爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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「考えることをやめられない頭」(8)

2006年08月31日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(8)

 どうして、絵画を好きになっていったのだろう? 静かな部屋で、無風で壁にかかっているものと対峙する時間。それを、愛している。動かない静かなものが、躍動的に語りかけてくる。錯覚なのか?
 先ずは、どこだろう? 気に入っていくのは誰からなのだろう。ロートレックという画家か。あのポスターのような絵。実際に宣伝にも使われたらしいが。その本物の絵より、その画家の優れた伝記映画である「赤い風車」を観てから、ファンになったのか。多分、そうだ。監督はジョン・ヒューストン。主演俳優も素晴らしかった。幼いころのアクシデントが原因で、身体の成長がストップしてしまった姿を膝立ちで演じていた。それだけではない。芸術家のもつ狂気と、執拗な自己を認めさせる執念のようなものまで表していた。映画として完成度の高い作品だ。
 次は、どこだろう。印象派なのだろうか。美術館やデパートで客が呼べるのは、それらの作品が筆頭なのだろうか。たくさんの絵画を見た。妖しいドガ。マネ。モネ。
 でも自分の好みとして、ピサロやシスレーの意気込まない絵が、本来の自分のこころの気持ちとぴったり一致する。あのように郊外で、名声など求めないような、しっかりとした筆遣いで世界の小さなものと格闘できたら、それはどんなにいいだろう。
 やはり、文章がすきなので、ゴーギャンの手記。さらにノアノア。タヒチの奥で魚を釣る画家。それを見て、笑う現地の人々。理由を問うと、魚の下唇に針がかかった場合、それは妻が浮気をしているサインということだ。家に戻り、問い訊ねる画家。迷信か否か。
 株式仲買人というすすんだ文化の中の職業を捨てた画家。あの時代の見知らぬ島々。今より、数倍もそれは旅というか、世界の果てというか、途方も無い解脱を表しているのだろう。
 人から、認められないということが正しければ、カフカという作家と、ゴッホという強烈な個性を思い出さずにはいられない。二人が地上に存在しなければ、世の中は、よりいっそう現世的で、目の前に置かれたにんじんを追いかけるような生活に思われる。彼らがいることに、ある時期の自分は救われるというか、世の中に留まるという意味でも助けられる。
 素晴らしい絵画を、オランダの地で見てみたい。機会があれば叶うだろう。
 フェルメールという人。現存する作品が少ないが、そのどれもが一級品である。バブルのときにでも、お金をかき集め、一同にかいして展覧会ぐらい出来たのではないかと思ってみたりする。反対に、地球上に転々と、存在している作品を長期に渡って、訪ね歩くという行為にも見せられる。
 でも、最高というのは誰かときかれれば、レンブラントしかいないだろう。外面をつぶさに観察し表現することによって、生きている人間の内面までもが透けて見えてしまう。多くの自画像。若いとき。さらに年とったとき。そのどれもが、ある人間の生身の生き様のようなものまで染み出てくる。400年も前にうまれた人間。でも、人間は広大な宇宙に思いを馳せるより、身近な家のまわりに幸せをみつけたりするもの。彼が、最高の画家といったって、もっと小さな才能に好意をもったりしても、なにも間違いではない。
 エゴン・シーレという人もいた。その露悪的なテクニックにも感動したっけ。
 こうして、絵画をみつめる時間を多く持った。その後遺症というものは、直ぐに表れたりしないかもしれないが確実に身体の奥に居場所をみつけ、宿りひそんでいる。読書をする女性のモチーフ。その静かな姿。それらを多くの時間みることによって、その絵画こそいま生きている時間より大切な尊いものに思えてくる。目の前にいる女性。時折り気分を害し、冷たい言葉を吐き出す瞬間。まったく逆に暖かい言葉で、最高の気分を味あわせてくれることも、もちろん知っている。でも、どちらか一つに気持ちが傾くなら、絵画のなにも要求しない女性。憤慨もしなく、気持ちのコントロールも全うでき、熱意やおだてもしないでロスの少ない暮し。それらを考えたりする。ふと、軽い気持ちで踏み込んだのに、簡単には抜け出せなくなっている。でも、絆創膏をはって、いやされた傷こそが正しいときちんと認識し、いつまでもそこに隠れたままではなく、一歩抜け出さないとね。
 美術館をあとにする。そとには、日差しがさしている。こまめに修復というメンテナンスが必要な作品たち。人間のこころも、そう違いはしないだろう。数枚のポスト・カード。芸術の鑑賞というまったくの個人的な好意にも、人の判断に道を譲ってしまう入り口に置いてある器機。一度、見たら数ヶ月忘れてしまおう。そこから、ある日思い出せるいくつかのことが、自分の経験なのだ。

