爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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11年目の縦軸 16歳-24

2014年03月31日 | 11年目の縦軸
16歳-24

 キックオフがあり、プレーボールがある。その前に不可欠なのがウォーミング・アップであった。

 ある著名なサッカーの監督は例として、ウサギが獲物として追いかけられた場合には決して足をつったりしないと言った。そのような愚かさを防げないのは選手自身の準備不足が原因であるためで、自分がしなければならない用意に対しての認識の重要さを説いた。あるいは不足を嘆いた。

 ぼくは最初の恋をする。そう思っているのは自分だけかもしれない。ぼくの前に十六年も女性があらわれなかったのだろうか? そういうことはあり得ない。歴史に埋もれるというのは、小さな人間にも起こる。ぼくは彼女に会う前はまだ中学生であった。いや、彼女もその学校にいた。ぼくは一対一で誰かと会うようなことはしていないということだ。

 ぼくは風邪で学校を休む。女性たちから電話がかかってくる。女性というのは集団になると力を発揮し行使するということを知る。寝込むという大げさなものではないので、心配をしている女性たち(名乗っていないので誰だかわからないが、およそという範囲では該当がみつかる)と長電話をする。彼女たちのひとりでも良かったのだろうか? 心配しているなら、ゆっくりと眠らせてくれるのが最大の優しさでもあったのだが。きっとズル休みに近い状態であることは口ぶりからも分かったのであろう。

 ぼくはフラれないということを前提に、ある女性に交際を迫る。中学の最後の学年であったろうと思う。後年、「言質」という言葉があることを知り、何と卑怯な意味であるのだと不快になったのを思い出すが、ぼくがしたことも多分これに基づいてのことだった。友人の立派なカメラで撮った修学旅行のときの彼女の写真をぼくは部屋に飾っていた。自分の机の前に。それはテレビや映画に出るひと以外では、はじめての生身の女性だった。ある日、彼女がぼくの小学生のときの写真をもっていて心底おどろいた。いったい、どこで入手したのだろう。ぼくは誰かに好かれるということの恐ろしさと薄気味悪さを同時に感じる。その程度の愛情でしかぼくはなかったのであろう。

 ぼくは準備のことを考えている。いきなり、全速力で走ることなどできはしない。だが、練習をいくら積んでも試合の恍惚感と緊張と焦りと失敗に勝るものはない。

 その女性たちといまの彼女との差は、いったいなんだったのだろう? ぼくのこころに残るべきどんな秘薬がもたらされていたのだろう。ぼくには分からない。そして、これがぼくのスタートだと認定している。

 さらにさかのぼる。数年前の夏休みに、ぼくは友人と女性二人とで夏祭りに行く。そこでつかず離れずの距離でただ歩いた。言葉も大して交わしていない。何が楽しいのかもわからず、楽しくなるきっかけもなかった。あまりにも純情な時代の話だ。だが、そのひとつひとつの記憶も、なにかの予兆のように後日の核心に迫る前の震えのようなものなのだろう。

 ぼくは確かにその少女のことも好きになったはずだ。最初のきっかけは友人が好きであるとしつこく言っていたため、ぼくも彼の目を通して彼女を視るようになった。すると、その可愛さは確かに理解できた。彼女の家の前まで友人と連れ立って行く。照れた彼女は部屋にかくれる。ぼくは次第に彼の視線が自分に乗り移っていくことを知る。そのうちに彼女もぼくを意識するようになったのかもしれない。可愛い少女は大人になりはじめる。にきびというものができる。勲章として。可愛い少女がきれいな女性になるのは難しいことだと思う。段々とぼくのこころは離れていく。自分のそうした内面の醜さを歴史の彼方に置き忘れるように仕向ける。

 中学のときから私立の学校に通った少女もいる。高校生になって地元でバイトをはじめる。数年間経てふたたびあらわれるというのは、こちらに準備がない分、新鮮なものだ。その少女のことも友人がいつもほめていた。ぼくもそのような目をもつ。単純で、説得されやすい、納得しやすい生き物だ。だが、いまの彼女には誰もならなかった。なぜ、なれないのだろう? 同じような愛らしさをもち、みな同じ年齢で、ずば抜けて異なったところもない。彼女たちでもよかったのだ。しかし、同じような才能をもったひとがみなサッカーのレギュラーを勝ち取る訳ではないのだ。一瞬だけ輝き、名前も思い出せなくなってしまうひとたちが多くいる。チームメートに恵まれたのか。監督の指導と自分の能力が都合よく一致したのか。タイミングがもっとも合致したのか。ぼくには分からない。

 同じ年齢でこれほどの女性がいる。ひとつ年下。ふたつ年齢がはなれている。もしくはひとつ年上。

 ある下級生はぼくが校庭で練習で走っていると上階から声援をおくる。その表明は秘密から出てしまうのをおそれないことであり、あとで考えると、ほんとうの愛というのは、そのような表面的に起こることだけではなく、裏で誰も知らない場所で進行していることを教えられる。え、あのふたり、そうだったんだ? と、マヌケ面をして自分の工作員としての能力の不足を嘆く。それでも、見栄っ張りである自分は、放課後の窓越しに声援をおくってもらったほうがどれほどしびれるのか知っている。観客もいないグラウンドでゴールを決めたときのむなしさ。ひとに見られないのはウォーミング・アップのときだけで充分なのだ。

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11年目の縦軸 38歳-23

2014年03月29日 | 11年目の縦軸
38歳-23

 友人というものを正直にいえば、それほど必要なくなってしまった。もちろん、携帯電話にはいくつもの数字が登録されているが、その番号につながる簡単な努力を怠った。今更、なにを話せばよいのだという間柄もいた。いくつかは機種の変更時に消え、多くはそのまま引き継がれていった。

 家族の集合した写真が正月にポストに届いた。ひとは友人より家族というものとの時間を多くつくるようになる。ぼくは一度も友人たちにそうした写真を送ったことはない。ただ不可能ということが唯一の理由だ。その年に一度の近況の交換が、学生時代の友人との交際の成れの果てだった。

 ひとは現在の生活に基づいて環境を整える。ぼくは子育ての話をそれほど親身にきくことはできないだろう。仕事でのつまずきとか、いまだに結婚前の女性との不完全な積み木遊びとかを話題にしている。子どもに話してきかせるおとぎ話のストックもひとつもない。

「もし、わたしが妊娠したら、どうする?」と絵美が訊いた。ぼくらはそういう関係にあり、だから、起こり得るべき質問でもあった。
「年老いたお父さんと、きれいなお母さんの誕生だよ」

 ぼくらは付随するもので関係も呼び名も変わる。ブランドのバッグをもった女性。ハイヒールを履くひと。ベビーカーを押す若い男性。
「でも、わたし、中絶するかもね」
 ぼくのこころは不思議と折れそうになる。そう若くもない女性の選択肢にまだそのような考えと選択があることに驚いていた。
「本気で?」

 彼女は黙っていた。その沈黙は高くなった積み木を蹴っ飛ばすことに似ていた。だが、思い直してぼくらは直ぐにその選択に通じる関係をもった。しかし、どこかでこの女性の脳には残酷な部分があるのだという疑いが生じてしまって没頭を勝手にいさめた。自己中心的と言うのかもしれない。ぼくには覚悟という表現では大げさかもしれないが近い気持ちがあった。だが、反対に考えてみれば、彼女はぼくとの生活に魅力をもっていないのかもしれないし、その能力に身を任すことをためらっているのかもしれない。ただ、ひとことを拡大解釈したのかもしれない。ふと口にするひとことというのは重要であった。ぼくらを喜ばせ、落ち込ませるのも準備もせずに吐いたひとことの積み重ねだった。

 準備して、絵美はそのひとことを言ったのかもしれない。ぼくは彼女の白い背中を見る。腹も他の命を入れる余裕も考えられないぐらいに平らだ。ぼくらは現実に遠い架空の質問を交わし、架空の答えを提出した。その架空の答えは決して現実にならないということもなかった。ぼくは父親になっている友人たちの姿をなぜだか思い出していた。

 ぼくらは裸に近い状態で横たわっていた。親しさというのをこういう具合にしかできない関係にぼくは悲哀を感じる。いっしょに駄菓子屋に行き、ドッジ・ボールをぶつけ合う方がより正しい気がしていた。

 いやがる少女のスカートをめくり、結局、最後がこれだった。同意のもとに行い、もし、腹が膨らめば互いの考えは一致しないこともあり得る。ぼくはずっと歩道でタクシーを待ち、あっという間に数メートル先で手をあげたひとに乗り込まれる様子を思い描いた。幸福は呆然として奪い去られる。もとはといえば彼女の身体を男性であるぼくは一時的に借りているに過ぎないのだろうか。答えはこのまどろんだ昼にはなかった。

 これらのさまざまな葛藤を乗り越えた姿である年賀状の写真は貴いものであった。ぼくの友人は大人になり、同じ年月を費やしたいまのまどろむ自分は成熟さを拒否もしていないはずなのに、受け入れられなかったという認識でいた。さらに、まだ絵美は拒む機会を見つけようとしている。

 仕事をして、浪費もしない、いまは浮気もしないだろう、この絵美に欠点を見つけることはできなかった。だが、ただのひとことでぼくは動揺していた。ぼくの三十八年の記憶の数々は、誰かが産んだからだった。なかったものにすることはできない。もう手遅れだ。今後も、ノーベル賞も取れないだろう。陸上競技で記録をのこして国旗を背に巻き声援に応えることもしない。しかし、そこそこに価値はあった。その価値を生んだ小さな歴史がきれいさっぱりなくなれば、やはり自分には煮えくり返りはしないが、多少の未練があるだろう。

 ぼくは問い質さない。自分のあたまのなかで煩悶している。役柄を変えていくぼくら。ぼくは膨らんだと仮定して絵美の腹部を撫でた。その肌はうっすらと汗をかいていた。汗腺というものはどこにも見当たらない。いままで気付かなかったが足に縫ったあとがあった。その原因をぼくは絵美が目を覚ましたら訊ねようと思う。理解するには言葉をたくさん要す。思いやりに基づいた質問と気長な気持ち。だが、ぼんやりと優雅にじっと待つのを強いた場合、見返りとして、ぼくの未来の持ち分は徐々に減っていくことになる。仮に希美がたくさんの、いや、いくつかのことをあのとき承諾していたら、ぼくはここにいなかった。どこかの遠くのポストに希美に似た子どもの写真がぼくの名前で送られていたはずだ。それを見て、幼かった日々のぼくの姿を友人たちは時間をこえて思い出せるのかもしれない。これもまた架空のなかでの出来事だった。
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11年目の縦軸 27歳-23

