爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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傾かない天秤(20)

2015年11月16日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(20)

 最後の日。

 無菌室。地球にはさまざまな微生物がいる。ウィルスや微小な細菌や酵母がある。パスツールやコッホの理屈のように。

 さゆりとみゆきの身体にはうごめく無数の異物がある。それぞれの交際相手から受容したものだ。異物はある瞬間から拒絶の固い殻を突破して、もうひとつの身体のなかで立派に生きるようになる。

 わたしは風邪薬のカプセルのようなものに閉じ込められている。小指の爪ほどもない。もっと小さく、爪を切ったものより微細だ。これから、洞窟の吸引力に身を任せる。それでも、地球は動いている。

 もしかしたら、わたしはさゆりかみゆきのどちらかに移植される可能性もあることに気付いた。皆無ではない。実際のところは分からないが、そういう淡い期待も捨てがたかった。だが、世界中に幅広く人類はいる。本日、総計として何人がその種子の授受に果敢に挑むのだろう。

 それにしてもさゆりとみゆきは思いがけなく生命の神秘の当事者になった事実を知らされたら、どういう行動を取るのだろう。片方は結婚につながり、片方は早まって堕胎をするかもしれない。そのときにわたしという個体はいったいどこに行ってしまうのだろう。もう、ここに戻ってくることはできないのだろうか? 門前払いか。それとも、数ヵ月後に調査未報告という不甲斐ないベルトを巻き、たすきをしょ気た肩にかけてもらいしらじらしく帰ってくるのか。途中リタイア。脱水症状。わたしは永久追放の憂き目にあうのか。なにも分からない。賭け率も不明だ。

 カプセルは台にしっかりとセットされる。恐怖感が増す。わたしは未体験者である。ライカ犬でもあった。それこそ、ガガーリンであり、リンドバーグでもあった。ザトペックでもありアベベでもある。前人(前犬)未到である。そして、オズワルドでもあった。混乱したわたしをさらに支離滅裂さが支配する。

 わたしの昨日までの任務。あれは賞にも値しない。読み返されることもなく、どこかに放置されたままだろう。悪質な者なら富士山にでも不法投棄するだろう。わたしは新たな場で使命を全うする。いつかオリンピックに出る若者になっているかもしれない。ノーベル賞にノミネートされるべく研究をこつこつとつづけるかもしれない。一流の詐欺師になるかもしれず、戦場でカメラを担いだまま撃たれるかもしれない。残ったフィルムだけがわたしである。

 安全ベルトが金属的な音とともに締まる。さらば、この場所。

 わたしはモナリサのモデルを知っていた。だが、本物の絵をパリのあそこに見に連れて行ってもらおう。ピサの斜塔を分度器で計ろう。ピラミッドのいちばん上に真ん丸の小石を置こう。恐怖感をけん命に拭うように、わたしは呪文になることばを探して、のべつ並べつづけた。

 見繕いは終わらない。イルカと泳ごう。赤ちゃんの虎をひざの上に載せてもらおう。たまには星空を見上げよう。わたしはあそこの住人であったことを突然、思い出してしまうのだろうか。みゆきやさゆりはどこかにいるのだろうか。最後の任務の対象物。もし会ってしまったら、わたしはすんなりと気付くのだろうか。

 おいしいものをたくさん食べよう。ゲテモノでもかまうものか。お酒もたまには飲もう。誰かを誉めて、ときには誰かの悪口を言おう。人間など完全なものではないのだ。むしゃくしゃすることも稀にある。感情の扉を開き、試しに誰かを好きになってみよう。誰かから好意をもたれたらどれほど嬉しく、どれほど恥かしくなるのか。同じぐらいに嫌われてもみよう。報告という使命こそがもっとも大事なのだ。

 カウントダウンがあって、どこかに点火されて勢いよく発射した。トラトラトラ! エアバッグは搭載されていなかった。リコールの対象ではないのか? 疑問も解決しないままにテレポーテーションで即座に湿地帯にまぎれこむ。てるてる坊主の効き目はなかった。わたしは衝撃で首を痛める。しかし、直ぐに立ち上がりキックボクシングのまねごとをする。数ヵ月後に母の身体を内側から叩いたり、蹴ったりして存在をアピールして、以降は相互の意志疎通を繰り返さなければならないのだ。最初は片思いにせよ。時間がない。継続が力であり、蝶のように舞い、蜂のように刺すのだ。これぞ、胎児の母体虐待である。相手も上手でモーツァルトの軽やかなメロディーでうっとりとさせて注意と集中力を奪うかもしれない。無駄な企み。それにしても、この母体の主は誰なのだろう。かすかに声がする。どうも、日本語のようでもある。

 テレビでは夜のニュースが流れているようだ。ドルという通貨に対していくらとか、アメリカの雇用統計が話題にされている。わたしは失業者になるにはまだまだ早過ぎる。

 段々と麻酔が効いてきたようだ。無性にねむい。わたしは九ヶ月間ほどの時間をかけてゆっくりと記憶を抹消される。産声の発声方法しかのこされない。音程も狂わされる。そのままでいけば音痴の道しかない。

 天気予報の音がしてテレビが切れた。最後に国歌が流れたような気もする。幻聴だろうか。

 女性は歯をみがきながら鼻歌を口ずさんでいる。陽気で朗らかなひとのようだ。わたしは直前の移動によって疲労困憊していた。片足ずつ身体が前後に動くたびに、このわたしのプライベートの小さな部屋は振動を受ける。天井は上下に、天秤は左右に揺れる。その影響下にありながらも眠くて仕方がない。一先ずは、侵入は成功したようだ。すると突然、身体は横たわる。男性の声も聞こえた。聞き覚えのあるような気もするし、まったくの他人にも思える。運がよければ顔を見る機会がある。ぜひとも、拝見させていただきます。優しい父なら尚いいだろう。厳しさもまた愛情の裏のページであるのだが。

 わたしは完全な睡魔に包まれた。拘束されている。早く地上に出て、たくさんのひとに抱っこされたかった。お相撲さんにも泣きながらでも抱いてもらおう。父は毛深いのか? ひげの濃い男性の頬との密着だけは、敏感な愛らしいわたしか、あるいは泣き虫のぼくの肌には手に負えないだろう。

終わり

2015.11.14


傾かない天秤(19)

2015年11月15日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(19)

 友人の恋人。兄弟の恋人。両親の新たな配偶者、子どもが我が家に連れてくるはじめての恋人。

 そこに脚本家の技術と無尽蔵な想像力をまぶせば一本のハリウッド映画になる。世界はわだかまりと信頼の狭間で暮らすようになっている。

 好意をもっていた相手が、耐えられない存在になり、不快な仕草を発するものと認識するところにまできてしまう。その差や、経過した変化を分析したくも、きちんとした解答はない。ひとは飽きるものだし、また反対に安全に保護された状態で、すっぽりと包まれているのも好むものである。

 さゆりとみゆきは四人で会っている。遠いむかし、ふたりはひとりの青年に好意を向けた。あれから十年近く経ち、それぞれの好みも変わる。取捨選択をする。打算から発生するのでもなく。この部分は必須で譲れない。ここは、まあまあ妥協しよう。その駆け引きと兼ね合いを入れても、最終的には恋心というハリケーンに襲われたら解決は簡単だった。いつか、急激に気圧を下げたとしても、あとの祭りである。

 優越感があり、劣等感があるのが人間だった。友人通しでも、いや、友人通しだから多少、見え隠れする。容姿と懐具合と会社名と実家の実力とか、いろいろな長短を対面しながら点検する。男性ふたりはなかなか打ち解けないが、大まかにでも一致できる共通の趣味をさがしている。さゆりの恋人は加点方式を取り、みゆきの彼はフラットな立場を維持しながらも、減点方式を採用している。

 そのままの隙間がありながら四人は公園を歩いている。間もなく、ひとつのボールを彼らは投げ合った。身体というのは正直な器官である。そうすることによって、彼らの壁はくずれつつある。そもそも、最初から憎もうとしているわけでもないのだ。効果的なとっかかりさえあれば成功する。

 四人で食事をする。好みも違う。愛するふたりでも違うものは違う。その差異を大げさにすることもできるし、埋め合わせることも可能だ。

 わたしも離乳食をすませ、当初は小さな乳歯にせよ、きちんと自分の歯で咀嚼する時期になるのだろう。いったい、どんなものを好むのだろうか。クスクス。ラザニア。サボテンのステーキ。蜂の卵。

「極端すぎますよ」
「普通って、なんだろう?」
「デリバリーのピザ」
「市民権」

 そして、わたしも労働者になる。どんな仕事に着き、どんな技能を身につけるのだろう。おしゃべりが過ぎると呼ばれる男性なのか。無口なデパートの受付の女性になるのか。美は、どの程度あった方がよいのか? 生命と生活は疑問だらけでもある。

 四人はふたりの二組になった。もっとも簡単な割り算である。誰かがゼロを発見する、なくて、あるもの。あっても、ないもの。わたしの頭は混乱する。賢い父や母が必要である。

「あっちに行ったら、どうしたいですか?」
「だって、記憶もないんだよ。返答に窮するよ」
「ま、そういわずに。モットーみたいなものがあるはずでしょう? 生きる指針とか……」
「無事之名馬。ブジコレメイバ」
「ブフッ」新たな観察者は急にむせた。「若いときは、もっとがむしゃらな方が頑張れると思いますよ」
「そうだろうな」

