爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(41)

2012年02月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(41)

 秋になる前のそれでもまだ暑い時期にまゆみはひと夏バイトをして過ごした海から戻ってきた。女性にとって似つかわしい表現かは分からないが精悍な顔つきをしていた。それでいながら、女性らしさも膨らませていった。

 訊きたいことは山ほどあったが、ぼくらがお互いもてる自由な時間など少ないものだ。また広美の勉強を教えるために彼女はうちに通うようになった。その帰り道やいっしょに食事をする際に、彼女の思い出話を小出しにきいた。

 若い女性は大体が短期間でありながらも恋をするものだ。彼女はそれを直接に口には出さなかったが雰囲気から感じ取れた。それが女性らしさが溢れ出ている証拠でもあり原因のようにも思えた。ぼくは訊かないながらもそれを想像する。最初は打ち解けなかったふたりが簡単な会話を交わし、徐々にその存在を意識し始める。それが絶えず念頭にでてきて、自分を苦しめたり、また陽気にさせたりする。

 離れてしまえば、その感情は揺らぎ、また別の面では確固たるものにもなったりするのだろう。ぼくは自分の経験と照らしあわす。雪代はある時期、東京にいた。ぼくは地元で大学に通っていた。休みになると、ぼくは都会に行き、雪代の仕事が空けば、彼女はこちらに戻ってきた。まだ、恋は新鮮な状態であり、それだからこそ、お互いの一言一句に感動したり、ときには誤解したりもした。まゆみも同じ状態にあるのか分からないが、それを経験するのも乗り越えるのも正直にいえば当人だけの問題でもあった。

 ぼくは久々に彼女の両親に会う。ぼくの若いときのバイト先の店長。玄関先であったので、部屋に入るようすすめられた。椅子に座るとビールが出た。彼はしばらく前からはじめていたらしく赤い顔をしていた。
「最初は心配したんだけど、やっぱり若い女の子だからね、でも、可愛い子には旅をさせろだよなって。ひろしもそう思うか?」
「良い経験ができたみたいだから結果からみれば」
「自分の子にもさせるか?」
「させるでしょうね。雪代が最終的に判断するでしょうけど」
「まだ、遠慮がある?」
「いや、もうないです」

 それからは過去の思い出話をする。ぼくらは未来より、自分が過ごしてきた生活の情報が増えすぎた。それを咀嚼したり吐き出さないことには未来もやってこないようだった。その間、まゆみは自分の部屋に入り、出て来なかった。そして、ぼくらは大きな声に変化しているのにも気付かず話し続けた。

 また何日か経って、広美の勉強も終え、食事をして彼女は友だちと電話するために奥に消えていた。笑い声がしたり、ひそひそと話す様子があった。まゆみはまだテーブルにいた。
「そろそろ就職のことを考えないと・・・」
「何か、迷ってることがあるの?」雪代は優しく訊く。
「東京で見つけようか、地元で探そうかと」
「取り敢えず、東京でチャレンジしてみたら。それで合わなかったら、戻ってくればいいし。ひろし君もわたしもそうしたのよ。ね?」

「ぼくは、自分の意思じゃなく、ただの転勤だったけど。でも、良い思い出もたくさんできた。掛け替えのない経験にいまはなったと思っている」しかし、そこで失ったものもあったのは自分がいちばん知っている。だが、未来を探そうと懸命になっている若い人間に一体、自分はどうアドバイスができ、どう退けられる方法を教えられるのかなど、まったくもって分からなかった。
「それより、良さそうなのはあるの?」雪代が興味をもちはじめた表情をする。「電話、長くない?」と、突然に奥の広美にきこえるような音量で声をだした。

「ひとつ、あることにはあるんです」
「この前、店長も旅をさせるのも悪くないと言ってたよ。酔ってたから、あれは本心なんだろう」
「会ったの?」
「この前、送ったときに久々に家にあがった。その時に、いろいろなことを話した。なんだかんだ、お互い娘の成長を心配する役目がまわってきたから」
「長電話もやめないし」
「ぼくらも、ああいう風に話したよ」
「思い出がずっと残っていて、いいですね」

「これでも、お互い再婚なんだよ」雪代は照れ臭くなったのか、そう言った。ぼくらには10年間の疎遠な時期があった。それは別の人間との熱烈な期間があったことの裏返しのようにも感じられた。しかし、このように納まったのだ。若い女性の未来をふたりで心配して、娘の止められない長電話を片耳できいている。それから、まゆみの地元に残った場合の仕事の条件をきいた。あまり旨みがないようにも思われた。大型化し過ぎた経済は座礁した自分の運には盲目であろうとし、いままで通りを見せかけていたが、その裏側にはきちんとした亀裂があるようだった。それを若いときから経験しなければならない彼女たちの未来を呪わしいものと定義する自分もいた。だが、彼女は健康で海からもらった成果をまだ体内にとどめていた。ぼくらは、それぞれ自分の若さを手放さなければならない年代に入ってきていた。しかし、経済と同じようにぼくらも盲目であったようだ。

 広美は電話を終えて何事もなかったようにジュースを注ぎ、テーブルに着いた。
「広美は、大人になったら仕事なにする?」
「怪我をしないスポーツ選手」その返事の言葉についてぼくは考えている。頭痛がない大学教授。髪を掻き乱さない悩める科学者。子どもと接するのが苦手な保育士。しかし、敢えて訂正することも出来そうになかった。

壊れゆくブレイン(40)

2012年02月24日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(40)

 ぼくらは暑いさ中、それぞれのバッグを手にして電車に乗った。いまは海岸線を通り過ぎている。広美は夏休みに入った。バスケット・ボールの練習を繰り返し、背が伸び、身体もほっそりとしてきた。母親との愛情が深いせいか、そのためこころを許し、きつい言葉もときには発した。ぼくには遠慮があるのか、それでも兄のように接してくれ、言葉遣いはある面では一線を置いていた。

 ぼくは揺れる車内で本を読み、ふたりの女性は会話をしている。内容をきくようでいながらも、まったく何を話しているか聞きそびれている時間も多かった。

 終点まで来て、彼女らは去年に見た同じ景色をそこに見出す。ぼくは、それより前に亡くなった裕紀ともここに来ていた。最初はふらりとただ寄った場所だったが、いつか馴染みになり、それゆえに懐かしいところになった。いまでは、まゆみがひと夏をバイトをするために過ごしていた。

 ぼくらはホテルに入り、ぼくと雪代はいっしょの部屋で、広美は一人用の部屋をあてがわれた。

 お昼をすこし廻ったところだった。ぼくらは早速、身軽な格好に変え、昼食を食べにでかけた。夏の陽光を存分に浴び、それゆえにぼくは解放的な気分を手に入れる。また、この場所を過ごした日々を思い返し、取り返せない女性のことも懐かしみ、甘酸っぱい気分になる。

