爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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11年目の縦軸 38歳-17

2014年02月27日 | 11年目の縦軸
38歳-17

「ここに、絵はがきがあるね」と、絵美は何かの束をつかんで言った。
「絵はがき?」ぼくは、そちらに視線を向ける。誰かが旅先からぼくに送ったものだろうか。そのようなものが家にあるとは考えにくかった。「なんだ、ポスト・カードか。どんなの?」

 ぼくは手渡される。いくつかの絵がこじんまりと縮小され、その紙面のなかにおさまっていた。

「いつ頃のものなの? 書いてあるか」のこりのカードを裏返し、美術展の名前と、開催され展示されていた期間を告げた。「もう十年ぐらい前。わたし、高校生ぐらいだったのかな。ねえ、誰と行ったの?」
「高校生?」ぼくは大人通しの親密なやりとりで絵美を判断していた。その一言で急に年代差を感じてしまった。
「誰と?」

「多分、これはひとりだろう」それは嘘でもない。このカードのときは確かにひとりで行った。その日の容赦ない暑い日射しのことすら思い出していた。だが、シャガールの一枚が呼び覚ましたものの答えとしては真実ではなく、深いところであの日の情景をぼくのこころに刻み付けていることを知った。彼女のあの日の服装。ぼくらに話しかけた美術館のなかの少女のこと。またさらにこの絵から受けた印象をもたらしたぼくの過去の少女の姿。

「誰が描いたの?」
「シャガールっていうんだよ。さまよえるユダヤ人」ぼくは、自分の内面の問題を別の次元の話題に転換させようとしているようだった。
「買うほど、好きだった?」
「ぼくが買ったのかな……」
「買わなかったら、ここにないじゃない」
「まあ、そうだけどね」ぼくは数枚の角をそろえて、元あった場所にしまおうとしたがまた絵美はぼくの手から奪った。「高校生か」
「そのころに、会いたかったとか?」
「やだよ」

「なんで?」
「だって、サッカー部員の誰かとか、ゲームがうまい誰かとかが好きだったんだろう?」
「そのとき、何才?」
「二十七かな」
「好きなひといた?」
「いたと思うよ」
「思う?」

「だいぶ前のことになったからね」
「写真とかないの?」
「ここには、ないんじゃない」ぼくは思い出を客観視することをきらった。それはぼくのなかで酵母のように発酵をつづけていた。決して腐らず、容積が少なくなることもない。ぼくの一日のうちの数分はそのなかの住人でいる時間もあった。写真はその没入を避ける役目となるかもしれない。だから、ぼくは過去の写真に未練がないのかもしれなかった。
「わたしと撮ったの、どうしてる?」
「あるよ、ここに」ぼくはある箱を指さす。

 絵美は確かめるようにそのふたを取った。
「随分と乱暴な片付け方だね」
「ガサ入れ」
「あ、ひどい」

 ぼくらには数か月の過去があった。その瞬間のいくつかがそこに切り取られて保管されている。深い思い出となるにはまだ日が浅かった。ぼくは糠床を大事にするひとのことを想像する。あれ自体を食べるわけではないが、あれそのものが宝なのだ。きゅうりやなすの奥底まで浸透し、味をかえる。ぼくも生まれたばかりのまっさらな状態ではなく、周囲の力や愛の圧力によって、どこかで変化していた。その変化は正しいとも悪とも呼べない。ただ加わる機会があっただけだ。そして、その加わったものから変形を強いられたことを通過しないと、いまのぼく自身にもならなかったし、なれなかった。やはり、正しいことなのだろう。

「このときの、絵美、眠そうな顔してる」
「髪もぼさぼさ」
「でも、可愛いよ」
「ほんと?」
「うん」
「でも、これもいつか捨てちゃうの?」彼女はもうすでに処分が決まって、手放すときのように悲しそうな顔をする。
「どうして?」
「だって、古いのもうないじゃない」彼女は首を周囲にまわす。

 ぼくはこぶしを自分の胸に叩き付け、「ここにあるよ」という風に振る舞った。それは事実でもあり、同時にごまかしでもあった。その両面が普通のこととしてあるのをいまの自分は気付いていた。ひとは真実を打ち上げながら、どこかで歪曲させている。平気で嘘をつこうとしながら、真実がまぎれてしまうこともある。嘘が信用され、本質が疑われることもあるのだ。ぼくは見抜くということを主題にして生きようとした自分の過去を思い出し、いまになってみると、自分の気持ちすら正当に見抜けないことを感じていた。
「ぼくがもってなくても、誰かがもっているんじゃないの?」

 それはあくまでもぼくの大いなる期待であった。だが、なくした尻尾を大事にする爬虫類などいないだろう。ホルマリン漬けにして保管する技術もない。ひとは自分の過去を大事にしている。だが、それもどこかで脇道にそれてしまったように、別の観点から味付けされていた。誰もとがめないから。第三者が指摘できない範囲にとどまっているからこそ。

「誰かがもってるの?」
「絵美の高校生のときの写真を大事にしているひともまだいるよ。清純で、おとなしくて」
「垢抜けなくて、野暮ったくて、田舎くさくて」
「それが清純だよ」
「じゃあ、もういらない」

 ぼくと絵美のふたりがうつった写真は箱にしまわれた。ぼくはアルバムのようなものを買おうと思い、そのことを告げた。ぼくらは外に出て、買うことに決める。ひとが生きれば荷物ができる。そして、全部を捨てたくないのに、また生まれた状態の裸に戻される。途中で得た感情や愛は、どこに葬られるのだろう。いまのところは、アルバムのなかに丁寧に挟まれる。それよりもっと多くのものがぼくのこころにあり、ある一枚のカードがきっかけで簡単に想起され、ぼくのこころを揺すぶりつづける。
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11年目の縦軸 27歳-17

2014年02月26日 | 11年目の縦軸
27歳-17

 同じものに向かって対象を見るということが単純に幸せに近いと気付く。

 ぼくは希美に誘われ、美術館に来ていた。彼女は一枚の絵を見たがっていた。ぼくらはその前にいる。ぼくは希美をまっすぐに見つめるということに飽きることはないだろう。だが、横にいるだけでもうれしいものだった。ぼくは別の絵にも感心している。素通りさせずに、立ち止まらせる力のあるものが数点あった。描くという衝動にかられ、それなりの時間をつかってから描き終えたという段階になり、誰かが購入して手を離れ、紆余曲折があって外国の美術館に保管され、いまは東京のここにあった。その変遷を経たわりに、どれもみずみずしさは失われていない。昨日、描き終えたばかりのように。

「これ、シャガール。この一枚」と、希美はうれしそうに言った。その場で飛び跳ねることはできないが、こころのなかではそうしているようだった。かかとが鳴って甲高い音を響かせなくても、全身で訴えていた。

 ぼくは希美がよろこばなかったら、簡単に数秒だけ見つめて直ぐに印象全体を忘れてしまったかもしれない。だが、希美の動きに合わせるため、ぼくらは肩を並べ、その絵の前で立ち尽くす。
 男女が手をつなぎ、空中を浮遊している。青が主張をしている。いや、主張という言葉をあてはめるには、あまりにも淡い色彩だった。ぼくは過去に自分もこのような気持ちになったことを思いだしていた。その過去というものには、ひとりしか出演できない。だから、あの少女だった。

「いい絵でしょう?」ぼくも見惚れていることに、自分との同調を感じた希美は感激をつつみかくさずにあらわした。

「そうだね」ぼくはこの絵の判断をわざと先延ばしにするように意味もなくそう言った。接して受ける影響がどういうタイプのものか、猶予が与えられる。もし、この絵が現実ならば、絶対に地面に足が着いているべきだ。しかし、この満足そうな表情には、この浮遊が不可欠だった。これは、それでも満足なのだろうか? 終わることが決められている間で最高に楽しもうとしていることなのか。悲劇が来るまえに、喜びをいただこう。

 ぼく自身が画布に描かれていたとしたら、となりの女性は希美であるべきだった。ぼくはこの現在の幸福を、自分に起こり得た最高の地点と考えている。それは一足飛びに迎えた高みではない。一段ずつ階段をのぼり、ここに到達したのだ。これ以上の高さがもしないとすれば、あとはゆっくりと下降するだけなのだろうか。下降しかないのならば、それは当然ゆるやかにしなければならない。別の次元にもちこまないために。

 いや、ぼくは嘘をついている。この女性は希美の投影ではない。ぼくの過去に出現したあの少女だった。ぼくらは彼女の家に通じる塀がそびえ立つ道路で、ひしと抱き合った。ぼくはこのように人間の身体を抱いたことも、また抱きたいとも思ったことはなかった。ぼくはずっとこの女性を愛するのだろう、という誓いの言葉を自分に念じた。すると、その肉体があろうが目の前からなくなろうが、その正当性は疑われるべきものでもなくなった。ぼくはシャガールの絵を前にして、その古びた誓いをいまになって思い出している。

 ぼくらは抱き合った身体を数分後に離し、ぼくはひとりで浮遊するように帰った。そこで実際に居ない彼女の手の感触を認める。幸福は落下ではない。宙に浮くことなのだ。

 だが、ぼくには希美がいた。ぼくを幸福にさせてくれるのは、いまでは彼女だけだった。彼女は絵と同じようにぼくの手を握る。

「この絵みたいに、ずっと、こうしていよう」

 希美がそう言うと、長い髪を結んだ小学生ぐらいの女の子がうしろで笑った。異性に対して恥ずかしさというものが芽生えるような年代だった。その子にとって、ぼくらのこの姿はどのように映るのだろう。羨望なのか、それとも羞恥なのか。醜さなのか、あこがれなのか。

