爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 z

2014年09月03日 | 悪童の書
z

 円。

 グラスの底のリング。使い込まれたカウンターの板のしみ。

 たとえ、飲み干して片付けられてしまっても、その輪が痕跡として味わいの名残りを主張する。

 別の場所の輪。ぼくの家の小さなアンプのうえには、チープな指輪が乗っかっている。リング。ぼく以外の誰かも悪童になるべきなのだ。潜在的に悪など望んでいなくても。

 ぼくは、別にそれが欲しくて手に入れたわけではない。複雑な過程を経て、ここにいる。あるいはシンプルともいえた。どちらにせよ、ここにあり、声高に叫ばないが所有権はぼくにあった。

 自分の天職を発見したひとがいて、その秀でた才能とアイデアを依怙地なまでに表現する。それぐらいの永続する熱狂がなければ天職とも呼べないのかもしれない。普通の一般人は稼げることが仕事となる。愛も夢中も蚊帳の外だ。

 ぼくはある一室にいる。楕円形の部屋。飲み物のグラスの底の形状としてはあり得ないものだった。そのなだらかに湾曲する壁の一面に絵が飾られている。睡蓮。モネの絵。オランジュリー美術館。

 ぼくは彼の絵をそんなに好きでもなかった。偉大なるマンネリとして。だが、その一室に入ってしまったことによって考えをあらためる必要にせまられる。確かにすごいのだ。清らかな怨念のようなものもある。スリという行為でさえ、芸術に高められるというひともいる。財布を盗み、なかの札だけ抜き取り、その財布をもとの所持者のポケットにもどす。その一連のスリリングな過程を芸術と呼ぶ。ぼくのこころも、この室内で同じことが起きた。元手も、旅行の小遣いもすべてかっぱらわれたのだ。呆然とする。実際のお金の話ではなく、ぼくのこころが盗まれたかのように、所在もなく身だけのこして遊離する。芸術には、本場の芸術には力があった。静かな迫力だった。

 腑抜けになった自分は上の空でパリの青空の下を歩く。前提条件として、このことがある。

 橋のうえで音がする。ぼくはまだ呆然としている。すると、後ろから声がする。

「あなたが、落としたの?」

 東欧っぽい風貌の若い女性が手のひらを見せる。その中心に指輪が乗っかっている。

「違うよ」ぼくは信頼や是認も好きだが、疑いや検証も同程度に好んでいた。本来、まっさきに挑む自分のその性質がいまは麻痺していた。

「でもね」彼女は困った様子であったが、ほんの数秒をくみ取っただけで、ぼくの感情はしつこいが麻痺していた。「わたしが持っていても仕方がないし、だから、あげる」

 彼女は指輪を差し出す。

「そう」ぼくはいまだに天職のことを考えていた。あるいは運命のひと。いやはや、青い鳥。しかし、断るのも億劫なので、手のひらを彼女に向けてしまった。ぼくらの邂逅は終わり。パリの空は気まぐれを見せずに、見事に青いままだった。

「あ、ちょっと」彼女の声が背中でする。
「なに?」自分が何語を話していたかも思い出せない。もちろん、あやつれる言語はひとつのみであった。あとはすべて欠けら。砕けたクッキーの袋のすみの屑ぐらいのボキャブラリー。

「それの代わりといっては何なんだけど、わたし、きょう、誕生日なんだ。ちょっと、コーヒーでも飲みたいので、いくらか、どうにか、その・・・」

 あ、そういうことか。いまさら問い質すのも面倒だった。乗りかかった船。おぼれかかった金槌。ぼくはポケットをまさぐる。数ユーロがある。そのうちの数枚を渡す。

「もう少し、何とかなんないかな?」

 ひとは輪を、円形を求めるのだ。指輪の物語。ぼくは数枚だけ加算する。あとは意思を強く持って、上限のリミットを顔色で教え諭す。

「ああ、やられたな」別れたぼくはひとりごとを言う。しかし、違うかもしれない。ぼくのこのリングは本物でもあるし、彼女も誕生日だったのだ。さらに、ぼくはそんな金額で足りないぐらいの酒代を女性たちとともに費やしてきたのだ。痛くもない。でも、すこし、かゆい。

 ぼくの善意は報われることもなく、一日、歩き終わったあと、はじめてのパリの街並みを堪能し終わったころに、かなり遠い場所でさっきのと寸分違わぬ物が落下する音、金属が固い石に落ちる音をきいたのだ。

「やってるな」と、ぼくはひとりごとを言う。見たくなかった。彼女は友人たちにその素行を見られる心配がないのか。そんなことを考えながらも今回のターゲットのある紳士は野良犬を追っ払うような仕草をして、その場から救われる。彼は、モネの絵にとっくに感動していたのだろう。

 数年後、ぼくは同じ町にいる。同行した同じ部屋の男性は無呼吸症候群のように夜中、寝息をとめた。その後、爆発的に空気を吸った。あるいは吐いた。

 ぼくは海外での楽しみと興奮と、もちろんその横のベッドのひとの音で一週間ほど、睡眠が浅かった。もともと、ひとりで寝ることを訓練してきたタイプなのだ。布団に隙さえあれば潜り込もうとする黒猫や黒い髪のひとびとを払い除け。

 その楽しみも終わって家に着く。一週間の寝不足と地元での深酒で油断して床で寝てしまう。冬のガスストーブが足もとで働いている。ぼくは見事に火傷する。その傷が癒えると、黒い円になった。アンプのうえの指輪をもち、その傷に重ねると丁度、同じぐらいだった。ぼくはパリで二つの円を見つける。その二つの事実が隔たった場所に旅に行ったというれっきとした証拠になった。顔や腕に模様を刻印する古い部族のひとびとの風習のように。