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あの日を望んだわたし-4
次の日の夕方。壁の時計をにらむA。
C:「どうかしたの? 時計ばっかり見て。昨日、あんなに残業うれしそうだったのに。終わったら、おごりとか簡単な条件出されただけで」
A:「うん、まあ」
C:「肌、つかれた?」
A:「え?」
次の日の夕方。壁の時計をにらむA。
C:「どうかしたの? 時計ばっかり見て。昨日、あんなに残業うれしそうだったのに。終わったら、おごりとか簡単な条件出されただけで」
A:「うん、まあ」
C:「肌、つかれた?」
A:「え?」
メカニズム(25)
満期になったぼくのノートがどこかに消えた。すると、次のノートが与えられる。
「前のは?」ぼくは、微々たる才能を掻き集めて、定期預金に預けているような心持ちだった。
「あれ、売ったから。いくらかお金になったよ」
あらましを説明される。彼女は店の常連の出版社のひとにぼくの作品を提供した。利益は百万。ぼくに八十万円で、彼女の手数料が二十万円。無料奉仕というのはお互いのためにならないとの一方的な潔癖な理由で。
「じゃあ、これで有名になっちゃうかもね」左団扇の予感。
「ならないよ」
「なんで?」
「だって、どこかのタレントさんの名前で売られて、そのひとが多少の評価を加えるだけだから」
「詐欺じゃん?」寝耳に水。
「詐欺じゃないよ、正当な資本主義」
「なんだ、損した」
「まだまだ、これからでしょ」ひとみは微笑む。「それから、わたし、そのひとと住むことになったから。その八十万円で引っ越しの準備をして」
「ほんとに?」
「悪いけど、ほんと。善は急げ」
ぼくはアパートを探す。ひとりということは大体、半分のスペースで済むのだ。仕事はまだ決まっていない。不良債権のような自分の立場。ところで、彼女は天使だったのか、悪魔だったのか。これも、また天使の一形態なのだろう。ぼくの前に表れたエンジェル。もしくは、ぼくの筆が作り上げた愛しい天使。
ほんとうはひとみがアイドルで成功したら、ぼくの秘蔵の写真を売るつもりだったのに、反対にしてやられた。一枚、上手。堕天使にしてやることもできなかった。非情というものが欠けていた。ぼくはひとつの部屋を不動産屋の担当者と見に行く。決めるのを拒むことすら不可能な欠点もない部屋。保証人と急に言われた。ひとみは、まだその責務を負ってくれるだろうか。天使にそこまで望むことを許してもよいのだろうか。ぼくの売り上げ。彼女の取り分。歯がゆい夕暮れ。迷える山羊。
2016.9.10
満期になったぼくのノートがどこかに消えた。すると、次のノートが与えられる。
「前のは?」ぼくは、微々たる才能を掻き集めて、定期預金に預けているような心持ちだった。
「あれ、売ったから。いくらかお金になったよ」
あらましを説明される。彼女は店の常連の出版社のひとにぼくの作品を提供した。利益は百万。ぼくに八十万円で、彼女の手数料が二十万円。無料奉仕というのはお互いのためにならないとの一方的な潔癖な理由で。
「じゃあ、これで有名になっちゃうかもね」左団扇の予感。
「ならないよ」
「なんで?」
「だって、どこかのタレントさんの名前で売られて、そのひとが多少の評価を加えるだけだから」
「詐欺じゃん?」寝耳に水。
「詐欺じゃないよ、正当な資本主義」
「なんだ、損した」
「まだまだ、これからでしょ」ひとみは微笑む。「それから、わたし、そのひとと住むことになったから。その八十万円で引っ越しの準備をして」
「ほんとに?」
「悪いけど、ほんと。善は急げ」
ぼくはアパートを探す。ひとりということは大体、半分のスペースで済むのだ。仕事はまだ決まっていない。不良債権のような自分の立場。ところで、彼女は天使だったのか、悪魔だったのか。これも、また天使の一形態なのだろう。ぼくの前に表れたエンジェル。もしくは、ぼくの筆が作り上げた愛しい天使。
ほんとうはひとみがアイドルで成功したら、ぼくの秘蔵の写真を売るつもりだったのに、反対にしてやられた。一枚、上手。堕天使にしてやることもできなかった。非情というものが欠けていた。ぼくはひとつの部屋を不動産屋の担当者と見に行く。決めるのを拒むことすら不可能な欠点もない部屋。保証人と急に言われた。ひとみは、まだその責務を負ってくれるだろうか。天使にそこまで望むことを許してもよいのだろうか。ぼくの売り上げ。彼女の取り分。歯がゆい夕暮れ。迷える山羊。
2016.9.10
メカニズム(24)
ノートの最後のページ。学生時代にも使い切ったことがない。もちろん、手元にもうない。学んだことは脳のどこかにある。楽観論や性善説にむりやり結びつければ。引き出しのレールは錆びて、かなり開けづらいが。
区切りとなるようなもの。ひとは節目とかゴールとかが大好きだ。いったん終わらせて再出発。しかし、転職をよしとしない社会でもある。奉公は一社のみ。大家族。生き様としての第三セクター。
みなしご。最後の打席をホームランで飾るという誘惑にかられる。毎日行っていたことを確実に今日もするというのが、正式なプロだった。身だしなみ程度の熱量で。アマチュアの分際での大風呂敷。その確実さが失われたら引退だ。引退もなにも、まだ何事もはじまってもいない。
なんとなくひとみのワードローブを見る。知り合ったころといささか違う。職業があるひとの振る舞いや容姿を規定する。柔道家は柔道家のように。警察官は警察官のように。ひとみはひとみのように。ぼくはぼくのように。
腹が減ったので、インスタント麺に湯を適量だけ注ぐ。もっとましな生活を望んでいたが、三分ではその希望も叶わない。これが高望みを許さない社会だ。
満腹になってペンを握る。チェーホフ。トーマス・マン。ひとの名前が何かしらの意味をもつ。自分の名前を筆圧を込めて書いてみる。これに意味はない。ただの四つの漢字。森鴎外。下呂温泉。
ホームランを狙うというこれ見よがしの態度が悪かった。こつこつと塁を埋め、こつこつと点を入れる。義務的に投げ、義務的に抑える。プロの責任の終局の歓喜と報いの対価として得られる証しは、ただ陽気でいられないという事実で、まさしくこれが人生のようだった。
初恋。という最後の缶詰を開ける。その用意をする。どこの時点の? という客観的な視点の問題が起こる。寝る前に必ず考えた異性(あるいは同性。差別撤廃)に決める。自分には見当たらなかった。缶詰の賞味期限は切れていたのか。
いや、これは隠そうという秘めたる思いからであった。ひとつやふたつという大まかな愛のかけらがある。ふたを開ける。みずみずしい桃のようなものがある。別れが来ないように願っているが、新しい恋は苦しい走者の息切れのあとに訪れる。
ノートの最後のページ。学生時代にも使い切ったことがない。もちろん、手元にもうない。学んだことは脳のどこかにある。楽観論や性善説にむりやり結びつければ。引き出しのレールは錆びて、かなり開けづらいが。
区切りとなるようなもの。ひとは節目とかゴールとかが大好きだ。いったん終わらせて再出発。しかし、転職をよしとしない社会でもある。奉公は一社のみ。大家族。生き様としての第三セクター。