「ごめんね、ここ、ずっと占有していたね」希美は膝をかがめ少女の目線にあわせて謝った。
「せんゆうって?」
「一人占めしちゃうということ」
「お兄ちゃんを、一人占め?」
「違うよ。この青い絵」
「だったら、もっと見ててもいいよ」その子は、待つことに慣れているような達観した表情になったが、直ぐに好奇心で目を輝かせた。
「わたしたちの前で見て」

 ぼくと希美は後ろに下がった。すると、その空いた空間に少女と母が並んで立った。ぼくらはそのふたりの頭越しに絵をふたたび見始めた。

 少女は振り返り、「もう、いっぱい見ました」と急に大人びた口調になって言った。その年頃にしかできない笑顔も同時に見せた。希美は手を振る。しかし、ぼくらももう充分、堪能した。堪能し過ぎた。

 ぼくらはゆっくりと次の絵に向かう。
「占有だって。一人占めだって……」と希美は楽しそうに口にする。
「戦時下の友の戦友かと思った」ぼくは、わざとふざける。
「それも、悪くないね」

 ぼくらは最後の絵を見終わり、アンケート箱の横を通った。別の一室にポスト・カードやカタログが所狭しと並べられている。はじにさっきの少女がいた。後ろ姿は、あの十一年前の記憶と重なる部分があった。あと、四、五年もすれば、ぼくみたいな男に好かれるようになっているのかもしれない。彼女も一人占めにしたがる何かを見つける。誰かを探す。探すというのは意図的な言葉であり過ぎる。ぶつかるということが意味合いとしては近いのだろう。希美は何枚かのカードを手にしている。コピーという概念も無駄なほど、本物とは無関係のようにぼくには思えた。
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11年目の縦軸 16歳-17

2014年02月25日 | 11年目の縦軸
16歳-17

 いったん、はじまってしまった恋する気持ちは簡単に終わりそうもなかった。また、終わらす理由もひとつもなかった。さらにいえば、その感情を詳細に分析する必要もなかった。漠然と好きであればいい。反面、一度、アクセルを踏んでしまえば惰性でどこまでもつづくというものでもない。まっすぐな道ばかりではなく、どこかに曲がり角があり、どこかで行き止まりが見えて、迂回しなければならなくなるだろう。遠い先で。

 ぼくはこの感情の初心者であり、免許を取り立てたばかりのようだとも考えていた。まだ、高速の入口に差し掛かったこともない。並行するドライバーや歩行者など、端的に他人の視線なども意識せずに、遅々とした速度で車を走らせていた。ガソリンが切れる心配もなく、そして、ガソリン・スタンドに立ち寄ってタンクの穴に向かい液体を満タンに注ぐ機会も未経験だった。

 だが、相手のあることだった。別の誰かが彼女の前にあらわれたり、もしくは自分の前に別の魅惑的な存在がでてくることも考えられる。だが、それもいまの自分が予想してのことであり、当時の自分はすべてに対して疑うという行為も、その可能性も微塵ももちあわせていなかった。

 ケーキは食べれば終わった。違う種類のものであれば食指が動くが、同じものは飽きるという性質がある。ケーキ自体に関心がなくなるということも起こり得る。好物は、いつまで経ってもその立場が揺らぐことはないという法則に似たものもあった。しかし、対象を突然に変えるということも考えにくい。ぽっかりと空白のところに忍び込むというのが順番の面でも、正義という面でも妥当だった。だが、恋という感情に振り回されることは順番の優劣でもなく、正義という摩訶不思議なまじめくささとも無縁だった。

 ぼくはひとつの関係が終わるとどれほど悲しむのか自分でも分かっていない。終わるということは喜びになった状況も反対に思い出している。卒業は入学の前提の門であり、新しいおもちゃは古い遊具とのお別れだった。もうぼくはあの遊びを楽しいものとは思えなくなった大人なのだ、といういさぎよい認識と宣言があった。

 そこに甘いなつかしみのようなものを後日、知ることになる。だが、なつかしさも基本的には手放した事柄からしか生じなかった。常に引き出しに入って手で触れるものに、なつかしさなど生まれはしないのだろう。

 そのぐらい新鮮であった。新鮮さしかなかった。運転のテクニックも身に着けておらず、手練手管という地点もあることすら知らない。ぼくらの前にはいくつかの記念日がある日できて、その回数が増えることが見込まれていた。まだ、ひとつも起きていないことが圧倒的に多かったのだが。

 新鮮さを重要視すれば、新鮮で終わるしか解決もない。夭折の天才。薄命の美人。その貴さを過大にすると、失った側は大きな損失の悲しみしか残らない。そこには泥まみれの愛着もない代わりに、神秘的な透明さがあった。憎まれもしなければ、本心を分かち合うここちよさもなかった。ぼくは、どちらを選ぶのだろう。どちらも選ぶとしたら思い出はどういう色彩を放つのだろう。

 こう考えながらも、ぼくは彼女を送りひとりで帰るときにすら小さな悲しみと対面した。数日後に会えることは知っていながらも、その数日を待ちわびた。

 家に帰り、ぼくは物事を学ぶ青年にもどる。ライ麦畑という若さを封じ込めた物語があった。大人の偽善をゆるせない少年は、大人になってからの視線を勝ち得ることもできなかった。ぼくはラジオをつける。大人になることを拒んだ青年は、窓ガラスを割る歌をうたい、熱狂的な少年たちの偶像となった。ぼくは学校という枠組みからすでに離れてしまっている。反抗すべき体制は、もう学校ではなかった。バイト先の大人たちはほとんどのひとが面倒見もよく、優しかった。第一、イライラと不満感を継続させるには、恋というスパイスは中和する機能を充分に含み過ぎていた。ぼくは本を閉じ、ひとりだけの生活のことを考える。

 ひとりというのは自由でもあり、同時に不自由でもあった。ぼくには電話をかける相手がいなければならず、同じ程度にかかってこなければならない。シャガールという画家の絵をぼくはまだ知らない。しかし、その後、この画家の描き残した空中を浮遊するような男女はまさしくこのときのぼくの気持ちを代弁してくれていたことを知る。そこには、やはりなつかしみがある。甘い痛みは、甘くなる前に充分な苦さと痛痒を引き起こしたのだ。だが、人間は簡単に死にもしない。その場その場で大きくもない喜びも贈られてくる。炭酸飲料の泡だけが爽快さを起こすわけでもない。

 ぼくは風呂に入り、本をまた開いた。恋する男女の感情をぼくはいくらかだが知っている。死別という大層な状態に感情移入することはむずかしいだろう。だが、ぼくではない誰かが愛するものと強制的に別れさせられたり、憐れにも恋人や妻の死に顔を見てもいるのだ。ぼくは幸福だった。陳腐な使いまわされた表現だろうが、ぼくはその状態を当然のことだと思うほどに、幸福であり、無知でもあった。その無知は無知のままで正しく、誤りを追求されたり、責められる必要も確かになかった。
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11年目の縦軸 38歳-16

2014年02月20日 | 11年目の縦軸
38歳-16

 愛だって? それは一瞬にして燃焼するものでもなく、簡単に燃え尽きてしまうものでもなかった。ぼくは、ついちょっと前までそう考えていた。ぼくは望んでいなかったにも関わらず、花火のようなものとして認識していた。だが、頂上の景色をずっと見つづけることはできなかった。いずれ下山する。そして、あの頂での景色を大切にする。到達だけが愛でもない。過程も愛であり、失敗も愛である。

 しかし、ぼくはもう愛などというものを信じてもいなかった。Tシャツの着心地の良さや肌触りは決して定義するものではないように、あるべきものがそこにあればいいのだという解答になる。大して気にもしないことの集大成が愛らしきものである。あって当たり前ということとも違う。普段の何気なさがここちよかったり、親密さをもたらせばそれは正解であるのだ。多少の在庫をもっているという安心感は愛に勝った。いや、それが愛というものの総称にも思えた。

 絵美がいる。いなかったことも考えられる。目の前に存在するからこそ、付き合いたいという願望が生まれる。その感情を起こしたのは彼女でもあり、また自分のなかにあった燃焼物がふとしたきっかけにより点火されたのだ。燃やそうと思えば燃えるし、消そうと思えば消えた。ある時期までは。いなくなっても困らないという状況にはもう戻れないだろう。しかし、いなくなっても対処できるという判断はどこかで働いている。それがずるさでもあり大人になったことと引き換えに得た代償だった。

 では、純粋ではなくなったのか? もう大人に純粋さなど要求しないことを知っている。どうすれば、長持ちさせられるかを検討し、ある期間を楽しめるのかを分配という意味で均した。花火の結晶のような火ではなく、暖炉のなかで柔らかに暖かく燃える木材をぼくは求めていた。エキセントリックや狂気などということはぼくの生活に入る余地もなかった。

 でも、それをできるひともうらやましいとはどこかで思っていた。人目もはばからずに泣き叫ぶ女性をなだめたり、大喧嘩をしてあやまったりすることも不可能な状況ではないのだ。だが、求めていない。求めなければ大体のものは手に入らない世の中なのだ。

 では、求めたからここに絵美がいるのだろうか。その仮説も説得性に欠けた。偶然の産物を無限に積み上げることが幸福で、無限に奪い去られることが不幸だった。求めなければ、奪い取られることもないのだろうか。油断や隙が恋を終わらせ、油断しないヒリヒリとした関係もぼくが望んでいる状況ではなかった。

