爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(31)

2012年01月31日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(31)

「うちの夫が会いたがってるよ」
 夜、泊まっていたホテルで寛いでいるときに携帯電話が鳴った。電話の相手は幼馴染みの智美だった。彼女の夫はぼくのラグビー部の先輩でもあった上田さんだ。
「連絡しようと思っていた」
「まだ、いるの?」
「あさっての午前まで」
「じゃあ、明日の夜にでも、どう?」彼女は受話器をふさいで、誰かに話しかけている。多分、上田さんだろう。「明日の昼にでも、また連絡するって。ちょっと待って、かわるね」

「ひさしぶりです」
「どうだ、東京?」
「疲れました」
「明日の夜、どっかで会おう。場所は、昼ごろに連絡するよ。笠原に決めてもらうから」
「あの子も来るんですか?」
「だって、お前ら親しかったじゃないか」
「そうですね」

 電話を切り、ぼくはベッドに寝転がる。そのまま目をつぶり、自分の過去を振り返る。だが、ただ思い出が布団のように自分のうえに覆いかぶさるのをそのままにしていただけだ。上田さんの会社の後輩だった笠原という女性。ぼくらと同じ地元の別のラグビーチームの高井という男性と結婚した。そのひとを紹介したのはぼくだった。ぼくと裕紀は家具を見に行き、そこの従業員として働いていた彼と知り合った。よくよく話せば、地元も同じでラグビーをしていた。彼はぼくの当時を知っており、そのことで会話が弾み、親しかった笠原さんに紹介した。

 それから、何年後かにぼくは裕紀を失い、いつも飲みすぎていた。いない女性の暖かい肉体を得られないため、ぼくは代用をさがす。そのひとりが笠原さんだった。ぼくは、一度だけそうした関係をもち、それ以降もう会ってもいない。彼女がどう思っているかも分からない。虫に刺されたぐらいの記憶かもしれず、かすり傷程度の思い出かもしれない。だが、自分が間違いをしてしまったような後悔のうずきは、消えないまま残っていた。

 煩悶したままでは埒が明かないのでとりあえず服を脱ぎ、シャワーを浴びた。テレビを着け、もう1杯だけビールを飲もうと缶ビールを開けたが、そのままグラスいっぱいの状態を保ったままで眠ってしまったらしい。

 仕事が一段落した翌日の昼下がり、ぼくは上田さんから電話をもらう。予約した店の近辺をあたまに浮かべる。少しだけ時間がかかったことがぼくが東京から離れた時間に思えた。そして、雪代との距離も考えている。彼女はいま何をしているのだろうか?
 その日の業務も終わり、明日の帰る時刻を告げ、ぼくは会社をあとにする。10時ちょっと前の電車を予定している。ぼくは雪代や娘の広美の顔を思い浮かべている。ふたりは、どれほどぼくを必要としているのかを考えている。そして、裕紀はそれ以上にぼくを必要としていたかもしれないという仮定をもてあそんでもみた。

 ぼくはそれから地下鉄の吊り革をもったまま揺られ、待ち合わせの場所に着いた。すでに3人がいた。智美と上田さんと笠原さん。
「お、元気そうだな。ちょっと太った?」上田さんが言う。その言葉はぼくの安定した生活を意味しているようだった。
「幸せ太り」ぼくは自分の身体を見下ろす。「元気だった、笠原さんも?」
「ええ」
「彼女、子どもができる」上田さんが状況を教えてくれた。
「ほんと、おめでとう?」結婚していればこういう成り行きも当然のことだったが、ゆり江といい過去を知るぼくには連続した驚きが追いかけてくるようだった。
「だから、お酒を飲まないけど、許してね」彼女は笑う。それを証明するようにテーブルにはオレンジ色の液体がグラスに入っていた。

 ぼくの注文したものがきて、全員のグラスがぶつかった。
 ぼくは自分の生活について話し、笠原さんも高井君との話題や、病院にいったときのこと、さらにはそれを告げられたときの彼の様子などをくわしく話した。ぼくは、そのようなチャンスや機会を裕紀にも与えてあげたかったと思っている。そこで、トイレに立ち裕紀のことを思い出そうとしたが、少し、その表情を取り戻す時間が遅れた。ぼくは、写真を見ないことには彼女を思い出せなくなってしまう不安を感じた。それは、衝撃だった。あんなにも好意をよせた人物が遠退いていく。しかし、それは自分が酔ったためだと判断しようとした。明日にでもなれば、自分のこころには、彼女が鮮明に戻るのだろうと自分を安心させた。

 楽しい時間は早く過ぎるようにできている。ぼくは大いに笑い、なんでも打ち明ける友人が、場所はすこしだけ離れているにせよこうしている事実に感謝をしていた。身近なところには妻がいて、東京には友人がいた。ぼくは、結果として恵まれていたことを再確認する夜だった。

「わたしたち、これで帰るね。笠原さんを送ってあげて」そう言って、智美と上田さんはタクシーに乗り込んでしまった。
「子ども、ほんとによかったね。覚えていたら、あれだけど、前に酔ってひどいことをした。ごめん」
「忘れてるかと思っていた。さっきのあの店の様子からして」
「忘れるわけないよ」
「あれは、絆創膏を痛がってた男の子に貼ってあげたの。そう、いまでは考えている」
「そのお陰か、もう治ったよ」
「じゃあ、良かった」
「彼は?」
「知らないよ。わたしも、思い出さない」彼女はこちらを振り向く、夜の町の照明が彼女の黒い髪に反射される。「でも、たまに思い出す」
「やさしかった。みんな、やさしかった。君はとくにやさしかった」ぼくは、その髪に向かってなのか、それとも、自分のこころに対してなのか分からないままそんな言葉を口にしていた。

壊れゆくブレイン(30)

2012年01月30日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(30)

 ひさびさに東京にいる。前の勤務地であった支店に向かっている。お得意様に挨拶をしなければならず、その前にいまの支店長と会う約束があった。ぼくは馴染みの坂道を歩き、いままでの経験を振り返っている。すると、目の前にコンビニがあらわれ、ぼくは水を買うためにそこに入った。当然のこと、当時と店員の顔は違っていた。ぼくには、ここにたくさんの思い出があった。裕紀と10代のときに別れてしまい、再会したのは26歳のときで、その場所がここだった。あとで聞くとぼくはずっと彼女に気付かず、1月近く経って声をかけたらしいが、彼女はすでにぼくのことを確認していた。これまでの行き掛かり上、彼女はぼくに声をかけるのを控え、ただ待っていた。待っていた証拠と、まわりにまだ同じような店がなかったため、ぼくらはいつかは出会う必然性があったのだ。

 ぼくは水を手にしてその店を出る。ただこれだけのことでいままでの経緯がすべてよみがえってくる。しかし、ぼくの手には思い出しかない。それを変えることも更新させることもできなかった。それゆえに思い出は必要以上に甘酸っぱく、また同じ条件のゆえ悲劇的でもあった。

「お疲れ様です」ぼくは、扉を開いて声を発した。
「あ、近藤さん」
 ぼくが居たときと同じメンバーは気安く声をかける。

「会議室で待っててください。あとで、お客さん来ると思いますので」ぼくは、そう言われたがだらだらとみんながいるところにいて、無駄話をした。ぼくは、ここにいる最後のころ、裕紀を亡くし自暴自棄な生活を送っていた。それを鮮明に覚えている同僚たちは、ぼくに対して危なげないような応対をしてきたが、何人かは社長がすでに立ち直った報告でもしていたのだろうか、親しく接してきた。それも予定の時間がせまったころには止め、奥の会議室に向かった。

 すると待ち合わせの時間を1、2分過ぎ、以前交流のあった会社のひとびとがやってきた。そこからは、まじめに緊張感のある仕事にもどった。やはり、本社である地元より、こちらで会う他社の面々は洗練され、仕事にも厳しい印象を与えた。しかし、厳しくても同じものを共有すれば、そこには愛着らしきものも芽生え、力をあわせる楽しみもあった。ぼくはこうして仕事面でも復活したことを証明できたようにも思う。

 お客さんは帰り、ぼくはそのまま会議室でコーヒーを飲みながら打ち合わせをした。いまの業務の行き詰まりを聞き、解決策をかんがえた。直ぐに答えのでないものももちろん多く、ぼくはカバンに宿題を詰め込み、その返答の期限をきいた。
「近藤さん、泊まりですか?」
「そうだよ」
「じゃあ、どうです。付き合いません」
「いいよ」この言葉は自分のアルコール分量を制御できる確定の内容だった。ぼくは、ここを去る前、だらしない飲み方をした。それが悲劇をともなった忘れる方法でもあり、また忘れられなかった記憶の勝利の日々でもあった。「その前に、ちょっと用を足してくる。東京にしかないものも意外とあるんだよ」そういって、ぼくは外にでた。そこには顔見知りの女性が犬を散歩させていた。

「久し振りね。この子も覚えている」
 犬が尻尾をふり、ぼくにまとわりついた。その飼い主の女性はひとの将来がのぞけた。ぼくは何度かヒントのようなものをもらい、またショックを受けるような事実は教えてもらえなかった。それに感謝と戸惑いの両方が常に過去にはあった。いまも似たような状況であることには変わりなかった。

「ほんとですね。覚えていてくれた」
「子どもが、幸せを与えてくれているようね」
「再婚して、そのひとに子どもがいた。説明の必要なかったですよね」
「その子に何かを教えている女性がいるのね。その子もあなたは同じような視線を注いでいる」
「ぼくは、ふたりの子ども時代を大切に考えている。大人になっても、ぼくのことを覚えていて欲しいから」
「覚えてるよ、ずっと」
「この子みたいに」ぼくは、犬のあたまを撫でる。
「そうにおいとなったり、感情の栄養源になったりして」彼女は靴先で2、3度地面を突いた。乾いた音が響き、犬はその音のほうに振り返った。「もう悲しみは癒えた?」