「いらっしゃい!」店主の男性が声をかける。「まゆみちゃん、お客さんが来たから応対して。大切なお客さん」
「はい。分かりました。あっ」と小さな声が出た。「来てくれたんですね。そうか、今日だったんだ」
「随分、焼けたね」彼女は白っぽいエプロンをしていた所為か、いままでとは違った皮膚の色があざやかに見えた。
「いつの間にか。どうぞ、座ってください。ここ、見晴らしがいいんです」

 彼女の様子はすっかり板についていた。ぼくらは、ぼんやりと座り、次の対応を待った。といってもメニューはなく、できそうな料理を告げてもらうだけだった。

「雪代さんもビール飲みます?」
「いただく。とても、冷えたの」
「広美ちゃん、ジュース何がいい?」広美は、いつもの見慣れたひとが突然違う環境にいることに戸惑ったように、また年齢ゆえのはにかみかいつもの快活さが潜められていた。「あれ」と言ってサンプルを指差した。
 それから、ぼくらは食事を済ませ、休憩をもらったまゆみは広美と話すことがあるらしく、広美だけがそこに残った。ぼくと雪代は海のほうに向かい、そのまま散歩をつづけた。
「わたしもああいう普通のバイトをしたかったな」
「後悔?」
「そんなことないけどね。たくさんの美しい海岸のビーチも仕事ででかけたけど、あれは思い出というより切取られたわたしとその町のイメージだけだから」

 彼女は写真に撮られることを生計にしていた時期があった。ぼくらはいっしょに住み、その後、彼女は東京でひとりで暮らした。その頃には、たくさんの場所に仕事ででかけた。ぼくもその成果としての雑誌を手にして、感嘆した思い出があった。さらにはこのような美しい女性を知りえている自尊心もあった。大分、前の話になるが。
「あの頃は、とても輝いていて、ぼくも誇らしかったな」
「ああいう店で、わたしもご飯を食べた。とても辛いものだった。写真には撮られないような自然な笑顔のスナップをもらった。いまでもあの写真どっかにあるのかな」彼女は自分の部屋の収納場所をイメージしているように遠い目をした。それは、あの遠い地域を思い出している視線だったのかもしれない。

 ぼくらは明日の糧のためにあくせくするような立場にいなかった。だが、その現地の話を雪代はした。みな、小さなバイクに乗り、それでもどこかのびやかで、喧騒のなかでも、そこには穏やかさもただよっていたと。

 翌日、まゆみは休みを貰い、広美と海で過ごした。ぼくらは昼近くまで部屋でごろごろして、午後はとなり町まで出向き、漁港の近くで海鮮ものを食べた。ビールはとてもおいしく、ぼくはこれが自分の人生でしたかったことなのだという思いに至る。雪代がいて、それは若さより知性を備えた女性としてぼくの前にいるのだ。安定感が生活にあって、飢餓や悩みもなかった。

「四半世紀という言葉があるんだよ。知ってた?」雪代が港を前にして、ベンチに腰掛けた姿勢で話し掛けた。目の前の海は夕焼けでオレンジ色に変貌し始めていた。

「25年」
「あの男の子にも白髪がある。でも、好きだよ」そして、雪代は笑った。
 翌日、広美は大切なバスケットの試合があるとかで一足先に帰った。ぼくらは駅で見送る。
「部屋で、危ないことしないでね」
「大丈夫だよ。子どもじゃないんだから」
「9時ごろ、電話するね」
「分かった」広美は改札を抜け、停車している電車に向かった。彼女にもひとりだけで独立した生活ができて、ぼくにも雪代にもあった。そのどこかの一部は共通した部分があり、またあえて作り、これからも生活していくのだろうとぼくは朝の駅でそう思っていた。

壊れゆくブレイン(39)

2012年02月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(39)

 娘の広美が夏風邪をひいて寝ている。学校で流行っているらしく、蔓延してから最後のほうにかかった。何日か学校を休んで、体力も回復したのか直きにまた通学するようになった。

 それが終わると、雪代がおなじものにかかった。栄養剤を飲み、薬を何錠か口に入れ、そのまま仕事に出掛けていたがいつの間にか直ってしまっていた。それも解決すると、ぼくも同じ症状になった。喉がいたみ、ベッドから起き上がる気力を失った。会社に電話を入れ、一日、休暇をもらった。午前中、ずっとうとうとしており夢のなかを楽しんでいた。しかし、身体の節々は通常通りの動きを許さなかった。それでも、午後になると急に体力が回復され、冷蔵庫にはいっていた朝食の残りを平らげた。すると、ベッドに戻る意味合いがなくなり、リビングでテレビのリモコンを握って時間を過ごそうとした。

 やがて、玄関のドアが開いた。制服姿の広美が入って来た。
「あれ、随分と早いね」
「試験だもん。また明日のために勉強しないと。でも、直ったの?」
「午前中うなされて寝ていたら、もとに戻っていた」
「そうなんだ、良かったね。何か食べた?」テーブルの上を見て、「食べたか」と広美は言った。
「今日の結果は?」
「まあまあだよ。でも、身体を動かしたい」
「バスケも休み?」
「試験中は。うつしたとしたら、ごめんね」
「何を?」
「風邪」
「こんなもの、誰からうつったか分からないよ」

「そう」彼女は制服を着替えるため部屋に入って、いつもの格好になりリビングにまた来た。冷蔵庫を開け、ジュースを飲んでいる。昼ごはんを自分で用意して、テーブルの向こうで食べながらテレビを見ている。また、皿を洗い部屋に戻った。音楽が20分ほど鳴り、その後静かになった。
 やがて、電話が鳴った。相手は、雪代だった。
「どうなった、身体?」
「なんだか、もう大丈夫になった。テレビを見ているよ」
「ずる休みみたいね、少年の。もう普通のもの食べられそう?」
「お腹もすいてる」
「良かった。広美、テストどうだったって?」
「まあまあとか言ってたけど」

「そう」親子の相槌はどこかで似ていた。それから電話も切れた。ぼくは自分の本棚に置いてある本をいくつか開いてみた。それらを最近は手にしていなかった証拠にうっすらと上部にほこりがのっていた。それをふっと吹くと夏の日差しがぶつかり反射させた。そのうちの1冊を手に取り、またベッドに横になった。

 しおりとして使っていたものが、その間からこぼれ落ちた。いつか裕紀と買い物に出掛けたときのものだろう、小さなレシートが少し変色して床にあった。ぼくは手の平でその情報を見つめる。日付と品物名だけで、ある日の記憶がよみがえる。その日は映画を見た。今日のように夏前の強い日差しの日だった。裕紀は買ったばかりのサングラスをしていた。彼女の目は強い陽光に耐えられないようだった。ぼくは横を見ながら彼女の視線を確認できないもどかしさを感じていた。でも、それも過ごした月日が増えることによって外側の表情以外のものが多分に影響することも知っていた。ぼくは彼女の口調や素振りで感情の揺れがどう変わるのか学習していた。

