爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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流求と覚醒の街角(32)風船

2013年07月28日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(32)風船

 女の子が泣いている。手には風船を持っている。いや、風船のひもをつかんで、頭よりうえにその風船が浮かんでいる。きれいなスカートを履いていて、よそ行きという表現がぴったりの格好だった。奈美は屈んで、その子と目線を合わせた。

「お母さんは?」少女は答えない。ただ、泣きじゃくるだけ。奈美はその子の手をつかんで、段差のあるところで座らせた。女の子は言うことを聞く。この不安定な世界で唯一の味方を見つけたのだ。ぼくは、ただその様子を眺めている。ぼくに、何ができるのだろう。

 日曜の歩行者天国。みな、幸せそうだ。奈美はただ言葉を待つ。少女は両親といっしょに来たらしい。だが、どこかで親は子どもを見失い、彼女は両親の姿を失う。奈美があやすことによって少女から涙が消える。すこし晴れやかな顔になってきた。名前も教えてくれる。電車に乗ってここまで来たこと。先週は動物園に行ったこと。ママとパパは昨日ケンカをしたことなど。子どもはいろいろ見ているのだ。その様子を道行くひとも眺める。そのうちの何人かは明らかに奈美を母だと思っているらしい。それにしても若いお母さんね、という風に。

 ぼくは交番があることを知っている。あそこに渡してしまえば簡単に用は済みそうだ、と考えるのはこの子どもの存在に戸惑っているからなのだろう。もし、自分がひとりだったらあの子のことも気付いていなかったかもしれない。泣いている少女を発見もできないほど、ぼくは忙しい身でもないのに。

 奈美は話しかけ、その少女の笑いまで手に入れる。こころを開いたのだ。彼女は両親がいないことまで忘れてしまったように快活に笑っている。奈美は反対にぼくのことを忘れてしまっているようだ。ぼくは、どうやったら対面できるのか考えていた。どこか大きな場所ならアナウンスをしてくれる係りもいるだろう。「迷子の○○ちゃんが、お母さんを探しています。この場所まできてください」という放送が流れる。しかし、ここは歩行者天国なのだ。デパートのなかでもない。動物園でもない。だが、ぼくが交番のほうを見ると、仕事ができそうな男性が困り果てた様子でいるのが確認できた。ぼくは黙ってそちらに向かった。彼の話しぶりが分かるまで近づいた。背丈はこれぐらいで、というように手の平を下げた。ぼくは割り込み、
「迷子ですか?」と訊いた。
「そうです」
「あそこにいる子だと思うけど」父親らしきひととおまわりさんもいっしょに来た。その子はまだ奈美と真剣な様子で話していた。しかし、お父さんの姿が見えると、駆け寄って足にまとわりついた。一件落着。父は奈美とぼくに礼を言う。奈美は楽しみを奪われたような顔をした。

「早く、連れてきてくださいね」と反対に奈美は制服姿の男性に注意された。奈美は風船を目線で追う。小さな身体は直ぐに見えなくなり、風船も直に陰になって消えた。ただ泣いたり笑ったりした少女の甲高い声だけがぼくに残った。

「実習でやったんだ、学生のころ」
 と、奈美はその後、言った。それから、いくつかその実習の際に起こった出来事を話してくれた。人見知りをする子もいれば、どんどんと自分をオープンにする子もいる。だが、最終的にはこちらが望めば同程度の親密さを獲得することはできるらしい。

「それが、奈美だからだろう?」とぼくは訊く。このぼくが言ったって、そう上手くいくとも思えなかった。
「ううん。誰でもみんな」と奈美は否定した。

 ぼくは、またしても前の女性のことを考えていた。彼女が小さな子たちとどう接したか、又はどう接するであろうかということではなかった。ぼくが父親で、迷子になった彼女を探しているのだ。心配でたまらない。そこに優しい女性が現れて前の女性をなごませてくれているのだ。だから、ぼくはそのひとに感謝を述べることをためらわない。それが奈美なのだ。ぼくは懲りずにその失われつつある情景をつかみとろうとしていた。無意味なことであるのは自分がいちばん良く知っていた。風船は飛び去るものであり、家に持ち帰っても、いつの間にかしぼむ運命にあるものだった。それをぼくは永続するものと誤解して、その誤解に躊躇もなく力を注いでいる。もし、奈美が同じことをしていたら許そうとしないだろう。だが、ぼくは自分に許していた。甘美なものをこころの奥で保管していた。

「あの風船、どこで手に入れたんだろうね? それらしい店なんかどこにもないのに」奈美は不思議な顔をしている。それから風船で作られる動物のことを話した。ときには犬になり、キリンにもなった。だが、奈美は奈美であり、ぼくはぼくだった。後ろ向きな考えを手放さないぼくだった。

「なんで、あんなに親とはぐれることが辛いんだろうね。思春期にもなれば疎んじてしまうのに」
「奈美でも?」
「みんなそうでしょう?」

 ぼくは奈美と親子の輪に入れない自分を感じていた。こじあけられない強力なチームワークがあるようだった。前の女性にはぼくと敵対する父などいなかった。それがぼくには懐かしくもあり、淋しくもあった。ぼくはあの女性のために父とケンカするぐらいの覚悟も勇気もあったのだ。だが、それは試されることもない。なので、立証することもない。ぼくは、それで父になった自分を想像したのだろうか。風船をもって心細そうな彼女を想像して。ぼくは失い、再度、取り戻す。だが、実際の生活では何事も簡単にいかないのだ。それにぼくは奈美と車のない道路の真ん中を歩きながら、これ以上もない幸福を感じているのも紛れもない事実なのだった。

流求と覚醒の街角(31)首

2013年07月27日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(31)首

 ぼくは奈美と食事をしている。仕事帰りの外食。

「ちょっと待ってて」と彼女が言って、一瞬消えた。そこはデパートのうえにあるレストランだった。彼女はなぜか外に出てしまった。注文を済ませた料理が出てくるにはまだ早い。少し経って彼女は四角い箱を持って戻ってくる。
「買おうか、ほかのものにするか迷ったんだけど・・・」と、付け加える。
「ぼくに?」

「そう」四角いテーブルに四角い箱が並列に置かれる。それを彼女は片手で押し出す。ぼくはそれをつかみ、中のものを想像する。当てるのは簡単なようだ。その形状は長方形で、デパートで売っているようなものであれば、首に巻くものだろう。ぼくは目で彼女に確認して、包装を無雑作に破る。中からでてきたものはネクタイだ。ぼくは箱を開け、なかの色や模様を確認する。そして、いま自分が首に巻いているものとの差異と相似点を比べる。自分が似合うと思っているものと、ひとが似合うだろうと予想しているものでは、ちょっとだが違う。まったく同じであってもつまらない。それがプレゼントの美点を奪うかもしれない。彼女がぼくに似合うと思っているものは多分こういうデザインなのだろう。

 ぼくは、それから自分の家にあるものを思い出す。大した本数もないが、自分が必要に応じて買い揃えるものは、やはりどこかで似通っている。何人かから貰ったものは、まったくしないか、時たまするぐらいで出番が少なくなる。どうやって手に入れたかも分からないものもある。だから、それがどこまで正確なものかも区分けできない。

「何かの記念日だったっけ?」この状態が一段落すると、当然の疑問のようにぼくはそう訊く。見落としていたものがあったのだろうか。
「とくに、そういう訳じゃないよ。ただ、前を通って似合いそうだなと思っただけだから」

 彼女がその紳士服売り場の前を通りかかったときには、ぼくが頭のなかにいたのだ。不思議なものだ。
「似合うかな?」
「変えてきなよ。簡単でしょう?」
「簡単だけどね」料理はまだ出てこない。それは他の席も同じようだった。焦れた子どもの注意力も散漫になっていて、うろうろしている子もいた。「じゃあ、変えてくるよ」

 ぼくは、その新品のネクタイを持ち、レストラン街の奥のトイレに行った。ぼくがネクタイを外し、新たなものを結びなおすと、となりで手を洗っていた男性は怪訝な顔をした。「なぜ、今ごろ?」と、その顔にはあった。