2014年03月28日 | 11年目の縦軸
27歳-23

 ぼくは引っ越し、大した距離はないが、段々と地元の友人と疎遠になっていく。理由はそればかりでもない。結婚をした友人もいて、直ぐに急ハンドルを切るようにいままでの関係は変更しないが、置かれた状況によって考え方も生活の仕方も変わっていった。上流の川のどこかに石が置かれたことによって、下流にもいくぶん影響がでて、澱みができたり土手の一部は崩れる。

 その後、ぼくはパソコンを一台買い、夜の時間を仲間と酒を飲むことを優先する代わりに、その機械の習熟に充てた。それで飯の種になったのだから、選択としては間違いではなかった。そもそも、そういうチマチマとした事務仕事をぼくらの地元はあまり買わない体質のところだった。後ろめたくもないが、大手を振って歩けるところでもない。

 ぼくは仕事を変えた。よくよく考えれば威張ったことでもないが、新しい職場も、新しい仕事内容も、それに付随するもろもろの環境の変化も恐れていなかった。結果として希美に会った。その仕事の担当する相手の会社の一員として。ぼくらは学校で友人を作り、趣味で知り合う仲というのもあるだろうが、主に関係性が生まれるのは仕事で出会うというグループに自然とシフトしていった。

 どこかに「繕う」ということがその立場によって生じた。誰も、怠け者でありたい、というスタンスは仕事の範囲にはもちこまないし、周囲から異なった自分の趣味の部分もあまり大っぴらに明らかにしない。学生時代にふざけあった仲はもう二度ともどってこないが、その貴重な時代をあまり大切にもせず、概ね「過去」というレッテルを貼り、こころのなかのガレージのような場所に無造作に放り込んでいた。

 ぼくは希美のそうした時代の写真を見ていた。知人という数にきちんと制限があって、彼らの性格のすみずみまで把握していたとき。儀礼過ぎるあいさつもいらず、直ぐに本題に入れていた時期。彼女らの笑顔は誰かに見せようという気持ちがいささかも感じられなかった。人生で、そのことはほんの数年しかないような気もしていた。

「いまでも親しいの?」
「うん? あ、田舎に帰ればね。でも、この子、いちばん純情だったのに、もう、子どもがいたんだ」
「純情って、ひさしぶりにきいた」
「じゃあ、なんていうの?」
「さあ。反対は、すれっからし」

 それから、ぼくらは若者に通じない言葉というのを交互に言い合った。希美は、最後に「こめつきばった」と言ってふたりで笑って終わりになった。

 また写真に視線を戻すと、希美はひとりの友人を指さし、方言で彼女の特徴を言った。ぼくはニュアンスとして誉めたのか、けなしたのか、ぴったりとした表現なのか理解できなかった。ぼくも同じ言葉の機微が通じる文化圏に暮らしていたら、その音にすっかり馴染むのになとちょっと困ったような切ない気持ちになった。

「なにか、そういう言い方ってある? 独自の」
「ないよ。まったくもってつまらない言葉。ニュースと同じ」

 共通のものとして認識し規定するのは、外縁を捨てることに似ていた。パンの耳のようなもの。もし、そこがなければ焼くという行程もなかったことになる。できあがりの白い部分だけを賞味する。こねたり、発酵させたりという大事な時間を忘れ、漂白されたものだけで理解する。ぼくは大人が職場だけで人柄や性格を認識されることを同じように感じはじめていた。ここに写っている希美も、きちんとした大人への過程があった。きちんと笑い、みなで叱られた。共同体という理不尽な方法で怒られても我慢する。悔しさを友人にぶつける。その大まかなあらすじに似たものを数十枚の写真が教えてくれた。

「好きになった子の写真ないの?」希美は自分のアルバムを閉じながら言った。
「希美のもないじゃん」
「別に保管している」そう言って笑った。「ねえ、ないの?」
「ないよ。全部、燃やしたから」

「なんで? 思い出すのも辛かった。それとも、厭な子だったの?」自分がそうされる運命にあることを未然に嘆くような顔だった。
「さあ。もってても仕様がないし」
「あっても困らないけど。ねえ、じゃあ、顔も思い出さない? 思い出したくない?」
「ここ数年は考えたこともない」
「じゃあ、いることはいるんだよね?」
「うん。あんなに純情な男の子だったのに」

 ふたりで笑った。笑ってこの場をごまかせるという気持ちが働いていた。ぼくはなぜ燃やしてしまったのだろう。引っ越しで、自分の生活をそのまま引き継いだ荷物もたくさんある。場所を変えても咲く花々のように、移動をものともしない生命たち。だが、写真がないことぐらいは、ほんの小さなことだった。なにも失われていないし、奪われてもいない。ほんとうの意味では燃やされてもいないし、灰になってもいない。この場にないというだけで、ぼくのクローゼットの奥にしまわれていないということだけですべてが消えたわけではないのだ。だが、現物があればもっと簡単にあの当時にもどれる。いや、彼女の姿は変わらなくても、ぼくの外見は十一年分だけ余分に暮らしてきたのだ。何かを覚え、何かを捨ててきた。だが、今日のこの気分も悪くなかった。希美の顔からは想像し難い方言をきき、ぼくのこころは和んでいた。
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11年目の縦軸 16歳-23

2014年03月26日 | 11年目の縦軸
16歳-23

 五、六年間つるんだ友人がいる。他にも長さの前後はあるが、複数名、地元にいた。とくに目指したわけでもないが遊んでいるうちにある一定の関係が構築され、そこで止まり、段階を追って、さらに深まることもこれ以上になかった。沸点を変えられないように、友人にも限界があるのだ。以前は、ぼくらは体育館で跳び箱を飛びあうような仲だったが、次第に同じ部活動をして、タバコを吸い、酒を飲むような間柄に成長させる。

 法律というものを視野に入れるならば、少しフライングしている。正当化する気もないが、アメリカの中西部で親の農作業を手伝う若者がトラックを運転したり、軽い飛行機で農薬を散布することはある年齢に達していないというだけで極悪人として処罰されるだろうか。もちろん、ぼくは問題をすり替えている。

 同性同士の年月が親しさを伴っていたとしても絶対に離れられないという境地になど行かないことを説明するためにあえて話題にしている。ぼくと女性との関係性の期間は比較すれば圧倒的に短い。だが、そこには深みもあった。ふたりでそこで溺れてしまうことも望んでいた。

 友人たちと酒を飲む。あまりに小遣いが足りないときは、友人の親が通う店にあとから行って同席した。自分の親とそういう関係を作れなかった自分は、友人の父のいつもよりほぐれた表情を目にした。誰もぼくらの未成熟さをとがめない環境だった。しかし、酔って大騒ぎするという若者の特権は、礼儀上、許されてもいなかった。

 友人たちと数人でぼくらは酒を飲んだ。週末の夜にぼくの彼女も連れて行く。グループになることによって同性との関係も、それぞれの役割もいびつになることはない。ぼくは、どこにいても自分を取り繕うことや美化することをしないだろうと自分の行動倫理を信じていた。女性たちが酔いだすと、友人のひとりは保護者的な雰囲気を見せた。彼には同席する女性はいない。帰途、それほど寒くない道を歩きながら、ぼくの彼女は彼の上着を羽織っていた。ぼくも彼女も拒みもせず、そのままの格好でぼくらは歩いていた。

 もう夜中に近いころだと思うが、別の友人の家に寄る予定もあった。ぼくら男性三人は少し酔ったにぎやかさで彼の家に向かう。徒歩で二十分ぐらいはあった。そこは彼の家の仕事場として借りているらしい一軒家で、夜には家族は誰もいなかった。食事や入浴はそのそばの本当の家で済ましていたと思うが、休日や夜は彼の個人の部屋として機能していた。ぼくはそこで野球のデー・ゲームを見て、オールスターの選手の打撃の真似をした。

 ブルース・スプリングスティーンのあのアルバムも聴いた。CDは発売されたばかりのころだと思うが、そこにあったのはLPだった。そのロック・スターは自分の信条とは別のところでスターになっていた。祭り上げられたというほうが正しいのかもしれない。それは商品になることであり、製品として流通させることも意味合いとしてあった。虚構というものを散りばめないと、製品も流通も完成しない。これを手にしたあなたの昨日より幸せな生活。

 彼はぼくらのくだけた様子に戸惑っていた。ぼくは彼女と過ごしたことで浮つき、また酔いの加減で上の空になっていた。接点を一致させるにはぼくらのテンションはかけはなれていた。ぼくらは音楽を聴きながら、いつの間にか眠ってしまう。そこは大音量で音楽を聴いても、まわりに音がもれる心配もなかった。しかし、若さの強力な睡魔は簡単に耳の自然の用を果たせないまま勝ってしまう。

 翌朝、栄養バランスや何品目の食材など念頭にないぼくらは大きなやかんで大量のお湯を沸かしてカップ麺を頬張った。休日にもガソリン・スタンドでのバイトがある友人はひとりで帰った。ぼくらは釣竿を探し、近くの川でリールの糸を遠くまで投げた。

 泳ぐこともできない、足を浸からすことも敬遠するような水のなかで生きる鯉がいる。間もなく友人の竿はしなり、リールを巻き上げると鯉の口のはしに針がささっていた。いったん地上にあげられた魚は、針を抜き取られると、またもとの汚れた川に戻された。ぼくらはこの汚い川が流れるところが自虐的ではなく似合っていた。そこでたくましく生きる魚もいた。もちろん、ぼくの可愛らしい女性もこの町にいた。直ぐ声をきくことはできない。きちんと電線を通じないと、ぼくらの音声は交わされないのだ。

