爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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拒絶の歴史(41)

2010年02月21日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(41)

 ぼくは大学に通うようになっている。何回か電車で通学したが、定期券を買う必要もなかった。直ぐに雪代さんの運転する車に同行させてもらって通うことが多かったからだ。時間がずれている場合には、もちろん自分も吊り革につかまり電車に揺られた。

 きれいな3歳年上の女性とそうした関係であることが、ぼくの周りから新たな友人を作る機会を遠去けた。ぼくは、そのことに対して不満もなく、逆にすがすがしいぐらいの気持ちでいた。しかし、なかにはぼくのラグビーの活躍を知っている人もいて、いろいろ訊かれたりまた情報を得ようとしたりして、近付いてくるひとたちもいたが、自分の素っ気無い態度のため、恒久的な関係を築き上げる努力を放棄するひとたちが大半だった。ぼくは、ひとりで昼食を食べ、雪代さんがいればいっしょに食事し、時間があけば図書館で本に顔をうずめた。

「近藤君ですよね。ラグビー応援してました」
 図書館の入り口を出ると、そういう言葉をかけられることも多々あった。その後につづく言葉は大抵が「どうして、辞めちゃったんですか?」だった。もちろん、ひとことで応えられるわけもないので、その場に応じた言葉をさがして見つけた。ときには、「限界だったので」とか「怪我がこわくなった」とかであったが、その時は、面倒くさい一面もあったのだろうか「興味が失せてしまったので」といった。その女性は食い下がり、
「あんなに打ち込んでいたのに、すぐに冷めちゃうもんなの?」と訊いた。

「でも、あれですよ。自分が過去に行ったことだけで評価するのは若者にとって酷ですよ」と投げやりにいった。彼女は言いすぎたのを反省したかのような表情をして「ごめん」と言った。「ごめんなさい、斉藤です」と彼女はついでに名乗った。ぼくも反射的に自分の名前を言いそうになったが、彼女はぼくの名前をすでに知っていた。

 その後、このひととは同じ講義を受けていることが判明し、たびたび顔を合わせることが多くなった。最初にぼくのこころの扉を開けるよう仕向けたのは、このひとであった。もちろん、直ぐに雪代さんとの関係を耳にしたのだろうが、そのことにはあまり触れず、かといってまったく知らないという態度もみせなかった。ただそのことについて特別、強調するわけでもないので、本を読む時間がいくらか減ったとしても、そのひとと夕暮れ時間にはなすことも度々あった。

 自分は男性の友人を見つけられず、女性たちが勝手に自分に寄ってきた。そのことにこだわりも何の意味づけをする必要を感じず、ありのままの状況だけを受け止めた。そのころは運動ばかりの3年で得られなかったものをぼくは必死に吸収しようとしていた時期だ。古い映画のビデオテープを借り、家で寝転がって観た。ぼくがする話を雪代さんは楽しそうに聞いてくれた。ぼくが新たな方向性をもつことを彼女は喜んでくれた。過去にいた自分ではなく、これからの自分を引っ張って愛してくれそうな予感がした。

 それでも、彼女はときには授業に出ず、東京に自分の写真を撮られにいった。きちんとした形での就職を望んでいるようでもなく、いまの延長で生活をするようでもあった。愛している女性が可能性のかたまりであるということが、そのときの自分を幸福にした。ぼくが、幸福であればあるほど、ぼくの家族は失ったいくつかを頭のなかで積み上げているようにも見えた。あとあと考えれば、親も妹なりも自分の息子や兄が女性に対して酷いあつかいをするということに無言のときには言葉で非難をされていたのかもしれない。妹は裕紀と同じ学校に通っていた。そのことに気付いてあげられるほど、ぼくは大人ではなかったのだろう。ただ、自分の突き進む方向だけを最優先にして歩んだ。