 ぼくと絵美は小高い丘からひとびとが住む屋根を見下ろしていた。その屋根の下のひとつひとつに無数の愛があるということを信じる気持になっていた。だが、そうさせるには情報があり過ぎた。情報というのは悲嘆のもとだった。大人は情報も悲嘆も避けられないことを知っている。いくつかには憎しみがあり、憎悪も屋根の下にはあることだろう。それは変化するにせよ、いつも良い方向に限って変化するものでもない。だが、自分の平安な気持ちがここでは勝っていた。穏やかな愛というものは潰えないのだとの信頼があった。ぼくらは声も出さずに、手を握って屋根と、その向こうの空を無心に眺めていた。

「なに、考えてるの?」と、絵美が訊く。
「あのひとつひとつの屋根の下には等身大の愛、違った言葉でいえば優しさみたいなものがあるんだなって」
「多分、あの家のなかでは赤ちゃんのおむつを替えている」と絵美は冗談まじりの口調で言う。

「じゃあ、あのなかではテストに合格したよろこびを息子から電話で告げてもらっている両親がいる」ぼくは左側の屋根を指差してそう言った。
「あの屋根のなかでは蛍光灯が切れて、仕事から帰ったOLさんが驚きながらも我慢して暗いなかで夕飯をつくる羽目になる」
「ローソクとかないのかね?」

「ある日の、わたしの話だよ」
「買いに行かないの?」
「面倒になって、明日の仕事帰りにしようと思ったから。テレビをつければ、それなりに明るくなったし」そして、笑った。「切れる直前に警告のように教えてくれればいいのにね」
「誰か、発明するだろう」
「楽観的」

 ぼくらは丘をあとにする。頂上にいつまでもいられない。それにしては小さな勾配は高さをもたらせてはくれなかった。これぐらいの位置がぼくの心境として正しく、身の丈にあった相応しい状態なのだろう。ぼくらは歩きながら赤ちゃんの泣き声をきき、電話の鳴りつづける音もきいた。幸福がかもす音であれば良いのにとぼくは考えている。ぼくは自分の家の照明のことを思いめぐらす。あれはいつ取り替えたのだろう? そんなことは一々覚えていないものだ。簡単に忘れる。いつか取り替える日が来る。それは訓練も技術もいらない簡単なことだった。手を伸ばし、はずして付け替える。古いものは処分する。痛みも悲しみも生じさせてはくれない。痛みというのはぼくの要求だったのだろうか。平気で別れることができていたら、ぼくはもっと平和で穏やかな人物だったかもしれない。しかし、あの痛みも確かに必要なものだったのだ。ぼくという人体の小指の第二関節から先ぐらいは痛みでできているのだろう。それぐらいで済むのなら、あと数回は乗り越えられそうにも思えた。
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11年目の縦軸 27歳-16

2014年02月19日 | 11年目の縦軸
27歳-16

 冷蔵庫のなかのジャムがとっくに賞味期限が切れていることにいま気付いた。ぼくは瓶のふたを開け、中味をレジの袋に入れ、瓶をすすいだ。別々に捨てられる。日付だけの基準だが、見た目は傷んでいるようにも思えず、香ばしい匂いもした。新しいものを買い直すことを検討するが、特別、緊急を要する問題でもなかった。それに、朝、トーストを食べるという習慣もどこかに置き忘れてしまっていた。

 何個ものジャムを買いためることも必須ではない。ひとつが終われば、ひとつを買う。ぼくは戸棚を開け、いらなくなったものを処分するために点検をはじめた。わざわざ開けなければそれらはいつまでも居続ける。当然のことだ。ぼくは何が入っているかも覚えていない。急に発熱でもすれば薬のことを思いだす。指でも切れば、絆創膏のありかも探す。家具でも買えば、ドライバーを見つける。その切羽詰まった必要もなければ、安らかに暗い冷ややかな場所で眠りつづけることができるのだ。

 すると、玄関のチャイムが鳴る。そこに駅ビル内の店のロゴが印字された買い物袋を下げた希美の姿があった。

「どうしたの、こんなに散らかして。大掃除?」希美が床に散乱しているものを見つめて訊いた。
「いや、そうじゃないけど、急に気になって」
「気になると、やめられなくなるよね」そう言うと、いくつかのものをつかみ、ラベルや用途を確認した。

 希美はしゃがむと乾いた布でほこりを拭い、ぼくに手渡した。もし、ぼくが十一年前の愛を継続していたら、この関係がそもそもなかったことを再度、思い出す。あれは賞味期限が切れた訳でもない。愛は確かに新鮮なままだった。正確には、まだ愛にもならないものかもしれない。産着でくるまれた愛の新芽。瓶のなかで発酵も起こっていなければ、もちろん、腐敗も生じていなかった。これからが甘味度を増す時期で、最高潮を迎えるはずだった。前奏が終わり、静かで穏やかな起伏がこころを高め、最終章に至る。だが、タクトは直ぐに置かれた。譜面も揃っていなかった。それは演奏と同時に書き足すようなものだった。自転車操業。ぼくは不似合いな言葉をあえて当てはめる。自虐の証拠として。ぼくは観客の立場になり指定のシートから、前方の一段高い舞台に陣取り演奏の指示を待ちわびるオーケストラの面々を呆然と見守る。あれが、過去の等身大のぼくの姿なのだろう。指示がないので微動だにできない。

「どれも、思い出がある」と、突然、希美が言った。
「とくにないよ、こんなものに」ぼくは何に使うか分からないコードの端を持った。
「じゃあ、捨てる?」
「何かに使うのかな?」ぼくのものでありながら、もう既にぼくのものとして使われなくなったものたち。引っ越しでもしなければ、ずっと、居座りつづけるものたち。捨てることさえ勇気がいるのだろうか。勇気はそのなかに拒むという要素を小さな芯として内在させているようだ。ぼくは、その拒みの理由をあれこれと考える。

 結局、いくつかの袋に選り分けられ、残るものと捨てるものが決められた。ぼくは手を洗い、外出のついでにゴミ捨て場に持って行った。
「さようなら、過去のものたち」希美はわざと演技者のような声音を用い、きっぱりとそう言った。

 ぼくらはスーパーでささいな未来を買う。今日の食材。紅茶のパック。明日のミルク。
「このTシャツ、ちょっと、えりがヨレヨレ過ぎない?」スーパーを出て家までの道を歩きながら、希美はぼくの首回りに手を入れた。
「そうかな、これも捨てるタイミングかな。気に入っていたのにな」ぼくは残念そうに告げる。
「わたしは、捨てないでね」希美はふざけている。
「なんだよ、今日は、一日、女優みたいなふりするのか」
「それぐらい、大切にしてくれればいいのに」
「してるよ」

 多分、しているのだろう。ぼくには構想がある。譜面もちょっとずつ書き足している。おそらくこの女性と結婚するのであろうという淡い期待もある。その記号をどう表記するのかは分からない。まだ、紙のすみにメモ書きをしているぐらいだ。楽団員に教え込む。こういう音色で。もうちょっと官能的で、もうちょっと跳びはねるようにと。

 ぼくの女優はシチューを作っている。安っぽい換気扇が頭上でまわっている。そこから外で遊ぶ子どもたちの声が侵入してくる。アクセント。完璧なる譜面があっても楽器を奏でるひとがいなければ宝の持ち腐れで、反対に演奏者がいても、ここちよいメロディーがなければ、ただの曲がった板を組み合わせたものの番人に過ぎなかった。ぼくらは演奏したり、自分たちの物語に出演もする。大まかな指示はあるのだろうか。ぼくら自身で力を合わせ生み出すことが重要なのだろう。ぼくは過去に破り捨てたものもどこかに置いていた。押し入れや引き出しの奥に隠されている。この希美にだって、成し遂げられなかった夢のひとつやふたつはあるのだろう。そこに新たな楽譜を継ぎ足していく。まっさらなものなど手には入れたくもない。いや、演奏次第では新鮮になるのだ。ぼくは料理の完成した匂いをかぐ。ここで、最高潮のシンバル。だが、鳴らない。ホールは静かなままだ。しかし、希美の暖かな声が響く。それは何よりも聞きたい音色だった。ぼくの部屋をみたし、こだまさせたい官能さも真実味も帯びたぼくの耳の鼓膜を揺らす素敵な音だった。
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11年目の縦軸 16歳-16

2014年02月17日 | 11年目の縦軸
16歳-16

 ぼくが学校を卒業して、彼女との交際を身近なものとして意識する夏の終わりまでの期間に、自転車に乗る彼女とすれちがったときの映像をぼくは大切にする。ぼくらが無関係でいる山場なのだ。ぼくらは多くの思春期の異性に対する態度と同様に無関心を装い、挨拶もせずに通り過ぎる。そうする義務もない。だが、あのときにもう萌芽はあったのだろうか? ならば、それはいつかなくなるとも考えられるのだろうか。なくなるのは成就したときだけなのだろうか。

 ぼくらはお互いがその場所を覚えている。地点といった方が正確かもしれない。ぼくらは無関係な状態を打破し、いまはふたりで歩いている。その辺りを通過するときに、どちらからともなくあのときのことを語る。ふたりの視線のなかには互いの姿が存在していた。しかし、親しい間柄でもない以上、立ち止まってわざわざ会話することもない。だが、なつかしい甘さのようなものがある。なつかしさとは戻れない郷愁のようなものを指すのだろうか。ぼくはあの交流がない関係の当時に戻りたいとも思わないが、どこかになつかしさのようなものも感じていた。半ズボンを常用していた少年時の夏の日々のように。

 好きになるということは相手を知るというところからはじまり、知るというのは自分の世界に入っているものから選ぶという当然の理屈のことを言おうとしている。ぼくらは交際前から近隣にいるため、同じ学校にいなくなっても相手と会うチャンスがあった。だが、多くはその小さなチャンスにまで気を留めない。ぼくらは歩きながら、あの過去を振り返っている。数か月間の経過でさえ、ぼくらには話し合う過去ができる。ぼくはその分量を無制限に増やしたいと願っていた。あのとき、あなたは確かにこう言った、という詰問を知らない世界の住人のままだった、ぼくは。だから、なつかしんでもいるのだろう。