 ふたり同士は、夜の仕上げをする。睡眠時間を削ってまで。それも若者の仕事なのだ。出生率が低下すれば、わたしの降下の順番も遅れてしまう。今朝、ついに辞令がでたのだ。愚かで、賢い人類の一員として調査生活をする。パスポートに似たものを与えられる。入国のハンコはまだない。我輩はひとである。変な名前を付けられても拒否できない。

「でも、どこなんですかね? 場所」
「アラスカはやだな」
「妊婦の分布図でも出してみます?」担当者はデータを探す。「前年度の統計ですけど」
「ふむふむ」わたしはしばし眺める。「アジアは一部をのぞき、減少しているんだね」

「対策もやっているんでしょうがね」
「でも、今年のこれからだからね。最中」
「ま、そうですね」最中が終わり、モニターが起動する。「まさに真っ只中」
「しかし、わたしを観察する者もでてくるわけだよね。ここのどこかに」

「当然」
「誰なんだろう?」
「収賄は厳重に禁止されてますよ」担当者は突然、まじめな顔になった。「そろそろ、勤務も終わり。明日、最後ですよね。いろいろありがとうございました。簡単に打ち上げでもします?」
「それもいいね。チェーン店にでも予約しておいて」ふたりは笑う。

 人間界にはあっても、ここにはない。憂さを晴らしたり、上司の悪口をいう機会もない。絶対的な君主もいない。酔うということ自体が分からなかった。今後、二十年以上経てば、その気持ちも、そして翌日の不快感も、さらには無鉄砲や八方破れになることも分かるようになるのだ。

 わたしは部屋にいる。わたしはささやかなコレクションを手放す。わたしは見返りにもらえるものなど一切ない。すべてを放棄してこそ、地上に降りられるのだ。身軽でなければ困る。一財産を抱え込んだ赤ん坊など、どこにもいないのだ。

 意識の生物が、肉体を備えて重力の世界に飛び込む。歩く、走る、抱く、叩く、という肉体の機能をつかった運動もできる。年齢という有限のものの奴隷となる。最後には、歩くこともままならなくなって帰ってくるだろう。宇宙旅行から帰還する飛行士のように関節も筋肉も衰えてしまう。だが、希望はずっと大きい。見るという受動的なことから、自発的に動くという能動的な世界の住人になる。使い古された表現で例えれば、失うものはなにもなかった。わたしは最後の夜を迎える。遠足の前日の子どもたちは、もしかしたらこんな浮かれた気持ちだったのかもしれない。てるてる坊主ぐらいは軒下に吊るしておくことにするか。


傾かない天秤(18)

2015年11月14日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(18)

 みゆきはダイエットについて心配している。頭のわずかな部分だが、常にシグナルを発している。警告音はしばしば遅れてやってくる。だが、その体型をあえて好む男性もいる。そして、意に反してなのか不明だが、彼女は最近、きれいになったという評判を得ている。

「うまくいっているんだ?」と、さゆりが訊く。自分自身も順調だった。友人通しが同じタイミングで幸運をつかむことなどなかなかないことかもしれない。世の中はシーソーのようにできているのだから。

 みゆきは概略を話している。だんだんと支流にすすむ。はた目には文句をいっているようにも聞こえるが、本心とは違うのだろう。第三者に対して自分の恋人を誉めるという行為はかなりむずかしいものだ。分析もされたくないし、必要以上の同意も恥ずかしい。男性の心理はどういうものだろう。異なる文化。別個の民族。

 話しながら甘いものを食べている。カロリーも知っている。凡その体積も把握している。だが、頭を麻痺させることも重要だ。スポーツの試合で興奮するより、テーブルにケーキがあった方が彼女の体内のエネルギーはより柔軟に、縦横に動いた。異なる解釈の男女。

 いつかそれぞれのカップルと四人で会うことが相談される。恋人が友人関係に及び、家族の一員に達する。両親は選べないが、配偶者は選べる。義理の息子や娘は理想に背くかもしれないが、孫の姿は見たい。よそよそしい関係も段々と打ち解けてくる。その前に恋人の両親の前で譲渡、贈与の儀式がある。

「ものじゃないよ!」

 お叱りが入る。わたしは小津映画をこの場で見過ぎたのだ。過剰に。家族の原型をあそこに求めている。旧式な考えに縛られている親がいる。ジェネレーション・ギャップがいつの時代にもあるが、小さなトラブルを乗り越え、ひとつずつ摩擦を解消してゴールに近付く。そのゴールを切った地点が新婚夫婦のスタートでもある。

 みゆきにもさゆりにもその幻想があるだろう。だが、直ぐにという訳にもいかないのかもしれない。急いては事を仕損じる。それぞれの仕事があって、生きがいや純粋な楽しみも感じている。ひとはハンモックのうえで、心地よい風を浴びながら寝転がって暮らしてばかりもいられない。腹を満たし、家賃や月々の光熱費をはらう。

「それに比して、ここは恵まれた環境だな。店賃もいらないし」

 税もなく、立ち退き料もない場所。浮世の辛さもない。人類の何人かの疑問を有しがちな頭にはユートピアの執拗な恋慕があった。片思いにも似た。現実の恋にいそしむ男女には不必要なものである。その脳は充分に手近なところで快感を得ている。

 みゆきは手帳に計画を書き込む。カレンダーという便利な発明品がある。なにげなく時計をみゆきは見る。刻々と時間は過ぎて、夜になって朝が訪れる。わたしの任務の日々も尽きようとしていた。

 わたしは本日で観察の結果を記す義務から解放される。とくに思い出にのこったものはどういう瞬間だったのか。ふたりが偶然に都会のある店で再会したこと。わたしたちには睡眠時の夢もないが、人間だったらあの日を何回か夢のなかで再現するのかもしれない。これもすべて想像だ。

 トータルではどうだろう? 何度かの大きな戦争。虐殺。殺戮。そこの住人すべてを無知な野蛮人だと誤解するまでに至った。だが、美しい義務感以上のものを有しているひとびとも確実にいた。

 自室にもどったわたしは人間でいうところの喪失感と等しいものに包まれている。別れにともなう感情。何に対してなのか明確なポイントが分からない。漠然とした焦燥のような感情の震えが波となってくる。だが、大して長持ちはしない。わたし個人のこれからの未来もあるのだ。

 太陽がまた昇る。わたしは担当の横でぼんやりとみゆきは眺めている。毎日、劇的なことばかりが起こったらくたくたに疲れ果ててしまうだろう。いつもの朝と、いつもの出勤の風景。痴漢は毎朝、同じ車両でつかまることもない。冤罪にしろ。昼の献立程度はすこし変わる。一般のひとはどれぐらいの種類の料理をシャッフルしているのだろう。九十ぐらいあれば三ヶ月。だが、豆腐や納豆や味噌汁は毎日、食卓にあがることも許される。あるチームの送りバントという戦術ほどに。

 横の担当者はシャキシャキと仕事をすすめている。有能であることは疑問の入口と出口のトンネルに渋滞など含ませないのだろう。機微というテイストもある。落語は主人公が迷い、漫才はぎくしゃくする会話で成立していた。わたしはなぜだか腹をかかえて笑いたかった。抱腹絶倒という感じで。この狭い一室で世の中のすべてを理解した気でもいた自分を呪い、あざけり、あるいは腹を立て、最終的には、手品師が鳩の姿をすっぽりと黒い幕で隠すように、すべてを覆い尽くして無心に笑いたかった。

「うわさだと次、地球に降りる順番らしいですよ」有能な担当者は電車内で居眠りしているみゆきを起こす方法を模索しながら、小声で言った。彼女はとなりの男性の肩にもたれすぎている。男女七歳にして。

「誰が?」
「誰がって、ここにいるのはわたしとあなた」
「トワエモア」

 わたしは喜びと驚きと怖さという咄嗟の感情の複合体となる。わたしも遂にあそこに行けるのか? 妊娠の予兆の前に誰かの胎内に入り込むチャンスが到来する。その間に記憶を抹消され、普通の男の子や女の子として誕生する。選べることはいたって少なく、その後に経験した一通りの人生を箱につめこんで、ここでの生活に再活用される為に帰還する。わたしは生意気にも多くの事柄を無節操に批判してきた。だが、あれ以上の貴さを自分は発揮できるのか? わたしは母や父の顔を予想する。病院で産声をあげる。あと一年弱であの地球の一員になっているのだ。カレーの宣伝の文句を借りれば、ただ、感激であった。


傾かない天秤(17)

2015年11月08日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(17)

 銃口があれば対象物に向けるのがひとの性だ。そして、ど真ん中の十点を狙う。

 遍歴。相手を通したさゆりの歴史。

 ルー・リードとエリオット・スミスが好きな年上の男性。彼はこの後者の悲しげな声の持ち主と同じ日に生まれたことが大層、自慢だった。だから、別れてもさゆりはその日を忘れられなくなる。他の要因とも重なってだが、その日付は広島の日でもあったのだ。