 それを済ませ、またぼくはレストランに入る。店員は会釈をする。もう店の前で並んでいる客はいなかった。

「どうかな?」と、ぼくは訊ねる。男性の変化など極く限られた範囲であるものだ。髪型もほぼ変化を加えない。仕事用の服装も似通っている。制服としてのスーツがあり、足元は革靴を履いている。奈美の服装を見る。髪のまとめ方。カーディガンの色。すると、料理も運ばれてきた。いろいろなことを待っている間に思い掛けなくできたようだった。彼女はフォークをつかんでアスパラガスを刺して食べている。みどり。

 ぼくも食べながら家にあるネクタイの柄を思い浮かべていた。それは、具体的に目の前にして見ないとなかなか思い出せなかった。しかし、ある一本のことは、頭から消えることもなかった。前の女性がくれたものだ。しばしば使うものでもない。登場する機会も少ない。大事にしようと思っているからそうするのか、どこかで昔のものだと規定しているのか、自分としても判然としなかった。ぼくは、それで、また自分の上半身を見る。どこかで浮ついている。はじめてしたのだから仕様がないのかもしれないが、まだまだ馴染んでいなかった。

「気に入らない?」奈美は珍しく心配げな表情をする。「似合ってるけど」
「ネクタイって個性があればあるほど、良くない気もしてきた。それに、その姿を自分はいちばん見ることもできない」

 ぼくが奈美といっしょに歩いている姿を見ることもできないのが自分だった。しかし、それをどうこう詮索することも他人はしない。例えば、それを気にかけるのは奈美の両親だけのようでもあった。でも、付加価値もあるのだ。ぼくの年収。ぼくの家柄。ぼくが奈美へ示すであろう愛情の度合い。
「写真にでも撮る?」

 ぼくは奈美の部屋で数々の彼女の写真を見た。親しかった高校生のときの友人。ふたりはとても似通っていた。そのお互いに似せようと頑張った部分が友情の証でもあるようだった。ぼくは、その子ともし会ったならば、二人目の恋人はその子であったという可能性を考えてみた。もちろん、無意味であることは知っているのだが、それぐらい彼女たちは一心同体であるようだった。

 男性は、差異を、または優越感を見つけようとどこかで頑張っているのかもしれない。友人に比べてこの部分は勝っているのだから、恋の勝者になり得る権利を有するのだろうと、甘い目論見を企てる。だが、同じような年代の女性がどこに重心を置いているのかはまったく知らない。

 彼女たちも大人になり、その恋人にネクタイをプレゼントするようになる。自分の愛するひとは社会に帰属する一員でもあるのだ。その社会での成功が自分の幸福に直結するのかもしれない。ぼくは、ただ首に巻かれている布だけで大層な思い込みをしているのだろう。

「奈美は、なにが欲しいの?」と、ぼくは食後のコーヒーを飲みながら訊く。その答えによって、ぼくはどう変化するのだろう。また、どれほど頑なであり、意固地にもなれるのだろう。

流求と覚醒の街角(30)風邪

2013年07月26日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(30)風邪

 奈美は風邪をひいている。いまはベッドに横たわっている。額には汗をかき、濡れた髪がそこに貼り付いていた。ぼくはタオルを持ち出し、そっと拭いた。せっかくぐっすりと眠っているのに起こすこともなかった。

 眠るまでは随分としんどそうだった。うなったり寝返りをうったりを繰り返して、やっと解放される。眠ったあとに爽快さが直ぐにやって来るとも思えなかったが、身体は楽になるだろう。できるなら、ぼくは立場をかわってあげたかった。しかし、不可能なのだ。タオルで額を拭くことぐらいしかできない。また、それは彼女に知れ渡ってはいけないのだ。未知なる世界のできごと。おぼろげな記憶。

 ぼくは部屋からでてキッチンに座る。急に具合が悪くなったので、冷蔵庫にはその日に用意したものがそのまま残っていた。ぼくは缶ビールを取出し、ラップがかかっているサラダの鉢もテーブルに並べた。それをつまみにしてひとりで空腹を満たした。やはり、どこかで味気なさと戦っている。

 いまの奈美にとって、ぼくの存在などまったくないことだろう。反対にぼくは心配をしている。ぼくは普段の元気で陽気な彼女のことを知っている。それが奪われた瞬間のために嘆いていた。だが、これはまったくの終わりではないことも薄々は知っているのだ。数日後には元通りになる。免疫をいくらか加えた彼女になって。

 となりからうめき声のようなものが聞こえる。ぼくは薄めにドアを開け、その様子をうかがう。室内は暗いため、彼女の表情の細々とした部分はよく分からない。彼女の身体から発する熱気のようなものが、部屋のなかで澱んでいるようだった。汗をかき、体温が下がる。ぼくはまたドアを閉めた。今日、いつも通りだったら彼女と話せたことを具体的に想像しようとした。彼女には感激したことがあったかもしれない。逆に腹を立てたこともあるのだろう。それを彼女の口から聞きたかった。でも、いまはおあずけだ。

 健康というのは空腹と、その解消と眠たさだけのような気がしていた。ぼくは小さな音でラジオをかけた。明日の天気の情報がながされる。みな、明日に期待する。きょうは、もう直ぐなくなるのだ。ぼくは時計を見上げる。正確な時刻がわかる。あと、数十分で今日も終わりだ。ぼくは、どこで眠ろうか考えていた。床に寝そべり、クッションでも枕代わりにして眠る。健康であれば、ほとんどのことは耐えられるような気持ちだった。ぼくは食器を静かに洗い、シャワーを借りた。奈美の化粧水を意味もなく顔にすりつけ、鏡をのぞいた。自分のこの顔を思い出の一部として覚えてくれているひとが世の中にどれぐらいいるのかと想像する。あるひとは、悲しみの感情と直結させるかも知れず、ある場合には憎しみを呼び起こすのかもしれない。さらに多くは、忘れていたとか、懐かしいとか、大人になったとか思うのだろう。実際はどうか分からない。顔は覚えてくれていても、名前は失念ということもあり得た。それも仕方がない。ぼくも、そういうことをするのかもしれなかった。

 ぼくはドアを開けて、予定通りクッションを探した。適当な場所に置くと、ぼくは奈美のパジャマを触った。それはまだ濡れてはいなかった。着替えも必要ないのだろう。そっとした積りであったが、奈美は目を開けた。

「そこで、寝るの?」床のクッションを目にして、彼女は訊ねた。ぼくは、ただ頷いただけだった。彼女はいくらか済まなそうな表情をしたが、途端にそれも消え、また夢の世界の住人に戻った。

 ぼくは床の固さなどかまわずにぐっすりと眠ったようだった。目を覚ますとカーテンの向こうは晴れていることが分かるほどだった。昨日の天気予報は間違えようもなかったのだ。ぼくは上半身を起こす。いくらか身体はこわばっていたが数回手足を伸ばすとそれも自然と消えた。

 ぼくは横を見る。奈美も目を覚ましたようだった。
「一日、そこで?」
「うん。でも、目も覚まさなかった。どう、直った?」
「多分」
「熱、計る?」
「うん」ぼくは体温計をとり数字を確認してから彼女の脇に入れた。今度はパジャマ自体に湿り気があった。
「着替えないとね」
「着替えないと、風邪引く」彼女は笑った。「もう引いてるけど」

 ぼくはカーテンをすこし開けた。数分、外を見ていた。いつか、奈美が言った老夫婦がベンチに座っている後姿が見えた。ぼくらの将来の姿かもしれない。

「ベンチに座っているね。ほんとにいたんだ」
「信じてなかったの?」
「疑っているわけじゃない。ただの確認のことば。どう?」
「見て」彼女は脇から体温計を取り、自分で見ることもせずぼくに渡した。ぼくは彼女のいつもの体温を知らなかった。接触を通してぬくもりや熱は感じたことはあっても温度としての数字は知らないのだ。
「36、2」ぼくはそれが彼女にとって高いのか低いのか区別のつかないまま読み上げた。
「じゃあ、いつも通りだ。平温」
「気分は?」
「快適に近い」
「直ぐになおったね。ジュースでも飲む?」

「うん」汗でくっついた髪を彼女のパジャマの袖はぬぐった。ぼくは彼女の身体をはじめて求めたことを覚えていた。それはどうやっても懐かしいという段階には行きそうにもなかった。その新鮮さを更新するのをためらわず、また、いつか彼女の元気になった姿をぼくのこころは刻むのだろう。