 それから、デパートに入り、フレッシュなフルーツのジュースを飲んだ。上か下に裕紀は行き、白っぽい、少し見た角度によっては空色のようになるブラウスを買った。ぼくは本屋に行き、いま手にしている本を買って屋上に向かった。そこで、ビールを頼み、子どもの歓声をききながら本を読んでいる。何分か経ってから裕紀もやってきた。横にすわり、満足げに袋のなかのブラウスを見下ろした。ぼくは本を閉じようとしたが、読みかけの段階を覚えておくものをもらっておくのを忘れてしまった。

「しおりの代わりになるものない? 貰うの忘れた」
「このレシートでいい?」
「いいよ」ぼくはその紙を受け取り、間に挟んだ。それが今日まで残っていたのだろう。不思議なものだった。この小さな紙切れですら彼女を思い出す一因になるとは。

 そのためか、本の内容より彼女との思い出のほうがこの日のベッドの上で寝そべる自分には強かった。そうしていると、風邪の最後の居残りがぼくを眠気に誘った。それは、ただの日々の疲れだったかもしれない。

「ただいま」と言って雪代が帰ってきた。ぼくは目を覚まし、起き上がって本棚にまたさっきのものを戻す。そこだけほこりは払われ、新品のような状態にもどった。

「また、寝てた?」雪代は心配そうに声をかけた。
「ただ、疲れてただけだよ。今日ぐらいだけだから、こんな時間まで眠ってやろうと思った」
「夜、眠れなくなるんじゃない」
「広美の勉強に付き合ってあげる」
「いいよ。もう終わったから」広美も部屋から出てきてカウンターで雪代の手伝いを始めるしぐさをしていた。
「なんだ、計画的なんだね。一夜漬けとかしないの?」
「まゆみちゃんから効率的というものを教わった」
「ぼくらと違うのかな。ラグビーの練習後、あわてて詰め込んだときとは・・・」
「違うんでしょう。体力もなくなっていくように、むかしのものは現代的じゃなくなるんじゃない」雪代は、それでも過去をなつかしむような表情をしていた。

壊れゆくブレイン(38)

2012年02月18日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(38)

「誰かをあれぐらい、好きになれるのかな」
 ぼくは広美が借りた映画を自宅でいっしょに見ていた。雪代はあいにく仕事でいなかった。
「まだ、ないの? そういう気持ちになることは」
「あっても、言わないけどね。あれ、ケースは?」

 ぼくは、その場所を指差した。トレイから引き出されたものを仕舞う背中が見えている。目を見て言うと恥ずかしいのか気まずいのか、両方なのか、そのままの姿勢で広美は小さな声で語りかける。
「結婚を二度するぐらいだから、ひろし君もママも2回は、最低、好きになったことがあるんだよね。苦しいぐらいに・・・」
「苦しいかは、分からないけど」
「いまの主人公は苦しそうだった」
「確かにね。でも、ああいう障害があったほうが燃えると思うよ」
「あった?」
「2回目は、娘がいたけど、物分りが良かった。ママを盗られるとか泣き叫ばれると思ってたけど」
「そんなに子どもじゃないよ。1回目は?」
「もう両親がいなかったからね、彼女には」
「家族ぐらいはいるでしょう?」
「兄がいたけど、いまでも疎遠だよ。ぼくを許さないことに決めたみたいだから」
「なんで?」
「いろいろだよ。いつか、話すよ」
「淋しいね」

「普段は考えないから、淋しいとも思わない」
「苦しいぐらいに、憎まれる」自分の言葉に酔っているように広美は言った。「あ、ママ」
 玄関が開いた。手に袋をぶら提げていたが、それを広美がかいがいしく受け取った。
「何してたの?」
「映画を見てた」
「面白かった?」
「面白かったけど、切なかった」

 ふたりはキッチンに並んで立ち、食材を仕舞ったり、皿を取り出したりしていた。そうしている広美の姿は、以前は子どもっぽかったが、徐々に身長も伸び、雪代に追いつきそうになってきた。それは表面だけの問題かもしれず、それに合った精神を手に入れるのには、さまざまな経験が必要かもしれなかった。

 そこに、まゆみがやって来た。いまでも週に2度ほど、1時間半ばかり広美に勉強を教えに来た。それは多少は短くなったり、長くなったりした。ぼくらは彼女の勉強の成長に関心はあったが、でも、それに関与することは怠け、まゆみに任せてしまっていた。

「じゃあ、勉強してくる」
「その間に、ご飯、作っとくから」
「ひろし君にも手伝わせないと駄目ですよ」まゆみが扉を閉めながら言った。そういう彼女の父も家事には無頓着だった。
「だって、ああ言ってる」雪代はこちらに向かって笑った。自分は、男性の味方がいないことを今更ながら感じた。彼女は手を動かし、何かを作り始めた。ぼくもうやうやしくテーブルを拭いたり、調味料を並べ替えたりした。それは、手伝っている範疇にも入らない作業かもしれなかったが、それでも、自分は満足であった。

 時間が経って、彼女たちは戻ってくる。その分だけ確かな手ごたえがある知識を有したものとして。
「さっきのどんな映画だったの?」雪代が執拗にたずねる。最近では、3人の女性が話しているのをただ傍観しているような感があった。広美は、それをかいつまんで説明する。「それで」とか「だから」という言葉を促すセリフが間に挟まり、際限なく話はすすんだ。まゆみもそれを見たいと言ったり、レンタルの残りの期日があれば、雪代も見てから返してとお願いがあったりして、話は弾んでいた。

 しかし、広美はぼくの2回の結婚の話には触れなかった。それを、自分の母にもたずねなかった。ぼくらにはささやかな秘密が共有され、それは口外しないということで一層秘められたことっぽくなった。

 食事も終わり、後片付けがなされ、まゆみは帰ることになる。ぼくもいっしょに外に出る。

「苦しいほどの恋の映画」ひとりごとのようにまゆみは言う。「ひろし君もしたんでしょう?」
「したよ」
「お兄さんたちは、まだ許してくれないって」
「なんだ、まゆみちゃんには言ったのか」
「許してもらいたい?」
「特には。裕紀の叔母さんたちは、ぼくのことを理解してくれていた。それで、充分だよ」
「普通がいいな、わたし。誰もが喜んでくれて」
「みんな、そうだろう。どこかでぼくは間違ったのかもしれないし」
「別のを選びたかった?」
「全然」

