれることもある。それが会社でもあり、社会でもあるのだろう。理想論にきこえるのかもしれないが、ぼくはラグビーでこういう考えを身に着けてしまった。ぼくのその時代が引っくり返らないように、ぼくの考えも覆されることはないのだろう。

 ぼくは、コーヒーを飲み、資料をまとめた。となりの女性は帰る仕度をしている。そして、引き出しにものをしまい、帰っていった。ぼくの腕時計は5時32分。ぼくも、今日ぐらいは早く帰って、家のことを手伝おうと思っている。その手伝いは裕紀にとって合理的ではないかもしれないが、手伝う気持ちが大切なのだと勝手に思い込んでいた。
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償いの書(117)

2011年10月22日 | 償いの書
償いの書(117)

「あの絵、まだ飾ってあるの?」と、筒井という女性はぼくに訊く。彼女はぼくの会社が管理しているビルで、画廊を開いている。以前、裕紀によく似た少女が描かれている肖像画を譲り受けた。

「ええ、あります。壁に」それは、裕紀にとてもよく似ていた。少女の頃に。だが、実際の彼女はそれから、たくさんのものをくぐり抜け、あることを失い、あることを手に入れている。そういう年齢になったのだ。

「変わらない?」
「変わらないものもありますし、変わるものもあります」
「哲学的ね」彼女はうっすらと微笑む。「島本君の奥さんは元気?」
「さあ、知りません。会ってないから」
「今度は、淡白だね」

 ぼくらは契約の延長のために会って、書類を前に話し合っていた。それも済んで、現況を報告しあうという状態にいた。彼女の爪の色をどのように形容したらいいのだろう。彼女はペンを取り、書類に文字を書き込む。その普通の動作にも色気が侵入していた。ぼくはその際に彼女の爪の色をのぞき込む。

「女の子がいたんだよね。島本君には」
「そうでしたね」
「いくつぐらいになったんだろう?」
「まだ、10歳にはなっていないと思うけど・・・」自分がまだという言葉をつかったのを不可解に感じている。もうではないのか。まだ、というのにはあまりにも大きくなっていないだろうか。
「島本君に似ているのかしらね?」
「どうなんでしょう? 彼のことを思い出します?」

「まあ、多少はね」そして、目をつぶって何かを思い出しているような素振りを見せた。閉じた目の上のまつげは綺麗にカールされ、それが作られるのにはどのような行程がそこにあるのか、ぼくは考えようとした。ぼくらはその島本さんを介在にして知り合った。彼はいなくなったが、ぼくには仕事の関係で彼女と時折り会う必要ができた。そして、彼が不意に亡くなったときにぼくらは慰めあうようにお互いに抱き合った。そうすることは頭ではいけないと思っていたが、誰かの死に立ち向かうときには、また重要でもあるのだと自分を肯定した。そして、その場から救われた。ぼくも、彼女も。死はぼくらをも飲み込むかもしれないという童話のような設定が厳然とあった。もっとも当事者である雪代は、どのように立ち向かったのかは知らなかった。

「では、あと数年、会う理由ができた」彼女は、コーヒーを飲み終え、そう言って立ち上がった。バックを持ち、上着をもう片方の腕にかけた。必要な動作はすべてしたのか気にかかるように、店のドアを出る前にこちらを振り返った。ぼくは小さく首を下げ、窓の外の彼女を目で見送った。現実の存在がいなくなったせいか、ぼくはある日の彼女をより鮮明に感じることができた。彼女は泣く。その涙が頬を伝わるゆっくりとしたスピードを思い出す。ぼくらは抱き合う。彼女の肌の温度や匂いを思い出す。いや、それは意図して思い出すというものではない。浮かび上がるようにぼくの脳裏を駆け回った。

 ぼんやりとした時間を過ごし、書類に不備がないか再度、点検してまたカバンにしまった。店先のレジでお会計を済ませ、外にでた。彼女をぼくはあの日、島本さんのために支えたのだろうか? なぜ、ぼくは筒井という女性を支え、裕紀に告白できない状況を作り、さらに本当の奥さんである雪代のこころに対して無頓着であったのだろう、という3つのことを交互に考えた。それも、違う。3つのことを同時に考えたのだ。

「書類、あります?」職場に戻ると、ある女子社員はこれから予定でもあるのか性急にそう言った。ぼくは、カバンから先程の書類を取り出し、彼女に投げ出した。ぼくの思い出は性急さなど入り混じってはいけないのだという風に。

 筒井さんは裕紀に似た少女の絵をくれた。彼女と島本さんには関係があった。島本さんは雪代の夫でもあり、ぼくはその3人の女性を知っていた。同時ではないがそれは交互に知っていた。同じ職場にいながらも、詳しく知らない女性と表面的に接している。ぼくは、自分でコーヒーを入れ、パソコンの画面に向かった。

 メールには、筒井さんからの連絡があった。特別、返事は必要ないようでもあったが、ぼくは数行、文字を打ち込む。それをまたチェックして送信した。

 横にいる女性は、机の上をきれいに整理して、みなに挨拶をして職場を去った。5時31分。素晴らしい。ぼくは彼女についてのつまらない冗談を言い、いくつかの笑い声を誘った。それにも飽きると気分転換のようにトイレに立ち上がった。戻ってくると、
「社長から、次回の会議のことで電話がありましたよ」と、言われた。社長はもう帰って、どこかで飲んでいる時間だろうと思っていたので、連絡を避けていたが、ぼくは受話器を持つ。