みなしご。最後の打席をホームランで飾るという誘惑にかられる。毎日行っていたことを確実に今日もするというのが、正式なプロだった。身だしなみ程度の熱量で。アマチュアの分際での大風呂敷。その確実さが失われたら引退だ。引退もなにも、まだ何事もはじまってもいない。
なんとなくひとみのワードローブを見る。知り合ったころといささか違う。職業があるひとの振る舞いや容姿を規定する。柔道家は柔道家のように。警察官は警察官のように。ひとみはひとみのように。ぼくはぼくのように。
腹が減ったので、インスタント麺に湯を適量だけ注ぐ。もっとましな生活を望んでいたが、三分ではその希望も叶わない。これが高望みを許さない社会だ。
満腹になってペンを握る。チェーホフ。トーマス・マン。ひとの名前が何かしらの意味をもつ。自分の名前を筆圧を込めて書いてみる。これに意味はない。ただの四つの漢字。森鴎外。下呂温泉。
ホームランを狙うというこれ見よがしの態度が悪かった。こつこつと塁を埋め、こつこつと点を入れる。義務的に投げ、義務的に抑える。プロの責任の終局の歓喜と報いの対価として得られる証しは、ただ陽気でいられないという事実で、まさしくこれが人生のようだった。
初恋。という最後の缶詰を開ける。その用意をする。どこの時点の? という客観的な視点の問題が起こる。寝る前に必ず考えた異性(あるいは同性。差別撤廃)に決める。自分には見当たらなかった。缶詰の賞味期限は切れていたのか。
いや、これは隠そうという秘めたる思いからであった。ひとつやふたつという大まかな愛のかけらがある。ふたを開ける。みずみずしい桃のようなものがある。別れが来ないように願っているが、新しい恋は苦しい走者の息切れのあとに訪れる。
メカニズム(23)
ぼくが発泡酒を飲み、ひとみはビールを飲んでいる。家庭内格差。稼いでくるのがいちばん偉いのだ。だが、つまみは平等だ。
「最近の話、全部、面白いね。その調子」誉められ、おだてられる。会社員時代の叱咤もどこかでなつかしい。ぼくを叱る人間などどこにもいない。つまりは愛情の対象から除外されている。望んだ結果なのか。
大人は個を大事にするといいながら、結局は群れたがった。多数決という簡単な答えもある。民主主義。大勢が王様を望めば、それもあり得る。ぼくらはすることもなく選挙の特番を見ていた。
「お店では、いちばん人気のある子が、成功者」
「単純な人気投票で明快で、分かりやすくていいね。根回しもいらない」
「陰の実力者もいない」
「送りバントもいらない」
「それは、たまにいるよ」
世界にはあらゆるシステムがある。古びるのもあり、刷新するのもある。貴族院議員だったうちの祖父というデタラメを考える。ひとつずつ、ボードに花が飾られる。
「受かったら、なにするんだろう? なにしたいんだろう?」
ビールがワインになる。肝臓を休めた方が良いのかもしれないが、仕事と普段用では気分も違うのだろう。
「先生と呼ばれたいんだろう」
「お客さんにも、いろいろな先生がいるね」
「いろいろな社長も」
潜在的な無職。顕在の現実の無職。ひとからチヤホヤされることも忘れた。いや、これまでもあったのだろうか? テストで良い点を取り、みんなのまえで誉められた気もする。過去の武勇伝を語った時点で男は終わりであった。むかし、きれいでしたでしょう、と訊かれる女性も現役ではなかった。歴史上の人物として追放される。
有利と不利が判定される。明日の朝刊はこちら側のトップの笑顔になる。造花のバラを背にして。次の面は、反対の党の苦虫を噛み潰した顔。ぼくは、ライバルに負ける男の物語を構想する。それは漱石先生のこころではないのか。ひとみはうとうとしている。寝ている間に、ぼくは働かなければならない。時計を見る。腕時計の電池は切れた。無職の証拠。明日、どこかで交換しようと思う、政局や政権が変わるように。
ぼくが発泡酒を飲み、ひとみはビールを飲んでいる。家庭内格差。稼いでくるのがいちばん偉いのだ。だが、つまみは平等だ。
「最近の話、全部、面白いね。その調子」誉められ、おだてられる。会社員時代の叱咤もどこかでなつかしい。ぼくを叱る人間などどこにもいない。つまりは愛情の対象から除外されている。望んだ結果なのか。
大人は個を大事にするといいながら、結局は群れたがった。多数決という簡単な答えもある。民主主義。大勢が王様を望めば、それもあり得る。ぼくらはすることもなく選挙の特番を見ていた。
「お店では、いちばん人気のある子が、成功者」
「単純な人気投票で明快で、分かりやすくていいね。根回しもいらない」
「陰の実力者もいない」
「送りバントもいらない」
「それは、たまにいるよ」
世界にはあらゆるシステムがある。古びるのもあり、刷新するのもある。貴族院議員だったうちの祖父というデタラメを考える。ひとつずつ、ボードに花が飾られる。
「受かったら、なにするんだろう? なにしたいんだろう?」
ビールがワインになる。肝臓を休めた方が良いのかもしれないが、仕事と普段用では気分も違うのだろう。
「先生と呼ばれたいんだろう」
「お客さんにも、いろいろな先生がいるね」
「いろいろな社長も」
潜在的な無職。顕在の現実の無職。ひとからチヤホヤされることも忘れた。いや、これまでもあったのだろうか? テストで良い点を取り、みんなのまえで誉められた気もする。過去の武勇伝を語った時点で男は終わりであった。むかし、きれいでしたでしょう、と訊かれる女性も現役ではなかった。歴史上の人物として追放される。
有利と不利が判定される。明日の朝刊はこちら側のトップの笑顔になる。造花のバラを背にして。次の面は、反対の党の苦虫を噛み潰した顔。ぼくは、ライバルに負ける男の物語を構想する。それは漱石先生のこころではないのか。ひとみはうとうとしている。寝ている間に、ぼくは働かなければならない。時計を見る。腕時計の電池は切れた。無職の証拠。明日、どこかで交換しようと思う、政局や政権が変わるように。
メカニズム(22)
会話が減る。肉体の交渉も減る。不満が増える。愛の供給量が減る。
愛は枯渇するが、どこかに潤沢にある。湧き上がるのを待っている。最初のドキドキが成長して大人になる。きっかけが必要だ。
交際前の自分の水増し分をなつかしむ。ひげをきちんと剃り、服にはアイロンがかかっている。いまは、いつひげを剃っても自由であり、よれよれの部屋着を着ている時間が多い。居心地の良いことを最重要視して、性欲を殺す。いや、削減する。予算も潤沢にあった。動画を見る。日本のすべての女性が一度ずつ、映像に撮られているような錯覚をもつ。反面、似通った男性ばかりが背中を撮られていた。打率。振り逃げ。
「ノートも半分を過ぎたね。ラスト・スパート」
この面では、持続を強要された。自分勝手は許されない。相手の満足を。
「次は?」
「それは自分で決めて」