 ぼくはひさびさに家に帰る。手は生臭い匂いがした。鯉を導く餌。もう触ることも減っていくだろう。ぼくらは夢中になる対象を刻々と変化させていく。

 自分の部屋で、ぼくは一瞬たりとも友人たちのことを考えない。嫌いなわけではないが、まぶたの裏にいるのは彼女だけである。だが、ぼくらは約束をしていっしょに釣りなどしないだろう。夜通し、ばか騒ぎもしないだろう。野球選手のバッテイングの姿を真似し合うこともしない。しかし、愛おしさはそれらとは別の次元にあった。深まることもできるし、関係が一遍に切れてしまうことも起こり得た。親しい友人というのは、そう考えれば宝であった。それより勝る宝もここにあった。鑑定士もいない。いや、ぼくがその大切さを比較し検討するのだ。同じ土俵に置くのは、あるいは間違っているのかもしれない。もっと長い時間をかけゆっくりとコーヒー豆を濾すように、判断も結論も先延ばしにしたいと思う。即答もできず未来に決断を委ねるしか方法もなかったのだが。
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11年目の縦軸 38歳-22

2014年03月25日 | 11年目の縦軸
38歳-22

 破綻こそが美であった。美はすなわち破綻だった。

 乱れた髪。起き抜けの絵美の腫れぼったいまぶた。明滅する絵美の家の洗面所の蛍光灯。
 完全な状態など、気分をふくめて毎日をのどかではなく生きていく以上、そうやすやすと起こらなかった。

 ぼくは減点方式を採用しているわけではない。ただのありのままを受け止めることだけを自分に強要しているのだ。自分も完全ではなかった。その証拠として履けなくなったジーンズがあり、そのウエストラインを他人の目で眺めていた。あれは過去の自分であり、未来に決して訪れないことが確定したあきらめを通過した自分がいまであった。

 ぼくは使い捨ての歯ブラシを口に入れた。洗面所の前に立て掛けてある絵美の歯ブラシは買い替えの時期を逸しているようでもあった。新品ではない。かといってもうしばらくの使用に耐えられないほど摩耗してもいない。ぼくは替えの蛍光灯を頭のなかにメモし、同じ場所に絵美と、もしかしたらぼくの常用の歯ブラシの購入も検討する。

 歯ブラシでさえさまざまなことを主張した。ぼくは口をゆすぎ、毛羽だったタオルで顔をぬぐった。

 部屋に戻ると、絵美はまた寝ていた。ぼくは早い時間に用事があった。その前に服を着替え、近くの商店街を歩いた。そのなかの一店で蛍光灯と歯ブラシを二つ買い、また絵美の家に戻った。玄関を開け、テーブルのうえに袋のまま載せた。

「もう、帰るの?」
「うん、玄関のカギをしめてから、もう一度、寝た方がいいよ」
「もう、起きるよ」

 彼女は素足のままで床に降りる。ぼくは彼女のアキレス腱に貼られた絆創膏を見た。靴ずれでもしたのだろう。少しだけ痛々しかった。

 ぼくはドアを閉めると背中でカギがしまる音をきいた。またベッドにもぐりこむのか、起きてテレビでも点けるのか分からなかった。蛍光灯ぐらい取り替える時間も余裕もあったのにな、とぼくは駅のホームのベンチにすわり考えていた。これも完璧ではない自分の行動の一端なのだった。

 ぼくは大して混んでいない車内で吊り革につかまっている。絵美のくるぶしの形や、さっきの絆創膏のことを思いだそうとしていた。ぼくは遠い過去にいる希美の同じものに嫉妬を挑もうとした自分の幼稚さを恥じてひとりで笑った。ほくそ笑むという表現は、こんな窓越しの景色をみながら浮かべるのがぴったり合うような気持だった。

 ぼくはある送別会のためにプレゼントを買う役目を負っていた。絵美もいっしょに誘えばよかったなとひとりで選びながら後悔している。だが、ひとりでデパートのなかを歩きながら、近くにいない彼女を思い出している自分というのにも不快感もなく好ましく感じていた。ひとは不在というなかにも存在を見出す。まったくの不在など、一度、関係が成立した以上、起こる訳もなかった。ぼくは知らないひとを想像できないし、視覚と記憶はほぼ等しいようにも思えた。

 ぼくはシックな色合いのネクタイを探していた。自分ではしないようなもの、というのが唯一の基準だった。冒険が皆無で、誰でも、どの場でも違和感がないもの。そのことだけが頭のなかを縦横無尽に交差していた。

 すると、「お探しのものは?」という感じで若い女性店員が近づいてきた。若い女性、という言葉だけではそこにはっきりとした個性など存在しない。漠然とした総称だった。ぼくはそちらを見てもいないのに、若い女性ということだけは分かっていた。男性の本能であるのだろうか。

 ぼくは頭にあるイメージをどう説明したらいいか考えながら、そちらを見る。無地か無地に近い模様で。若い女性には個性がうまれる。そのひとりを見極めるだけの個性が。しかし、意に反して、ぼくはその個性を相似という観点をもちこみ、打ち消してしまう。

 彼女は希美に似ていた。あのときの、十一年前の当時の希美に似ていた。ぼくは希美を完全な女性の地位に置いていた。だから、似ているということ自体だけで、その座を揺るがす可能性も潜んでいたのだった。

「お客様がご自身でお付けになる……」
 当然の疑問だ。ぼくが、ここにいる。しかし、ぼくは首回りのゆるんだ普段着であり、会社員としての格好が分かりにくいのかもしれない。
「いや、送別会のために用意するプレゼントなんですが」

 彼女は不思議と残念そうな表情をした。もしかして色彩の資格なんかをもっていて、当人が目の前にいればぴったりと合う柄を選べることができたのかもしれない。あるいは、ぼくに合うものを既に選んであり、それをぼくの首筋に当てたかったのかもしれない。購入をそっと後押しする笑顔とともに。どちらも、ぼくの想像の領域で発生した仮の質問と一先ずの訂正可能な答えだった。

 目が慣れると希美に似ているというのはぼくの思い込みに過ぎないことが分かった。彼女がプレゼントしてくれた日を思い出させようと、ぼくの内部のなにかが感情を突き上げ、もしくは叩いたのだろう。過去は出口を探している。

 ぼくは冷静になり、予算ないで収めることだけを念頭に置き、その余った分で同じ色合いのハンカチを買った。ぼくはあげる相手をもう思い出さなくなるだろう。そう遠くないうちに。でも、まだまだ居続けるひともいた。ぼくにはどうやら選択する権利もないようだった。
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11年目の縦軸 27歳-22

2014年03月24日 | 11年目の縦軸
27歳-22

 誰かが、女性は愛において感情や記憶を上書きし、男性はわざわざ個別の名前を与えて分類し保存する、とその更新の仕方が異なっていると解釈していた。あるいは、ぼくの受け止め方が間違っているのかもしれない。もし、その解釈が正しければ、だから、いたってぼくは男性的なことをしていると正当化できる。ぼくは記憶の長い列を、手に負えない長い列を生み出しつづけていた。

 その反面、女性はぼく以外の別の誰かに抱かれるたびに、少しずつぼくの記憶をうすめていった。もしかしたら、一遍に抹消するのかもしれない。はじめてパソコンのデータをいじくるひとのような安易なミスに似て。その努力や過程の熱心さに一抹の後悔もなければ、保存されていない焦りと苦しみすら生じないのだ。最新版さえ不具合もなく手近にあれば。

 するとコレクターになる危険も有し、逆に魅力を知っているのも男性に分があった。

 ぼくは、避妊具の数と共に愛を並べつづけていく。だだっ広い広間や講堂の床に。

 もちろん、愛の伴わない、介在させない避妊具の無駄(ある面では有意義)な消費もあった。自分の生活や感情をすべて管理下に置けない以上、そのこともまったく同質で、ぼくだけの罪とも呼べなかった。

 前置きは別にして、ぼくは希美で列を終わらせようとしていた。突然、発券中止になった駅の切符の機械の前で呆然としながら、きっぱりと今日の移動をあきらめるように。そして、確かに終わるものとも思っていた。ほかに代替できる路線もなかったのだ。

 ぼくは以前に旅行した際の飛行機のチケットを意味もなく保管していた。そのもの自体になんの効用もない。もう一度、飛行機に搭乗することもできなかった。

 希美はぼくが思う完璧に近かった。彼女を知る前までは完璧というものに、それほど輝きも高みも付していなかった。美は戸惑いを引き起こし、さらに過ぎれば当然にしてしまう。ぼくらは馴れる生き物であり、大事にしなくなる方向に傾きやすかった。審美眼というものもぼくは有していないらしいが希美に対してだけは別だった。

 ぼくは希美の指の小さなささくれさえ許したくなかった。かといって家事を大幅に手伝うこともしない。ぼくらは一日のほとんどを別々の場所にいることを余儀なくされた。彼女にも仕事があり、コピー用紙の端で指を切ることもあるだろう。ドアのノブで突き指をして、足の小指を家具にぶつける。そのすべてを阻止する力はぼくにはない。包丁は固い野菜に刃が立たず、無理に回転させようとして、指に傷をつける。スポーツをして、大事な爪を剥がしてしまう。なぜ、ぼくはこんな無意味な状況を羅列しているのだろうか。

 損なう、というものが来る前に、圧倒的に力を見せつけてしまう前に、ぼくらはある一点のゴールを越えておくべきなのだろう。ゆっくりと、と思っていたことは徐々に加速をあげる。決断が命である。しかし、ぼくらに決断することはそれほど多くのこされていない。裏返してみれば、決断ばかりが待っていて刻々と返事を待っていた。ぼくは希美を最後にする。最後にするということを決断する。そう難しいことでも、不可解なことでもない。しごく妥当である。完璧という状態はあまりにもろく、あまりに強靭でもあった。水は顔の表面をさわやかに撫でて、また、大きな岩をも割った。