「すべてというわけにはいかないけど・・・」ぼくは、その象徴のように屈んでいた身体を立ち上がらせた。
「いいじゃない、ゆっくりで。最後の最後にきもちの整理がつき、決着すれば」
「そうなるといいですね」ぼくは着いてもいない犬の毛を払うようにズボンの裾を手ではらった。「ちょっと、買い物を頼まれていて」

「そう、また」そういって彼女は犬につながっている紐を軽くひいた。ぼくが小さな女の子と遊んでいるという姿を彼女は予感した。ぼくは、それを今日までまゆみの幼いころだと思っていたが、実際は広美であったことを知った。ぼくはその子の未来になにが訪れるのか訊いてみたい興味もあったが、やはり、そのことは忘れることにした。ぼくはそこまで自分の裁量を信じてもいなかったのだろう。もっと、それは別の領域に任せておけばいいのだろう。

 ぼくは買い物を済ませ、また職場のそばまで戻り、むかしの同僚たちとビールを飲んだ。時間は流れ、流れてしまわなかった友情や愛のかけらを東京で見つけていたのだ。

壊れゆくブレイン(29)

2012年01月29日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(29)

 娘が学校の行事で泊まりでいなかった。ぼくらは家庭のことから解放され、外で食事をする。遅くまで飲み、かつ語らった。毎日がこれだと飽きるかもしれないが、たまにできたこのような空白で実りのある一日は喜ばしいものだった。

 結婚してから、1年ちょっとが経った。悲しみにくれていた自分は、ある部分では陽気さを取り戻していた。それも、雪代や娘の広美のおかげだった。ひととの接触やぬくもりがぼくの感情を左右し、前向きな影響をあたえた。ぼくは、そのことを告げる。

「それは、一方通行じゃないよ」と雪代は言う。「会社の子が弱々しい犬を飼って、全員がその犬を好きになったもん」
「じゃあ、犬と同じなのか」
「そうじゃないよ。ものの例え」彼女はほほえむ。「わたしたちにも良い影響があったということ。まゆみちゃんも紹介してもらった。そして、わたしも愛するべきひとをまた見つけた」
「ぼくも、失うべきじゃなかったかもしれないけど・・・」
「あの期間もたしかに必要だったんだよ」

 ぼくも自分の人生のあらましや概要に気付いている。それは、ふたりの女性に挟まれた人間ということだった。ひとりを手に入れると別の女性のことが心配で気になり、もうひとりの元では、彼女の現況を把握できない不安を感じた。自分がまだ青年と呼べる時期に、その選択はなされ、もう取り返しのつかない年齢にもなった。そして、実際にぼくはもうひとりの女性に手出しができない間柄になっていた。彼女は肉体を有してはいず、ぼくはその女性に声をかけることもできない。また、身体や体温を感じることもできない。雪代で不満があるということではもちろんない。いまの自分が幸せという範疇からもれ出てしまっているわけでもない。ただ、ぼんやりと酔った頭で雪代といる幸せに酔いながら、漠然とぼくは自分の人生の目次を再確認しているのだった。もっと後になれば、違った感想になったかもしれないが、今日の自分ではこれが最終的な結論であった。

「そろそろ、帰る?」雪代は空になりかけたグラスを見ている。
「帰って、獣のように抱き合おう」
「ほんと?」

「起きてたら」自分には睡魔が直前までせまっていた。それを拭い去れるか心配だった。
 ぼくらはタクシーに乗り、自宅の近くの場所を告げた。雪代の頭がぼくの肩にもたれかかっている。ひとりの女の子の母。ぼくの偶像だった女性。その女性の何年間かはぼくのとなりにいた。何年間かは知らない。ぼくと会う前の幼き日の追憶として、娘の広美がいるようだった。

「広美って、雪代の小さいときに似ている?」
「わたし、もっと、おしとやかだった。お人形みたいに」
「うそ?」
「そう、うそ。ただ、時代がもっと女の子らしくしなさいとか要求したから」
「そうだね、男の子は泣かない、とか」ぼくは、ある日を思い出す。前の妻が病気である女性といっしょに見舞いに行ったときに、その女性の前で大泣きした。そのことを再三、からかわれた。ぼくは、その女性と裕紀を失ったかわりの代償として、一度だけ関係をもった。するべきではないとは知っていながらも、あれも痛みや辛さの軽減としては重要な通過点だったのだろう、とタクシーの後部座席でぼくは正当化している。

「着きました、お客さん」
 ぼくは目をつぶっていた。お金は雪代がはらった。ぼくは外で雪代が立ち上がるため手を引っ張った。
「ありがとう。ジェントルマン」彼女はぼくの背中におぶさるような真似をした。新婚という甘い期間がなかったふたりには、貴重な一日だった。そして、カギを開け部屋に入る。ぼくらはベッドに倒れこみ、娘のいない一日の締めくくりをした。

 翌朝、雪代の髪はきれいにセットされている。
「飲みすぎた顔をしているよ、ひろし君」
「まあ、少しね。何時ごろ、帰ってくるの、広美は」
「夕方過ぎでしょう。仕事が空いたら、学校まで迎えに行く」
「楽しい思い出ができたかな」
「できたでしょう。それに自分の家が恋しくなるのも覚えて」
「全然、そんな気持ちがなかったら?」
「母親の愛情の注ぎ方が失格。はい、コーヒー」
 ぼくはテーブルに座り、娘がいないためか行儀悪くコーヒーを飲んだ。眠気は頭の中に居すわりつづけ、なかなか抜け出してくれなかった。

「妻として成功」
「え? ああそう。適当にキッチンに置いておくだけでいい。片付けておいて。先に行くね」彼女は上着をはおり出て行った。ぼくはテレビでニュースと天気予報をみている。一日に予感できることはそれですべて分かった。雨は降ることはなく、世界はある程度、平和のようだった。誰も死なず、こっそりと赤ちゃんが病院で数人うまれる。娘は、家の良さを再認識して、ぼくは妻を愛していた。この平和が壊されることを望んでいない。ぼんやりとしていると時間は急速に過ぎ、ぼくは自分の顔を鏡で見て、歯ブラシを探す。一日だけ乾いた娘の歯ブラシがある。雪代の化粧水があり、ぼくの髭剃りがコンセントに挿されるのを待っている。これが、いまのところのぼくの日常だった。その品物を見ながら、着るべきYシャツを念頭に浮かべる。


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壊れゆくブレイン(28)

2012年01月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(28)

「子どもができたんだってね」ぼくは、気になってゆり江に電話をする。
「そうだよ。知ってるんだ?」
「妹から、きいた。おめでとう」
「ありがとう。でも、ほんとはひろし君の子どもだよ」そこで、口ごもる。「結婚してくれなかった、腹いせに」
「まさか」可能性としてはなくはなかった。それをきいて、彼女は笑う。
「嘘だよ。わたし、夫とも仲がいいって言ったじゃない。それは、ひろし君は裕紀ちゃんのあとにわたしを選んでくれなかったけど」

「ああいうのは成り行きだから」
「そんなこと言っていいの?」
「あんまり、良くない」
「生まれたら、見せるよ。それで、名前はひろしってつける。優柔不断なひろし」
「まさか」

「そればっかり。母親になると思ったら急に地に足がついたというか、どっしりとしてきた。もっと前にこんな気持ちになっていればよかった。それは、わたしのものとかいって、セールで品物を奪うみたいに」
「できないもんね」
「できなかった。でも、やる。子どものためにもやる。ひろし君は?」
「みんな、そういうけど、裕紀が果たせなかったことを、ぼくも何となくしたくない」
「そうなんだ。それもいいかもね。ほんとに赤ちゃん、見てよ・・・」
「以前に生まれたばっかりの雪代の娘を見た。むりやりに抱っこまでさせられた。なんとなく勢いで。それが、いまはなぜかいっしょに住んでいる」
「じゃあ、うちの子もそうして」
「機会があればね」

「いろいろ、ありがとう。この電話も。あともう少し、裕紀ちゃんのこと忘れてもいいんじゃない? いろいろなひとが彼女のことを覚えているんだから。忘れずに。ひろし君もその分担の一部ぐらいに思ったほうがいいよ」
「そうかな?」
「そうだよ。じゃ、また」

 ぼくは電話を切り、オフィスにはいり仕事にもどる。机のうえのキーボードで書類をまとめている。頭の中では、先ほど外で会話したゆり江のアドヴァイスを思い出している。もっと、裕紀のことを忘れるように。彼女はぼくだけの思い出のなかにのみ存在しているのではなく、それぞれ一部ずつ彼らも所有している。ぼくは、自分の記憶が減れば、裕紀がいたことも消えると考えていた。それで、いまだに裕紀の思い出にしがみついていて現在の生活と共存させようとしていた。だが、ぼくが忘れても別の人間のなかに裕紀はいるらしい。だが、それは自分にとって許してはいけないことだとも考えている。まっさきに、先頭だって裕紀のことを覚え続けるのは自分であらねばならないような気がしていた。でも、それも錯覚のひとつに過ぎないのだろうか?

