流求と覚醒の街角(32)風船
女の子が泣いている。手には風船を持っている。いや、風船のひもをつかんで、頭よりうえにその風船が浮かんでいる。きれいなスカートを履いていて、よそ行きという表現がぴったりの格好だった。奈美は屈んで、その子と目線を合わせた。
「お母さんは?」少女は答えない。ただ、泣きじゃくるだけ。奈美はその子の手をつかんで、段差のあるところで座らせた。女の子は言うことを聞く。この不安定な世界で唯一の味方を見つけたのだ。ぼくは、ただその様子を眺めている。ぼくに、何ができるのだろう。
日曜の歩行者天国。みな、幸せそうだ。奈美はただ言葉を待つ。少女は両親といっしょに来たらしい。だが、どこかで親は子どもを見失い、彼女は両親の姿を失う。奈美があやすことによって少女から涙が消える。すこし晴れやかな顔になってきた。名前も教えてくれる。電車に乗ってここまで来たこと。先週は動物園に行ったこと。ママとパパは昨日ケンカをしたことなど。子どもはいろいろ見ているのだ。その様子を道行くひとも眺める。そのうちの何人かは明らかに奈美を母だと思っているらしい。それにしても若いお母さんね、という風に。
ぼくは交番があることを知っている。あそこに渡してしまえば簡単に用は済みそうだ、と考えるのはこの子どもの存在に戸惑っているからなのだろう。もし、自分がひとりだったらあの子のことも気付いていなかったかもしれない。泣いている少女を発見もできないほど、ぼくは忙しい身でもないのに。
奈美は話しかけ、その少女の笑いまで手に入れる。こころを開いたのだ。彼女は両親がいないことまで忘れてしまったように快活に笑っている。奈美は反対にぼくのことを忘れてしまっているようだ。ぼくは、どうやったら対面できるのか考えていた。どこか大きな場所ならアナウンスをしてくれる係りもいるだろう。「迷子の○○ちゃんが、お母さんを探しています。この場所まできてください」という放送が流れる。しかし、ここは歩行者天国なのだ。デパートのなかでもない。動物園でもない。だが、ぼくが交番のほうを見ると、仕事ができそうな男性が困り果てた様子でいるのが確認できた。ぼくは黙ってそちらに向かった。彼の話しぶりが分かるまで近づいた。背丈はこれぐらいで、というように手の平を下げた。ぼくは割り込み、
「迷子ですか?」と訊いた。
「そうです」
「あそこにいる子だと思うけど」父親らしきひととおまわりさんもいっしょに来た。その子はまだ奈美と真剣な様子で話していた。しかし、お父さんの姿が見えると、駆け寄って足にまとわりついた。一件落着。父は奈美とぼくに礼を言う。奈美は楽しみを奪われたような顔をした。
「早く、連れてきてくださいね」と反対に奈美は制服姿の男性に注意された。奈美は風船を目線で追う。小さな身体は直ぐに見えなくなり、風船も直に陰になって消えた。ただ泣いたり笑ったりした少女の甲高い声だけがぼくに残った。
「実習でやったんだ、学生のころ」
と、奈美はその後、言った。それから、いくつかその実習の際に起こった出来事を話してくれた。人見知りをする子もいれば、どんどんと自分をオープンにする子もいる。だが、最終的にはこちらが望めば同程度の親密さを獲得することはできるらしい。
「それが、奈美だからだろう?」とぼくは訊く。このぼくが言ったって、そう上手くいくとも思えなかった。
「ううん。誰でもみんな」と奈美は否定した。
ぼくは、またしても前の女性のことを考えていた。彼女が小さな子たちとどう接したか、又はどう接するであろうかということではなかった。ぼくが父親で、迷子になった彼女を探しているのだ。心配でたまらない。そこに優しい女性が現れて前の女性をなごませてくれているのだ。だから、ぼくはそのひとに感謝を述べることをためらわない。それが奈美なのだ。ぼくは懲りずにその失われつつある情景をつかみとろうとしていた。無意味なことであるのは自分がいちばん良く知っていた。風船は飛び去るものであり、家に持ち帰っても、いつの間にかしぼむ運命にあるものだった。それをぼくは永続するものと誤解して、その誤解に躊躇もなく力を注いでいる。もし、奈美が同じことをしていたら許そうとしないだろう。だが、ぼくは自分に許していた。甘美なものをこころの奥で保管していた。
「あの風船、どこで手に入れたんだろうね? それらしい店なんかどこにもないのに」奈美は不思議な顔をしている。それから風船で作られる動物のことを話した。ときには犬になり、キリンにもなった。だが、奈美は奈美であり、ぼくはぼくだった。後ろ向きな考えを手放さないぼくだった。
「なんで、あんなに親とはぐれることが辛いんだろうね。思春期にもなれば疎んじてしまうのに」
「奈美でも?」
「みんなそうでしょう?」
ぼくは奈美と親子の輪に入れない自分を感じていた。こじあけられない強力なチームワークがあるようだった。前の女性にはぼくと敵対する父などいなかった。それがぼくには懐かしくもあり、淋しくもあった。ぼくはあの女性のために父とケンカするぐらいの覚悟も勇気もあったのだ。だが、それは試されることもない。なので、立証することもない。ぼくは、それで父になった自分を想像したのだろうか。風船をもって心細そうな彼女を想像して。ぼくは失い、再度、取り戻す。だが、実際の生活では何事も簡単にいかないのだ。それにぼくは奈美と車のない道路の真ん中を歩きながら、これ以上もない幸福を感じているのも紛れもない事実なのだった。