「考えることをやめられない頭」(7)

2006年08月30日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(7)

 バイトで働いたお金をためて、CDを集めていく。どこから始めたのだろう。ロックの古い名盤を知りたいと思っている。自分が思春期を迎えた頃の音楽が、80年代前半だろうか、そのころの音楽が苦手だった。それによって、音楽に傾倒していくことが遅くなったかもしれない。いかにも軽い音楽。あとに残らない炭酸飲料のような音楽。それでも良かったのかもしれないが。車とブロンド美女と水着のビデオのオンパレード。
 ロイ・オービソンという人を好きになる。エルビス以降なのだろうか、ガッツだけで作っていく人と違って、彼には独特の哀愁がある。しみじみとした哀しさが付きまとっている。人間としての実際の大きさの音楽のような気がする。大きなスタジアムには不釣合いな音楽。
 ボブ・ディランという人の名前も覚える。詩が凄いということを雑誌や本で読むが、やはり自分はあの人の声や、歌い方やスピリッツに憧れるのだろう。ほかの人が歌ったときに、彼の作った音楽も、違った意味で輝きだす。当時は、ネヴィル・ブラザーズもCDの中でカヴァーしていた。
 それから、60年代も終わろうとしているころの最盛期。数々の名曲と名グループ。ドアーズやタートルズ、ニール・ヤングがいたバンドなど。それらを吸収すると、次に待っているのは黒人の音楽たち。その架け橋になったのは、ジミ・ヘンドリックスとスライかもしれない。スライは本当によく聴いた。あの独特のリズム。彼がいなかったら、ある種の音楽はよりいっそう早く逃げ場をなくし、煮詰まったかもしれない。
 オーティス・レディングがいた。素朴に心を打つうたい方。彼を知ると、アメリカ南部の洗練されすぎない音楽がよりいっそう身近なものになっていく。そして、完璧なかたちで登場して、自分のこころの最善席に居座ったサム・クック。この人以上に歌で感動させてくれた人はいない。公民権運動という歴史の教科書のころの時代に撃たれて死んだ。過渡期の時代。その象徴としての「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」そこからJBが表れる。彼と、そのメンバーの音楽に愛着を持つと、管楽器に抵抗がなくなっていく。ロックでは、一部のバンドが、ブラス・ロックという形式で華々しく活動するが、もっと土着的なかたちで、黒人のソウル・ミュージックは使っていた。
 そのサックスや、別の金管楽器に耳が馴れていくと、もっと芸術的な方法で、それらの楽器の利用した音楽に傾いていくのは時間の問題かもしれない。
 この過程の途中に、ジャズを好きになっていく。はじめは、努力とか、勉強とかのニュアンスが含まれていたかもしれない。だが、聴き始めると、その渋い芸術性や、基本的にお金になりそうもない音楽に何かをかけている人たちに、自分が何かを探し夢中にのめりこんでいく。実際にはあとで知ることだが、彼らはジャズという地盤をなくすと、タクシーの運転をしたりした。
 その時、リスナーとしては目先のことに関しては都合が良く、長期でみれば生で聴く機会がなくなったことで都合が悪いことになる、ビッグ・ネームのアート・ブレーキーやマイルス・デイビスが死んだ。まだあの当時は、ラジオでも大量に追悼の特番をながした。ラジオに、スピーカーに耳を傾ける犬のように熱心に拝聴し、自分の好き嫌いをも見つけていく。ジョン・コルトレーンという求道士がいた。自分を食いつぶすように音楽に突き進む男が過去にいた。その立派な業績が、どうしても言葉という形で表現すると陳腐になってしまう。なぜだろう。ソニー・ロリンズというライバルのような存在は、圧倒的な気楽な天才的なプレーヤーの方が、文章としてもすんなりと納まるような気もする。理由は分からないが、不思議なものだ。
 こうして、お兄さん的な人にアドバイスされたかったなと思いながらも、自力で音楽という道を切り開いた。よく頑張ったなとも思う。最近では、プレーヤーの人と話す機会もあるが、いつまでも雲の上の人のようにも感じていたい。CDにもたくさんお金をつぎ込み、費やした。前の職場にも、数百枚もCDを持っている人がいたが、好みがまったく違うため、自分のと重ならないんだろうなとちょっとあきれぎみに感じる。音楽って深いものだな。
 たくさんの時間をかけて、あるものを判断できる材料が揃っていくようになる。音楽だけではない。さまざまな、小さいものの寄せ集めが、人生を形作っていくというありふれた結論に達する。思春期からちょっと遅れたが過去の音楽が、聴く気をもてば生々しく迫ってくるということを正直に告げたかった。そのギフトをもっている人たちに、おごらないで表現してほしいと期待を込めて。