「そうだ。去年の夏にいったところで、働くことになった。1ヶ月ぐらい」
「そう。じゃ、ぼくらも休みにまた行こうかな」そこは、昨年過ごした海岸から少し離れた飲食店だった。それほど混雑する場所でもなさそうだが、やはり、最盛期には人手が必要なようだった。
「ありがとう。あと、いいとこ教えてもらって良かった」
「両親も承諾?」
「うん。働いたら、そんな自由はなくなるから、いまのうちに行っとけって」
「店長の言いそうなことだな」ぼくは彼女の父のスポーツ・ショップで若い頃、バイトをしていた。それで、いまだに彼のことを店長と呼んでしまう。「苦しくなるほどの恋もしたらいい。働いたら、できなくなるから」
「いつでも、それはできるよ」
「出会い頭」
「正面衝突」
 ぼくらは暗い夜道でふたりで大声をだして笑う。そして、驚いた犬が反応して吠えた。しょげたようにそれからは小声で話し、残りの道のりを誰にも気付かれないように歩いた。

壊れゆくブレイン(37)

2012年02月17日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(37)

「この前、仕事で病院の方に行った?」雪代が家事をしながら声をかけてきた。
「行った。なんで?」
「赤ちゃんをつれた女性と話していたって。知り合い?」
「ああ、むかしの知人。誰が見てたの?」
「広美のお友だちが。敏感な年頃なのよ。あれ、広美のママの・・・」ぼくのことをお父さんとかパパとか正式な名称を友人たちは誰も用いなかった。「だって。気になったんでしょう」

 ぼくは、自分のことを見る目が急に多くなったのを知る。広美の友だちまでぼくのことを知り、姿を見れば誰なのかが分かるらしかった。当然といえば当然だが、ぼくはただ驚いていた。
「ぼくと広美の関係性も認知されているんだ。驚いたな」
「いまごろ何言ってんの? いつも、家に遊びに来てるじゃない」
「別に親しく話しているわけでもないからね」
「そうよ、気をつけないと。いろんな子が見てるから」

 自分はやましいこともなかったが、少し不快な気持ちもあった。やはり、その気持ちがある以上、やましいところは微量だがあったのだろう。友人は広美にぼくのことを告げる。あそこにいた。広美は母に話す。誰かと話していた。子どもがいる女性。それをぼくは次にきく。その一連の流れが風聞というものの始めのようだった。

「ぼくは、広美の友人たちのこと、外で会って、分かるかな?」
「広美と一緒にいるところじゃないと分からないんじゃない。あの年代は、成長も早いし。突然、女性になっちゃうかも」雪代は畳んでいる服を床に置き、こちらを振り向いた。「そうだ、むかし、それも大昔、変な手紙をもらったことがある。ひろし君を奪うとか、どうとか。覚えてる?」
「ぼくも読んだ?」
「そうか。直ぐ、処分しちゃったか。とにかく、もらったのよ。取っておけばよかった」
「じゃあ、知らないよ」だが、それはゆり江のようだった。彼女は確かにそのような手紙を送りつけ、後悔していたことをぼくに告げた気がする。それを関連付けた雪代の推理に感心する。「それで?」興味を感じてしまい、その話題を終わらすことをしなかった。

「誰かのものを奪うとか、もうないんでしょう? そういう年代は過ぎ去ったむかしの果実」
「詩的な表現だね。その広美は?」
「先輩の試合を見るんだって、そう言って出掛けた」
「まだ1年生は出られないのか」
「ひろし君は最初からレギュラーだったもんね。そう上手くいかないのよ。順番を待っていないと。終わった。やっと、家事から解放。新鮮な空気を吸いましょう」

 ぼくらは外に出た。自分の子どもをどこかに連れて行く義務や、または喜びは少しの間で終わってしまった。ぼくらはそもそもがそうであったように二人で出掛けることが多かった。広美は休日にスポーツをしたり友人たちと遊びに行くことが増え、ぼくらにまとわりつきねだることもなくなった。それは、楽しい反面、さびしく感じることもあった。

 ぼくらが歩いていると、ある少女が会釈をする。少し雪代を羨望するような様子があった。しかし、言葉を交わすこともなく通り過ぎていった。
「誰?」
「あの年代だもん、広美の友だち。前によく遊びに来たけど、最近は、どうしたのかしらね。あまり、来なくなった」それから彼女の情報をいくらか伝えてくれた。
「見たことない子」
「やっぱり、家に来る子をいくらかはチェックしてるんだ?」
「ひとの顔や名前を覚えるのも、仕事のうちだよ。失礼がないように」ぼくは振り返り、その少女の後ろ姿を確認した。「いままで、ああいう年代の子たちをどのように認識していたのだろう。いまは、広美の友だちかって思ってるけど」
「まあ、嫌われないように。そのままでいいけど」

 ぼくらは暇を持て余し映画館に入った。日本語でも英語でもない映画を観た。その所為か分からないが、あまり集中することができず、映画そのものに入り込めなかった。ぼくは、上の空で今日、会話したことを頭の中で反芻していた。「意地悪な手紙をくれた少女」がいて、その子は、赤ちゃんを抱いた現在につながる。それを広美の友だちが目撃して、何かの拍子に広美に伝える。別の少女はクラスでも変わった所為か、広美と遊ばなくなる。ぼくは、その疎遠になった少女とゆり江をなぜだか結びつける。すると、あの通り過ぎたときの背中につながり、彼女は自分の思いのために、嫉妬のような手紙を机のまえで書いている最中のような気がした。こうして、自分の頭は実にならないことで費やされていった。

「面白くなかった?」
「そうでもないよ」
「むかしはあの建物がとか、よく話してくれたんだよ」

 映像に残っている町並みをぼくは頭のなかで再現した。それを口に出して説明することは省き、ただ、落ち着いたらあのような町に行ってみようかと誘った。その申し入れを彼女は喜んだが、ぼくらの大人の計画を実際に、実行に移すには時間がかかるものだった。

 ぼくらはその後いつもの店でコーヒーを飲み、音楽を聴いた。英雄がなにかを勝ち取ったのか、それとも、その甘美な瞬間を楽しんでいるのか、またはその地位を懐かしんでいるのか、タイトルだけでは分からないが、その揺れゆくリズムに身を任せながら、苦さの残ったコーヒーをすすった。

 ぼくの頭の中の少女は手紙を書き終えて封をしている。それを、送るかまだ迷っている。だが、投函してしまい結論としては後悔するのだ。だが、後悔をしなかった英雄もいなければ、少女もいないはずだったと思い、ぼくは別の音楽を聴き始める。

壊れゆくブレイン(36)

2012年02月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(36)

 広美が中学生になった。島本さんの母が見たかったという姿になったが、その希望は叶えられず、その代わりに島本さんの父がそれを見た。雪代はその姿を写真に撮り、後でプリントしたものを渡した。ある日のひとびとは、このように記録されないと忘れ去られるものかもしれない。しかし、広美の今日はこうして形あるものとして残った。

 彼女はまゆみの影響なのかバスケット・ボールを始める。その運動能力は明らかに島本さんから受け継いだものだった。彼の遺伝子はこうして花を咲かせ、ぼくは憧れた人間の存在を、時を経てまた娘のうちに発見するのだった。それは皮肉でもあり、抜け切ることのできない自分の運命が提示するものだった。ぼくは、ある意味で自分の運命を選択したかもしれず、またある意味では何事も選んではいなかった。それは、広美が自分の父を選ばなかったということにも似ていた。母の愛情の結晶だとも言えたし、また何かの力の作用があったのかもしれない。

