16歳-24
キックオフがあり、プレーボールがある。その前に不可欠なのがウォーミング・アップであった。
ある著名なサッカーの監督は例として、ウサギが獲物として追いかけられた場合には決して足をつったりしないと言った。そのような愚かさを防げないのは選手自身の準備不足が原因であるためで、自分がしなければならない用意に対しての認識の重要さを説いた。あるいは不足を嘆いた。
ぼくは最初の恋をする。そう思っているのは自分だけかもしれない。ぼくの前に十六年も女性があらわれなかったのだろうか? そういうことはあり得ない。歴史に埋もれるというのは、小さな人間にも起こる。ぼくは彼女に会う前はまだ中学生であった。いや、彼女もその学校にいた。ぼくは一対一で誰かと会うようなことはしていないということだ。
ぼくは風邪で学校を休む。女性たちから電話がかかってくる。女性というのは集団になると力を発揮し行使するということを知る。寝込むという大げさなものではないので、心配をしている女性たち(名乗っていないので誰だかわからないが、およそという範囲では該当がみつかる)と長電話をする。彼女たちのひとりでも良かったのだろうか? 心配しているなら、ゆっくりと眠らせてくれるのが最大の優しさでもあったのだが。きっとズル休みに近い状態であることは口ぶりからも分かったのであろう。
ぼくはフラれないということを前提に、ある女性に交際を迫る。中学の最後の学年であったろうと思う。後年、「言質」という言葉があることを知り、何と卑怯な意味であるのだと不快になったのを思い出すが、ぼくがしたことも多分これに基づいてのことだった。友人の立派なカメラで撮った修学旅行のときの彼女の写真をぼくは部屋に飾っていた。自分の机の前に。それはテレビや映画に出るひと以外では、はじめての生身の女性だった。ある日、彼女がぼくの小学生のときの写真をもっていて心底おどろいた。いったい、どこで入手したのだろう。ぼくは誰かに好かれるということの恐ろしさと薄気味悪さを同時に感じる。その程度の愛情でしかぼくはなかったのであろう。
ぼくは準備のことを考えている。いきなり、全速力で走ることなどできはしない。だが、練習をいくら積んでも試合の恍惚感と緊張と焦りと失敗に勝るものはない。
その女性たちといまの彼女との差は、いったいなんだったのだろう? ぼくのこころに残るべきどんな秘薬がもたらされていたのだろう。ぼくには分からない。そして、これがぼくのスタートだと認定している。
さらにさかのぼる。数年前の夏休みに、ぼくは友人と女性二人とで夏祭りに行く。そこでつかず離れずの距離でただ歩いた。言葉も大して交わしていない。何が楽しいのかもわからず、楽しくなるきっかけもなかった。あまりにも純情な時代の話だ。だが、そのひとつひとつの記憶も、なにかの予兆のように後日の核心に迫る前の震えのようなものなのだろう。
ぼくは確かにその少女のことも好きになったはずだ。最初のきっかけは友人が好きであるとしつこく言っていたため、ぼくも彼の目を通して彼女を視るようになった。すると、その可愛さは確かに理解できた。彼女の家の前まで友人と連れ立って行く。照れた彼女は部屋にかくれる。ぼくは次第に彼の視線が自分に乗り移っていくことを知る。そのうちに彼女もぼくを意識するようになったのかもしれない。可愛い少女は大人になりはじめる。にきびというものができる。勲章として。可愛い少女がきれいな女性になるのは難しいことだと思う。段々とぼくのこころは離れていく。自分のそうした内面の醜さを歴史の彼方に置き忘れるように仕向ける。
中学のときから私立の学校に通った少女もいる。高校生になって地元でバイトをはじめる。数年間経てふたたびあらわれるというのは、こちらに準備がない分、新鮮なものだ。その少女のことも友人がいつもほめていた。ぼくもそのような目をもつ。単純で、説得されやすい、納得しやすい生き物だ。だが、いまの彼女には誰もならなかった。なぜ、なれないのだろう? 同じような愛らしさをもち、みな同じ年齢で、ずば抜けて異なったところもない。彼女たちでもよかったのだ。しかし、同じような才能をもったひとがみなサッカーのレギュラーを勝ち取る訳ではないのだ。一瞬だけ輝き、名前も思い出せなくなってしまうひとたちが多くいる。チームメートに恵まれたのか。監督の指導と自分の能力が都合よく一致したのか。タイミングがもっとも合致したのか。ぼくには分からない。
同じ年齢でこれほどの女性がいる。ひとつ年下。ふたつ年齢がはなれている。もしくはひとつ年上。
ある下級生はぼくが校庭で練習で走っていると上階から声援をおくる。その表明は秘密から出てしまうのをおそれないことであり、あとで考えると、ほんとうの愛というのは、そのような表面的に起こることだけではなく、裏で誰も知らない場所で進行していることを教えられる。え、あのふたり、そうだったんだ? と、マヌケ面をして自分の工作員としての能力の不足を嘆く。それでも、見栄っ張りである自分は、放課後の窓越しに声援をおくってもらったほうがどれほどしびれるのか知っている。観客もいないグラウンドでゴールを決めたときのむなしさ。ひとに見られないのはウォーミング・アップのときだけで充分なのだ。