 ぼくらはある店に入る。ぼくは備え付けの雑誌置き場から一冊の雑誌を取る。若者のデートの極意を教えるような雑誌が数多くあった。女性は、こういうことをすると喜ぶ、とか、期待しているという類いのものだ。ぼくらは鵜呑みにするほど馬鹿でもなく、却下するほど愚かでもなかった。ぼくはそのサンプルとしての不特定多数の女性の感情より、この生きた目の前にいる女性の思考の方を当然のこと大事にしていた。さらには、並列におくことすら許していなかった。彼女はサンプルでもなく、その他大勢でもなかった。しかし、この有益でもない情報も傍らにおいてありがたがらなければそれなりに機能していた。だから、ぼくは雑誌を手に取って眺めていた。

 男性の視点から見た、若い男性向けの雑誌。ぼくらは別の代替案を出せるほど経験もなく、蔑視することもできないほど女性の機微に精通していなかった。笑い飛ばそうと思いながらも、どこかで参考にしていた。自分の未熟で愚かな行動を恐れながら、友人たちと親身に作戦を練る訳にもいかなかった。あとは、自分の思考と見栄とスタイルで作り上げる必要があった。ダサいという評価を恐れ、格好わるいという宣告に傷ついた。男性というのはデリケートな生き物だ。その生き物が愛すべきものを前にしている。

 この場所もぼくらの後年の思い出になるのだ。ぼくはまったく意識もしていないが。思いがけない記録を生み出してしまった十代のスポーツ選手と同じぐらいに未来に対して無知である。あれが自分のピークでもあったのだという早い時期の到達に戸惑う。今後、もっとうまくなる可能性というものを信奉する年頃なのに。

 すれ違っても会釈もしなければ、手を振り合うこともなかったふたりが向かい合っている。ぼくにはそうする権利がある。ひとつひとつ意思を確認しなくても、許される範囲がひろまっていく。ぼくは彼女の瞳だけでぼくへの好意を判断するほど長けてはおらず、常に彼女のこころの動きを心配するほど幼くもなかった。あのすれ違った日より確実にぼくは女性に優しさを示す楽しさを知っていた。はっきりいえば雑誌の提案が教えてくれたものではなく、この実体験を通して身に着けたものだった。そうすると、彼女はさらにたくさんのぼくの胸に眠っている感情を呼び覚ましてくれるのだろう。反対に、彼女もぼくといて似た気分を味わってくれているのだろうか。だが、ぼくに切実な心配もなかった。ぼくは会話という会話に夢中にならなくても、そばに彼女がいるだけで安心感を得られていた。ご主人の足もとにゆったりと寝そべる飼い犬のように目をつぶっていても動作のひとつひとつを理解していた。ひとことも話せなかったあのすれ違うふたりの間柄からは大きな変更があった。変化は常に美であり、有益であるのだという短絡的な答えになっても恥ずかしがることはない。もっと大きな変化があるのかもしれない。ぼくは早くピークを迎えたスポーツ選手の残像を忘れようとしている。怪我も負傷もなければ、優勝台に立てたのに、と淡い歓喜の瞬間を自分のものにできずにいたグラウンドに背を向けて立ち去る青年の幻の姿を。敗者だけが受け取れる記念の砂も袋に詰め込めずに手ぶらで去る姿でもある
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11年目の縦軸 38歳-15

2014年02月15日 | 11年目の縦軸
38歳-15

「大丈夫だよ、生理があったから」絵美は無意識ながら自分の左手で腹部を抑え、そう言った。
「そう、やっぱり」

 彼女は一年に何度、そうしたチャンス(あるいは失策)と向き合うのだろう。年におよそ十二回ほどのチャンス(あるいは失策)が巡ってくるのだろうか。女性としての自然な資質が及ぼすサイコロの目やルーレット。約数十年に亘って。

 ぼくは喜びながらも、それは完全な喜びともいえない。反対に真剣な様子で絵美に異なった真相を打ち明けられたら、どういう率直な応対が待っているのか自分でも分からなかった。

 ぼくは少なくとも今後一か月間は父親になるのを避けられ、彼女も同じ時間だけ母親、もしくは母親になる準備をまぬがれた。ぼくらの行為はそもそも、そうした決意は含まれていないのだ。

 おそらく前のふたりの女性は誰かの母親になっているのだろう。ぼくは彼女たちが病院で出産する現場の幻想をもてあそぶ。化粧っ気のない顔。格闘をした証拠。生み出された小さなかたまり。泣き声。ぼくは、絵美の安堵した顔を見ながら、そのいくつものシーンを大切にしていた。

「うれしくないの?」
「うれしいよ。ガッツ・ポーズしたいぐらい」
「変なの」

 ぼくらはまた一か月後に判明する賭けのために服を脱いだ。サイは投げられた。

 実行するひと、分析するひと、批評するひと。楽しみと賢さの分野を分ける。能動者。受動者。父親になるひと。責任から逃れられるひと。酔いだけ手に入れて、二日酔いの苦痛からは無縁でいられるひと。ぼくは精神的なものの分量に比重を置いてきたつもりだったが、それは若さとともに段々と薄れていくようなものだった。ぼくはむかし、希美が横にいることでなぐさめられ、ある種の問題を乗り越えた経験があった。精神という単体とは別の次元で、肉体の接触がもたらす安らぎがあった。絵美はまた違う。ぼくらは時にぶつかり、その解決策としても身体をつかった。それは口ゲンカよりもっと皮肉な形で、お互いを理解する道具だった。ぼくは潔癖でもなく、当然、不潔という範疇はもう捨てた。極論をいえば絵美の忠節を問題にすることもやめていた。しかし、ぼくに妊娠の可能性の有無を告げる以上、ぼくには責任があり、ぼくが父親となる仮約束はあった。

 厭世的ではいられないほどの喜びに包まれているのも事実だった。ぼくは行為者であり能動者であった。他人の批評も気にならず、ふたりだけがもちよった時間だった。ぼくらは外をいっしょに歩く。会話が重要であり、ぼくは彼女の声が好きだった。ぼくらは同じような仕事をしており、その手際の良さや能率を認め合っていた。どこが合わないというところもなく、犠牲にしていることもなにもない。完璧であるといえばそう思えたが、もう、完全さなど求めていないのもまぎれもない事実だった。

 だが、事実という言葉の積み重ねで関係を分類し、分析することもできない。相性という不確かなものが多くを占め、匂いひとつとっても好悪は、はっきりとするものだ。

 希美と話し合ったむかしのことを思い出していた。彼女はぼくとの関係を安心できるものと確認するため、さまざまな質問をした。ぼくはときには愚問だと思いながらも、誠実に答えた。そのぼくの口から飛び出したものは、切迫した状況でのぼくの行動としての答えと比較するならば、まったく違うものだと頭の奥で分かっていた。ぼくの答えは気に入られるように手を加え、秘伝のスパイスを入れて味付けをごまかした。いくら問いの答えを重ね合わせても安心を手に入れることは難しいだろう。どこかで答えと答えには漆喰でも埋め尽くせなかった隙間ができ、漏水をもたらすようだった。それが過去の希美の涙の原因だったのだろう。

 ぼくは自分の十一年後の世界にいた。その世界に希美は引っ張り込めなかった。代わりに絵美がいる。彼女はぼくを知るために、知り尽くすために質問を繰り返すことなどはしなかった。彼女にも経験があり、男性を見抜く目、あるいは、見過ごす目が発達してきているのだろう。ぼくはその快適さに甘える。そして、父親にもならず、夫にもならず、この甘美さを吸い尽くそうとしていた。

「どうしたの、大丈夫?」
 夜中、ぼくは肩を揺すられ、起きる。
「どうしたの?」
「違うってば、なんだか、うなされていたから心配になって」絵美の深夜の顔。こわがった様子。

 ぼくは夢を見ていたのだ。その中で、過去のある瞬間を再び経験し、謝るべきかどうか確かに迷っていた。そういう反省を自分に促そうとしている自分は悪人にはなり得ず、また実際に過去にしたのだから悪人とも呼べた。ぼくは別の時間軸で自分の行いを判断しようとしていた。完全に引き離すことなど同じ感情をもちつづけた人間には困難で、また同一だと思えるほどぼくら(ぼくと過去のぼく)は、はっきりと区別され他人という状態になってしまっていた。兄弟よりもより親密で、親友というには欠点を知り過ぎ、その長所や短所もふくめて愛することも不可能だった。

「こんなときに言うのも、なんだけど、子どもができても、どうにかするよ」
「え?」
 プロポーズと呼ぶには悲観的過ぎ、関係を永続させるためのひとことだったら、ロマンチックとはほど遠かった。彼女は薄くなったTシャツを着ていた。その胸の小さなふくらみの上にアルファベットの文字が並んでいた。ぼくは目も見えず、点字でそれを読み取れればいいのにと利己的に考えていた。彼女は立ちあがって冷蔵庫から取り出した水を飲んだ。仕舞うかどうか悩んだ末、ふたをしめてからぼくのもとに持って来ようとしていた。ぼくの目は胸の文字が読めるぐらいに冴え、その分だけ夜は遠ざかってしまっていた。
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11年目の縦軸 27歳-15

