拒絶の歴史(41)
ぼくは大学に通うようになっている。何回か電車で通学したが、定期券を買う必要もなかった。直ぐに雪代さんの運転する車に同行させてもらって通うことが多かったからだ。時間がずれている場合には、もちろん自分も吊り革につかまり電車に揺られた。
きれいな3歳年上の女性とそうした関係であることが、ぼくの周りから新たな友人を作る機会を遠去けた。ぼくは、そのことに対して不満もなく、逆にすがすがしいぐらいの気持ちでいた。しかし、なかにはぼくのラグビーの活躍を知っている人もいて、いろいろ訊かれたりまた情報を得ようとしたりして、近付いてくるひとたちもいたが、自分の素っ気無い態度のため、恒久的な関係を築き上げる努力を放棄するひとたちが大半だった。ぼくは、ひとりで昼食を食べ、雪代さんがいればいっしょに食事し、時間があけば図書館で本に顔をうずめた。
「近藤君ですよね。ラグビー応援してました」
図書館の入り口を出ると、そういう言葉をかけられることも多々あった。その後につづく言葉は大抵が「どうして、辞めちゃったんですか?」だった。もちろん、ひとことで応えられるわけもないので、その場に応じた言葉をさがして見つけた。ときには、「限界だったので」とか「怪我がこわくなった」とかであったが、その時は、面倒くさい一面もあったのだろうか「興味が失せてしまったので」といった。その女性は食い下がり、
「あんなに打ち込んでいたのに、すぐに冷めちゃうもんなの?」と訊いた。
「でも、あれですよ。自分が過去に行ったことだけで評価するのは若者にとって酷ですよ」と投げやりにいった。彼女は言いすぎたのを反省したかのような表情をして「ごめん」と言った。「ごめんなさい、斉藤です」と彼女はついでに名乗った。ぼくも反射的に自分の名前を言いそうになったが、彼女はぼくの名前をすでに知っていた。
その後、このひととは同じ講義を受けていることが判明し、たびたび顔を合わせることが多くなった。最初にぼくのこころの扉を開けるよう仕向けたのは、このひとであった。もちろん、直ぐに雪代さんとの関係を耳にしたのだろうが、そのことにはあまり触れず、かといってまったく知らないという態度もみせなかった。ただそのことについて特別、強調するわけでもないので、本を読む時間がいくらか減ったとしても、そのひとと夕暮れ時間にはなすことも度々あった。
自分は男性の友人を見つけられず、女性たちが勝手に自分に寄ってきた。そのことにこだわりも何の意味づけをする必要を感じず、ありのままの状況だけを受け止めた。そのころは運動ばかりの3年で得られなかったものをぼくは必死に吸収しようとしていた時期だ。古い映画のビデオテープを借り、家で寝転がって観た。ぼくがする話を雪代さんは楽しそうに聞いてくれた。ぼくが新たな方向性をもつことを彼女は喜んでくれた。過去にいた自分ではなく、これからの自分を引っ張って愛してくれそうな予感がした。
それでも、彼女はときには授業に出ず、東京に自分の写真を撮られにいった。きちんとした形での就職を望んでいるようでもなく、いまの延長で生活をするようでもあった。愛している女性が可能性のかたまりであるということが、そのときの自分を幸福にした。ぼくが、幸福であればあるほど、ぼくの家族は失ったいくつかを頭のなかで積み上げているようにも見えた。あとあと考えれば、親も妹なりも自分の息子や兄が女性に対して酷いあつかいをするということに無言のときには言葉で非難をされていたのかもしれない。妹は裕紀と同じ学校に通っていた。そのことに気付いてあげられるほど、ぼくは大人ではなかったのだろう。ただ、自分の突き進む方向だけを最優先にして歩んだ。
ぼくは、ときには斉藤望という女性と建築について話し合うようになった。彼女から得られる知識を吸収しようと励んだ。ぼくの知っていることは限られているが、それさえも小出しにするようにした。ひとつには自分を守ることだったのかもしれないし、もうひとつでは、自分の意見に自信をもてるほど成長していなかったからなのかもしれない。恥ずかしい思いはしたくなかったのだろう。そのために、ぼくは頭の中に知識という荷物を詰め込もうとした。
「そんなに勉強しないで、わたしと楽しみなさい」と雪代さんは言った。ぼくはそれに直ぐ従うしかなかった。だからといって、彼女は常に享楽的であろうとはしなかった。本質的に、いつも自分が追い求めたような賢い女性であった。ぼくが目をあげると、彼女もにっこりと笑った。
