最後の火花 87
なぜこんなにも反抗的だったのだろうか?
素直さ。聡明な少年。そうした性質を生まれつき発揮する友だちもいた。自分はその友情関係に対して居心地が悪いわけでもなかったが、簡単に手放してしまった。それより、狡猾さ、ある種の先見性や抜け目のなさ、間違った方法だったが自分は澱んだ側に足場を置いた。
仲間の所為にする気もない。自分が悪影響を受けたと告白するのが一般論では正しく、悪影響を与えたことは自分のなかで揉み消してしまう。その狡さは捨てようと思う。自分はわずか数人でも間違った道を歩まそうと促したのだ。大分すくなく見積もってだが。結果として、自分は市民という意識しないで楽に享受できる資格を失った。だが、それももう数年前のことになった。
オレはこれから良い影響、正しい模範しか与えたくなかった。そもそも、最初からレールを外れているので、この目標も設定として高すぎるのかもしれない。ただ、なにものにも見つからずじっと息をひそめて生きていることだけが唯一の未来として得られる姿なのだろう、本来は。しかし、関係性がもう生まれてしまった。生まれた卵は無惨に割ることもなく、丁寧にあたためて育てるしかない。オレは覚悟する。
オレにも世帯というものが吹きかける染みがくっついてくるのかもしれない。厭なことばかりではなく歓迎すべきことがらだった。オレは得られなかった普通という範疇にふり幅をもどす。ここからの揺れは小さくして、枠のなかを越えないようにする。
それとは別にオレが育てられた環境での物語の渦があった。これを吐きだしたいと思っている。オレには神秘も畏敬も恐れもいらない。日常の営みで頂けるものが誇りとなり感謝につながる。オレは英雄を相手に一方的に物語を口にする。ただの物語。アドベンチャーと途中報告。終わりなど決してこない物語の連鎖。
良い聴衆は合いの手や拍手がうまいのだろう。子どもは疑問でできている。オレが口にすることばの数々に熱心に耳を傾けている。クジラに呑み込まれる男。兄弟で争う面々。どこかに売られ高い地位になって戻ってくる男。オレは幼少時に話してくれた人々を思い出す。彼らにも幸福な未来が待っていたのだろうか。オレの落ちぶれた事件や、このオレ自身の存在にがっかりしたのだろうか。いまでも、できるならば手を差し伸べたいと願っているのだろうか。だが、オレの未来はこの町での、この家族とのささやかな暮らししかのこされていない。王冠もないが、まったくの裸でもない。高貴なマントもないが、素足で歩きつづけるわけでもない。この普通さと俗さをオレは愛していた。
オレは捨てられたのだ。この家族もほんとうの夫や血縁の父から捨てられたのだ。捨てられたもの同士の密着。そこにもきれいな花が咲くべきだった。踏みつけられても、どうにか逃れるようにしよう。
オレの酒の量は減る。うさばらしで飲むこともすくなくなった。喜ばしいときの酒の味は格別だった。手料理もうまい。オレは彼女を尊敬してしまう。そんなつもりもなかったくせに。なぜ、前の夫はこの女性に不満をもち、どこが納得できなかったのだろう。だが、そいつがいたらオレの幸福はなかったのだ。いつものように鼻先で戸を閉められ、恩恵にあずかることもなかった。
喉がかわいて夜中に起きる。流しでコップに水を注ぎ、そのまま飲んだ。オレはまた部屋に戻る。あいつと英雄がぐっすりと眠っている。オレはどこまでが当事者で、どこまでが他人であるのかその境目が分からなかった。また分かる必要もない。徐々に版図をひろげていけばいいのだろう。強制でも侵入でもなく、交渉と合意をたずさえて。
朝をむかえる。飯の炊き上がる匂いがする。オレの腹はその匂いで空腹であることを理解して主張の音を発する。英雄はおかわりをする。オレは集団の一員として競い合うようにご飯を食べた。もちろん、常に満腹になるとは限らない。それでも、分け与えることは悪であり、平等という観点も大まかには憎んでいた。強いものだけが優秀であり、弱者は淘汰される要員のひとりだった。だから、オレはなつかしむことさえできない。自分のたったひとつの過去なのに。オレがなつかしがらなければ、誰も同じ感情を抱けないのに。
職場に向かう。川の水量は上がっていた。雨が降ったわけでもないのに濁っていた。上流のどこかで、あるいは数日後には災難が待っているのだろうか。予兆というものを敏感な動物たちは感じるらしい。オレは段々と幸福にともなう鈍感さに包まれていく。
職場の大きな時計を目にする。始業まで数分前だ。社長は不機嫌な顔でタバコを吸っていた。きれいだった灰皿にはもういくつもの吸殻が押しつぶされていた。オレはかかわることを止め、静かに挨拶だけして素通りする。外をみると猫が自分もこれから働くとでもいわんばかりに準備運動のように身体を伸ばしていた。だが、直ぐに消えた。もう一度、寝床に戻るチャンスがあるのかもしれない。オレは機械のスイッチを入れる。一週間、この機械とともに暮らす。学者とか博士という架空にしか過ぎない存在の一日のはじまりを空想する。しかし、なにも生まれてこない。オレには社長の顔色を測るぐらいの能力しかないのだろう、きっと。
なぜこんなにも反抗的だったのだろうか?