「考えることをやめられない頭」(6)

2006年08月25日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(6)

 時代が前後するかもしれない。バイトをまた始めた。そこはビデオがたくさんあり、もちろんそれをレンタルする店なので当然だが。自分に映画の趣味の盲点を作らないように、それらを借りて家でも楽しんだ。古い映画。白黒のフランス映画。その言葉の響きで、近寄りがたいもののようにも感じる。店員でしか分からないような、奥の棚の、低い地面に近い場所に並べられたものをも見つけて、見た。なので、同年齢の興味の範疇に入っている映画以外にも、知識をつけることができた。
 そこには、CDも置いてあるので、これも店にいるときには、自由に聴けた。同じ時間帯に、二人で働いていたが、最前線のポップスをかけることを店長は期待するが、そんなに店に頻繁に行き来もしないので、いない間はその二人で好きなものをかける。もう一人は、ヘビーメタルが好きで、自分ではまったく耳にしないが、その男性がガンズやポイズンをかけるので、今でも覚えている曲すら出来た。ぼくは、古い音楽にもさかのぼる。ストーンズやアニマルズもそこで詳しくなっていく。
 たくさんの新作のビデオが届き、梱包を開けて登録して並べていく。毎日のように2,3本を抱え込み借りて帰っていく人。たくさんの人間の興味の一端を知る。でも、客商売としては、愛想もなく態度も悪かったなと反省する。
 毎日、朝から働き、時間になると、遅番の人に引き継いだり、店長への伝言を書いたりして店を後にする。冬の寒い時期をそこで迎え、年が明けたと思ったら、昭和が終わった。結局、何年続いたんだろう。それからテレビ番組が、ある報道一色になり、多くの子供や、大人の人々までビデオ屋に来て、今夜の過ごす方法とビデオを物色していく。突然、忙しくなり終わる時間になっても直ぐには帰れなくなっていく。店長は、隣の焼肉店で、初めておごってくれぶっとおしで働く。役目を終えて戻ってきたビデオの置く場所がなくなり、床にじかに置いていくしか仕方がなくなる。数日、その繰り返しであまりにも前かがみになり腰を痛める。
 そうこうしている間に、その追憶の時間も過ぎていく。となりには、下町の細い川がながれ、大雨が降ると不快なにおいを発した。行き帰りに通る大きな公園も気候が暖かくなっていくにつれ、ベンチにも人が戻ってくる。映画館では複雑な兄弟の話である「レインマン」が上映していた。その兄の天才的な数字の能力と反比例するようにして、日常生活の不能さがあらわになる。でも、人間とは、多かれ少なかれそういうものだとも思う。
 このように、自分では、「芸術上の負けず嫌い」と名付けた時に突入しようとしている。でも、興味を持ち出して、それに絡めてさかのぼっていくと、どこまでもたどれてしまう。また、終わりがないようにも思える。
 近くに図書館もあったので、バイト帰りに寄ってそこで時間を過ごしたりもした。なにを読んでいたかは、いまでは思いだせずにいる。ジョン・レノンが軽井沢で過ごした写真を見たような憶えもある。自分という個体が完成をするために出会ったさまざまな本は、もっと後に読んだ気もする。だが、この生活が現在という流れている時代に住んでいる事柄とは、距離を置いてしまったのは事実だろう。友人たちは、尾崎豊という歌手を適度に受け入れていた。自分は、もうそんなところにはいなかった。さらに深い、生きることの源泉を知りたいとも思っていた。反抗という方法を使わずに。でも、いまの自分の気持ちは、彼を優れた歌手だとも思う。20年も経った自分ですらみずみずしい気持ちをもっている人だったなと感じる。しかし、若さを売り物にして、そこから恩恵を受けたら、そのしっぺ返しもそこから訪れるとも思う。
 その頃は、音楽を語る自信も資格もなかった。学校の音楽の時間もまじめに聴いたこともなかった。でも、CDを長時間聴いていられる環境に自分を置いて、そこから喜びを感じ始めると、演奏する楽しみとは全く別物の、聴く、それも楽しんで聴き続ける教育もあってよかったのかとも思う。誰も、演奏家になるわけでもないし、ほんの一部の人が自分でプレイするだけなのだし、それ以外の大勢は、良いリスナーになるしか方法がない。
 少ないながらもお金を稼ぎながら、映画や音楽を自分の生活に取り入れ始めていく。だが、それも始まったばかり。地面をみて、歩き出すと目の前の山がどれほど高いかも知らずにいる場合がある。自分もそれに似ている。まるで、銀行にはじめて口座を開いた人のよう。貯蓄額は数百円という無いに等しい額。これから、貯まっていくのだろうか。