と言われても、最近のぼくには決定という条項もスイッチもない。ただ、罪悪感なのか、わずかばかりの高揚感のためなのか、ひとみに読み物を提供している。彼女は幼き頃、眠る前に物語を読んできかせるというスイートな親を有していた。ひとは甘美な記憶のぬくもりからなかなか抜け切れないものだ。
彼女は出掛ける。ぼくは汚れが目立ち始めたノートを開く。コーヒーのしみがあった。そのしみに具体的な物体を何かの試験のように当てはめてみる。蝶々。かたつむり。金魚。ぼくもまた過去の記憶の異物だ。
金魚を飼っていた自分。そのような物語を探す。浴衣姿の女性が登場する。ひとは同年代しか意識しない。子どもが接する大人は、先生か医者か床屋さんぐらいだ。子どもぎらいの床屋さんも困ったことになる。ぼくは髪を切られる前に待ちながら漫画も読まずに水槽を眺めている。優雅な尾びれ。子孫というものを想像できない孤独さ。すると、順番になって呼ばれる。ぼくは男前になる。簡単に。
ひとみの浴衣姿を思い出す。首というのは魅力的なものだ。髪と汗。それを加えても優雅さは目減りしない。
ノルマを達成してビールを開ける。ぼくもきれいな女性のとなりで快活に酔ってみたかった。しかし、テレビでアイドルのふわふわした音程の歌を聴き、静かに杯を重ねる。等身大の甘さ。
会話が減る。肉体の交渉も減る。不満が増える。愛の供給量が減る。
愛は枯渇するが、どこかに潤沢にある。湧き上がるのを待っている。最初のドキドキが成長して大人になる。きっかけが必要だ。
交際前の自分の水増し分をなつかしむ。ひげをきちんと剃り、服にはアイロンがかかっている。いまは、いつひげを剃っても自由であり、よれよれの部屋着を着ている時間が多い。居心地の良いことを最重要視して、性欲を殺す。いや、削減する。予算も潤沢にあった。動画を見る。日本のすべての女性が一度ずつ、映像に撮られているような錯覚をもつ。反面、似通った男性ばかりが背中を撮られていた。打率。振り逃げ。
「ノートも半分を過ぎたね。ラスト・スパート」
この面では、持続を強要された。自分勝手は許されない。相手の満足を。
「次は?」
「それは自分で決めて」
と言われても、最近のぼくには決定という条項もスイッチもない。ただ、罪悪感なのか、わずかばかりの高揚感のためなのか、ひとみに読み物を提供している。彼女は幼き頃、眠る前に物語を読んできかせるというスイートな親を有していた。ひとは甘美な記憶のぬくもりからなかなか抜け切れないものだ。
彼女は出掛ける。ぼくは汚れが目立ち始めたノートを開く。コーヒーのしみがあった。そのしみに具体的な物体を何かの試験のように当てはめてみる。蝶々。かたつむり。金魚。ぼくもまた過去の記憶の異物だ。
金魚を飼っていた自分。そのような物語を探す。浴衣姿の女性が登場する。ひとは同年代しか意識しない。子どもが接する大人は、先生か医者か床屋さんぐらいだ。子どもぎらいの床屋さんも困ったことになる。ぼくは髪を切られる前に待ちながら漫画も読まずに水槽を眺めている。優雅な尾びれ。子孫というものを想像できない孤独さ。すると、順番になって呼ばれる。ぼくは男前になる。簡単に。
ひとみの浴衣姿を思い出す。首というのは魅力的なものだ。髪と汗。それを加えても優雅さは目減りしない。
ノルマを達成してビールを開ける。ぼくもきれいな女性のとなりで快活に酔ってみたかった。しかし、テレビでアイドルのふわふわした音程の歌を聴き、静かに杯を重ねる。等身大の甘さ。
メカニズム(21)
サッカーにはサッカーのルールがあり、ラグビーも同様だ。ふたりで暮らせば自ずとルールができる。破れば不満であり、また反対にルールというのは設定の限界ではないということがあらためて浮き彫りになる。
ひとみはいつもの時間に帰ってこなかった。はじめてのことだ。事故とか、いやなことを想像する。しかし、文字が送られてきて、心配は不要とのことだった。そうはいっても心配するのが人情である。友人の家に泊まるとのことだ。友人というのも、いかにもアバウトな表現だった。
読まれない物語ができる。一夜だけ生き延びたアラビアン・ナイトである。猶予というものは良いものであった。眠れなかったので急に思いつき、浴槽やトイレを掃除した。汚れというのは至るところにあった。世界で最も力を有しているのは、何らかの菌のようでもある。有用なものをいくつか発見すれば有名になれるのかもしれない。しかし、もちろんそんな才能には恵まれていない。蛇口をきゅっと強く閉め、いったんは掃除を完了させる。これも、完了というものは本質的に生きている間はない。そっと、棚上げだけだ。
いつも見ない時間帯のテレビを流す。夜にいろいろなものを売りたがっていた。こちらは買いたがっているという共通条件があるようだ。腹筋をして、肌を整える。いくつかの健康食品を飲み込み、身体は痩せる。世界はブ男のままでいさせてくれない。
すべては電気があるお陰だ。ぼくはスイッチを切り、ベッドに入る。気付きもしなかった時計のチクタクという音が耳のそばで反響する。敢えて、擬音を使ってみる。そんなことを考えていると引っ込み思案の眠りの入口はさらに遠くなる。しかし、いつの間にか寝入っている。
目を覚ますとひとみがいる。卵を割っている。かき混ぜる音がして、フライパンのうえにジュッと勢いよく放り込む音もした。香ばしい匂いもした。腹が空くから食べるのか、食べたいから腹が空いたような錯覚がするのか、どうでもよいことをベッドのなかで考える。大人の男性は追求をどこまですることが許されているのか分からない。ひとみはノートを開いて、昨夜の分を読みはじめてしまったので、一夜の猶予も同時に消えてしまった。
サッカーにはサッカーのルールがあり、ラグビーも同様だ。ふたりで暮らせば自ずとルールができる。破れば不満であり、また反対にルールというのは設定の限界ではないということがあらためて浮き彫りになる。
ひとみはいつもの時間に帰ってこなかった。はじめてのことだ。事故とか、いやなことを想像する。しかし、文字が送られてきて、心配は不要とのことだった。そうはいっても心配するのが人情である。友人の家に泊まるとのことだ。友人というのも、いかにもアバウトな表現だった。
読まれない物語ができる。一夜だけ生き延びたアラビアン・ナイトである。猶予というものは良いものであった。眠れなかったので急に思いつき、浴槽やトイレを掃除した。汚れというのは至るところにあった。世界で最も力を有しているのは、何らかの菌のようでもある。有用なものをいくつか発見すれば有名になれるのかもしれない。しかし、もちろんそんな才能には恵まれていない。蛇口をきゅっと強く閉め、いったんは掃除を完了させる。これも、完了というものは本質的に生きている間はない。そっと、棚上げだけだ。
いつも見ない時間帯のテレビを流す。夜にいろいろなものを売りたがっていた。こちらは買いたがっているという共通条件があるようだ。腹筋をして、肌を整える。いくつかの健康食品を飲み込み、身体は痩せる。世界はブ男のままでいさせてくれない。
すべては電気があるお陰だ。ぼくはスイッチを切り、ベッドに入る。気付きもしなかった時計のチクタクという音が耳のそばで反響する。敢えて、擬音を使ってみる。そんなことを考えていると引っ込み思案の眠りの入口はさらに遠くなる。しかし、いつの間にか寝入っている。