 ぼくが前の妻と死別した事実を知っている同僚たちに気軽に相談できることでもなかった。当然、家に帰って雪代に訊くわけにもいかなかった。だから、ぼくはこの問題を一先ず寝かせることにした。大人になるって、つまりは解決を先延ばしにするずるい観点のことでもあるようだった。

「ただいま」
「お帰りなさい」家族といっしょにまゆみも言った。
「お勉強、すすんでいる?」
「もう来年は中学生になるからね。試験も定期的にある」まゆみは大人びた表情で言う。彼女もそこをいつの間にかくぐり抜け、いつか、それを終えるときが来るのだろう。仕事をすれば、だが、いつもその場その場にあった回答を出さなければならない。回答を見つける前に徹夜で記憶をつめこむこともしなくなるだろうが、どちらが手に負えないほど難しいか、それとも、簡単なのかいまの自分には分からなかった。だが、この生活に慣れるだけのことなのだろう。

「まゆみちゃん、ご飯を食べ終えたら、また送るよ」
「はい。ありがとう。ちょっと準備しますね」彼女は娘の部屋に入り、カバンにノートやペンが数本入った小さなバックを詰め込んだ。「大丈夫です。出られます」
 ぼくは靴を履き、後方で彼女も同じようにした。
「そういえば、まもる君はもとの彼女と、どうなったの?」若い彼は別れたことを後悔して、ぼくに相談した。ぼくは別れた彼女の友人でもあったまゆみに告げていた。
「やっぱり、やり直すみたいです」
「そうなんだ。その子のこと、まゆみちゃんも知ってるんだよね?」
「友だちだから、当然」
「彼が別れた期間も、その子と会っていた?」
「何回かは」
「まもる君は、その日々のことを知らないけど、まゆみちゃんは知っている」
「ええ、まあ。どうしたんですか?」

「きょう、ぼくは元妻の記憶を大事にし過ぎているということを、遠回しに言われた」
「はい、それで?」
「裕紀のことを知っているのは、ぼくだけじゃないんだって」
「そうですね。わたしも覚えてます。おうちにも泊めてもらったし」
「そのみんなの記憶の総合体が裕紀らしい。ぼくの一部が薄れても、全体的な記憶の量は、そんなに違わないのかもだって」
「むずかしい理論みたい。でも、ひろし君がやっぱりいちばん覚えているべきでしょう?」
「そうだよね。やっぱり」
 ぼくは、無言で数メートルを歩く。こうしている間にもぼくは裕紀との思い出を再生しようとしている。現実のまゆみや雪代は一瞬だけ消え、ぼくは過去の一日を取り戻そうとあがき、もがいている。それは危険なことかもしれないが、どうにか折衷できる方法も模索している。

壊れゆくブレイン(27)

2012年01月27日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(27)

「お兄ちゃん、ゆり江ちゃんって覚えてる? わたしの同級生だった」
「知ってるよ」
「彼女、裕紀さんとやりとりした手紙を、いまでも、もってるんだって」
「聞いた気がする」
「そう。もっと驚くかと思った」妹は、ぼくが動揺しないことに不服なようだった。
「裕紀の服を処分するとき、彼女にもあげたんだ。ぼくが持ってても仕方がないんでね」
「なんだ。それじゃわたしより親しいみたい」

「だって、ぼくと結婚している間に、彼女たちは連絡も取り合っていたから」
「そうなの。そんな様子をあまり彼女、見せなかったから」
「知らないことも、多くあるよ。でも、なんで、突然?」
「いや、この前、偶然会ってね、妊娠したんだって。もう自分でもできないと思っていたのに」
「ゆり江ちゃんが?」
「そう」
「誰が?」ゲームに夢中だった姪が、話に加わった。
「ママのむかしの同級生」
「35ぐらい?」
「わたしと同じ」数字よりその事実が妹の美紀には重要なようだった。
「彼女もお母さんか」
「なんか、あった?」
「いや、別に」

 ぼくと彼女は一時期、関係をもった。裕紀が亡くなり、ぼくが取り乱している頃にも彼女と関係があった。彼女は自分を3番目の女性と呼んだ。実際のところ、そうだった。雪代がいて、裕紀がいて、彼女がいた。だが、彼女が母になるとは自分でも予想外だった。当然、そういう状態になっても良いわけだが、彼女のもつある面での弱々しさが、その可能性をぼくが打ち消す理由になっていたようだ。
「連絡する?」
「裕紀も喜んだと思うのにな」
「お兄ちゃんは?」

「それは、嬉しいよ」ぼくは実家に来ていた。両親はどこかに出掛けていた。彼らは表面には出さなかったが、ぼくの子どもを見たがった。それは、広美ではなく、新しい存在であるべきだった。だからこのような機会にだけ、妹が踏み込んだ話題をしても、とやかくいう人物がいなかった。「ちゃんと育てられるのかな?」

「それは問題ないでしょう。心配しなくても。わたしでもできたんだから。ね」と娘の頭を撫でた。ぼくは、そのときゆり江の現在を見ているようではなかった。過去のある一日、彼女はいじけて泣いていた。ぼくは、雪代と交際していた。その関係を終えるつもりもなく、またゆり江も壊してまで自分をその地位に置くことに関心もないようだった。しかし、なにがきっかけでそうなったかは覚えていないが、ゆり江はぼくにいらだっていた。それをぼくは弱いとも思い、またたまらなく愛着をもったのだった。そういう振る舞いを雪代は一切しなかった。自分がほしいと思うものを整理して手に入れた。ゆり江は、そういう過程を飛び越え、もちろんぼくにほとんどの責任があるわけなのだが、癇癪をおこしていた。その幼かった女性が母になる。

「お兄ちゃん、もうひとり欲しい?」
「いらないよ」
「何で、そんなにきっぱりと・・・」
「裕紀に、その立場を与えなかったことで、彼女は苦しんでいたのかもしれない。それをいまになって、自分だけが恵まれた環境でのほほんとしていられない」
「それは、自分を責めすぎじゃない」
「このぐらいでいいんだよ。ぼくも、子どものままでずっといたいしね」
「でも、広美ちゃんも直ぐに大きくなっちゃうよ。そうなったら、淋しいでしょう」
「いっしょに遊ぶ。飲みにいったり、デートに付き添ったり」
「最低な人間」
「嘘だよ。お、帰ってきた」

 妹の夫である山下が姿を見せた。今日はぼくと妹の実家でいっしょに語り合う予定だった。彼はいまでもラグビーのコーチをしているため身体の筋肉に張りがのこっていた。それに引き換え自分の腕や足は当時より細まっていった。日々の見えざる繰り返しによって体型を維持し、洗練された作戦も考えるようになっている。ぼくと彼の間の知識や経験にはずれが生じ、誰かを信頼して成長させる能力も彼のほうがもっていた。ぼくは、何人かの女性を裏切り、ひとりの人間との関係も死によって永久に絶たれていた。それである面ではうらやましく、またそれと同じく自分が得た傷をもっていないことでさげすむような気持ちもあった。

「お前がくると、美紀がはしゃいでいたころを思い出す」
「もうずっと遠い昔の話」
「広美もそうなるのかな?」
「きょう、あの子は?」山下が部屋を見回す。
「前の父の親と会っている。たまに成長を見せるよう約束した」
「肩身がせまい?」
「ぜんぜん。オレもほんとは島本さんを他人としてずっと尊敬しておけばよかったと思っている」
「オレなんかそうですよ」山下はのん気に言う。
「女性が介在するとね。憎んだり、うらんだりすることを覚えた」
「いまでも?」
「死者にはまったく罪がない。裕紀を思い出すのと同じだよ。できれば、全員と会いたいと思っているぐらいだよ。島本さんとも」
「なにを話す?」妹がテーブルを片付けながら言う。
「雪代もぼくも幸せだけど、もしかしたら、違う立場になっていたかもしれない。ぼくが事故に遭い、雪代が病気になってたかもしれない。ただ、紙一重で運命が待ち受けていたぐらい」
 すると、両親が帰ってきた。父は、ぼくより山下を我が子と思っているような節があった。そこには長年の努力といたわりがあったのだろうが、自分は誰に対してそのような振る舞いができるのかを考えていた。

「デパートに寄ってたら、遅くなっちゃった。その代わり、おいしそうなお惣菜をたくさん仕入れた」と母が喜ばしげに言う。父は冷蔵庫からビールを取り出し、瓶の王冠を開けた。ぼくと山下はそれを奪い合うようにして結局は山下の手におさまり、彼が父のグラスに注いだ。

壊れゆくブレイン(26)

2012年01月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(26)

 娘の友だちが家に遊びに来ている。ぼくは、別の部屋でテレビのスポーツ番組を見ていた。その映像に集中していたはずだが、それでも、彼女らの楽しそうな会話がときおりきこえてきて耳をそちらに傾ける。だが、内容を理解する前に彼女らの笑い声でかき消されてしまう。雪代はそんな騒動におかまいなしに自分の仕事をしている。

「ひろし君、細かい字見えにくくなった?」
「まだ、ぜんぜん」
「そう。いやになるね」
「ずっとそうなの?」
「たまにだけど。疲れてると」
「じゃあ、気分転換にでも、外にいく? ずっと、仕事の数字を見比べてても・・・」
「そうだね」彼女はノートを閉じる。そのうえにボールペンを置いた。「広美、ママたち出掛けてもいい?」
「いいよ。行ってらっしゃい」と、部屋の扉の向こうから声だけが聞こえる。
「危ないことしちゃ駄目だよ」
「分かってる」それから、また笑い声がきこえた。

 ぼくらは外にでた。秋になりたての風はどこかぬるく、肌に湿っぽい感触を与えた。ぼくらは外にでたがこれといって用はなかった。でも、このように特別な計画もないまま外出することはこのごろよくあった。ぼくは子育てに参加しないまま、大きな娘ができた。右も左もわからない小さな存在を丹念に成長させたという実感や経験ももちろんなく、彼女はすでに独立する気配をみせていた。それだから、ぼくと雪代は自由な時間がもてた。

 ぼくらはある店に入る。若い頃からきていた店だ。ジャンルに拘りがなく、いつも洗練されたピアノ曲がバックに流れていた。店主は一度、病気をして店を閉めていたが、退院してからまた開けた。それを経過したことを証明するように少しだけ身体が細くなっていた。

「いらっしゃい。いつもの紅茶とコーヒーで?」
「お願いします」
 ぼくはピアノの音に耳を澄ませている。軽やかなタッチが練習の連続の事実を聞き手に要求するかといえば、まったく反対で、このひとはいつでもこうなのだ、という印象を与えていた。ぼくは店主のこともそういう風に見ていたことに気付く。しかし、一回り小さくなった身体を見ると、風雪に耐えるということを教えているようだった。
 その店主がお盆に2つの飲み物をのせて運んできた。
「お嬢さんは、きょうは?」
「家で、お友だちとお留守番」
「そうですか。もう大人になっていくんですね」
「自分だけで、大人になったみたいな顔をして」その言葉の真意とは逆に雪代の口調は優しげなものだった。何度もいうが、ぼくはその途中経過に関与していない。
「ごゆっくり」と言って、彼は定位置であるカウンターの奥にもどった。音楽も終わってしまったようで、次のCDにかわった。
「ここまで育てるの、大変だった?」
「あっという間だったから。だけど、途中からひとりになったし、仕事もあるし、ちょっとしんどい時期もあったかな。ねえ、自分の子どもがほしい?」
「いや。でも、あの子も自分の子どもと思ってる」
「質問の仕方がよくなかったね」

