爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 ac

2014年09月06日 | 悪童の書
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 三十八才にしてサーヴィスの何たるかを知る。逆にできない、許容できる少しの無駄を、面倒と無意味のタッグとして同一にするひとに憐みを抱くことになる。

 誰かが、どこかで身体のすみずみまでサイズを計測して、服を仕立ててくれる。それは作る側も着る側にとっても好都合であった。訓練とは、そういうものなのだ。放任主義などというのは、程度に限らず、愛情の欠如に過ぎない。捨て子と同じだ。

 サーヴィス。料理の注文が来てから、米を研ぎだす。結果は想像できる。テーブルの子どもはナイフとフォークを打楽器にして遊ぶことに夢中になる。

 満点を目指しても百点までしか取れない。到達と、越える壁との差はかなり大きなものだ。もちろんいくつかの問いには必然的に間違いが生じる。自分が問題を作成したとしても、時が経てば解答はあやふやなものと変化する。満点という設定は少年にとっての父の背中であり、越えてはならない聖域でもある。
 
 しかしながら異なったアプローチを試み、満点を越え、相手の満足を知り、次の仕事につなげる。タイミング(その時点で大まかな調理は済んでいる)を見計らい、締め切りと期日というものから逆算をして、テーブルに運ぶ。出すのは求められている資料であったり、提案の場合もある。ぼくは、あの日々にみっちりと仕込まれ、それ以降、あのひと以上に厳しく、かつ愛情を寄せてくれるひともいない為、まるで練習試合のように肩を壊さないで済んでいる。もう遠投も無理だが、テクニックでごまかすことも学ぶ。

 最大限の力。そのもっと前の仕事の女性リーダーの亡霊もぼくにはいた。ある時まで。仮縫いのような状況まで。

「あなたはまだ手を抜いている。もっと潜在的な力を現実の世界で示しなさい」

 と、難しいことばでいえば、このような無言の圧力をその亡霊はかけた。まだ、ぼくはノホホンとしている。

 変化を遂げたぼくは、コピー用紙がつまるのを恐れ、ネットワーク回線が停滞するのを察知し、業務が通常通り、運営に差しさわりがないよう見守る。その間に自分の仕事もある。こう書くと、卑屈な人間の見本のようでもあるが、決してそうではない。彼は認めてもいたのだ。ぼくというこの豊富な資源を秘めた存在を。深海の底にねむる財宝を。それは誰もが拒否したことだった。カットを拒まれたダイヤモンドだった。あるいは灰だった。

 全員が自分にとってのあの人に会っていない不幸と幸福を知らない。愚かなテレビドラマの主人公でもあった旧称スチュワーデスの見習いも教官がいたのにである。

 彼はぼくの勤務形態も心配するようになる。正式な契約を結ぶよう計らい、ぼくはひとの手を煩わすことに対してためらっている。だが、結果をいそげばサブプライム・ローンというこの世界の危機と直面して、結局は計画は頓挫する。ぼくは一先ず、安心する。誰かに足を向けて寝れないことなど、ひとつもあって欲しくなかったからだ。

 トレーニングの場から去る。次も、どこも戦場である。司令官がそっぽを向いても、ぼくは厭わない。各自が別々の方角に銃砲を向けても、関係ないのである。経済の危機で一喜一憂した社会をぼくは憎んでいるのだ。このことばもぴったりとしない。愛想を尽かしたという方が正しいのだろう。

 だが、ぼくの透明のスーツはぴったりと身体になじんでいる。糸のほつれも微塵もない。みなのスーツはサイズもばらばらで、ただそこにあるものに袖を通しているだけのように思う。

 相手の満足、あるいは不満の解消に時間を割き、徹底することにも喜びが生じるのだ。ただの一日のみの安堵かもしれない。安堵があるということは、良いことであった。焦りや焦燥は撲滅するべきだ。

 誰かが誰かを認める。その蜜月を第三者は怪訝におもう。やはり、ぼくは別の目を通せば、ダイヤに似せた模造のガラスだったのだろう。

 この愛想もなく、お世辞さえ流暢にあやつれなかった自分は、どこに出しても恥ずかしくないとアピールすることを普通のひとはためらう。さらに、もっと深くまで推察すれば考えもしない。だから、行動もしない。しかし、この一名は確実にしたのであった。ぼくは自分の父ともずっと不仲で、その所為だけではないのかもしれないが、権力や、その地位にあるひと、匂わすひとさえ背を向け、敬遠した。しかし、彼にもそういう雰囲気は充満していたのだが、壁は直きに取り払われた。

 ぼくの仕事での最後の日をむかえる。お互い、二度と会わないことは知っていた。ぼくは会社の玄関を出て、ためらうこともなく彼の電話番号を即時に消す。これもまた二度とかかってこないだろう。彼の見せてくれた世界は甘美だったのかもしれない。後日、似たようにぼくの評価の目盛りを上げるひとに出会う。ぼくは善意の詐欺でさえ信じていない。しかし、ふたりには共通点があった。なんと頭を開いて手術をしていたのだ。そういう過程を経ないことには、ぼくの優れているかもしれない面は、見抜けないのかもしれなかった。それもまた不当であり、真実を追求すべき課題かもしれない。だが、ふたりの身にとって、幸いな状況であったとも呼べない。みな、どこも開かない方が良い。疑うことのない事実であり、わざわざ多数決をとることでもないだろうが。