2014年02月13日 | 11年目の縦軸
27歳-15

 ぼくは何度も女を抱いてしまった。数えるのも億劫だという表現にはとても足りないが、実際に数えはしない。天文学的な数字にも決してならない。ひとは、特に自分は、なんの為にこのような行いをしているのだろう。快楽の追求のため? そうならば、ぼくはそれほど快楽を追いかけている訳ではなかった。一体感のため? ぼくは、それが成し遂げられたことを発見してはいなかった。せがまれるから? ぼくは、自分の欲求を無意味だと思いながらも理由づけることを止められずにいた。

 もちろん、うれしくない訳ではない。告白し、関係性を深め、ゴールに向かう。順番も違うこともあると友人たちは言うが、ぼくはそういうものだと思っていた。だが、ぼくは、十数年まえに、あえてかどうかは分からないが、未遂という適当ではない表現を用いながらも、歴史のふるいにもれて正当化できないからこそ、あの関係を貴く感じていた。ぼくは自分の真下に横たわる彼女を知らない。やはり、そのことは快楽を抜きにしても逆説的に貴重なことだったと思う。

 未遂でもない。寸前にもいかなかった。ぼくらはそうなる関係性を築く前に終わってしまっていた。いつか、もっと時系列ごとに順を追って先に書くべきなのだろう。だが、十一年後から振り返れば、答えは、はっきりと出ているのだ。右往左往することもできない。後悔はとても遠く、絶版された品物のように入手したり、さらには過去の思い出に加筆、修正することもままならなかった。

 だが、後悔なのだろうか、そもそも、その関係自体は。コンテストに出品するために何度もケーキをつくるひとがいたとする。完全なものとするために、分量を変え、焼き方や火の入れ具合もさまざまな方法で試す。ひとつ前に作ったものが納得のいくものだったと、あの方法を再現しようとするが、温度や湿度によっても味や舌の感覚は変わってしまう。だが、一度、完成に近いものができたのだ。あれをコピーすれば、コンテストの表彰台は自分のものなのだと、自分自身の未来の姿に羨望する。

 その経過が愛だった。後悔でもなく、宝という基準の近似値だった。納得のいくものだった。ぼくは、希美を横にしてそう考えているのだ。やはり、時間を置いて愛したものに対して自分は卑劣だった。ぼくは最初の真摯というものを脱ぎ捨て、分量を経験というテクニックによってコントロールした。何度かケーキは作ったことがあり、いびつにもならない。しかし、失敗に終わった最初の無骨なかたちの味が最良だったのかもしれないという淡い疑念を拭えずにもいた。口に入れてもいないのに。

 現実には、ぼくの横には希美がいる。彼女が与えてくれる安らぎや喜びはある種のぼくにとっての到達だった。ぼくはこの関係を最大限に発展させようと思っていた。若いときの恋など、タンスの奥にしまっておけばよいのだ。みな、そうしたもののひとつやふたつぐらい抱えて生きているのだろう。ぼくは過去にこだわり過ぎて、未来を失うわけにはいかない。現実の横にいる身体と、この女性の体内の奥の気持ちはぼくに幸福をもたらすはずだと実際に知っていた。

 完璧なケーキは作れなくても、市販できるぐらいのクオリティーはぼくらの間にできていた。その質を保つためにぼくらは数度における時間をかけてきたのだ。手に入らなかったものに憧れ、そのケーキを入れた箱ごと、つぶす訳にはいかない。箱は揺すぶられることもなく丁寧に運ばれるべきだ。空の箱は過去という名札を貼り封印して置いてくるべきだ。ぼくは彼女の背骨がある中心のへこみをそっと撫でる。皮膚のうすさ。淡い背中の毛の色。

 彼女はもう服を着ている。ぼくは彼女の裸の姿を思い出すのを困難に感じる。穢れをまったくしらないような表情。絵画でしかあらわせないような横顔。必死の頼みもせず、切に懇願する必要もなく、ぼくは彼女との関係を愉しむことができる。これは、公平なことなのか? ぼくはあの過去の少女とそういう関係になることを望んでいる訳でもない。しかし、交際がつづけば絶対にあらわれてくるのだ。鉄は錆び、ペンキは剥げる。経年というものが劣化だけではなく、上昇ということもあった。可能性としても。

 だが、当然のこと、ぼくはむかしのことをほとんど忘れている。時間としても仕事があり、多少の趣味があり、希美と過ごす週末や夜の時間があった。ほかのものが頭を多く占有し、余った時間も別の事柄が占めている。友と話し、たまには酒を飲んだ。それでも、あるひととき、譜面の休止の合図のように、すき間に過去の少女があらわれる。小さな砂が靴下のなかを不快感にし、小さな種の粒が何ヘクタールもの地平線を埋め尽くす。目を凝らして見ても、その砂粒は確認できず、さらには取り除けない。だが、あることはずっと知っている。ぼくの皮膚がそれを訴えかけている。

「また、来週だね」と、希美は甘えた声で言う。だが、そのついでに彼女は女性の身体の周期のことをもらす。ぼくは、おあずけになるのだ。彼女の外側だけを愛しているのではない。ふたりで、することもそれこそ限りなくある。そのひとつひとつを見つけ、楽しめばいいのだ。だが、ぼくは少ししょんぼりする。ぼくは利己的であろうとする。利己的こそが生きた証だと正当化しようとする。ぼくは、なんのために女性を求めているのだろう。
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11年目の縦軸 16歳-15

2014年02月11日 | 11年目の縦軸
16歳-15

 ぼくは部屋にいる。二階の自分の部屋の絨毯のうえに寝そべり本を読んでいた。電話を告げる母の声。ぼくは本の間にしおりを挟み、部屋のドアを開ける。奥の兄の部屋には女性がいる。弟は女性というものがどういう生き物か知らない。ぼくも大差がない。でも、夜のひとときに電話がかかってくる喜びは知っていた。ぼくは本を柔らかい布団の上に放り投げる。ここまで読んだ。ここまで読んだ。

 ぼくの喜悦の感情はぼくの体内だけにとどまり、家族もその重さを知らない。ぼくは本が与えてくれる知識より当然この時間を選んでいる。先にすすむということでは同じであり、途中までを確認することも両方ともできた。本は数ページ戻ることができる。未来は読み終えるまで分からない。残りがわずかになってしまったことを本の厚みは教えてくれ、実際の女性との関係は、まったくのこと分からなかった。

 このまま数時間も話すことはできない。夜が終わる前に電話を切る。ぼくらは絶対に伝えなければならない必死な言葉はもたず、それでも、お互い切実な感情はあったように思う。だが、切実という観点だけを浮かび上がらせれば、ぼくは交際を求めたときがピークかもしれない。あとは、その関係を維持し、継続することが重要だった。いや、ぼくはもっと別な関係になることもあるのだということを知っていた。お互い、求めた究極の結果を知らない。いつか、来るかもしれず、それは十年も二十年も先の話ではない。

 ぼくは彼女のどこが好きなのか困惑してくる。この電話が楽しいひとときであれば充分なのか。それとも、彼女の胸の隆起はぼくにもっと悦びをもたらすのだろうか。ぼくは、その欲と自分を切り離してみたかった。

 ぼくは電話を切る。本のつづきを読もうとするが気が乗らなくなってしまった。いかがわしい青年向けの雑誌を開く。そこに同年代の女性がいる。ぼくの電話の相手と彼女たちの差は、どれほどあり、どれほどないのだろう。不特定多数に向けられた笑顔と裸は、どれぐらい貴いのだろうか? ぼくはこの紙面の女性たちが年を取るという単純なことと結びつけるのを難しく思う。雑誌を閉じれば、きっと、直ぐに忘れてしまうのだろう。汚れたゴミ箱のなかのものといっしょに。ぼくは風呂に入る。いつの間にか兄の車は家の前から消え、女性もいなくなったようだった。

 ぼくは眠くならず、本をまた開く。ぼくはまだ二十冊も本を読んでいない。学校をやめ、意図したことではないが自分を構築する必要性を逆に感じた。頭でっかちになることではなく、賢さや真実性を見抜ける目が欲しかった。誰も与えてくれないのだ。ぼくは手っ取り早い方法として本のページを開く。また、女性が教えてくれる真実も少なからずあった。それは実際に生身の人間として尊厳をもってぶつかり、その跳ね返りとして与えてくれるものたちだった。ページを開くぐらいの簡単なことではない。ときには、いやな目にも会い、気分を害すこともあるかもしれない。そのやりとりを愛と呼ぶなら、愛というものも高貴なことだけでは終わらなかった。

 兄の車は深夜に戻る。彼は働き、ぼくに小遣いをくれた。ぼくもバイト代で弟にゲームのソフトを与えた。弟はいつか稼いだ金で誰に何を与えるのだろう。

 ぼくは目をつぶる。夜をこわがる子どもではない。ひとりで寝むれないほど臆病でもない。友人の存在も無数にあるわけではない。数人の親しい友人がいればそれで済んだ。そして、愛らしい女性がひとりいた。これも、ひとりで充分だった。兄はそのひとりを選ぶのを手間取っているようだが、これは彼の物語ではない。ぼく自身の暴かれない、決して開かれない物語なのだ。

 そこにあらわれるひとりの女性。ぼくに電話をかける勇気がある女性。いまごろ、同じように寝ているのだろう。明日のお弁当にはなにを入れるのだろうか?