「本意は分かってるよ」ぼくと前の妻である裕紀の間には子どもができなかった。ぼくは、もしそういう存在がいて、それから、彼女を亡くすという事実にぶつかったら耐え切れていたのだろうかと考えている。ぼくは、より一層悲しみ、子育てに手がまわらなかったのかもしれない。そうすると、いまの立場が、やはり自分にはしっくりといくようだった。
「ここのコーヒーは、やっぱりおいしいね」
「疲れもとれる?」

「でも、好きでずっとやってきたことで、疲れてるんだから」彼女は微笑む。ぼくと彼女が接していない期間に何が起こり、ぼくはいずれそれを理解し尽くせるのかと考えている。だが、ぼくらは軌道がもどるようにふたたび会った。むかし以上にお互いを尊重し、あるときは労わり合った。それだけでも充分だともいえた。ひとりの人間のすべてを把握し尽くすことなど不可能なのだ。それは人間の役目ではないのかもしれない。ただ、こうして時間を共有することだけで満足するべきなのだろう。ぼくは紅茶の香ばしいにおいを嗅ぎ、そう思っていた。
「前の雪代もそうだったけど、いまもぴったりと自分らしいよ」
「飲みすぎのひろし君は、自分らしくなかったよ」
「安定しているけどね、いまは」
「もうあんなに飲みたくない?」
「飲む必要もなくなったから」
「そう、良かった。広美、お腹すかせてるかな」

 ぼくらは会計を済ませ外にでた。この店がずっと残ることをぼくらは望んでいる。それは、ぼくらの思い出がここに多くあり、その証明の機会として、ここに在りつづけて欲しかったからだ。

 それから、スーパーに寄り、広美が喜びそうな献立を考えた。袋に入った荷物をもち、ふたりだけの時間が名残惜しく、少しだけ遠回りして家に向かった。先程までの湿った風はどこかに消えからっとした空気に様変わりしていた。そうなると薄着である自分らに気付く。その確認のように雪代はちいさなくしゃみをした。それを合図にぼくらはいつもの通りに戻っていった。

壊れゆくブレイン(25)

2012年01月24日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(25)

 娘は夏休みの宿題と格闘している。

 自分はそのような日々があることをすっかり忘れていた。自分としての行為は15年も前に過ぎ、ほかのひとがいまだにそのことに苦しめられることを忘れていた。雪代は仕事で家にいなかった。ぼくは、広美のとなりにすわり、いくつか訊かれたことを丁寧に教えた。

「間違ってても、許してね。勉強をするってことからだいぶ、離れてしまっているんだから」と頼りない発言を連呼した。
「いいよ。まゆみちゃんが最後に確認してくれるから」
「間違いが露呈するのはいやだな」
「間違わないと、ただしいことも分からない、といつもママが言うじゃん」

 ぼくらは、雪代の前で同じ立場にいるらしかった。ぼくはコーヒーを入れ、広美には、冷蔵庫からジュースを取り出してコップに注いだ。ずっと問いを投げかけられるわけでもないので、ぼくは読みかけの本を開いた。そのことに没頭すると質問がきて、その問題に頭を使い出すと、本の中味の印象が薄れていった。それを何度か繰り返し、その交互に頭を引きずりまわされる感覚を、結局のところ楽しんだ。自分の脳の領域で別のところを使っているのだろうか。そんな思いを忘れさせるように、また質問がきた。

「これ、やったの覚えてるな」
「さっきから、そればっかり言ってるよ」
「うん。ちょっと貸して」ぼくは、その問題を借りたノートに書き写し、集中しようとした。「取り敢えず、次の問題にいっといて」
「これが、最後だよ」
「じゃあ、次の教科」
「は~い」と間延びした返事をして、自分の部屋に別の教材を取りに立った。ぼくは、ノートを凝視する。途中経過を鉛筆で余白に書き、納得がいかないので、もう一度検算した。これが、正解のようだった。

「できた?」
「多分、これ」ぼくはノートを指し示し、かいつまんで説明した。
「まゆみちゃんは、もっと違うところから答えを引っ張ってきたと思ったけど」
「そう。でも、答えは、これでも出るんだから」と、不確かさを正当化するようにぼくは言った。「それが、終わったら、ちょっと散歩するか? 疲れたもんね」疲れたのは、自分であったようだ。ぼくは読みかけの本にしおりを挟み、つかったグラスを洗って裏返しに置いた。テーブルには遅くなる雪代のかわりに買っておく必要があるリストのメモがあった。その頼まれた食材を仕入れるためにふたりでスーパーにむかった。ぼくがカゴを持ち、そのなかに広美がメモを片手に棚から品物を入れた。それも終わると店頭でアイスを買い、ベンチにすわって食べた。

「子どものころって、夏が終わるのが無性に淋しかった」
「なんで?」広美は、食べることに夢中のようだった。
「なんかの喪失感なんだろうね。あの日々は、もう取り返せないのだ、という不安だよ。感じない?」
「ちょっと、感じる」ぼくがどのくらい食べたかを確認するように広美はこちらに振り向く。「でも、思い出せたりするんでしょう?」
「するよ。でも半ズボンで駆けずり回ったりは、もう、できない」
「わたし、いまでも、しないよ」
「これが象徴ということ。実際のことより、なんとなくのイメージだよ」
「食べ終わった」

「帰るか。あと、なにが残ってるの?」ぼくはとがらせた指をつかい空中で書くしぐさをする。
「本の感想」
「もう買ってある?」
「うん」
「読み終わってる?」
「途中まで」
「それだけ?」
「それだけ」
「はかどってるね。楽勝だよ」
「去年は、ママしか面倒みてくれなかったけど、今年はいろんなひとが応援してくれたから」
「良かったね」そういいながら、ぼくは彼女のこころに自分がいる安堵と、また、宿題に追われる立場にいない安堵の気持ちが折り重なっていた。

 夜になる。ご飯が炊けるにおいがした頃、雪代が帰ってきた。
「疲れた。広美ちゃん、お勉強、すすんだ」テレビを見ている後ろ姿に言葉をかけた。
「うん。手伝ってもらった」
「もう、全部、終わったの? すごい」
「まだだよ。読書」
「そうね。それは助けることはできないかもね。あとは、自分で。ご飯にするから、広美も手伝って」

「はい」彼女は、テレビに背を向け、こちらのテーブルにやってきた。引き出しから箸や皿を出し、テーブルを拭いた。ぼくは自分がいなかったときのふたりを想像してみる。それは完結された世界で、相互依存の見本のようなかたちをとった。
「ひろし君、ビールとる?」広美が母の口調を真似て言う。「冷えてるよ」

「ありがとう」ぼくは読みかけの本にまたしおりを挟む。それを棚のうえに載せ、グラスとビールを受け取った。ぼくらがふたりの生活に持ち込んだものは、このようなものだけらしい。世話がかかる生き物。ぼくは無言で缶を開けた。それから、女性ふたりは友人のようにとりとめもない話をした。テレビのニュースでは陰惨な話題が報道されていたが、ふたりは気付かないまま話し続けていた。ぼくはビールを飲み、雪代のつくった料理を食べた。これが孤独ではないという証拠の一日のようだった。ぼくは、宿題を娘に教え、家族とともに食卓につく。数杯のビールで酔い、夏が終わる予感の風が窓から侵入し、食べ終わって床に横たわるぼくの肌のうえを通過していった。娘は風呂からあがり、歌番組をみていっしょに歌い出した。ぼくの妹も同じようにしていたのをまどろみながら思い出す。テレビを見ると歌詞など画面にうつっていなかったが、彼女は同じようにうたっていた。

壊れゆくブレイン(24)

2012年01月23日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(24)

 海での最終日に、ぼくと雪代はまた朝の海岸を散歩をしてエネルギーをその地からもらった。雪代の表情は穏やかなものに変わり、ぼくのそれからも同じように険しさが消えた。でも、それも今日までの話だ。

 朝ごはんにまゆみと広美はたくさん食べた。ぼくらはそこそこに切り上げ、外のテーブルでコーヒーを飲んだ。二人の水着は昨夜のうちに洗われ、いまは風になびかれ乾いているはずだ。それは新たに使われることはなくバックにしまわれる。チェックアウトをそれからしたが、いったんそのまま荷物をフロントで預かってもらって外にでた。その日は昨日とちがって雲の量が多めだった。そのため、雪代のサングラスは胸のポケットにしまわれていた。

 商店街を歩き、まゆみと広美は小物を買った。そして、家にいる彼女の両親のためまゆみはお土産も買った。ぼくは長い間、彼ら3人と交友をもってきた。そのこと自体に驚きがあった。バイトを始めてから20年ぐらいは時間が経過していた。もちろん、その間は密に連絡を取り合う機会も減っていた時期もあったが、いまは、こうしてその娘といっしょに旅行にきている。まるで、家族のようだった。

 昼になり、そのそばのレストランで最後の食事をとった。ぼくは海鮮が入り混じった定食に生ビールを飲んだ。世界はぼくに対してほがらかで、何かを奪おうと身をかまえているようではなかった。かえって、何ものかをしみじみと与えようと待ち兼ねているようであった。その漠然とした未来への甘い予感を得られたことが、この休日の最大の実りだった。

 ぼくらはホテルにまた引き返しバックを受け取った。フロントの男性に丁重に挨拶されふたたび外にでた。その頃になると、雲の隙間も減り太陽がまぶしいぐらいになっていた。それで、また雪代は黒いもので瞳をかくした。