 それでも、いままでとは違う別の学校に行き、勉強して運動して疲れて帰ってきた。ぼくの甥もそこにいた。両者がどのような会話をして、またどういう付き合いをしているのかは分からなかった。その甥はサッカーをしている。

 家族の成長によって、自分の年齢が増していることを認識する。それにまたひとつ情報が加わることになった。ぼくは、会社の外回りの最中にある女性とばったり出くわす。

「幽霊をみたような顔をしている」
 それはゆり江というひとだった。彼女は自分の身体の前で小さな存在を抱き、こちらを見ていた。
「ただ、びっくりした。これが、ゆり江ちゃんの子ども?」
「そう。ちょっと、実家に戻ってきている。大変だから」
「そうだよね」ぼくは目をつぶっている子どもを見た。「似ているのかな? いや、似ているね」
「パパがそう言ってます」彼女は、ふざけて口にした。「嘘です。そんな、恐い顔しないで」

 ぼくは、自分がどのような表情をしているのか確認できなかった。ただ、自分は中学生になった女性と暮らしているので、その小さな存在に抵抗と羨望があったのかもしれない。

「してないよ、ごめん。いや、ただこういう小さなときから育てるのが、やっぱり、子どもだなと思って」
「特殊だもんね、ひろし君の場合。上手くやってるの、娘と?」
「まあまあだよ。立ってて疲れない」
「大丈夫。強くなるから、母って。バスで帰るんでバス停まで歩いていい?」
「送ろうか?」
「いいのよ、気にしないで。そこ」彼女はバス停を指差す。
「今日はなにしに?」
「検診があった。いろいろ調べてもらう」ぼくには、そういう経験がなかった。同じように裕紀もしないままその存在を終えた。「大きくなってるって実感はあるの?」
「まだまだ。なにか口答えでもするようにならないと実感できないでしょうね。お母さんも、このころのわたしがいちばん可愛かったって」
「大人になってからも可愛かった」
「ほんと?」

 ぼくは返事をしない。したかったが、なぜだかできなかった。ぼくらは若いころに恋をした。それも不自由な恋だった。ぼくには雪代がいて、その関係をつづけながらゆり江と会っていた。彼女は犠牲者とも呼べたが、そういう負の意識をついに持つことをしらないままこのような大人になっていた。

「うちの子は、バスケットをはじめた。背も急に大きくなってきた」
「楽しみだね。ひろし君がそういう役割に向いていること知らなかった。裕紀ちゃんのこと、忘れられた?」
「ぜんぜん。どこかにまだ隠れて生きているような気もする。シアトルとか東京のあのうちに」
「良かった。わたしが好きだったひとは冷たい人間じゃなかった」
「ゆり江ちゃんも思い出すんだ?」
「もちろん。いつか、手紙がポストに入っているような気もするし、電話がかかってくるかもしれないと思っている」
「ふたりで、彼女の思い出話をするようになるとは思ってもみなかった」
「あ、バス来た。ごめん、母が待っているので。仕事でしょう? 頑張ってね」

 彼女はバスのステップを登る。そして、座席にすわり窓の向こうから手を振った。ぼくらは、こういう束の間の邂逅をもった。もしかして、どこかで人生の螺旋がもう一段曲がっていたら、ぼくはあの子の父親であったということもあり得たのだ。そして、あの窓の向こうに裕紀が座っているという可能性もなくはなかった。しかし、当然、ぼくは目を覚まさなければならず、裕紀のその可能性は潰えていたのだ。いまになっては。

 ぼくは車に戻り、ラジオをつけた。ぼくの気持ちはある部屋に戻っている。若いゆり江は一人暮らしをはじめる。ぼくの会社が扱っていたアパートの一室だった。ぼくは、その家に通う。彼女を前にして、たくさんの会話をした。彼女はぼくの冷たさをなじり、ときには泣いた。ぼくはその涙の一粒一粒を思い出せるような気がする。その間、人目をはばかったため遊園地に行くわけでもなく、近くを散歩するようなことも通常よりあきらかに少なかった。その面で彼女の若い日々を窮屈なものにした後悔をいまさらながら感じていた。だが、それでもぼくらの間には愛があった。とても純粋なものでありながら、それをぼくは掴みきらず、ときには拒んだ。その結果が今日であり、手に入れられなかったものも確かにあった。だが、彼女の現在の姿はぼくにとっては自慢のような気持ちもあった。あの幸せを彼女が見つけるために、ぼくから逃げ去ったという事実が、つまらない誇りだった。

 ラジオの歌は終わり、曲をリクエストしたひとの名前が告げられた。ぼくも「ゆり江」と小さな声で言った。それは現在の彼女にではなく、痛々しいぐらいに純粋だったむかしの彼女に向けていたのかもしれない。

壊れゆくブレイン(35)

2012年02月11日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(35)

 そして、島本さんの母が亡くなった。
 ぼくにとっては直接のつながりはなかったが、雪代の元夫の母であり、広美にとっては祖母であったので、無関係であるとも呼べなかった。

 ひとが亡くなってからの一連の騒動がはじまり、ぼくもその渦中に入らざるを得なかった。その連絡を電話で雪代から受け、彼女は仕事を中断してそちらに向かった。広美も学校を終えてから駆けつけた。

 ぼくは家につき空虚な気持ちを抱く。部屋のなかもそれが反映されていた。そこに玄関のチャイムの音がした。
「あれ、早いんですね。広美ちゃんは?」そこにいたのは、彼女に勉強を教えているまゆみだった。
「そうか、バタバタして伝えられなかったんだね。彼女のお祖母ちゃんが亡くなったんだ」
「ひろし君か、雪代さんのお母さん?」
「そうか、むずかしいな。ほんとのお父さんのお母さん。島本さんのお母さんがだよ」
「それで、ひろし君は家にいるんだ。じゃあ、どうしよう」彼女は足元を見つめる。
「とりあえずは、入れば。勉強はないけど、せっかく来たんだからコーヒーぐらいは入れるよ」
「大丈夫ですか?」
「ひとりで待つより、まあ話し相手も必要だし・・・」

 ぼくはポットに水を入れ、電源をつけた。そして、コーヒーを探し、カップを2つ取り出した。コーヒーを作り、注いでからテーブルに運んで飲み始めてしばらくすると、また玄関の扉が開いた。