 ぼくは、ときには斉藤望という女性と建築について話し合うようになった。彼女から得られる知識を吸収しようと励んだ。ぼくの知っていることは限られているが、それさえも小出しにするようにした。ひとつには自分を守ることだったのかもしれないし、もうひとつでは、自分の意見に自信をもてるほど成長していなかったからなのかもしれない。恥ずかしい思いはしたくなかったのだろう。そのために、ぼくは頭の中に知識という荷物を詰め込もうとした。

「そんなに勉強しないで、わたしと楽しみなさい」と雪代さんは言った。ぼくはそれに直ぐ従うしかなかった。だからといって、彼女は常に享楽的であろうとはしなかった。本質的に、いつも自分が追い求めたような賢い女性であった。ぼくが目をあげると、彼女もにっこりと笑った。
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拒絶の歴史(40)

2010年02月14日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(40)

 そして、高校を卒業する日になった。高校生活でいたんだ制服に袖を通すのも今日で終わりだった。明日からは必要がなくなるものが、その日だけは自分にとっても愛おしいものに化けていた。これからは自分で選んだ洋服が、自分を主張するようになるのだ。それと、手には丸められた証書だけがあり、ラグビー部の同級生たちとの別れを惜しんだ。

 ぼくは、幼馴染の智美と会うことになっており、その場所に向かった。そこに着くと帰省していた上田さんもいた。彼は、ラグビー部の先輩であり、もうその上下の関係は薄れていったが、あたまが上がらないことには変わりはなかった。

 智美は自分の友人であった裕紀に対してのぼくの態度に怒りの感情をもっていた。それを押し殺しながらも、必然的にぼくを責める口調を隠せずにもいた。

「あんな風なことって、愛情を示してきた人にするべきことじゃないんじゃないの?」
「その通りだけど、仕方がなかったんだよ」
 何度か言葉のやりとりがあり、段々と智美は自分の言葉自体のもつ力に影響されエキサイトしていく。ぼくは、もうただ謝ってばかりいた。

「絶対に許さないから」と最後に彼女は言った。そうされても良かったのだが、結論として彼女はその数年後、許してくれていた。ぼくは、その言葉に動揺しながらも、また関係が終わってしまうことも受け入れようと考えていた。天秤にかけ、河口さんとの交際のほうがどれほど魅力的か、はかっていたのかもしれない。

「お前のした悪いことや、お前のした失敗なんか百年後には誰一人おぼえてないよ」と上田さんは智美が席を立ったときにそっとそう言った。ぼくは、誰かに恨まれても仕様がないと覚悟していたが、その言葉でいくらか救われた感情がもてたことも紛れもない事実だった。「だけど、近藤に賛成しているわけでもないけどな。しかし、どうやったら河口さんと付き合えるのかね? お前のどこにそんな魅力があるのかオレは分からないよ」とふざけた表情で言って、コーヒーをすすった。

 ぼくらは、そこで別れ、家に向かって歩き出した。家に着き着替えを済ませ用意していたバックの中を再び点検して、それを担ぎ駅に向かった。

 雪代さんは東京で写真の撮影を行っていた。ちょうど、ぼくの卒業のタイミングが合うので、空いた時間に東京を案内してくれるといって、東京のホテルを取ってくれていた。渋谷のはずれにあるホテルがその場所だった。ぼくは列車に乗り込み、文庫本をひろげたがそれはあたまに入り込んではくれなかった。ただ、視線をぼんやりと窓外にうつし、流れゆく景色を見守った。自分に起こったことと、これから起こりつつあることを考えるともなしに考えていた。

 上野から狭い銀座線に乗り換え、渋谷にむかった。終点に到着し、そこをひとりで歩いていると自分の可能性は無限なのだ、という感情をいだいた。ぼくと同じ年代の人々が多く、彼らは洗練された様子をもっていた。こうした中にいながら、雪代さんはなぜぼくを選んだのだろう、という疑問も当然のことながら浮かんだ。だが、人の出会いなんてつきつめて考えれば、難しいものなのだ。何十億という人間がいて、自分が生涯出会う人は何人ぐらいいて、その人が自分に影響まであたえる人は、さらに何人ぐらいいるのだろう? とも考えた。もちろん、答えはなくぼくは回答を先延ばしにして人ごみの中を歩き続けた。

