爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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悪童の書 ap

2014年09月19日 | 悪童の書
ap

 最後の買い物でお釣りを五百円とさらにいちばん細かいアルミ製の数枚を受け取ったはずである。その後、どこにも寄っていない。翌日、確実に大柄な硬貨が一枚だけポケットに入っているはずなのに、どこにもない。殊勝にも五百円貯金を急に思い立つほど、一心不乱にまじめで篤実な性分ではない。金が惜しいのではなく、この不確かな記憶の不在がこころぼそいのだ。

 そのこころぼそさを内に秘め、一日を過ごしている。

 結局、家にもどって、他のズボンのポケットかと自身を疑い、捜索してみるがないものはない。しかし、このことがきっかけで過去にお金を落とした経験にコンタクトする切符を得たのだ。ささやかな投資である。回収は間近。

 あざといと思いながらも、物語はつづけなければならない。テクニックでもなく、過去にさかのぼる常套手段のような方法をとっている。二番煎じは恥ずかしい。二番目の異性は、思い出深いものになる。

 さてと。五十円というお小遣いがぼくにつかえた上限の金額である。駄菓子屋の前で、ポケットに見当たらないことを発見する。喪失の発見。ぼくは来た道をたどり、落ちていないか注視するが、消えたものは消えたのだ。その日は何も買うことができない。駄菓子屋の売上高が五十円減った。原価は驚くほど、安いのだろう。そんな気も起こることなく、ぼくは喪失感と絶望感の何たるかを知る。世界は終わったのだ。

 次には、財布ではなく、コインケースのようなプラスチック製の素材のものを空き地で落とす。札はまだいらない。三百円から四百円ほどの間の金額が入っていたと思うが、一瞬にして消えた。探してもない。その後、学校でもあまり賢くない部類の子が、いつもより多めの小銭をポケット内でジャラジャラいわせて前から歩いてくる。我が世の春。ぼくは追求することができない。その盗みは現行犯であることが前提である。彼は、普段は手を出さない駄菓子の大人買いという行為に手を染めたのかもしれない。しかし、名前も書いていない以上、真偽は不透明なままだ。

 明らかなこと。

 アパートを引き払う。最初はエアコンがついていなかった。不動産屋に穴を開ける等の許可をとり、十万円ぐらいで自費で新品のものをとりつけることにする。もし、アパートを去る時は、買い取ることもありますよ、ということばももらう。アパートの資産や価値が高まるのだ。しかし、出るときにそのことを持ち出すと、「そんなこと、ひとことも言ってませんよね?」と白を切られる。もちろん、書面でのこっているわけもなく、次のプランを考えなければならない。

 うまいことに、友人の友人にあたる女性が入居することになった。壁に使用期間が二年未満のエアコンをのこして置いていき、さらに窓の長めのカーテンもそのままで併せて約六万円という口約束をした。時間が経っているので、正確な金額であるかは自信がない。

 当日になる。はじめて顔をあわせる。「四万五千円で、どうですか?」との提案があった。口約束というのはことば面だけで判断するとしっぺ返しをくらう。約束より、不履行に傾きやすい題材なのだ。こういう自分の利益のために、みな卑怯なマネを軽々しくする世界なのだと、ぼくは目が回る。もうぼくは新しいアパートにいる。エアコンもいらない。その減額されたお金をしぶしぶ受け取る。カーテンは入居する前の清掃の途中で捨てられてしまったらしい。その交渉をする元気も気力もぼくにはのこっていない。勝手に、どうぞ! というのがふて腐れた自分の態度だった。

 この後、経理の意味合いで減価償却というものを知るが、別問題である。ただ、知識の一端の披露であった。

 ぼくは書くという行為を通して、自分に利益になるよう目論んでいる。読み手はぼくの味方につけやすい。反省として、書面にするものは書面にしておくべきだろう。

「わたしのこと、好き?」と何遍も訊かれる。
「不安だったら、一筆、書いておこうか?」

 ぼくは話をまじめに切り上げる気もなくなった。

 失うということは記憶にのこりやすい。損害もまた然り。だが、フラットな地点に立ち、自分がご馳走になった金額を五十万と設定するならば、自分がおごった金額はわずか二万ぐらいの比率にしかならないだろう。そんな分際で、わずかな損害を糾弾する資格など有していなかったのだ。ぼくの記憶の狭間で失われた五百円の経緯をたどっているうちに、思いがけなく古い記憶がびっくり箱から飛び出してきた。もう箱に納めることもできない。もし、できたとしてもその箱の置き場自体、失念してしまうぐらいの記憶の力しかない。

 自分の小遣いのつかえる範囲が急速にひろまる。駄菓子屋だけが金銭が自由に流通する場ではなかった。しかしながら放課後にその店先にたたずむ。大人の途中の段階で、ぼくらは勝手に外に面している扉を開け、数本のジュースを拝借する。部活のない日の夕方になる前なのだ。もちろん、返す気もない。いや、ビンだけは外のケースに返す。見かねた店員は、別の日に、ぼくらに上納するようにジュースをくれる。以後、映画のなかでシカゴのマフィアが取る方法とまったく同じであることを知る。年貢というものを社会の授業で学び、その卑屈さと横暴さの両側にも不満をいだいたはずなのに。原価が安くても、やはり、行為として問題外の振る舞いである。

 これは悪童時代の記録であるべきなので、恥ずかしげもなく書くことにする。ぼくがおごった金額の見積もりはさらに減る。生き延びるために手にしたほとんどを無料で得たような錯覚すらあった。猛烈に恥ずかしい記録に最後はなってしまった。たった五百円のために。回収をあせったために。