流求と覚醒の街角(29)水門

2013年07月25日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(29)水門

 そこには水門があった。前日までのおびただしい雨により、水かさはいつもより増していた。土手にもところどころに水たまりが残っており、いま立っているところの芝生もぬかるんでいた。その為、水門は開かれ勢いよく放水されていた。ぼくはその姿をはじめて見る。のどかさしか感じられない場所は本来の役目を隠していたのだ。

 つくづく考えれば不思議なものだった。門の開閉によって水量を調整する。与えるものや得られるものを、こちら側で判断して制御する。町に沿った大きな川であれば必要なものであり、力を最大限、発揮すれば命も救われることがあるだろう。だが、通常はのんびりとしているものだ。普段、散歩しているひとたちも実際の役目に気をとめることなく、偉容な姿として捉えているだけなのだ。

 奈美は横でその姿を無心に見ていた。そこは、彼女の実家の近くだった。ぼくは遠回りしてでもそこを歩くのが好きだった。景色も良かったが、奈美の両親と会う前や、会ったあとの開放感にその景色が欠かせないものとして必要だったのだろう。今日は会ったあとだった。昨日までの大雨による恩恵の風景に見惚れていた。

「お父さんたちに会うの、なれた?」
「それほどには」

 ぼくは奈美と親しくなることだけを望んだのだ。当初は。しかし、関係性の流れで彼女に付随する世界にも当然のこと足を踏み入れることになる。
「うまく、やってるけどね」

 そうでもなかった。奈美と彼女の母親は足りないものがあると言って、外に買い物に行ってしまった。数十分だけだったが、ぼくは奈美の父親とふたりきりになる。奈美を媒介にしなければ会話もなく、接点もなかった。そもそも、他人であった。それでは、親しみをこめた知人と他人との境界線は、どこにあるのだろう。その境目をなにが決壊させてくれるのだろう。どこかでふたつの異なった魂は合流して、ひとつになったという錯覚をつかめるまでになるのだろうか。

「奈美がいなくなった途端に、無口なふたりになった」
「ふたりとも、それほど、無口でもないのにね。ごめん」
「謝ることなんかないよ。ただの事実だから」
「緊張と汗をともなった事実か」

 それでも、門から出る水は徐々に少なくなった。奈美の実家で昼食をとり、解放された午後だった。ぼくらは関係性を深めるために親を利用としていたわけでもない。ただ、奈美がたまには週末に両親と会いたい、といったので計画もなく、「ぼくも行こうか?」と訊いただけだった。奈美はどっちでも良さそうだった。少なくともぼくにはそう思えた。

 そう言った昨日の夕方は大雨だった。バケツを引っくり返すという形容詞を数段、越えるような雨足だった。4tトラック数台分を裏返しにしたような雨量だ。閉め切った窓からも雨粒が叩きつける音が聞こえた。しかし、今朝は一転して晴れていた。なにも、ぼくらは決めることができないという不安と、また大局では誰かが制御しているという安心感も同時にあった。あの水門のように。

「これから、発展するんだろうかね、ぼくと」
「お父さん?」奈美は水の流れから目を逸らす。「別にお父さんと結婚するわけでもないしね。いま、結婚って、わたし言った?」
「言った」

「言葉の綾だよ。そう思っている訳じゃない。ごめんね、そう思っていないわけでもない。なんか、こんがらがった」奈美はそれで、笑う。ぼくらの仲ではじめてその二文字が使われた最初の機会となった。それは親しくなることのゴールとして使われた言葉であり、契約とか誓約がともなうことの象徴ではなかった。

 ぼくは言い訳を探している。どこかで、ぼくにとって最良の女性は手放したなかにいたのだという懸念が消えなかった。その心配と焦燥を奈美に向けるのは、どうやってもフェアではなかったので、ぼくは奈美の父を悪役にするという誘惑をもちこんでいるのだろう。ぼくだって、本気をだせばうまくやれるはずだった。もう一歩の努力を敢えて怠った。だが、むかしの思いが大量にほとばしる訳でもない。ときおり、思い出したように屋根のひさしから頭のてっぺんに水滴が落ちるだけだ。地肌に触れる。その驚きと戸惑いを、ぼくは大げさに受け止めようと努力していた。

「歩こうか?」

 ぼくらはどこに行くという予定もなかった。ただ、駅には向かっていた。昨日は奈美の家にいた。今日は、ぼくの家の近くに行くかもしれない。また、全然別のところに行くのかもしれない。ぼくはなんとなく疲れていた。その所為か電車に乗ると居眠りをしてしまった。奈美の身体にぼくは重心をのせた。他人ではないというのは結局のところ、こういうことや態度を言うのだろう。ささいな仕草に愛情の灯りを感じ、ささいな仕草に愛情の終焉を感じる。前の女性のそのようなあらわれを、ぼくはどこで感じてしまったのだろう。不思議なことにあんなにも重要だったことをいまのぼくは思い出せないでいた。しかし、寄りかかっているのをぼくはその女性だと勘違いしていた。名前を呼び間違えるようなことはない。だが、それは容疑としては小さなものでもなかった。しかし、ぼくは疑われずにいる。もしかしたら、奈美の父はその裏面を感じ取っているのかもしれない。自分の娘への愛情を幾分すくなく示す恋人。ぼくは目を覚ます。散々、ほかの女性のことを考えておきながら、目がさめていちばんはじめに見たいのは奈美の顔であり、姿だった。静かに流れる川の土手も、ぼくは今後も奈美といっしょに歩くのだろう。大雨が降っても、日照りがつづいたとしても。

流求と覚醒の街角(28)ベランダ

2013年07月21日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(28)ベランダ

 翌朝、奈美はベランダで洗濯物を干していた。ぼくは夢のなかにいつづけようと努力して目をつぶっていたが、鳥の声が耳に入ってくると、もう駄目だった。あと五分だけと未練たらしく望む平日ではないことも逆に眠りを遠ざける作用があるようだった。彼女の家のベランダ側には川があることによって景観を遮るものがなかった。ちょっとした空間があって、川沿いの樹木が爽やかさをもたらし、対岸のマンションもすべてが露になっている訳ではない。春になれば、それは多分、ピンクに色づくのだ。そのときには、ぼくも早起きをしてそのベランダから花々を見ようと思う。

 彼女は鼻歌をうたっている。大きなものが干され、乾燥をまつ。

「起きた?」

 彼女はこちらに視線を向けないまま、そう言ってラジオをつけた。ぼくは首元に汗をかいた感触があった。
「洗濯したのに、悪いな。なんだか汗ばんでる」
「また、明日でもするからいいよ」
 彼女は背中を向けたまま冷蔵庫のなかを点検している。
「冷たいものでも飲む? あったかいのがいい?」
「冷たいの」ぼくはそう言ってからベランダに向かった。自転車に乗った野球少年らしいユニフォーム姿の子が通り過ぎるのが見えた。「このそばにグランドなんかあるんだっけ?」
「学校のなかじゃないの。たまに夜遅くまでやってるから。仕事帰りに見るときもあるよ」

 鳥が木を渡っている。その生き物はこちらを見る。部屋のなかのぼくらの関係性を確認するように。
「この景色、いいよね」奈美は直ぐ、後ろにいた。手にはグラスがあった。「あそこのベンチに朝、散歩なのか老夫婦がすわっていて、ほのぼのとしていいなとか思うことがあるんだ。いまは誰もいないけど」
「ここにいるだけで、いろいろあるんだね」
「生活がね、あるから」
「じゃあ、引っ越したくない?」
「いまのところは。通勤もそれほどきつくないし」
「どれぐらいだっけ?」
「三十分もかからない」

 ぼくはアイスコーヒーを飲む。無意識に自分の頬を撫でると、ざらざらとしたものが手に触れる。次に髪に触る。寝癖でぼさぼさだった。好きな相手に気に入られるため、髪形や清潔感を最前にもってくる。当初は。しかし、夜もいっしょに過ごすようになれば、見られたくない部分も見られてしまう。そう思いながら、後ろを向くと、奈美の顔には化粧の気配はなかったが、髪型はきちんと整っていた。
「どうしたの?」
「頭、ぼさぼさで悪いなって」
「なに、格好をつけてるの」

