爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(59)

2012年04月26日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(59)

 そして、社長が亡くなった。彼は、ずっと働き続けたひとだった。ただ、いつものように起きてこない夫を妻が心配し部屋に入ると、意識はなくなっていたらしい。常に慌ただしい彼にとって、不釣合いな幕切れだった。

 ぼくらには、こうしたことに対する準備はなく、ただその状況の対処に追われるだけだった。

 その夜に、ぼくは息子であるラグビー部の先輩だった上田さんと妻である智美と会った。お互い、黒い服を着て、ぼくらはこうした機会にしか会わなくなる自分たちのつながりを悲しいことのように思っている。上田さんは憔悴していた。誰でもがそうだろう。彼は、奥のほうに座りうつむいていた。実際の段取りは会社の面々がしていた。彼はただ失ったものと対峙していた。

 夜も更け、ひとはまばらになる。ぼくは彼ら親子ととても親密にしていた。それで帰るということ自体忘れてしまったようにそこにいた。横にいた智美が口を開く。
「ひろしが、奥さんを失ったときの気持ちが、ほんとうは分かっていなかったのかもしれない。わたしも、彼も」
「なんだよ、今更、急に」
「どんな慰めの言葉も、そのひとを連れ戻してはくれない」上田さんが言った。「オレは大人になってから、親父とあまり時間を作ることに対して努力をしなかった。割けなかった時間を。それをいまは後悔している」
「みんな、それぞれの場所で働いているし」

「お前の方が、ある時から、オレの親父のことを知っている」
「いっしょに働いていたし、ぼくを可愛がってくれましたから。若いときから、目をかけてくれました」
「ありがとう。どう転がるか分からない会社にも賭けてくれた。お前の先を見通す能力は、この面では間違っていなかった」
「その場、その場でたくさんの間違いも繰り返しましたけど」
「許される範囲での間違いだろう? オレは、自分の親の会社にも無関心だった」
「上田さんは、もっと別の方面で能力があったから」
「いまは、すべて言い訳に思える」
「時間がかかりますよ」
「お前は、まだ裕紀ちゃんのことを思い出す?」
「もちろん、たまに一日の間、思い出さない日があって、翌日、罪悪感に駆られます」
「なんで? どうして?」智美が誠実な目をして疑問を挟む。
「ぼくや、彼女の叔母が裕紀のことを忘れてしまったら、一体、誰が彼女が生きていたことを示す証拠を握っているだろうって・・・」

「わたしも、覚えているよ」
「ありがとう。ずっと、覚えていて」ぼくは太古の壁画のようなものを脳裏に浮かべる。誰かが発見するまで、それはそこに存在する。しかし、誰かの目と手と懐中電灯でもって照らさなければ、そこにはないのだ。「きょうは、でも、社長の思い出を語り明かそう」ぼくは、大切なひとびとを失い続けるのだ。記憶ぐらいは自分のものでありつづけたい。そこに、ぼくの携帯電話が鳴る。雪代だった。

「大変だね。帰れそう? あまり、深く考え込まないでね」ぼくは前妻の死から立ち直る方法を知らなかった。ある場所で酔いつぶれ、絡んだ末、雪代に頬をなぐられた。それから、ぼくらは広美を加え、二人三脚のようにすすんできた。あのときの状況に戻るのが恐かった。だが、自分の償いとしては、あの方法しかなかったとも思っている。悲しみから簡単に立ち直れる人間なんか糞喰らえとも思っていた。

「お前、取り敢えずは帰れよ。あのときのようなお前になってもらうとまた困るから。それに、困るひとも増えたから」ぼくは悲しく相槌を打ち、そこを出た。ひっそりとした空はいつものような継続ということしか考えていないようだった。ぼくは自分の悲しみを正当化して何人かの女性とその場だけの関係をもった。失った女性の悲しみのため、その身体を代用として利用した。多分、上田さんはそのような卑怯な真似をしないのだろう。父親と妻という違いもあった。だが、ぼくは瞬く星を見ながら、自分のそのずるさが暴かれるような気持ちを内包していた。

 そこには、ゆり江の優しさがあり、上田さんの会社の後輩の笠原さんの温もりがあった。でも、ぼくはそんなことより裕紀を取り戻したかったのだ。
「大丈夫?」玄関の扉を開けると広美がいた。
「まだ、起きてたの? 大丈夫だよ」
「広美もわたしも心配していた」
「大丈夫だよ」ぼくは、それしか言わない。
「前のこともあるし・・・」
「あのときを経験して、ぼくはいろいろずるく対処することを覚えたんだ」
「そんなに器用な生き方、できないのに・・・」
「広美、寝なよ」ぼくは、話を反らすようにそう言った。

「分かってる。もう、子どもじゃないよ」彼女は自分の部屋の戸を閉めた。彼女も自分の本当の父を若くして失い、その父の親しかった母、彼女にとって祖母である女性もこの前に亡くした。そのときの悲しみもぼくの範疇外にあるようだった。つまりは、自分の周辺の悲しみに追われることだけで精一杯であり、誰しも利己的に思えてきた。

 ぼくは、シャワーを浴び、ベッドに入った。子どものように雪代にくるまれ、ぼくは泣いた。裕紀を失ったときにぼくはひとりで寝ることになった自分の境遇を思い出していた。自分の身体は、彼女が冬になって冷たくなった足に触れることもできず、小さな寝息を感じることもできないでいた。そのような状況で目だけが冴え、思い出を繰り返しページをめくるように頭のなかで何度も往き来させていたあの夜が、なぜだかとても懐かしかった。

壊れゆくブレイン(58)

2012年04月25日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(58)

 ぼくがまだ20歳ぐらいのときに、10歳前後の少年たちにサッカーを休日に教えていた。教えていたというよりまだ体力の行き場を求めていたぼくの身体が適度に運動することを望んでいたという方が相応しいだろう。その頃の少年たちも30近くになっていた。なかには、仕事で接するひともいた。ぼくらは小さな町で利益を左右させることしか方法がないのだ。