 4枚の切符をぼくはバックのポケットから取り出し、それぞれに手渡した。終点の駅には電車がなく、間もなく向かい側から電車が到着した。これから海を楽しむひとたちの高揚した気持ちが乗客とともに降り立ったようだった。ぼくらは反対にその扉に向かい、空いた4人がけの座席にすわった。ぼくは缶ビールとジュースを窓際に置き、自分の分の缶のフタをあけた。小さな破裂音がして少し泡が顔をのぞかせた。この数日でまゆみと広美はより親密になり、ふたりの日に焼けた肌の色の照合が、それを証明しているようだった。雪代はそれを確かめるように広美の肌にさわった。

「痛いな、ママ」と、彼女はちょっとふくれっ面をする。
「帰ってから冷やさないと」
「大丈夫だよ」
「そう」そこで、忘れていたかのようにサングラスを外す。「まゆみちゃんは冷やしてね。そうだ、これあげる。うちの店にも置いてるんだけど、なんにでも利くクリーム」と言ってカバンから小さなチューブを出した。そのフタを開け、中からクリームを取り出し、自分の手の甲につけてから、渡した。それを見て、まゆみも同じような一連の過程を真似して、好意的な感想をいった。
「なくなっても、欲しかったら、言ってね」笑みを浮かべて雪代は満足気でもあった。

 彼女は、大分前に東京から戻り、地元で店を開業した。資金は自分でつくった。そこには懸命さなど感じられなかったが、着実にすすもうとする決意と実行力があった。はじめは洋服だけだったが、それからも事業は拡張して、美容院もそれに付属するようになった。彼女には経営の才もあったらしく、大幅に収益が減るという経験もしなかったようだ。そのため、子どもとの時間が少なくなったきらいもあったが、現在のどの両親も一様に似たような環境にいるのかもしれなかった。

 電車はゆっくりとすすみだし次第にスピードをあげた。カーブでは車体は左右に揺れ、段々と海岸線から遠退いていった。潮のにおいも感じられなくなってくると、そとの景色も住宅地の様相にかわっていった。ぼくらが日常に戻るスピードはこのように早いものだった。おしゃべりしていた向かいのふたりの言葉数は減っていき、その代わりに首が前後にふれた。それが過ぎると、お互いのしっくりいく姿を見つけたのか複雑に肩や首がおさまった体勢で眠りはじめた。

「寝ちゃった」と、雪代は感想のように言う。「ひろし君も眠れば」
「疲れてない」
「わたしも眠れそうにない。ビール飲んでもいい?」
「もう、あまり冷えてないよ」彼女はひとくち飲み、その缶の端を眺めていた。
「広美も大人になったら、こうしてよその家族のひとと旅行できるようになるのかな」
「なるだろう。直ぐだよ」
「誰かの面倒を無心に見て上げられるほど、優しい子になるのかな」
「なるよ。しっかりと育てれば」
「助けてくれる?」
「もちろん」
「叱ってもくれる?」
「うん、するよ」
「でも、ひろし君は女性全般に甘い」言ってしまった言葉を後悔するように雪代はまた缶で唇を閉じた。電車は微妙に彼女の身体を揺らせた。ぼくは向かいの死んだように眠っているふたりを見比べ、自分が甘いのではなく、女性がずっとぼくに対して甘かったのだと否定の言葉を探して考えていた。

壊れゆくブレイン(23)

2012年01月21日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(23)

 広美とまゆみはまた海に消えた。ぼくらは、少し店に残り、客が引いていくのを見ていた。
「ぼくは、ここに裕紀と来たんだ」
「隠さなくてもいいし、知ってるよ。多分、そうだと思っていた」雪代はぼくの方を見ずに言った。「わたしにも思い出の場所があるし、彼との秘密もある。それが、再婚なんだよ。でも、広美に暖かく接してくれて、いつも、ありがとう」
「ぼくも子どもがほしかった。いつか、そういう役目についたら、どう振舞うかもたまに考えていた」
「いい、お父さんだよ。違うかな。お兄さんかも」こちらを見て雪代は笑った。その健康そうな表情がここに似合っていた。
「すわって、タバコを吸ってもいい? ちょっと、一服」店主がエプロン姿でこちらに近寄ってきた。
「どうぞ」と言って雪代が椅子をすすめた。
「前の奥さんも素敵なひとだったけど、いまのひとはもっときれいだ。それに娘も可愛いし」彼には、いつも思うが率直さしかないようだった。
「ありがとう」

「よかったら、来年、ほんとにあの子、ここで働いてもいいよ。そして、あなたたちも何日か泊まればいい。うちの娘も生きていたら、広美ちゃんみたいになっていたのかな」
「そうかもしれないね」ぼくは、その子の存在を話でしか知らなかったが、とにかく同意した。
 ぼくらは、そこからまた海の方まで歩いて行った。雪代は帽子にサングラスをしている。ぼくは半袖に薄いズボンに腕時計だけをしている。そのため強い日差しを手の平で遮らざるをえなかった。
「貸そうか?」雪代がメガネの縁を指で触りながら言った。
「サイズが違うよ」

「そうね」また、腕をしたにもどした。
 ぼくは、広美が浮き輪をつかって波に揺られているのを見つけた。その浮き輪をまゆみは手で掴んでいる。
「いたね」
「どこ? あ、いた」雪代も彼女らを見つける。
 ぼくらは石段のうえに腰を降ろす。そこからソースが焦げるような香ばしい匂いが感じられた。横では若い男女が夢中になって、なにかを話していた。まだ、贅肉のかけらすらないような身体。
「わたしたちも、いっしょに若いときに海にいったね」
「ぼくは、そのころ、背伸びをしていたような気がする」
「どうして?」
「少し年上の女性だし、東京に行ってたから」
「ひろし君の東京はどうだった」
「大変だったけど、張り合いもあった。もうひとつの故郷とも感じるけど、もうあまり魅力を感じていないのかもしれない」
「そう」

「取り敢えず、大切なものは元のところにあるわけだし。雪代とか広美とか」
 広美はぼくらの居場所を気づき、手を振った。雪代は帽子を脱いで、それを大きく振りかえした。
「楽しそうだね。勉強もできるようになったし。あの子、来てくれてほんとによかった」
「いずれ、数年でもっと大人になって働きはじめる。それからもふたりの友情が続けばいい」
「そうね。悩み事を相談したり」
「ぼくと社長もそういう関係になった」
「たまに息子みたいだよ」
「上田さんは、あまり帰って来ないからね」
「身近にいるひとがいちばんだよ。そばにいるひと。いつも、そばにいてくれるひと」

 雪代はぼくのひざのうえに手を置く。ぼくにはもう背伸びをするような感覚はなかった。むしろ、お互いの感情を往来させるエッセンスのようなものがあった。若さがもつドキドキするようなことや、毎日が新鮮であることを求めるような日々ではなかったが、ぼくらは両者が馴染んでいく感じを楽しむようになった。ぼくは、雪代を失うわけにはいかず、彼女もそう思ってくれていれば良かった。ぼくは、そのために何かを誰かを失う経験を通過することが必要だったかもしれず、同じように雪代にとっても重要だったのかもしれない。失くしたものは戻ってこないが、いまあるものもそれほど悪いものではなかった。むしろ、良い方の部類がたくさん残っていたことを感じ続けていた。

「ちょっと、歩く? 砂の上を」
「いいよ」ぼくは立ち上がり、雪代の腕を引っ張る。彼女も立ち上がり、もうひとつの手でお尻についた砂をはらった。
「ママ」広美が大きな声で叫ぶ。その後に次に来た波で一瞬だけ身体が消える。その数秒後、また海上にでてくる。それを、ずっと繰り返していた。やがて、それにも疲れて、ぼくらの横にふたりは走ってやってきた。
「疲れたでしょう?」
「ぜんぜん」広美が元気そうに答える。
「まゆみちゃんは疲れたでしょう?」
「少し」

「広美、なにか買ってきて」雪代が広美の手に小銭をつかませた。
 彼女は小走りに遠くへ離れた。途中でビーチ・サンダルが脱げ、2、3歩戻ってきて、その失敗に照れたようにこちらに笑いかけた。
「まゆみちゃんの勉強はどう?」ぼくは、ふと心配になってきく。広美の成績を優先させたため彼女の勉強がおろそかになっていたら困るためだ。
「すすんでる。はかどってます」
「なら、良かった。子どもの面倒を見てもらって、とても助かっている」
「教員の免許も取りたいから」
「そう、スパルタはいけないけどね」
「わたし、優しいですよ。証人が戻ってくる」広美は2本のジュースと2つのアイスを抱えている。それは危なっかしい姿勢だった。それを見かねて、まゆみがそちらに歩き出した。雪代は小さな声で、「大丈夫よね?」と確認するためかそっと言った。

壊れゆくブレイン(22)

2012年01月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(22)

 その日は、ホテルのレストランで4人で食事をして終わった。ぼくと雪代は自分たちの部屋にもどった。となりでは若い女性たち2人が眠さをしのんで話し込んでいるのかもしれない。そのことすらぼくらは忘れてしまっていた。

「また、こんな日が来るなんてね」
「どういうこと?」ぼくは、素朴に疑問に思った。
「わたしは、ある男の子のことをきっぱりと忘れ、結婚した」雪代はため息にも似た小さな吐息をつく。「それから、娘もできて、また、その男性とこんなところにいる」
「後悔しているように聞こえるけど・・・」
「してないよ。なんだか、遠回りしたようにも思ってる」
「いつか、それが普通のことのように思えると」
「うん?」

「これが、正しかったんだなと感じられるといいね、と言いたかった」
 彼女は気付くと40代になっていた。これからの人生は、ぼくがずっと一緒にいるのだろう。遠回りといえば、そういえたかもしれないが、もしかしたら、ぼくらは永遠に出会わないことも考えられたのだ。それを思うと、ぼくは恐ろしくなった。ぼくの間の10年間をのぞいては、いつも、雪代がいたことになる。それは、ぼくの人生を彩った証拠にもなり、また実感でもあった。そして、ぼくらは娘や家庭のことを忘れ、同じ部屋のなかにいた。ぼくは、まだ10代で東京にいる雪代に会いに行った日々を、そこで思い出している。まだ、未来はぼくの腕のなかになにもなく、すべてが淡い希望だけで生活していた時期だ。大学に受かり、裕紀はぼくの知らないところに離れてしまった。それを必然とも感じていた。ぼくは雪代の存在におぼれ、夢中でいた。理想の存在があらわれ、彼女も自分を愛してくれているという事実が誇らしかった。

