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悪童の書 an

2014年09月17日 | 悪童の書
an

 父はひとに威圧感を与える名人だった。達人の域に達していた。

 ぼくは架空の棺にむかって話しかけている。生前葬のように。個人的に。

 兄は車の免許を取り、最初の愛車を購入しようとしていた。質の良い中古車あたりを。あまり走っていない、乗りこなされていない座席を有した。ものを売るということは楽しいことなのかもしれない。そのことで自分の評価が増し、給料にわずかながらでも反映するならばとくに。

 この辺が当事者ではないので定かではないが、兄は支払をしているのだろうが、返済のローンの方法は父も関与していた。

 ひとりのセールスマンが来る。ねぎを背負っている鴨もここにいる。しかし、営業マンは段々と打ちのめされていく。簡単に売れるという空中に飛散しているひとつひとつの魔法の粉を、わが父はすべて真っ黒にしてしまう。最終的に、彼はうちの父が不在かどうかを確認してから訪れるようになる。あなたは売れば、もしくは最初の車検あたりできっぱりと縁が切れるのだろうが、ぼくらはずっとこの闇のなかで暮さねばならないのだ。建設的な会話の方法を学ぶこともできずに。

 父は怒り、子どもたちを叱責する際に最後に持ち出すことばは、「片輪にしてやろうか!」というものだった。野蛮な発言である。もちろん、そこまでされることもなく、途中でぼくは父に愛想を尽かす。十四才ごろの話だった。彼のテントから抜けたのである。それ以来、権威を見せびらかすひととぶつかり、そのことで後悔することもまったくない。

 評価がフェアではない。その期間に家族旅行も連れて行ってもらい、海水浴にも行った。手賀沼で釣りをしているときにも横の芝生でずっと眠っていたにせよ、同行してくれた。身長も平均以上になるぐらいに満腹にしてくれた。だが、あのやり方になじめなくなったのだ。ぼくは無口になるという方法を選択する。苦手な相手にはこれしかない。お互いの言い分があってこそ、判断は有効になるが、文字で後世にのこすという技術を選んだこのぼくには、いくらか判定が有利になり、持ち込む証拠も雄弁に働く。

 学校の成績もそこそこなのに、それを途中で簡単に投げ出したぼくにずっとむかっ腹をたててもいた。そのことで生き方に不利になった最たる人間は当人のぼくであり、父ではない。

 だが、この時期になる前までは、ぼくと兄は父の薄くなりつつ髪をからかったりもした。父も笑って、ぼくらの嘲笑も受け止めていた。

 友人たちが家の電話にかけてくる。愛想も悪い父で、対応も素っ気なく、すこぶる評判が悪い。電話かけるの厭になるんだけど……。何度もいう。あなたたちは三十秒ですむが、もっとぼくが家にいる滞在時間は長いのだ。もう捕虜に等しいのだ。友人とふざけているぼくらがいた個室の騒音に、朝型の勤務の父は眠れずイライラして怒鳴り込む。ぼくは面目も丸つぶれで、肩を外国人のようにすくめて、家から出た。もう夜中になるころである。

 フェアではない。年に二度あるボーナス時には数万円を渡され、不定期のお小遣いとして自由に使える恩恵にあずかった。それは退職までつづいたであろうが、最後には退職金のなかの百万円を手切れ金のようにあっさりとくれた。内密に母から二百万といわれていたはずなのに減額された事実が喜びを半減させた。実家のそばの銀行の支店で預金をして、なにをしたわけでもないのに生活費のために消えた。稼ぐということを最優先にできる生活環境にいなかったという言い訳もできるが、どちらが悪い父であり、悪い子であるのだろうか。正直であることが、ぼくの分を悪くする。

 悪童であった記述なので、ぼくは自分の欠点を披露すること自体が正しいことになる。

 逆に違う設定に自分を置くことにする。ぼくは仕事をしていて、先輩に父がいたら? 友人の家に遊びに行き、頑固な家族が出会わなかった父であるならば? なんと、気楽な人生になるんだろう。バラ色とも呼べた。

 時間がだいぶ経って実家に帰る。冷蔵庫に一本もビールがない。ぼくは自分用に酒屋に寄ってわざわざ買う。大酒のみの父はいくつかの手術の結果、酒を受け付けない身体になった。ぼくは、彼がこれを含めば「ハルク」という緑色の怪物になり得ることを知っていた。もう、なったとしても恐くないが、なることもできなくなった。

 威圧感のなれの果ては静かに二階の自室で寝ている。こわいものは、こわいままであってほしかったな、という願望もあるが、のこりの滞在期間も短い。飛行機の乗り換え時間のような待機しか与えておらず、あとは飛び去る飛行機に乗るだけであった。ぼくに喜怒哀楽のすべての思い出をつくってくれたひとであった。力をなくす過程など、見たくもなかった。幸い、別々に住み、知らないことも多くて済んでいる。

 仕事をして、家のローンを払って、病気が見つかる。三つのことしかする時間もない。その合間に、ひとに威圧感を無数に刻み込んだ。しかし、後楽園にも連れて行ってくれた。グローブも買ってくれた。クリーム・ソーダも飲ませてくれた。昭和の父というのは自分をアピールするのが下手だった。だから、印象も心象も悪くする。欠点が分量として多くなってしまったが、そのことさえ書いてくれるひとも一人もいなくなる時期が来る。是認を得ないまでも、勝手に書くぐらい許してくれるだろう。こちらも多大な迷惑をこうむった間柄として。同じ屋根の下に長い間、住んだだけの仲だとしても。



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