 ある青年は自分の店を開いていた。スポーツ・バーという形式のもので簡単な軽食とアルコール類と映像を映す大きな画面が壁にいくつかあった。ぼくは広美に誘われ、そこにたまに行った。日曜で、ぼくらは暇で、雪代が仕事をしているような状況でだ。

 そこで、バスケットをする躍動したスポーツ選手を見たり、時期によってはサッカーやラグビーや、それもなければ野球を見た。もちろん、ビールを飲んだ。店の子は、ぼくに恩があるのか、広美にとても優しく接してくれた。その証拠として、彼女には特別な配合のジュースを作ってくれた。ぼくは、そういう関係性を楽しんでいた。ぼくは彼と過去にサッカーをいっしょにした。実際の娘ではない女性と友人のような関係を培っていた。最近では、彼女は自分の母を尊敬していることを隠さなくなった。それで、その女性が選んだ男性は友人になる価値があるひとなのではないか、とそういう認め方をしている気もした。何にせよ、日曜の昼から夕暮れにかけて過ごす時間のやりくりとしては悪くもなく、逆に申し分のないものだった。

 しっかりと見つめ合って意見を交換するわけでもない。時折り、画面から視線をずらし、自分の気持ちや最近起こった、また起こりつつある問題や悩みを話した。ぼくは彼女の生き方を左右する権利もないが、いくらか先輩としてアドバイスする立場を取った。それには、広美と雪代の深い絆のようなつながりがあったから、踏み込めないという事実も多分にあった。

 それと同時にスポーツ選手の活躍や不甲斐なさに悲鳴や声援を送り、勝利者に喝采し、敗者にも暖かい絶叫を与える。敗者がいなければ、どこにも勝利者は存在しないのだ。そういう一喜一憂を共有することにより、ぼくらの関係はある面では理解に及び、深まっていくこともあった。ぼくらは知り合って、それぞれ愛するひとの娘として、向こうは、愛する母の結婚相手に途中からなったひととして6年とか7年という期間が経過した。それぐらいしかぼくらには共に過ごした時間がないのだ。それにしては、まずくない関係のようなものが作られていった。いや、服がなじむように、突拍子もないものではなくなっていったのだ。鏡にうつった新しい服を着た自分がしっくりといくように。

「今日は、なにをしてたの?」雪代が日曜の夜にたずねる。
「スポーツ・バー」
「あのスポーツ・バー」確認するように雪代は言う。「ふたりとも好きね」
「だって、試験で部活はなくて、勉強にも身がはいらないから気分転換」
「ひろし君は広美みたいにスポーツが分かる子と結婚すれば、もっと楽しかったのに」
「雪代だって、ラグビーを見に来てたじゃないか」
「あれは、好きな男の子がそこにいたから。不純な動機」そして、笑った。「広美のことも誰か見ているかもしれない」
「集中してて、試合のときには関係ないよ」つまらなそうに広美は言う。家のテレビの画面ではスポーツニュースが流れていたが、その迫力のなさにも不満なようだった。

「ひろし君は、集中してなかった。きょろきょろしてた」
「あれは、スポーツの性質上、誰がどこにいて、誰が視線のなかにはいり、誰かを見てないふりをしてチャンスを見つけようという作戦のためだよ」
「そんなに難しいことをしてたの。スタンドにいる可愛い子を探すためかと思っていた、わたし」それから、また笑った。多分、季節柄、服の売り上げが良かったのかもしれない。在庫は一掃され、新しいものを陳列する。その繰り返しを雪代は楽しんでいた。

 食事も終わり、広美は部屋で勉強をしているらしい。今日、自分に努力を強いていないのは自分だけのようだった。妻は働き、娘は勉強をしていた。それから、雪代は店を切り盛りする青年を誉めた。ぼくは会社員という責任しかなかったが、自分の裁量でなにかを軌道にのせ、その通常運行を毎日することの大切さを雪代は知っていた。

「あの子、あの店の女性のひとり息子だったよね?」その青年はぼくが東京に行く前によく通っていた飲み屋の店主の息子だった。離婚した女性は、あそこまで大きくなるまで育ててきたのだ。そして、そう遠くない距離で彼らはふたりとも飲食店を開いていた。ある場合には、雪代もそのままひとりで広美を育てることになったのかもしれない。そのことによっても、その青年と母に対する評価は高かった。

「広美と日曜過ごすの楽しい?」
「楽しいというか自然だね。ふたりとも家にいないひとを待っている」ぼくらは大体なにかを待っていたり、待ちわびたりしているものなのだ。多かれ少なかれ。

壊れゆくブレイン(57)

2012年04月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(57)

 広美は学校の旅行に行って、家にはいなかった。いまは沖縄にいる。ぼくは地元にあるあまり大きくもない空港のことを考えていた。そして、自分が若かったときに行ったアメリカの西海岸のことに思いは移っていった。そこは巨大な町をすっぽりと包み込んでしまうような空港だった。ぼくは雪代とそこにいる。まだ、ぼくも学生だった。その空港内で裕紀に似たひとを見かける。あとで、再会して裕紀本人だったことを知った。彼女は、遊びにきていた両親とそこで会い、楽しい思い出を作るはずだった。

 しかし、彼女の両親は現地で事故にあった。そのことも後で知る。ぼくはあそこで例えばトイレから出てきて偶然に近い距離で声をかけざるを得ない状況として逢ったとしたらとか、小さな店でコーヒーを買う順番を待つ者同士で再会していたらとかと考えていた。もし、そうなれば人生の歯車がどこかで入れ代わり、彼女の両親は元気でありつづけられるのだと思おうとした。

 だが、そうなるとぼくと裕紀は東京タワーの近くの店である朝、会うことができなくなるのかもしれない。彼女はシアトルに留まり続けたのかもしれない。そして、その両親はぼくと裕紀が結婚することを許さないのだろう。そのはかない可能性を立脚点としてぼくらは生きていたのだ。

 それから、本人もいなくなった。あの空港で若々しく歩く彼女の姿が不思議と思い出されてならなかった。いまの瞬間はどの思い出より、その声をかけられなかった裕紀についていっそう未練があった。