 ぼく用の歯ブラシがある。それを咥えて鏡に向かう。洗面所は玄関側にある。だから、川とは反対だ。こちらには小さな路地があって、昨日、寄ったコンビ二もその先にあった。ぼくらは仕度を済ませ、外にでた。川沿いを歩く。先ほど、奈美が言ったベンチにぼくらも座ってみた。朝の散歩の途中の一休みをしている老夫婦。彼らは激しい喧嘩などしない年代になっているのだろうと勝手に決める。すべてを乗り越えた優しさとなだらかさがその関係を美しいものにする。一飛びにはできないものだ。ぼくは奈美とそういう接点がつくられていくことを望んだ。すると、もっともっと互いのことを知ることが必要だった。奈美の化粧のない顔を見て、ぼくは寝癖を見られる。風邪をこじらす時期もいつかあるのかもしれない。互いの看病もあって、いたわりも生まれる。いつか、そうなるのかもしれない。

 ぼくらはまた歩き出す。校庭があって、その周囲には小さなサイズの自転車が停まっている。なかでは金属バットの音がする。彼らは、何時間ぐらい練習するのだろう。そして、彼らも誰かのことを好きになる。何十年も経って、朝の散歩時にベンチにすわる。やはり、誰一人としてそんな未来を想像していないだろう。今日も全力で走れるならば、明日はもっと速く走れるのだ。昨日より打ったボールの飛距離は伸び、自転車も大きな車輪のものになる。好きになった少女たちも昨日より確実に大人になり、きれいになるのだ。

「あれだけ動いたら、ご飯もおいしいでしょうね」
「お母さんも作り甲斐があるよ」
「やっぱり、男の子と女の子じゃ食欲が違うもんね」

 たくさん食べる子どもがいいのか、愛想の良い可愛らしい女の子を育てる方が楽しいのか、ぼくには分からない。どちらもいればいいのだろう。だが、どちらかでも幸福に間違いはなさそうだった。

 ぼくらは駅に向かって歩いた。この駅を奈美とは無関係に想像することは今後、できなくなる。ぼくらはそういうものを採集して生活しているのだ。あの場所。あの音楽。あの川。あのベンチ。そして、あのベランダ。奈美の家のラジオ。彼女の鼻歌。すべては消え去るものであり、すべてを通過して忘れてしまう人間でもあるぼくだった。あの少年の日の頑張り。スポーツをしている姿をあの当時の意中の少女が見てくれるという喜び。だから、もっと頑張ったのだ。ぼくは頑張りと安定との差を考えていた。継続と最初の芽生えのようなものも。あるものと、なくなったもの。そう思っていると電車がきた。ふたりは同じ車両に乗る。同じところに運ばれる。ベランダから見えるベンチは動かないが、この座席は移動をしてくれるのだ。それは時間でもあり、場所だった。昨日より速く走ることなど望んでもいないし、もう無理だろう。その代わりに別の乗り物があるのだ。車窓から見知らぬ家のベランダが見える。あのなかにも、いくつもの暮らしがあるのだ。確かめてみなくても実際にあるのだ。踏み切りの音が聞こえるように。

流求と覚醒の街角(27)電球

2013年07月20日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(27)電球

 奈美の家にいる。電気のスイッチに触れてもいないのに、急に暗くなった。天井を見上げると、いままで照明器具の影響が及んでいたはずのところは真っ暗だった。

「停電?」
「違うだろう、テレビもついているし」その他、さまざまな時刻の点りが部屋中にあることを知る。「替えは?」
「ないよ。ここに住んでから、はじめてだから、こういうの。どういう形なんだろう」彼女の腕は想像につられて円を作った。「見てくれる?」

 ぼくは椅子をもってきて、照明器具のカバーを外した。奈美はそれを下で受け取る。
「汚いね。雑巾あったかな」

 ぼくは数字の組み合わせをメモして、出掛ける。
「電気屋は開いてないけど、コンビ二でも置いてあるだろう。買ってくるよ」
「ありがとう」

 ぼくは靴をつっかけ歩いている。いままで、普通に点っている間は気にもしない。それが停まったときに、はじめて存在があらわになる。だが、新しいものに取り換えさえすれば済むことも多くある。この場合も。もちろん、済まないこともたくさんある。喪失というものが、本質的にどういうものか分からずにいたころの自分を思い出す。そして、店の前に来てもぼくは敢えてその状態を取り戻そうとしていた。

 蛍光灯の品数は少なかったけど、望んでいるものはきちんと置いてあった。予備はいらないだろう。そもそも、別の部屋はどういうものを使っているのかも分からない。トイレは? 風呂場は? 考えてみれば、自分のアパートですら具体的な形状を思い出せないでいた。

 ぼくはレジで代金を支払い、店を出る。どこの町でも夜と自分の活力をもてあます若者が店の前にいた。彼らのひとりはスクーターのエンジン音を無駄に響かせていた。ヘルメットの紐を首にかけ、赤っぽい色の頭髪を外灯のしたにさらしていた。奈美は、ここでひとりで買い物にくるのだろう、と不安な気持ちを抱きながら思い出す。

 ぼくはまた元の道を歩いている。数字の書いてあるメモをレシートといっしょにゴミ箱に捨ててしまった。明日になれば、もう同じものを覚えているかも分からない。蛍光灯など、似たり寄ったりなのだ。そこに、個性などそうはない。女性というグループの数人。奈美と前の女性。彼女たちは別の女性だ。ぼくは歩きながら、前の女性の顔を思い出そうとしていた。だが、段々とその通常だと思っていた過程が困難なものに移ってきたことに驚いていた。いつか、まったく思い出せなくなる日だって来るのだ。そう遠くないうちに。その状態もやり切れないものだった。だが、いくら思い出せなくなったとしても、ぼくには痛みだけは残ってほしいと思っている。それを手放す勇気も決心もなかった。だが、未来のことはなにも分からない。ただ、痛みだけがぼくが彼女を愛した確かな証拠になり得るのだ。陪審員は信じないにしても。

 部屋に戻り、ぼくは椅子の上にまた乗った。何度か金属的なものがこすれ合う音がして、ぴったりとはまった。それから、きれいに拭かれたカバーをはめた。

「点灯!」
 と、奈美は言った。まるでオリンピックの聖火を見守るように。
「点いた」
「明るくなった。ねえ、そんな顔だったの?」奈美はふざけたような声を出して、椅子から降りるぼくの顔をのぞきこんだ。
「去年も来年もずっと、おそらくこんな顔だよ」

 古くなった蛍光灯を新品のものが入っていた箱に入れる。あとはゴミに出すか、正当な廃棄場所にもっていけば終わりだ。その後、回収されてからどういう経路をたどるのかは知らない。痛みも喪失もない。また、日常が戻る。スイッチを押せば、電気がつく暮らしに。
「コンビ二の前に、あまり性質が良くなさそうな子たちがいたね」
「そうでもないでしょう。偏見に過ぎない?」
「そうかね」
「大事に思ってくれてる?」
「それは、もう」
「そうなんだ。でも、ひとりで明かりがないところで待っているのも淋しいものだった。いっしょに買いに行けば良かったなって、ちょっと後悔したぐらい」
「こんな短い時間なのに」
「でも、待つってそういうことでしょう」
「待たせる方がいい?」
「どっちかなら、そう」

 ぼくはトイレに入る。自分の家の殺風景なそれとは違い、手がかかっている場所だった。何枚か絵葉書が貼ってある。多分、スイスかどこかの緑の景色。ぼくは上を見る。やはり、電球がある。日に何度かしか点さないものだけど、重要なものである。一日のうちに数回しか使わないものもたくさんある。例えば、歯ブラシ。数日に一度のものもある。洗濯機や掃除機。月に一度はどういうものが該当するのだろう。年に一度は何があてはまるのだろう。