 離れた場所にいるひとびと。知っている電話番号。それでも、会話をしない他人にはなりきれないひとたち。ぼくは、その何人かを思い浮かべ、先頭にいる雪代の存在を思い浮かべた。彼女の娘は、どのような感情を父に持ち、また母とどれぐらい仲が良いのか考えようとしたが、社長の大きな声を耳にすると、そうした些細なことは直ぐに忘れてしまった。
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償いの書(116)

2011年10月16日 | 償いの書
償いの書(116)

 翌日になり、早朝ぼくらは砂浜を歩いている。ひとはあまりいなく、世の中が活動を始める前の静かさと同時に、これから動き出す予兆みたいなものもあった。小石や小枝を拾い、ぼくはそれを投げた。こうした意味もないことが生きている証拠になった。犬を散歩させるひとがいて、それを追いかける小さな女の子がいた。犬はぎりぎりのところでつかまらず、かといって大幅に逃げ出すということもしなかった。適度な距離感を保ち、自分の与えられた自由を楽しんでいるようだった。

 そこに濡れた身体をそのまま拭きもせずにある男性が海から上がってきた。彼の身体の横にはサーフィンのボードがあり、生まれたときから持っていたように、しっくりと馴染んでいた。ぼくはしっかりと見ていたわけではないが、目の端にその姿が映っていた。

「こんにちは、海っていいでしょう?」思いがけなく、彼と通り過ぎようとした瞬間、声をかけられた。
「ええ、あ、昨日の・・・」昨日、ビールを飲んだ場所の店員だった。ミスター・フランク。
「奥さん?」
「昨日、飲んだビール屋のひと」と、先ずは裕紀に説明する。「そうです。朝の散歩」
「もっと太陽を浴びたほうがいい」彼は、今日も言葉の連なりの必要性を感じていないようだった。
「そうね。ちょっと前まで身体の調子が悪かったので。いつも、海に?」
「ええ、これも償い」
「どうして?」ぼくは疑問にもつ。その言葉は、ぼくが裕紀のためだけに使うよう隔離していた言葉なのだ。誰かが軽々しく用いてはいけない。

「小さな娘を海で亡くした」
「いつごろ?」裕紀がたずねる。
「そう前じゃない。でも、不注意だった」
「それで、海に?」
「もともと趣味だけど、海が好きな男の娘は海に奪われた」
「いまでも、探しているの?」
「いや、冷たくなった娘はその日に見つかった。嫁とぼくはこじれたけど、いまでは、なんとか修復した」
「残念ですね」
「あのときに、あのビールをそれこそ浴びるように飲んだ。それが助けになった。この理由を聞かなくても、美味しかったでしょう?」
「うん、美味しかった」

「ランチに来るといい」と、言って彼は去った。ひとを失った人間。それも、もっとも大切な人間を。ぼくらは大事な予定などなかったが、昼をどこで食べれば良いかは決められてしまったようだった。

 それから5、6分ホテルから離れたほうに歩いたが、そろそろ戻って朝食を食べる時間になったので踵を返した。食事をする場所には太陽が照りつけ、みなは日陰の席を選んでいた。ぼくらは、先程の言葉を思い出したかのように、太陽の視界にはいっていた。

 食事を終え、午前中ぼくらはバスに乗り、観光スポットをまわった。それぞれの歴史があり、それぞれのひとびとの生活があった。ぼくは地元のことを思い出し、自分らの町の歴史を思い浮かべる。だが、当事者ゆえにぼくは何も知らない事実を知る。そして、10年も住んだ東京のある一角のこともなにも知らないことに気付く。ぼくは、いったい、なにを見て歩んできたのだろうという疑問だけが残った。

 だが、そう真面目なことばかり考えていたわけでもなく、観光地にいるという体験だけで、ぼくのこころはどこか緩んでいた。そして、引き寄せられるようにあの店にランチをしにいった。
「こんにちは。待ってたよ」彼は、今日もひとを上下で判断しないようだった。この先もずっとだろう。「今朝、言ってたひとたち」

「こんにちは。メニューは私が決めさせて。どうしても嫌いなものがあったら残してね」奥さんも同じように警戒をするとか遠慮をするとかの美学をもっていないようだった。だが、不思議とぼくらは厭な感じをまったくもっていない。逆にここで育ったような錯覚ももてた。古い友人に出会うように。

 ぼくは、ビールを貰う。彼が娘を失ったことに対処した勝利の記念として。裕紀もひとくち飲んだ。おいしかったのか、またそれをおかわりした。

 ここに彼の娘がいて、ぼくらの周りを動き回り、そして、大人になって彼のようにボードを持って海から上がって来る姿をぼくは想像した。彼らは白髪やしわを手に入れ、娘のボーイフレンドと夜の海をみながら、話し合うのだ。このように、ビールが作った幻影をぼくは楽しんだ。

「ありがとう、来てくれて」店主の妻は料理を運びながら、ぼくらに言った。アメリカの南部の料理のようでもあり、中東のどこかの香辛料を使ったかのような匂いもした。「なんか、大切なひとが今日、来てくれるような気がしていた」
「どうしてですか?」

「あれから、2年経ったから」全部、言わなかったが、それは娘が亡くなった日なのだろう。ぼくは、それにどう返答していいかも分からなかったので、ただ黙って、それに続いてスプーンを手にして料理を口に運んだ。

「おいしいね」裕紀は、表情をほころばせながら、そう言った。
「ぼくらも、あれから1年経ったとか、2年経ったとか言いたいもんだ」それは生存の記念だった。失った日々を数えるのではなく、戻った月日を勘定するのだ。それだけ、ぼくは幸運でもあり、彼らの擦り切れた感情に同情した。食事を終え、ぼくらは店のカードを貰った。連絡先と営業時間が書かれたシンプルなものだったが、
「営業時間は、あって、ないようなものよ。ここにいれば開いている」と妻のほうが付け足した。
「海に来て良かったね。また、来年も来ようっか?」と裕紀は訊いた。ぼくは、ただ頷いた。
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償いの書(115)