「考えることをやめられない頭」(5)

2006年08月21日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(5)

 身体の中にボルトや金属を入れて、複雑な骨折を一時的にとめている人たちがいる。それは、外面的には、分からないかもしれない。自分はその人たちと大差はないのかもしれなかった。痛んだこころは、崩壊手前で、かろうじて耐えている。そのことを誰にも語らないで、解決しようとしていた。誰が、そんな弱さを暴いてよいだろうか。自分自身で必死に来年の餌を土のなかに隠す、山の中の鳥のように、その作業は誰にも見つからないとも思っていた。
 でも、本心を話さない人間に、真の友情が訪れるだろうか。共通の悩みを打ち明けない存在との関係を、永続的なものにしようとは誰もしないだろう。数年も、毎日のように遊び続けた友人たちとも、眼に見えない溝。違うな、明らかな橋桁のない場所。その女性問題の失敗だけが、大きな理由ではないだろうが、彼らと離れていく。脱いだユニフォームをかわすこともなく。また、このままでは、ぬるま湯に浸かる人間で終わることの恐怖も感じ始めている。小さな町の、ちいさな友情。大きな世界の、おおきな一人ぼっちの前進。
 だが、出来ることも知れていたし、実際にやろうとすることも少なかった。
 そのような時に、ベッドの上で、谷崎潤一郎の「異端者の悲しみ」を読んでいる。自分では、溢れるほどの才能を持っていると自負している作家の、それまでのあがき。優れた短編小説。それを自己を投影して読んでいる。もちろん、家の中で、その読書という行為をしている自分を偉い人間になるとも思っていない家族の中で。
 着古したジーンズと、あまり重くもない財布をポケットに入れて外に出る。近くには川がある。子供の頃は、ルアーを投げた。もう少し大人になって、部活の練習も終わった夜ですら、一人で身体を動かした場所。体育祭のまえには、ヒーローになるために念入りにウォーミングアップをしたところ。なぜ、あんなに体力を持て余していたのだろう。そこに立っている。芝生の上を歩いている。もし、川の対岸に自分を認めてくれる人がいたとしたら、どうだろう。絶対的な、夢心地。虹の彼方。
 頭の中に新鮮な空気を入れ換えたいときは、映画を観に行った。まだ、かすかに安い名画座が、東京にも点々と残っていた。だが、今日は違う。フィールド・オブ・ドリームスを観た。完全には、断ち切っていなかったのだろうか。友人と、泣き所を話し合っている。自分は、バート・ランカスターが演じる医者が、まだ若く野球選手になることを目指していたが、子供がベンチから落ち、喉をつまらせ息ができない状態のところへ、野球選手になることをあきらめ、グラウンドから出てきてしまう。もう、そこには老いた医者しかいなく、そっと彼女を治療する。
 その時に、自己を犠牲にしてまでも成し遂げることもあるんだろう、と思う。そのような気持ちをはじめて掴んだ。そして、目を遠くに投げかければ、数は少ないかもしれないが、地球上にそんな素晴らしい人も溢れていた。アイ・ハブ・ア・ドリーム、と言った人。
 一巻の映画や一冊の本が、人生を変えてしまうこともあるかもしれないし、自分は、図書館の膨大な書籍を前にしても、まだ読みこなせない多数の本の脅威ですら人間を変えてしまうとも感じる。人間は、知らないことばかりだし、その上時間というものは限られている。でも、小さなねずみが、端っこからでも、大きなチーズを食べ、最後には跡形もなく消滅してしまうようなことも想像する。結局、知識の社会に向けて、スタートを切るということが大事なんだと、無理やりに納得させる。
 その貪欲さはやはり病気なのだろうか。普通に、小さな深い人間との交友が、人々をいやしていくのだろうか。だが、もうその頃には分からなくなっていた。判断もとれない状態だったのかもしれない。
 そして、スタートを切った。金銭でも腕力でも負けても良いが、人間の本来の賢さのゴールは目指したいとも思う。だが、知識が増え、自分はある程度のことを知り始めたと感じる人間は、厄介な生き物に変わってしまわないだろうか。人のことを、優しい愛情ある目付きでみることは可能だろうか? それとも、人を見下げるような前兆があらわれてこないだろうか? 
 ここで身を引く。判断を先延ばしにする。
 陽気な、快活な心持の人間を祝福する世の中。
 それとも、ひねて世の中の事象と対処する人間。
 スタートとゴールはまったく別物になってきてしまっている。何度目かのモデル・チェンジ。