目を覚ますとひとみがいる。卵を割っている。かき混ぜる音がして、フライパンのうえにジュッと勢いよく放り込む音もした。香ばしい匂いもした。腹が空くから食べるのか、食べたいから腹が空いたような錯覚がするのか、どうでもよいことをベッドのなかで考える。大人の男性は追求をどこまですることが許されているのか分からない。ひとみはノートを開いて、昨夜の分を読みはじめてしまったので、一夜の猶予も同時に消えてしまった。
メカニズム(20)
「今日、なんの日か覚えてる?」ぼくは地獄に通じる質問をされる。もちろん、覚えていない。今日は、明日と昨日の中間にあるだけだ。
「さあ」
「やっぱり」
無言というのも、また地獄の一面だった。男は黙って、というコマーシャルを思い出している。ウディ・アレンの世界観と正反対にあるもの。
「それで?」腹をくくる。
「なんにもないよ」
「なんだ」安堵する。そして、カレンダーを眺める。生まれた日を境に大人になるわけではない。大きな経験が節目となって大人に変える。伏し目がちで。だが、ほんとうに今日はなにもない日なのか? 試験に不合格なのではないか。ぼくはぼんやりと考える。頭のなかでひとみと会ってからのあれこれを思い浮かべている。最初のデート。最初のあれこれ。数回目のあれこれ。最後のあれこれ。なかなか最後を判断するのはむずかしい。ぼくらは継続中の関係なのだ。
継続というのは、あやふやで、ふわふわして、特別な楽しみがあった。新聞記者も手を出せない途中という段階。歴史家のわずらわしい手も入らない。ただ当事者だけが存在する。
「休みだから、どこかでご飯でも食べる?」
「いいね」
「なにがいい?」
「寿司、焼き肉、ハンバーグ、カレー」
「もっと、いいものにしましょう。たまには」
やばい。やはり、何かの記念日なのか? オレは試されるという過程の正式な当事者なのか。
「どこか探そうか?」
「ほんとうは、もう予約してあるんだ」
決定的である。ぼくはトイレにいったん避難する。もしくは非難される準備を整える。ことばの魔術師は、ダジャレしか思いつかない。それから、シャワーを浴びて久々にひげを剃る。つるりとした肌にローションを塗る。できあがりだ。しかし、記念日を思い出せない。まったくの空白だ。オレの脳は砂漠であり、卵のいないカマキリの卵であった。
「おめかし」とひとみはぼくの服装をからかった。まだ、笑顔がある。いつか怒りに変化するかもしれない。予兆はおびえとなってつながる。安心感を得たい。そして、与えたい。ふたり連れ立って燻される前の外に出る。夜は若かった。ぼくは誰かの模倣にしか過ぎない。
「ほんとうは、明日なの。なんの日か覚えてる?」
ぼくの記憶には、タイガースの三連続バックスクリーンしかない。そんな日でもない。夜の空気は苦かった。さんまのはらわた並みに苦かった。
「今日、なんの日か覚えてる?」ぼくは地獄に通じる質問をされる。もちろん、覚えていない。今日は、明日と昨日の中間にあるだけだ。
「さあ」
「やっぱり」
無言というのも、また地獄の一面だった。男は黙って、というコマーシャルを思い出している。ウディ・アレンの世界観と正反対にあるもの。
「それで?」腹をくくる。
「なんにもないよ」
「なんだ」安堵する。そして、カレンダーを眺める。生まれた日を境に大人になるわけではない。大きな経験が節目となって大人に変える。伏し目がちで。だが、ほんとうに今日はなにもない日なのか? 試験に不合格なのではないか。ぼくはぼんやりと考える。頭のなかでひとみと会ってからのあれこれを思い浮かべている。最初のデート。最初のあれこれ。数回目のあれこれ。最後のあれこれ。なかなか最後を判断するのはむずかしい。ぼくらは継続中の関係なのだ。
継続というのは、あやふやで、ふわふわして、特別な楽しみがあった。新聞記者も手を出せない途中という段階。歴史家のわずらわしい手も入らない。ただ当事者だけが存在する。
「休みだから、どこかでご飯でも食べる?」
「いいね」
「なにがいい?」
「寿司、焼き肉、ハンバーグ、カレー」
「もっと、いいものにしましょう。たまには」
やばい。やはり、何かの記念日なのか? オレは試されるという過程の正式な当事者なのか。
「どこか探そうか?」
「ほんとうは、もう予約してあるんだ」
決定的である。ぼくはトイレにいったん避難する。もしくは非難される準備を整える。ことばの魔術師は、ダジャレしか思いつかない。それから、シャワーを浴びて久々にひげを剃る。つるりとした肌にローションを塗る。できあがりだ。しかし、記念日を思い出せない。まったくの空白だ。オレの脳は砂漠であり、卵のいないカマキリの卵であった。
「おめかし」とひとみはぼくの服装をからかった。まだ、笑顔がある。いつか怒りに変化するかもしれない。予兆はおびえとなってつながる。安心感を得たい。そして、与えたい。ふたり連れ立って燻される前の外に出る。夜は若かった。ぼくは誰かの模倣にしか過ぎない。
「ほんとうは、明日なの。なんの日か覚えてる?」
ぼくの記憶には、タイガースの三連続バックスクリーンしかない。そんな日でもない。夜の空気は苦かった。さんまのはらわた並みに苦かった。
メカニズム(19)
失業保険も間もなく切れる。国家のお世話になる。運営会社の一員として。いま、徴兵されたら断る言い訳が立たない。それはそれ、と胸を張って主張することも不可能だ。甘い汁と、苦い水。生まれた場所。橋の下。
日本語が便利なものか、また、どのような用途にもっともふさわしい部類の言語か考えてみる。答えらしきものもない。精神性も依存する。陽気にはしゃぐことをブラジル人ほどできないかもしれない。陰鬱になるには、リッチであり過ぎた。空爆もなく、銃もない。目出度い。
一員であることに安堵する。同じ通貨を使い、同じおにぎりを買う。好みというのは鮭か、おかかぐらいの差しかない。稲作文明。
特技を考慮する。得意なことを仕事にするひともいる。洋服をデザインしたり、またそれをもとに塗ったりもする。着るという行為を見せるという行為に変えるモデルさんがいる。その身体のデザインも設計もある種の完成品だった。
すると急に完成というものが分からなくなる。棺桶に入った直後が完成か。それとも、灰となって自分の身体が消えた時点が完成か。さらには、どこか頂点らしきものを指すことばなのだろうか。どれも完成に近く、どこも限りなく未完成であった。
混乱した頭で買い物帰りに歩いていると、しとしと雨が降ってきた。傘をもっていないので小走りで歩く。ひとは環境に左右される。全員に不幸のミサイルが狙っても、予知して防御できる場合もあった。単純に折り畳み傘ぐらい持っておけばよかった、というミスを大げさに考える。走っている遠くに虹が見える。虹を主題に、なにかおもしろいものが書ければよかった。ねぎが揺れる。ワカメが揺れる。さざえはない。ポストは空だった。赤紙も幸運なことになかった。ポケットからカギを取り出し、もう何回したか分からないカギを開ける作業を一度、追加した。