 ぼくのこころに希美という袋ができる。無限の収納を誇るであろう。その為に別の荷物を捨てる必要もない。逼迫することもない。今日の一日がまた新たに加算される。女性にはこの簡単なことができないのであろうか? いや、したくないのであろうか。するようプログラミングされていない所為なのか。ぼくは、過去の女性を思い出していた。もう、ぼくらの秘めている分量はまるっきり違うのかもしれない。不公平のなかにぼくらは生きていた。ぼくが得なのか、損なのかも特定できない。得であると宣言できるほど、ぼくは意思表示をしたかったが、彼女らから消えているならばこの思い込みも単なる屈辱に過ぎない。ぼくは、最初から損得などというこころもとない言葉を用いるべきではなかったのだろう。消えるものは消え、残るものはのこる。朝露も完璧であるならば、風にも太陽の直射日光からも逃げない山々も完璧であった。一種類と一方向から考えるぼくの狭量さだけが、不完全であった。

 希美は指に絆創膏を巻いている。彼女に密着できる幸福さがそのものにあった。ぼくはその薄い粘着質のものに嫉妬を試みる。ぼくはそのことを告げる。彼女は不思議な顔をする。ぼくはその表情を永遠に封じ込める権利もあり、能力もあった。一方、彼女はこのぼくの愛を抹消させてしまう躊躇なき決行ができるのだ。ぼくらは、やはり不公平だった。その不公平の地平線上のどこかで結び合ったのだ。それは奇跡に近く、奇跡という感覚を忘れさせてしまうほど、日常にしたかった。

 ぼくは希美の傷をかばい皿を洗った。どこにも奇跡も神妙さもない。これが、おそらくぼくの望んだことだった。彼女といっしょにいるときだけ与えてくれると信じていた魔法のような瞬間であり、ゆるぎない果実だった。
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11年目の縦軸 16歳-22

2014年03月23日 | 11年目の縦軸
16歳-22

 年上の女性に誘われ、性体験をしたものもいた。友人のうちに。年下の女性(十代中盤にも満たない)と関係をもった友人もいた。自分にも確固たる欲望がありながらも、ぼくはその気持ちから次第に遠ざかっていく。自分だけが潔癖であると必死に証明しようとしているのでもない。ある種の魚が水族館で優雅に泳いでいるのを見ても、殊更に味覚と結びつけたり、舌先にのせた感覚を思い出したりしないように、ぼくも彼女をそういう目で見ていた。あるいは見なくなっていた。

 欲望はある。実際、数年前ぼくは卑怯な方法で彼女の胸を触ったことがあった。その柔らかみを感じながらも、しなければよかったという悔いも同時にもっている。だから、延長線上にその肉体的なさらなる接触への願望も少なからずあった。健康な十六才だ。無尽蔵に石油は産出する。いずれ、そうなるのかもしれないが性急にそうする必要もなかった。なんだか、言い訳ばかりしているようだ。

 先輩の女性が友人を呼ぶ。それは過去に起こったことであり、ぼくらは内緒でという注文を受け、事後に聞いている。ぼくはそこに女性の根源的な欲を発見する。その女性には交際相手がいる。ぼくらはその男性の存在を知っている。その当時に、もしばれてしまったら後輩であるぼくの友人はどれほどの手酷い目に合うか容易に想像ができた。それを乗り越えてもふたりは結ばれる意欲があった。欲の基本として無我夢中という境地があった。しかし、それらは正反対の感情である冷静さによって段取りされたのであろう。

 ぼくはこころのなかで少しうらやましいとも思っている。このことを文章で残したがる自分の無鉄砲で浅ましい欲にも嫌悪する。もう、そっと、歴史の彼方で忘れさせてあげるべき題材なのだ。だが、ぼくは自分との表裏一体となり得た彼の存在や動向を記憶のなかから捨て切れずにいる。

 ぼくの彼女とその先輩をぼくは同列に置けるのだろうか? ぼくと友人が似通った環境で育ったならば、彼女らも等しいはずだった。同じ欲にコントロールされ、ときには支配下に置き、ときには制御不能となる。ぼくはそこに向かって何も準備していない。充分に与えられ、それ以上に奪い取るべきものもない。ぼくはずるずると楽観視していただけなのかもしれなかった。手痛い場面に遭遇するまでは多分、正解だったのだろう。誰が穏やかな波を見て津波を想像するだろうか。

 ひとつの物体をすすんで誰かに預ける。恋と欲との差などもう決してない。また分離させる必要もないのだろう。友人と女性の先輩には恋というものはなかったように思えた。そこには契約も購買もない。ただのテスト。お試し期間。サンプルとしての化粧品。ぼくにそうしたものたちを想像させた。お手軽さがあり、また失うものはひとつとしてない。そのときに本物の交際相手にばれてしまったら互いにとって災難だが、既にその効力も及ばない時期になっていた。

 しかし、彼らは当事者だった。経験したものだけが富士山の頂上の景色の感想をもてた。日の出の美しさを描写し、賛美する権利があった。その途中の道でいくら薄汚れようが、風景と達成した自身の神々しさに変わりはない。ぼくは汚れない代償として、その到達地での凛々しさを宣言できないでいた。

 ぼくらは唇だけで互いを感じる。ぼくらが別れる際にはすでに慣例となっていた。数秒だけぼくらは黙り、儀式を重んじる敬虔な信者のように外からもたらす邪念を捨てようとしている。研ぎ澄まされた愛はそれで完成されたものとなった。これ以上、ぼくらはどれだけ身を捧げれば良かったのだろう。

 ぼくもあの泥に入るべきだったのかもしれない。ひざまで浸かり、顔に泥が跳ねても、そのままにしていれば良かったのかもしれない。何がぼくを止め、なにがぼくを抑え込んだのだろう。

 友人は甘美という表情をつくらなかった。苦い経験をしたひとのように、例えば、意に反して戦場におもむくため招集されたかのように語った。だが、ぼくらはその戦地を望んでいた。相手というのはなぜだか漠然として、どちらかといえば、薄っぺらな意味ももたない女性のほうが好ましかった。その方が敵として与しやすいし、戦いやすい。倒れても、罪悪感を抱かなくてもいい。ぼくは実行者ではないために、地図だけで戦況と有利不利を判断する参謀のような態度を捨てていなかった。拘泥すればするほど、地図は立体感を当然のこと与えてくれない。地図を放り投げ、ぼくはそのなかを、銃弾を避けながらひたすら駆け抜けるしか現実にする方法はないのだろう。

 ぼくは重く考えすぎている。ふたりで楽しむこともできるのだ。砂浜でビーチ・ボールを交互にトスし合うような延長で。大きな迷路を楽しみながらすすむような当てずっぽうさで。ぼくはひとつの映像を思い出す。彼女と遊園地にいる。鏡張りの迷路があった。ぼくらは油断せずにゆっくりとすすむ。そのなかに紛れ込んだひとりの少年は泣き叫びながら出口を探し、小走りに右往左往している。またたく間に彼は四方にぶつかり、別の角度の鏡の壁にも頭や額を打ちつづける。その為、大げさに加速度的に泣き声をこだまさせる。ぼくと彼女は困惑しながらも笑ってしまう。手をちょっと全面に出すだけでよいのだ。ぼくらはゆっくりとゴールに向かう。おそらく、ぼくも彼女に対してあのときのような心持ちだったのだろう。性急ではなく、ゆっくりと。自然にゴールに向かうように。泣き叫びもせずに。
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11年目の縦軸 38歳-21

2014年03月21日 | 11年目の縦軸
38歳-21

 絵美の以前の彼氏の姉が亡くなった。そのことを告げられ、彼女は悲しんでいる。「非常な落胆」という姿の見本のような落ち込みようだった。

 ぼくはその関係性が単純に分からない。だから、友人の兄弟が亡くなってしまったことを想像する。まだ、ぼくの身近な周囲では誰もいないようだ。不幸な目にいずれも遭っていない。知る限り。

 ぼくは嫉妬したいのかもしれない。過去の絵美を縛ることなどできないが、同時に、自由にしてあげることもできない。拘束も解放も、どちらの力もぼくは有していない。その彼は姉を使うことによっていまだに絵美に影響を与えることができるのだ。そのことに驚き、ぼくは戸惑っている。ぼくは反対の意味でそれほど彼女を嘆き悲しませることができるのか想像してみる。

 絵美は男性の家に行き、そこで彼の姉とも親しくなる。女性同士だ、おしゃべりに興じあった仲なのだろう。彼女は落ち着きを取り戻すと、そのときの様子を話してくれた。一部始終という表現では大げさになるが、大体のあらましは分かりはじめた。その姉と弟は仲良しだった。彼は姉の評価や判断の価値に重きを置き、絵美は合格する。ふたりはそれぞれの好意のもとに、彼氏と、また同一である弟のためにいっしょに料理をする。料理というのはその場限りのことではなく、近くのマーケットに買い物に行き、後片付けをするということだった。ふたりは作業の間も親しく話す。我を通すというフィルターはまったくなく、共同作業という貴さを絵美は認識したそうだ。

 ふたりは連絡を取り、待ち合わせをして会話に興じる。そもそものきっかけであった彼(または弟)の悪口を言うこともなく、逆にほめることもせず、度外視して関係性を構築する。そのままふたりで彼の家まで帰る。姉は気を利かせて家の前で別れることもあったそうだが、中に入りまた三人で話し込んだりもした。

「ね、素敵な関係でしょう?」と絵美は訊いた。ハンカチは濡れ、まぶたは心細さを痛いほどにあらわしている。「そういうひと、いた?」
「いないよね、普通。めぐりあわない」

 ぼくは絵美の声を通じて、現実の出来事ではなく、おとぎばなしでも聞いているかの気持ちになる。誰かがうまくまとめた物語。三匹の兄弟たちの個性とか、豆が天まで伸びる話だとかの。

 ぼくは立ち上がって普段はあまりしないことをする。お湯を沸かして紅茶を入れる。琥珀色と立ちのぼる匂いの五感のうちの二つが協力して、ぼくに安心感を与える。ぼくはそれを絵美の前に差し出す。彼女はここにくる途中で買ったチョコレートを頬張りはじめる。泣きながら甘いものを食べる。今回は、ぼくが原因で泣いたわけでもない。ぼくは謝りもしないでいいのだ。なぐさめる必要は生じたが、もうそれも段々と回復傾向にあった。

「だから、明日の約束、延期するよ」
「もちろん」彼女は黒い服を着るのだろう。「彼にも会うんだ」
「もちろん、会うでしょうね。とっても、落ち込んでいると思う、彼も」