2011年10月15日 | 償いの書
償いの書(115)

「たまには海でも見に行くのって、どう?」と、裕紀は急に思い出したように言う。
 ぼくらは海水浴に親しむ年代を越えていた。連れてくれとせがむ子どももいなかった。それで、あの潮風に吹かれる感覚から次第に遠退いていた。
「いいね。来週でも行こうか」

 だからといって、ぼくらは水着を買うわけでもなく、花火を用意するわけでもなかった。ただ、1泊できるようツインのベッドがあるホテルを予約した。しかし、どこかでこころの高揚があった。なぜだろうか、海には不思議とひとを高めるものを内在させているらしい。まだ、見ぬ前からにせよ。

 ぼくらは週末、特急電車に向かい合って座り、ぼくはビールの缶を開け、裕紀はお茶を飲んでいた。すると、海の匂いが近付いてきたと思っていると、ぼくの左側に海岸線が見え、裕紀の右には海辺に生えている木が見えた。それも断続的に民家と交互に見えていたが、途中でずっと海だけの景色になった。開放という言葉がその景色には似合っていた。また、ビルやひとびとの家の風景に戻り、終点の駅に着いた。ぼくは両手に荷物を持ち、裕紀はポケットから切符を探していた。

 駅の前で案内板を見て、ホテルの方向を探した。そこに向かって歩き出すと干物を並べている店があって、裕紀はそれを覗き込んで魚の名前を言った。それをアメリカでも食べたと告げ、太平洋のことをぼくは思い浮かべている。ぼくらは、ある時期その両端にいたのだ。その場所は遥かに遠く、ぼくらのこころはもっとそれ以上に遠かった。ぼくは、2度と会うことはないと思っていたし、こうして、ここで一緒に並んで歩いていることもそれゆえに奇跡のように感じていた。

 ホテルのカウンターで自分の名前を署名し、鍵を受け取る。その数字は725と書いてあった。それは彼女が退院した日付けでもあった。ぼくは裕紀の顔を見る。ぼくら二人はその数字の意味合いを知っている。

 その鍵を使って部屋に入ると、裕紀は、
「選んだの?」とたずねた。
「いや。最上階と海側とだけお願いした。いちばん上が8階か9階かも知らなかった」
「なにかの記念なのかもね」疲れたように裕紀はベッドの端にすわった。ぼくは窓辺に寄り、カーテンと窓を開けた。潮風と波の音が感じられた。
「裕紀も見れば、きれいだよ」彼女の足取りは重いようだが、こちらに歩いてきた。
「ほんとだ。きれいね」
「疲れた?」
「ちょっと、横になってもいい?」
「いいよ、外歩いてくるね」
「どうぞ」ぼくは、またカーテンを閉め、少しだけ窓を開けたままにした。部屋の熱気をこもらせないように、換気のことを考えていた。

 ぼくは、鍵を持ち、エレベーターでロビーまで行った。カウンターの男性は儀礼的な小さな会釈をして、ぼくを見送った。外に出たぼくは緩やかな坂道を海に向かって歩いていた。小さな子がサッカーボールを道路のうえで蹴って遊んでいた。ぼくは見たこともないナポリというところを歩いていると想像したり、バルセロナというところにいると夢想した。ぼくはずっと独り身で、むかしに知っていた10代のころのガールフレンドといつか再会するのだという空想をもてあそんだ。そして、会ったら真っ先に自分のした過ちを具体的に説明して謝るのだ。

 だが、そんなことはずっと考えていられるわけもなく、海辺にあった店に入った。木の床は適度にペンキが剥がれ、砂を踏んだ感触が心地良かった。

「なににしましょう?」ぼくは、小さなアンブレラが乗っかっているようなカクテルを思い浮かべるが、自分の口から出る言葉は普通に「ビール」という単語だった。
 店員はいったん引き下がり、見たこともない銘柄のビールの瓶と冷えたグラスを持ってきた。
「旅行で?」彼は複数の言葉を連ねるという行為をしないらしい。
「そう、旅行で」
「ひとり?」
「いや、妻はホテルで寝ている」
「昼寝って、気持ちいいですよね」彼はさも、自分がそこから起きたように身体を伸ばした。

 ぼくは自転車で通り過ぎるひとを見て、ウインドサーフィンを楽しんでいるらしい小さなシルエットを遠くに見ていた。会話がないことをもどかしくも思わず、ただ太古からの音をきいている。

 夕日が沈む前にぼくはもう1杯飲み、
「これ、おいしいでしょう?」と自信ありげに店員が投げかける言葉を聞く。「奥さんにも紹介するといいよ」
「うん、そうします」と言ってグラスのふちに口をつける。

 勘定をして、ぼくは緩やかな坂道を登る。ぼくは、もう独り身の想像ができなかった。裕紀はもう目を覚ましているのだろうか。カウンターを素通りして、725と書かれた鍵を使う。裕紀はシャワーを浴びたようで髪を乾かしていた。

「ごめんね、ひとりにさせて」
「いや、おいしいビールを飲んだよ。不思議な店員がいた。ああいうひとが誰とでも友人になれるんだろうね」
「わたしとも。人見知りだよ」
「うん」それは、答えにもなっていない。裕紀の髪は乾き、彼女は化粧を始める。ぼくも服を脱ぎ、シャワーを使うために扉をあけた。浴槽のなかで目をつぶってお湯を浴びていると、725という数字が脳裏に浮かんだ。ぼくはそれを思い出したくもなかったし、逆に忘れたくもなかった。ただの数字の羅列が意味を持つことなども知らなかった。目を開けると、さっきの鏡の前に座っている裕紀の姿の残像があった。
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償いの書(114)