「あ、ごめん、まゆみちゃん。そうだね、今日だったね」と、雪代は残念そうに言った。
「どうだった?」
「大変だったけど、あとはひとみさんに任せてしまって」それは、島本さんの妹だった。雪代は普段も連絡を取り合っていたが、ぼくと結婚してからその関係はいささか遠退いていくようだった。
「そう、ご飯は?」
「少し食べたけど、お腹すいている。広美はどう?」彼女は後ろでしょぼくれていた。誰かが、それも自分が知っているひとがいなくなるということに対する抵抗と戸惑いがその様子にあらわれていた。
「いらない」
「でも、食べてないでしょう」

「わたし、なにか買ってきます」まゆみがそう言って、立ち上がった。雪代はその気持ちに感謝を述べ、財布を開けた。

 その日は、買ってきたもので4人で簡単にご飯を食べた。広美はいらないといっていたが、テーブルに並べられたものをすこし食べた。しかし、受けたショックの後遺症のように元気がなかった。ぼくは夜道をひとりで帰らすことを避けるため、いつもまゆみを送っていた。今日も例外ではなく、いつもより早い時間だったが、いっしょに外にでた。

「広美ちゃん、元気がなかったですね。心配だな」まゆみは、気持ちのままを語った。
「そうだね。こういうことに慣れていない」
「慣れるひとなんています?」
「いないよね」
「ひろし君は誰か大切なひとを亡くしました? あ、ごめんなさい。わたし、つい、うっかりしてました」
「いいんだよ」
「雪代さんとの結婚生活を見てしまっていたので・・・」
「いいよ、気にしないで。でも、誰か亡くしてショックを受ける感情は、ぼくがいちばん知ってるとも思う。つまんない自慢だけど」

「愛していた?」
「もちろん。それで人生を棒にふる寸前までいった。でも、戻ってこられた」そこで、彼女の家の前まで着いた。「ごめんね、今日は。無駄足だったけど、また」

 ぼくは、そこからひとりで歩く。ひとを失う悲しみがぼくの周りに充満しているようだった。島本さんの母は息子を若いときに事故で亡くしたのだ。それも自慢の息子を。その悲しみを、ぼくは自分が持っている悲しみと比較しようとした。どちらが重いか、どちらが軽いかという問題でもなく、どちらもずっしりと重かった。人生を失敗させるには充分なほど、その悲嘆は重かった。

「広美は?」部屋に入ると、娘はいなかった。
「ショックだったみたい。部屋で寝るといって入ってしまった。いっしょにわたしも寝てあげる。ひろし君、きょうはひとりで寝て」ぼくは、雪代が島本さんのことを思い出すためにぼくとベッドに入ることを避けているのだと勘繰った。それは男らしくない考え方でもあり、また、自分は10代のときに島本さんに嫉妬していた事実を思い出させてしまった。

「いいよ」
 それからも時間は慌ただしく過ぎ、何日かしてぼくは黒い服を着て、火葬場の庭にひとりでたたずんでいた。タバコでも吸えればこの時間を無為に過ごせそうな気もしたが、それもライターももちろん自分はもっていなかった。

 そこに広美がか弱げに重い足取りで歩いてきた。彼女は前方を見ていないようだったが、ぼくの前でとまりもたれかかるようにして倒れ掛かった。ぼくは抱き彼女の黒い髪を見下ろしている。

「大丈夫だよ。そばにいてあげるから」
 彼女は安心したのかそれからずっと泣きじゃくった。ぼくの黒い服もYシャツも彼女の涙で濡れた。
「お祖母ちゃん、わたしのセーラー服姿を見たいって言ってたのに・・・」
「そうだったんだ。でも、いままでも思い出がつくれただろう?」
「ちょっとだけだよ」声はくぐもっていた。
「そうだね、少なすぎるね。だから、生きている間もっと親しくなるべきなんだね」
 ぼくは広美に言っていたのかもしれないが、実際は、裕紀にも伝わって欲しいと思っていた。ぼくのシャツは相変わらず濡れたままで、でもこの状態である限り、ぼくらは本来の親子のスタート地点にやっと立ったのだという気持ちも芽生えていた。

壊れゆくブレイン(34)

2012年02月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(34)

「広美はどこに行ったの? いないみたいだけど・・・」休日の朝、いつになく朝寝坊をした。
「お友だちと映画を観に行くとかいってたけど」
「何を見るんだろう?」
「さあ」雪代は、キッチンでボールのなかを眺めながら、泡立て器のようなものを使ってまわしていた。「社長の体調、悪いみたいなの?」

「そう、心配するほどでもないと思うけど」
「広美が言ってたけど、島本のお祖母ちゃんも調子が悪いみたいだって」彼女の前の夫の母のことである。
「みんな、そういう年齢になってきたのかな」
「気をつけないと」
「うん」ぼくは、カーテンの向こうの日射しを見るともなく見ていた。このような陽光がありながら映画館の暗がりにすわっている娘のことをちらっと考えた。
「夕方まで帰ってこないんだって、広美」
「そう、じゃ、どっか行こうか?」

「これ、夕飯のために仕上げるから」彼女はボールの中味を傾け、タッパーのなかに流し込んだ。それでなにが出来るのか自分は皆目分からなかった。それから、テレビでニュースを見て、情報番組から必要もない知識を収集した。休日の朝といえばこれ以上、それにふさわしい日もないぐらいのゆっくりとした時間がもてた。同時に、コーヒーを飲みながら寝ていたときに作られた身体のコリがこの日常と段々と和解していくような気分もあった。

 昼を過ぎたところで家をでた。商店街のいっかくには雪代の店があり、その前を通った。店員たちは彼女に気付き、笑顔を見せる。ぼくも顔見知りのひとがいるので同じような態度をとる。店の主人の夫という立場が彼らにどのような印象をあたえるのかを考えようとした。

 そのまましばらく歩くと、広美が友だちとふざけ合っている姿が見えた。ぼくらの町は、それほど大きなものではないということを改めて実感させる出会いだった。彼女は照れたように知らない振りをする。その反対に、友だちは大きな声で挨拶をした。雪代はそれに応えるように手を振った。

「もう、映画、見たのかな?」
「これからでしょう」と、雪代はある意味では自分の子に無関心な様子で言った。それは自分の所有物ではなく、別個の存在と認めたからのような口振りだった。「あの子も、もうしばらくすると中学生になる」
「早かった?」
「早かった。とっても。いつか、わたしのことを必要ともしなくなるかもしれない。すべて自分で決めて、事後承認」
「女の親子って、もっと親しいんじゃない? 親密とか密接という感じで。妹もそうだけど」
「わたしは、母と違かった」
「それは、雪代には自立心があったからだよ」

「広美にもあるのよ、当然」ぼくらの会話は堂々巡りだった。とくに解決を求められる会話をしていないせいか、それでも問題はなかった。もっと掘り下げる必要はあったが、それも今すぐという話でもなかったので取り敢えずは宙ぶらりんにした。忙しくしている日常では忘れてしまうような内容でもあったし、ある日、結論が勝手にくだされている問題かもしれなかった。それでいながら、頭の片隅の、もっと隅のほうには残っている感じもあった。