失業保険も間もなく切れる。国家のお世話になる。運営会社の一員として。いま、徴兵されたら断る言い訳が立たない。それはそれ、と胸を張って主張することも不可能だ。甘い汁と、苦い水。生まれた場所。橋の下。
日本語が便利なものか、また、どのような用途にもっともふさわしい部類の言語か考えてみる。答えらしきものもない。精神性も依存する。陽気にはしゃぐことをブラジル人ほどできないかもしれない。陰鬱になるには、リッチであり過ぎた。空爆もなく、銃もない。目出度い。
一員であることに安堵する。同じ通貨を使い、同じおにぎりを買う。好みというのは鮭か、おかかぐらいの差しかない。稲作文明。
特技を考慮する。得意なことを仕事にするひともいる。洋服をデザインしたり、またそれをもとに塗ったりもする。着るという行為を見せるという行為に変えるモデルさんがいる。その身体のデザインも設計もある種の完成品だった。
すると急に完成というものが分からなくなる。棺桶に入った直後が完成か。それとも、灰となって自分の身体が消えた時点が完成か。さらには、どこか頂点らしきものを指すことばなのだろうか。どれも完成に近く、どこも限りなく未完成であった。
混乱した頭で買い物帰りに歩いていると、しとしと雨が降ってきた。傘をもっていないので小走りで歩く。ひとは環境に左右される。全員に不幸のミサイルが狙っても、予知して防御できる場合もあった。単純に折り畳み傘ぐらい持っておけばよかった、というミスを大げさに考える。走っている遠くに虹が見える。虹を主題に、なにかおもしろいものが書ければよかった。ねぎが揺れる。ワカメが揺れる。さざえはない。ポストは空だった。赤紙も幸運なことになかった。ポケットからカギを取り出し、もう何回したか分からないカギを開ける作業を一度、追加した。
メカニズム(18)
魚は骨があってこそ魚であった。ぼくが作っているのは、単なる軟体動物である。もしくは、価値のない夏祭りの夜店の金魚のようなものだ。骨格がない。そして、歯応えなども誰も求めていない。ひとりの女性の眠気覚ましのようなものだ。あるいは反対に入眠の儀式の道具。
最初は頼まれたものでも、のちのち真剣に行えば天職という高みにまで達するだろうか。しかし、つなぎの仕事であることは自分がよく知っていた。そもそも、仕事とも呼べない。高尚なる暇つぶし。
鍵盤を八十八の数だけ左右に並べる。お金はいちばん左端でいい。気にも留めない風に。そのなかにピカソもあって、ライカのカメラもある。カフカがあって、ルイ・アームストロングもいる。お金にならないものこそ品の良い音がする。しかし、品性をなくした酔っ払いとの接客によって、段階を経るが、それがぼくの生活費のもととなった。原材料。それでも、ぼくは自分の人生をきれいに奏でたい。
骨がない物語の糸口を探す。ギャンブルに夢中になるひとの話はどうだろう。はじめのうちは幸福の何たるかも知らないのに数回は勝つ。負けてこそ、血が逆上して入れあげる理由が生じる。最後にすってんてんになり身ぐるみをはがされる。無一文になり起死回生の勝負に出る。そういう情熱も意欲もない自分は机上だけのやりとりで信憑性に欠けてしまう。
骨がない。つまりは経験がない。ぼくは自分の鍵盤を空想のなかで眺める。半分ぐらいは、もしくはそのまた半分ぐらいは汚れたものがあった方がリアルになるのかもしれない。すると、家のチャイムが急になって驚いた。どんな使者が訪れたのだろう? 殺し屋か? 恫喝されるのか。
新聞の勧誘員だった。洗剤を見せられる。ひとみにはお気に入りがあって、それ以外は試すこともできない。ぼくはその馬鹿げた理由を言うつもりもない。厭な顔を置き土産に戸を閉じた。断るのも仕事であり、断られるのも仕事であった。もっと神秘的でガッツのある鍵盤を望んでいた。
魚は骨があってこそ魚であった。ぼくが作っているのは、単なる軟体動物である。もしくは、価値のない夏祭りの夜店の金魚のようなものだ。骨格がない。そして、歯応えなども誰も求めていない。ひとりの女性の眠気覚ましのようなものだ。あるいは反対に入眠の儀式の道具。
最初は頼まれたものでも、のちのち真剣に行えば天職という高みにまで達するだろうか。しかし、つなぎの仕事であることは自分がよく知っていた。そもそも、仕事とも呼べない。高尚なる暇つぶし。
鍵盤を八十八の数だけ左右に並べる。お金はいちばん左端でいい。気にも留めない風に。そのなかにピカソもあって、ライカのカメラもある。カフカがあって、ルイ・アームストロングもいる。お金にならないものこそ品の良い音がする。しかし、品性をなくした酔っ払いとの接客によって、段階を経るが、それがぼくの生活費のもととなった。原材料。それでも、ぼくは自分の人生をきれいに奏でたい。
骨がない物語の糸口を探す。ギャンブルに夢中になるひとの話はどうだろう。はじめのうちは幸福の何たるかも知らないのに数回は勝つ。負けてこそ、血が逆上して入れあげる理由が生じる。最後にすってんてんになり身ぐるみをはがされる。無一文になり起死回生の勝負に出る。そういう情熱も意欲もない自分は机上だけのやりとりで信憑性に欠けてしまう。
骨がない。つまりは経験がない。ぼくは自分の鍵盤を空想のなかで眺める。半分ぐらいは、もしくはそのまた半分ぐらいは汚れたものがあった方がリアルになるのかもしれない。すると、家のチャイムが急になって驚いた。どんな使者が訪れたのだろう? 殺し屋か? 恫喝されるのか。
新聞の勧誘員だった。洗剤を見せられる。ひとみにはお気に入りがあって、それ以外は試すこともできない。ぼくはその馬鹿げた理由を言うつもりもない。厭な顔を置き土産に戸を閉じた。断るのも仕事であり、断られるのも仕事であった。もっと神秘的でガッツのある鍵盤を望んでいた。
メカニズム(17)
なんだかひとみの服装や仕草が変わる。ひとは変わるものなのか、幼少期からのその成り立ちの変更を拒むものなのか、自分には分からない。ただ、世間の波となる流行がある。老若男女がその一部を支え、構成するのも事実だ。そして、ある瞬間が瞬時に過去となって写真や雑誌のなかに急速冷凍のように閉じ込められる。なつかしいとか、恥かしいとの赤面をともなう感想が生まれる。
古びるものもあって、古びない輝きを維持するものもある。どちらも正しい。ぼくは数ヵ月だけ古びる。サイズは変わらない。爪と髪だけが成長している。
短い読み物が増えていく。ディケンズのような巨大な本を考えてみる。誰かが待ってくれれば、収入の確保の目途があれば、やってみたい気もする。これもいつもの言い訳のひとつだ。するひとは直ぐに行動に移す。
ぼくは甘えている。収入が最近はほとんどない。貯蓄もしなければ、利殖もない。どんどん減っていく収入。しかし、生活に困ることはない。いまのところは。世間の一員に加わっていないという不安があるのみだ。上司の悪口も言ってみたい。同僚と帰りに居酒屋で飲んでみたい。後輩のミスを棚上げにして誰かに頭を下げてみたい。どれからも自由であり、どれからも招かれていない。オレは、ひとなのか?