 昼休みになって外にでた。食事を済ませても時間があったので、本屋に立ち寄った。沖縄のガイドブックが目に付いたので指で棚から引っ張り、ページを開いた。そこには沖縄の澄んだスープの色のそばがあった。となりのページにはハイビスカスがあった。何ページかめくると、いつものようなきれいな海岸線とホテルがあった。広美もそのような景色を見ていることなのだろう。

 となりの棚には外国のガイドブックもあった。アメリカ西海岸と背表紙に印字されているものを交換に取り出した。名物の橋。水族館やアメリカの軍隊の説明もあった。脅威を取り除くものがある場所では脅威となり、平和をつくるものが、平和を脅かした。ぼくにって、平和な状況を根底から覆してしまった裕紀の死というものがなぜかそのガイドブックとつながった。

「わたしたちも、どこかに行きたくなるね?」と、仕事が終わり、ひさびさにふたりだけで食事をしている最中に雪代は言った。「いままでで、どこが一番、良かった?」
「きょう、アメリカの西海岸について考えていた」
「行ったね。そういえば」
「雪代は?」
「わたし、暖かいところ。バリ島が良かった」
「あの時の写真あるのかな?」
「押入れの奥のどっかにあると思うよ」雪代はその場所を指差しただけだった。「広美にもたくさん思い出を作ってもらいたい」
「雪代は仕事でいろいろなところに行けたから」

「でも、仕事は仕事だよ。そんなに時間にゆとりもなかったから」
「留学させるとか?」ぼくは無意識にそう言ったが、それこそが裕紀が通った道だった。
「あの子みたいに?」
「別にそういう意味じゃないよ」
「彼女のこと言ってもいいよ。ひろし君の何年間かを幸せにしてくれていたんだから。そういう貴重な時期のことなら」
「そうするよ」
「忘れてもいいし、忘れなくてもいい。おかしいね。辛いことは忘れてっていいたかった」

 しかし、辛いことこそ残るような気もした。こころの奥に。いや、それも違うのだろうか、あの若く元気がみなぎっていた空港での裕紀がぼくの思い出の最前列にきょうはいたのだ。ぼくも島本さんのことにもう拘りはなかった。雪代がもしかしたら大切な甘美な思い出を胸に秘めているのかもしれないが、もう現実に踏み込んできてその場を荒らすことはできないのだ。それが過去というものであり、生きていないという事実のようだった。

「もう少し時間が経てば、いろいろなことは変わるかもしれない」
「ひろし君ももう傷つかない」彼女は、ワインのボトルを持ちながらそう言った。「おかわりする?」
「うん」雪代はボトルをまたテーブルに置く。その空になった手の平はぼくの手の甲に置かれた。そのぬくもりこそが生きている証しのようだった。いくら、思い出が鮮明ではっきりとしていたとしても。

「いまごろ、友だちと話しているのかな。お風呂に入って寝るのかな」
「枕を投げたり?」
「いまは、もうそういうことしないんじゃない。そんな大部屋のようなところには泊まらないんじゃないの」
「そうなのか」ぼくは合宿で泊まった旅館のようなものを思い出していた。身体の大きなものが集まって、みなで入浴した。ご飯を勢い良くかき込んで、泥のように眠った。その泥のような眠りのなかに裕紀や雪代が忍び込んできた。朝、快適に目覚め、ぼくはその眠りのなかでしか会うことのできない彼女と、また地元で会うことを望んでいた。そして、一日中駆けずり回り、何日か経って、目の前に裕紀がいた。学校の帰りにぼくは合宿の思い出を話す。またあのような機会が訪れればよいのにと思ってみるものの、もう結局、それは消滅したのだ。どんな強い望みがあったとしても。

「じゃあ、わたしたちもパジャマに着替えて、枕を投げる?」
「その後、タックルする」ぼくらは娘がいないとただ無邪気になった。

壊れゆくブレイン(56)

2012年04月19日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(56)

 休日だったが、広美が制服姿で帰宅した。ぼくは朝寝坊をしてその格好で出掛けたことを知らなかった。カバンを無造作に床に置き、ソファに身体をこれまた無造作にもたれかけさせた。
「疲れた」
「学校?」
「今日は、ボランティアで子どもたちを遠足に連れて行った」
「そんなこともするんだ」

「するんだよ、最近の学校は」ぼくは冷蔵庫から缶ビールを出した。雪代は仕事からまだ戻ってこない。ついでにパックのジュースをグラスに注ぎ、広美が座っている前に置いた。「ありがとう」
「子どもはじっとしてないから気をつかったでしょう」
「うん」彼女はグラスの半分ぐらいまで一気に飲み干す。「ねえ。ゆり江さんていうひと知ってる?」
「誰?」もう一度ぼくは名前を訊き直す。だが、そうしなくてもぼくはその名前に気付いていた。しかし、広美の口からその名前を聞くとは思っていなかった。
「おばさんの同級生で、ひろし君のことも知っていた」ぼくの妹のことと彼女はゆり江を結びつけた。その子どもがきょうの遠足に参加していたそうだ。遠足といってもそう遠くまでは行かない。近隣のひとびとと近隣の郊外の場所へ。おにぎりやサンドイッチを食べて、水筒のなかのものを飲んで。

「彼女には弟がいて、ぼくはサッカーも教えていた」
「そうなんだ。とっても可愛くて、とっても優しいひとだった」
「40も過ぎているひとに相応しい言葉じゃないと思ってたけど」
「わたしの女性観は、ママでできていると思うんだけど、いろいろなひとと知り合うようになって、いろいろな女性らしさがあるんだなって思った」
「雪代は?」
「ひろし君も知ってるでしょう。いつも、しっかりとして、きりっとして、意志的で」彼女はそこでため息にも似た、また憧れにも似た吐息をする。「ゆり江さんて正反対だった。わたしたちよりある面では子どもっぽく、可愛くて」
「どっちがいい?」