 彼の次(明確な順番はタッチの差だ)は、とにかく車と洗車が好きな男性がいる。さゆりは礼儀正しく車に乗る。彼の場合は、単なる移動手段ではないからだ。そこは応接間でもあり、快適なリビングでもあった。ときには寝室にもなる。海に行った翌日、彼は一粒の砂ものこらないように丹念に、入念に掃除した。その割に自室はマンガ本や車の雑誌が散乱していた。大人の女性のディスクもある。さゆりは自分とタイプが異なる女性を選ぶ彼を変な目で見た。反対に自分と似ていても困った展開になっただろうと思う。

「目の男性と皮膚感覚の女性」
「王道の意見ですね」

 統計を見る。独身男性の平均的な所持率。もちろん、マニアやコレクターはどこの世界にもいる。既婚男性の処分数の割合。泣く泣く手放した我が子。数字で計れる問題ではないのかもしれないが。

 別れたときに悲しんでも、永続的な悲哀をもたらすには至らなかった。酷い傷になる場合もあるが、さゆりには幸運なのか不運なのか訪れていない。ひとは契約もなく口約束で交際をする。その過程を省くときすらある。婚約や結婚には指輪と薄い紙切れが必要だった。並んで署名して。

 一夫一婦制が間違った形式であると考えているひともいる。アニメのヒロインの感情も無視して。たくさんの妻がいるうちのひとりという主人公(四番目の妻)ではアニメ制作会社の社長はゴーサインを出さないだろう。なかにはきちんとした戸籍や名簿をもたない民族もいる。文字にして文書化することが文明の最初であると仮定するなら、文明の範疇に入らない人々もいた。それを有したからといって無限に寿命が延びるわけでもないので、一先ずはどうでもいい問題かもしれない。

 さゆりのある方面の歴史はあっさりと終わる。これからが増えていくのだ。未然に分からない日々を毎日、更新して生きていく。可能性の袋はまだたたまれたままで品物が放り込まれるのを待っている状態だ。

 だが、未来をともにするひとがいる。いや、希望の段階だ。部屋も片付き、掃除も行き届いている。収入も定期的に入る。変な趣味もくせもない。ものすごい方言も使用しない。

「美人で優しいひとに会えると思わなかった」と、お世辞のようなことばもすらすらといえる。よどみない華麗な話術。
「朴訥な日本人は絶滅したのかな?」
「いやいや、まだ主流ですよ」わたしの業務の引継ぎも順調だ。

 欠点ですら受け入れてしまうのが恋の魔力でもあるのだろうが、この男性にはそれらしきものは見当たらなかった。他人の目を通せば、嫉妬や羨望につながってしまう恐れがあったが、これまた彼には寄りつかないらしい。完璧な恋人。その役割が夫や父としても転用できるのか、それは未来にしか分からない事柄だ。即座の決定を拒み、保留や棚上げということにする。一介の観察者に過ぎないのだ。

「それも仕事の勧め方だよ」わたしは、もっと早く手を抜く方法を身につけるべきであった。

 大人は服を着る。文明人の最たる証しだ。大人は服を脱ぐ。わたしの目の前のモニターは消える。監視者ふたりは照れたように沈黙する。

「大人は自分で判断して、また、相手との成り行きに任せられるひと」

 ふたりはひとりに勝る。ひとりっこは愛情で多くの兄弟に囲まれるものより得る。そして、多くの人生上での真実により失うものも多い。

 愛情の交換により子孫がどこかの段階で発生する。意図しなくて芽生え、意図してもプレゼントが来ない場合もある。わたしはコレクションとしてもっとも似ている親子の写真と、もっとも似ていない親子の写真をこの時間に見比べる。まるでコピーの機器の会社の宣伝に打ってつけのような写真だった。もう一枚は、難解なクイズのように組み合わせを一致させるのに時間がかかる。すると電気がつく。彼らふたりの混合物はいったいどういう姿をするのだろうか想像する。どう否定的な考慮を加えようともハンサムな男の子や可愛らしい女の子しか考えられなかった。わたしの苦手なアニメ映画のような結末になる。銀の匙を咥える。ふたりはひとりに勝る。三人もより良いものかもしれない。

 わたしの一日の業務は終わる。あと数日しかない。客観的な報告に終始するつもりが、観察者の自叙伝のようなものが紛れ込んでしまった。これも宇宙の片隅には必要だったのだろう。重要と不要の間にあるのがほとんどで、その中心を狙いながらも、逸れていくのがコントロールの悪いピッチャーの常である。しかし、九回まで投げ抜きました。コーチや監督の才能があれば、次の生活も楽しくなるだろう。また一から練習し直すのも、それはそれで楽しいものかもしれない、な。

傾かない天秤(16)

2015年10月31日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(16)

 みゆきの会社の売り上げがなぜか減少し、後退している。なぜかというのは興味がもてないわたしの意見だからで、当事者たちは真剣にその分析に追われている。会社の存続には責任があり、同時に社員のひとりひとりには何も責任がないとも仮定できた。

 普通、学校を卒業してから三十年近く、ある場合はそれ以上、雇われる期間がある。会社はその年月の人件費という支出を大雑把に計画に入れる。右も左も分からないものたちに。海のものとも、山のものとも。あるものは伸び、あるものは将棋でいう歩のような役割として利用される。みゆきもこれまでは典型的な歩のような働きだった。だが、ある日、突然、桂馬になる。

「例えが相変わらずだよな」

 わたしの我慢の限度もそろそろだ。堪忍袋の緒が切れる。
「高みの見物がいちばんですからね」
「みな、レールに敷かれるもんだよ。ここでは、独立もないんだから」

 わたしは黙って業務をつづける。商品は売れなければいけない運命にあった。たくさんの試作品をつくって上層部が試食する。味覚というのは千差万別だ。なかには甘いのが苦手なひともいる。そのひとらも、三つも、四つも食べている。ヒット商品はなかなかできない。ライバル会社はどんどん売り上げを増す。似たような商品をつくる誘惑に駆られる。そして、つくってそこそこの売り上げを生み出す。グラフで一目瞭然だ。回収された小銭たちがまとまり、各々のポケットに割り当てられる。化けさせたものは構成員の給料やボーナスとなり、それが食費となって学費となる。家やマンションのローンを払い、婚約指輪を買う。断りも通知もなしに離婚されて、結婚式の祝儀をいちいち後悔する面々もいる。

「生きるって、そういうことだろうな」
「悲しいですが事実ですね」もう、わたしはこの部屋を個人で独占できない。引き継ぎ業務も徐々にはじまることになる。人間の会社の人事異動と同じだ。わたしにはまだ辞令はない。いったい、どこに行くのだろう?

 しかし、根本的にいえばわたしの監視で人間の生活が大幅に変わるわけもない。注意報を送ることもせず、謝罪文もいらない。産み落とされた悲劇と喜劇があり、達成として無理解に甘んじるのみだ。

 さてと。その後に、製品となったものを試食するイベントがある。少額の支出で人間もモルモットになる。食べた代償としてアンケートに答える。次にはパッケージも同様の審査というふるいにかけられる。次々と形が決まり、コマーシャルをつくる。ある女優さんの笑顔がポスターになる。歯が見事なまでに白い。虫歯だらけのひとがチョコレートの宣伝をするわけにもいかない。世の中はコーティングの社会なのだ。交通事故も飛行機の墜落もないという幻想のもとに生きている。恐怖をいだいたら終わりだ。一日も生きていけない。

 みゆきはその宣伝活動に追われている。裏方が似合うひと、性に合っているひとがいる。目立ちたくないわけでもないが、スパイクやボールを磨くひとも必要だ。功を奏する。段々と売り上げが改善される。世界は改ざんでできているともいえた。賞味期限をごまかし、分量を減らして帳尻を合わせた。

 わたしは、なぜか悲観的だった。その貴くない行為のひとつひとつが自分を傷つけていく。わたしも卑怯なマネをしたこともないとは言い切れない。だが、妥協ではなく、どこまでもすがすがしい善を信じたかった。

 みゆきは夕方になって退社する。一日の労働は終わったのだ。サラリーマンが赤ちょうちんの誘いに負けている。大量の枝豆と焼き鳥が日本中で消費され、ビールや焼酎が胃のなかに消える。たまに逆流する。何事もほどほどにだ。

 みゆきの目には愛の炎がある。若い女性が持ち分の二十四時間を仕事一途で全うすることもない。わたしは無駄に思える時間の統計をながめる。ギャンブルがあって飲酒がある。釣りがあって、山歩きがある。ツーリングをしてドライブもする。すると無駄なことなど一切ないことを知る。省けないことこそ楽しいものだった。

 男性も二十代、女性も二十代で輝ける未来が待ちかまえている。お互いの若い時期を知っている。それこそが人生の醍醐味でもあるのだろう。幼少期や生い立ちを写真や両親のことばで確認して補完して、それぞれの友だちにも紹介する。会社にも友だちがいて、ふたりは会社帰りの同僚たちに紹介される。

 あるひとは、闇市場で相談の結果、「止めておいた方がいいんじゃない?」という評価を得る。ふたりは違った。選抜にのこった。なぜだか、会ったこともないひとをうわさだけでやみくもに判断する場合もあった。二十数年でたくわえたわずかな価値観が未来を決めて、あるときは奪い去ってしまう。