「考えることをやめられない頭」(4)

2006年08月17日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(4)

 二人の関係は順調に進んでいた。身長の伸び盛りの子供のように、あっという間にリレーションシップは強く大きくなっていた。会うたびごとに理解も深まっていき、互いを必要としているのを実感した。
 電話も鳴る回数が増え、話す時間も長くなった。そして、両方の家族から、電話を占有していることにたまに苦情が出た。かといって、それ以降も、その状態は直ぐに変わることもなかった。
 その彼女を知って、まだ見ぬ未開の地、あるいは大気圏を越えたのだった。そこに足を踏み入れることによって、また回りとの関係も変化を及ぼした。自分と世界、自分と他の人間、社会。そうした今まで気まずかったものが一瞬だけ崩れ去った。以前の不幸な交友は解消されたのだ。自分も、なんだかんだ上手いこと社会と結合できるのだ、と宣言したくなった。その有頂天さも、またかすかなきらめきのようだったが。
 女性との関係で自信が持てると、あとは応用を利かすだけのような気がした。ある日、別の女性に映画に誘われた。バイト先で話のあう女性だった。自分も観たいものだったし、特別なことでもないから一度ぐらい、その女性に都合を合わせても大丈夫だろうと思った。楽しい2時間と、その後食事をとった。ただ、それっきりにすることも出来た。また会おうと誘われたが、自分には決めた人がいるのでと実際に断った。だが、付き合っていた彼女の兄に僕らの姿は見られていたらしい。ちょうど、同じ映画館にいたようだ。その兄は、自分の妹とぼくの交際は、少し前に終わっているものと勘違いし、家に帰って彼女に告げた。
 それから、会うこともままならなくなった。自分は、空虚な気持ちを抱いた。喪失の記録。
 しかし、自分のことだけを考えていた気もする。この失意を作った自分を呪いもしたが、最初にしたことは、まず自分の傷ついた気持ちを取り除こうと必死だった。どうして、こんな目に合うのかとも思った。だが、彼女の気持ちを考えなければならなかった、とあれから時が過ぎた自分は、当然のように知っているが、その頃の荒んだこころと、自分のある種の不快さを大切に育んでいたのかもしれない。
 バイトをしていたが、手もつかず止めてしまった。生き方の大幅な変更が求められていた気もした。
 そんな時、彼女は自身を傷つけた。あまり、大事にはいたらなかったらしいが手首を切った。すぐに彼女の兄に呼び出され、そのことを告げられた。2度と会うな、と紅潮した顔で怒鳴られ、彼はぼくの頬を殴った。殴り返してもよかった、と瞬間的に思ったが、当然思いなおし、そのまま痛みをこらえた。そして、永久的に会うことも潰えた。
 自分に全身で跳び込んでくれた彼女。それを受け止めず、台無しにした自分。こんな例えは、おかしいだろうか。バイクに二人で乗っていて事故にあい、その転倒のために後ろに乗っていた女性が傷物になる。もし、その行為を運転していた自分に責めるなら、たとえ万が一嫌いになったとしても、そのアクシデントのために、その女性を一生、守らないだろうか。
 自分は、当然のように長い間、彼女を嫌いになることなど出来ずにいた。一方的に悪いのも自分だった。彼女のしたことが、軽はずみな行為とも思いたくなかった。
 友人と夜中を通して遊んで、公衆電話をみるたびに彼女の電話番号を思い出した。そして、何度かは勝ったが、数回誘惑に負け、電話を鳴らした。だが、彼女を呼ぶ勇気がなく、すぐに受話器を置いた。記憶には、雨が降る。寒い夜のなかを歩いて、このまま病気になって自分の命も終わってしまえばよいとも思った。
 だが、さっきの例え。もし仮に自分が神に全身で跳び込んでみたら、その存在は命がけでぼくを守るだろうか。人間でさえ、一人の女性を守りたい気持ちがあるぐらいだから、その絶対的な行為者は、ぼくの過去の行いを嫌っていたとしても、容易に愛することができるだろうか。
 まじめに考えることが好きになってしまったが、友人とあえば以前の気軽な気持ちをもった自分を表した。ユーモアも混じえた話も連発した。だが、家に帰れば、どっと疲れた。本来の自分と、偽りの自分の接点をつなごうとした。そんな時に、社会に押しつぶされるヘルマン・ヘッセの小説は、いくらか同情心を示してくれなかっただろうか。だが、そう簡単にピリオドを打って、終わりにできないこともたくさんある。ぼくにとっては、この1ページで書き上げてしまったことだが。