「どっちもいい。別物だから。個性だから」また、グラスに彼女は口をつける。それで中味は空になった。
 ぼくは遠い過去に思いを馳せる。ぼくには雪代がいた。広美がいったとおり彼女は自分の願いを叶えるために努力を惜しまないタイプだった。その成長の過程を苦にもしなかった。それすらも楽しんでいた。ぼくはそのような彼女に惹かれ、また反作用的にそのようなものを持たないゆり江という子を知るようになる。親しくなるというのは自分の情が移ることなのだろう。ぼくらは境界を越えた。だが、それはどこにも行き場のないものだった。彼女は自分の憧れの存在であった裕紀をふった男を許さなかった。それを動機としてぼくに近付いてきた。だが、結果としては、若いこころをもつ男女ふたりが意思を交わすようになれば、憎しみなど直ぐに消え、好意的な感情が芽生えていくものだろう。

 ゆり江は、力強くなかった。ときには弱く思えた。だが、それはぼくにとって居心地のよい瞬間の連続でもあったのだ。その彼女が母になり、自分の子どもがぼくと雪代の娘と遊ぶということになるなど考えてもいなかっただろう。もちろん、ぼくも考えていなかった。

「ああいうひとが前にあらわれて健康な男の子は好きにならない? ねえ、ならない方がおかしいよね」そのきわどい発言は答えを求めているのか分からなかった。
「普通はなるけど、順番もあるし。誰かの彼女には手をださないという暗黙のルールがあるからね」
「ひろし君の口からそういう真っ当な答えが返ってくるんだ」
「そうだよ。ラグビーでちょっと有名になってしまったから、人目も多いし」

「有名人はつらいか」それから彼女は数人の子どもたちの話をした。遊び方や、誰かが勢いよく転んだこと。誰かは泣き、誰かと誰かは喧嘩をした。そして、むりやり仲直りをさせられ、いつの間にか喧嘩したことも忘れ、また遊んでいたことなど。

「どうだった、広美。きょうは?」雪代がドアを開けた途端にたずねた。
「楽しかったよ、疲れたけど」
「可愛かった?」
「まあね」

「まゆみちゃんの子ども、あの子、大きくなったかな」と雪代は独り言のように言った。ぼくは中絶を断固阻止したが、その後は無関係でいた。そういう自分の中途半端な立場を悲しく、かつ不甲斐なく思っていた。口ではなんとでも言えるのだ。その後の長い間の成長の手間は彼女の問題でもあるのだ。しかし、その子は産まれ、ぼくらの話題の端々にのった。それが正解といえば正解のようでもあった。誰かの気持ちの一部を占有することが。

 広美はなぜかゆり江の話題をそれ以降は出さなかった。意図的なのか無意識なのか分からない。雪代は意外と嫉妬深かったことを知ってのためか。彼女のプライドの高さが、自分の立錐の地の狭さに依存しているようだった。誰も追随を許さないというように。

 それもこれも個性だった。ぼくにも個性があり、雪代にもあり、広美の種は日々作られつつあった。まだ柔らかい粘土のようなもので、どのようにも転がる余地があった。だが、今日のぼくはゆり江のことを常より深く考えた。そして、少なからず思い出の分量として表面には出てこないが、彼女と過ごした日々や時間が尊く、ぼくの胸の奥にしまわれていることを知った。その良さの一端を広美も知ってくれたということがなぜだか嬉しかった。

「わたしは、雪代さんから彼を奪えなかった」と夢のなかでゆり江は広美に告げていた。それぐらいぼくの影響下の深くにもたどりついているようだった。

壊れゆくブレイン(55)

2012年04月15日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(55)

 ぼくは仕事で東京に行く。最近では裕紀の叔母と時間があえば会うようになっていた。お互い、共通点をなくしながら、そのことを懸命に捨てないで置こうという意地のようなものもあったが、それは表には出ずさらっとした関係でもあった。

 月日は過ぎ去り、ぼくらはこの瞬間だけは未来を作り出さないようにしたが、実際は亀裂のあるビルのように隙間をとおって現実という雨粒は染み込んできた。

「家族とはどう?」
「ええ、うまく行ってます」
「写真とか持っているの?」
「ありますよ」
「見てもいい?」ぼくは財布から一枚の写真を取り出して、それを手渡した。「女の子、大きくなったのね?」
「でも、友だちが東京に引っ越してしまって、子どもみたいに泣いてました」
「可愛らしい」ぼくは引っ越した子の住所がどのあたりであったかを考えていた。でも、それは仕舞われたタンスの奥の衣類のように容易には見つからなかった。
「裕紀とぼくが最初に会ったのも、それぐらいの年齢です」
「会うべくして会った?」

「さあ、どうなんでしょう。結局、結婚したぐらいですから、そうとも言えますね」

 それから、彼女は自分の夫との長い結婚生活の話をした。起伏があり、紆余曲折があり、最終的には信頼があった。ぼくらはスタートで挫折し、それからエンジンが停まったレーシング・カーのようにリタイアした。とても短く、ぼくは建設途中で頓挫した橋のようなものを思い浮かべる。それは、向う側の岸まで誰も運ばないし渡らない。それには、もう少しの時間が必要だったのだ。それでも、夕焼けに映える鉄骨の群れのように断片的な思い出はそれゆえに美しいものでもあった。

「彼女もひろしさんのようなひとが見つかるといいのにね」写真の中の少女を見て、彼女は言った。そして、それをぼくの手の平に再度のせた。
「ほんとうですか?」
「ほんとうよ。ゆうちゃんは幸せそうだった」
「でも、ぼくは家族と疎外させ、板ばさみにさせた張本人でもあるんですよ」
「そんなことは重要じゃないでしょう。本人にとって。別に悩んでいたり、困ったようにも見えなかった。実際に結婚するときも、そのことを念頭において決断したわけでもないし」
「だと、いいんですけど」ぼくは自分の発した言葉の意味が分からないまま、ただそう言った。

「お仕事は順調?」
「そこそこです。こういう景気になったので、あまり無理な期待もできなくなりましたけど」
「東京にも友人がいるんでしょう?」
「何人かは。その何人かには会って、あとの何人かは足が遠退いている」
「ゆうちゃんの友だちもいた」
「智美というぼくの幼馴染みもいました。昨日、ひさびさに会いましたけど」
「そうなの」