 ぼくらは服屋のまえに立っていた。「服も自分で選ぶようになり、友だちも自分の意識で決める。スポーツをなにするかということも決め、好きな相手も選ぶ」
「あれは、選ぶということじゃない」雪代は即座に否定する。
「選ばれる?」
「ある場合は、そう。女性だからちょっと受身のこともある。だけど、もっと激しい本気のときは、自分の意思じゃないでしょう?」

 ぼくらはお互いそのような経験を通して会ったのかもしれない。少なくとも、ぼくは雪代にそういう感情を抱いてしまった。それは、幸福だったのか不幸に導く序章に過ぎないのか分からない。すると、すべての選択というものがあやふやなことに思えた。もっと、自分の根源的な何かは、昆虫や恐竜などがもつ生きる衝動と何ら変わらない気がした。

「ぼくの場合は、そうだったね。認める。降参」
「わたしもそうだった。しっかりとした年上の男性が好きだと、ある日まで思っていた。そんな先入観はいつの間にか崩され、いま、こうしている」自分が主人公である物語を客観的にみるように彼女は言った。「広美もいつか、そうなるかもしれない」

 ぼくは、彼女のこれまでの日々を組み立てなおし、そこから派生するこれからの未来を漠然とだが想像した。ある日、自分の母はむかしの交際相手だった男性と再婚する。そのひとが共にいる生活が普通のこととなる。ぼくらの間には抵抗感やいさかいもなく、ただ、自分の領分を崩さないように住み分けていた。それは当初は雪代を介してだけの関係だったかもしれない。だがそのうち、広美は幼さから自分だけの個を取り出し、育んで行くのだろう。もうすでにその萌芽は見られた。ぼくらは雪代を通して知り合ったという事実を乗り越え、個と個として触れ合うようになっていくのかもしれなかった。

「イベントが何かあるみたいだね? 聴いて行こうか?」
 デパートの1階の噴水のある広場にギターを抱えた若者がふたりあらわれた。女性たちの歓声があり、待ちわびた期待が終わった安堵のようなものがそこに充満していた。用意された椅子は満杯だった。ぼくらは座れそうな場所を奥の方に見つけ、背中合わせにそこに腰を下ろした。このミュージシャンが誰であるのか、あとで広美に訊こうとぼくはそのグループ名を頭の中に記憶しようとした。

壊れゆくブレイン(33)

2012年02月02日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(33)

 そのまま仕事場に向かった。社長は健康診断の再検査ということでいなかったが、もどってきたときは顔色が曇っていた。ぼくは、仕事に追われながらもその様子をうかがった。
「社長、今日の夜、お時間は?」
「うん」
「はい?」
「いつものところで待っててくれ」

「出張に行ってたので、一旦、荷物を置いてきてからでもいいですか? 大して遅れませんので・・・」
「ああ、そうだったな。どうだった、東京」
「もう自分の住む場所じゃないみたいです」
「また、東京勤務をお願いするかもしれないぞ」まわりの社員が聞き耳をたてている雰囲気があった。
「まさか、冗談でしょう」

 その問いに社長は返事をしなかった。そのかわりに相変わらず暗い顔をしていた。机に置いてある資料を指でいじりながらも、視線はそこには集中していないようだった。ぼくは東京で求められた回答を探すべく、何本か電話をした。いくつかのヒントが与えられ、あと数日で資料をまとめ、メールを送れる段取りをした。

 一回、休憩を取り、雪代に電話した。社長の具合が悪そうなので、外でいっしょに夕飯を食べる約束をしたことを伝える。彼女は直ぐに理解した。

「どうだった、東京?」電話のしめくくりに彼女は訊く。
「何人かの友人にあったよ」
「また、あとできかせて」と言って通話は終わった。
 また席にもどり仕事を再開させた。ぼくは、その間に笠原さんの姿を思い出し、彼女に似た子を想像して、裕紀の叔母のことを考えた。義理もあったが次に会う機会はいつになるのだろうと考えた。それは近い未来ではなく、あまりにも遠い時期のようにも思えた。ぼくらにあった繋がりは細いものになり、それは以後擦れていくものだと予感ができた。

 終業のベルが鳴り、引き出しを閉める音や物を片付ける音もする。電話をつづけていた同僚はメモ帳になにかの似顔絵らしきものを描いている。ぼくもパソコンの電源を落とし、ロッカーに入れておいた荷物や出張時の着替えを取り出して、家に向かった。
 家に着くと、広美とまゆみは勉強の最中だった。

「お帰りなさい」広美が座り続ける体勢に飽きたかのようにこちらに振り返り声をかけた。
「ただいま。勉強が終わったら、これでも食べて」
「東京のお土産?」まゆみも鉛筆をもった指をひらひらさせながらたずねた。
「そう。またこれから着替えて社長と飲みに行く。送るから、まゆみちゃんもご飯を食べてから少し寄れば」
「考えときます。でも、なんか大事な話をするんですよね?」
「そんなのは、直ぐ終わるよ」ぼくは部屋に入ってラフな格好に着換えた。それから、また広美の部屋に顔を出す。「じゃあ、行ってくるね。雪代にはさっき、電話したから」

 ぼくは先に着き、ビールを頼んだ。店のひととの会話もたいしてせずに、東京での出来事をまた思い出していた。裕紀の叔母は少しだけ小さく見えた。それは肉体の問題というより、裕紀の存在が消えた分だけ容量が減ったようにも思えていた。そうならば自分も小さくなるかもしれない。しかし、ぼくには見えない無数の痛みが残っていたのは確かだ。
「待ったか?」

「いや、ぜんぜん。大丈夫ですか? 何か飲みますか?」
「今日はやめとく。ちょっとだけ控えなければならなくなった」
「やっぱり、検査の結果が悪かったとかで?」
「まあ、そういうもんだよ。これでも、最近は用心していたのにな」
「うちの父も、そんなことを言ってました」
「うん。これで仕事も傾いたら、オレも終わりだな」
「いまのところ、順調じゃないですか」
「そうだな。向こう、どうだった?」
「良くなっています。緊張感もあって」
「もう一度、行きたいか?」
「いや。こっちにすべてがありますから。娘も東京で大きくなって欲しくない」
「足かせか」
「貴重な足かせです」

 それからは仕事の話題はあまり出なくなり、いままでの社長の生き方や思い出話に変更した。誰しもに修羅場があり、どの人生にも辛い別れがあった。社長は母を失ったことを話した。上田さんの祖母でもある。ぼくはその話をリアルな痛みを伴った話として聞く。しかし、どこかその話は爽やかな印象も与えた。ぼくは今後、裕紀の思い出を第三者に話すとき、そのような境地にたどりつくのかと想像した。しかし、そのどれもがいまだに生々しかった。