作品(5)-3

2006年08月14日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(3)

 彼女とジェットコースターに乗っている。隣で、彼女は悲鳴を上げている。自分は、こうした乗り物にあまり動揺しない性質だった。子供の頃、兄と一緒に乗り、兄は揺さぶられている最中に一日券をなくし、父親に叱られた記憶がある。自分はそれを横目で見ていた。結局、父はもう一度、買ってくれた。
 今回も、自分は横目で見ていた。彼女の存在を間近に感じるたび、正面から見るのに照れてしまっていた。彼女は、木のテーブルの向こうでアイスを食べている。自分は、大人ぶって違う飲み物を頼んだが、彼女がしつこくおいしいから食べてみてというので、ちょっと口につけた。それは、本当においしかった。彼女は、その行為で満足した。
 たくさんの乗り物に乗り、スニーカーで歩き回り汗をかいた。そうすると、いつの間にか夕暮れになっていた。彼女は、圧倒的な存在からシルエットに変わり、自分の気分も変わってきた。その横にもたれかかるように歩いている彼女の重みが、自分の幸福と直結している感じを抱く。自分は、この種の重みと暖かさと柔らかさを知らずにいた。そのことを後悔するどころか、いまそれを実感していることと、失いたくないという恐怖が含まれ始めていることに驚いている。
「どうしたの? 急に静かになっちゃって」
「なんか、主人公みたいだなと思って、ドラマかなんかの」
 足の裏に、落ちた葉っぱの感触が伝わる。その音も、切ないまでに心をきれいにした。いままで感じていた、さまざまなことに対する切望を忘れていた。一人前の人間になること。なにかを漠然とだが、やり遂げること。それらを、正直に忘れていた。その忘れさせてくれた存在が、自分の腕につかまっている。
 あるレストランに入る。彼女の食事の仕方。あんなにおいしそうに食べる人を見たことがない。食材の最後は、彼女に奉仕することで、終えることに魅力を見出しているのだろうか? 食べながらいろいろなことを話す。女性に、自分はどう思われたいのだろう。尊敬される人。面白い人。話に、興味深さを練り込むこと。彼女は、紅茶を口にする。そして、レモンのにおいが回りにひろがる。彼女自身が、そのにおいを作ったとでもいうように。
 洋服の時代。男性雑誌も多く創刊され、それを意識しないと生きにくくなっていた。友達とも情報のやりとりをし、数人で洋服を買いに行ったりした。今日も、自分で考える最高の組み合わせを選んだが、頑張ったところは素振りにも出さない。彼女も、あまり女性らしさを前面にださない服を着ていた。しかし、なにを着ても、この気持ちを削ぐようなことは出来なかったかもしれない。
 店を出る。二人は行き場をなくす。大切に感じていることが、必要以上に大きくなり、彼女の欲求を見落としてしまう。暗くなった、公園のベンチに座った。また会えるだろうか? ということが心配の種になっている。
「そろそろ、帰ろうか?」
「そう、まだ早くない」と、彼女はこちらに顔を向け、ささやいた。
「じゃあ、もうちょっとだけ」
 話を伸ばし、このときを止めるものを恐れ、自分は大人の手前で戸惑っている。だが、彼女のすべてを分かってしまう前に、駅に向かっている。彼女の最寄の駅まで、一緒に乗った。暗いガラスに映った彼女の顔が、とても幸福そうに見えた。自分が、もしかしたらそれを作ったのかもしれないと考えることで、さらに自分の暖かい気持ちも増した。だが、駅に着く。階段で軽く手をにぎり別れる。
「また、電話するね」
「うん、おれからもかけるよ」
 背中を向ける彼女。その存在が小さくなる。寒くなり始めたホームで、乗ってきた逆の電車を待つ。家に電話がかかってこないと連絡がとれない時代。その不便さを当然と受け止めていた時期。そして、彼女の言葉を待つ。ちょっと電話だと早口になる口調。どのように、家で電話を待っていたのだろう? モームという小説家の長い話を手にしていた時に、かかってきたのか?