「ぼくは裕紀を傷つけたことがあるんです。さっきの写真の妻と交際するために、裕紀と別れました。そのときにその友だちはぼくのことをずっと許さなかった」
「知ってる。ひろしさんも肩身の狭い思いをしたのね」
「自分が撒いた種ですから」
「いまは仲直りを?」
「もうずっと以前に。そんなに長い間誰かを憎んだり、恨んだりできない性分みたいですから。裕紀はそれに比べて当事者でありながら、まったくそういう感情をもっていないひとでした」
「稀有な子」
「そうですね」ぼくらはいないひとの話を続けていた。現実の世界には存在しないものだが、両者の頭のなかでは絶えず息をして、ぼくらを楽しませたり、いないことで困惑させたりもした。
「夕方の足って、なんで浮腫むのかしらね」叔母は独り言のようにつぶやいた。「そろそろ、帰らないと。これから電車なんでしょう?」ぼくは腕時計のふたつの針を確かめる。それは重ならないところにあった。ぼくと裕紀も重ならない世界にそれぞれがいた。
「そろそろ準備をしないと」
「あまり混んでいなくて、ゆっくりと車内でも足が伸ばせるといいのにね。寛いで、ビールでも飲んで」

「そうですね。でも、この時間、そういう余裕もないんですよ」彼女は自分の足のことにこだわっていた。そして、レシートをつかみレジの方まで歩いて行った。ぼくは彼女の背丈がすこしだけ縮んだような印象をもった。もし、彼女もいなくなれば、この世界はまた裕紀の思い出を減らしていくのだとぼくは考える。彼女の知り合いだったひとを掻き集めて、ぼくはデータの収集をするように裕紀の送り続けた優しさをまとめたかった。無論、そんなことは無理な願いだった。それにもちろんぼくの記憶を持続させるのにも限度があるのだろう。伝承する人間や跡取りがいないひとのようにぼくは途方にくれる。それは裕紀だけの問題でもない。この叔母のもつ自然な明るさもいつかは忘れられる運命にあった。

「じゃあ、元気で」彼女は手を振って別れの挨拶をする。この場合、また会いましょうなどという陳腐な言葉はでてこなかった。ぼくらは裕紀の存在を確かめるかのように再びあって証拠を提出し合うのだ。あのとき、彼女はこうした。こんなことで笑ったというような情報を持ち出すことによって。「広美ちゃんは、東京の友だちに会いに来るの?」

「さあ、どうなんでしょう。若い子の気持ちは入れ替わりやすいですから。長い休みでもあれば来るかもしれません」
「でも、ひろしさんはゆうちゃんのことをずっと思ってくれた」それだけで、彼女はぼくの評価を高いものにする。「東京に来るようなことがあったら会ってみたいな」そこに、裕紀の面影を探すように彼女はいう。ぼくに関連するものは裕紀にもつながるのだということのように。

「そうですね」だが、ぼくはそれを切り出すことを難しく感じている。ぼくの前の妻の親類に会う必要が広美にはあるのかと。それを彼女は承知するのか。ぼくは買っておいた特急のチケットを引っ張り出す。ぼくには帰る家があり、健康な身体があった。それを無償で手に入れているのだ。もし、裕紀とやり直すチケットのようなものがあれば、その代価はどれほどのものなのかつまらない予想を電車を待つホームでしていた。

壊れゆくブレイン(54)

2012年04月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(54)

 子どもというものが、ある一定の年齢に上がるまでは望まないにも関わらず親の環境に左右される。小さな存在で産まれ、生存のことについて学習し、暮らしに役立つノウハウを手に入れ、仕事を見つけ、ひとりで生きられるようになる。そして、またふたりになったり、3人になったり、またひとりになったりもする。

 広美は泣いていた。感情がどこにも出口を見つけられないと女性は泣いた。それは、もう子どものような泣き方でもなかったが、やはり、泣いていることを知ってもらいたい子どもっぽさもどこかに残っていた。
「どうしたの? 何か、あった?」
「瑠美が東京に引っ越すって」
「また、なんで?」
「お父さんの転勤があるから」当然といえば、当然の理由だ。そこに雪代が帰ってきた。
「どうしたの、広美、ひろし君にいじめられた?」

「まさか、瑠美って子が、東京に引っ越すって」ぼくは弁解のような素振りをして、そう言った。
「そうなんだ、残念ね、せっかく友だちになったのに」そう言いながら袋から野菜を取り出し、冷蔵庫に入れた。「でも、もう東京なんて近いのよ」
「親が転勤だって」ぼくは、少ない情報を伝えた。

「サラリーマンの宿命。ひろし君だって、それで東京で暮らしたんだから」ぼくは、そこで裕紀と再会し、もう一度恋をして、結婚した。それも、転勤があってからこそだった。
「まとまった休みになれば、会いに行ったり、来てもらったりすればいいよ」ぼくは、乱暴な解決策しか思いつかなかった。
「そうだよ、広美。ひろし君もむかし、東京にいるわたしにわざわざ会いに来てくれた」
「そんなこともあったね。冴えないラグビーしか知らない男の子が、渋谷や表参道を歩いた」
「東京の男の子にはない野蛮さみたいなものも秘めていたよ」
「ただ、田舎くさかっただけだよ」
「そうとも言えるね」ぼくと雪代は笑ったが、広美はむっつりとした顔のまま座っていた。
「いつも、自分たちの思い出話にすりかえる」

「そうかもね、広美も将来言えるように思い出をたくさん作りなさい。そのために、離れた友だちに会いに行きなさい。道中で彼女のことを考えて。でも、いまは、これを手伝って」雪代は大根を取り出した。それを切るのか、おろすのか分からないが広美の役目に当たるらしかった。

 何日かして、瑠美は家にやって来た。
「東京に行っても、広美と仲良くしてね」雪代はお願いするような口調だった。
「はい」彼女はすがすがしい決意を込めたような表情をしていた。「おばさんも東京で働いていたんでしょう?」
「むかしね。ひろし君も東京のオフィスにいたんだよ」

