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物語の連鎖
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悪童の書 ao

2014年09月18日 | 悪童の書
ao

 車を運転しない自分は、沖縄というところを旅する場合、同行者が必要になった。運転をいやがらないひとも多数いる。反対にアルコールの誘惑に常に負けていようと望むひともいる。両方を欲しがるひとも当然いた。

 肌色という画一的な名称の表現を無視しても、その空は限りなく空色であった。現地でレンタカーを借りる。最初はなかったが、二度目にはカーナビが運転席の視線の横に設置されていた。便利になった分、迷うこともなくなる。ひとは決まった予定調和の結末だけを求めているのでもない。思いがけない展開とどんでん返しも、ときには必須である。ときには必須? 矛盾の最たる表現である。話を戻す。旅も個人の未来も冒険の要素がわずかでも欲しい。その為にミステリー小説が読まれ、ヒッチコックの映画を観ることになった。とくに余裕があるときであれば。休暇をとって沖縄にいるぐらいだからぼくには余裕があった。三度目にはカーナビの質も悪く、うまいこと道に迷うこともできた。国道だけが道ではない。

 ミシュランのガイドにのらなくてもおいしいものはおいしいのだ。メニューも価格表もない。できそうな料理を訊き、待ち時間をたずねられる。交渉すら楽しい。一尾、煮付けられた魚が大皿に盛りつけられている。はじめて見る魚。ガイドからも、カーナビからももれる場所。少なくともこの時点では。旅の醍醐味のひとつである。

「ここだけは、絶対に外せない」という執念もある。有名な水族館。売り物の水槽のなかの平らな魚。それをきれいになぞるのも旅であった。エッフェル塔を見て、ブランドのバッグを買う。

 本は読めば忘れた。しかし、大きなどんでん返しだけは頭のなかで生きのこる。海ブドウの体内の浄化作用でトイレを行く先々で探している。どんでん返しなど必要ない。カーナビの機能にはトイレの場所のような詳細は含まれていなかった。

 こうしたことを繰り返すと、勘というのは鈍ってくるのだろうか。五感は磨かれない。ベトナムで負け戦を強いられるカリフォルニアの陽光あふれるハイウェーを颯爽と車で駆け抜ける若者。そんなことを考えながら、「グスク」という聞きなれないことばを口に出してみる。世界遺産に登録されても、風雪に耐えたのは、石を積み重ねた城壁だけだった。みな塵となる。

 冷静で、冷酷な記述を試みる。いっしょに行った友人はうつ病になる。うつ病の女性と交際して、感情移入をしてうつ病になる。そのぐらい優しい性質をもっているのだろう。独立を勝ち取るという名目のもと、ひとに接する際に充分、配慮をしている所為か優しさが欠如している自分の性格。対外的なものから守れた自分を誇りにする。

 ぼくは、この旅行で現地の「泡盛」のグラスを手にしている彼の姿の写真を撮る。

 ある日、彼はもうひとりの知人に自殺をすると告げて、失踪する。夜中に、ぼくの家にも電話がかかってくる。便りがないのは良い便りというのは真実の響きであった。警察が当人を探すのに手がかりが必要となり、写真の有無を訊かれる。ぼくはパソコンを立ち上げ、写真を探す。この逼迫した場面と不釣り合いだと思うが、楽しそうに手には泡盛の入ったグラスがつかまれている写真の顔がいちばん鮮明だ。ぼくはその一枚を選び、そして、もうひとりの知人の携帯電話にメールで送る。

 結局、見つかった。何日か経ってたっぷりと睡眠薬を投与されて自宅で寝ている。ぼくも傍らにいる。うつ病とうわさされる女性もいる。ぼくはおそるおそることばを選びながら発言する。しかし、どこかでふたりを傷つけることを避けられない。また、この場にいる自分のことも理解できないでいる。

 いつか、当然のように疎遠になる。ぼくらを縛っていた関係のもとを、ふたりとも断ち切っていた。そもそも幻想を信じていた。

 みな、ナビのない人生を歩んでいるのだ。厭世的な教訓にするならば。もちろん、そうする必要もまったくない。ぼくは彼が福島を旅したときに買いためた日本酒を、水のように無節操に飲む。ぼくが日本酒を飲めると発見したころのことだ。最初の日本酒体験から二十年ぐらいが経っている。安いコップ酒はそのぐらいの距離を置くのに役立ってくれた。最初も肝心である。また同時に終わりも肝心である。

 そうだ、彼とイタリアにも行ったのだ。彼と、あと、もうひとりは、地下鉄の混む車内でスリに遭いそうになっている。行動があやしいカップルを装っているふたりが身近にいた。他人事の自分は、「すられたら、のちのち、おいしいのにな、エピソードとして」と身勝手なことを言っている。

 エピソードが生きる糧である。ひとは会話をしても、そこには耳への到達の限度があり、人数の上限とも戦う。ここで書いて置けば、ある程度は永続性がのぞまれる。話し方の絶妙なるニュアンスは薄まってしまうか、消えてしまうが、記録するという方法には、テープより力を発揮するのかもしれない。

 ひとは運転する。それが生活の一部になっているひともいる。そこから見える風景もたしかにあるはずである。自分にとって歩行するぐらいのスピードが観察したり、思考したりするためには、ぴったりと合っている。後天的にそうなったのか、先天的にそうであったのかはもう判断できない。その見えた景色が、助手席もふくめてだが、この記述である。精神的な病いも、なるべくなら自分にふりかかってほしくない、との懇願の記録でもあった。看病も、また等しい居場所にいる。せめても、いてほしい。



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