「こんばんは。やっぱり、来ちゃいました。ひとりで帰るの止しなさいと言われたので」まゆみが戸を開けてぼくのとなりに座ってしゃべった。

「ゆっくりと。オレはちょっと体調が芳しくないので、ここで切り上げさせてもらうわ」と言い残し社長は帰ってしまった。
「近藤さんのそばには可愛い子ばっかりいるのね」と店の女主人がなまめかしく言う。
「わたしのことですか? わたし、可愛いだって」とまゆみは言いぼくの肩を叩いた。それから店のひとと一渡り話し出した。ぼくは、社長の具合を心配する。ある日、老いが顔を見せる。そこまでも油断はしていなかったのだろうが、それが主人として肉体を支配する。それらにぼくらは抵抗する。裕紀の叔母に頻繁に連絡をとることを誓う。しかし、いくつもの約束と同じで守れるかどうかは先にならないと分からなかった。

「まゆみちゃんと飲む機会が来るなんて思わなかったよ」ぼくは白々しい空気を恐れるかのように、わざとちゃかしたように言う。「あんなに小さかったのに」
「また、それを言う。おじさんって、いつもそう」と言って、まゆみはふて腐れた様子でグラスに口をつける。

壊れゆくブレイン(32)

2012年02月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(32)

 ぼくはホテルの受付で部屋のカギを返却する。いままでは、東京に家があり、出張は地元のホテルか実家に泊まった。今回は反対だった。東京はもうすでに仮の場所であり、仕事をするためにたまに来る場所程度になっていた。

 駅に向かう。そこで重要なことも待っていた。裕紀の叔母と近くの店で待ち合わせをしていた。ぼくは、5分ぐらいまえに店に着いたが、彼女はもうそこにいた。
「ごめんね、呼び出したりして・・・」
「いや。ぜんぜん。帰り道ですから。それより、ぼくが出向かないと、いけませんでした」
「元気だった?」
「ええ。たまにしか連絡しないで、すいません・・・」
「いいのよ。自分の生活もあるし。こちらも、ひろし君を家族から追い出したような形になってしまって」そういう言葉を発すると彼女はすこし疲れて見えた。
「再婚しました。手紙に書いたとおりです。すいません」
「謝ってばっかりね。ひろし君が幸せならそれでいいのよ。女の子もいる?」
「そうです。活発な子です」

「裕紀ちゃんに対して示してくれた大きな愛情をその子にぶつけてみるのもいいかしらね」
「ぼくは、忘れてないですよ。彼女のことをひとときも」ゆり江に言われたことをそこでも思い出している。この叔母も裕紀との思い出を、その美しすぎた思い出をたくさん所有しているはずなのだ。それを誰しもが彼女から奪えないし、もし、仮にぼくが裕紀のことを忘れ去ってしまっても、この記憶の数々は残るのだ。「叔母さんも、もちろんそうでしょうけど」

「急にいなくなってしまったからね」
 ぼくは、行き掛かり上、財布からいまの家族の写真を取り出した。ぼくが必要以上におちこんでいると彼女ももっと苦しむかもしれないと心配したからだが、それは、もしかしたらまったくの逆効果かもしれない。裕紀を捨てた男性としての認識を植えつけてしまう写真ともなる。

「ちょっと前の写真ですけど」ぼくと雪代が娘を挟むようにして写っている一枚。
「可愛いのね。奥さんも美人」
「いつか、裕紀も子どもを可愛がるようなこともできたかもしれなかった」
「誰が、悪いんでもないのよ。時間、大丈夫?」
 ぼくは壁にかかっている時計を見る。あと20分ほどは猶予がありそうだった。
「もう少しだけなら」

「これ、帰りの電車のなかででも食べて」ぼくは小さな包みを渡される。
「なんです?」
「ひろしさんも裕紀も、これをおいしそうに食べていたから」

 ぼくらは、彼女の家によく招かれた。裕紀は若いときに留学先に遊びに来た両親をそこで亡くした。その理由を作ったのは、間接的には自分だった。そのことを気にかけず彼らは身内として優しく接してくれた。ぼくらはそこで寛ぎ、裕紀も本来の自分を出せた。

「すいません。ありがとうございます」
「お茶は忘れたから、それだけは自分で買って。ごめんね」
「はい」
「良かった。ひろし君も元気そうになっていて。多分、裕紀ちゃんも喜ぶ。あんなに看病させてしまってと、いつも、後悔をしていたみたいだから」
「全然、していないですし、足りなかった。ずっと、あのままでもぼくは良かったでしょう。病院にいてくれるだけでも」
「そういう考えは、もう止した方がいいよ。新しい家族を大切にした方がね。元気でね。そろそろ」

 ぼくは財布を出そうとするも、彼女が制した。そこにまだ居るようなので、ぼくは店の外からまた会釈をして改札に向かった。遠目に座っている彼女は一回り小さく見え、行き場所のない少女のようにも映った。誰かを失うということはそのひとのもつ生命体やエネルギーの一部を削ってしまうのかもしれないとぼくは感じていた。

 ぼくは改札を抜け、特急の指定の座席にすわった。荷物を上段にのせ、車窓を眺めた。そこにはスーツ姿の男性や旅行でも行くのか華やかな女性二人が笑いながら歩いていた。裕紀にもあのような時期がたしかにあったのだ。あの叔母ともよく旅行にいっしょに行った。ぼくは、裕紀たちができなくなったことを考え、見えない風景をさがそうとしていた。

 電車の発車のベルが鳴り、ゆっくりと車体をすべらすように動き出した。ぼくはひざの上に弁当を置き、お茶のくちのキャップをはずした。ふたを開けるとアスパラを肉で巻いたものがあった。それを叔母の家でも食べたし、裕紀も家でそれを作った。彼女がそれを調理しているときの様子までよみがえった。彼女は鼻唄をうたっている。内容も希望が多い歌だったが、彼女が歌うと、もっと希望が満ち溢れるようだった。世界は善でできていて、なにも苦しめるものがないようにも思えた。しかし、彼女がまっさきにその善の世界から立ち去った。もっと幸せを全身で浴びてもよかった彼女が。

 ぼくは、それを口にする。ふたりの味付けは当然のごとく似ていた。しかし、ぼくは味覚を感じ尽くす前に、鼻のおくに塩辛いものを感じた。そこでトンネルに差し掛かり、ぼくの頬には涙のようなものが一瞬輝いて暗い窓に反射された。ぼくはうつむく。あるものがいまだに裕紀を思い出す材料になり得る事実に圧倒されている。ぼくは裕紀のことを誰かと話したい衝動を感じる。しかし、それを可能にしてくれる人物はそう多くない。ここにもいない。家に帰ってもいない。そうすると、ぼくはどのように彼女の記憶を残していけばいいのだろうという不安と切なさを覚える。いまのところは、叔母がいて友人だった智美やゆり江がいた。しかし、彼女らも自分の日々の生活があり、もちろん、ぼくもそればかりに拘泥できるほど気持ちの自由も許されていなかった。