 とりとめもない報告がつづく。この業務も長くないという気持ちが、そのようにさせる。最後まで真剣に取り組みたいが、これ以上、無駄な事柄を増やすこともないだろう。わたしはみゆきやさゆりの三十代を知ることはないかもしれない。おそらくという観点に立ってだが。ふたりは今後、どうなるのか? 子どもがピンチになったヒーローの来週のテレビ番組までの期間、活躍を期待して待ちわびるような気持ちがわたしにはあった。なぜか、最終回を見逃してしまうものだ。もろくも、もう興味の対象は移ってしまったのかもしれない。外で野球をして、タバコをかくれて吸って、女性のスカートのなかに興味が湧く。

 人間をつくった御方は、このぐらいの完成度合いで満足したのだろうか? みゆきは、翌日、エレベーターのなかで社長に会う。咄嗟に小さく会釈をする。だが、この社長が自分の存在や名前を知っているのか疑問に感じる。社長を神と書き間違えても、別段、困りはしなかった。


傾かない天秤(15)

2015年10月30日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(15)

 さゆりは新しく発刊する雑誌の準備に追われている。生きがいは情熱と等しい。補欠のボール拾いの行動は情熱に昇華しない。レギュラーになって活躍するからこそ給料となって反映される。

 情熱のやり繰りはあとになって疲労を及ぼす。達成感があっても、報われなくなれば燃え尽きて終わりだ。燃え尽くす情熱を無私に捧げることも美しい。死も欠陥も美しい。より一層に。

 さゆりの頭のなかが駆け巡っているだけで、周りにまで影響が起こるような事件はない。ことさら報告すべきことも見当たらない。二時間に詰め込む映画だったらまた違うのだろうが、普段は常に事件があるわけもなく、通常は退屈さが支配するものだ。スパイにも安寧の日々がある。

 昼休みに食事をして、数回トイレに立ち、腕時計を何度か見て、夜も遅くに退社する。帰宅途中に総菜を買い込み、ご飯のスイッチを入れる。生きるということは芸術でも作品でもモニュメントでもなかった。ご飯が炊けるにおいがして、録画したテレビを見て、歯をみがいてから寝る。一日一々と形あるものが作られる。モデルは洋服を着て、季節を先取りしたものを提供する。事後ということは皆無だ。今年の流行は、これでしたでは遅い。あらかじめという態度が不可欠だ。

 休みでも頭に仕事がある。振り払うことを願うが完全には成功しない。かといって全部を占めることも不可能だ。ひとは記憶して、反芻して、忘れる。過去の仕事が評価されるようになったらお終いである。これから伸びるひとを過去の業績が縛るわけもない。一生、その名誉を受けないひとも多数いる。また追い求めることすらバカげているのかもしれない。誰かが記録して、誰かが葬る。誰かが偉業を探して、誰かが抹殺する。

 さゆりは睡眠不足を解消するために朝寝坊をしている。それから遅い時間に起き、トーストにジャムをつけて食べながらワイドショーを見ている。有名になると不自由になることもあった。恋の現場の写真を撮られて、分析される。ある恋多き男性の相手と目されるひとりは目下、彼女の雑誌にも起用されているモデルのひとりだった。単なる休みがこうして壊されていく。浮名ということばを彼女はぼんやりと考えた。それは良い意味合いの用語なのか、用途として悪い名声の際のものなのか判別ができなかった。

 さゆりはその若い女性と気が合った。まじめな子だった。まじめであるというのは時にはメリットであり、また世の中のすべての事柄といっしょで反対の部分もある。無駄に信じやすいというケースもある。

 彼女は携帯にメールを受け取る。職場はたいへんな騒ぎのようだ。部数も良い方に転ぶか、悪い結果を招くのかも分からない。彼女の脳の大部分が仕事に占有されて休日の領域を狭める。

 夜はみゆきと会った。当然のことのようにみゆきはこの話題に触れる。興味があるのだ。人間は石ころでもない。おでんの具のように誰かの味が自分にも浸み込んでくる。そして、別れた相手とどのように接するのかという架空の話題になった。友人に発展、あるいは堕落する関係もあり、絶交というトカゲのしっぽのようなひともいる。何十億のうちの何千人と会って、何人かと恋をする。その何人かと疎遠になって再会したりもした。境遇も立場も時の流れは変えるかもしれない。わたしは、「ひまわり」という映画を思い出している。

「ヘンリー・マンシーニ」

 わたしは業務をしながら音楽を小さなボリュームで流す。これは規則違反でもある。女性ふたりが延々と話している。世界を動かす条約の話をしているわけでもない。ただ会話という風船に両者で息を吹き込んでいるのだ。それが何個か膨らみ、何個か宙に飛ぶ。誰も行方を追わず、誰も取ろうとしない。捕まえる理由もない。飛翔するに任せるだけだ。

 急にスイッチが切れる音がする。音楽は突然に止んだ。

「禁止だよ」
「禁止のはずの設備が、どうしてあるんでしょうね?」理不尽な言い掛かりをする。
「むかしは許可されていたのかもしれないな。時代は変わるんだよ」
「自分の持ち分の奇跡を使い果たしました」わたしは最近、読んだポール・オースターの一節を引用する。
「若いときには、まったく分からないことばだな。理解もできないだろう」

 わたしは業務にもどる。彼女らも未来に奇跡が訪れることを信じているのだろう。不可能はないという錯覚が若さのもたらす唯一の効用なのだった。人生は段々と手に負えなくなり、新作ではなく、修復に終始することになる。でも、まだコントロールはできているのかもしれない。しかし、日々、その過程に忙殺される。主人はあちら側だ。わたしはなぜだか悲観的になっている。

 ハンサムくんは美女に恋をして、したたかな遺伝子をのこす。さゆりはモデルを誘った男性を非難しているが、自分がその状況に置かれれば、いまの意見を完全に撤回させるかもしれない。意志に反することだろうが。恋なんてものが、そもそも意志に反する状態の渦なのだ。

 疲れた足取りで休日の夜にコンビニに寄る。おでんのにおいがする。なかの具材を想像しながらも不意に季語ということも彼女の頭は同時に考えていた。すると肉まんも等しい部類なのだろうか。彼女は季節を度外視してお菓子を買い、袋をぶら提げる。明日からまた仕事だった。手垢のつかない新鮮な初々しい女性だから、そのモデルを選んだ。応援したくもあるし、また逆に裏切られたような気もする。わたしは何光年という長い日々を考え、名声も金銭も一瞬の悦びに過ぎないとどこかに押し込めて自分のこころを納得させようとした。納得させる義理も義務もほんとうのところはないのだ。次のお客はおでんをあれこれ選んでいる。片方の手にはハンバーガー屋の袋があった。西洋も東洋もつきつめればとても小さな範囲の話だった。


傾かない天秤(14)

2015年10月24日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(14)

 みゆきも恋をしている。実るケースもあれば、吹き飛ばされる種もある。彼女の会社が卸している和菓子はデパートに納品される。そこで、出会った。しかし、食品売り場ではない。男性の洋服を売っているスマートな男性だ。なにかの懇親会のときにお互いを知ったらしい。わたしの休日の日だ。数人で食事をして、その後はふたりで会うようになる。容姿も端麗で、話し方も焦ることのない鷹揚さ、かつ真摯な様子であった。どこに埋もれていたのだろう?

 お互いの職業は分かっている。性格も徐々に判明される。あばたもエクボということばがあった。坊主憎けりゃ、というおそろしい追及もあった。ひとのこころの動向はむずかしい。

 遊園地に行ったり、海辺にドライブにも連れて行ってもらう。彼の運転の仕方も彼女は好きだった。音楽のセンスも好ましく、その動く密室はとても快適なものである。

 みゆきはシラス丼というものを食べている。わたしには、その生き物の形に抵抗感があった。彼は煮た魚を食べている。日本人は生であったり、焼いたり煮たり、さらには蒸したりもする。魚にとっても本望なのであろう。魚のくちびるには痛みがないとある研究者がいう。魚と交信したわけでもないのに。犬の視力は白黒で成り立っているともいう。女は魔物だともいい、男は浮気する生き物だと規定するものもいる。ある面では偏見こそが正しいともいえた。

「常識を越えないでね」管理者の注意がきょうもある。
「イエス・サー」ささやかな反抗を試みる。

 魚は骨だけにされる。上手に平らげるひとは評価される。ネコは、その骨の存在を恨むかもしれない。
「事実だけをね」
「かしこまりました」

 わたしたちはある種の統計をとっている。ものがたりではないのだ。生きるサンプルの採取だ。

 車をレストランの駐車場に置いたまま、目の前の海岸を歩いている。ウインド・サーフィンにはげむ数人が水のうえを移動している。自由な姿そのままだ。体現している。

 彼らは今度は冬の話に移行する。スキーやスノーボードの話をしている。恋人たちはたくさんの約束をする。政治家も同様だ。破ったら責められるという大きな違いが両者にはある。厚顔であることをうらやましく感じる。

 その海岸は東北地方にもつながっている。大きくいえばハワイにもつながり、喜望峰にもつながっている。約束も責任もない。ただ海だけがある。コロンブスには野心を妨害される心配はなく、新しいものを発見すればよかっただけだ。