うだうだと考えているのもあきらめ、日課になっているノートの書き込みをすすめる。新聞に四コマ漫画を描いている方の苦労を知る。ノートの隅にイラストを描いている。これは広告なのだ。絵もきれいな額があってこそだった。
近未来の世界。ひとは考えることをあきらめ、遂行ということしかできなくなる。車輪にのるモルモットのようなものをイメージする。近未来の映像が、身近で手頃なものになってしまう。自分にはこの方面の能力がないのだろう。欠落。新聞に挟まれているチラシがポストの横に捨てられていたので興味本位に拾ってきた。ぼくはソファに横たわりそれを眺める。世界には商品がたくさんあった。他店よりいくらかでも安く。芸術とは、どういうものだろう。他人より、いくらかでも高い名声と、流通するお金での評価を。開眼。ぼくは、そのスーパーに足を運ぶ。時間だけが、ぼくを苦しめる唯一の原因のようだった。
なんだかひとみの服装や仕草が変わる。ひとは変わるものなのか、幼少期からのその成り立ちの変更を拒むものなのか、自分には分からない。ただ、世間の波となる流行がある。老若男女がその一部を支え、構成するのも事実だ。そして、ある瞬間が瞬時に過去となって写真や雑誌のなかに急速冷凍のように閉じ込められる。なつかしいとか、恥かしいとの赤面をともなう感想が生まれる。
古びるものもあって、古びない輝きを維持するものもある。どちらも正しい。ぼくは数ヵ月だけ古びる。サイズは変わらない。爪と髪だけが成長している。
短い読み物が増えていく。ディケンズのような巨大な本を考えてみる。誰かが待ってくれれば、収入の確保の目途があれば、やってみたい気もする。これもいつもの言い訳のひとつだ。するひとは直ぐに行動に移す。
ぼくは甘えている。収入が最近はほとんどない。貯蓄もしなければ、利殖もない。どんどん減っていく収入。しかし、生活に困ることはない。いまのところは。世間の一員に加わっていないという不安があるのみだ。上司の悪口も言ってみたい。同僚と帰りに居酒屋で飲んでみたい。後輩のミスを棚上げにして誰かに頭を下げてみたい。どれからも自由であり、どれからも招かれていない。オレは、ひとなのか?
うだうだと考えているのもあきらめ、日課になっているノートの書き込みをすすめる。新聞に四コマ漫画を描いている方の苦労を知る。ノートの隅にイラストを描いている。これは広告なのだ。絵もきれいな額があってこそだった。
近未来の世界。ひとは考えることをあきらめ、遂行ということしかできなくなる。車輪にのるモルモットのようなものをイメージする。近未来の映像が、身近で手頃なものになってしまう。自分にはこの方面の能力がないのだろう。欠落。新聞に挟まれているチラシがポストの横に捨てられていたので興味本位に拾ってきた。ぼくはソファに横たわりそれを眺める。世界には商品がたくさんあった。他店よりいくらかでも安く。芸術とは、どういうものだろう。他人より、いくらかでも高い名声と、流通するお金での評価を。開眼。ぼくは、そのスーパーに足を運ぶ。時間だけが、ぼくを苦しめる唯一の原因のようだった。
メカニズム(16)
ドライバーの飛距離が伸びる。ゴルフをしたこともない自分だが、その快感は簡単に想像できた。上達という幸福がある。停滞という不安もある。無我夢中という恍惚もあって、生あくびという退屈さもある。
若者は、伸びる余地がある。老いたるものは、かわすテクニックがある。牛と闘牛士の話のようだ。若いときに選んだ職業がある人間の一生の歩みを拘束する。ひとは従事したものでかたどられる。銀行員はまさしく銀行員のように。売人は売人のように。集金という類似の形態をとっても、外見はかように異なってしまう。
ひとみの知り合いだった女性の女優としての主演映画が作られる。手の届かないところに行ってしまう。ぼくらは尻尾をつかむような意気込みで映画館に向かった。他人になるとお金が貰える仕事。他にそういうものがあるのかぼくは鑑賞しながら考えている。ピエロ。教師や警察官。これは反対だ。不道徳に傾くと、職業を首になる。では、自分ってなんだ?
「きれいになったね」とひとみは感想を言う。
「そんなに?」
「そんなに。視線を意識するって、とても重要なことだから」
「ひとみも、もう少し頑張れば、あれぐらいになれたんじゃないのかな」
「自分の実力なんか。いちばん自分が知ってないと」
ぼくは知らない。なにものでもない。無職で女性の稼ぎに頼っている男。飛距離は伸びるかもしれず、ここらが限界かもしれない。池ポチャから這い上がる力を有し、反対に何度も池ポチャを繰り返すかもしれない。明日はどちらにしろ分からない。
「いっしょに行動しているから、きょうは物語はなしだよ」
「いいよ。たまには休憩しなくちゃ。わたしだって、鬼じゃなし」
「鬼嫁じゃなし」
「え?」
「そういう単語もあるんだなって。あるから、いる。いるからある」
怖い嫁の監視下にいる男性の話を思い付く。明日は、これだ。ひとみは職業と関係なく清楚に見える。ぼくはトイレの鏡で確認すると、どうやら無精ひげを生やす姿は無職そのままの証明のようだった。職業が容貌を規定して、そこから振り落とされてもまったく答えは同じようだった。
ドライバーの飛距離が伸びる。ゴルフをしたこともない自分だが、その快感は簡単に想像できた。上達という幸福がある。停滞という不安もある。無我夢中という恍惚もあって、生あくびという退屈さもある。
若者は、伸びる余地がある。老いたるものは、かわすテクニックがある。牛と闘牛士の話のようだ。若いときに選んだ職業がある人間の一生の歩みを拘束する。ひとは従事したものでかたどられる。銀行員はまさしく銀行員のように。売人は売人のように。集金という類似の形態をとっても、外見はかように異なってしまう。
ひとみの知り合いだった女性の女優としての主演映画が作られる。手の届かないところに行ってしまう。ぼくらは尻尾をつかむような意気込みで映画館に向かった。他人になるとお金が貰える仕事。他にそういうものがあるのかぼくは鑑賞しながら考えている。ピエロ。教師や警察官。これは反対だ。不道徳に傾くと、職業を首になる。では、自分ってなんだ?