 貴重なものが段々と価値を目減りさせていく。真新しいスーツは、いささかくたびれてくる。しかし、失ったがゆえに価値を増すものもあるのだろう。若さや情熱。新鮮な気分。トライしてみようとなにかを決断したときの気持ち。コンビ二の前の子たちも何かに挑もうとするのだろうか。それを評価してくれる社会や大人の目はあるのだろうか。
「シャワーを浴びるね」と言って奈美は消えた。そこにも電球がある。真っ暗ななかで自分の汚れを洗い流すのも不安なものだろう。もう子ども時代のような実際の汚れを目にすることはなくなる。服もどろどろになるほどは汚さない。爪は砂遊びのためのものではなく、色彩を目立たせるために使う箇所なのだ。ぼくはいたずらで一瞬だけ風呂場の電気を消す。なかから悲鳴のような声が聞こえ、軽くぼくをののしる声がつづいた。

流求と覚醒の街角(26)文房具

2013年07月19日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(26)文房具

 奈美は手紙を書いている。お世話になった方と継続的に手紙をやり取りしているそうだ。儀式のように、その為の専用のペンがあった。酷使されなくても時間の経過とともにものは劣化していく。彼女は頑なにそのペンではないと駄目だと言った。だが、どこにでもあって簡単に手に入るというものではなく、一部の場所で、一部の愛好家のために売られているらしい。ぼくも、奈美の手元にあるのを見るまで、その存在を知らなかった。野球選手が愛用のバットの握り部分で成績の好悪が分かれてしまうように、彼女の気分もそれでないとどうやら乗らないらしかった。

 なぜなら、そういう交流をはじめようとしたときに、ふたりでそれをセットで買ったのだ。相手がいまだにそれを使っていることは判然としないが、手紙のインクの筆跡やにじみ具合で、多分、彼女もまだ使用しつづけていることは予想がつくと言った。だから、自分が先にやめる訳にはいかない。まあ、理屈としては、また感情を納得させるためだけだとしても当然のことなのだろう。

「どんなことを、いつも、書いてるの?」

 普通の好奇心の持ち主として、ぼくはそう訊く。彼女が夢中になって、ぼくのことを忘れて書いたり読んだりするぐらいだから、とても大切なことが認められているのだろう。だが、彼女らが会うことはなく、ぼくは写真を見てもいなかった。もちろん、無許可で手紙を読むことなどもしない。秘密は、きちんと見守る側の意志が働いてこそ、秘密としての立場が守られ、貴くなっていくものだろう。勝手な解釈でありながらも。

「普通は、言わないでしょう?」
「言わないね」ぼくは自分が秘密にしたいことを考えるも、まったく思い浮かばなかった。「でも、会いたくならないの? それが、いちばん手っ取り早い」
「会えないところにいるんだよね」その言葉に反応したぼくのきょとんとした顔を認めてから、「嘘だけどね」と付け加えた。「会って話したら、恥ずかしいようなことを、もうお互いはたくさん知ってしまっているし、会話としてリズムが合うのかももう思い出せない」ふと、さびしい様子を見せて、奈美は答えた。
 ぼくらは文房具屋に向かっている。

「例えば、ひとりでお留守番をして、お母さん、少し遅くなるけど、このおやつ食べてて待っててね、というメモがあるでしょう」奈美はその情景を思い出したかのように一瞬だけ目をつぶって言った。
「あるの?」
「あったの。あれが、ひとにできる、家族にできる最高のプレゼントじゃないかなと、最近、思っている」
「奈美は字もきれいだし」
「きれいじゃないよ」
「もし、外回りでもして疲れて、奈美みたいな字で、オフィスの机に、お疲れさま、みたいなメモがのこってたら男性ならイチコロだよ」
「なんだ、それじゃ、手紙信奉者じゃない」味方が増えたことを喜んだような口調だった。「そうかな。じゃあ、今度やってみる。でも、相手が浮かばないけどな」

 ぼくらはそれからしばらくして店内に入った。ノートがあり、もちらん一対となるペンがある。しゃれたデザインの小型の照明器具もある。机の端にあれが置いてあれば、ずっとそこに座っていたくなるようなものだった。さらには、トランプなどもあった。そして、カレンダーもたくさんの種類が置いてあった。この時期から、あらたにカレンダーなど揃えるひともいないだろうにと首を傾げたくなるほどのたくさんのものがあった。

 ぼくはぶらぶらと興味をひかれるままに動いていたが、反対に奈美は一直線に目的の売り場に向かった。ぼくは、少し経ってからその場所に向かった。ショーケースのなかには、これまた多くのペンや万年筆が横たわっている。それはもう道具ではなく、装飾品の一部なのだというものもあった。指紋をつけるのも惜しいぐらいなたたずまいで。

 奈美の背中が見える。前には長身の男性店員が奈美を見下ろすように立っていた。彼はいつ文房具を売る機会を見つけたのだろう。それとも、老舗というのは親の役目を譲り受けることを総体的に指しているのだろうか。それにしては、男性店員もそれなりにいた。

「どうですか、滑らかでしょう?」近くによると、彼の声が聞こえる。低く抑えられた声。きちんと抑制された声質と感情。驚きはないが、満足感は伝えられる音。
「そうですね。いままで、大事にしていたものと同じ感触」
「どれぐらい、お使いだったんですか?」
「高校を卒業したあとだから・・・」それだけで通じると思ったのか奈美はそれ以上言わなかった。
「もっと、もつと思うんですけどね」店員は少し不服らしかった。自分の分身があまりにも早く寿命を全うすることについて。
「思い出の品だから、丁寧につかっていたのに」そこで、奈美は振り返った。「やっぱり、あったよ」

「じゃあ、これからも書けるね」ぼくは学生時代に習ったことわざを思い出していた。筆を選ばないということを。前の女性の母は画家だった。だから、彼女の家にはたくさんの用途に合わせて筆が並べられていた。何でもいいというのは素人の考えに過ぎないのだろうか。相性もある。馴染んだものを失ったさびしさがある。奈美の母は出掛ける前にささっとメモをテーブルの上にでも置いたのだろう。そのささいな行為が優しさの源だった。ここにあなたがいて、これをあなたは読むという確信がともなって。奈美は手近にあるメモ帳に文字を書いた。いや、それは文字ではない。ただの回転の軌跡。それでも、ぼくは奈美の口かも漏れる声や湿度が加わった音でぼくに話しかけてほしかった。それ以外は、具体的に幸福を持ち込むのかどうかも分からなかった。

流求と覚醒の街角(25)試聴

2013年07月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(25)試聴

 奈美の両耳は大きなヘッド・ホンで覆われている。いまはCDショップにいて、彼女の好きな音楽家の新譜が発売されたばかりなのだ。彼女はすべてを揃えているので当然、購入するのは分かっているのだが、一曲まるまる直ぐにでも聞きたいというので、それを耳に密着させていた。彼女のこころも感情も、いまは音楽がもたらす陶酔に奪い去られている。曲の長さは、20数分あるらしい。ぼくは別のブースに行くことにした。

 そこにはレイ・チャールズがいる。感情を出し惜しみしないタイプの音楽が所狭しと置かれている。並べられている棚を探り、ぼくはジャケットだけで価値を評価する。その行為は無謀でもありながらも、間違う要素もそれほどはなかった。大体は予測がつき、また予想を上回る何かがあることも実際に耳にすれば得られることも予感できた。だから、ぼくも同じように試聴をはじめた。数枚のCDが機械にはいっており、順番に聴き始めた。やっぱり、こうだよなという安心がぼくの胸元にせまってくる。奈美の聞いている音楽にはひとの声が含まれていない。それも音楽ならば、ぼくが求めているものも紛れもなく音楽だった。よりヒューマンな音楽だった。

 ぼくはまた別のジャンルの場所に行く。その際に奈美のいるところも通りかかる。彼女の背中が見える。足も見えて、華奢な靴も見える。その女性のこころを奪うなにかが自分以外のものであることを実感する。それも、仕方がないのだ。平日の多くの時間は彼女のこころも思いも仕事が割合として多く占め、夕方も過ぎればぼくのことを思い出すのかもしれない。自分もまったく似たようなものだった。それは熱情が足りないという類いのものでもないのだろう。ぼくらは10代の半ばのすべてがみずみずしく新鮮なもので取り囲まれている状況ではなかったのだ。社会を構成する、それははずれの場所にぎりぎりにいるのかもしれないが、そこにも場がある人間だった。