キックオフがあり、プレーボールがある。その前に不可欠なのがウォーミング・アップであった。
ある著名なサッカーの監督は例として、ウサギが獲物として追いかけられた場合には決して足をつったりしないと言った。そのような愚かさを防げないのは選手自身の準備不足が原因であるためで、自分がしなければならない用意に対しての認識の重要さを説いた。あるいは不足を嘆いた。
ぼくは最初の恋をする。そう思っているのは自分だけかもしれない。ぼくの前に十六年も女性があらわれなかったのだろうか? そういうことはあり得ない。歴史に埋もれるというのは、小さな人間にも起こる。ぼくは彼女に会う前はまだ中学生であった。いや、彼女もその学校にいた。ぼくは一対一で誰かと会うようなことはしていないということだ。
ぼくは風邪で学校を休む。女性たちから電話がかかってくる。女性というのは集団になると力を発揮し行使するということを知る。寝込むという大げさなものではないので、心配をしている女性たち(名乗っていないので誰だかわからないが、およそという範囲では該当がみつかる)と長電話をする。彼女たちのひとりでも良かったのだろうか? 心配しているなら、ゆっくりと眠らせてくれるのが最大の優しさでもあったのだが。きっとズル休みに近い状態であることは口ぶりからも分かったのであろう。
ぼくはフラれないということを前提に、ある女性に交際を迫る。中学の最後の学年であったろうと思う。後年、「言質」という言葉があることを知り、何と卑怯な意味であるのだと不快になったのを思い出すが、ぼくがしたことも多分これに基づいてのことだった。友人の立派なカメラで撮った修学旅行のときの彼女の写真をぼくは部屋に飾っていた。自分の机の前に。それはテレビや映画に出るひと以外では、はじめての生身の女性だった。ある日、彼女がぼくの小学生のときの写真をもっていて心底おどろいた。いったい、どこで入手したのだろう。ぼくは誰かに好かれるということの恐ろしさと薄気味悪さを同時に感じる。その程度の愛情でしかぼくはなかったのであろう。
ぼくは準備のことを考えている。いきなり、全速力で走ることなどできはしない。だが、練習をいくら積んでも試合の恍惚感と緊張と焦りと失敗に勝るものはない。
その女性たちといまの彼女との差は、いったいなんだったのだろう? ぼくのこころに残るべきどんな秘薬がもたらされていたのだろう。ぼくには分からない。そして、これがぼくのスタートだと認定している。
さらにさかのぼる。数年前の夏休みに、ぼくは友人と女性二人とで夏祭りに行く。そこでつかず離れずの距離でただ歩いた。言葉も大して交わしていない。何が楽しいのかもわからず、楽しくなるきっかけもなかった。あまりにも純情な時代の話だ。だが、そのひとつひとつの記憶も、なにかの予兆のように後日の核心に迫る前の震えのようなものなのだろう。
ぼくは確かにその少女のことも好きになったはずだ。最初のきっかけは友人が好きであるとしつこく言っていたため、ぼくも彼の目を通して彼女を視るようになった。すると、その可愛さは確かに理解できた。彼女の家の前まで友人と連れ立って行く。照れた彼女は部屋にかくれる。ぼくは次第に彼の視線が自分に乗り移っていくことを知る。そのうちに彼女もぼくを意識するようになったのかもしれない。可愛い少女は大人になりはじめる。にきびというものができる。勲章として。可愛い少女がきれいな女性になるのは難しいことだと思う。段々とぼくのこころは離れていく。自分のそうした内面の醜さを歴史の彼方に置き忘れるように仕向ける。
中学のときから私立の学校に通った少女もいる。高校生になって地元でバイトをはじめる。数年間経てふたたびあらわれるというのは、こちらに準備がない分、新鮮なものだ。その少女のことも友人がいつもほめていた。ぼくもそのような目をもつ。単純で、説得されやすい、納得しやすい生き物だ。だが、いまの彼女には誰もならなかった。なぜ、なれないのだろう? 同じような愛らしさをもち、みな同じ年齢で、ずば抜けて異なったところもない。彼女たちでもよかったのだ。しかし、同じような才能をもったひとがみなサッカーのレギュラーを勝ち取る訳ではないのだ。一瞬だけ輝き、名前も思い出せなくなってしまうひとたちが多くいる。チームメートに恵まれたのか。監督の指導と自分の能力が都合よく一致したのか。タイミングがもっとも合致したのか。ぼくには分からない。
同じ年齢でこれほどの女性がいる。ひとつ年下。ふたつ年齢がはなれている。もしくはひとつ年上。
ある下級生はぼくが校庭で練習で走っていると上階から声援をおくる。その表明は秘密から出てしまうのをおそれないことであり、あとで考えると、ほんとうの愛というのは、そのような表面的に起こることだけではなく、裏で誰も知らない場所で進行していることを教えられる。え、あのふたり、そうだったんだ? と、マヌケ面をして自分の工作員としての能力の不足を嘆く。それでも、見栄っ張りである自分は、放課後の窓越しに声援をおくってもらったほうがどれほどしびれるのか知っている。観客もいないグラウンドでゴールを決めたときのむなしさ。ひとに見られないのはウォーミング・アップのときだけで充分なのだ。