「きれいになったね」とひとみは感想を言う。
「そんなに?」
「そんなに。視線を意識するって、とても重要なことだから」
「ひとみも、もう少し頑張れば、あれぐらいになれたんじゃないのかな」
「自分の実力なんか。いちばん自分が知ってないと」
ぼくは知らない。なにものでもない。無職で女性の稼ぎに頼っている男。飛距離は伸びるかもしれず、ここらが限界かもしれない。池ポチャから這い上がる力を有し、反対に何度も池ポチャを繰り返すかもしれない。明日はどちらにしろ分からない。
「いっしょに行動しているから、きょうは物語はなしだよ」
「いいよ。たまには休憩しなくちゃ。わたしだって、鬼じゃなし」
「鬼嫁じゃなし」
「え?」
「そういう単語もあるんだなって。あるから、いる。いるからある」
怖い嫁の監視下にいる男性の話を思い付く。明日は、これだ。ひとみは職業と関係なく清楚に見える。ぼくはトイレの鏡で確認すると、どうやら無精ひげを生やす姿は無職そのままの証明のようだった。職業が容貌を規定して、そこから振り落とされてもまったく答えは同じようだった。
メカニズム(15)
書いたものが貯まっていく。遠い先の終わりを意識するようになる。大人はゴールを設定してしまう。子どもはいつまでも遊びたがる。良識という鎖がぼくを不自由にし、固定した。
直ぐにスランプが訪れる。向いていない、という甘えに浸かる。ぼくは音楽に逃避する。
キース・ジャレットというひとが異国にいた。当然もつべきであろう金銭欲とか、女性から人気が得たいとかの邪念が一切、奏でる音から感じられなかった。正当なる妥協とか打算も見当たらない。ただ、真摯にピアノに向き合っている。それをつづければ発狂というゴールが待っているような気もする。ぼくは、他にはゴッホしかこの危うい生真面目さの匂いを感じなかった。
そして、生身の自分は緩やかさを肯定する。空腹もあり、頭痛もあって、睡魔も襲う。
ひとみは化粧をしている。自分の満足というより、ひとへ見せるということが過分に含まれているようだ。そのような洋服を着ている。ぼくは誉めるべきなのであろう。実際、そう口にした。服装のセンスのないひともどこか魅力がある。ガードが低い印象を与えるのか。だが、ジャブという小さな手法を用いなければ、強打にもつながらない。強打は、ぼくの望むところではなかった。なけなしの人生訓を奥から引っ張り出さなくても。
音楽が終わる。静寂があるのみだ。本物の肉体は疲労を感じる。複製の音源はなんどでも繰り返して聴ける。別の音楽をかける。ひとりでピアノに向かう男。ぼくが払うのは数千円の円盤代だけだ。ほぼ半永久的に所有することを許される。フロントドアからの許可もなかったが。
ひとみは出掛ける。いつもより少し早い時間だ。約束があるという。危険な、かつ抵抗までに及ばない淫靡なにおいがする。なす術もない自分は目を逸らすようにノートを開く。
野心や下心が芸術をけん引する場合もある。反対に、まったくその隠すべき体臭を感じさせないひともいる。芸術とか音楽に立ち向かう態度。ぼくはまだ知らない。永久に知らないままだろう。
女性が洋服を買いに行く話を思い付く。しかし、生まれたのは時間の経過ののろさに飽きて暇をつぶす男性の話になった。これを読めば自分への注意と批難と勘繰ってしまうかもしれない。薄氷を踏む、という使い慣れないことばが浮かぶ。字にすると薄い氷だった。ぼくは冷蔵庫から氷を取り出し、酒の瓶をもぎたての氷入りのグラスに傾けた。
書いたものが貯まっていく。遠い先の終わりを意識するようになる。大人はゴールを設定してしまう。子どもはいつまでも遊びたがる。良識という鎖がぼくを不自由にし、固定した。
直ぐにスランプが訪れる。向いていない、という甘えに浸かる。ぼくは音楽に逃避する。
キース・ジャレットというひとが異国にいた。当然もつべきであろう金銭欲とか、女性から人気が得たいとかの邪念が一切、奏でる音から感じられなかった。正当なる妥協とか打算も見当たらない。ただ、真摯にピアノに向き合っている。それをつづければ発狂というゴールが待っているような気もする。ぼくは、他にはゴッホしかこの危うい生真面目さの匂いを感じなかった。
そして、生身の自分は緩やかさを肯定する。空腹もあり、頭痛もあって、睡魔も襲う。
ひとみは化粧をしている。自分の満足というより、ひとへ見せるということが過分に含まれているようだ。そのような洋服を着ている。ぼくは誉めるべきなのであろう。実際、そう口にした。服装のセンスのないひともどこか魅力がある。ガードが低い印象を与えるのか。だが、ジャブという小さな手法を用いなければ、強打にもつながらない。強打は、ぼくの望むところではなかった。なけなしの人生訓を奥から引っ張り出さなくても。
音楽が終わる。静寂があるのみだ。本物の肉体は疲労を感じる。複製の音源はなんどでも繰り返して聴ける。別の音楽をかける。ひとりでピアノに向かう男。ぼくが払うのは数千円の円盤代だけだ。ほぼ半永久的に所有することを許される。フロントドアからの許可もなかったが。
ひとみは出掛ける。いつもより少し早い時間だ。約束があるという。危険な、かつ抵抗までに及ばない淫靡なにおいがする。なす術もない自分は目を逸らすようにノートを開く。
野心や下心が芸術をけん引する場合もある。反対に、まったくその隠すべき体臭を感じさせないひともいる。芸術とか音楽に立ち向かう態度。ぼくはまだ知らない。永久に知らないままだろう。
女性が洋服を買いに行く話を思い付く。しかし、生まれたのは時間の経過ののろさに飽きて暇をつぶす男性の話になった。これを読めば自分への注意と批難と勘繰ってしまうかもしれない。薄氷を踏む、という使い慣れないことばが浮かぶ。字にすると薄い氷だった。ぼくは冷蔵庫から氷を取り出し、酒の瓶をもぎたての氷入りのグラスに傾けた。
メカニズム(14)
三話が終わる。「そんなに、悪くない」という評価だった。感想というのはさまざまだ。好評にも悪評にも与えられる理由が多い。
ひとみはテーブルにノートを載せて、爪を塗りながら視線を交互に向けている。どちらがより重要なのか分からない。ぼくの時間をかけた物語の扱われ方が、なんだか残念だった。あれも、我が子だ。手塩にかけた。
「うん?」
「いや、爪、きれいだなって」
「商売道具だから」
彼女に視線を向ける男性も、少なくない数がいることだろう。それに比べて、ぼくは根気よく、ひとりの女性を愛して、物語を捧げている。向上心というものも、はじめて芽生えた。ベストではなく、ベターを。いや、反対か。
女性の化粧の経過を見るということが大人の条件だった。突然の登場は若いときだけの栄誉だ。ぼくはその最中にいる。ひとみは六本木に仕事へ。ぼくは洗濯機を回す。大人は下着を脱がすというだけではなく、干すという段階も加わる。魅力的な小さな物体が、ただの乾かされるのを待つ色気のない布となる。
ノートを開く。いくつもの文字で白い部分を埋めなければいけない。どうしても浮かばないとテレビをつけてしまう。本日の相場。今夜の夕飯。明日の天気。どれも自分とは無関係のようにも思える。テレビを一旦、消す。
遅い散歩に出る。小学生も塾に行く時間のようだ。その年代の子があたまに入れなければいけない内容を自分は思い出せない。何人かの先生についての記憶の断片はいまだに消えない。好きなひとと、そうでもないひと。だが、そうでもないひとのある注意がいちばん貴重だったような気もする。今になってみれば。だから、きょうは真実に似せた物語を準備することにする。まな板に載せ、切れ味の悪い包丁を用意して。