「聞きました。広美から」どこまで内容を話しているかは教えてくれなかった。そこで、仕事をする上でのチャンスをつかみ、逆に人生としては、いろいろなものを結果として、ぼくは失ってしまった。それも、再生という概念の前では、ある出来事やアクシデントとして認定されるような気もしたが、人間の感情にとっては、そう簡単に解決するものでもなかった。
「向こうでも、演劇するの?」ぼくは彼女の有している才能の片鱗に気付いてしまっていた。
「続けます。好きなんです」
「それが、一番だよ。ぼくも3年間だけで辞めてしまったけど、ラグビーが好きだった。かずやの父は知っている通り、仕事にできたけど」
「わたしも洋服が好きだから、いまでも、している」
「ちょっと、出掛けるね」広美はそう言って、上着を羽織り、瑠美の背中を軽く押した。

 それから、ぼくらは彼女の生の姿を目にしなくなる。広美と手紙のやりとりをして、彼女が出演する劇のパンフレットを見せてもらった。ぼくらは誰かに応援され、また応援した。ぼくのために声をかぎりに声援を送ってくれた何人かのスタンドにいる友人たちをぼくは覚えていた。だが、実際のところはそのパンフレットを見るまでは忘れていた。若い頃のぼくは応援されて当然だと思っている部分があったのだろう。弱かったチームをまとめあげ、その地区で最高に近い段階まで登りつめたのだ。ぼくは、過去の自分に満足し、またそれが自分の元に戻ってこない蓄積された経験のために不満でもあった。

 彼女たちの友情がどこまで続くかは分からない。誰にも分からない。時間というふるいにかけられ、もっと大切なひとが出てくるのかもしれない。こころを打ち明けたり、感情の箱を交換するようなタイプの人間が別に現れてくるのかもしれない。だけれども、この刹那だけでも分かり合える友人がいるという事実はいつまでも色褪せることはないのだろう。いや、褪色してもそれがかえって美しさとなるのかもしれない。

 ぼくは、裕紀とそういう関係をもつことは今後できない。カラーの写真もいつしかセピア色のようにぼくのなかで溶けていった。その時間という現実のもつ冷たさと、記憶という甘美な暖かい思い出が等分にぼくのこころのなかで分かたれてきた。あの死というものですら、ぼくにとっては甘いものとなりつつあるのだ。それだけに、あのふたりで過ごした時間はより貴重なものであり、またいまの流れゆく時間をもっと大切にしなければならないと願った。ぼくは、広美が作り上げた友情を通して、人間の出会いと別れという普遍のテーマを再確認したのであった。

「あの子、東京でもっと演劇を学ぶことになるといいのにね」雪代は化粧を落としながらそう呟く。ぼくは無言でいたが、気持ち的には同感であった。

壊れゆくブレイン(53)

2012年04月09日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(53)

「この前は、見に来てくださってありがとうございます」と、演劇をしている瑠美という子は言った。舞台にたってきつめの化粧をしていれば大人に見えたが、そのままの姿で広美のところに遊びに来た彼女はどうみても10代の半ばの少女だった。

「良かったよ。ぼくは素人だけど、素質があることが分かったから」
「ひろしさんは、かずや君のお父さんのラグビーの先輩でもある」それを確認するように彼女は口にする。
「そう、だいぶ、むかしになった」
「いつか、そのメンバーが全員集まった写真を見せてもらったことがある」
「あそこの家に飾ってあるもんね」

 ぼくらがまだ輝きを手放す前の時期の写真が額のなかにおさまって飾ってある。誰もが若く、誰かの父になるという役目を知らなかった頃。すねや腕にある傷は勲章でもあり、自分が成し遂げたことや成果の過程の実際の証拠であり象徴だった。
「素敵な友情がありそうな写真」
「君らと同じ頃だよ。いまでも掛け替えのない人々」それぞれが結婚をして、そのうちの何人かは離婚をして、ぼくのように再婚したものもいる。子どもの私生活に手を焼いているものもいれば、生活の荒波に追われているものもいる。しかし、あの美しかった日々は消え去るものではないのだろう。簡単には。

「そういうひとにめぐり合えるといいですね」
「ひろし君は、どこかで楽観的で、肯定的だから相談しても駄目だよ」広美はからかうように言う。ぼくは裕紀を失ったときのすべてが悲観的に思え、何事も後ろ向きに考えてしまっていた状態を、この子は忘れているのか知らないのか判断に困った。しかし、その現状から雪代とこの子が救ってくれたのも確かなことだった。
「ひろし君は、いろいろな経験をして楽観的に努めているのよ、ね?」
 雪代が言葉で手助けするように言った。

「知ってる」広美もそう言った。瑠美という子は、相槌してもいいか迷った表情を浮かべた。彼女は何も知らない。将来、たくさんの人間になって振舞うという立場を求めるなら、いくつかの悲劇という情報や経験も彼女には必要であるかもしれなかった。だが、まだ10代の素直そうな子に、そのようなことは決して起こってほしくなかった。

 食事が済むと、彼女たちは部屋に消えた。試験の前でいっしょに勉強をするそうだ。だが、若いふたりの女性が無口でいられるはずもなく、話し声や笑い声がずっと続いていた。
「勉強してるのかね?」ぼくは独り言のように、また雪代に問いかけるようなどっちつかずの言葉を出した。
「勝手におさまるまで待つしかないのよ。自分への危機感でしか、ひとは学べないから」雪代が哲学的なことを口にする。確かにそうなのだろう。ぼくは喪失感というものが、どんなものであるかを身にしみて理解し、雪代もそうだった。そして、幸福を手に入れるとは、どんな心持ちなのかも知っていた。ぼくはテーブルに座り、世界の珍しい生態をもつ動物や昆虫をテレビで見て、奥で娘と友だちの勉強の合間の笑い声をきいている。ぼくは何かを性急に頭に詰め込む必要はなく、明日には忘れてしまうその昆虫のプログラムされた生き様を見ていた。

「雪代のあのころは勉強した?」ぼくは質問しながらも、島本さんと歩いている彼女のむかしの姿を思い出している。
「本気? 店を切り盛りできるぐらいの勉強はした。あとは経験」
「と笑顔」
「ひろし君は体力と、見せかけの誠実さ」
「袖の下とワイロ」
「ほんと?」
「嘘だよ。ラグビーしかできない男の子になりたくなかったから、帰って勉強もした」
「年上のお姉さんに色目も使った」