 同じ悲劇が結びつける関係ということもぼくの想像の余地に紛れ込んだ。ふたりは不幸に直面したからこそ、密接な関係が生まれたのだ。それも、どこかの古い物語のなかにでもありそうなフレーズだった。ぼくはただの部外者でいた。外野。野次馬。傍観者。該当する言葉はたくさん、それこそ無限にある。ぼくは不思議と希美の友人のことを思いだしていた。彼女たちが似通った風貌をもっていたからなのか、週末ごとに泊まり合って話した夜をもっていたと説明されたからなのか、亡くなった姉という外見を与えるために、最寄りの記憶をさぐったためなのか、理由はいろいろあるのだろう。あの望海と言った女性のその後の生活もぼくはまったく知らないのだ。彼女も希美がいなければぼくの生活のエリアに入ることもなかった。不思議なものだ。そして、会えないということは年を取らせることもできないのだ。ぼくは自分が得意としていたかもしれない嫉妬や憎しみや嫌悪でさえ勝手に奪われてしまう恐ろしさを感じていた。その負の感情を自由にできることがぼくという存在の証しだった。ぼくは意図せずに手放してしまう。また、さっきまで手放してしまいそうなことにも気づいていなかった。

「ごめんね、明日」

 絵美はしつこく言った。彼女は自由にできない感情のなかに生きていて、自由にできない予定のなかをさすらい、そして、組み込まれていた。代わりにぼくの休日は自由だけになった。

 翌日、ぼくはビルの上にいた。いつか、希美の友人と会った日にこの付近にいた。都心の風景はそうは変わってはいない。もっと遠くには目新しいものが作られて、なじみだったものが躊躇なく壊されているのだろう。なじみで、ぼくのそばにあったたくさんの物やひと。新しく受け入れたひとや物。どれもぼくを通過し、もっともふさわしい場所や相手にたどりつく。ぼくは昨日の紅茶のカップを思い出していた。絵美のきれいな指ににぎられた華奢な取っ手。中味は刻々と変わる。ぼくもあれと同じなのだ。コーヒーを入れ、紅茶を注ぐ。いまは絵美であり、二十数年前は別の大事な誰かだった。ぼくのカップはどれぐらいの耐久性を有しているのだろう。取っ手がグラグラになって緩んだり、縁が欠けてしまうということもあるのだろうか。だが、中味は熱い。熱々の彼女たちがいまでも沸騰しているようであった。
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11年目の縦軸 27歳-21

2014年03月20日 | 11年目の縦軸
27歳-21

「地元から友だちが遊びに来ているんだ」と希美が言った。

 詳しい関係をきくと、中学と高校の同級生で週末や長い休みには互いの家で泊まり合うような仲だった、と説明した。そして、大人になり数日だけ希美の家に泊まる。その間、いっしょに遊ぶけど、一日ぐらい付き合うかどうか訊かれた。それで、ぼくの目の前に希美の友人がいた。

 ふたりは、どことなくだがよく似ていた。もし、洋服を交換して後ろ姿の希美の友人を目にしたら、ぼくは間違って声をかける可能性もありそうだった。名前は望海といった。ふたりとも願いや願望に関連した名前でもあった。多分、両親か祖父か祖母のうちの誰かが名前を決める。生まれる前からなんとなく候補があったのか、それとも、生まれた姿を目にしてから数日間でまとまっていったのかぼくには分からない。ただ、子どもに願いをもつことは当然だった。ぼくはそのことを頭のなかで揺すりつづけていたら、名前自体が混乱してきた。結果として、希美のことを「のぞみ」と言い(ほんとうは平仮名だときみ)、彼女らふたりは同時に怪訝な顔をした。その様子もどことなく似ていた。

 ふたりは並んで買い物にでかけた。ぼくは、ひとりになって都会の町を歩く。ビルが乱立している。ぼくはひとつのビルの最上階に行って下を見た。あそこのどこかに希美も友だちもいるのだと思うと不思議な気がした。さらに、それほど小さくなればふたりの差異もごく些少なものだった。個性というものを区別するには些細なことを虫メガネのようなもので大きくする必要があった。だが、その拡大されたものを見たので好きになったわけでもない。わざわざとか、あえて、という重い腰をあげるような作業や過程はなかった。事故といえば事故といえた。アクシデントの連続。それを頑なに拒否することもないし、逃げ惑うこともない。

 遠くに山が見える。育った環境にそういう景色が含まれていたら、感受性もいくらか変わっていたであろう。そのもしかしたら得ていた自分の一部も、結局のところ、もう分からなかった。もっと速く走れたら、とか、もっとテストの点数が良かったらという部類と同じことで。

 希美は装う必要のない友人を前にして、いつもより上気していた。そのことは好ましい変化だった。ぼくのこころも少なからず動いている。希美という女性の限定された近い過去のことしかぼくは知らなかった。もちろん、学生時代やもっと幼少の時期があることぐらい理解はしている。しかし、週末に夜通し友人と話したことや、その当事者が目の前にあらわれたことによって、イメージは膨らみ立体化されていった。歴史に埋もれた遺跡ではなく、カラフルな調度品を見つけ、具体的な生活の匂いを感じてしまったように生き生きとしていた。

 ぼくにも週末の夜を過ごした友人たちがいた。彼らともし会っても、あのようににぎやかに話が尽きないということは起こりそうにもなかった。現在の設定が変わってしまい、互換性のなくなってしまった機械のように、ぼくらは疎遠であり、そのことに一々困らないようにしつけられてしまった。男性というものが、そういう風に作られているのだろうか。

 だが、過去に愛着をもっているのは、この男性であるぼくであった。

 ぼくは飽きずにガラスの向こうの景色を見下ろしていた。どちらの方面に希美の田舎があるのかが分からない。ぼくはいっしょにそこに足を踏み入れたこともない。ぼくの足の裏は、知らないところだらけだった。望海はそこに数日後にもどる。ぼくらは今後また会う機会があるかもしれず、これが最後になってしまうこともあり得た。そのどちらかを選ぶのはぼくの決定による。いや、何かの意志によるのだろう。

 ぼくは階段でゆっくりとビルのなかを下る。飲食店の階があり、電気製品の階もあった。そこで道草をくう。特別、急いですることもないのだ。世の中は新製品であふれていた。製造ラインにいくつもの部品が運ばれていく。組み立てられ、簡易なチェックを通過し、晴れて製品となる。製品は人手に渡り、宣伝がまずければ不用な在庫になる。

 価格の妥当性を考える。手に入れるための対価。

 ぼくは飽きて地上に降りる。外気はさわやかとも呼べないが、ビルのなかにいるのに比べたらすがすがしいものだった。喉の渇きをおぼえる。ぼくはもっと乱雑な小道に入り、ビールを頼んだ。

 新製品とはいえない年代の古い型のテレビが壁の角で映像を流していた。どこかの遠い国の丘陵地でグライダーに乗っているひとの姿があった。地面の緑はあまりにも鮮明な緑で、グレー一色のアスファルトになれた都会の目には異質なものに映る。しかし、その異質に抵抗するより憧憬が勝る。ぼくはあのように空を飛ぶこともないだろう。牧羊をしたり、酪農をすることもない。制限を加えなくても、勝手にするべきことの枠は作られていく。そのことに不満もない。窮屈さも感じない。ただ、この休日のビールだけがあればいいとも思っていた。過去のことで、いくらでも話が尽きない友人がいる。過去だけで終わりもしない。現在にも未来にもその一部は運ばれていく。新製品に買い替えるまでは、その思い出も古びていったことも教えられないのだろう。
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11年目の縦軸 16歳-21

2014年03月19日 | 11年目の縦軸
16歳-21

 ぼくの専心と、ぼくの憧れはこころのなかで並列上にある。共存している。だから、憧れについて話す。

 同級生の女性の姉として彼女は登場する。ぼくは素敵だなと思いながらも、恋する対等の立場にいないため浮気にあたらないと認識している。それはデザインの優れたバイクに対する憧憬に似たものであり、華麗な技能を披露するスポーツ選手に向ける熱い視線と同じものだった。ぼくらは間近で同じ空気を吸いながらも、見えないカーテンが間をふさいでいた。

 ぼくらは友人たちと缶コーヒーを飲みながら、その姉と話す。ぼくらは自分ひとりのものにならないことを痛いほどに知っている。そして、それほど切羽詰まった感情も抱けなかった。ぼくらには資格もなく、権利もない。それに値するのは数才だけ年上の先輩たちの身にあった。ぼくには兄という防波堤があるため、自分の好みとは別に年上の女性たちを恋する相手と想像することができない。彼女たちは兄の世代の領分であり、海里を越えた場所に漁にいけないのと同じことだった。密輸や密猟、密貿易。そのグループ内に女性たちもいた。

 しかし、ぼくはひとりの相手で充分だった。正直にいって恵まれすぎていた。ぼくは彼女と話すときに同じような気楽さを有していたのだろか? 年上の気さくな女性に接するときみたいに。

 緊張して腹が痛くなるようなことはない。好かれたいという気持ちが前面に立って、素振りが自然さを奪われギクシャクするようなこともない。彼女も同じ程度にリラックスしているのだろうか。

 友人たちの幅が大々的に変わるような年頃ではない。ぼくは彼らとともに成長し、同じ段階を踏んでいった。スポーツというものにあきらめをつけ、優秀な学問の履歴を重ねることももうできない。親の影響下にいることは既に終わりに近づき、かといって自活するにはまだ早過ぎた。ぼくはなるべき自分を見つけるのにも早く、探すことすらしていなかった。経済の動向に一喜一憂するのにも未経験だった。飢えや貧困はもうこの国から撲滅したように思える。みな、それぞれの仕事があり、それぞれの銀行の口座があった。

 ぼくはバイト代を手にする。月々の支払に追われるようなこともない。携帯電話が若者にも、普通の大人にも流通していなかった。ぼくは彼女の喜びそうなものを考える。ぼくは彼女の似合いそうな洋服を思い浮かべる。だが、具体的なサイズなど一切しらない。見当があるだけだ。見当というのはなんとあやふやな言葉であり、指摘だろう。似合う色。似合うデザイン。ぼくは、彼女をそれほど客観視しても良いのだろうか。いつか、同一なものになるはずなのに。