 だが、ぼくは前の女性のことは寝ても覚めても先頭にもってきていた時期がある。いや、もってきたという表現も間違っていた。勝手にぼくの気持ちのいちばんを占めてしまっていたのだ。それが急になくなっても、しばらくはやはり傷みとともにいちばんを占めていた。

 ぼくはその女性と聞いていた思い出が濃密に含まれている音楽のジャケットを手にする。その行為だけでさまざまなものが浮かび上がる。ある日のことが映像や言葉や匂いというデータを含んで、そこにあらわれる。ぼくの胸はその事柄に影響を受ける。懐かしさと甘酢っぽさと感傷と優越感と喪失がミックスされたものをもってくる。家に帰ったらそれを深めるために、再認識するためにもう一度聴こうと思った。

「それ、どんな音楽」

 油断しているぼくの背中を奈美が軽く叩く。
「これね・・・」
「うん?」奈美は答えを待っている。ぼくの口にも舌にも答えは準備されていない。ぼくは、今後、何を聴けば奈美のことを思い出すのだろうかと、そのことばかり考えようとしていた。
「やっぱり、買うの?」

「うん、部屋で大きな音で聞きたいから」そう言うと、奈美はプラスチックのケースをレジに持っていった。ぼくは、はじめて買った、あるいは聴いた音楽のことを考えていた。無骨な黒い円盤。いま振り返れば、あのぐらいの大きさを伴ってはじめて所有という感覚が生まれるような気もする。すると直ぐに奈美は戻ってきた。

 ぼくらはお茶をするためにある店に入った。静かに音楽が流れている。トロンボーンののどかな音色が休日の午後には相応しかった。その音色は誰の声よりもぬくもりがあるように響いた。声というのもおそらくすべてのひとが違うのだろう。電話を通しても、すこし電子的な感じがするときもあるが、それが聞き覚えのある声ならば簡単に分かる。体調や機嫌の浮き沈みさえ理解する。しかし、自分の声をはじめてテープで聞いたときは、それが誰の声かが分からなかった。結局は、自分というものを外部からあらためて判断しようとすることがとにかく難しいのかもしれない。

「自分の声、聞いたことある?」ぼくは会話をそう差し向ける。
「うん? あるよ、当然」
「違うよ、テープとかで録音したものをあらためて」

 ぼくらは留守電できくのも家族や友人などの伝言であり、自分以外の声を耳にするのだ。意図しなければ。
「あるね、気持ち悪かった」
「もし、歌手とかで、急に自分の声を、こういう場所できいたら、やっぱり、同じなのかね」
「それは、もう違うでしょう。そういうことに、いつの間にかなれちゃうでしょう」

 ある種のデザインをするひとは、自分のつくったものを採点する必要がある。時間の経過とともに手直しをしたくなる欲求もあるだろう。だが、それは生身とか肉声とかとは違ったものだった。密着したものではなく、客観視しやすくもある。ぼくは、その午後にしゃべる奈美の声を気に入っていた。そのことを納得するために、かなりの時間を要してしまったようだった。それは、それで悪いことではまったくなかったのだが。

流求と覚醒の街角(24)靴下

2013年07月14日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(24)靴下

 靴下に穴が開いていた。奈美の家にあがると、ぼくはそのことに気付く。擦り切れそうになったり薄くなっているとも今朝履くときは思っていなかった。ただ、一日を終えて、急にこの状態に気付いたのだ。

「うちのお父さん、そういうのをいちばん嫌ったな」と奈美はひとこと漏らす。「母親の管理能力のことも。洗濯を終えてたたむときに処分できるだろうって。合理主義」

 ぼくは聞くともなく姿勢で耳に入れ、それから素足になった。新しい替えもない。帰りにどこかで買おうと思った。良い機会なので爪切りを借り、自分の爪を切った。その行為自体が恋愛に神秘など求めていない証拠だった。ぼくは前の女性が爪を切る姿など見たこともないことを知る。ぼくが切り終えると奈美も同じように爪を切った。手はどこかできれいに手入れされているのだろう。足というものは普段は隠れ、ないがしろにされている存在なのか。一日のなかでもっとも働かされながらも文句も言わず、感謝の言葉も求めず、また明日がはじまるまでじっと黙って休息をとる。たまに、どこかの角でぶつけたときぐらいに自己主張をするだけだ。まったくもって静かな生き物だ。

 だが、爪を切る際にはその無防備なものも注視される。しかし、ほんの数秒だ。また気にされない存在に直ぐに戻る。理にかなったダブル・プレーの名手のように。はやる気持ちは次の回の攻撃へ。
 ぼくらは普通に夕ご飯を共にし、夜になれば抱き合った。ぼくは奈美の足のうらをくすぐる。なぜか、しない訳にはいかなかった。そのうちに彼女は寝る。ぼくは、なぜか眠れなかった。羊の数ではなく、生涯で履く靴下の数を予想する。さらには、別のジャンルでも考える。そして、自分は何人のひとのことを、自分以上にという意味合いで好きになるのか、好きになれるのか考えていたが、そのうちに眠ってしまった。

 翌朝、出掛けにぼくはやはり穴の開いた靴下を履かざるを得なかった。いっしょに奈美と外出して、駅ビルのなかの洋服屋で3足をまとめて買った。サイズを見れば、それは試着などいらないものなのだ。ぼくは早速、トイレでそのうちの一つに履き替えた。奈美は別の洋服屋に行った。ぼくはまた靴を履き、靴下の存在のことなどすっかり忘れた。

 ぼくは昨夜、熟睡をしている積りだったが(そもそも意識がある状態で寝ているはずもないが)それでも夜中に目を覚ました。目覚まし時計が発する時刻を気にしながら、ぼくの隣には何人の女性が寝ることになるのだろう、とも考えていた。それは安心が伴うというのが必然的な条件でもあるようだった。奈美はぐっすりと寝ていた。化粧のない顔。いくらか若返って幼く見える顔。暗い中でもそれらのことは分かった。いや、あえて、分かろうと努力しただけなのかもしれない。

 ぼくは洗面所で手を洗い、奈美の姿を探した。いくつか店のなかを見ると、彼女の後ろ姿があった。それほどかかとの高くない靴を履き、足は素足だった。指の爪には緑色が塗ってあった。進めという信号の合図のように色鮮やかなものだった。

 彼女はいくつか目ぼしいものを探しながらも結局は洋服のどれも買わなかった。ぼくらは外に出て信号が青になるのを待っている。だから、いまは赤が点灯していることになる。ぼくは、生涯、どれほどの時間を信号が変わるのを待つために時間を費やすのだろう、と考えている。ぼくは何人に告白をして、何人に了承を得られるのだろう。その為に何回、電話をかけるのだろう。しかし、もう新たな誰かを好きになることもないのかもしれない。今回で打ち止め。来年の春に桜が咲いても、ぼくはずっと同じひとを愛し、その継続に力を使うことになるのだ。それも悪くない。靴下はけっして穴を開けることはない。もし、そうなる可能性があれば、きっちりと繕うことにしよう。そのノウハウを入手することにしよう。

「靴下、気に入った?」と、奈美が質問をする。
「気に入るも何も、下着や靴下にそんなに関心をもったこともないよ」
「やっぱり、男性だね」と、奈美はあきれたような表情を浮かべながら言葉をもらした。「もし、わたしがつまらない格好をしてたら、どう?」
「それも、困るだろうけど」

 ぼくは、何度そういうチャンスにめぐり合うのだろう。めぐり合う機会を見つけるのだろう。そして、相手と自分の気持ちを焦らすのだろう。ぼくはそのために何分時間を使うのだろう。穴があいた靴下はどこかに消えた。奈美は半永久的にぼくの前から消えないだろう。実際の人間は変化をしてしまうかもしれないが、今日の奈美はぼくのなかに居場所を作る。確証はないが例えば、ぼくの気持ちに大きな穴があって、すっぽりと落としてしまうこともあるかもしれない。それもまた奈美の父は嫌うだろう。すると、信号は変わった。靴の中には布がある。奈美もいくつもの生地にかこわれている。だが、靴下は履いていない。そのためもう一度、爪を見る。10という数字は整然としているが、その形自体は無秩序の産物のようでもあった。それでも、ぼくは良かったのだ。休日に、いつもながらの秩序などいらないのだ。このことも、奈美の父は嫌うのかもしれないが。