 ぼくは自分がいつか、そんなにも遠くない数年後だが、車の免許を取り、彼女を横に乗せて運転している姿を想像することが、なぜだか、むずかしかった。彼女を家まで送り、深夜にもどってくる。そこにはより親密な関係が生まれる。ぼくは男性とは違う柔らかみを帯びた身体を横に感じる。その車種も具体化されず、流れている音楽も不鮮明で、彼女との会話もどれほど大人びたものに移るのか分からなかった。彼女は髪を伸ばしているかもしれず、タバコを吸っているようになっているかもしれない。だが、どれも彼女に似つかわしくなかった。ぼくは、なにか漠然としたものをためらっていた。未熟な状態に甘んじようとしていた。だが、彼女はどうなのだろう? 男性の力強い抱擁を欲しているかもしれず、もたれる肩の頑健さを望んでいるのかもしれない。

 すると、朝だった。弟は学校へ行き、兄は職場に向かった。母は男の子たちが食べ終わった皿を洗っている。何度も何度も洗っている。ぼくは何度も好きだと彼女に言おうと思う。しかし、口にしなくても彼女は分かっているのだと躊躇する。口にしなかった言葉の責任を宇宙は求めず、発しなかった言葉は記録としてのこされない。ためらいと後悔は執拗に追いかけてくる。ぼくらは逃げることができないのだ。背中にその無言の愛を背負って行き抜くことが可能かどうか試しているのだ。
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11年目の縦軸 38歳-14

2014年02月10日 | 11年目の縦軸
38歳-14

 ぼくは絵美のイヤリングを外す。この小さな対のものに、ぼくは左右という概念があるのかを考える。外しながら利き腕というものを癖としても考える。能力ではなく単なる癖。だとしたら、ぼくらの身体には決して対称というものはあり得ない。

 片側を多く使えば、どこかでゆがむ。ぼくの右手の中指には、ペンで培われたタコがあった。爪の付け根あたりに。ものを書き、無節操過ぎる頭のなかを整理するということはペンと白いノートが必要だった。しばらく時間を置けば、客観さも勝手に生まれる。ぼくは、十本の指とキーボードと、それを映すディスプレーでいまは代用している。左側にある指はエンターのキーを押せない。最後の仕上げのキーを。ここでも不公平があるようだった。

 ぼくは前のふたりの女性を句読点として考える。「、」にしては、つづきや展開ではなく、完結をぼくのなかで求められた十六才の少女。「。」にしようとしたが、終止符とならなかった透き通る肌をもつ女性。彼女らは長々とした文になり、ぼくはエンターを押す。もし紙で残そうとしていたら、きっとどこかで火事にまき込まれ消失してしまっただろう。だが、ぼくの記憶のなかにある。そして、消失は今後もない。

 白い画面は深い口を開け、つづきを生け贄として要求している。安息や安楽はなく、腹をすかせた少年のように口に入るものを渇望している。ぼくは求めに応じる。そのなかにいる化け物はぼく自身であることを知っているからだ。

 ぼくの過去はぼくのものではないと考える。ある画家は少しずつ色を重ね、付け足し、修正をして、ひとりの女性を描きつづける。ずっと手元に置き、はかどらない作業を口実として、いつまでも完成は未来にある。彼が手を加えつづけることによって、終結はやってこない。そして、手放すことをまぬがれる。許可も言い訳もほんとうは必要ない。ぼくの過去は、もうぼくの力によって、変えることはできないのだ。一切の変更を拒む頑なさだけがある。ぼくは追体験しているに過ぎないのだ。それもぼくだけの追体験で、客観性の実証もできない。ぼくは美化し、甘美にし、砂糖をまぶして、蝋でコーティングする。変更に挑み、当然のことはねつけられる。なぜ、それを知り尽くしているのに、過去に舞い戻ろうとしているのか。過去だけが、自分の財産と知っているからなのか。ぼくは重みでゆがんだ、土台のしっかりしていない棚のように自分を設定した。しかし、すべてのたゆみの原因の荷物を処分することも、放棄する訳もなかった。

 ぼくは女性が身を飾ったものを取り除いたり、逆に、背中のジッパーを上げたりもする。その些細な行動が記憶になる。達成もないわずかな、希少でもない事柄なので、相手は誰であったか段々と薄れていく。しかし、薄れさせようとしているのも自分自身であって、ぼくは自分の年齢を思い出せば、同時に相手は判明した。詳細な追跡ではなく、簡単な推理だ。ぼくの過去のアリバイは、その自分の年齢ごとで分類されている映像たちだった。

「生涯、こんな小さなもの、何度も何度も落としそうだね」と、ぼくはアクセサリーを手のひらに乗せて言った。絵美も同意した。しかし、意外にも、ぼくには自分のセリフにも反論があった。「でも、落ちてるのはたくさんでもない。拾うこともないし」
「興味がないからだよ」

 興味があっても、落ちていないものは落ちていなかった。財布を落とすひとがいても、ぼくが拾う機会は訪れず、たくさんの自動車事故があっても、ぼくが遭遇することはなかった。バンジー・ジャンプの経験者もぼくの周囲にはいなく、何かの記録保持者と会うこともない。ぼくはすべてに対して関心がないのだろうか? それとも、過去のぼくを知っている誰かであることのみが興味の大前提にあるのだろうか。過剰なまでに、ぼくは自分にしか魅力を感じていないのか。相手の素晴らしさを讃えながら、ぼくは自分に還っていった。ついに、この明らかになった理由によって深い穴に犠牲を投げ込めそうだった。自分に自分を投与する光景にも限りなく近い。

 その大きな口の喉元に絵美の小さなイヤリングが刺さる。大きな口は喉を詰まらせ、苦しそうに飲み込んだものをすべて吐き出してしまう。赤い革の時計が空中を舞う。少女のあどけないデザインの手袋がそのあとを追う。ぼくは忘れていたものを思い出した。彼女はあの手袋をはずしてぼくと手をつないだのだ。思い出したからといって相変わらず過去は変更を加えない。ぼくの視力はもどらず、ぼくの放った冷たいひとことは(限りない無数のひとことの集団でもある)そのままの形で残存している。ぼくは発掘を喜ばない。過去への愛着は、レース越しではありながら、過去の暴挙の再上映でもあるのだ。ぼくは目をつぶり、口をふさぐ努力をする。

 朝になる。絵美は違う形の耳飾りをしている。馴れた手つきで無意識にはめた。ぼくらは無意識に、あるいは無頓着にさまざまなことをしている。歯を磨くという行為は決して勇敢な思想にはなり得ず、日常の一連の動作の一環のままだった。だから、定期的に飲まなければならない大事な薬でも飲み忘れたりすることが起こる。気にも留めずにしているたくさんの行為。シャンプー、ネクタイを結ぶ、靴下をはく。ぼくらは無数に行いながら、ほとんど記憶にも留めない行動の連続のうえで生きている。だが、それでも自分なりの規定がある。必ず、足は片方から入れられ、歯磨きのチューブから絞り出す量の誤差も少ない。ぼくは絵美だけを見ようとしている。しかし、ここにも順番が紛れ込み、ふたりの女性を組み込ませた。優劣ではなく、歴史の年号を振り返る際にどうしても基準の年代を目指し、その前か、後かを計ろうとした。だから、仕方がないことでもあった。
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11年目の縦軸 27歳-14

2014年02月09日 | 11年目の縦軸
27歳-14

 希美のきゃしゃな白い腕には時計がはまっている。赤い革。それは刻々と変わる時間を確認することよりも、彼女を装飾するために用いられているようだった。ぼくは彼女の生まれたことを祝って、数ヶ月前にプレゼントをした。二十五年目。ぼくは二十五才の女性がこれほどまでに魅力的になれることを知った。つぼみではなく開花。完全な満開がどこにあるのかも分からないが、この日でも充分、ピークでもあるのだろう。ぼくはその瞬間に立ち会えた。

 彼女は愛用の時計ももっていた。ぼくは交際前にその時計をしている彼女のきゃしゃな手首も見ていた。日によって使い分けるようになる。ぼくのあげた方がカジュアル過ぎるので、休日はこちらをしていることが多かった。シックな平日の彼女。黙っていれば、理知的なものが彼女を占有し、全身を覆う。しゃべりだすと理知的なものがちょっとだけ破れ、ひとなつっこさが表面に出てくる。クリームで覆われた状態をスプーンですくうと下からコーヒーが出てくるように。

 今日はふたりとも休みだ。外はしばらく前から大雨になっていた。近場での買い物を二人で済ませ家に戻ると彼女は腕時計を外し、右手でその周囲をこすった。横殴りの雨は急に窓にうちつけて音をたてている。彼女は会社帰りに会うような化粧をしていない。黒い縁のメガネをかけていた。視力はそれほど悪くはないはずだ。むきだしの素顔をさらすのを避けるように、そのメガネが防御の役目を担っているようだ。

「きちんと、化粧をするようになったのって、いつぐらいから?」
「ちゃんと、毎日、するようになったのは勤めてから。なんで?」
「理由なんか、ないよ。毎日、毎日、大変だなって」
「だって、毎日、ひげを剃るでしょう? 今日は、伸びてるけど。おひげ」

「お、をつけるものじゃないけど。敬意に値しないし」
「敬ってるからじゃないよ。お薬、お財布、お箸。ね?」
「ちょっと、大事なものたちだね」
「ちょっと」

 ぼくら少年は普通に振舞っていたはずなのに、いつか、無防備な女性の姿さえ見られなくなる。過渡期。化粧をしていない顔の女性とは会えなくなり、指輪や、いくつかの装飾具が彼女たちを覆うようになる。爪は塗られ、髪も淡く染められる。同じ体育の時間にドッジボールのコート内を逃げ回った少女たちがなつかしかった。だが、ぼくは焦がれるという点で成熟していくのだ。その分、女性の靴のかかとも自然と高くなった。歩きやすさよりも、見栄えの方が重要であるようだった。