「支離滅裂になっているから」軌道修正される。ハイウェーから路地へ。いつものわたしの思考だ。

 その日はホテルが予約されていた。きれいな夕焼けをみゆきは窓から見ている。彼は後方から覆いかぶさるように抱く。カーテンが風で揺れる。ふたりの頭には阪神タイガースもなく、ホットドッグの大食いチャンピオンも消えていた。

「唐突過ぎるよ。生活の心配なら、もっと妥当な比喩があるからね」
「それぞれ、命をかけているひとがいます」
「極端すぎるんだよ」
「そうですかね?」不服である。

 夜は若かった。盗作も厭わなかった。似ているものは仕様がない。瓜二つもまた居直りだった。モニターが消えて飽きてきている。時計は最大の発明かもしれない。

 カーテンの向こうで明かりが着く。テレビの音が聞こえる。彼は腰にバスタオルを巻いてスポーツ・ニュースの結果に一喜一憂している。みゆきは、ちょっとガッカリする。わたしの管理者も、同じような感情なのだろう。

「ねえ、ちょっと」と、みゆきは彼の背中に言う。
「うん?」彼のひげはいつもより伸びている。
「こっち、きてよ!」みゆきは空いているベッドのはじを叩く。
「少しだけ、待ってて」

 きょうの最後の天気予報がながれる。地球の日本では美女が扱うことも多い。素朴そうな男性も稀にいる。天職にするためには資格を得なければいけない。わたしも無免許だった。日付がひとつ増える。今日のわたしの任務も終わる。

 翌日もすがすがしい陽気だった。ふたりはホテルで朝食をとっている。コーヒーを飲み、備え付けの新聞を読む。昨日の野球の試合を彼は再確認している。みゆきはルールも分からなかった。点数を多くとることが大切なのは分かる。だが、コールド・ゲームは真冬にする試合だと思っている。観客席は、コート姿のひとだらけだ。

「そんなこといる?」
「勘違いするのが人間ですから」
「膨大なものを点検しなければいけない。残業もしてはいけない。限られた時間で。人類の人口も億単位で増えている」
「じゃあ、こちらも雇用を増やすとか、待遇の改善を」
「君も、社会主義やゆとり世代の実験をしらないわけでもないだろう?」
「まあ」
「それに趣味を生かす時間もきちんと確立されているはずだけどな」

 わたしは監視する。車は出発した。身体が一致した翌朝の人間の感情など分かるはずもない。他人ではない。しかし、もう一方では他人だともいえた。母と子の関係がいちばん強いとも思える。母と女の子と、母と男の子もまた違う。子どもを製造しない薄い部品がある。失敗して訴えられた案件という話もきかない。過大に評価されているのか、所詮、その程度だと蔑まされているのか。わたしは脱線する。午後もながく、野球でもして身体を動かすのも楽しそうだなと、白昼夢のように空想して、現実の野球のカードのコレクションを頭のなかで並べ替えた。ロベルト・クレメンテ。


傾かない天秤(13)

2015年10月24日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(13)

 時の要素、最大の主要成分は忘却だ。忘れて何が悪い、に尽きるのだ。時の居直り。

 あれから数か月が経っている。さゆりには恋人がいる。幸せな状態は気分を華やかにする。ひとは親から初歩的な言語体系を受け継ぎ、先生から高度を上げる学習を授けられる。視野もひろがって、模範と繰り返しの結果により大人になる。大人は教わらなかったこともできるようになる。彼らはベッドにいる。アドバイスは不要だ。

 わたしはモニターを切る。いや、自動で切れるように設定されている。興奮も不要なものだ。その日はそのまま監視の時間が終わってしまった。あまりにも長い。報告書はその意味合いの記号で終わる。

 わたしは部屋にいる。クリフォード・ブラウンというトランペット奏者がいた。わたしは彼の音楽を長年、聴いている。以前はそれほど好きではなかったが、いまはこの楽器の演奏者として筆頭にあげている。聴いた期間は、彼の人生の全部よりずっと長い。その財産となるべき立場の期間は非常に短い。プロとして活躍したのは十年にも満たないはずだ。永続というのは不思議なものだ。わたしは音楽でよろこびを感じ、この若者のことを考えると、それより深い感情で悲しくなった。

 わたしたちの世界では作曲家もいない。もちろん、コンサートもない。仕方なくわたしは人間がつくった音楽で代用する。そもそも音楽に興味がない者がここでは多い。わたしはその面で、なぜだか不当に軽蔑されている。

 数日後、さゆりは仕事で印刷会社のひとともめている。決定した写真と別のものが使われていた。訂正はぎりぎり間に合わすということで決着したが、本日は残業になりデートの予定をすっぽかしてしまう。責任のなすりつけ合いがはじまっている。彼女はいくぶん、上の空だったのかもしれない。若い女性に完璧さなど求めるものではない。男性にもだが。聖人君子など地球上にひとりもいない。しかし、失敗がそのひとを伸ばすこともある。

「教育論は、まあいいから」

 わたしは目をつけられている。この業務から異動になるかもしれない。

 さゆりはタクシーに乗っている。電車はもうない。迷惑料として、業務後にお酒をおごった。相手は納得してくれた。確認を怠ることを今後は避けましょう、と提案をしてもらった。まじめとは融通が利かないことではないのだろう。頑固、こだわり。いろいろ失敗への誘惑がある。彼女はタクシーのなかで携帯電話を確認する。メールがある。恋人はやさしいことばで心配してくれている。遅い時間なのは分かっているが、彼女は返事を打って送る。直ぐにまた返信がきた。少しでも会いたかった。

「おっと、今度は恋愛小説家か」
「この場合の報告は、こうなるでしょう?」
「そうだよな」

 わたしも腹蔵なく酒でも酌み交わしながら、この管理者と話したかった。
 翌日、臨時の休みをとったさゆりは彼の家で料理をして、帰りを待っている。鍋から香ばしい匂いがする。ひとのために時間と技術を割く。そのことが愛情の最後でもあるようだ。自己中心的や、自分の時間、自分の力の誇示などが、子どもっぽくさえ思えてしまう。

 何種類かの料理ができあがっていく。冷蔵庫には数ブランドのビールやワインがある。彼女は洗濯までする。ベランダに大きなものを干した。学校帰りの子どもたちが追いかけっこをして騒がしい音を立てている。どこかで布団をたたく音もする。幸せなノイズたち。しばらくわたしは注意を怠り、下界を眺めている。犬を散歩させる上品そうな主婦がいる。豆腐を売りにきたラッパの音も聞こえる。夕刊を配達する大学生がいる。ひとは何らかの仕事をするのだ。

 さゆりはいくつかの皿を冷蔵庫に入れる。待つ間にテレビでニュースを見る。明日の天気予報があり、夜の時間に突入する前に家の玄関が開いた。

 さゆりは抱きつこうか迷っているが、理性が勝ってしまい、ただ微笑むだけだ。再度、エプロンをつけて作業にとりかかった。そして、温かいものは、もう一度、温かくなった。

 ムードを高める音楽がかかる。照明も薄暗くなる。静かにささやき、皿とフォークやスプーンがこすれる小さな音がする。スピーカーから黒人の低い声がながれる。食事が終わると彼は腕まくりをして皿を洗いはじめた。さゆりはシャワーを浴びる。彼もあとからついていく。わたしのモニターは切れる。手持無沙汰になり、過去のデータを確認する。

 わたしには夢がある。不渡り手形を換金してもらうことを望んでいる。

 ある塾の教室の音が混線して入ってくる。受験のための英語があり、実際の使用されている音としての英語がある。子どもは点数を増やさなければいけない。大人は実用に傾かなければならない。その狭間の若者は、勉強もせずに遊んでいた。

 時間には限りがある。わたしが受け持つふたりも、担当として最後になるのかもしれない。別の勤務形態を空想する。物質や化学にうとかった。元素記号のひとつも分からない。わたしは音楽を聴き、映画を見た。人間を観察して、ある場面で発揮される高貴さを、泥まみれの清浄さを高らかにうたいたかった。しかし、上が決めることは絶対なのだ。不服があれば、独立してその地位を得るしかない。死守に値するかは別にして。


傾かない天秤(12)

2015年10月22日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(12)

 みゆきの一日はまた別だった。彼女は家で飼っているハムスターのことを心配していた。揺れは大きく、電話をかけても返事をしてくれるわけもない。夜の八時になるころ、彼女は同僚に別れを告げ、履き慣れている職場用のかかとの低い靴をそのまま履いて退社した。

 道は混んでいた。一週間の仕事が終わった安堵の週末とは正反対だった。みな不安そうにしている。車は遅々として進んでいない。信号は止まることもなく平常通りだった。夜風は冷たく春の陽気には遠く、彼女は自動販売機で温かな飲み物を手に入れた。飲みはじめると空腹を途端に感じ出したので、最寄りの店によってサンドイッチでも食べようと棚を確認する。みな同じことを考えるらしく品数はとても少なかった。彼女は街路にすわり、心細げに食べ物を頬張った。

 みゆきは明日の約束を思い出す。試しに電話をかけてみるが、さゆりには一切、通じなかった。親許にもかけたがこちらもかからない。公衆電話を見つけると、数人が並んでいる。飲食店も開いていて徹夜を決め込んだ会社員が入って行った。彼女は家までの道のりがこれからどれぐらい時間がかかるのか計算してみる。だが、即答できるほどの手持ちの材料はない。ビジネス・ホテルを途中で見つけるが、彼女は泊まるわけにはいかない。ペットの安否を確認しないといけない。