流求と覚醒の街角(23)粒子

2013年07月13日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(23)粒子

 ぼくと奈美は、なだらかな丘のうえを歩いている。その丘の斜面から見下ろすと海も見えるので、山にいるという感じもしない。海鳥もそう遠くないところを飛んでいる。悲鳴のような泣き声を時おり空に撒き散らして。平野がずっと意識もなくつづくという場所ではないようだ。日本の海岸線の多くはそうかもしれず、山に遊びに行くという行為と、海に行くという楽しみをはっきりと分けていた都会育ちの自分にはよく分からないものだった。

 ここにとどまっていると空気が澄んでいることが理解できる。必要以上に呼吸を調節しなくても、自然と身体のなかまでも洗われていくようだった。視野もすこし拡がったような感じもする。光の粒子が葉っぱに当たり、その粒がはねかえって自分に当たる。奈美の髪にも注がれる。世界は輝きに満ちていた。

 なだらかな丘は微妙にくだったり、登り坂に変化した。ぼくらはどこかに向かっている訳でもない。かといって、立ち止まったままでいるには快活すぎた。そして、気分も高揚させるような日差しと空気が充満していたのだ。すると、小さな神を奉ったような場所があった。

「祈ろうっか」と、奈美は無邪気に言った。そして、石が点々と敷き詰められ、その石の表面も磨耗して滑りやすそうなうえを奈美は軽やかに歩いていった。ぼくは意味もなく後を追わず、その場に立ち尽くした。「どうしたの?」と、奈美は振り返って訊く。すこし肌寒い風が吹いた。カサカサと乾いた音を葉っぱは鳴らした。

 ぼくは自分の気持ちを分析する。前の女性と別れたことは不本意だった。失ったものが大き過ぎて様々なものに頼ろうとした。しかし、何をしても、それはもう戻ってこなかった。ぼくはあの日を境に自分の力以上になれそうなものを信じなくなり、また許そうともしなかった。頼ることを自分に許そうともせず、せっかく頼ったのに改善してくれなかった何かを許してもいなかった。

 奈美はあきらめてひとりで歩いていった。ぼくは立ち止まったまま反対側に振り返り、ぼんやりと小さく見える漁船などを見た。

 しかし、ぼくは失ったものを過大に評価して祈るのをやめたが、反対に新しく与えられたものを喜びとともに気軽に有り難がっても良かったのだ。いま考えれば。その後ろ向きな考えが祈りや憧憬を否定し、未来の道をすぼませているようだった。奈美はぼくとの出会いをいままさに感謝しているのかもしれない。その永続性を願っているのかもしれない。目をつぶり、首を少し下に向け。

 ぼくは自暴自棄に陥りそうだった過去の自分をそこで取り戻していた。あれは、祈りで解決するものではなかったのかもしれない、数本の電話や、いくつかのプレゼントが功を奏したのかもしれない。いや、自分の気持ちをありのままに、誠意という状態さえ忘れたぐらいに無心にもう一度ぶつかれば良かったのだ。だが、ぼくはしなかった。その責任をどこかに、何かになすり付けようとしているのだろう。それは誰かにとっても迷惑だろうが、ぼくはそうでもしなければ生き延びられなかったのだ。少なくとも、あの当時は。

 ぼくはそこで目をつぶる。感謝したいことを探す。やはり、奈美と会えてよかった。必然的に恋人になるには前の女性との関係が清算されていなければならない。辛さや過酷さを伴うとしても。ぼくはあの経験を通して、女性に求めるものが変わったのだろうか。変わるということは一体どういうことなのだろう。あの素晴らしい要素をもっているひとを他のひとにも求める。それは不可能なことだ。さらに不可解でもある。あの嫌な部分だけは絶対に拒絶しよう。その決意がいらないほど、前の女性に対して、ぼくの採点は甘かった。過保護な親以上にぼくはただ惚れていたのだ。

 奈美はだいぶ経ってから戻ってきた。そして、「清々しい場所だったよ」と言葉を告げた。
「どんなことを願うの?」ぼくは、興味本位で訊いた。
「内緒だよ」奈美はぼくの横に来て、やはり同じように海岸線を覗き込んだ。「ほんとは、わたしのお父さん、もっと親しみやすいひとになればいいのにな、とか」
「なんだ、ぼくのこと、認めてないのか・・・」
「違うよ。いつも、そうだから」

 奈美もまた別れを経験しないとぼくには出会わなかったのだ。古い童話のように決まったひとりが存在するわけではない。擦りむいたひざや、縫った傷を通して、怖さや痛みをかばいながら、ぼくらは新しいものに向かうのだ。しかし、許さないという感情も根底にはのこっている。それは、意識しすぎているという当然な回答につながる過程だった。ぼくはあの小さく見える漁船を憎みもしないだろう。自由に飛び回っている鳥を憎みもしない。奈美の父はぼくを許さなくなることはあり得た。最愛の娘を傷つけでもしたら、ぼくは憎悪の対象になるのだ。人間が生きるということには、些細でもない困難やとげが待ち受けているようだった。だが、それでも、奈美に出会えたことは良かったのだ。

 ぼくらは長い階段をくだる。奈美があそこで願ったことはそのまま浮遊し置き去りにされてしまう。それを何かが適切なタイミングでつまみあげ、奈美の現在の場所を探しもせずに与えてくれる。彼女に幸せだけが来ればいい。ぼくは、そういう類いのことを願っても良かったのだ。階段を降り切ってしまった自分は、まだ自分だけで解決することを求める人間になった。ぼくは奈美を幸せにする力を有しており、それと同時に奪われてしまう機会があれば、それさえも避けられない無力な男でもあるのだ。だが、いまは横にいる。考えてみれば、それで充分なのだった。ぼくは振り返って坂の上を見上げる。草と木しか目に入らず、誰かの願いが浮遊している痕跡も無論どこにもなかった。

流求と覚醒の街角(22)スピード

2013年07月07日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(22)スピード

 ガソリンスタンドで停まって給油してもらい、サービスエリアで一定した姿勢から解放され少しの間だけ寛いだ。ひとが移動することには疲れがともなう。だからといって敬遠することも無視することもできない。多くのひとがそうしている証拠がその場所にはあった。

 奈美は助手席で眠った。20数分間だけ眠った。ぼくは小さな音量で音楽を聴き、車が放つノイズも同時に聞いていた。ひとはしゃべらないと眠くなる。刺激も減れば、さらにその誘惑は加速する。そして、解消するために車を停めコーヒーを飲んだ。

 また車に戻る。印象的に、さらには効果的に車が使われている映画のことを話題にした。ぼくは、口には出さなかったが、「タッカー」という不思議な映画のことを先ず思い出していた。発明家のようにその主人公は扱われていた。未知なる斬新なものを作ろうとする願いは、利益にかかわるということで体制側につぶされる運命になる。競争を蹴散らした時点で、利益は転がってこようとも、そこは敗者の烙印が押される。企業という形のないものに、敗者の責任など無関係なのかもしれない。しかし、個人は自分の能力を閉ざされたことは、ずっと記憶に残りつづけるのだろう。

 ぼくらは、競争する社会に暮らしているのだ。ぼくは奈美をずっと愛すると思っているが、より彼女を愛するひとも出てくるのかもしれない。ぼくは、負けを認めるのだろうか。それとも、うまくかわすことができるのだろうか。

「フレンチ・コネクション」と奈美は言った。
「随分、古いね。見たこと、あったかな」ぼくは感想を漏らす。しかし、あのような運転はここではできないな、と思ったぐらいだから断片は覚えているのだろう。
「お父さんが、好きだったから、何度か、ビデオで見せられた」

 奈美のお父さんの情報が増える。ぼくのことをどう思っているかはいまだに分からない。競争社会なのだ。父が理想とする娘の恋人、いつか夫になるひとの合格点をクリアできるのか、それとも不足があるのか、不足がありながらもそれは我慢できる程度なのだろうか。そもそも、最初から論外だということもあるだろうが、会ってくれたぐらいだから、それも悲観しすぎているかもしれなかった。彼女の父はなにを競争するのだろう。自分の気持ちと現実だろうか。ならば、競争ではなく、比較とも折衷とも呼べた。