 同級生の姉の長い脚。小さなお尻。細いズボンが身を覆っている。

 その姉はあるとき、男性のYシャツのことをブラウスと言い間違えた。ぼくの彼女も同じことを言った。ぼくはからかう。男性はブラウスなど着ないのだ。だが、その間違いこそ彼女たちの可愛さの源だった。

 間違いというのは、特に認識の欠如という大げさなことではない。ただ、自分が日常的に使用しているものに置き換えただけのことなのだ。男女によって呼び名が変わる。立場によっても呼び名が変わる。ぼくは同級生の姉を決して名前で呼ばない。それほどの気安さはぼくらにはない。誰かの姉という立場は決してくずされない。幼い子どものパパやママと同じような互いのスタンスや役割としての土台によって。

 ぼくらは親しみによって呼び名を変える。あだ名というものがあって、名前の簡略化もある。そんなに親しくないと苗字で呼び、その苗字が親しさを増したとはいえ恒久化することもある。ほかに思い当るあだ名も見つからない場合は。

 あだ名になりやすい名前もある。下の名前で呼びかけられやすいひともいる。他人はその呼び名で関係性の度合いや深さを想像する。ほとんどのケースは間違っていないが、もちろん、まったく間違えないということも世の中にはない。

 ぼくは幼いときからの呼ばれ方があった。名前を短くしたもの。ぼくはその響きが気に入っていた。家族もつかう。ある日、彼女は手紙で、わたしも親しみをこめて早くそれを使いたいと書いていた。だから、当時はまだ呼ばれていない。でも、目の前にいるひとには、特別、名前を使わなくても、ねえ、というような簡単な指示の言葉で用は済んだ。ぼくも彼女を名前でもあだ名でも呼んでいなかったように思う。

 いつか変わるかもしれない。変える必要も、もしかしたらないのかもしれない。みな、どうしているのだろう? ぼくは友人たちに訊いてもいなかった。ただ、適当な誰かが目の前にいた場合に様子をうかがった。

 親しくなるべきタイプのふたりもいた。どうして、このふたりはいっしょにいて違和感を与えるのだろうという疑問が起こることもあった。当人たちの関係に影響はないだろうが、その不自然さが際立つことも確かにあった。

 ぼくと彼女はどうなのだろう? 歩く。ぼくの手は彼女の手をにぎる。にぎりやすい場所にある。ぼくは腕を組んでもらう。それはぴったりと感じられるものだった。ここでも、やはり名前という互いの存在を明確に区別する名称は必要ないのかもしれない。ぼくらは自分たちのことを話しているのであり、他人を話題にするときにだけ、ある名称を持ち出せばよかったのだ。それ以外は、ふたりだけが息をする世界だったのだ。一方的な断定によれば。
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11年目の縦軸 38歳-20

2014年03月18日 | 11年目の縦軸
38歳-20

 ぼくが固い椅子にすわって絵美を待っていると、後ろから抱きつくひとがいた。絵美であることは直ぐに分かったのだが、当然ぼくは驚いた。迷惑に近い声も出す。
「なんだ、びっくりした」そう言っても彼女は離さない。「どうしたんだよ、恥ずかしいよ」
「なんで?」彼女は挑みかかるような目をする。「これが、恥ずかしいの? わたしとだから、恥ずかしいの」

 たまにわざとトラブルを作ろうとすることが絵美にはあった。こうなると引っ込みがつかなくなる。ぼくは黙って後ろから抱きつかれたままになる。通りすがりのあるひとは、ぼくが病気で彼女が必死で看病しているのだと誤解するひともいた。近づいて声をかけようとして止めた。きつねにつままれるという模範のような表情を残し、忙しい帰路の最中にわざわざ気にかけた自分に照れたかのようにして去った。
「ほろ、変に思うひともいるから」
「もう、離してあげる」と言って絵美は身体を動かした。

 ぼくは立ち上がり、絵美の顔を見る。どことなくまだ不機嫌であった。ぼくらはもう人目をひくことはなく民衆の一員になった。

 彼女は昨日、歯医者に行った。予定を変更して、会うのは今日になった。

「忘れてた、歯医者に行くんだった」と急に用事を思い出し、ぼくはすることがなくなった。友人に電話をするもみなそれぞれの用があった。子どものときに計画も何もなく突然、家の前まで行って遊びに誘った瞬間がなつかしかった。ぼくらはたくさんの予定に囲まれ、日々、忙殺されていった。誰かの歓迎会や送別会がある時期になると開かれ、有無をいわさず参加することが要求される。ぼくの友人たちの結婚のピークは去り、休日にそうした予定はほぼなくなった。代わりに誰かがいなくなった。ぼくらを覚えているひとがひとり減れば、ぼく自身の何かもその分、比例して減った。確証はないけれども、漠然と思い当った。複数の視線の先の焦点に証拠やアリバイがあるはずなのだから。

 絵美は笑う。とくに口元に変化がある訳でもない。六十億ぐらいの人々は顔で一先ず識別される。同じ顔はない。たまに酷似しているひともいるが、一遍に会うことはほとんどない。ぼくはこの絵美の口だけを見て、彼女だと判断できるのだろうかと思う。答えは、不可能に近い。医者は口を開けてなかを見ると、患者の区別がつくのか想像する。さらにそれを絵美にも言った。

「カルテに記入するぐらいだから、覚えていないんじゃないの。ね、いま、わたしの口だけじゃ、分からないと言ったの?」
「分かんないよ。耳でも、目でも」
「じゃあ、なにで分かるの?」
「その組み合わせで」
「福笑いと同じだね」
「同じだよ」

 彼女は笑った。意図的な不機嫌はちょっとずつ消えはじめているようだった。ぼくらの脳は数か月後の顔の変化を想像でき、目の前にしても対応できる。「ちょっと老けたね」とか「元気がなさそうだな」とかの細かい変化にも。反対に大幅の変化でまったく分からないこともある。もっと大元ではそのひとの記憶がすっぽりと抜け落ちていることもたまにだがあった。相手は不審がる。とくにその思いが一方通行だった場合には。ぼくが内に眠らせている女性たちがぼくのことをきれいさっぱり忘れ去ってしまっていたら、やっぱり、確かにがっかりするだろう。だが、もうそれを確かめる機会さえないのだ。

「メガネのあるなしとか、ぼくの髪の毛が急になくなってしまったら、絵美だって、もうぼくに気付かないよ」
「分かるよ。犬だって飼い主のことが分かるぐらいだから」
「嗅覚が数倍もいいよ。優秀なんだよ」
「わたしも匂いの一部を嗅げば、見つけられるよ。麻薬犬みたいに」
「どこにも逃げないし、隠し事もないから、探さなくてもいいけどね」

 昨日、ぼくは結局、あれからひとりで本屋に寄り、ビールを飲んで軽食をつまんだ。ビルの裏にあるリニューアルされた映画館の看板を見て、上映時間を確認してひとつに入った。毛足の長い絨毯はいくらか居心地の悪い気持ちを起こさせた。ぼくがもし誰かを愛するという能力を有していなかったら、映画を見て感動することもないのだろうなと想像する。誰かを愛し、永続しなかったからこそ、失恋に悩む主人公のことが理解できた。客席からきこえる女性がしくしくと泣く音が段々と大きくなっていった。クレッシェンド。ぼくは孤独を感じる。その涙は受け止められる対象があるので、ここで発生したのだ。横にいる誰かが。ぼくは受け止めるべき誰かもいなく、受け止めさせることもできない。しかし、その孤独を大切なものなのだと仮定する。

 ぼくは明るくなった館内に目がなれるまでそこに座っていた。映画は本日の最終回で悲しげな閉館を告げるメロディーがこだまする。その音は共通認識である。高校野球の開始のサイレンと同じように。

 ぼくらの人生の重要な事態のはじめも終わりも、このように解説が不要なぐらいに無意味な音で教えてほしかった。だが、いくら教えてもらったからといって何がどう変わる訳でもない。

 ぼくは目の前にいる絵美が昨夜の映画を見たとしたら、泣いたであろうか考える。涙のスイッチや怒りに直結するスイッチも多少、ひとによって異なっている。絶対に同じものなど、ひとが関わることには起こり得ない。でも、どこかで似てもいる。だから、ぼくらは映画で泣くこともできるのだし、ぼくは同じ過ちを繰り返しながらも、懲りずに恋をしている。ぼくがきっかけであるのか、この絵美の登場が引き金であるのかさえ本当は分からない。また頭だけで分かるようなことでもなかった。
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11年目の縦軸 27歳-20

2014年03月15日 | 11年目の縦軸
27歳-20

「ね、ここで、強く、抱きしめて」と希美はひとことずつ区切るようにして言った。場所は観覧車のなかだ。晴れの一日をもたらした太陽はもう沈みかけている。

 その円を時計で例えるならば、ぼくらは十五分あたりにいた。これも時計と合わせるならば反対周りで頂上に行き、針の三十分付近で地上に降りる。針は長短の二つはなく、ひとつだけ。ぼくは五十五分あたりまでその要求通りにしていた。

 希美の肩越しに視線を外に向けると、飛行機が空中にあった。ぼくらと同じ高さぐらいに高速でただよっている。それは象徴的にひとつの命のようだった。シンボリックな唯一の生命体。だが、そのなかに数百の異なった命を内在させている。ぼくが今後も会いもしない、好きにもならないひとたちの集合体。ぼくはひとりか、多くてもふたりしか好きになることができないだろう。きっと。ぼくらは下りはじめた箱のなかでゆっくりと離れ、また固い椅子に向き合ってすわった。

 ぼくは過去のある日、先ほどのようにしっかりと女性を抱いた記憶を有していた。ぼくは絶対に手放さないと思っていた。その身体に比べて希美は細かった。痩せているという言葉とはどことなく違う。しなやかな強みみたいなものが確かにあって、身体全体をみなぎっていた。ぼくは包みながら、その溢れるパワーを感じていた。