 洋服屋を何件かまわって、Tシャツを数枚買った。あとは、ひとりでファーストフードの店に入り食欲を満たした。きれいで可愛らしい女性が多かったが、こころの奥まで響くことはなかった。ぼくには雪代さんがいたのだ。

 ホテルにチェックインして軽く眠ってしまったらしい。荷物もそのままにぼくはベッドに横たわっていた。その時に、ベッドサイドの電話が鳴った。
「ごめんね、遅くなって。つまらなくなかった?」
「いいえ、ひとりで歩き回ってましたので」
「いま、仕事が終わったので、地下鉄に乗ってここまで来てくれる?」と雪代さんは場所を指定して、幼い子供を相手にするように、電車の乗り方や金額をいちいち告げた。

 ぼくは、新しいTシャツに着替え、鏡を多少覗き込み、そこに向かった。どうにか、東京の人に見えるだろうか、とつまらないことを意識して部屋を出た。ロビーでは何人かがソファに座り新聞を読んでいた。受付の男性は礼儀の固まりのような挨拶をしてぼくを視線にいれた。

 ぼくは駅で切符を買い、ひとを掻い潜り地下鉄に乗った。駅に出ると彼女が待っていた。
「タクシーでも良かったんだけど、このように渋滞がひどいでしょう。それと東京の地下鉄にひろし君にも慣れてほしかった。なかなか難しいと思わない。わたしも最初は戸惑ったのよ」

 ぼくは彼女と連れ立って歩いている喜びを感じている。ぼくの町は夜には暗くなってしまうが、そこは明かりの洪水のような場所だった。彼女はそこで輝いており、大学生のかたわら、そこでの仕事も楽しんでいるようだった。

「疲れて、お腹空いたでしょう。わたしもだけど」と言って彼女はにっこりと笑う。

 ぼくは二度と着ることのない制服と、自分自身と、横にいる彼女を対比させることをむずかしく感じている。しかし、彼女といっしょにワインを飲んでいると、これこそが正しい生活だろうと自分の位置を正確に把握したようにも感じていた。
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拒絶の歴史(39)

2010年02月13日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(39)

 勉強の甲斐もあってか大学受験にも合格した。ラグビー一色で終わったぼくの高校生活も終わることになる。最後の役目として後輩の山下をキャプテンに任命した。それ以降、彼の活躍もあり、全国大会の常連校になっていく。自分は最後まで成し遂げられなかったことを悔やんだが、自分の働きの何割かは土台作りになったということで、自分のことをなぐさめた。しかし、そのことばかりにこだわるほど自分は後ろ向きになっていたわけではない。まだ、未来は開かれたばかりだったのだ。

 冬から春にかわる日射しの中を自分は歩いている。そのようなときに、いつも裕紀が横にいたんだな、という感覚をもった。同時にある種の喪失感も感じていた。だが、自分はそれを脱皮と捉えていた。自分はそろそろ生まれ変わる時期に来ていたのだろう。正当化するためにそのような言葉を選んだのかもしれないし、そもそも自分はそういう考え方が好きなのかもしれない。生まれ変われる必要があるならば、生まれ変わることというように。

 気がついたように近くにあった電話ボックスにむかった。覚えてしまった電話番号を指でなぞって押した。

「大学受かってました」
「良かったね。いっしょに通えることになるね」と河口雪代さんは言った。「なんかお祝いしないと」と言葉を足した。
 彼女はいつもそのような考え方をした。喜ぶべき事実がある時は、それを盛大なものにすること。ぼくは居場所を告げ、そこで文庫本をひろげて待っていた。外の空気はさわやかで、春の予感と合格した喜びとでこころも快活になっていた。