歩きながら物語をつくりあげる。ひとりの人間が、ぼくのなかで年老いることを拒んでいる。再び会えば設定を変えなければいけなくなる。年齢や見た目にひとは影響されやすい。弱まれば、憎みつづけることもできないだろう。恐怖感も威圧感もいだけない。三年近く、ほとんど毎日のように会った先生も、思い出すのはたったひとつの事実だけだった。いつか、ひとみもぼくのどこか一部で判断する。その唯一といえるものを磨きたいと思う。家に着く。ノートを開く。
http://snobsnob.exblog.jp/
三話が終わる。「そんなに、悪くない」という評価だった。感想というのはさまざまだ。好評にも悪評にも与えられる理由が多い。
ひとみはテーブルにノートを載せて、爪を塗りながら視線を交互に向けている。どちらがより重要なのか分からない。ぼくの時間をかけた物語の扱われ方が、なんだか残念だった。あれも、我が子だ。手塩にかけた。
「うん?」
「いや、爪、きれいだなって」
「商売道具だから」
彼女に視線を向ける男性も、少なくない数がいることだろう。それに比べて、ぼくは根気よく、ひとりの女性を愛して、物語を捧げている。向上心というものも、はじめて芽生えた。ベストではなく、ベターを。いや、反対か。
女性の化粧の経過を見るということが大人の条件だった。突然の登場は若いときだけの栄誉だ。ぼくはその最中にいる。ひとみは六本木に仕事へ。ぼくは洗濯機を回す。大人は下着を脱がすというだけではなく、干すという段階も加わる。魅力的な小さな物体が、ただの乾かされるのを待つ色気のない布となる。
ノートを開く。いくつもの文字で白い部分を埋めなければいけない。どうしても浮かばないとテレビをつけてしまう。本日の相場。今夜の夕飯。明日の天気。どれも自分とは無関係のようにも思える。テレビを一旦、消す。
遅い散歩に出る。小学生も塾に行く時間のようだ。その年代の子があたまに入れなければいけない内容を自分は思い出せない。何人かの先生についての記憶の断片はいまだに消えない。好きなひとと、そうでもないひと。だが、そうでもないひとのある注意がいちばん貴重だったような気もする。今になってみれば。だから、きょうは真実に似せた物語を準備することにする。まな板に載せ、切れ味の悪い包丁を用意して。
歩きながら物語をつくりあげる。ひとりの人間が、ぼくのなかで年老いることを拒んでいる。再び会えば設定を変えなければいけなくなる。年齢や見た目にひとは影響されやすい。弱まれば、憎みつづけることもできないだろう。恐怖感も威圧感もいだけない。三年近く、ほとんど毎日のように会った先生も、思い出すのはたったひとつの事実だけだった。いつか、ひとみもぼくのどこか一部で判断する。その唯一といえるものを磨きたいと思う。家に着く。ノートを開く。
http://snobsnob.exblog.jp/
メカニズム(13)
二話が終わる。我が子に夕飯を用意する母の気持ちを理解する。麻婆豆腐ばかりが料理ではない。
ゴーヤー・チャンプルー。ホウレン草のお浸し。手を替え、品を替えである。だが、昨夜は彼女の帰宅前に寝てしまっていた。彼女は冷蔵庫から食料を出して、食べてから眠った。ノートも開いている。まあまあ、という評価だった。努力が足りない。改善こそが愛だった。ぼくは、きょうのノルマの達成を考える。そして、職探しを疎かにしている。
ネットでニュースを見る。死ぬ、という事実が最後のニュースになる方々がいる。跡をにごさないという名誉が与えられる。彼の遺産はいくらでした、という露骨な記事もなく、相続は修羅場と化しましたという追跡もない。死は安泰だ。
死ぬ間際の最後のひとことという題で物語を捻出する。優しい人間の罵詈雑言か、憎まれた奴の最後の感謝か。ドラマティックという秘蔵のナイフをぼくは用意している。これも、うそだ。誰か、下請け業者を見つけたいところだった。
ちなみに、ぼくの最後のセリフは決まっている。不二子ちゃんは、ルパンのことが好きだったのかしら、だけだ。永遠の謎。謎こそが美なのだ。
外に出る。宅配業者のひとが汗をかきつつ働いている。それも、ノルマだ。きょうの分は、きょうに終わらす。無数の箱を、無数の四角い造りの家に運ぶ。中には何が入っているのだろう? ぼくに知る権利はない。開く権利もない。ぼくのノートを開く権利がひとみにはある。
散歩されている犬がいる。自由そうでありながら、首輪につながれている。ぼくもなにかにつながれ、もう片端ではまたどこにも結ばれていない。多少の税金を払うぐらいが、ぼくの任務だった。
ひとみがメモにのこした食材を仕入れる。おつりをもらう。「まいど」とハスキーな声で背中にあいさつを送られる。ポストにはひとみ宛ての手紙が入っている。これも、ぼくには開く権利がない。世の中が、ぼくに秘密を作ろうとしているとの被害妄想の種を見つけて、勝手に育てようとしている。最後のことばを考えながら横になると、そのまま昼寝につながった。美しい連鎖。
夕方になる。休みで一日、どこかで過ごしていたひとみが戻ってきてしまう。男の子には言い訳が厳禁だ。ぼくはペンを握り、今夜の一話を書き込んだ。
二話が終わる。我が子に夕飯を用意する母の気持ちを理解する。麻婆豆腐ばかりが料理ではない。
ゴーヤー・チャンプルー。ホウレン草のお浸し。手を替え、品を替えである。だが、昨夜は彼女の帰宅前に寝てしまっていた。彼女は冷蔵庫から食料を出して、食べてから眠った。ノートも開いている。まあまあ、という評価だった。努力が足りない。改善こそが愛だった。ぼくは、きょうのノルマの達成を考える。そして、職探しを疎かにしている。
ネットでニュースを見る。死ぬ、という事実が最後のニュースになる方々がいる。跡をにごさないという名誉が与えられる。彼の遺産はいくらでした、という露骨な記事もなく、相続は修羅場と化しましたという追跡もない。死は安泰だ。
死ぬ間際の最後のひとことという題で物語を捻出する。優しい人間の罵詈雑言か、憎まれた奴の最後の感謝か。ドラマティックという秘蔵のナイフをぼくは用意している。これも、うそだ。誰か、下請け業者を見つけたいところだった。
ちなみに、ぼくの最後のセリフは決まっている。不二子ちゃんは、ルパンのことが好きだったのかしら、だけだ。永遠の謎。謎こそが美なのだ。
外に出る。宅配業者のひとが汗をかきつつ働いている。それも、ノルマだ。きょうの分は、きょうに終わらす。無数の箱を、無数の四角い造りの家に運ぶ。中には何が入っているのだろう? ぼくに知る権利はない。開く権利もない。ぼくのノートを開く権利がひとみにはある。
散歩されている犬がいる。自由そうでありながら、首輪につながれている。ぼくもなにかにつながれ、もう片端ではまたどこにも結ばれていない。多少の税金を払うぐらいが、ぼくの任務だった。
ひとみがメモにのこした食材を仕入れる。おつりをもらう。「まいど」とハスキーな声で背中にあいさつを送られる。ポストにはひとみ宛ての手紙が入っている。これも、ぼくには開く権利がない。世の中が、ぼくに秘密を作ろうとしているとの被害妄想の種を見つけて、勝手に育てようとしている。最後のことばを考えながら横になると、そのまま昼寝につながった。美しい連鎖。
夕方になる。休みで一日、どこかで過ごしていたひとみが戻ってきてしまう。男の子には言い訳が厳禁だ。ぼくはペンを握り、今夜の一話を書き込んだ。