作品(5)-2

2006年08月10日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(2)

 千葉から、江戸川という幅のある河を越え、東京に帰って来る。女性に対して、新たな認識を手にすることもなく。また、東京の端っこで日常に没頭する。だが、その日常の生活とは、いささか折り合いがつかない。日常と自分の両者のあいだで決定的な和解もなく、愛着ももてない生活を送っている。その答えを得ようと本を手にする。数百円の文庫本で、すべての解決を願っている。
 駅前の本屋に入った。今回は井上靖の「あすなろ物語」をつかんでレジに向かう。なにか新鮮さの前兆のようなものを感じ、店を後にする。すこし離れた公園まで土手沿いを歩く。歩きながらもさまざまな考えを道ずれにしている。
 そして、2時ごろから読み終えるまで、ベンチに座っていた。学校帰りの小学生が通り、買い物途中の主婦が自転車をこぎ、サラリーマンが缶コーヒーを飲み、そうした背景のもとに自分だけは、書物に没頭した。エリートではないけど、明日には、きちんとした樹木に成長を望んでいる物語。自分にも当てはめて読んでいる。この年頃で、自分の存在を度外視して、本を読めるだろうか。そうは、思えない。そろそろ、家に帰らなければ、と疲れた目をいたわるように遠い緑を見た。その光景が、本を読む前と時間の差だけではなく変わったような気がした。簡単にいえば、その数時間で少し大人になったのだろう。
 こうしながらも、必要な金銭を手にしなければならない。家族と一緒に住んでいるので、自分の娯楽のためだけでも、満たさなくてはならない。でも、心のどこかで進歩に必要な時間を持ちたいとも思っている。図書館に行く。そこに大量の書物が、眠りが覚めるのを待っているお姫様のように横たわっている。それを、自分は揺り起こす必要と、動機があるのではないかと考える。その考えに長い間、熱中する。人から、知識をもっていない人間とは思われたくなかった。プライドとも違う。ある程度の知識が、幸福を鋭角的に切り込んでいくためには、重要なナイフのような役目を果たすのではないかとも思っている。しかし、少女の微笑みも、同じほど強いシンパシーを有するが。
 都合がよいのか、簡単なのか、テレビ番組のエキストラのバイトがあった。長い間、待っている生活。考え事にはもってこい。コメディーのドラマを見て、笑った声を録音するような仕事もあった。でもそれは、本気で笑えるような内容ではなかった。それ自体に問題があったわけではないのかもしれない。自分が、自分の存在をもてあましているのに、ちょっとした滑稽さで笑えるだろうか。こうして、その安易な状況にでさえ、自分を追い詰めていく性格だった。
 だが、すべてが悪い方角に向かうわけではない。そこで、長い間待っているときに、ある女性と話し出す。きれいな、はっきりとした顔立ち。昔の東洋人の先祖は、こうした顔をしていたのではないかとルーツさえ感じさせる面立ち。彼女の、その自然な温かみに、気持ちはかたむく。そして、何度か会ううちに彼女の声を待つようになる。
 もう一つは、バブルの絶頂期だったのか。恩恵には、一切関わっていないと思っていたが、やはり過ごした時代とは、誰一人として無関係ではいられないでしょう。後世に名を残す芸術家だって、ミケランジェロの壁の絵だって、ルネッサンスの時代と離れているわけではない。本人が、無頓着であろうと、迎合しようとするかにも関わらず。
 その金銭があぶれている時代のため、それらのテレビ番組の収録が遅れたりすると、2,3人ぐらいで同じ方向の人が乗り合わせ、タクシーをつかって帰れた。自分は、小田急沿線沿いから、直ぐ人が降り、夜の東京を独り占めしている。あんなにきれいな東京は、いままで見たことがない。後部の座席で考えている。自分は、どこに揺られようとしているのか。もし、可能なら何になりたいのか。自分は、大衆に埋もれるべき存在なのか。まわりと自分を区別する差は、どこにあるのか。明日、目が覚めると大きく変化する予兆があるのか。そう考えていると、目的地の自分の家の近くまで車は来ていた。すこし離れたところで、停めてもらいあとは歩いた。いつもこうだ。家の前まで送られると、スイッチの切り替えが出来なくなる。自分の家での状態に、おとなしい無口な殻に戻らなければならない。傍目から見ると、たいして違いもないかもしれないが、自分では拘っていた。
 この仕事は、長く続かなかったが、そのさっきの女性を知り、さらに彼女の放つ女性としての影響が、自分に深く残る。「女性」という言葉を目にしたり耳にしたりして、世界中の半分の血の通った人々を想像するが、当面は、この一人のことが頭に浮かぶ。真っ先に。先頭に。

