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問題の在処(18)

2009年01月29日 | 問題の在処
問題の在処(18)

 妻は、まだ小さな幸太に「なにごとも準備がとても大切なのよ」と、真剣に言い聞かせている。それを、ぽかんとした顔で、幸太はきいていた。どれほど、彼が理解しているかは、別の存在である自分には分からなかった。

 元モデルの人、名前はユリといったが、ユリさんのところに仕事を貰いに行っている。実際には、まだ何も与えられていなかった。しかし、いろいろ連れまわされ、たくさんの経験をさせてもらっている。後で知ったことだが、彼女は自分の人生を文字にする必要を感じていた。そのために何人かの若者をピックアップしたが、いまだに、これぞとある到達点に達している人間には出会っていなかった。しかし、ぼくの中にあるなにかを認めて感じ、自分の人生の黒幕になって表現してくれる人を探していた答えが表れる予感があったらしい。

 彼女自身も自分でいくらかペンをとって試してみたが、客観的になることもできず、恐らくいつも能動的に人生を体現するためでもあろうが、紙はいくにち経っても白紙のままだった。それで、いくらかの時間をともにして自分の人生にぴったりの言葉を当てはめられる人材に期待をかける。何人かの失敗があり、やっとぼくが目の前に登場したらしい。それでも、彼女の人生を彩った、さまざまな男性や喜びや楽しみを、言葉として表わすために、彼女の考えをぼくに注入する時間が必要だった。その前哨戦として、たくさんのレストランや車や船や別荘や、いろいろなところに同伴し、彼女の経験を自然ときいた。ぼくは、のちにその人の人生を書くとも思っていないので、メモなどもなかったが、それでも若い記憶は仔細に覚えていた。

 ある日、彼女は唐突に、「これで準備は終わり。あなたに相応のお金もかけたし、出来そうなのでわたしの人生を書いてみなさい」と言われた。

 高級なホテルを2か月ちかく借りてくれた。ぼくは夏休みを利用し、はじめて自分の脳を他人の考えにのり移すことになった。何回も書き直し、何回か自分を他人の視線として点検しつつ、それでも、文学的な領域にまで高めようと励んだ。そうしないと、それは低俗に受け取られる恐れもある内容だった。

 彼女の若いころの動物的なまでの行動と、蹴落とされた男性や友人たち。そして、あるステータスを手にいれ、自分の思い通りになるように、金銭をばらまいたこと。そのために、いまのご主人と結婚することになった過程。

 彼女は、ぼくの書いたものを見直しもしなかった。ただ、ぼくを連れ、ホテルを引き払い、そのまま出版社の人に会いに行った。それは、長年の間、土の下に隠れ続けた昆虫のような人物だった。ある甘い汁をかぎ、それが利益になることを知っている顔だった。

 ぼくは、まとまった金をもらい、この文章の作者として一生、口にしないことを誓った。その後、高価なレストランのもっとも高いワインを開けてもらった。
「あなたは、もうこれくらいのものについても文章が書けるようになったでしょう」と、最大の賛辞をぼくに贈った。最後には、彼女自身についても、ぼくの文章のほうが、より高貴になった実感もあった。しかし、一緒に別のホテルに戻るまでだが。

「なにか、これ以外にほしいものがある?」
 と、ユリさんは言った。ぼくは、就職活動をしていないことを打ち明け、なにか仕事につながるものはないかと尋ねた。彼女は、先ほどの出版社のひとに電話をかけ、あっさりと仕事を見つけてくれた。ぼくの学生生活も終わりそうになる。

 その後、本は圧倒的なまでに売れ、スキャンダルを呼び起こし、彼女は外国に消えた。ぼくは、本屋に陳列されているものを眺め、優越感と恐ろしさを同時に抱え込んでいた。

 あの準備期間のことを思い出しているが、妻には、ぼくがそんな経験をしていたことなど知ることもない。ただ、自分の子供に準備の大切さを熱心に説いているだけだった。

 3人で、大きなデパートに向かう。彼女は、幸太と一緒に子供服の売り場に向かった。ぼくは、一人離れ、上階の本が並んでいるところに向かった。自分の能力をあのように浪費してしまった事実と折衷することをたえず感じてしまうが、また、それも受け取るべき負の利息のように感じていた。
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