「いまでも、正しいと思っているよ」
「あれから、20年以上も経ったんだね。雪代は変わらない」
「お世辞?」
「口調で判断してほしいね」雪代は笑った。暗い部屋のなかで、その音が響いていた。
 朝になり、となりの部屋はまだ静かだった。ぼくらは朝食前に、暑くなることが予感されている外へ出た。砂浜の上を歩き、お互いの手の平のぬくもりを感じた。彼は、またもやそこにいる。
「おはよう、こちらが奥さん?」
「広美が昨日、言ってたひとだ」
「ここを故郷のように感じてほしい。失われたひとびとの故郷」

「そうする。でも、いつか、そこを出ないと」ぼくは決意のような言葉を口にする。
「オレは、まだ準備ができていないからな」彼は淋しそうに笑っていた。「また、店に来て。歓迎するよ」
「昼にでも」ぼくは、そう約束をして、散歩をつづけた。
「誰か、失くしたの?」雪代が不安そうに訊く。
「娘が、この海で」
「そう、残念ね」

 ぼくらは、それぞれ大切な存在を失ったもの同士だった。だが、代わりにはならないにせよ、また大切なものを手に入れられたのも事実だった。そのように人生は続いていき、見返りも多かった。だが、少なからず代償は払ったのだ。
 部屋に戻ると、広美が入って来た。

「ノックぐらいするのがマナーだよ。昨日は、眠れた?」雪代が優しくたずねた。
「いつの間にか眠ってた。でも夜中に電気をわたしが消した。ご飯は?」
「まゆみは用意できてるの?」
「いま、してる」
「じゃあ、下に行こう」と言って、ぼくはそのまま外に出た。広美は、自分の部屋をノックして、まゆみを呼んだ。
「ママたち、きょう、なにするの? 海に行く?」
「わたしたちは、この辺を観てまわる。お土産も買うしね」
「お昼ご飯は?」
「昨日のお店で食べよう。まゆみちゃんの来年のバイトの契約もしないと」
「あそこで、のんびり夏の間、過ごせたらどんなにいいですかね」まゆみは雪代に同意を求めた。彼女が返事をする代わりに広美がただうらやましがった。

 それから、広美たちは浮き輪などをつかみ、出掛けていった。ぼくと雪代は、財布だけをもち、手ぶらで外出した。雪代は大きなサングラスをしている。ぼくは軽装という以外では表現できない格好をしていた。

 先ずは、近くにあった美術館に入った。ここを出身地とする彫刻家の作品があり、また新たに住み始めた画家の絵もたくさんあった。ぼくらが朝、歩いて見た岩がデフォルメされて描かれていた。それだけで、ぼくは故郷にしてと言った先程の言葉を思い出している。

 それから古びた、それでいて味のある商店街を歩く。途中、お茶をして普段お互いができない、のんびりとした時間をもった。それにも飽きると、雪代は自分の職場のひとに、ぼくも同僚たちに小さなお土産を買った。雪代は、まゆみに似合いそうといってカラフルなTシャツを選んで買った。

 ぼくらにこのような快適な時間を与えてくれたまゆみの性格を批評したり誉めたりして時間を過ごす。それで、予定通り、午前中にしたかったことをすべて終えると、昨日の店にむかった。
「4人分のランチをお願いします」とぼくは言う。そこには、はっきりとしたメニューがなかった。店主の奥さんが作りたい、そして食べさせたいものがメインであるらしかった。テーブルに運ばれ、少し経つと、海で時間を費やしたふたりがあらわれた。彼女らは、午前の経験を笑い合ってしゃべり、その共同体を再確認し、それだからこそぼくらには良く理解できないものも含まれていた。しかし、日に焼けた10代の女性というのは、それだけで美しいものだと、ぼくと雪代は確かに思っていた。

壊れゆくブレイン(21)

2012年01月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(21)

 ぼくらは電車に乗っている。窓外に海が見えはじめ、その匂いも感じられるような風景があった。

 ぼくの横には雪代がいて、前には広美とまゆみが座っていた。お菓子の袋がふたりの間にあり、交互にそこに指を突っ込んではつまみあげて口に運んでいた。まゆみたちは少し前に海に行く予定をたてたが、実際に行く段になると、ぼくらに相談した。ぼくは以前に行った場所を思い出している。裕紀が大病してから、回復したあとにそこに行った。また、いつか来たいと彼女は告げた。それを実行することはできなかったが、ぼくはどうしても再訪してみたかった場所だ。

「もうそろそろだから、降りる仕度をしないと」と、雪代は言って先に立ち上がった。電車はスピードを緩め、しばらくすると完全に停まった。ぼくはバックを片手に、横のポケットにしまった切符をさがした。改札を通過して駅前からバスに乗り、海沿いのホテルに向かった。途中にはやしの木があり、どこからか甘い匂いが漂ってきた。ケーキを焼くような匂いでもあり、フルーツの香ばしさも含まれていた。

 ホテルでは、2部屋とり、ぼくと雪代が同じ部屋で、まゆみと広美は用意されたとなりの部屋の鍵を開けた。
「もう、泳ぎに行っていい?」広美は快活に訊く。雪代は渋ったが、ぼくは直ぐにうなずいた。
「あまり、危ない場所に行ったら、駄目だよ」ぼくは、そこで自分の部屋の戸を閉めた。「どうする? 雪代は?」
「最近、仕事がハードだったので、少し眠ってもいい?」

「いいよ」ぼくは窓を開ける。そして、ベランダに出た。それは、あの日にいるような気持ちにさせたが、季節が違うため景色としては別の場所のようにも感じた。「ちょっと、歩いてくる」
「気をつけて」雪代の髪はすでに枕のうえに置かれ、まぶしそうにこちらを見た。

 ぼくは部屋を出て、となりの部屋をノックするが、もう居ないらしく返事はなかった。ぼくは坂道を歩きながら以前に行った店を探す。そこは簡単なつくりの飲食店で、ぼくはおいしいビールを飲んだ。海と少し距離があるため大混雑しているとも思えなかった。それに店主たちもそういう意図を店にもっていないように思えた。
「こんにちは、久し振りです」ぼくは、小さく会釈してそこに入った。彼らが覚えているかどうかは、どっちにしろ問題ではないような気もしていた。

「いつかまた来てくれると思っていた」浅黒く日焼けした男性が、しわを見せ笑顔を作った。そして、椅子を指差し「そこに、ビールでいいんでしょう」とつづけた。
「どうも。お願いします」
「ゆっくりしていって。ここは、あまりざわざわしていないから」

 ぼくはグラスに注いだビールをゆっくりと飲み干す。さらに別の1本がくる。時間はのんびりと過ぎ、昼から夕暮れに変わっていく。ぼくは身近なものとか所有しているものさえ忘れていた。そこに、テーブルに置いてあった電話がなった。まゆみからだった。

「どこに、いるんですか? 部屋にいないみたいなので」
 ぼくは海からの経路を説明し、寄って行けばと誘う。しばらくしてまゆみと広美が歩いてきた。ふたりともまだ髪が濡れていた。

「お知り合い」店主の奥さんがぼくに訊ねる。
「こちらは、ぼくの娘。そして、こちらはその勉強の先生」
「娘がいたの?」
「いや、再婚して娘ができた」広美は手についた砂が気になるらしく、それを洗いに行ったため奥に消えた。「前の妻は病気で」
「そう、いろいろあるのね」湿っぽい話がいやなのか、まゆみが、
「こういうところ、いいですね。わたしも働きたいな」
「来年の夏休みでもくるといいよ。これでも、人手不足になるから。今年はもう間に合っているので残念だけど」
「ほんとに、いいんですか。わたし、来ますよ」としつこく、まゆみは念を押した。
「どうしたの?」戻ってきた広美には謎のやりとりだったらしく、質問した。ぼくは、いままでの経緯を話した。それで、広美はまゆみのことをうらやましがった。

 彼女らのジュースのグラスも空になり、ぼくらは店を出た。
「ひろし君は、裕紀さんとここに来たんだ?」広美はホテルに向かって駆け出していた。指には小さな貝を持っていて、雪代に見せると言ってぼくらから遠退いていた。
「何年か前に。また来る約束をしたが果たせなかったからね。それを抜きにしてもいい場所だろう?」
「うん。ありがとう。連れて来てくれて」
「こちらこそ。広美の成績もまともになってきた」
「ただ、方法が分からなかっただけでしょう。誰かがきちんと面倒を見れば、成長するよ」
「みな、自分のことで忙しいからね。でも、来年、ほんとに来るの?」
「あと、何年かしたら社会人になって、余裕もなくなってしまう。その前に、たくさん思い出もつくりたいし。ここ、その環境にあっている」

「その間は、広美の勉強が停滞する」
「しないでしょう。もうその頃には」まゆみは色彩の強い花を触った。裕紀と来たときには、その花の季節ではなかったのだろう。そのときには目にしない花だった。だが、この土地にとても合っていて、また大人の入り口を通過するまゆみを象徴するようなカラーでもあった。

壊れゆくブレイン(20)

2012年01月16日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(20)

 ひとが生きていた証というものは何に表れるのだろう。いくつかの手紙が前の家から転送されてきた。ぼく宛てのものもあるし、ぼくと裕紀に向かって書いたものもあった。子どもが生まれたとか、引越しをしたという連絡もあった。裕紀個人宛ての手紙もあった。もちろん、亡くなったことを大勢のひとは知っていたが、そのことをまだ告げられていないひとも世の中にはいた。