作品(5)-1

2006年08月01日 | 作品5
「考えることをやめられない頭」(1)

 2006.7.18~

 夏休みなので、海辺にいる。友人2人と、暑さしのぎと女性のことと、また後になって、会話の種にするための行動。

 一人の友人。ぼくが考えるより断然はやく性体験をもった。このことを、この青い時期は当然のようにうらやましく思ったが、いまになるとそうでもない。先ず、その経験があれば女性に幻想を抱かなくなる。そのことが、頭でっかちになる要素が、必要かときつく追求されたら答えようもないが、女性に幻影をもつのは、とても重要なことだとも思える。わたしたちが、飛行機に乗り、混み合った美術館に並び、窮屈な姿勢でモナリザなどを見るのは、もちろん見てきたよ、という報告も兼ねた経験も大きな要素かもしれないが、どうしても自分は、この一人の絵描き(他にも出来る)の持ち続けた幻想の女性の姿を追体験したいからなのではないだろうか? まあ、多くの人は、付和雷同てきな事柄で、行列の一人になるのかもしれないが。
 こうして、この友人は、続々と自分の領域に女性を引き込む。それだけ、女性が等身大になっていくのは否めない。また、彼は優しいという評判を身につけていく。それには、多くの時間を知という概念とは遠く、女性のためにあれこれ時間を取り分けるからだ。食欲旺盛な子供を持った親のように、彼は、優しさや手頃な温かみを求めている女性たちに、ちょうど良い温度の優しさを与え続ける。弁当箱にきれいに調理された品を並べるように。自分は、そうだね、やはりこういう関係を拒否したのだろう。昨日より一回でも多くリフティングができるよう努力するサッカー少年の意気込みで、知のかけらを拾い続けようとしている。この部分は、趣味や主義なので、どちらが正しいとも、自分を正当化させようとも思わない。多くの大人になるまえの青年たちは、女性の微笑の旗の元に集結するだろうとは、思うが。まさか、本に顔をうずめて育つ、なんてことには、そう魅力もないよな。
 そして、彼と自分とまた別の友人は海にいる。理想論を掲げたが、自分と別の友人は女性に激しくがっついていた。女性を知っていた友人は、どこ吹く風。あまり今回は、意気込んでもいない。そのような時に同じ場所に4人ほど同年代の女性が泊まっていることを知る。そして、なんとなく親しくなっていく。それぞれ意中の女性を決めて、単独行動に移る。女性を詳しく知らない二人は、見よう見真似でなんとか上手くこの機会を生かそうとするが、友人は、ぼくらの部屋でふたりきりになるも失態。でも、その後仲良くなっていた。これからも会おうよ、という感じで。自分は、色の白いきれいな女性を外に誘う。なんとか話をつないでいたが、最後は強引なアプローチで結果が良くなかった。外は、天気も悪くなってしまうし、戻るにも自分たちの部屋は友人が使っているし、行き場所がなく、布団をしまっている部屋に転がっていたら、そこに友人が結果を報告に現れた。人がいそうもない場所に隠れるようにしていた自分を、なぜ彼は突き止めたのだろう。
 それで次の日はいつもより早目に来る。料理を準備する人も面倒なのだろうか、その女性たちと自分たちを一緒の部屋で朝ごはんを食べさせようとした。昨日、上手く行かなかった人と、飯もないだろう、と思いながらもご飯を噛んでいた。こうして、出掛ける前と帰った後では、なにも変わっていなかったのかもしれない。いや、もっと女性が遠退いたような気も確かにする。
 友人と女性は、これからの会う相談をしていたかもしれないが、その先を自分は知らない。ただ、ちょっと陽に焼けて身体が黒くなっただけなのかも。さらに、競泳風の水着を着ていた自分たちに、視線を這わせていた少し年上の女性たちがいたことも覚えている。
 自分は、一人の女性を忘れられないでいたのかもしれない。この夏が終わる頃も、ただその人との関係が修復できることだけを望んでいたのかもしれない。こころの奥で焦燥感がうずまいている。自分でも、その熱を冷ますことができずに、眠りが浅い人の夢のように、その遠い映像が頭から離れないでいた。あの別れが、こう長く自分を痛めるとは知らないでいた。自分は駄目になりそうになっていた。どこかで建て直す方法を見つけたいと考えていた。そして、なにもかも上手く運ぶような世の中を空想しだしたのかもしれない。その追求のある面でのゴールは、武者小路やトルストイの考え方への賛同になるのも否定できない。