 彼女の車が近くに止まり、ヒール姿の彼女がこちらに歩いてくる。ぼくはその瞬間を覚えていて、自分のあたまのなかの映像を切り取り、ポスターのように組み立てていた。

「寒くないの?」
「全然。これでもラグビーで鍛えた身体ですから」
「そうよね。でもわたし寒い」と言って、ぼくの身体に腕をからませた。その特徴的な彼女のにおいがぼくの嗅覚をくすぐった。また、そのままの格好で車まで戻り、ぼくらは少し車を走らせた。ある港について、彼女は暖かそうな冬のコートを着て、ぼくを連れ出した。
「こういう日は、海を見て、将来に思いを馳せるのよ」

 ぼくは何もない海を見ながら、やはりその自分の将来に訪れるであろう幸福のいくつかを想像し、ある面ではこのような行動をとる彼女に対してなのか、それとも自分の感受性の過多のためなのか感動していた。そのままその周辺を歩いて、言葉をかわした。彼女の髪が潮風に揺られ、ぼくの頬をなでた。

「お腹空いたでしょう?」と彼女は言った。目の前にはお店がいくつかつらなっていた。彼女は店の前のメニューを口にだして読み上げ、「ここでいい?」と訊いた。

 取れたばかりの魚を煮付けたのであろう、おいしい定食がぼくらの前に並べられた。その横にはビールがあった。それをぼくはひとりで飲んだ。彼女は夜、自分の家に車を置いてからいっしょに飲むのを楽しみにしていると言った。
「バイトとかするの?」
「さあ、どうでしょう。なにが向いてますかね」

 それには彼女は答えなかった。ただ、「うちは部屋があまってるからいっしょに住んでみない」と訊かれた。ぼくはその可能性の実現についてすこしばかり考えた。ぼくが裕紀にした態度に、ぼくの家族も腹をたてているようでそこは安住の地ではないこともあった。また、いつも彼女と過ごす幸福もあわせて考えた。だが、即答はせずに「考えてみます」とだけ言った。

 また車を走らせ、彼女の家に到着した。彼女は着替えを済ませ、髪型もいくらか変えて、またぼくの前にあらわれた。何度か来たことのあるきれいなレストランにぼくを連れて行き、スパークリングワインを頼んだ。彼女はそのグラスの細い足を持ち上げ、「おめでとう」とそっと語った。

 昼とは別の魚がクリームソースに絡まれ、フォークに刺されぼくの口に入った。彼女はにっこりとぼくの顔を眺めていた。当然のことだが、フェアな意見ではないかもしれないが、そのような瞬間に裕紀の子供っぽさがあらわになった。いまの自分はその成長段階の過程にしかなかったものを大切なものだと考えているが、そのときは、大人に引っ張っていってくれる雪代さんを好きになってしまっていた。

 家に着き、ぼくは彼女の身体に溺れていく。どうしようもなくぼくは彼女が好きになり、その感情に歯止めをかけることは出来そうになかった。それでも、10時ぐらいには、スニーカーを履き自分の家にむかった。もう安住の地ではないかもしれないが、そこが自分の家だった。
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拒絶の歴史(38)

2010年02月11日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(38)

 決勝にすすんだチームだったが、ぼくは気がつくと左手の指を三本骨折していたため、そこに出ることは途絶えてしまった。それ程に、前の試合は苛酷な激闘だったのだ。しかし、時間が経って考えれば考えるほど、それは罪のつぐないと、その代償に過ぎないと感じている。

 試合に出られなくなったので、スタンドでぼくは観戦している。横にもどこにも裕紀の姿はなかった。ぼくが河口さんの家で行ったことは、ぼくの周りの小さな世間ではすでに知られており、当然、裕紀の耳にも入ったはずだ。そのことで、妹はぼくをなじり、ある数人もぼくを嫌悪した。その嫌悪されるという事実は、その年代の自分にとって何の痛みも与えなかった。ただ、自分は河口さんという存在をあがめていたのだろう。しかし、失ったものもそう軽いものではなかったことは時間の経過とともに、痛切に感じ自分になにかしらの痛みを加えるようになった。