 しかしながら動物の死ということは考えられなかったが、カゴが倒れた拍子に水や餌が散乱している様子は簡単に想像できた。ノドが渇いているかもしれない。彼女はふたたび歩き出す。歩行者はほぼ一方向に向かっている。都心で働き、その円周に住む。円の半径の距離は経済力によって異なる。彼女は電車で四十分ぐらいのところにアパートを借りていた。運行が遅れることは多少あるにせよ、電車というのは勤勉な移動手段だ。我慢強い。

 横をバスが通り過ぎる。行き先の表示を見つめる。彼女は頭に地図を浮かべる。その作業は訓練もないため、高度な答えにはいたらず、自分がどこに向かうのか混乱させる結果しか招かなかった。

 孤独な夜の道はコートでも寒かった。足早になっても家路までは遠く、今夜中にたどり着けるのかも分からなかった。しばしば焦燥をともなったため息をつく。足も痛み、太股も重くなる。何回か目の橋を越える。東京は川が南北に流れている。ここまでは津波は逆流しない。みゆきは道路から道ばたの家並みを見る。どこにもひとが住んでいるのだろうが、様子がうかがえない。みんな一律に不安なのかもしれない。余震もある。地球の軸がずれてしまったようだ。

 駅で計れば、二、三駅離れた辺りの町並みも見慣れた場所まで来た。段々とひともマラソンのトップ集団のように徐々に減っていき、いまではまったくのひとりだ。夜もまわってしまい、翌日になっている。牛丼屋の明かりが見えるが営業はしていないようだ。身体が冷えている。そして、トイレにも行きたくなった。もう一度、近くの二十四時間営業の店に入り、品物と交換にトイレを借りた。

 こんなことは最初で最後だろうと考えている。定期の区間をひたすら歩いた。途中で運転再開になると思ったが、あわよくばという願いはその範疇を依怙地に守った。固辞した頑固さ。だが、ほんとうはこういう状態になるであろうとみゆきは知っていた。しかし、誰かに責任を押し付けたい気持ちも完全には消えなかった。

 やっと家に着く。ドアを開けて電気をつける。倒れているものもない。ハムスターは静かに横たわっていた。死んだのか寝ているだけなのか判断できなかったが、カゴを静かに叩くと目を開いた。みゆきは生き物を外にだす。手の平の温かな重みは、確かに生きている証拠だった。

 お湯で手を洗おうとしても水のままだった。自分が普段つかっているのが、電気かガスかも理解できない。しかし、部屋の電気はついた。彼女はガスの在処が分からず、真水で手を洗い歯を磨いて布団に直ぐに入った。

 深い眠りだと思ったが、時間としてはいたって短かった。彼女の身体は疲労して体温もなかなかあがらなかった。その割に首筋に汗をかいていた。次に気付くとスズメが外で鳴いていた。彼女は玄関のポストを見る。昨夜、取り忘れたダイレクト・メールや公共料金の検針票などを手に取って確認する。

 下に行くと、大家さんに会う。無事であったことで安心される。彼女はガスの件を話す。大家さんは朝のうちに直してくれていた。

 彼女はシャワーを浴びた。途方に暮れている。自分の人生で出会う災害のもっとも大きなものを経験したと思っている。地面は強固であることを瞬時に放棄した。ビル群は自分の意地もなく、それに賛同して加勢した。水平線の分度器もこわれる。

「それも、君の愚かな意見」
「人間の調査には、人間の気持ちにならないと…」わたしは権力に楯突く。
「また別の部署が役目を負っている。君は組織の一員として動いてくれればいいんだよ」

 わたしも夜通し、どこかの町を心細い思いで歩いてみたかった。それも自由と定義して。

 みゆきの部屋にはコーヒーのにおいが充満する。この日の日本の朝には、優雅に和菓子の味を思うひとなど存在しないほど、慌ただしく、喪失感のともなう決別を促す空気に満ちていた。


傾かない天秤(11)

2015年10月19日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(11)

 わたしは定位置にすわって、引継ぎ書を目にする。

 人間の正常な一日は、歯磨きと洗顔とメークからはじまる。女性の大体の場合は。メークを割愛するひともいる。それだけ自信と勇気があるのだろう。今日のさゆりは、勤務地のビルで夜を明かして、いつものルーティンを守れなかった。目の下には小さなクマができ、皮膚にはこれまた小さなひびができた。顕微鏡でようやくあらわになる程度のものだが。

 半数近くのものが家に帰れなかった。前日の午後に大きな地震が起こり、さゆりがいるビルの部屋もかなり揺れた。女性が多い部署ではその分、悲鳴の大きさも比例する。電話やファックスも不通になり、仕事ははかどらなかった。そもそも、仕事より自分の命という重要さにこころは傾いていた。

 わたしは望遠鏡の向きを変える。ひとつのエネルギーがひとつのエネルギーを製造する場所を破壊した。エネルギーの暴発を抑えるために、充分な水で冷却する必要がある。その水と電源設備を海水が覆う。水は無限にあった。電気もほぼ無限にあった。だが、怪物は牢屋から逃げ出てしまった。

「その報告は、別のところで仕入れるから。君の任務はふたりの人間の調査だけだからね」

 わたしは後方からの声に驚く。監視しているはずが、わたしも監視されていた。
「分かりました」返事とは別に声音で軽い抵抗感を出すことも可能である。
「芸術家先生気取りじゃないんだから。まったく」

 電車は動き出している。きょうは土曜だ。さゆりはみゆきと会う予定があったが、これでは無理だろう。彼女はみゆきの携帯電話に連絡をとってみる。しかし、かからなかった。何度も繰り返したが、結局、何度も拒絶された。わたしはみゆきを四方八方に目をこらして探す。彼女は無事だった。そのことを伝える方法を模索する。だが、運命を小細工でいじくってはならない。わたしは彼女らの初恋を操作して、謹慎処分を以前に受けた。悲しい過去だった。わたしはひっそりと見守るしかない。

 さゆりはいつもより時間がかかったが家に着く。シャワーを浴びようとしたがガスが止まっていた。どこかにある元栓を探しに家の裏側の狭いスペースに身体を挟み込んだ。リセットをするとガスは生き返った。部屋に戻るとあらゆる電子機器が明滅していた。いくつかの品々が倒れ、流しでは洗剤がさかさまに落ちて中味を空にしていた。

 彼女は熱い湯を浴びる。わたしは決して見ていない。その湯の音を聞いているだけだ。彼女は髪を乾かしながら途方に暮れる。突然、電話が鳴って出てみると母親だった。彼女は無事であることを告げ、また家族が無事であることを聞く。すると、急に電話が混線したように切れた。そして、再度かけるも、またつながらなくなってしまった。みゆきにも連絡を試みるが、再び不通にもどってしまった。彼女は毎月、高額の請求があったことをいまになって反省して、同時にこころのなかでののしったり恨んだりした。それでも甲斐はなく、生意気な美少女のような横柄な態度で、美しいデザインの電話は無視をデフォルトのこととして決め込んでいた。

 急に空腹を感じる。彼女は湯を沸かしてインスタントのカップのふたを開ける。湯を注ぎこみ、数分待った。テレビをつけると現状が段々と把握できる。それと共に分からないことが無数に増えた。大きな地震が大きな事故と災難を呼び寄せたらしい。死者も多数でている模様だ。津波が火災を起こすということが、さゆりには理解できなかった。それは主に消火する役目のはずだった。

 昨夜の疲れが出たのか、テレビをつけたまま寝てしまった。数時間後、髪をまとめ、だてメガネをかけて近くの店に食料と食器洗剤を買いにいった。

 町はひっそりとしている。自主的に喪に服している。彼女は突然、誰かの抱擁を期待して、無心に待っていることを感じる。しかし、そうしてくれる相手は皆無であることを知る。その要求や願望を伝えれば狂人と等しくなってしまう。都会に住む女性は強靭なこころを必須としていた。彼女はおとなしくレジでお金を払い、ささやかなポイントをためてまた家の玄関のカギを開けた。

 気付くと置きっ放しにしていた電話に着信の履歴があった。名前はみゆきと表示している。彼女もどうやら無事だった。声をききたくて電話をすると、またもやつながらなかった。彼女はその会社の怠慢ぶりにいきどおる。政治家の通例に使用する遺憾の意とひとりごとを言うが、本来の意味、実際の用途と合致しているのかまったく分からなかった。

 ニュース番組はやたらと活気づいていた。それが彼らの使命であり、愛着ある仕事で、なおかつ、なけなしの必殺技でもあった。きょうも小春日和のうららかな日では、商売あがったりである。

「その意見もいらないね。消去で」

 とわたしは注意される。激動の一日はあっという間に終わる。わたしは自室にもどり、おだやかなこころを失ってしまっていることを知る。お酒でも飲んでうさを晴らせる人間に、なぜだか嫉妬した。わたしたちは頭脳が明晰であることを求められている。業務手帳にそう謳われ、誓いもしていた。わたしは窓から日本列島をながめる。再建への債権とダジャレを考えるが、鬱々としたこころは当然のこと晴れ渡ることはなかった。