2011年10月10日 | 償いの書
償いの書(114)

「今日、何時ごろに仕事終わるの?」朝、玄関で靴を履いていると、裕紀が背中から声をかけた。ぼくは振り向き、靴ベラを彼女に手渡した。
「どうかした?」
「いや、ね。前の職場に行く用があって、夕方からだから、その後、帰りに一緒にどうかなと思って」
「いいよ、7時ぐらいだけど。どこかで待ち合わせをする?」
「あそこのコンビニの前がいい」

 そこは、ぼくが東京に出て来て、彼女と思いがけなく再会した場所だった。雪代と別れ傷心な状態でもあり、不慣れな仕事であせっている状況でもあった。そんな時に、ぼくらはそこで出会った。正確には、ぼくは最初の1ヶ月ぐらい彼女に気付かず、もちろん、このような場所に彼女がいることなど頭にはなく、それゆえに見たときは亡霊でもいるかのように驚いた。それも違う。以前、知っていたひとが時間の経過と共にどう変化するのかについていけなかっただけなのかもしれない。

「裕紀なの?」と、ぼくはそこで訊いた。
「やっと、気付いた」彼女はもう既にぼくのことを数回、見ていた。ぼくの方からの酷い別れがあり、彼女は許す側の人間だが、怒りということ自体に無頓着のようでもあった。もしかしたら、ぼくから声をかけるのは失礼だったのかもしれないが、ぼくは東京で心細く、見知った顔を必要としており、また、「やっと、気付いた」という裕紀の言葉の裏には、ぼくを避け続ける理由をもっていないという証拠のようでもあった。

 数語の言葉を交わしただけで、ぼくらはそれぞれの職場に向かった。ぼくは、いつか名刺を渡したようにも覚えている。それから、また交友を再開することになり、それは徐々に頻繁なものに移行し、結局は交際が復活して結婚した。そこは、そのスタートの場所だった。ある面では記念のものでもあり、ある面では運命の担い手になる場所でもあった。

「ちょっと、店の雰囲気が変わったよ」彼女は、あまりそちらに行っていないはずだ。
「そう、でも、場所は変わらない」
「変わってないよ、じゃあ、そこで」
 ぼくは、仕事に行く。裕紀は靴ベラを左右に振った。それは指揮者のようでもあり、また扇子で自分をあおいでいるようにも見えた。ぼくの今日の予定は決まり、逆算して仕事の能率化を考えた。

 ぼくらは結婚して同じ電車に乗って通勤した。生活にもゆとりができ、裕紀は仕事を辞めた。それでも、暇な時間を使って、いくつかの仕事を継続して請け負った。だが、身体をこわして、ふたたび辞めた。それ以降、どうにか元気になって、また何割かに減らした仕事をこなしている。それは、お金というより成果の問題だった。目標を設定してクリアするという行為だった。そして、いくらかの生きがいも混じっている。ぼくの仕事は、生活の土台であり、ぼくら二人が暮らす元手だった。そこに楽しみも含まれていたし、やりがいもあったが、手放すということを考えに入れる問題でもなかった。ぼくは、その生活の流れやサイクルを電車の吊り革につかまりながら考えている。そして、駅に着く。

 一日は、あっという間に過ぎ、何本かの電話を終えて、明日に持ち越したメモを作り、机の引き出しにしまって、職場をあとにする。夕日はもうどこにもなく、ただ夜という状態になっているのを認識しただけだった。階段を降り、歩いて数分するとコンビニの前に着いた。ぼくは、いまでもそこで水やときどき必要なものを買っていた。見慣れた店員はぼくと裕紀を見比べている。「あの人が妻なのか」という表情をしている。彼は、直ぐに表情にこころが移行する人間のようだった。ぼくは小さく会釈して、裕紀に声をかけた。

「待った」
「ちょっと、この周辺を歩いていた」
「荷物、カバンに入れようか」
「ありがとう」ぼくは書類が入った封筒を裕紀から受け取った。
「変わった?」
「変わったような、変わんないような。でも、わたしがいちばん変わったのかも。あれから10年」
「そうだね、10年近くになる」
「東京のことを知らない青年はなんとか自分の居場所をつくった。わたしは、ちょっと迷惑をかけた」
「また、そういうことを言う。全然、気にしてないよ。ぼくの人生は裕紀とここで会ったことで出発したんだから」
「再出発」
「正確にいえば、そうだけど、ビギニング。スタート。開始」

「あの日、わたしはずっと声をかけられなかった。もしかして、わたしの存在を避けるようになるかもしれない。ゆり江ちゃんからひろし君は罪悪感をもっているようだとも聞いていた。自分の罪を思い出すのは、ひとは楽しいことだとは思わないから」
「楽しくなくても、いつか、向き合わないといけない」
「向き合った」
「ぼくは、声をかけても裕紀と会う方法はまだしらない。裕紀がここらを避けて歩けば、探すことはもうできなかった」
「でも、職場が近かったから、いつか、つかまったよ」

 ぼくらは、過去の自分たちの運命を会話として楽しんだ。そして、結論として、ぼくらは何かに導かれるのだという安堵感もあったのだろう。ぼくは地元での思い出を薄れさせ、新たな歩みに完全に乗っかった。そこには、裕紀がいて、ただ裕紀だけがいた。

「どこかで、ご飯食べていこうか? まだ、あの店あるの?」彼女は具体的な料理名をあげる。ぼくは、その匂いや香ばしさや、温かさを思い浮かべる。そして、10代の半ばにふたりで歩いた地元の道で、風になぶられたことや、光の色や、すがすがしい匂いや、裕紀の手の感触を思い出している。同時に時間というものは早く流れながらも、記憶として蘇るということも実感として馴染んだように感じていた。
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償いの書(113)