 ぼくは、自分のことを重要な人物だと感じたことはなかったが、客観的にスタンドでみた自分のチームは、どこにも躍動感はなく、不甲斐なさだけが残っていた。せっかく、決勝まで勝ち残ったはずなのに、そのことになんのこだわりもないように呆気なく負けた。ぼくの夢の実現もそのときについえた。その事実があったので、ぼくは長い間ラグビー自体を嫌った。なんの責任もないことにあたらなければ、ぼくの感情は行き場を失ってしまうのだろう。

 裕紀にその後も会うことはなく、ある日、シアトルに留学したということを妹が家族に話しているのが耳に飛び込んだ。そのことは裕紀の今後の人生のどこかで行われるはずであったが、それを早めたのは間違いなく自分であろう。ぼくに、なんの説明も電話も手紙もなく、彼女は去ってしまった。去らせたのは自分であり、彼女のこころを根底から傷つけたのも自分であった。

 大切なものを放棄した自分は世間がどう思うとまだまだ自分を善としてすすんでいこうと考えている。大学受験のためにスポーツから勉強に力の入れ方をシフトし、それに疲れると河口さんに電話をした。もうその頃は、彼女は島本さんと別れていた。会うことは少なかったが、実際に会えば優しい態度で、ぼくの勉強を応援してくれた。彼女がなにか言うと、すべては実現されるのだという錯覚すら抱いた。彼女がぼくの価値を計り、それを高め、ピンで留めるようにしてくれれば、世間もそう見てくれるだろうという夢と希望があった。そのギャップで悩むこともなかった。彼女がぼくの価値を決めたのだから、という不確かな、だが確実な信頼があった。

 急に運動を止めてしまったので、自分の体力は余っていた。そのような夜に着替えて、ジョギングをした。どこかに未練と悔恨がのこっていたのだろう裕紀の家の近くまで走ってみることもあった。だが、そこは限りない城砦のようで、ぼくには遥かな距離のように遠かった。また、電話をすることもためらわれた。もともと、ぼくに好意をもっていない彼女の家族は、今回のことをきっかけに永久にぼくの存在を葬り去る機会を見つけたのだろう。そのことは当然であったが、もちろんそれでぼくの淋しさが減るわけでもなかった。

 しかし、傷つけた事実をぼくがいつまでも悩んでいたわけではないことは確かだった。それぐらいぼくは若く、判断も甘く、またそれほどまでに河口さんに溺れていったのだ。勉強の合間も彼女の映像はぼくの目の前に浮かび、彼女の声をぼくは脳裏でなんども繰り返した。あの人に見られている自分というものを何物にもかえがたいほど貴重なものであると考えていた。

 一月ほどでぼくの指もなおり、その期間分だけ勉強もあたまに入った。ぼくは自分の人生が多少は方向転換したにせよ、それでも順調にすすんでいると考えていた。だが、ほかの人から見ればそうでもなかったらしく、大切なものを捨ててまで自分を押し通す人間だと思っているひともいた。後輩の山下はとくにそういう感情を持っていたが、ぼくを嫌う反面心配もしていたらしく、同じ感情を有していた妹とも相談していたらしい。そのことが彼らをより一層くっつけ、彼らは交際をするようになっていく。ぼくの周りはラグビーによって得た友人たちが点々とだがはっきりと存在するようになっていた。
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拒絶の歴史(37)

2010年02月07日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(37)

 ロッカールームで着替えている。みんなの興奮がぼくにも伝わってきていたが、それ以上に自分のアドレナリンが放出されているのが実感できた。しかし、それでも冷静な自分の脳を保とうと常に考えている自分もひとつの身体に共存していた。

 だが、最後になってカバンのどこにもいつもの裕紀からもらったタオルが入っていないことに自分は気付いた。なぜ忘れてきてしまったのか、そのことを考えナーバスになりかけたが、それにとらわれないように自分を制御した。今日は大切な一日なのだ。

