爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 ab

2014年09月05日 | 悪童の書
ab

 都庁のない頃の新宿西口は美しかったなと。

 ひとはノスタルジーに生きる。ノスタルジーで生きる。

 空き地では少年たちが野球をしていた。成長を遂げない娘や息子もいないようにボールを追いかける少年も別の興味を抱くのだろう。空き地も空き地のまま放って置かれるほど、無秩序ではない。投資と有効活用の名のもとに、誰かが建築物を設計して、それをもとに労働者が働く。汗を流した、あるいは腕にかすり傷をつけたひとりひとりの名前など、建物のどこにものこらない。施工会社と管理会社と歴代の都知事の名前と行動が刻まれるのみであった。カバンに荷物を詰め込むように。

 八十年代というものが、ぼくの十代の生活をほぼ網羅している。夜中に流れるミュージック・ビデオで新宿の西口あたりの映像が流れていたと記憶している。明日の天気を伝え、あとは黒い画面になった。まだ夜通しテレビは放映していなかった。それがまっとうなことだといえば、そうもいえた。数千年の人類の歴史はそういうものだった。

 成長は見込まれ、その成長の余地は善だという漠然とした空気が八十年代の前半までは支配していたように思う。支配という重苦しいことばではなく、もっと軽やかなコットンの手触りのようなものとして、ただよっていた。その日本で育つということは選択をしたわけでもないが正しいことだと実感できた。

 実際にその町を歩くと、平坦な場所ではなく左右を分断するかのような高低があることを教えられる。貯水池か何かが影響しているということだが、その事実を無視しても、不思議と浮遊させる感覚を与えてくれた。

 なぜ、ぼくは少年野球を見ていたのかも思い出せない。きっと、ベスパというバイクの販売店がその近くにあったのかもしれない。結局、購入しなかったので無駄足になったのだろうが、この記憶だけでも行った価値はあったのだ。誰も奪えない。当然、誰も奪いにも来ないのだが、記憶は安らかである。

 反対側にはデパートや新宿御苑があった。ぼくの地元にはもっと大きな公園があるが、都会というオプションを考慮して比較すれば、当然のこと勝ち目はなかった。維持するのは無料では無理なのだろう、数百円を払ってなかに入る。芝生はいつもきれいだった。寝転がって本を読む。サリンジャーは、普段の生活としっくりこない主人公を築きあげる。

 あるときは営業マンとしてこの町を歩く。新宿の南口も開発されようとしていた。歩いていると代々木になり、そこは渋谷だった。その境目のあいまいさをぼくは理不尽に感じる。だが、納得できなくてもとなり町はとなり町である。廻るリストに渋谷はなく、ぼくは新宿にまたもどる。

 あるときは高層ビルで休憩をしている。職場の昼休みだ。下方には新宿御苑の壮大な敷地が見える。上空から見ると、そこは鬱蒼ということばがいちばん似会っていた。

「なに、あれ? ブロッコリー畑?」

 となりで休憩しているグループのひとりの女性がそう呟いた。天然というのは偉大である。その発想力に負けてしまう自分を感じる。笑わせようと努力して笑わせ、怒らせようと意図しないで相手の怒りを引き出す。天然はその窮屈な範囲を越えてしまう。しかし、野菜の育ち方、実り方を知っているのも、罰当たりではないし、どちらかといえば誇らしいものだった。

 歌舞伎町のメインの通りを数回、往復するだけで今夜のディナーにありつけると考えるぐらいに、ぼくとぼくら友人は無知であった。財布に入れたホテルに使うかもしれなかった予算は、始発電車を待つぼくらのポケットにそのままのこっていた。みな、大きなバッグを必要もしないが、金銭は大事なものである。あそこに池があった。のちのち知り合うことになる知人たちはみな口を揃えて大学の運動部時代のやんちゃな行動を回顧していた。男の子は水があれば飛び込みたいものなのだ。誰が、それを引き留める理由を見いだせるのだろう。

 そこも歩きすぎると新大久保になった。別の方向の町の裏には大きな神社もあった。ヨーロッパの都市のアクセントのような教会に比べ、存在としてとても地味にできている。だが、場所を移動させるには地域に根付きすぎてしまっているのだろう。ぼくはこの新宿になにも根を張らせようとしない。髪の毛一本、落としていない。

 ひとりで映画も見た。学校で友人を新たにつくるということをとっくにやめてしまっている。ある日、地元でひとつ学年がうえの先輩に、「あの映画館にいたよね? オレ、彼女と映画、見てたんだけど」と自慢げに言われる。ひとの目はいたるところにあり、ぼくの目は美しい女性しか見つけない。だから、彼も、その女性も視界に入らなかった。ただ残念である。

 ある時から、明治通りのしたを工事している看板を目にするようになる。地下鉄の路線は伸びる余地がある。あの八十年代の空き地が余っている頃は、なつかしさよりもっと遠いところにいってしまった。何度か泡ははじけ、現在にいたる。つまらない音楽が量産された時代でもあったが、同時代にいると明確に、明晰に評価できないのが生身の人間である。そんな雑然とした風呂敷のなかに、大瀧詠一もいた。このことだけでも悪い時代ではなかった。反論の余地もなく。