2011年10月09日 | 償いの書
償いの書(113)

 裕紀は、クラシックの音楽を聴き、締め切りがある仕事を終わらせようとしている日曜の午前であった。ぼくは、朝寝坊をして、寝ぼけたままの身体で壁際に近寄り窓を開けて、新鮮な空気を吸った。テーブルの前に座り、新聞を開くと大きな競馬のレースがあるらしく、その記事が大々的に載っていた。ぼくは興味もないまま、その記事を丹念に読んでしまった。

「冷蔵庫にあるから」と言って、物音を聞きつけたらしい裕紀の声だけがする。ぼくは冷蔵庫を開き、言われた料理の皿を取り出した。

 テレビをつけると、ニュース番組が最近の深刻な環境の状態を告げている。その意気込みはいま改善しないと2、3日で世界は崩壊してしまうような勢いがあった。もちろん、そんな自体は訪れず、ストで電車が止まり休みを期待する学生時代の態度をぼくは保っていた。結局、ストライキは来ないのだ。

 そうして、午前は過ぎ、少し疲れた裕紀がこちらのリビングに戻ってきた。
「終わった?」
「終わったけど、髪型へんだよ。寝癖がついたまま」
「いま、梳かす」
「どっか、行く?」
「そうだね」

 彼女は週中、家にいることが多く、健康のためにも出歩いた方が良く、ぼくも仕事で疲れた精神をリフレッシュさせるためにも、また失いかけた好奇心を満たすためにも、どこかを歩くことを望んでいた。

 玄関の鍵を閉め、家を後にしたのは午後の二時ごろであった。太陽と空気のバランスは絶妙で、ぼくらが日曜に望んでいる期待がすべて叶っているような陽気だった。

 裕紀の爪の先はワイン色に塗られ、首には小さなネックレスがあった。その反面、ぼくのひげは伸び、別の女性からもらった腕時計を相変わらず嵌めていた。もう、それはぼくの一部となり、誰から貰ったなどと考えることもなかったが、今日はなぜか気になった。

「なんか、予定あったの? 時間ばかり気にしている」
「いや、この時計も古くなったなって。そろそろ、新しいものでも買ったほうがいいのかな」
「でも、気に入っているみたいだし。似合うのがあったら買うのもいいかもね」
 ぼくは裕紀の腕を見る。そこには華奢な腕時計があった。
 そんな経緯があって、ぼくらは時計売り場にいる。たくさんの種類の時計が自己主張をするが、本質的な意味ではどれも訴えてこなかった。それらには切実な欲求がないようだった。ぼくもまた、改めて考えれば、それほど変える必要性を感じてもいなかった。
「今度にするよ」
「そう?」

 ぼくらは映画館の前を通りかかる。看板を見て、立ち止まって他のいくつかのプログラムを確認した。
「コマーシャルを見て、これ見たかった」と裕紀は言った。時刻を確認すると、そのスタートは20分後に迫っていた。丁度良かったので、ぼくらはチケットを買い、中に入った。ぼくの使い慣れた時計は3時40分を指していた。

 裕紀は泣いて、笑った。バックの留め金をはずす音がして、ハンカチを出し、それを握って笑った。ぼくは、それとは別のことも考えていた。同時進行でさまざまなことを考えられる自分を、そのときは許していた。その映画に没頭していなかったわけでもないが、ぼくはその暗闇の中で、過去のある一日に戻っていた。

「将来、こういう時計が似合う男性になって」というニュアンスのことをある女性から告げられる。美しく着飾り、写真に納まることを仕事としていた女性に。ぼくはそうなるよう努力して、しかし、ぼくらには別れが訪れてしまった。映画のなかの情景も男女が別れの危機をかわそうとしている。それでも、どこにも逃げ場はなく、疲れきった二人は、自分らの未来がないことも同時に知っていた。ぼくは、根本的に嫌われたわけでもなかった。ただ、東京に行かせようと彼女は考えただけなのかもしれない。ふたりは別々のひとと結婚し、彼女は夫をうしない、ぼくも妻を失いそうになった。しかし、いまはぼくの横で泣いている。泣いていても元気であることは間違いなく、ぼくは、ありのままの過去や未来ではなく、どこかにあったかもしれない昔や将来の断片を見つけ、つなぎ合わせようとしていた。

 多くのひとに紛れ、ぼくらは映画館を後にする。裕紀の目のふちは赤く、それが逆に健康そうに見せていた。
「面白くなかった?」
「そんなことないよ」
 ぼくらは食事をしながら映画の話題のつづきをする。彼女は女性の感情の連続性を話したが、そこに規則性のようなものはなかった。それで、なにかが問題になることもなく、また、間違いでもなかった。しかし、ぼくはその感情についていけなくて、傍観者のような態度を取っていた。彼女はその態度にいくらか不満のようだった。

「あの女性は、その後どうなるんでしょうね?」
「あの男性は飲んだくれて、未来を消耗する。裕紀は、誰かを真剣に好きになって、別れを惜しんだことはあった?」ぼくは、そういうことを今までは口にしてこなかった。
「ひろし君以外で? 残念ながら、ない。ひろし君はあるんでしょう、残念ながら」
「隠せない事実」
「やっぱり、あのひと?」
「そうかもしれないけど、もう思い出せない。むかしのことすぎて」
「なら、いいけど」裕紀は少量のワインを飲む。映画の主人公の男性はどうなるのか考え、やはり、ぼくはあの日の虚しい何日かの自分に置き換えて、その気持ちを追体験しようとしていた。
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償いの書(112)