傾かない天秤(10)

2015年10月17日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(10)

 ここには休日もある。わたしたちにはリフレッシュなど本気では必要ないのかもしれない。疲れもそれほど起こらない。ただ、ものの見方や視野が狭くなる。そのためにセミナーもある。

 人間も大勢で学生時代に合唱したりする。わたしはその場面をモニターに映す。コーラスやハーモニーは美しいものであった。完全ではないものたちが完全に挑む。人間が高貴に思えるのは、こういう場面のときだった。ときにはしくじり失望する。誰かは涙をながし、誰かは自棄を起こす。友はなぐさめ、敵対者は失笑する。大きなこころをもつライバルは、相手の健闘をたたえる。老人は戦場を去り、新参者はムーブメントを起こす。

 何人かは、努力を怠りピークを過ぎてから後悔する。何人かは盛りの時期が遅れてやってくる。何人かは給料をもらうためだけに目立たないようにして自己を消す。このひとに感動を求めることなどできないだろう。

 人間は休息をして力を取り戻す。ビールを飲んで、ポテトチップスに手を伸ばす。バーのカウンターでスコッチを前に酔い潰れる。イタリア人はワインと共に歌うように会話している。簡易なオペラ。

 ステレオタイプ。いびつな体型の宇宙人。ラップができない黒人。雪のないモスクワ。冷夏のゴールド・コースト。ひとは仕事をしながら育つ。休日に釣竿を垂れ、無我の境地に至る。わたしは飽きはじめていた。人間の営みが見たかった。その一員になり迷いながら、煩悶しながら生きてみたかった。

 数名がここでの記憶を奪われ、人間の身体を与えられて地上に落とされた。急にではない。母の胎内からすべてははじまる。デジャビュという既知で未知な体験。彼らは数十年の生活を経て、またここにもどってくる。サンプルは採取されたのだ。二軍の選手としてのどさ回りが生かされる。

 彼らはナポレオンと進軍して、モーツアルトの天上の音楽を直に聴き、チャイコフスキーの曲で踊る可憐な少女を眺める。ジャッキー・ロビンソンをスカウトして、ベトナムの戦場で写真を撮る。ニューヨークの巨大なビルの瓦礫の下敷きになり命を落とす。当然ながら百科事典以上の知識が、ここのライブラリーにはストックされている。複数の目であり、整理された保管庫なのだから。

 食材も無数にあり、現実の味を経験者は伝えてくれる。寿司という数秒で構成される微妙な形。指と手の平でバランスよく保たれる永続を求めないもの。左利きの大将。

 肉や魚の種類。きのこたち。エスカルゴ。卵たち。卵でうまれる生物。

 フランスのまだ無名のシェフがスープをかき混ぜている。そして、まだ無名の司祭が食べている。その世界の真裏では車を組み立てている。また別の場所では故障したその同じ車を修理しているひとがいる。詳細な図面や設計図もなく勘だけで直していた。勘といっても経験の集大成ともいえた。それから手を洗い、僧侶たちの横で熱いじゃがいもを食べている。

 休日の半分が過ぎる。我々はなにも生み出さない。地球をつくり、環境を整備し、海水を充たした方は別にいた。ずっと昔に仕事を終えてしまった。我々は維持を見守るだけだ。高速道路の通行料を取る立場と同じだ。道路は誰かがつくり、今後の設計も誰かがする。

 常備薬もない部屋。あらゆるデータを取り出せる無限の机。ほんとうは有限だ。うなぎの稚魚が生まれる場所のデータを知らない。ウラジオストックの服の仕立て屋の裏地のセンスを知らない。また、病気がぶりかえしてきた。センスやデザインという機微も有していないのかもしれない。

 数々の公園。数回のオリンピック。バルセロナの建築。ひとも休日を過ごす。長い休みには旅行に行く。家は厳重に戸締りをして、冷蔵庫で腐るものはあらかじめ食べたり、あるいは処分する。余分か足りないかの二択の生活。銀行員と経理係は着服と戦い、力あるものは収賄のきっかけを投げかけ、力がないものは横領の算段をしている。

 だが、人間は蓮の花なのだ。休日の限られた時間が段々と減りつつあるいま、なぜだかそう思っている。何も生み出さない。ノルマもない勤務。月に数度、報告書を提出するだけ。危険も冒険もない。リスクも勝利もない。安全というのは馴れきってしまっても退屈なものだ。

 翌朝、またみゆきとさゆりの一日を追う。今日、彼女らになにが起こっただろう。ふたりにとって快適な日だったろうか。安堵とともに眠れるのだろうか。夕飯はなにを食べたのか。わたしはひとに興味をもちすぎる。

 一日の締めくくりにフランスの幸福という題の映画を見る。森や野原に休日に出かける。食料をもって。家族という単位で。そのために予定を立て、車に乗る。つづいて、勢いでギター弾きの恋という映画も見る。わたしは本気の触れ合いを求めているのかもしれない。監視というのはつまらないものだ。窓から地球を見下ろす。日本列島が見える。大きな波が東北地方に向かっているようにも思える。なにか異変があったのだろうか。休日のわたしの部屋は防音が効いていて、なにごとにも関与ができない。


傾かない天秤(9)

2015年10月15日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(9)

 さゆりも恋をしている。若い女性にとって、それも仕事なのだ。

 加算主義と減点主義。ひとは恋をして、躊躇して、のぼせあがって、幻滅する。裏切られて、もらったプレゼントを処分する。質屋にいって、リサイクルの線路で運ばれる物質もある。ダイヤは硬く、こころは柔らかかった。

 さゆりは恋をしていると勘違いしているひとと向かい合っている。ただの一点だけで終止符をうつものもある。彼女の場合はどうなのだろう。男性がひじを付いたまま食事をはじめる。ひじとテーブルは磁石のように離れることはない。彼女のこころはビートを止める。あるいは不規則になる。彼はこれからはじまるという期待のスタートにいたが、それは彼女側では無惨に消滅してしまった。ただこの場だけを楽しくやり過ごそうとしているだけなのだ。

 さゆりは恋をしている。両親はしつけに厳しかった。彼女はそれで自分の振る舞いを笑われることなどなかった。皆無である。感謝しなければいけない。

 次の美男の彼は、箸を不器用に扱った。減点である。彼女は自分の意図しない領域で苦しみ、希望の種を隅に追いやった。陥れられた炎。わたしは批判をくぐりぬけ、報告書を芸術作品に仕立てあげたかった。

「なんだ、これ!」
 わたしは月に一回だけ提出するレポートを読む管理者の前で小さくなっている。
「けん命に記入したのですが…」
「人間に毒されているよ、まったく」

 だが、やり直す時間はない。次の報告と監視をつづけなければいけない。

 さゆりは恋をしている。その予感にじょうろで水を与えている。完璧を求めすぎていると反省もしている。彼女は昨夜のデートを記憶のうちに思い起こしながら、バスルームを掃除している。鏡はピカピカになり彼女の研ぎ澄まされた輪郭を映す。甘いものも控えている。神経質に見える要素はまったくない。人間は年齢を重ねると、そのひとの本質を、経験した苦しみや葛藤を刻み付けていく。

 キッチンもきちんとしている。タンスのなかも端整だ。玄関も厳格に整理されている。わたしはことばを操る能力の限界を感じている。ダジャレの介在は最低な類いのもので、人間関係の貴き高みへの放棄の一因だった。そして、わたしは人間でもない。次の恩赦を期待している意識のみの存在だ。

 しばらくするとさゆりは着替えて外出した。きょうの待ち合わせは、男性ではなくみゆきだった。ひとは緊張ばかりではいけない。緩和と安心感も必要なのだ。さゆりは彼女といると和む自分を感じている。永遠につづくかと思われる無駄話に興じている。みゆきは御曹司の話をさりげなく振る舞う。彼女の口が発すると自慢とかエゴとか優越とかは微塵も感じられない。彼女の濾過でどこか抜けた二代目になり、気のいいお兄ちゃんになる。

「ところで、さゆりんは?」いつの間にか、あだ名をつけられている。
「みゆちゃんみたいな育ちのよい坊ちゃんは全然いないよ」互いにだった。

 さゆりはとくに嫉妬をしているわけでもない。根が優しくて親切なのだ。少しだけ自分を律することにきびしいだけだ。それが仕事上の責任となって発揮される。彼女はたまに仕事のことが頭から離れなくなる。いまも自分の雑誌に生かすために、ある可愛い女性の姿や洋服を目で追ってしまっていた。素人からモデルになった似た年代の子を彼女の雑誌は特集していた。

 最初は誰でも素人なのだ。継続こそがプロともいえた。数作で消えた詩人は、その理屈ではプロとは呼べなくなるが、後世に産み落としたものに永続性が生じればプロの仕事として疑う余地もない。だが、そこには経験からくるテクニックの巧みさはない。瞬時に起こった奇跡なのだ。

 さゆりは手元のメモに、となりのお客の姿をスケッチする。みゆきは覗き込んで感嘆の声をあげる。

「そういえば、高校のとき、絵がどこかの会館のロビーに展示されたことあったよね?」
「覚えているんだ。珍しい」
「どうして、あそこに行ったんだっけ…」それは自分に投げかけた質問だ。問いも答えも同一だ。