ぼくは大学に通うようになっている。何回か電車で通学したが、定期券を買う必要もなかった。直ぐに雪代さんの運転する車に同行させてもらって通うことが多かったからだ。時間がずれている場合には、もちろん自分も吊り革につかまり電車に揺られた。
きれいな3歳年上の女性とそうした関係であることが、ぼくの周りから新たな友人を作る機会を遠去けた。ぼくは、そのことに対して不満もなく、逆にすがすがしいぐらいの気持ちでいた。しかし、なかにはぼくのラグビーの活躍を知っている人もいて、いろいろ訊かれたりまた情報を得ようとしたりして、近付いてくるひとたちもいたが、自分の素っ気無い態度のため、恒久的な関係を築き上げる努力を放棄するひとたちが大半だった。ぼくは、ひとりで昼食を食べ、雪代さんがいればいっしょに食事し、時間があけば図書館で本に顔をうずめた。
「近藤君ですよね。ラグビー応援してました」
図書館の入り口を出ると、そういう言葉をかけられることも多々あった。その後につづく言葉は大抵が「どうして、辞めちゃったんですか?」だった。もちろん、ひとことで応えられるわけもないので、その場に応じた言葉をさがして見つけた。ときには、「限界だったので」とか「怪我がこわくなった」とかであったが、その時は、面倒くさい一面もあったのだろうか「興味が失せてしまったので」といった。その女性は食い下がり、
「あんなに打ち込んでいたのに、すぐに冷めちゃうもんなの?」と訊いた。
「でも、あれですよ。自分が過去に行ったことだけで評価するのは若者にとって酷ですよ」と投げやりにいった。彼女は言いすぎたのを反省したかのような表情をして「ごめん」と言った。「ごめんなさい、斉藤です」と彼女はついでに名乗った。ぼくも反射的に自分の名前を言いそうになったが、彼女はぼくの名前をすでに知っていた。
その後、このひととは同じ講義を受けていることが判明し、たびたび顔を合わせることが多くなった。最初にぼくのこころの扉を開けるよう仕向けたのは、このひとであった。もちろん、直ぐに雪代さんとの関係を耳にしたのだろうが、そのことにはあまり触れず、かといってまったく知らないという態度もみせなかった。ただそのことについて特別、強調するわけでもないので、本を読む時間がいくらか減ったとしても、そのひとと夕暮れ時間にはなすことも度々あった。
自分は男性の友人を見つけられず、女性たちが勝手に自分に寄ってきた。そのことにこだわりも何の意味づけをする必要を感じず、ありのままの状況だけを受け止めた。そのころは運動ばかりの3年で得られなかったものをぼくは必死に吸収しようとしていた時期だ。古い映画のビデオテープを借り、家で寝転がって観た。ぼくがする話を雪代さんは楽しそうに聞いてくれた。ぼくが新たな方向性をもつことを彼女は喜んでくれた。過去にいた自分ではなく、これからの自分を引っ張って愛してくれそうな予感がした。
それでも、彼女はときには授業に出ず、東京に自分の写真を撮られにいった。きちんとした形での就職を望んでいるようでもなく、いまの延長で生活をするようでもあった。愛している女性が可能性のかたまりであるということが、そのときの自分を幸福にした。ぼくが、幸福であればあるほど、ぼくの家族は失ったいくつかを頭のなかで積み上げているようにも見えた。あとあと考えれば、親も妹なりも自分の息子や兄が女性に対して酷いあつかいをするということに無言のときには言葉で非難をされていたのかもしれない。妹は裕紀と同じ学校に通っていた。そのことに気付いてあげられるほど、ぼくは大人ではなかったのだろう。ただ、自分の突き進む方向だけを最優先にして歩んだ。
ぼくは、ときには斉藤望という女性と建築について話し合うようになった。彼女から得られる知識を吸収しようと励んだ。ぼくの知っていることは限られているが、それさえも小出しにするようにした。ひとつには自分を守ることだったのかもしれないし、もうひとつでは、自分の意見に自信をもてるほど成長していなかったからなのかもしれない。恥ずかしい思いはしたくなかったのだろう。そのために、ぼくは頭の中に知識という荷物を詰め込もうとした。
「そんなに勉強しないで、わたしと楽しみなさい」と雪代さんは言った。ぼくはそれに直ぐ従うしかなかった。だからといって、彼女は常に享楽的であろうとはしなかった。本質的に、いつも自分が追い求めたような賢い女性であった。ぼくが目をあげると、彼女もにっこりと笑った。