「飛行機、小さくなった、ほら」ぼくがそうもらすと、希美は振り返って外を見た。
「あ、ほんとだ、飛んでるね」

 あれは、どこに向かっているのだろう。ぼくらはゆっくりと下に向かい、太い支柱によって視界をさえぎられる。ぼくらは軌道に則り一周した。その間に抱き合い、離れた。彼女はその意図を口にしなかった。ぼくもあえて訊かなかった。きちんとした答えなど実際にはないのだろう。なぜ、ぼくはこの和やかな場面でさえ、答えなどという硬質な言葉を無理に組み入れるのだろう。答えを得て、あたたかさを失いかねない状況だってあるのだ。

 ぼくらは降りて首を頭上に向け、観覧車のてっぺんを見た。ぼくらはわずか数分前にそこにいたなどともう信じられなくなっていた。抱きしめた身体ももう遠く感じられる。だが、それは希美の身体の感触ではない。もっとずっと遠くの記憶とぬくもりだ。ある町角での。

「高いとこ、平気なんだね?」と、希美が訊く。
「怖いひともいるんだよね、こういう場所」ぼくはその事実をすっかりと忘れていた。苦手なものがそれぞれある。ぼくの口はもう甘いものなど要求しない。出されたら食べられないこともないが、自分からすすんでという態度ではない。能動的ではなく、受容できるというぐらいだ。「パイロットなんか楽しいだろうね」ぼくはさっきの飛行機の残影を思い出している。
「もうすべてが機械に操縦を任せて、ひとは何もしないっていうよ。乗組員は」
「そうらしいね」

 だが、ぼくらは他にどれほどコントロール下に物事を置けるのだろうか。ぼくが希美を好きにならなかったということは不可能であった。もう目の前にしたときから、ぼくのなかの仕組みが勝手にスイッチを始動させていた。何もままならない。何も譲れない。

 暗くなりかけた空を次の飛行機が飛んでいく。次というのは正しく考えれば間違っており、他に妥当な呼び方もないので次で良かった。反対側に飛び去った飛行機などカウントできない。地上から両側に、四方に離れたいくつもの命。彼らは誰かと別れ、間もなく誰かと再会する。そのスビードは飛行機の能力によって早まっていく。さらにいえばいくら速度が増しても再会できないひととはずっと疎遠のままだ。迎えもなく、放浪者がひとり増えるだけだ。

 すると抱いてとねだった希美の真意は、この淋しい世の中でストレンジャーになることを恐れていたからなのだろうか。ぼくの胸のなかに潜むことによって外界から守られている。しかし、正直にいえば、ぼくのもっと胸の奥には、つまりは最深層部には別のものが眠っており、ぼくはそのものをずっと守っているのかもしれない。頼まれもしないのに。孵らない雛を。

「また飛行機に乗って、どっか旅行したいね」
「そうだね、計画立ててよ」
「簡単に休めるの?」
「休めない。いや、なんとかするよ」

 また飛行機がいる。今度は思ったより大きな音がした。轟音というものに近い。エンジンの音とも違う。夜の闇の空気を引き裂く音。ぼくの胸も正直に垂直に開けば、途端にあのような音をとどろかせるのだろうか。豪快な音。どこか違ったところに移動したいと願うが、それは距離や場所ではない。地球の裏側でもなく、オーロラが空をおおうところでもない。時間軸での話だ。タイムマシンという愚かな、ある面では愉快な解決策を思い出す。ぼくは過去のぼく自身に会う。間違いを犯さないように諭すのだ。すると、ここにいる希美は間違った選択の結果なのか。そんなことはまったくない。ぼくには成功への道しかなかった。ぼくは立ち止まって要求もされないのに希美を強く抱いた。困惑した小さな悲鳴と、第三者の目を意識しての恥ずかしさを隠す言葉をぼくの耳元でささやいた。

「ね、みんな見てるよ」

 だが、ぼくは一切、無頓着であろうと決めた。ぼくをここにとどめるのはこの細い身体だけなのだ。ぼくは細い木にしがみつき強烈な暴風雨に耐えられるか挑むように、まわりの嘲笑と喝采とがつくる風の音をきいた。
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11年目の縦軸 16歳-20

2014年03月13日 | 11年目の縦軸
16歳-20

 ぼくらの間には約束も契約もなく、だからこそ疑いも誓いも裏切りも入り込まなかった。ほんの小さなルールさえなかった。まるでエデンにいるかのように。当人たちはその輝きを与えられた恩恵ではなく当然のこととしている。

 ぼくは自分の文章の美醜への挑みのためだけに、ある人物を捏造する。設定もあやふやなままで、十一年間の異なった観点があるのみだ。理想を書き、現実を見下す。現実から受けた喜びや被害を、架空のものに移し替える。ミロのヴィーナスには腕がなくても、ある種の女性の究極の理想像だ。しかし、その白い肌に恋をすることはできない。なぜなら欠点もないからだ。ぼくらは、いくらか頼りないものを愛おしむようにできているのだろうか。

 ぼくは彼女の欠点を思いつかない。作り物との境界を歩む作者としての才能もない。わざわざ欠点を生み、恋や人物像を多角化させることもない。一点でもあればいいが、どうやってもない。だが、物語はすすみ、燃料の不足におびえながらも次の目的地である駅を目指す。ぼくらはいずれ理想郷を追われる。ぼくは彼女の料理の味も知らない。子どもの叱り方も知らない。しわひとつ見たこともない。髪に白いものが混じり、生活の重みがじわじわとのしかかってくる。その途中にも幸福があるのだ。ぼくはそれらを手に入れられなかったからこそ、永遠の少女像を築き上げることができている。

 美しさだけが永続する。頭のなかにある女性像は消えることもなく、対象の有無や、継続や事情の如何によっても影響されることはない。海の深い底で彫刻は誰かの手によって浮かぶ機会を望んでいる。ぼくは自分の手で、この女性を地上に運び上げる。たとえ、腕が水圧によってもぎれ、耐え切れずに欠如したとしても。

 完全に、隅々まで誰かを知るということは可能なのだろうか。右の側面より左側の表情の方が好きかどうかもぼくは知らない。爪の伸びる速度。長い髪にしたときの彼女の様子。それらは長期間に亘って、試行錯誤をくりかえした後にのみ、やっと、きっかけぐらいを与えられるものなのだろう。

 ぼくは進行形で得たことだけを考える。だが、ぼくのノートは早い段階で白いままで終わってしまう。そのなかの小さな点やしみですら、ぼくは拡大視し、意味付けし、蒸し返そうとしている。

 ぼくらは喫茶店にいる。国道から一本入った通りだ。ぼくらの前にはふたつのパフェがある。ぼくは会話の能力があるともないとも思っていない。ただ、姉妹というものを有していなかったせいか等身大というものから隔たっているような気もする。彼女にも男兄弟がいない。そのことで異常なぐらいに恥じることもなく、自分を可愛く見せようという態度もなかった。かといって可愛さが減る訳でもない。作為というものを嫌う自分の前に出てくるに値する愛らしさだった。定まった大きさの電池をはめこむようにぴったりの。

 ぼくは話題のストックが大量にある訳でもない。べらべらと話しつづけることもしなかった。あれぐらいで彼女に不満はなかったのだろうか。格好いい男。おもしろい男。知的な男。賢さ。金銭が前面で主張するような年代でもない。ぼくはそのすべてに該当しないようにも思える。また反対にそのパートを数パーセントずつ微量にだけ持っているようでもあった。

 可愛らしさ。明るさ。大らかさ。胸の大きさ。青年になりかけの男性の目をくらますことなど簡単なことだ。守備ももろく、盗塁され、自分の側では牽制に刺される。愛という言葉を介在させなくても、それでも日々はすすんでいった。なぜ、大人は、本来はいらないものを要求するのだろう。

 税金もはらうことなく、選挙権もない。ぼくらは駅前で演説する候補者のあつかましさからも範疇外だった。安い費用で公立の義務教育を終えた。彼女は私立の高校に通っている。ぼくは、もうその範疇にもいない。

 同じ教育を受けても、得るものも、人格としての結果も変わってくる。愛らしさも違う。その女性はスプーンで生クリームをすくう。老いも病気もぼくらの前には微塵もなく、その予兆すら皆無である。永続する疲れも、ストレスもない。ぼくらはただ会話して、笑って、楽しめばよかったのだ。それを引き留めるものも拒むものもない。

 若さの絶頂にいながらも、彼女の身長はもうこれ以上、伸びそうにない。ぼくもどうやら止まってしまったようだ。これから、ひげを頻繁に剃らなければならなくなる。その大人へのスタート地点にいることは、本当の恋の味を知る年代でもあった。その味はこのように甘いものだろうか、苦みがいくらか含まれていくのだろうか。ぼくもスプーンで白いものをすくう。甘味はぼくの体内にも味覚にもまだまだ必要であった。

 ぼくらは店を出て少し歩き、彼女の家へ向かう。家のなかの様子もぼくは知らない。いつか、そこにぼくは居場所を見つけるのだろうか。恋人の家に入ったことのある友人をぼくは思い出そうとしたが、なかなか簡単には見つからない。そもそも、ぼくは女性の家の中に入ったこともないのだ。姉妹のいない自分は、その内部の神々しさも同じように未知であった。

 ぼくは彼女の家に近い角で、最後に別れを惜しんで正面から抱きしめる。筋肉というものが感じられない柔らかな身体。弾力。この時間が数時間もつづけばと願う。しかし、帰らねばならない。夜の領分にも限りがあり、ぼくという十代の男の責任感もわずかしかなかった。夜通し連れまわすことができるほど、ぼくには意思も能力も、あるいは、ありとあらゆるすべてがなかった。
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11年目の縦軸 38歳-19

2014年03月11日 | 11年目の縦軸
38歳-19

 ぼくと絵美は金曜の仕事帰りに飲み、軽く酔っ払った状態でコンビニエンスストアに寄り、さらに飲み直そうと軽いつまみを仕入れた。袋をぶら提げ、その途中にあるレンタル屋さんに特別に見たい映画もないのだが物色のために入った。店内は思った以上に混んでいた。金曜の夜の特有の自堕落さの予兆みたいなものが店内を覆っている。