 いくつか映画の話題をした後に、奈美はまたうとうとした。ぼくは無口になる。今度は眠りの誘惑は近づいてこなかった。その代わりに前の女性の寝ている姿を思い出していた。

 彼女と飛行機に乗っている。彼女はいまは通路側にいた。暗くなった機内。ぼくは映画を見ている。もしかして、そこでフレンチ・コネクションを途切れ途切れに見たのかもしれなかった。彼女の頭はぼくの肩に乗せてある。寄りかかるその重みをぼくは一生、大事にしようとそこで決意したはずだった。だが、やはり、ここも競争社会の一部なのだろう。彼女の気持ちを引き止めることはできない。だから、ぼくはいまこうして、カー・チェースの映画を気に入っている女性と移動しているのだ。確実に、安全運転で。

「スピードか、あれはバスだけど」
「そうだね、あったね」ぼくは誰かと見たはずだ。その誰というあやふやな存在にしているが、答えはとうに出ている気もする。「でも、みな暴走しているものばっかりじゃない」
「この渋滞にいらいらしているのかもしれないね」
「でも、いつか着くよ」
「着かないと困るから。明日から仕事」

 ぼくはネクタイを結び、愛想笑いをする。何か偉大な発明をすることは求められてもいない。目の前に積まれているものを片付け、利益につなげるのだ。それで、ガソリンを入れられるぐらいの給料を手にする。あのタッカーという映画の主人公はその後、どうしたのだろう。いろいろなひとのその後をぼくは知らないことを理解する。知る権利があるのは家族やいっしょに働いているひとたちぐらいだろう。異動でもすれば、その状態も危なっかしくなる。奈美のその後。彼女は妻になり、母になる。その相手として自分はトップに立っている。しかし、これは競争でも何でもないのだと思おうとした。これには相性が大きく関わってくるのだ。ぼくらはいっしょに寝起きし、ご飯を食べて休日をともにした。まったく悪くない関係が構築されている。だが、不意にぼくは以前の女性を思い出すことがある。理由としてはよくは分からない。自分でも、奈美と付き合う前の空白の時間にきれいに置き去ってきたと思っていた。だが、奈美の一挙手一投足にも彼女のおぼろげな幻影が隠れていることを知る。

「死刑台のエレベーターがあるか。車が盗まれて、カメラも盗まれて、犯罪の証拠が簡単にひとの手に渡る」そう言うぼくは前の女性と撮った写真のことも思い出していた。ぼくか彼女しかもっていないものが確かにある。彼女はまだもっていてくれているのだろうか。もし、処分してしまえば、ぼくだけしか有していないことになる。でも、そのぼくも在り処をはっきりと思い出せないぐらいだった。

流求と覚醒の街角(21)捕獲

2013年07月06日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(21)捕獲

 ぼくが目を覚ますと、もう奈美はいなかった。そこが自分の家ではないことをぼくは熟睡しながらも、はっきりと理解していた。そこに奈美と来たことも、くっきりと分かっていた。突然、彼女が消えるということもないので、どこかに散歩に行くとか、こまごまとした、例えば洗面道具とか水とかを買いに出かけたのだろうとぼくはまだまだ眠い目をこすりながらも考えていた。

 所定の位置と勝手に決めた台の上には鍵がなかった。だから、ぼくがシャワーを浴びても彼女は入ってこられるだろうと安心して、ぼくは服を脱いだ。大きな鏡は自分が10代でも20代の前半でもないことをありのままに告げている。かといって悪いことでもなくこの状態を維持すればいいのだ、とぼくはひとごとのようにぼんやりと小さな決意をしていた。

 実際は違うのだが、シャワーの穴からも潮のにおいがするような印象があった。海沿いの町。大きなホテルでもなく、開発業者が回収を見込んで手をかけたリゾート地でもない。今後をどのように展開するかも視野にいれていないような場所だった。その朝にぼくはひとりだった。

 タオルを身体に巻きつけ、部屋にもどってテレビをつけた。ローカルなニュースは今日の天気を知らせてくれる。赤い太陽のマークがこれからの日程の快適さの分量のすべてを教えてくれる。すると、鍵があく音がした。

「起きたんだ」彼女はテーブルの上に鍵を置いた。もう片方の手は、後ろに隠されている。
「うん。どこ行ってたの?」
「昨日の河」
「なんかあった?」

「カニを見つけたかったから。何匹も、いたよ」奈美は後ろの手をもとに戻してビニール袋を前方に差し出した。そこには不思議な色の甲殻類がいた。彼女は薄い皿にも似たお盆のようなものをお茶のセットの下から探し、そこに水ごとカニを入れた。それが済むとベランダの窓を開け、そこに容器ごと置いた。
「やっぱり、いたんだ」
「なんか、信じてなかったみたいだから。違うかな、わたしも見たこと、信じていなかったのかも」彼女は屈んでじっとその姿を見ている。「可哀そうだから、あとで戻すけど。ちょっとだけね。ちょっとだけ、わたしにつかまる」
「ちょっとだけ、つかまる。奈美も、ぼくに」

「わたしは、ずっとだと思うけどね・・・」と、奈美は小さな声で言った。大きな鐘を打ち叩いて表明することもしないが、真実の響きがそこにはあった。ぼくはヨーロッパの国にいたときの前の女性とのひとときを思い出していた。彼女とぼくの間には揺るぎのない永続性が宿っていると信じており、あの遠くまで聞こえる鐘の音がそのすべてを表していた。しかし、絶対など存在しないのだといまのぼくは知っている。それは約束を放棄するという問題でもなかった。心変わりという簡単な、かつ単純な表現でもない。カニはこの浅い入れ物をいつか越えるのかもしれない。反対に、いくら努力しても縁はすべり、何本もの足があっても乗り越えることは不可能なのかもしれない。だが、誰も確かな答えなどもっていないのだ。少なくともこの今朝のひとときは。

「朝ごはんの時間も終わっちゃうよ」いつまでも、カニを見続けている奈美の背中にぼくはそう言葉をかけた。
「そうだね。干物とかシンプルな朝の食事かな」
「シンプルでも、都会で暮らしているぼくにとっては、とても贅沢なひとときだよ」
「いつか、毎日、食べさせてあげるようになるよ」

 奈美はそう言ったが、ぼくはそれを毎日望んでいる訳ではないのかもしれない。奈美との関係性ではなく、慌しい状況で食事など軽んじてしまう傾向と誘惑が都会には多いという問題としてであった。

 ぼくらは向かい合って食事をした。人間の衝動としての愛情が、こういう日常の営みの繰り返しによって磨耗され軽減されていく傾向や失跡があった。ぼくらは物語のなかの登場人物としての優雅なお姫様と王子様ではいられないのだ。時間がくれば腹が減り、ストレスが増えれば自分にも近くにいる相手にも意味もなくあたるのだ。その全てを含めて生きるということかもしれなかった。

 コーヒーを最後に飲み、ぼくらの食事は終わった。あとは荷物をまとめチェック・アウトするだけだ。

 部屋に戻り、奈美は化粧をはじめた。ぼくはまたテレビをつける。天気予報に変わりはない。この数分では物事の変化にはすべてが足りないのだ。ぼくは、靴下を履き、靴に足を入れた。靴のなかのどこかで、布を通してだか、直かにだが区別のつかないものだったが、海岸特有の微細な砂が入りこんで取り除くことのできない感触があった。

「用意できたよ。ベランダのあの子も、放してあげないと」

 ぼくは両手に荷物を持ち、奈美はまたビニールにカニを入れた。
「まだ、元気なの?」
「元気そうだよ。もとのところがいいんだよね」
「ちょっとの間つかまえて、また手放すんだな」ぼくは意味もなくそう言ったが、やはり、そこにはたくさんの意味も込められているような気がした。だが、ずっとこの小さな場所にいれば窒息するだけなのだろう。もっと似合いの場所がある。前の女性もそういう類いの場所を見つけたのだろう。そして、ぼくはこの奈美との関係を居心地のよいものと判断すること自体に疑いの破片すらも挟むことはなかった。負け惜しみにも似た気持ちもかすかにだがあった。