2011年10月08日 | 償いの書
償いの書(112)

 裕紀は旅行に行けるぐらいに元気になった。叔母とにわかに計画して、バックに荷物を詰め込み、出かけて行った。なるべくなら、裕紀にたくさんの思い出を作って欲しいと思っている。ぼくらは限られた中で生活しており、制約があるということを身にしみて感じてしまったからだ。

 昨日より、ひとつでも多く笑った自分と裕紀。ひとつでも多く悲しみを乗り越えた自分と裕紀。ぼくらは、それぞれの思い出を共有し、昨日を生き、今日に立ち向かった。

 ひとりになるとぼくは笠原さんと会うことが多かった。それは、上田さんが智美から裕紀がいないことを告げ、笠原さんにも話すのだろう。そして、お酒を飲むことが好きな彼女は、ある面でストイックさのある夫とは別の時間を、怠惰という言葉が混じった時間を過ごすことを楽しみにするのだろう。それに適しているのは、ぼくなのかもしれなかった。

「奥さん、いなくなると淋しいですか? でも、旅行に行けるぐらい元気になって良かったですね」
「良かったよ」
「それで?」
「何が?」
「前の質問。淋しいですか」

「数日、いないだけだよ。一生、会えないわけでもないからね」ぼくは、その自分の発した言葉に驚く。そうなる可能性は、ぼくらはゼロではなかったのだ。そして、今後も当然のこと起こりえるのだ。「笠原さんだって、こうしてぼくとお酒を飲んでいる。ずっと、彼といるわけでもない」
「彼、まじめなひとだから」
「ぼくは不まじめ?」
「どこかではね」彼女は目に見えないため息のようなものを吐く。「息抜きのようなものが必要なんでしょうね。会社でも疲れるし」

「ぼくらは9時から5時まで働くために作られているわけでもないし、誰かが決めた」ぼくは店内を見回す。「そうして、こういう場所で息抜きをしている」
「なにも生み出さないのに」

「なにも生み出さないために」ぼくらはそれからもためにならない話をして、笑い合ったり、ふざけあったりした。ぼくは裕紀が旅行でいないことを忘れ、彼女も夫が待っている家を忘れているのかもしれない。ぼくは過去を手放し、未来になにも求めていない状態にいた。可能性だけがあった昔。なりたかった漠然とした形だけがあったあの日。ぼくは、そのことを思い出していた。病気の妻を介抱する自分が来ることなど知らず、そのためにこの前に座っている女性の前で泣く瞬間など訪れることを知らなかった自分の過去。

「考え事ですか?」
「子どものころに何になりたかった?」
「大体、女性はお菓子屋さんとか、パン屋さんとか、大人になれば美容師ができるかな、とか。わたし、手先が器用じゃないから駄目ですけどね。近藤さんは?」
「ぼくは、普通にスポーツ選手だった」
「そこそこ、夢はかなった?」
「それほどでも。挫折も多かった。結局、知りたくないことも多く経験してしまったし」
「なにを?」

「希望が手の平からするっと抜け落ちること。もう少しで全国大会に出れたんだ。ぼくは、決勝を前に指を骨折した。しかし、それも裕紀を傷つけた報いだったのかもしれない」
「彼女は責めないんでしょう? なら、いいんじゃない」

 ぼくは、こうした会話を裕紀本人とするべきなのかもしれない。だが、実際には笠原さんと話している。それも、まったくためらわないで。いま、裕紀は叔母と会話をしているのだろうか。そこには何が表れ、ぼくもそこに含まれているのか考えようとした。

「でも、あの瞬間に終わってしまった喪失感というか虚無感が、いつか目を覚ましてぼくに歯向かう」
「飼い馴らせるといいのに」
「その通りだけどね」
「それにしても、そういう喪失という気持ちになれるぐらいに、なにかに打ち込めたんだから、それはそれでいいじゃない」
「今日は、そう考えておくよ」

「あと1杯だけ飲みましょう」と彼女は宣言をして同意を求めず、店員を呼んだ。「これとこれ」

 ぼくらはお互いの好みを知る。気分の変化はあるかもしれないが、あるルールを勝手に規定して、それに乗っかり生きているのだ。妻とは別に友人がいて、自分の好みを知ってもらうようにする。尊敬とか愛情とは違う次元の親しみさがあった。そして、ぼくらは数十分をかけ、それを飲み干し、店をでる。彼女は腕時計を確認して、バックから小さな鏡を取り出して、顔の色を点検した。あまり飲んだようにも見えなかったが、
「酔ってるように見えます?」と訊いた。

「それほどでも」
「良かった。じゃあ、帰りましょう、泣き虫君」
「酔ってるよ、確かに」
 外に出ると雨が降っていた。彼女は傘を持っていなかったため、ぼくの折りたたみの小さな傘のもと、身を寄せ合うように地下鉄の駅まで歩いた。

「では、また。奥さんにもよろしく言ってください」彼女は手を振り、ハンカチで濡れた肩のあたりを拭いていた。ぼくは、反対側の改札に向かい歩き出している。ぼくは家に着くだろう。今日、裕紀はそこにいない。ぼくは10代の前半のころを思い出している。誰かを真剣に愛する気持ちが自分に生まれるということも知らず、それに当惑するであろう期待も当然のこと知らない。だが、ある日、その存在があることを知り、その対象もぼくの気持ちに報いてくれた。高校生のときだ。そして、ある期間の彼女を知らない。彼女がぼくをどう位置付け、どう思っているかという知る術もなかった。だが、数日すれば、その証明をぼくは手に入れることができるのだ。駅に着き、濡れた傘を再び開き、笠原さんは雨の中をどう帰ったのかを少しだけ心配した。
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償いの書(111)