 試合は始まった。攻防があったにせよ、その日はぼくにとって完璧な一日にする必要があったのだ。その必要を自分の身体も受け止め、チームの全員もそれに感化された。ぼくは、走るべきルートを確実に探し当て、ボールを離すべきタイミングと手放すタイミングを見定め、きちっとそれを遂行した。ぼくらはぎりぎりリードを守り前半戦を終えた。ここで、活を入れなおすと考えていたが、自分はそれを行えなかった。みな、最大限の努力を行っていたのだ。だから、前半の気持ちを忘れないでこのまま進もうとしか言えなかった。その代わり、後輩の山下が、自然な形で声を出し、ぼくらの興奮をさらに保てるようにしてくれた。

 一時は、逆転も許してしまったが、なんとか挽回し、点数を地道に重ねていった。キックも決まり、ぼくらのために吹かれる笛の音が増え、相手のためにはそれは静まっていく一方だった。しかし、そこは強豪校の底力でぼくらをじりじりと追い上げ、また体力が時間を追って低下することもなく、ぼくらを苦しめはじめた。いままでのリードを守れるか、それとも終了の時間を待つのかが問題になってきていた。ぼくらの応援は悲鳴に近いものになっていく。また反対に相手のための応援は絶叫となってぼくの耳にこだました。

 最後に、ぼくはボールをもぎとり永遠という長く感じた距離をひとりで走った。人影がおぼろになり、地面に倒れこんだときにはラインを越えていて点数が加算された。その直後のキックも決まり、そこで試合は終わった。ぼくは身体に疲労を感じながらも爽快感で一杯だった。それで、さらにロッカーに戻り、自分の涙が止まらないことを知った。それを拭くべきタオルが見当たらないので、マネージャーが用意したタオルを使って涙と汗を拭いた。監督が今日の試合の感想を言った。叱咤するようなことはまったくなく、この後行うもう1試合のためにゆっくりと休んでくれとぼくらの苦労をねぎらってくれた。

 後輩のひとりの家族がレストランを経営しており、そこで祝勝会を行うことになっていたので、ぼくらはそこに向かった。その途中で競技場を後にするとき、河口さんの存在に気付いた。ぼくはそっとそちらに向かった。

「感動しちゃった」
「良かったです」
「この日が来ることをずっと楽しみにしてたんだ」と彼女は笑顔をみせ、ぼくに言った。その背景には秋の穏やかな日差しがあった。「この後、なんか予定があるの?」
「祝勝会がありますが、それは直ぐに終わると思います」
「わたしも、なんかお祝いがしたいな」
「連絡します」と言って、みなが待っている方に向かった。

 その前に相手の監督に挨拶し忘れていたのを思い出し、彼らの集団の近くに寄った。ぼくは丁寧に頭を下げ、今日の感謝を述べた。

「完敗だったよ。こんなに成長するなら、うちに入ってもらいたかったな」と最大限の賛辞をくれた。ぼくに対して発せられた意味ある言葉の最初だった。

 すべてが終わりぼくは河口さんに連絡をした。きれいな場所で、きれいな女性と、爽快感のためにお酒を数杯飲んだ。さすがに疲れていたのだろう、気がつくとぼくは河口さんの家の中で寝てしまっていた。目をあけて数秒たつと、彼女の顔がぼくに近付いてきた。ぼくは抵抗する気もしなかった。ただ、この日がくるのを待っていたのかもしれない。完璧な一日をさらに完璧にするために彼女は理想のひとだった。後先考えずにぼくは彼女のきれいな髪を自分の指先と頬に感じていた。
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拒絶の歴史(36)

2010年02月06日 | 拒絶の歴史
拒絶の歴史(36)

 その夏はたっぷりと汗をかいた。汗をかいた量でしか、自分の決意と意気込みを計れなかった。

 チームは段々と一丸となっていき、監督と自分の理想とするものに近付いていった。理想をたてて、それに向かって突進することに全力を傾けたのは、このときが最初で最後かもしれない。その手ごたえとチームの全員の頑張りにぼくは胸を打たれてさえいる。それに打ち込んだからといって誰かが直ぐにほめて賞賛してくれるわけでもないし、多くのメンバーはレギュラーになれずにもいた。だからといって、彼らが必要のない人々の集まりかと問われれば、まったくのことそうではなく、彼らの熱意と働きにもよって、ぼくらのチームワークは保たれていた。