 裕紀が留学時にお世話になった方々の近況の報告もあった。それは船か飛行機でこの国に運ばれ、そこからトラックやバイクでぼくのもとまで届いたのだろう。ぼくは、その封筒をにぎり、不思議な気持ちで紙の質を感じたり、文字を眺めたり、手で撫で回したりもした。開ける気持ちには直ぐにならなかったが、いつまでも放って置けないので開封した。案の定、そこには家族が増えたことが伝えられていた。ぼくは、たどたどしい語学力で返事を書く。裕紀は死んでいる。その報告を見たら、とても喜ぶだろうが、もう当人はいない、という内容を遠回しに書いている。ぼくは、それを自分の指が書くことによって、自分の過去をなぞっている。

 また、時があいて返事が来る。なぜ、教えてくれなかったという怒りの気持ちや、哀切というしか言いようのない深い悲しみがつづられている。ぼくは、どこまで裕紀の交友範囲があったか知らない。しかし、その手紙のひとつひとつによってけじめをつけているのだろう。もしかしたら、気付くのも遅いのかもしれないが、裕紀の家族も似たような作業をしているのかもしれなかった。ぼくらは、総じて不幸なのだ。だが、その不幸を共有することは、ぼくにとって許されていなかった。

「島本さんの知り合いから、なにか今でも連絡がある?」
 ぼくは、この手紙の主にとって、ぼくからの最後の連絡になるであろう封筒に糊付けしながら、雪代に訊いた。
「もう、あまり来ないけど、広美は孫だし、親戚だから彼女の成長を見たがるひとは、かなりいる」
「どうしてるの?」
「連れて行ったり、写真を送ったりとか。でも、最近はしていない」
「なんで?」
「まあ、いろいろあって。遠慮もあるんでしょう」
「どうして?」

「だって、新しい家族がいるから、あまり口を挟みづらいんじゃないの」
「ぼくのことか」雪代は、今更なにを言い出すのかという表情をしている。気付くのが遅いのではないのか、とでも。「それで、何も言ってこないの?」
「言ってこないね」
「広美は会いたがらない?」
「今度、訊いてみる」

 ぼくたちには会うべきひとがいて、会えない理由を作ってしまうひともいた。その時間の流れは忘れたころに思い出され、そのころには、ぼくらの手から水がもれるように関係性がこぼれている。

「おばちゃんの家に寄ってきた」広美は、髪を汗に湿らせながら帰ってきた。ぼくは、それが誰のことを指しているのか判断できなかった。
「誰?」

「誰って、ひろし君のお母さんだよ」ぼくのことを指差し、それから別の方角に同じように指をむけた。「これ、渡してって言われたから、持ってきた」
「ありがとう」

 ぼくは紙の上の文字を見る。それは、同窓会の誘いであるらしかった。ぼくの居場所が分からなかった主催者は、ぼくの実家にとりあえずは手紙を送ったのだろう。これも過去からのつながりだった。

「それ、なんなの?」広美は冷蔵庫を開けて、冷たい飲み物を探している。
「同窓会。旧い友人たちと会う誘い」ぼくは物事を広美に説明することを通して、別の側面から見る努力をするようになった。そうすると、あるものは貴重になったり、あるものは無意味なものに化けたりもした。だが、これはそのどちらのジャンルにも入れなかった。

「会って、どうするの?」
「むかしは、楽しかったなとか、あのとき、好きと伝えてれば良かったかな、とかを語り合う」
「なんか、大人って淋しくない」
「どうかね」
「会いたいひと、ひろし君いるの?」興味深そうに広美は訊く。
「まあ、何人かにはね。いま、どうしているのかに興味がある」
「好きとかいうの?」
「ぼくは、きちんと伝えてきたから、その必要がない」
「じゃあ、後悔しないんだ。それは、ママとか」
「そう、雪代とか」

「そのひとと結婚もしたし」
「結婚もした」
「大人になって好きとか言われて、それで、どうするの?」
「どうもしないけど、大人って恥が減るのかね。簡単にいうと図々しくなるんだよ。広美はならないで」
「無理。いつかはなる」
「じゃあ、先延ばしにすればいいよ」
「分かった。ママは?」
「ベランダにいると思うよ」その言葉を合図に彼女は奥に消えた。足の裏が床を鳴らし、息せき切った声が聞こえる。ぼくは、また同窓会の誘いを眺める。それで、長い過去が作られたことを知り、変えられない時間が流れ去ったことを見つける。その中で、会えなくなったひともぼくにはいた。その手紙は届かない。でも、出来るならそのひとたちを呼び出す機会がもてないのかとも考えている。彼らもそれぞれ順当に老け、過去の思い出話をする。しかし、裕紀にそのようなことは不可能なのだった。すでに歴史の一員になってしまっていた。

壊れゆくブレイン(19)

2012年01月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(19)

 子どもが学校で演劇をする。学校の行事の一環として。広美は日常では着ない衣装にくるまれ、舞台に立っている。彼女はその前に家でも練習をしていた。雪代が相手になって、セリフを覚えたり、身体をどのように動かせばよいのかなど、それらの一連の稽古をいっしょに励んでいた。ぼくは感動を存分に得たいため、途中経過をあまり見ないようにしていたが、それでも、その努力は自然と理解できた。その後、きょうの彼女がいた。

 時間としたら、20分にも満たない出番だった。大きなミスもなく、役割をやり遂げる。ぼくは、自分のことのように誇らしく思っている。となりで雪代は思い余ったらしく泣いていた。

 別のクラスには甥がいた。彼のクラスはある曲を歌う。ぼくはその曲を裕紀がステレオから流していたことを思い出す。どこか、実家の物置にでもそのCDはまだあるはずだったが、それより、ぼくの記憶にそれはきちんと残っていた。整理された箱の中身にでもあるように。彼女はある日、鼻唄を歌っていた。それと同じ曲を、いま、多くの小学生が声を合わせ熱唱していた。彼女にもそんな機会が訪れてもよかったのにと思っている。ここに座って自分の好きな曲を、自分の好きな子が歌う。ぼくのこころには、彼女がこうした場合にどう考えるのだろうという入り口があった。それは、出口かもしれなかった。それを通してぼくの感情は行き来した。

「きょう、どうだった? わたし」と、その日の夕飯時に広美が訊ねる。ぼくは、あれから仕事に戻りハードな一日を過ごしていた。だが、その感激を忘れることはなかった。
「とても、輝いていたよ」
「ひろし君も同じようなことやった?」広美は好奇心にあふれた目で訊く。
「したと思うけど、もう何も覚えていない。その他大勢みたいなものだったからね」
「淋しいね」

「淋しいな。それをずっと覚えておけるといいんだけどね」ぼくは忘れてしまったリストを作ろうとするが、忘れてしまっているため、そのような作業は不可能だった。反対に、忘れたかったことや、忘れられずにいる些事を思い出している。それは失敗という大まかなくくりのなかにいて、成功というものから程遠い事実を知る。うまく行ったことは当然、忘れたくもなかったが、記憶から薄らいでいく。失敗は痕跡としてきちんと残っているようだ。

「ママは、やった?」
「やったよ。主役。緊張して喉ばかり渇いたことを思い出す」
「そうなんだ、凄いね」
「雪代はずっときれいだったから」

「写真で知ってる」仲間はずれにならないように広美は直ぐに口を挟んだ。彼女は、写真でいろいろなことを理解する。ぼくの若い頃の写真も雪代はずっと所蔵していて、それを広美は見て育った。父親は若くして亡くなり、残されていた写真の量は、ぼくと同程度だった。雪代が娘に父親の話をする際、彼女が頭に浮かべる人物は写真で見たふたりの混合体であるらしいことを、雪代はある日、気付く。でも、今更写真を隠したり処分するわけにもいかないので、さらにそれに困る夫も当然いないので、それがそのまま継続した。大人になるにつれ、その区別がつくようになったが、最初に与えられたぬいぐるみに子どもが愛着をもつように、ぼくの写真も同じ立場をもったらしい。「わたしも、ママみたいになれるかな?」

「なれると思うけど、自分らしさというのがいちばん大事だよ。ほかの誰でもない自分」ぼくは、自分の信念のあるがままのことを言う。

 広美はしずかにご飯を噛んでいる。自分の個と仲間との隔たりを考えているような表情だった。ぼくは、いままで出会ってきたなかで自分らしさを思う存分に発揮した幾人かの顔を思い出している。ユーモアで仲間を笑いの渦にいれてくれた先輩の上田さん。彼の部下でしっかりものの笠原さん。そして、優しさを体現し続けた裕紀。ぼくには他の人から見て、どんな個性が内在されていたのか少しだけ考えてみた。でも、自分の側からのぞくと、よく分からないのも本当のことだ。
「ごちそうさま、ちょっと勉強する」と言って、広美はテーブルを離れた。

「前に、あんなこと言ったっけ?」扉が閉まり、隣室に消えた広美にきこえないようにぼくは雪代に話しかけた。
「いいえ、驚いた。顔には出さなかったけど」
「今度は、急に心配になるね。そんなに、詰め込むことないよ、とか言いたい」
「そのうち」
「なんかご褒美をあげたくなる」
「もう少ししたら・・・」

 もう少ししたら、あげるのか、それとも、あげないのか結論を雪代は付け加えなかった。ぼくは、どこか海にでも行こうと考えている。子どもはやはり青空のしたではしゃぐものだ。大声を発して、夜はぐっすりと眠るのだ。ぼくは途中から子育てに加わったため、一貫した考えを有していないらしく、ただ、漠然と思いつくままの考えを頭に浮かべては消した。それでも、成功とか失敗とかは別にして、ここ数日の彼女の努力だけは忘れないようにしようと決意していた。

壊れゆくブレイン(18)

2012年01月14日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(18)

「この前のことだけど、結果はどうなったの?」ぼくは、何日か経ってまた若者の日常にあこがれ、まゆみに訊いてみる。
「せっかち」
「それは、違うだろ。ぼくらより、流れている時間は君らのほうが早いと思うよ」
「きちんと彼女に伝えた。もう、それでおしまい。あとは本人に気があれば、直接、連絡するって」
「それで?」
「だから、それで終わり」
「うまく行きそう?」
「さあ、悩んでたけど、そういうのって自分が決めるものでしょう」
「そうだね」
「人を介するのもどうかと思うよ。先ずは、会って自分から謝るとか・・・」
「それが出来ないし、反省しているから苦労しているんだろう、まもるも」
「でもね、誰かの言葉を通すと、話が逆に混乱しない?」まゆみは、正論を語る。でも、それも大雑把にいえば正しい意見だった。