 ぼくらは狭い通路を横歩きで棚を眺めながら数本に絞ろうとしている。絵美は一遍で虫歯になりそうな甘ったるい恋愛映画を選んでいた。ぼくは、反対に乾いたものを望んでいる。未知なるもので冒険するか、もう一度見たかったのに機会を逃していたものにするか検討する。思いがけなく手に取っていたのは、タクシー・ドライバーだった。

 家のカギを開け、電気をつける。誰もいなかった部屋はかすかに自分の匂いをさせている。ぼくは薄く窓を開け、冷たい外気を入れようとした。

 絵美は服を脱ぎ、ハンガーにかけた。彼女の普段着に近いものがぼくの部屋にもあった。ぼくは靴下を洗濯機に放り込み、顔を洗った。そして、グラスと皿を出してテーブルに置いた。

 円盤はまわり、代わりに映像を流す。絵美が選んだ甘い映画。導入はカラフルな車から降りる女性の足もとのアップだった。カメラというものはときに一点を拡大し、ときに遠くに対象を置き去りにして小さくも映した。だが、はじまって二十分もしないうちに絵美は背もたれに背中をくっつけた姿でうとうとしていた。もうつづきは見られそうにもない。また明日やりなおしという判断でぼくは画面を停止させる。絵美とは別にぼくの眠りは消えてしまった。ぼくはもう一枚の円盤に変える。トレイは映画をのみこみ、異なった種類の色彩を画面に映した。

 主人公は不眠症でタクシーの運転手になる。一石二鳥だ。世の中の欺瞞に感じやすいこころは、道を運転する際に目にする人々の振る舞いによってさらに増幅させる。その反面、ひとりの女性を見かけたために、彼のこころは危うくも均衡が保たれているようだ。

 その女性は選挙事務所のオフィスの窓ガラスの向こうにいる。有能であることは遠くからでも分かる。彼はタクシーを違法駐車して運転席からその姿を見つめる。

 彼は、その女性とのきっかけをつくるため大統領候補を応援することにする。どちらの主義の側の候補者かも観客は教えられない。同国民はその素振りや口調から、どちらの政党に属するか理解することもできるのだろう。

 ぼくはその選挙事務所にいる女優を見たことがあるように思う。この映画も数回目なのだから当然だが、違う映画に出ている彼女のことを思い出そうとしていた。誰かに似ている。そう、希美に似ていると言ったことがある。

 ぼくは希美のあれ以降の姿を知らない。そして、実際よく考えればふたりの顔は似てもいなかった。若い女性だけが有しているはかない力のようなものがふたりにはあったということだ。希美の姿はもう確認できないが、女優という職業柄、この大人の女性になるために訪れた変化は画面から見つけられた。男性から言い寄られるだけではない。拒否し、主導権をにぎり、不快なものにはノーと言える権利をもつ。実際、彼女はデートの場所に不満をつのらせる。もちろん、当然の主張であった。

 主人公はこの所為ばかりでもないが歯車を狂わせていく。不満を解決するために自分で行動に出る。ぼくの眠りは完全に消えてしまった。希美を思い起こしたものも後半はまったく立ち入らない。すると、絵美の身体がもぞもぞと動く。

「あの映画、こんな展開になるの?」眠たそうな目で彼女は訊く。
「違うよ、もう一本の映画だよ。明日、また見直そう、あれは」
「そう。先に布団に入るよ」絵美は逆回転で動く映像のように寝そべったまま身体をベッドの上に移動させた。

 ぼくは最後まで見る。そして、歯をみがいた。つまみはそのままで皿の上で明日には乾いてしまうだろう。ぼくはハンガーにかかった絵美の服の袖がまくれていたので、しわをのばした。その持ち主はベッドで寝ている。下に顔を向け、様子は分からない。そのひとを表すものは後ろ姿の寝相では分からない。ぼくは電気を消して彼女の横に入った。ぼくはある女優の変化のことを暗い中で考えていた。役柄も役名も違う。それによって服装や、言葉遣いも多少、変えるのだろう。ぼくは十一年間で変わったのだろうか。この横にいるのは希美であるのだ、と誰が否定できるだろう。ところが突然、絵美は腕を伸ばし、ぼくの首の上にその腕をのせた。ぼくは息苦しく感じる。あの女優とぼくとは関係がない。ただ若い学生のころと、大統領を推すブレーンまでになる姿の変化を与えてくれたのだ。

 ぼくは窓を開けっぱなしであったことを思い出し、絵美の腕をどけて閉めに行った。絵美の服がゆらゆらと揺れているような錯覚におちいった。かまってほしいとでもいうように。ぼくはまたベッドに戻る。あおむけになり、また絵美の腕をもちあげ、首のうえにのせた。その重みが関係性のすべての象徴だった。彼女は寝言らしき音をもらす。意志を伝えるためには不明瞭すぎて、当然そのような意図もまったくないので、ぼくは目をつぶる。あと数時間は絵美も、希美もおそらくぼくの頭から消えているのだろう。
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11年目の縦軸 27歳-19

2014年03月09日 | 11年目の縦軸
27歳-19

 希美はぼくの部屋で映画について書かれている文庫本を読んでいた。暇な休日をもてあましているふたり。

 まだ、その頃は名画座と呼ばれるものがあった。窮屈な椅子に、清潔さにおいて満点を与えられないトイレ。チープなショーケース内のお菓子。ぼくは希美と交際する前は、そうした場所で時間を過ごすことも多くあった。だから、その文庫のなかで感想が書かれているむかしの映画も見ていたものも少なくなかった。

 彼女はひとつの映画に目を留める。ラスト・ショー。ラスト・ピクチャー・ショー。最後の上映の映画。

 ぼくはその内容を思い出す。寒々しい風景。白黒の画面。雑誌で調べると、ちょうど今日まで上映している映画館があった。ぼくらは仕度をして、そこまで出向く。

 映画がはじまると当然のこと、ぼくらは黙って同じ画面を見つめる。数人の女性がでる。人生に絶望したような主婦。生活感がにじみでている。同じ境遇でありながら、エネルギーを失わない女性。その娘は自由であり、奔放であった。この若さの瞬間を、出来が素晴らしい映画の登場人物として遺される幸福に彼女は気付いていないようだ。それゆえに、より自然な形で、演技とか計算とかからも自由でいられる。

 ぼくはなぜか登場人物である彼女と希美を重ね合わせようとしていた。顔立ちもそれほど似ていない。鼻の形は全然ちがう。希美は奔放でありながらも、慎ましさもあった。だが、若さが躍動する年代のピークのようなものをお互いが兼ね備えているのだろう。ぼくは画面に彼女が出る度に、横にいる希美のことを思った。

 すがすがしい終わり方でもない。ふたりの胸にはしこりのようなものが残ってしまう。

「あのふたり、どうなるんだろうね?」
「どの、ふたり?」

 それぞれが田舎の小さな町で関係性の行き詰まりを感じて生きているようだった。ぼくは男性同士の友情のようなものを先頭に置いた。
「最後に暴れた奥さんと、主人公」と希美はそれ以外にないでしょう、という顔付きで言った。
「主人公は、彼か」その定義もむずかしいが、でも、妥当なのだろう。「小さな田舎のことだからね」
「田舎の生活なんて、知らないでしょう?」
「小さな町なら知ってるよ」ぼくは自分の暮らした家から、そう大きくない円周内にまだいた。「目の端で挨拶しなきゃいけないひととも、まだ会うし」
「ちゃんと、挨拶すればいいのに」
「それほど、親しいってこともないから。なくなったから」
「ふうん」

 希美はストローにすぼめた口をつける。
「希美とあのひと、似てなかった?」
「誰と?」
「あの男性たちを翻弄する高校生」
「やだな」彼女は不快そうに鼻にしわを寄せる。

 ぼくは映画のなかの女性の胸の隆起を想像する。男性の視線は自然とそこに向く。ふんわりと揺れるスカートの裾。セーターの胸のあたり。逆に気にしないこともある。男性の指の繊細さや武骨さなど、いっさい、気にならない。また、気になってしまえば別の問題や志向が発生し、露呈してしまうのだろうが。

「まあ、あんなに自由じゃないけど」
「そんなに胸も大きくないし」彼女は自分の視線を下に向ける。ぼくもそれにつられて目の向きが変わる。「同意したでしょう?」
「それで充分だよ」
「やだな。やな言い方」

 ぼくらはまた家に戻っている。彼女はさっきの本を見ている。目次には、同じ監督の別の映画が紹介されており、同じ俳優の別の出演したものも説明されている。ぼくらは当然の成り行き上、次はこの映画を見ようという計画を立てる。果たされないものもあり、きちんと実行したものもある。しかし、ぼくは横に希美がいたかどうかさえ思い出さなくなるのかもしれない。別の誰か。あるいはひとりでか。

 彼女は恥じた胸をぼくの前にさらす。テキサスにいる女性など会うこともない。そして、ひとりとして知らない。だが、ここにいる女性はぼくの前では自分の身体を見せる。不思議なことだ。
「田舎に帰省すると、やっぱり、なつかしいの?」
「どうかな、もう習慣だからね。ね、なつかしい?」

「なつかしいも、なにも、ここしか知らないから」ぼくも仮にテキサスに生まれていれば、大都会のニューヨークも知らず、カリフォルニアも経験せず、石油などを掘っていたのかもしれない。そして、少しやんちゃな女性に翻弄される。それも悪くないできごとだったが、ぼくに選ぶことなどもうできない。

 彼女は器用にブラジャーをつける。外す権利は有していながらも、つけることには無頓着である。自分が部屋の整理もできない人間に思える。散らかしたままで放っておく。希美は自分の読みかけたところにしおりを挟み、文庫を本棚にしまった。

 ぼくは希美が帰ってから同じ本を開いた。見た映画も結末を思い出せないものも多くあった。映画などシーンの連続であると考えれば、結末などどうでもいいのだろう。いや、結末こそが映画の醍醐味や本質なのだとも言えた。あるひとこま。胸をさらす希美。ブラジャーのホックを器用につける希美。何度も同じことを繰り返してきたのだろう。歯磨きや洗顔と同じ頻度で。ぼくの前で裸になるのは日常のことではない。誰にとっても日常ではない。プールの飛び込み台に立つ若き女性。あの日。ぼくはいくつものあの日を作る。いずれ、あの日は増えていかなくなる。それすらも分からない。
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