素直さ。聡明な少年。そうした性質を生まれつき発揮する友だちもいた。自分はその友情関係に対して居心地が悪いわけでもなかったが、簡単に手放してしまった。それより、狡猾さ、ある種の先見性や抜け目のなさ、間違った方法だったが自分は澱んだ側に足場を置いた。
仲間の所為にする気もない。自分が悪影響を受けたと告白するのが一般論では正しく、悪影響を与えたことは自分のなかで揉み消してしまう。その狡さは捨てようと思う。自分はわずか数人でも間違った道を歩まそうと促したのだ。大分すくなく見積もってだが。結果として、自分は市民という意識しないで楽に享受できる資格を失った。だが、それももう数年前のことになった。
オレはこれから良い影響、正しい模範しか与えたくなかった。そもそも、最初からレールを外れているので、この目標も設定として高すぎるのかもしれない。ただ、なにものにも見つからずじっと息をひそめて生きていることだけが唯一の未来として得られる姿なのだろう、本来は。しかし、関係性がもう生まれてしまった。生まれた卵は無惨に割ることもなく、丁寧にあたためて育てるしかない。オレは覚悟する。
オレにも世帯というものが吹きかける染みがくっついてくるのかもしれない。厭なことばかりではなく歓迎すべきことがらだった。オレは得られなかった普通という範疇にふり幅をもどす。ここからの揺れは小さくして、枠のなかを越えないようにする。
それとは別にオレが育てられた環境での物語の渦があった。これを吐きだしたいと思っている。オレには神秘も畏敬も恐れもいらない。日常の営みで頂けるものが誇りとなり感謝につながる。オレは英雄を相手に一方的に物語を口にする。ただの物語。アドベンチャーと途中報告。終わりなど決してこない物語の連鎖。
良い聴衆は合いの手や拍手がうまいのだろう。子どもは疑問でできている。オレが口にすることばの数々に熱心に耳を傾けている。クジラに呑み込まれる男。兄弟で争う面々。どこかに売られ高い地位になって戻ってくる男。オレは幼少時に話してくれた人々を思い出す。彼らにも幸福な未来が待っていたのだろうか。オレの落ちぶれた事件や、このオレ自身の存在にがっかりしたのだろうか。いまでも、できるならば手を差し伸べたいと願っているのだろうか。だが、オレの未来はこの町での、この家族とのささやかな暮らししかのこされていない。王冠もないが、まったくの裸でもない。高貴なマントもないが、素足で歩きつづけるわけでもない。この普通さと俗さをオレは愛していた。
オレは捨てられたのだ。この家族もほんとうの夫や血縁の父から捨てられたのだ。捨てられたもの同士の密着。そこにもきれいな花が咲くべきだった。踏みつけられても、どうにか逃れるようにしよう。
オレの酒の量は減る。うさばらしで飲むこともすくなくなった。喜ばしいときの酒の味は格別だった。手料理もうまい。オレは彼女を尊敬してしまう。そんなつもりもなかったくせに。なぜ、前の夫はこの女性に不満をもち、どこが納得できなかったのだろう。だが、そいつがいたらオレの幸福はなかったのだ。いつものように鼻先で戸を閉められ、恩恵にあずかることもなかった。
喉がかわいて夜中に起きる。流しでコップに水を注ぎ、そのまま飲んだ。オレはまた部屋に戻る。あいつと英雄がぐっすりと眠っている。オレはどこまでが当事者で、どこまでが他人であるのかその境目が分からなかった。また分かる必要もない。徐々に版図をひろげていけばいいのだろう。強制でも侵入でもなく、交渉と合意をたずさえて。
朝をむかえる。飯の炊き上がる匂いがする。オレの腹はその匂いで空腹であることを理解して主張の音を発する。英雄はおかわりをする。オレは集団の一員として競い合うようにご飯を食べた。もちろん、常に満腹になるとは限らない。それでも、分け与えることは悪であり、平等という観点も大まかには憎んでいた。強いものだけが優秀であり、弱者は淘汰される要員のひとりだった。だから、オレはなつかしむことさえできない。自分のたったひとつの過去なのに。オレがなつかしがらなければ、誰も同じ感情を抱けないのに。
職場に向かう。川の水量は上がっていた。雨が降ったわけでもないのに濁っていた。上流のどこかで、あるいは数日後には災難が待っているのだろうか。予兆というものを敏感な動物たちは感じるらしい。オレは段々と幸福にともなう鈍感さに包まれていく。
職場の大きな時計を目にする。始業まで数分前だ。社長は不機嫌な顔でタバコを吸っていた。きれいだった灰皿にはもういくつもの吸殻が押しつぶされていた。オレはかかわることを止め、静かに挨拶だけして素通りする。外をみると猫が自分もこれから働くとでもいわんばかりに準備運動のように身体を伸ばしていた。だが、直ぐに消えた。もう一度、寝床に戻るチャンスがあるのかもしれない。オレは機械のスイッチを入れる。一週間、この機械とともに暮らす。学者とか博士という架空にしか過ぎない存在の一日のはじまりを空想する。しかし、なにも生まれてこない。オレには社長の顔色を測るぐらいの能力しかないのだろう、きっと。