 そう言って、トレイに載せたカップを雪代は笑い声の静まらない奥の部屋へ運んで行った。
 時間も経ち、娘たちは部屋からでてきた。なぜか顔がふたりとも紅潮していた。瑠美はご馳走になったことについて適切な感謝の言葉を述べ、しわの寄ったスカートを手直しした。
「それじゃ、帰ります」
「広美とひろし君、途中まで送ってあげて」

 瑠美はいったん断りかけたが、楽しかった状態を持続させたい気持ちもあるらしく、その雪代の提案に従った。ふたりは肩を並べてぼくの前を歩き、それを見守る番犬のようにぼくは後ろをのそのそと歩いている。

「じゃあ、ここで」彼女はそう言い自転車に乗った。颯爽と走る後ろ姿が照明の範囲から逸れ、車輪が回転する音もきこえなくなった。
「勉強はかどった?」ぼくは、広美に訊く。
「そこそこ」
「じゃあ、今度のテストも」
「なかなか」
 彼女は先程で話し疲れてしまったように単語しか使わなかった。その後、あくびをした。すると、それにつられてぼくもあくびをした。彼女は余った体力を持て余すかのように急に走り出した。そして、途中で振り返る。ぼくは集合写真の一員であるころを思い出し、同じように走った。しかし、なかなか追いつくことはできず、ずっと娘の背中の動きを見守り、過ぎ去った年月のずっしりとした重みを感じ続けていた。

壊れゆくブレイン(52)

2012年04月05日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(52)

 雪代がテーブルの上で、小さな紙をいじっている。むかしに比べて目と対象のものの距離が離れていることにぼくは気付く。それをいまは言わなかった。
「なに、見てるの?」
「この前、広美の友だちに会った?」
「どの子のことかな。あ、本屋で広美といたな、ひとり」
「その子が、演劇をしていて、それを見ないかってくれた」

 彼女はチケットを手渡す。自分の野蛮だった学生生活をぼくは思い出している。誰かを倒し、誰かに倒され、そして、泥だらけになっていた。きれいな照明が当てられ、華やかな衣装で着飾り、大げさな化粧をした顔立ち。ぼくは、そのようなイメージを勝手に演劇という言葉から印象を作り上げていた。

 彼女はカレンダーを眺め、自分の予定を考えているようだった。
「この日と、あの日なら行ける」彼女はカレンダーのそばまで寄り、ペンで何かを書き足した。違う用事のこともついでに加えていた。「ひろし君もどう?」彼女はテーブルに戻り、チケットをひらひらと揺らせた。
「構わないよ」

 数日経って、ぼくは自分のクローゼットから上等な部類の服を出し、それに袖を通した。そして、自分の人生が義理の娘の生活とその波及するものから影響されていく事実を知る。ぼくの部屋には、広美の友だちが描いた妻の絵が飾られていた。家に来る彼女の友だちが、ぼくに音楽のMDをくれた。外で何人かはぼくに恥ずかしげな会釈をした。

「考え事?」雪代は黙ってとなりで歩いているぼくに声をかけた。
「いやね、広美がいることで、ぼくの生活も知らずに違った領域に足を踏み入れることになってしまったなって」
「良い感化?」
「良いも悪いもないよ。ただ、なんとなく、楽しいから正しいんだろうね」
「流される浮き輪。若い頃のわたしより、もっと影響される?」
「それは、されないよ」

 話していると、時間は短く直ぐに目的地に着いた。ある小さめのホールに同様に着飾った観衆がいた。早目に来ていた広美と何人かの友人たちもすでにいた。だが、直ぐに開演を知らせるベルが鳴り、彼女たちもおしゃべりを止め、室内に消えていった。ぼくらもいくらか後方に2つの空いた座席を見つけ、そこに深々と座った。
「寝てもいいけど、いびきだけはやめてね。恥ずかしいから」と、雪代は笑って忠告した。
「寝ないよ。今日は、遅くまで寝てたから」そう言ったが、暗くなってみると、逆に雪代の首が上下していた。しかし、固い靴で舞台の床を踏み鳴らす音がすると、驚いて目を覚ました。「寝てたよ」
「まだ、はじまったばかりでしょう? ここから、集中する」

 主役である広美の友だちが現れる。彼女がいると、ぼくらはひなびた田舎町にいることを忘れた。その町のもつ許容量からはみだしてしまうような優雅さが彼女には備わっていた。
「どこか、ほかの子と違うんだね、雰囲気が」雪代も小さな声でそう言った。
 ぼくは、それから多少座っている位置をずらしながらも、楽しんでいた。だが、やはり、ぼくは同時期に生活を送るならボールを投げたり蹴ったりしていたほうが性に合っていた。
 薄暗かった場所を抜け、ぼくらはロビーに出る。広美は珍しく、こちらに近寄ってきた。
「いっしょにご飯を食べるので、すこし遅くなる」
「じゃあ、わたしたち、外食して帰ってもいい?」
「いいよ、楽しんで」

 広美と雪代の背丈は、ほぼいっしょだった。その目の位置によるのか、彼女はもう同等の考え方を有しているようにも思えたし、また自立したこころを手に入れているようだった。ぼくは、最初に会った、10歳ぐらいの彼女の身長を思い出そうとしていた。そこには、雪代の付属物としてしか考えていなかったぼくがいた。
「じゃあ、今日はちょっとだけ着飾っているから、それに合った店でご飯でも食べましょうか?」
「いいよ。喉も渇いた」

 ぼくらは、また少し歩く。全体としては、幼稚な部分が多かったが主役の広美の友だちが出ると場面が一気に変わった。その興奮の余韻のようなものが確かにぼくにはあり、ぼくと雪代の間に居場所を見つけているようだった。それゆえに、会話はいくぶんだかいつもより少なかった。