2011年10月02日 | 償いの書
償いの書(111)

「動物園に行きたい」と、急に裕紀は言った。日曜の午前のことである。
「何を見るの?」
「お猿さん」
「そう、またどうして?」
「理由なんかないよ。ただ、見たい」

「そう」ぼくの髪はまだ乱れ、無精ひげも生えている。朝ごはんは目の前にあり、卵が焼けている。フォークがあり、お箸があった。調味料がいつものようにテーブルの真ん中に置かれ、グラスにはオレンジと隣にはコーヒーがあった。ただ、裕紀の口から突拍子もないように感じた言葉がでた、いつもとそれだけが違う日曜の午前であった。「じゃあ、行こう」

 入り口で入場料を払い、チケットを2枚もらった。直ぐ園内の地図を見て、大体の概略を覚えた。ぼくらは順々に廻り、20分もするとたくさんの猿が飛び回っている場所に着いた。

「目的は達した? それにしても元気だな」
 だが、ぼくと裕紀の受け止め方は違うようだった。ぼくは駆けずり回っている猿を目で追いかけ、逃げ惑うような姿に感心した。それは、ラグビーの動きのようでもあり、そういう思いで見ると、あの猿は彼に似ていて、あの動きは彼と同じだ、という感じで以前の仲間を思い出した。

 裕紀は、静かにその山を眺めている。こころを奪われているようだった。「どう、楽しい?」
「うん、お母さんが小さな子どもを抱っこしている」
「どこ?」
「あそこ」裕紀の白い指は、ある方向を示した。
「ほんとだ」それは、ミケランジェロのピエタの動物版であり、愛情の揺るがぬ証拠だった。それは、裕紀が手に入れられない象徴でもあって、ぼくが求めたり口に出してはいけないものだった。
「美しいと思わない?」
「うん、そうだね。愛情」

「わたしは、これをここで捨てたいと思ったんだ。今日で終わり。ひろし君、ごめんね」
 柵に置いているぼくの手の上に、裕紀の手が重なった。それは、どこか冷たかったが、内面では燃えているような決意も滲んでいるようだった。
「これから、ぼくが、裕紀をあのように抱っこしてやるよ。ずっとね」

「ほんと?」彼女の目は潤んでいるようだった。もしかしたら、ただ凝視し続け目が疲れていたのかもしれないし、眩しかっただけなのかもしれない。いや、それは嘘だ。そこで、ぼくたちはこれからも2人の愛情を継続させる誓いをしたのだ。ある猿山の前で。それは相応しい場所にも思えなかったが、相応しい場所があったとしても気持ちの問題がなければ、どこも陳腐になったのだろう。

「他になにか見る?」
「一通りは」そういう選び切っていない自然なことばを吐きながら、ぼくらは今朝と違う人間になっていた。ぼくらは互いの存在がなければ、もう1秒も生きられないという大げさな誓いのもとに存在する人間に。

 歩き出すとさまざまな動物が目に映る。ゴリラがいて、トラがいて、ペンギンがいる。小さな囲いの中には羊たちやヤギが放し飼いにされていて、それを子どもたちが触っていた。ぼくと裕紀は柵のそとから遠目でその様子を見ている。好奇心の固まりであるらしい彼らは、いろいろなことを今日学ぶのだろう。それを出てきてから両親の言葉で疑問の解決を受け、さらに知識を得ていくのだろう。ぼくはそのような単純な好奇心が減少している自分を知る。仕事は義務になり、家庭は現状維持に留まりやすかった。だが、裕紀の病気があったからこそ、ぼくは彼女への愛情をさらに深め、再燃させていった。そうすると、病気と入院というのは必然だったのだろうか? それを教わるための代償はかなり大きなものだった。

「お腹空いたね?」それは、彼女が元気な頃、外出先でよく言う言葉だった。それゆえに、ぼくはその言葉を貴重なものに思い、ある意味で安心した。たしかに復調してきたのだ。
「なにがいい?」
「もう、ひろし君の気持ち分かるよ。奥さん生活が長くなった」
「なに?」
「ワインとパスタ。ちょっとのチーズ。顔に書いてある」

「悪くないね」ぼくは、少し思案するような顔を作る。「それもいいね。それしかないかも」彼女は同意のようにぼくに腕を絡ませ、園内を後にする。日曜の夕暮れはどこか淋しいもので、明日である月曜を迎えるという経験を長くしてきたことに今更ながら気付いた。でも、長く経験しようが小学生であろうが、月曜の始まりは厭なものであるはずだ。拘束の1週間のスタート。
 店員は、ぼくらの注文を訊き終え、グラスを2つとワインを持ってきた。

「少しでいいです」と裕紀は言った。若い男性店員は裕紀の顔を失礼でない程度にのぞきこむ。そして、ぼくの顔を見る。彼の脳裏にはなにが浮かんだか分かるような気がしたが、実際のぼくらのこの数年、いや、10代での別れを通して再会した事実など分かるはずもないことに安心した。彼は、ただきれいな女性がこの店に来たという事実だけを知った。彼女の病気からの回復も知らなければ、癖やこだわりも知らないのだ。それは、ぼくだけが知っているという自尊心があった。

 裕紀の前には白身の魚が運ばれ、ぼくの前には適度に焼けた肉が持ってこられた。デキャンタの残りは少なくなり、裕紀は甘いデザートを求めた。ぼくはチーズを齧り、最後のワインを飲み干した。先程の猿の抱擁とでも呼べるような姿を思い出し、ある日曜日の完成ということを思って、ぼくは少しだけ目をつぶった。
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償いの書(110)