 秋からは大会が始まっていった。ぼくらは、順調すぎるぐらいに点差をひろげ、勝利に酔いしれつつあった。ぼくは、油断を恐れていた。完璧の向う側にあるものに到着するには、いくつもの落とし穴を避けなければならない。簡単なミスが、さらにいくつもの失策につながり、それは大きな流れとなってまとわりつき、ぼくら自身を苦しめるであろうことは予想できた。たくさんのチームが、そうやって負けていった。

 それでも順調であることは変わりなかった。ぼくは、試合後に裕紀がくれたタオルで自分の汗をぬぐった。そのことは、勝利とともにぼくが行う一連の作業でもあった。このことを行い続けていけば、自分はトップにたてるであろうと考えていた。そして、そのタオルは幸運を呼び込むぼくの一部と化していた。

 試合後、ふとこのスポーツを考え付いた英国人というものにも考えが及ぶようになっていく。彼らは、いくつものスポーツを発明し、それは紳士であろうとするには犠牲がつきものなのだ、と教えてくれているようなものだった。さらに自分に負荷をかけ、その重みに負けないことも教わった。自分よりパスを前に投げてはいけない。その点でアメリカ人は、もっと快活であろうとするようにアメリカン・フットボールに熱狂していた。その差に、紳士の国と新興の国の違いがあるようでもあった。こんな便利な腕や指先があるのに、彼らはそれを封じ込め、サッカーという足のスポーツを発明する。そのことを考え、ぼくはぼくなりの国の解釈を組み立てる。

 そして、タオルで汗をぬぐう度ごとに、敵も強くなっていき、ぼくらの点差は縮まっていった。彼らの身体は頑丈で、転ぶところで踏みとどまり、抑えるべきところで、するりとかわして逃げていった。だが、それ以上にぼくらも同じだけ逃げ、ぶつかるときは全力でぶつかっていった。

 やっと準々決勝も勝ち、残るチームは4チームとなった。ぼくらの対戦相手は、いつも全国大会まですすむ強豪校だった。彼らの監督は、ぼくを知っており、「全力でかかってこいよ」と言ってくれた。もちろん、ぼくはそうするつもりだった。ぼくの3年間の集大成なのである。失敗するわけにはいかなかった。

 その前日、ぼくは裕紀と会う。彼女は、10代後半の女性特有の輝きをもっていた。しかし、その集合体として、ぼくは彼女を見ていたわけではなく、唯一の存在だと思っていたかった。

「明日、どう勝てそう?」と、彼女は心配そうな顔をして、ぼくに訊いた。

「むずかしいけど、ここから逃げるわけにもいかないしね」と、ぼくは、彼女に微笑みだけを返す。ぼくの、腕の傷を彼女は触り、「とても、痛そう」とささやいた。その傷のひとつひとつがぼくの存在証明であり、勝利の記念でもあった。

「ああやって走り回っているのも格好いいけど、いつもどっかで心配しちゃう自分もいる」と、彼女は申し訳なさそうに目を伏せて言った。

「だが、あともう2回勝てば、全国に行けるわけだし、そう心配することないよ」
「そうだと、いいんだけど」

「あのタオルをもっていると、勝利に逃げられないことを確信しているんだ」と、いままでの状況をかいつまんで説明した。

「そう、嬉しいな」と彼女は言った。ぼくの数年間のある部分を彼女は知っており、ぼくのこころの多くも彼女の存在が占めていた。その大切さを分かるには、やはり犠牲というものが必要であったのだろうか。

「明日は、最高の自分であるよう頑張るから、いつまでも覚えていてくれるようじっくりと見て置いて」とぼくは言い、彼女と離れる寂しさを隠すように家路についた。
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