 ぼくは彼女のメガネをはずす。その権利がぼくには充分あった。彼女はぼくのアゴを撫でる。彼女にもそうする権利がある。そして、ひっぱる仕草までした。ぼくは痛みを感じる。ささいな痛み。痛痒という言葉には程遠い、一瞬の肌の緊張。彼女の顔の下半分には毛らしきものはない。つるりとしていた。ぼくは公平かどうかも考えている。ぼくはボールをもって少女たちを追いまわす。その結果が、どうもこれだった。この午後のひとときのために追いまわしていたようだった。

 その後しばらくすると、彼女は目をつぶって寝ていた。ぼくは薄い毛布を彼女の上にかける。寝ているはずなのに希美は毛布のはじをつかみ、引っ張りあげる動作をした。ぼくは洗面台の鏡の前まで行き、顔を洗った。ぼくの顔を両手ではさんだ希美の冷たい指。与えられた資産の効果的な活用としての化粧。そのままも美しいが、森や木々も剪定という手を加えて、新たな美しさを上積みさせることができるのだという証拠。だが、いまはすやすやと寝ている。利益も損失もまったくない無防備な寝顔。寝ている顔を見るということも、なかなか難しいことだ。ぼくは引き出しを開け、希美のカメラを取り出した。レンズのキャップを取り、フラッシュがつかないことを確認して、希美の顔に向けた。小さなシャッター音がする。そして、元通りにしまった。直ぐに見ることはできない。ぼくのまぶたの裏だけにその映像がいまのところはある。

 ぼくは彼女の化粧品の瓶をながめる。のこっている量は当然のことまちまちだ。大きさも不揃いで一致していない。あと数滴で終わりそうな瓶もある。これと同じものを希美は新たに買い足すのだろうか。それとも、同じ効果が見込める別の種類の新製品を選ぶのだろうか。ぼくには分からない。自分はその瓶の底にとどまっている数滴に愛着を感じようと決める。新製品というものは多くを期待される。このあどけない寝顔の希美は、ぼくにいったい何を期待するようになるのだろう。ぼくは、それに対してなにができるのだろうか。球をつかんで少女たちを追いまわすことでは決してない。もっと責任が伴うものだ。女性は輝けるもので身を飾り、男性たちは責任をつかんだ。だが、それも外側ではなく、もっと深い内面の話のようでもあった。ぼくは冷蔵庫を開け、冷たい飲み物を探した。小さな、小さなビールの缶があった。小鳥が水を飲む量ぐらいしかないほどの小ささで、ぼくはそのことで不思議と切なさを感じる。ぼくはもっと容積を必要としている。その缶の大きさが愛情と比例しているようにも思えた。だから、ぼくは希美に傾き過ぎていた。ぼくはその小さな缶をまた奥に仕舞い、もっと長い缶を見つけた。ぼくの丸い爪はなかなかふたを開けられず、カチカチという金属的な音がなった。ぼくは希美の動く姿を見たかったはずだが、この場では目を覚まさせないことだけが唯一の願いだったのだ。
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11年目の縦軸 16歳-14

2014年02月08日 | 11年目の縦軸
16歳-14

 彼女はとくにアクセサリーらしきものをつけていなかったように思う。その為に彼女の価値が減ることはない。若さというものは無責任に与えられた資産なのだ。段々と目減りすることも知らないぼくらが、今日もあそこにいた。資産は凍結されなくても、いつか、遠い柵の向こうにあることを知る。高価で貴重な美術品のように透明なガラスで四方を覆われている。ぼくらは美しい額縁も同時に見てしまう。

 無責任に与えられたものだが、管理は自分に委ねられていた。その事実も理解せずに、今日もぼくらはあそこにいた。若さを失う前にすることも多く、その若さを無謀に使いつくすことも特権であった。犯罪を誘導しているのでもなければ、無知につけこむことともまったく違う。しわひとつない指に輝く指輪は必要ではなく、首もネックレスで飾らなくても美しかった。耳の形そのままが美でもあった。

 ぼくは好きなだけの食べ物を摂り入れても翌日には消化している。いや、翌日までも保てない。数時間で次の食料が必要になる。あのままのペースを維持していれば、多くの牛や豚が失われたことになった。その代わりに数本のアスパラガスが地上から抜き取られたことになる。

 ぼくは彼女と過ごした時間の累計を知ろうとしている。また、同じ意味でいっしょにいなかった時間も計ろうとしていた。いないことの方が圧倒的に多い。ある区切りが設けられなければ、いつまでも加算されていく。だが、その時間にも彼女はぼくを占有していないとは限らない。手探りで彼女が喜びそうなことを探し、現実と空想のはざまで無知な王座に君臨していた。

 男性は床屋に行けば、直ぐに分かった。ぼくは彼女が髪を切った直後のことも覚えていない。すべてを見抜こうとしている自分の目は節穴でもあった。もしかしたら、ネックレスぐらいはあったのかもしれない。そのあやふやななかに自分がいた。

 ぼくは若者の生まじめさで過度な装飾をきらった。シンプルさから遠退くのは野暮ったさと虚飾につながり、演出がなくてもそれ自体で時間も空間も保てた。普通のジーンズとTシャツで、筋肉は若さの衣装のすべてだった。息切れもなく走れること、水たまりを飛び越すこと。だから、ぼくには勇気というものも本質的にはなかった。挑むかどうか、葛藤やためらいがあってはじめて勇気というものが芽生えた。ぼくには葛藤することも、おそれる寸時もなかった。ぼくがおそれる唯一のことは彼女を失うことで、その予兆もまったくなかったので、ぼくは心配ひとつしていなかった。

 何度か風邪をひけば、恩恵として予防をすることも覚える。あの苦い体験を味わうことを避けるのだ。ぼくには予防もない。この無知こそが果てしのない宝でもあった。するとぼくは努力もなしに簡単に宝を手に入れていたことになる。ジーンズのウエストがある日、窮屈になるということも分からず、胃腸薬というものが薬箱に保管され、常備されている意味も分からなかった。ただ頂上に向かって登山をしている。歩行とともに転げ落ちる小石にも無頓着で前ばかりを見ていた。振り返る背にした後方もごくわずかで、短い時間を歩いてきたに過ぎないのだ。ぼくは十六才だ。何も成し遂げていないし、誰からも認められるという経験がなくても、これほどまでに完全であり、満ち足りていた。

 ぼくは家に帰る。弟がいる。ぼくは昨年まで、夏休みには勉強を教えていた。自分がしてもらわなかったことを相手にきちんと伝えることはむずかしいものだった。ぼくができたものを、彼はできないということにも当惑する。ぼくはそろばんを習い、彼はスイミング・スクールに通った。その親の選択にぼくらは操られるのだ。ぼくは泳ぐことに堪能ではなく、彼は算数に渋い顔をつくる。ぼくは家の外にも大切なものができ、彼はゲームに熱中している。ぼくはほかに熱中するものがあり、ついさっきまで同じ時間のなかにいた。

 ぼくは伝えることがあり、その方法も知っている気でいた。だが、この同じ部屋にいる弟にさえ勉強の楽しみを伝えられなかったのであれば、ぼくのこころにある愛情を完全なまでに伝えているかということに疑問を抱くのも正しかったのではないかと後悔する。しかし、後悔という言葉が入る隙間もないほどに若かったというのも正直な感想だ。身の丈にあった毎日しか生きられない。老獪や老練などという言葉はぼくの世界にまだなく、帳尻を合わせるということにも無縁でいた。ある日、それが重要で、ぼくは実際につかうとも思っていない。彼女がいつか、見事なまでにメーキャップした自分を作り上げるのと同じようにぼくも虚飾の世界で暮らすようになる。

 ぼくは目覚める。現実の世界に彼女がいる。彼女はぼくのことを起きてからどれほどの時間が経過してから考えるのだろう。数分後か、数時間後。一日、まったく考えないということはあり得ない。ぼくは彼女の世界にいる。パスポートもなく入場券もいらない。いま学校のカバンをもっている手も、そう遠くない未来にぼくの手を握っている。ぼくは顔を洗う。この顔を恋の対象として認知しているひとがいる。奇跡を信じないひとはぼくのこの瞬間もきっと信じないだろう。あまりにも簡単に起こってしまうこともあり、その幸福も努力がない分、美しくまた抜け落ちやすかった。獲得は執念があればあるほど、貴重なのだろう。その恐ろしい執念をぼくはもっていない。
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11年目の縦軸 38歳-13

2014年02月04日 | 11年目の縦軸
38歳-13

 ぼくは嫉妬と共存している。雨が降れば傘をさし、寒くなれば衣類を多めに着た。それぐらいの順応性が嫉妬にも例外なく適用された。自分なりの様々な法則を生き残るたびに追加した。抗体をつくり防御するように。

 ぼくが愛しているひとのことを、誰かが惚れたからといって、とやかく言うことではなかった。責めるいわれもない。ぼくに権限もない。財布に一定額のお金が入っていたとして、紙の表面に印字されている番号や、硬貨の摩耗度合い、すり減り具合をきちんと確認しなくても、それは別の札であり別の小銭だった。常に流動して入れ替わる類いのもの。ぼくは昨日のお札に嫉妬しない。なくなれば残念に思うだけだ。残念は、決して嫉妬ではない。確かに軽やかな喪失でもあるが、打ちのめす力を有した専制的な喪失とはならない。

「結婚したいと思ったひと、いないの?」絵美は皿を洗いながら、鼻歌を急に質問にかえても同じ口調で、そう訊いた。
「いないこともないけど」
「でも、しなかった?」
「タイミングもあるし、相手の気持ちがあることだからね。こればっかりは」
「そのひとには、嫉妬した?」
「狂おしいほどに……。嘘だよ」
「ほんとうでもいいよ」