 それでも、店に入ると、その興奮の余韻が出口を探すようにぼくらはしゃべった。
「あの子、もっと大きな町で真剣に勉強したほうがいいかもね」雪代は、自分の娘よりその子の未来を心配しているようだった。
「そう思うよ。雪代の若いときも、ぼくはそう思っていた。この町では、サイズが小さ過ぎる」
「でも、ここが最終的には安住の地だった」
「それは、ぼくにとっても同じ感覚の場所だよ」
「でも、スタートを切るには似つかわしくないかも。とくに若い子にとって。可能性のある若い子にとって」

 ぼくらには可能性の重量が確実に減っていることを知っているのだ。しかし、あの子にも、また広美にもそれは無限にあり、それを生かすも殺すも自分自身にあるようだった。ぼくらは足を引っ張らないし最大限に何事も応援するだろう。ぼくは、こうして娘から影響されていく日々を楽しんでもいたわけだ。同じように若くて無限の未来をもっていたはずの何人かの顔を思い浮かべ、そのなかから数人は、いや、たったひとりだが、未来のない時間の中に今まさにただよっているのだろう。

壊れゆくブレイン(51)

2012年04月03日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(51)

 仕事から帰る道すがら、本屋で立ち読みをしていると、学校帰りの広美に会った。となりにいる友人はまた見知らぬ顔だった。それで、ぼくは思春期の女性の気持ちを考慮して、声をかけるのをためらった。しかし、ぼくがレジを済ませようとしていると、横に本がそっと置かれた。

「これも買って。勉強のだから」広美はそう言って笑った。後方で友人である女性もにこやかな顔をしていた。
「いいけど、ずるいな」
「じゃあね」その子は、店を出ると足早に去っていった。いまにも雨がふりそうな予感がしたが、その日は昼からずっとそのような予感を秘めていた。
「見ない子だね」
「新しく仲良くなった。きれいな子でしょう?」
「そうだね。同じバスケ部なのかな、背も高いし」
「違うよ。演劇をしている」
「演劇なんていうのもあるんだ、学校?」
「いまは、いろいろ」
「自分の手足をつかって、何かを表現するのには変わらないけどね」

「ひろし君は、何人かを好きになったことがあるでしょう?」
「どうしたの、突然」
「ただの質問。帰るまでの」
「あるよ、当然。知っての通り、再婚でもあるしね」
「ママや、前のひと以外にも好きなひとっていたんでしょう?」こういう質問のやり取りができるのは、逆に本当の親子ではないからかもしれない。
「いたかな、いたな。また、なんで」
「みんな、どうやって、ひとりに決めたんだろうかなって」
「誰かが、そういう心配をしてるの?」
「さっきの子が、何人かから声をかけられた」
「それで」
「そう、それで」
「でも、このひとじゃなきゃ駄目だというひとが出てくるまで待ったほうがいいよ」
「待ち続ける」

「そんなに待たないよ。若いこころは・・・」ぼくは何人かの女性を頭に浮かべる。彼女らの出現は微妙にずれ、また思いがけないことに重なっている時期も多かった。意に反して。それで、何人かから言い寄られたらしいさっきの女性を考えてみる。彼女は舞台で自分の声を持つ。しかし、それには誰かの脚本があるのだろう。それを通して自分の表現をする。そこに魅力をもつ男の子もいるはずだ。彼はその女性に自分の気持ちを伝える。次の答えは誰かのものではなく、自分の考えしか持ち出してはいけない。
「広美もデートをしたんだろう、この前?」
「したよ。子どもっぽかった」
「どんなところが?」
「全体的に」
「また、会うんだろう?」
「さあ、どうかな。ママとはまた会いたかった? どうしても」
「それが恋の感情だよ。ここにいないかなとか思って、ぼくは街中をあるいていた。その時に、もう雪代は美容院のまえのポスターの写真のなかにいて、ぼくはそれを見つけた」

「嬉しかった?」
「嬉しかったけど、独占という感情からはちょっとずれちゃうね」
「そんな気持ち、ひろし君にもあるんだ?」
「あるよ、普通に」
 家が近付いてきた。そこに雪代がいるはずだ。ぼくは彼女を独占したかったのだろうか? それが出来かねた結果として彼女にはひとりの娘がいた。ぼくはその子と、この会社帰りのひとときをこうして楽しく会話をしながら歩いている。ぼくは、もうひとりの女性である裕紀のことについても考えている。彼女をも独り占めにしたかったのだろうか? 当然、そうだ。それも、病気がそのぼくのこころを踏みにじり安易にそうさせてはくれなかった。ぼくからいとも簡単に全存在を奪ってしまった。
「じゃあ、それを伝えれば?」

「きょう?」
「そう、さっき、あの子の練習を見てから、わたしのこころが少し高揚してるんだね。なにか、誰かに、ものを伝えたいって」
「大人が急にそういうことを持ち出すと、逆に、なにか後ろめたいことがあると勘繰られるんだよ」
「そうなの。面倒くさいね」
「確かに、面倒くさい」
「ママはひろし君に伝える?」
「たまには。広美のことだって、手放しに誉めるじゃない」
「誉めるに値するから」彼女は笑った。それから、本屋からずっと持っていたぼくの荷物を奪い、中から自分のものをとり出した。「ありがとう、これで、勉強する」

「ひとりで、まゆみがいなくても。子ども、あの子、大きくなったかな?」
「今度、写真を送ってもらおう」広美はそう言って玄関のドアを開けた。すると、室内から野菜かなにかを煮込んだ匂いがする。ぼくは、娘と同じ年頃のときのことを考え、また、いまある満ち足りた幸福感のことも考えた。人生はぼくから多くのものを確かに奪い去ってしまったが、また多くのものも与えてくれていたのだ。
「おかえりなさい。あれ、一緒だったの?」
「本屋で会った。それからね、ひろし君、ママに伝えたいことがあるみたいだよ」そう言って、広美は自分の部屋に消えた。
「どうしたの? なにか、あったの?」
 彼女は不安な様子でこちらを見た。ぼくは具体的な解決策を思い浮かべられないひとのようにぼんやりと自分のネクタイを緩めはじめ、どこから説明して良いのか躊躇して、そのネクタイを手の先でもてあそんでいた。