女の子が泣いている。手には風船を持っている。いや、風船のひもをつかんで、頭よりうえにその風船が浮かんでいる。きれいなスカートを履いていて、よそ行きという表現がぴったりの格好だった。奈美は屈んで、その子と目線を合わせた。
「お母さんは?」少女は答えない。ただ、泣きじゃくるだけ。奈美はその子の手をつかんで、段差のあるところで座らせた。女の子は言うことを聞く。この不安定な世界で唯一の味方を見つけたのだ。ぼくは、ただその様子を眺めている。ぼくに、何ができるのだろう。
日曜の歩行者天国。みな、幸せそうだ。奈美はただ言葉を待つ。少女は両親といっしょに来たらしい。だが、どこかで親は子どもを見失い、彼女は両親の姿を失う。奈美があやすことによって少女から涙が消える。すこし晴れやかな顔になってきた。名前も教えてくれる。電車に乗ってここまで来たこと。先週は動物園に行ったこと。ママとパパは昨日ケンカをしたことなど。子どもはいろいろ見ているのだ。その様子を道行くひとも眺める。そのうちの何人かは明らかに奈美を母だと思っているらしい。それにしても若いお母さんね、という風に。
ぼくは交番があることを知っている。あそこに渡してしまえば簡単に用は済みそうだ、と考えるのはこの子どもの存在に戸惑っているからなのだろう。もし、自分がひとりだったらあの子のことも気付いていなかったかもしれない。泣いている少女を発見もできないほど、ぼくは忙しい身でもないのに。
奈美は話しかけ、その少女の笑いまで手に入れる。こころを開いたのだ。彼女は両親がいないことまで忘れてしまったように快活に笑っている。奈美は反対にぼくのことを忘れてしまっているようだ。ぼくは、どうやったら対面できるのか考えていた。どこか大きな場所ならアナウンスをしてくれる係りもいるだろう。「迷子の○○ちゃんが、お母さんを探しています。この場所まできてください」という放送が流れる。しかし、ここは歩行者天国なのだ。デパートのなかでもない。動物園でもない。だが、ぼくが交番のほうを見ると、仕事ができそうな男性が困り果てた様子でいるのが確認できた。ぼくは黙ってそちらに向かった。彼の話しぶりが分かるまで近づいた。背丈はこれぐらいで、というように手の平を下げた。ぼくは割り込み、
「迷子ですか?」と訊いた。
「そうです」
「あそこにいる子だと思うけど」父親らしきひととおまわりさんもいっしょに来た。その子はまだ奈美と真剣な様子で話していた。しかし、お父さんの姿が見えると、駆け寄って足にまとわりついた。一件落着。父は奈美とぼくに礼を言う。奈美は楽しみを奪われたような顔をした。
「早く、連れてきてくださいね」と反対に奈美は制服姿の男性に注意された。奈美は風船を目線で追う。小さな身体は直ぐに見えなくなり、風船も直に陰になって消えた。ただ泣いたり笑ったりした少女の甲高い声だけがぼくに残った。
「実習でやったんだ、学生のころ」
と、奈美はその後、言った。それから、いくつかその実習の際に起こった出来事を話してくれた。人見知りをする子もいれば、どんどんと自分をオープンにする子もいる。だが、最終的にはこちらが望めば同程度の親密さを獲得することはできるらしい。
「それが、奈美だからだろう?」とぼくは訊く。このぼくが言ったって、そう上手くいくとも思えなかった。
「ううん。誰でもみんな」と奈美は否定した。
ぼくは、またしても前の女性のことを考えていた。彼女が小さな子たちとどう接したか、又はどう接するであろうかということではなかった。ぼくが父親で、迷子になった彼女を探しているのだ。心配でたまらない。そこに優しい女性が現れて前の女性をなごませてくれているのだ。だから、ぼくはそのひとに感謝を述べることをためらわない。それが奈美なのだ。ぼくは懲りずにその失われつつある情景をつかみとろうとしていた。無意味なことであるのは自分がいちばん良く知っていた。風船は飛び去るものであり、家に持ち帰っても、いつの間にかしぼむ運命にあるものだった。それをぼくは永続するものと誤解して、その誤解に躊躇もなく力を注いでいる。もし、奈美が同じことをしていたら許そうとしないだろう。だが、ぼくは自分に許していた。甘美なものをこころの奥で保管していた。
「あの風船、どこで手に入れたんだろうね? それらしい店なんかどこにもないのに」奈美は不思議な顔をしている。それから風船で作られる動物のことを話した。ときには犬になり、キリンにもなった。だが、奈美は奈美であり、ぼくはぼくだった。後ろ向きな考えを手放さないぼくだった。
「なんで、あんなに親とはぐれることが辛いんだろうね。思春期にもなれば疎んじてしまうのに」
「奈美でも?」
「みんなそうでしょう?」
ぼくは奈美と親子の輪に入れない自分を感じていた。こじあけられない強力なチームワークがあるようだった。前の女性にはぼくと敵対する父などいなかった。それがぼくには懐かしくもあり、淋しくもあった。ぼくはあの女性のために父とケンカするぐらいの覚悟も勇気もあったのだ。だが、それは試されることもない。なので、立証することもない。ぼくは、それで父になった自分を想像したのだろうか。風船をもって心細そうな彼女を想像して。ぼくは失い、再度、取り戻す。だが、実際の生活では何事も簡単にいかないのだ。それにぼくは奈美と車のない道路の真ん中を歩きながら、これ以上もない幸福を感じているのも紛れもない事実なのだった。