2011年10月01日 | 償いの書
償いの書(110)

 裕紀はまた仕事を再開しだした。外で会う用件は少なくして、以前以上に、郵便やFAXやメールで仕事のやり取りをした。時差もある関係上、それは効率的なものになり、何もしないでいるより余程気が晴れるらしかった。そして、体力的にも回復して、外で誰かに会って交渉するぐらいの力はまた戻ったらしい。そう意見を言われると、ぼくにも断る理由はなかった。ただ、心配は消えないかたちで、ぼくのこころのなかにしこりのようなものとして残った。

 表面的にはぼくらは以前のような状態に戻って、ある事件があったにせよ、ぼくらは幸せを保てたという不確かだが実感があった。これからまた上昇に向けて頑張るだけだった。ぼくらはどちらも言葉に出さないが、両者にその気持ちがあって、ぼくにはそれがみなぎっていた。

 でも、そう言いながらもぼくらを決定的に変えてしまったのも事実だ。命には時間という制限や制約があり、次の日を迎えられただけで喜びがあり、それと同時に不自然な形としての悲しみもあった。ただ、元気にしている裕紀を見るだけで、ぼくは嬉しくもあり、またどこかで悲哀のような気持ちもあった。その理由は突き止められなかった。だが、おぼろげながら分かるような気もした。ぼくは、彼女を失いたくない気持ちが強くあり、それがあまりにも強すぎて、彼女自身を痛々しく感じていたのだろう。

 しかし、月日と時間というのは重要な浄化作用であり、ぼくらは日々、あの入院していた姿を忘れていくようになった。いや、忘れたというよりそれは薄らいだだけなのだ。熱いコーヒーが冷めていくようなものであり、喉越しで火傷することもなくなったという意味だ。

 ぼくは裕紀を置いて、出張することも多くなり、あまりにも心配しすぎる自分も消えた。仕事を終え、シャワーを浴び、歓楽街を歩く。ぼくは、独身だと思おうとしたり、また若くすべてのものが希望として成立していた年代に戻ったような気持ちをもった。見知らぬカウンターでひとり酒を飲みながら、奥で話す男女の話に耳を傾けている。彼らは、そろそろ結婚をする年代のようでもあり、自分らの結婚式に誰を呼ぶかを決めているようだった。知らないひとの苗字をきき、彼女の上司らしいひとの振る舞いをきく。好きでもないようだが、そこは義理でひとつ席を埋めなければならないらしい。ぼくは、当然のように自分のことを思い出す。

 裕紀の兄は来なかった。ぼくは、裕紀の両親を死なせた間接的な原因を作った人間でもあり、妹の評判を落とした実際の原因を作った人間だった。ひとりの女性への魅力に負け、裕紀を留学先まで追っ払った。それを否定することができた若さや情熱を持っていた自分はいなくなり、それがもし自分の妹や子どもに背負いかかったら、ぼくも同じように感じられるほど、大人になっていた。

「何か、おかわりになるもの注ぎますか?」カウンターのなかの短髪の青年に声をかけられ、自分は我にもどった。
「うん、同じもので」ぼくは、自分の声を自分の耳が受け止める様子を楽しんだ。そして、いま、頭の中で巻き起こっている過去の出来事を懺悔のように誰かに聞いてもらいたかった。それから、否定されることなど一切ないものだとして、認めてもらいたかった。そういう都合の良い衝動にぼくは駆られている。しかし、それを口に出すことは、もちろんない。

 ぼくは勘定を済まし、帰りがけに奥のテーブルを見た。彼らは先程の話には解決がついたようで、普通の男女に戻っていた。自分らがなにかを決めることがあるということから開放され、ただいま現在に自分たちがいるのだという男女の姿に。

 ドアを開け、酒場の淀んだ空気から外の澄んだものへと移った。そこでぼくは、もう数年も前になった裕紀へのプロポーズの瞬間を思い出す。ぼくは一旦彼女を失い、また自分の半生への伴走者として彼女を選ぼうとしていた。信用度の低い人間の思いと決意であり、その答えは彼女にとってとても重要だった。歴史は繰り返されるものかも知れず、人間は失敗から学ぶという両者のせめぎ合いであり、ぼくは彼女を失ったという失敗があって、彼女はあなたの以前の愛情を信じた失敗というものがあるかもしれなかった。だが、そこにはぼくの本気の気持ちがあった。彼女も最終的にはそれを信じた。マンションを売ったり買ったりするようなものではなく、そこには完全な意味での選択の失敗は許されなかった。

 ぼくは見慣れないホテルのカウンターで見知らぬ男性から一夜の部屋の鍵を受け取り、そこに戻った。ぼくは携帯電話を取り出して、自宅に電話をかけた。その受話器を取るまでの連続する音は聞きなれたものであり、そこに出る女性の声も聞きなれたものだった。
「どうだった、今日一日」ぼくは、話す内容も考えずに思ったことを口にした。
「いつも通り、普通。なにかあった?」
「ひとりで食事しながら、ぼくを選んだときの裕紀の表情を思い出していた」
「そう。わたし、どんな顔してた?」
「口車に乗らないぞ、という顔もしたし、どうせなら騙されちゃおうっか、という表情でもあった」
「詐欺ですね、あなた」
「そう詐欺師」
「うそだよ。それなら、騙されてよかったよ。このわたしの何年か」
 ぼくは、言葉にできなかったさっきの懺悔の言葉を思い出す。裕紀の兄。彼は、いまでも妹が騙されているとでも思っているのだろうか。だが、いつか彼の思いも払拭できるほど自分は認められる機会があることを望み、ぼくは見知らぬベッドで眠りにつく。
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