 嫉妬を下等な感情だと認定するグループがあるが、絵美のいまの気持ちは反対らしい。それはぼくに原因があるのだろう。彼女の前の男性は、どれほどの勢いで彼女を求めたのだろう。その熱意は暑苦しさにもなり、また微妙なバランスの上で成り立つのだろうが、愛情の正式なルールでもあった。
「ぼくが誰かとデートすれば、不愉快だろう?」
「問題の論点が違う。誰かを介在させるのではなく、わたしとあなたの話」
「好き同士な相手との会話で介在という言葉もないと思うけど・・・」
「はい、お利口さん。正しいのはあなた」絵美はちょっとむくれたような表情をした。
「なに、怒ってんの?」
「怒ってないよ」

 ぼくは理屈の山を作ることをやめた。理屈が整然と並んでもなにも解決しないのだ。さらに、怒っているひとはいくら様子が証明しても怒ってないと言い、酔っているひとも身体が傾きながらも、酔っていないといってそのコントロール下にない状態を認めることに抵抗した。まったく同じだ。

 ぼくは絵美を奪われたくない。本音をいえば。若いころならば簡単に回復が望めた。ぼくは次を考える。次というのは朝日を浴びるためにカーテンを快適に開けることではなかった。どちらかといえば、夕日も落ちそうで暗くなったからカーテンを閉めるという意味合いに近かった。ぼくは、外気を遮断した暖かな部屋で最後の女性と寛ぐのだ。その状態を誰にも奪われたくない。だが、絵美はぼくの本気さを疑っている。

「たぶん、もう、このあと、誰かを本気に好きになることなどないよ」ぼくは十一年前にも同じたわ言を口にしたようにも思う。だが、当然、置かれた環境は違う。もちろん、相手のあることだ。つかまえようとしたドジョウは逃げるようにできている。おとりの穴に知らず知らずのうちにもぐりこんでしまう生き物もいる。生存の本能や帰巣の仕組みがぼくらを小さな入口に運ぶ。
「前にはいた?」
「過去は否定できないよ」ぼくは絵美の部屋のなかを見回す。ここについ先日まで別の男性が通っていた。ある日から、ぼくに変わった。その記憶は炭酸が抜けるようにいずれ薄れていくのだろう。接ぎ木。仮のものが本来の役目を担うようになる。接ぎ木も嫉妬しない。共存している。以前のものは栄養の供給源でもある。ぼくはふたりの女性から受けた影響を、この絵美の部屋で実感していた。
「そのひとたちと、同じぐらいわたしのことが好き?」

「同じどころか、以上だよ」ぼくは返事に時間をかけた。だから、わずかながら間があった。
「そういうことは即答しないと、うれしいけど」絵美はぼくの横にすわる。ひざを折り曲げて、抱えるような仕草をした。「答える間に、いろいろ思い出したでしょう?」
「だって、遠い記憶だからね」
「遠い記憶。そして、大事に銀行の貸金庫のような奥に保管されている」
「ぼく以外にとって、誰も見たがらないものだからね。公開する必要もない」
「だから、話さないの?」

 ぼくは、「話さない」か、「離さない」か音だけでは判別できなかった。
「話さない?」
「教えてくれないってこと」

 結婚したかったひとは、もう十一年前の記憶のなかに存在するだけだ。ぼくは頭にあることを包み隠さず絵美に説明した。「だから、必要以上に美化されている。大正時代の美人画みたいに生命力のない淡さのなかだけで生きているよ」ぼくは本音かどうかも分からなくなっている。ぼくは、つい先日まで架空の彼女と対話したようにも思う。彼女が理想とする男性に近づきたいという気持ちも依然として残っていそうな気もした。ある日、どこかでばったりと会い、その成長の事実が証明される。彼女はぼくと別れたことを悔やむ。その邂逅はぼくの優越とはならず、逆に失意となる。ぼくも、後悔しているのかもしれない。嫉妬の炎は、消えたように見える炭のように、まだ芯では熱しているのかもしれない。

「いつか、教えるよ」
「今でもいいじゃん。こうして、ゆっくりしているんだから」おとぎ話をせがむ少女のように絵美は顔をこちらに向けた。つづきというのは、複数の回答の迷路を生み、解決ではなく混乱と矛盾だけを糸口にしていた。
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11年目の縦軸 27歳-13

2014年02月03日 | 11年目の縦軸
27歳-13

 ぼくは嫉妬を繰り返す。

 それは、このひとこそが、ぼくが出会うであろう最終的な理想に近いと思ったのが原因のもとだった。

 ぼくは二十代の中盤から後半に向かい、自分の肉体的なピークも感情的なピークももう少し先だと感じていた。理想に近いことを語れば、ぼくの二十代の凡その期間を相手にも知っておいてほしいし、少なくとも数年はいっしょに過ごした月日が不可欠だった。なだらかな下り坂に入ったときに出会う相手は、ぼくの当時を知らない。ぼくは過剰なまでに自分の痕跡と自意識を大切にし、簡単に踏みつけられることを嫌った。

 ぼくは大人というものが、はっきりと分からず、未熟な部分も相変わらず抱えていた。その未熟な個所を脱ぎ捨てる過程が必要だった。その証人として相手を求めた。つまりは希美に要求した。

 ぼくはあのときと比べて、随分と多くの時間を好きなひとと過ごした。学校に通う相手と、きちんと働いている相手では時間の感覚はかなり違う。自由になる時間も段々と減っていく。それでも、どちらかの家で泊まることも可能だ。寝ていれば感情の交流などできないのかもしれないが、となりに寝ているという一体の事実があり、不確かな安心感も得られることになった。同時にここに現実に居ないということは、どこかで不安も生じさせることだって秘めることになるのだ。不在が限りない力を帯び、目に見えないエネルギーの芯がこころの奥で爆発した。水をかければ冷えるという単純な図式ではなく、占有する、問い詰めるという行程が不安を増大させない特効薬だった。その薬は、当人でもあるふたりを荒らす刺激ともなり、あとあと副作用で悩むこともあった。だから、ぼくは薬をあえて切らした。その結果、安心はぼくのもとにやって来なかった。

 しかしながら、希美以外の女性のことをもう考えられなかった。スポーツ選手が愛用の道具を作る職人を失って次第に成績を落とすように、ぼくも別のもので代用するなどとは微塵も考えられなくなってしまった。この状態を失いたくないために、嫉妬は存在意義を見せ、その力を思う存分、発揮した。ぼくは嫉妬の主人ではない。大柄な犬に引き連れまわされる幼児のように、ぼくは道なき道、雑草が生い茂るなかを勝手に運ばれた。これが愛の最終形と思っていたものは、結果として、別の形を見せた。その変化は決して美しいものでもなく、みんなが感心し惚々れするようなものとも違っていた。地獄ということが表現として近かった。そして、幼児は犬の紐をどこまでも離さなかった。

 相手のこころは離れるのだというひとつの揺るぎない公式がぼくのなかにあった。傷を縫い合わせた皮膚のようになめらかさは失われ、縒りが他の部分までこすって刺激した。だから、ぼくはもう簡単に誰かを好きになるのを止めようと決めかけた、その気持ちに抵抗しようとした数か月前までの自分をなつかしんでいた。

 しかし、その支配下にない感情は、分量としてごくわずかなものだった。それにしても、支配する領域は刻々と変わる。暴風雨が過ぎ去ったあとの凪の時期が大半だったとしても、ちょっとした石ころが穏やかな湖面をさざ波だて、台無しにした。希美を手放せないという感情が、そもそもスタートであるのだ。かといって、それを許すほど、ぼくは自分の恋心に無頓着になれないでいた。

 多くは根拠のないことで勝手に煩悶していた。ぼくが希美の右手を握っていれば、別の誰かは左手をつかむこともできた。二十代半ばの魅惑的な女性は誰かの目を奪った。

 ぼくらは動物園にいる。パンダという愛らしい動物はみんなの歓声を浴びている。飼育員が餌を与え、ひとりだけ知っている時間も確かにあるのだろう。だが、それは裏方の役目で、たくさんの観衆のために備えているのだ。ぼくは希美の横顔を見る。ぼくが独り占めにしているものはどれだけあるのだろう。彼女がいることによって、どれほどの人数のひとが好影響を受けるのだろう。ぼくらは後方の列の勢いに押し出されるようにガラスの前を通過した。

「かわいいね」と言った希美は顔をほころばせている。

 一匹のパンダは無数の観客を魅了した。飼育員に嫉妬もない。独占欲もない。まさに、すがすがしいことだった。希美は離れ離れにならないようにぼくの手を握る。幼少期の彼女もきっと父か兄弟の手を握ったことだろう。ぼくは、この日の希美を占有する。それで充分だと思った。それ以上を求めるから、話はこんがらがり、ややこしくなった。そのややこしさの束ねられた固まりを慎重に解きほぐせば、希美との関係の継続を熱心に願う自分が中心にあった。おにぎりのなかの梅干しのように、絶対に必要なものであった。ならば嫉妬は海苔のようなものであるのか。もし、周りを包まなければただの握りしめられた白いご飯。それも空腹時ならきっとおいしいのだろう。では、空腹とはどういうことなのだろう。飢餓とどう違いがあるのだろう。大きな差は、次の食欲を満たすものが準備されているか否かなのか。ぼくの愛は、どちらに比重があるのだろう。得ることもある空腹か、それとも永遠の飢えが待ちかまえているのか。

 ぼくらは甲高く鳴く鳥の前にいつの間にか出ていた。その鳥もパンダの地位に嫉妬するのだろうか。ただ、この生き物の願いは上空にある檻を取り払うことだけのようにも思えた。飛び立つか、居残ったままなのかは度外視にしても。
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