「まゆみちゃんは、どうなの? 前に彼氏がいたとか言ってたね」
「終わりは終わり。わたしは切り替えが早いの」
「若いときに、誰かにおぼれるほど好意をもった経験って、何にも代え難いほどの思い出になるよ」
「多分、そうだろうね。でも、苦しむでしょう」
「ここに見本がいる」ぼくは、自分の指で自分の胸を突いた。「でも、それすらも愛着のある思い出」
「わたしも、いつかする」
「そして、泣いたり喚いたりする」
「するタイプに思える?」彼女はちょっと不機嫌な顔を作る。でも、自分がこれからどう振舞うかなどは、根本的にしらないものだ。

 ぼくらはこうして広美の勉強の面倒を終えた彼女をおくる道中に、さまざまなことを話した。過去のこともあれば、現在のこともあった。これから訪れるであろう未来のことも話した。彼女は両親のことを話題として提供し、ぼくは妻との生活を話した。そこに、裕紀が表れることは稀だったが、ぼくのこころにはいつもその存在があった。消すことのできない記憶。たまには甘美な思い出にもなり、ときには痛みを伴うかさぶたのようなものにもなった。

「じゃあ、また水曜」と言って、次回の予約を確認するようにぼくはある地点に来るとまゆみを見送る。それから、またひとりでいま来た道を歩く。その間にテーブルの上は片付いている。娘は風呂にはいったり、先程まで習っていた勉強を復讐したりした。雪代は会社の経費をノートにつけたりしている。ぼくは、そのことを思いながら歩いている。自分には、予定通りといえないまでも家族ができ、戻るところがあった。

「ただいま」
 扉を開けると、コーヒーの匂いがした。それは雪代がやることが待っているという合図でもあった。
「コーヒー、入れたけど飲む?」
「うん。なにかの計算?」
「仕入れたり、支払ったりの点検。いつものこと」
「お疲れさま」と言って、ぼくは彼女をひとりにするため、コーヒーのカップを持ち、自分の部屋に消えた。ぼくはテーブルのライトを着け、引き出しから日記を取り出した。それは、ぼくのものではない。裕紀が書き残したものだ。ぼくは最初のうちは見る気もまったくしなかった。だが、自分は安定した生活を手に入れ、あの日々を振り返る余裕がでてきた。そして、彼女がどのような気持ちで毎日を送っていたのか、もちろん、毎日の正確な記録が残っているわけでもないが、大体は把握できた。それを数ページ毎に読み返し、添削するように、ぼくは別のノートにその感想をつづった。ある気持ちに対してのリアクションがあり、彼女に出せない手紙をぼくは書いているようなものだった。これが、雪代の裏切りでない証拠に、ぼくはこうして自分というものが、その日々の追憶を通してまた生きているということを説明し納得してもらっていた。読みたければ、君も読んでいいよとも雪代に言った。彼女が、どうしているのか分からない。もう死んでしまっている女性に嫉妬などもたない。もともと、あまり嫉妬とかの感情を有していない彼女だった。

 それを20分ほどして、ぼくは止めた。コーヒーも空になり、リビングに戻った。雪代も自分のすることを終えたようだった。ぼくらは、向かい合って座り、生活のことを語り、仕事の話をして、娘のことを相談した。
「まゆみちゃんと、こそこそ、何を秘密のように話していたの?」
「男同士の秘密だったけど、もう、いいよ。まもる君は前の女性に未練をもっていた」
「それが、まゆみちゃん?」
「違う。だけど、まゆみちゃんの友だち」
「縒りを戻したいとか?」
「その通り」
「それを手伝ってもらっている・・・うまく、いったの?」
「あとは、本人同士だって。意図だけは伝えたから、と言われた」
「わたしたちも、むかし、別れた」
「ぼくは、東京に行く前に、映画館で君と島本さんの姿を見た。とても、傷ついたよ」
「あなたも女性といたけど」
「あれは、何でもない同僚。引継ぎのお礼。そういえば、あいつ、どうしてるんだろう?」
 ぼくは、何年も前のことを昨日のように思い出している。自分の思い出のストックが増え、たまにその重みで頭の重心が耐えられなくなりそうになる。ぼくはシャワーを流し頭を洗い外的な要因からそれを拭おうとしたが、もちろんそのようなことは無理だった。

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壊れゆくブレイン(17)

2012年01月13日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(17)

「仕事のことで、相談にのってあげてくれないか?」松田が殊勝な感じで、ぼくに話しかけた。「オレは特殊なルートで仕事をしたから、きちんとした就職とかあまり分からないもので」

 松田はいまや個人的に小さな会社を興している。それだけでも立派なものだが、自分の子どものことになると判断が鈍るのかもしれない。

「じゃあ、取り敢えず、いまはいっしょに歩きながら話すよ」と言ってぼくはまもると歩き出す。いつの間にか彼の肩の位置は、ぼくのそれより越えていた。「どんな仕事に就きたい? なにか目的があって?」ぼくは、目論見もないままそう訊ねた。しかし、彼の頭のなかはなにも固まっていないようだった。
「どんなものに、自分は向いているんでしょうね?」
「さあ、さっき会って、それまでも継続してなにかしてきたわけじゃないからね」と、ぼくは彼の顔を見返す。
「それより、別の話をしていいですか?」
「いいよ、もちろん」
「前に彼女がいたんです。ふとしたはずみで別れてしまったんですけど、いまでは、後悔している」
「気持ちは分かるよ」
「それで、元に戻すには、どうしたらいいものかと・・・」
「その通りに言えば」ぼくは、仕事上で失敗したあとの解決法を考えているようだった。どんなに繕ってみてもミスは消えない。それを誤魔化そうとすればするほど、逆に目立ち、非難も増える。思い切って、明らかにしてしまった方が逆鱗に触れるかもしれないが、解決は楽になるようにも思える。「なにか言えない理由でも?」
「自分から、別れることを切り出してしまったんです」

「まずいね」
「それで、相談」
「仕事からかけ離れてしまった」
「広美ちゃんにまゆみが勉強を教えてますよね。さっき、ききました」
「そうだよ。まゆみちゃんが関係してくる話?」
「ええ、別れた子は、まゆみの親友なんです」
「ああ、それで、彼女を通して訊いてほしいとか?」
「その通りです」

「それは、簡単だよ。今度、来たとき伝えてあげられるけど、結果が良いものかは知らないよ。覚悟しておいて」ぼくは、その若者の無邪気さに嫉妬していたのだろうか。誰かのひとことで一喜一憂できる立場に羨望を感じていたのだろうか。わざと、無関心を決め、最悪のことを口にした。それでも、彼は自分のもやもやした気持ちを吐き出したことで爽快になっているようだった。
「仕事のことは、また」と勝手に話を終わらせ、まもるは小走りに自分の家の方角に向かった。ぼくは彼の親にたいして申し訳ない気持ちがあったが、それも仕方がなかった。終わらせたのは彼である。

 そして、広美と雪代がそばに近寄ってきた。

「相談、終わり?」
「今度、まただって」
「そう、でも、さっぱりとした顔をしてたけど・・・」雪代は怪訝そうにしていた。だが、ぼくは彼との秘密のようにその話題を伏せていた。
「どっかに寄って、お茶でも飲もうか?」広美は同意し、ぼくらはいつも行くその店に向かった。
 何日か経って、ぼくはその話題をすでに忘れていた。しかし、会社から帰り、まゆみがまだ家のなかにいて顔を見たので、この前のことを思い出した。
「まゆみちゃん、もう勉強終わったんでしょう。少し、話していい?」
「わたしのこと?」広美は心配した表情になっている。
「違うよ。安心して。大人のはなし」
「なんですか?」
 ぼくらは玄関の外にでた。満天の星がきらめくような静かな風のない夜だった。
「ぼくには、学生のころに松田っていう友人がいてね、この前、会ったんだ。サッカーを教えている。いまでも、教えている。彼の息子もサッカーをしていた。能力のある子だった。先日、再会したら、あんなに成長しているとも思っていないので驚いた」
「まもるのこと?」
「そう。話が早い」
「彼には、好きなひとがいたみたいで」
「知ってる。でも、別れた」

「そう、そこなんだけどね。彼は後悔しているみたいだよ」
「一方的にふられて、彼女、悲しんだのに」
「そういう振る舞い自体を後悔しているんだろう」こう言いながらも、ぼくはむかし自分がしてしまった過ちも思い出している。これは、ぼくと裕紀の物語なのだろうか? 幼馴染の智美に憎まれた自分。
「ひろし君はどっちの味方なの? まもるの?」
「どっちでも、ないよ。もし、うまくまとまるなら、まとまったほうがいいので、頼まれただけだよ。彼女の言い分もあるだろうけどね」
「訊いてみるよ。それから、答える」
「そうして。ごめん、いやな役目まで引き受けさせて」
 また、ぼくらは部屋に戻る。

「大人のはなしは終わったの? ご飯、食べていくんでしょう?」雪代は、妹に話しかけるようにまゆみにたずねた。彼女は、すいませんとか言ったようだが、気持ちの一部は外に残されたままのようだった。「変なこと、うちのひとが話したの? ねえ、ひろし君」両者に雪代は素朴な疑問を投げかける。
「別に、大した問題じゃない」ぼくは、冷蔵庫に向かい、ビールの缶を探した。ぼくは、裕紀との突然の別れを思い出したことにより、雪代にたいして素っ気無く接してしまったようだ。まもる君がいくつかの傷を誰かに与え、その影響をこうして拭おうとしていることに、ぼくは淡い興味や関心を持つ。それで、なにがぼくに始まるわけでもないし、逆に終わるわけでもない。ぼくは、そのままビールの缶を開け口につけた。
「あ、少し欲しかった」と、雪代はそれを見て言った。

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