 いまの段階では過去はもどってこない。いつか先ではもどってくるかもしれない。個性があれば目立つ。容姿、運動能力、頭脳、手先の器用さ。同時に埋没しつづける者もいる。個性がないわけではない。その特技が同年代のなかでフィットしないだけなのだろう。個性は大人になって職業として活用するひともいるし、趣味という聖地に押し込めるひともいる。日常の疲弊を休日に趣味に没頭して解消する。だが、あるときには脱落したものだけが趣味という領域に適することもある。及第点より少し減点。草野球の楽しみ。プロは競争であり、切磋琢磨でもあった。

 さゆりは加点も減らすことも、いまはとっくに忘れていた。大笑いして、夕方を過ごしている。すると、みゆきの電話が鳴った。相手は坊ちゃんである。無鉄砲ではない、育ちの確かな坊ちゃんだった。赤シャツも知らない。数日先の予定が埋まる。レストランは予約され、料理人は食材を手配する。ソムリエはワインの温度を測る。コーヒーの栽培に従事する労働者はひげを剃るタイミングを逸している。世界は回転している。人間の目が回らないぐらいのスピードでゆっくりと回転している。さゆりの横の席では、その自転の威力に負けないため、ひじを突いて投げ飛ばされないように身体を押さえている無頓着そうな男性がいた。わずかばかり必死になってその体勢を維持していた。



傾かない天秤(8)

2015年10月14日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(8)

 みゆきは恋をしている。その感情を漠然と想像する。

 捉えられた人間は天国に住む栄誉、住居の合鍵を得たようでもあり、同時に地獄の煩悶を浴びているようでもあった。自分の思い通りにいかない場合は。至高の状態を保ち、絶壁のうえから奈落へ転げ落ちたようにもなる。その連係がくせになって、いつまでも追い求める人々もいる。いろいろなものに中毒になるのが人間だった。そして、副作用があり、禁断症状もある。治療があって、根絶不可のものも多い。どうやっても避けられないものかもしれないがうらやましくもある。

 就業後、鏡に向かって化粧を手直ししている。ひとは外面の生物でもあり、意識の集約でもある。肉体のよろこびもあり、精神の苦痛もある。老人になれば反対に肉体の苦痛も生じて、あるときから精神の恍惚もある。意図的にアルコールで鈍麻させるひともいる。

 若い女性のホルモンの分泌。昆虫も蜜を求め、秋の夜長には鳴く。ただ足先や皮膚をこすっているだけなのかもしれないが。わたしも別の生物のことを深く研究をしたいが、その時間もない。だが、それも言い訳だ。わたしたちには永遠という時間がある。

 みゆきは仕上げに香水の霧雨を浴びる。トイレは彼女の匂いで満ちる。ひとは嗅覚が発達する。匂いで個人差を区別する。しばらくすると彼女は商業ビルの一階にいる。大きな樹木が目印だ。彼女は先に着いてしまう。ここに来るまでにいくつかのポケット・ティッシュを受け取る。小さな広告。さらには水商売の誘いの文。

 男性がやってくる。わたしのところにも調査報告書が送られてきた。両親は裕福な暮らしをしている。ある会社の創業者の息子が彼の父だ。彼は三代目になる予定である。いまは別の会社に出向して、あらゆる仕組みを学んでいる。だが、遊びたい盛りでもあった。仕事も上の空で女性との楽しい夜を優先させることもしばしばだった。

 そのリストもある。わたしは顔と名前を確認する。そこには規則のようなものがなかった。一貫性がない。たれ目な女性がいて、目元が涼しいひともいる。大きな口があり、慎ましい口元がある。高い鷲鼻があって、小さな鼻翼もある。わたしは少し困惑する。そうこうしている間に、彼らは上階にある飲食店に入ってしまっている。

 みゆきはバッグを背中に置き、背もたれによりかかることもしない。姿勢が正しい。男性の腕には分厚い腕時計がある。きれいな爪をしている。労働とは頭脳の領域なのだ。いずれ彼の指示で多くのひとが動くことになるのだろう。司令官と兵隊。名もなきソルジャーたち。

 わたしは観察を忘れ、いつもの公平さへの意欲と身びいきへの恐れを感じてしまう。これもまたわたしの病気だった。だが、みゆきが幸福になるのならば問題はなかった。安定を手に入れ、幸福を得る。ひとは好んで難破する船に乗り込んだりはしない。

 みゆきの眼は、適度に潤んでいる。無言でありながら饒舌でもある。目は口ほどに、であった。ああいう視線を迎え撃つ男性はどういうこころもちなのだろう。

 彼も能弁なひとだった。最近の日常に起こっためずらしい話を提供している。みゆきは笑う。笑うと幼く見える。しかし、その数パーセントを占める脳では食後のデザートのことを考えていた。

 彼女はトイレに立ち鏡をのぞく。ほんのりと顔が赤くなっている。後ろの個室ではトイレット・ペーパーが豪快にカラカラと回転する音がする。多分、競争をしているのだろう。目標と達成が必要な世の中なのだ。

 みゆきは試しにほほえんでみる。伏し目がちになって、今度は目玉をくりくりさせる。顔というのは不思議なものだ。二つの目。上方にある眉。ひとつの鼻にふたつの穴。ひとつの口。ふたつの耳。その下方に垂れるアクセサリー。

 彼女は髪型を整え、席にもどった。デートの相手は油断してとなりの女性の方を見ていた。みゆきはそのことに気付かない。男性はハンターである。育つのを待ちはしない。咲いたものをその都度、切り取るだけである。わたしは弁護しているのかもしれない。事実を歪めることはできないのだ。彼はうしろから近付くみゆきの足音に敏感に振り向き、笑顔を向ける。

 お会計は済んでいた。憎めないヤツであった。彼女は感謝のことばを述べて、ふたりはエレベーターの箱に乗り込み、下に降りる。

 夜は早かった。まだまだ早かった。彼はこの後の予定を訊く。こんな遅い時間にスケジュールを入れるものもいない。わたしは街路のイルミネーションを眺める。シャンゼリゼほど美しくもないが、それほど悪いものでもなかった。

 わたしは前の世紀のパリにいた。いや、監視をしていた。戦後、間もなくで明かりは暗く、爆撃の痕跡もあった。わたしが担当していた女性はドイツの将校との関係があり、いままさに坊主にされるところだった。わたしは願い出て担当を変えてもらう。それに比べてみゆきの髪は長く、スケート選手のように夜風が優雅に髪の間をすり抜けていく。北からの風も華麗にひるがえって加勢した。



傾かない天秤(7)

2015年10月10日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(7)

 さゆりは休日の朝、近くのコインランドリーに行った。引っ越しの際に友人から譲り受けた洗濯機は故障している。新品を買うか、部品を交換するかで迷っている。料金はどちらも似たようなものだった。ボーナスまではしばらくある。彼女は半渇きの衣類をバッグにつめ、家まで戻る。乾燥機は使用せずに、家のベランダに干す。太陽はあらゆるものに恩恵をほどこすのだ。

 彼女は化粧をしていなかった。カモフラージュのようにメガネをかけている。視力は悪くない。ベランダからの眺めはあまりよくないので、その視力のよさを有効的に利用することはできなかった。

 都会は空気の汚れているところだ。山奥の新鮮な空気や、牧場ののどかな風景などあるはずもない。海も汚い。だが、地球のあらゆるものは循環している。

 洗濯物を干し終えると、彼女は化粧をはじめる。まだ十時前だった。きょうはみゆきと遊園地に行く約束があるのだ。天気もよい。雨男や雨女と評する、あるいは評される人間がいる。疑いというものはおそろしいものだ。そして、ある種の人間はレッテルを貼りたがる。

 玄関のカギをしめて階段を下りる。エレベーターもいらない小さな建物。彼女にはめずらしくスカートを履いていない。近くでサイレンの音がきこえる。彼女の視線は左右に揺れる。どこかで火事があるのかもしれない。だが、ここからでは煙もなく、臭いもしない。彼女の頭は直ぐにきょうの楽しみへと奪われ、誰かの悲劇の可能性を忘れてしまう。

 わたしは望遠鏡を別の方向に向ける。根本的に野次馬なのだ。ビルの上階で炎があがっている。住人達は避難しているようだ。だが、火の勢いは止まりそうにない。消防隊員が到着して早速、放水作業をはじめる。彼らはこのときのために訓練しているのだ。人間は火を発明する。いや、発見する。

 さゆりは電車に乗って手すりをつかんでいる。外を眺めていると遠くで火が舞い上がっているのが見えた。上空にはヘリコプターの姿も見える。だが、一瞬でその映像は過ぎ去ってしまう。乗換駅でみゆきが待っていた。彼女は火事の話をきく。

 またそこから電車にのる。遊園地は近くにない。みゆきは学生のときにしたバイトの話をする。彼女もそうした場所で働いたことがある。裏方は悲しいものだ。たくさんのデートの現場を見る。プロとはサービスに徹する極意なのだ。楽しみ方の掟を知り、訊かれたことには正確な答えを用意しておかなければいけない。だからといって過剰も手控えもいけない。自分にできないことでもうまく説明できる。わたしの命は長いのだから。

 入場料をふたりは払っている。わたしはその値段が妥当であるか確認する。昨年の統計を見る。資本の投資と回収する年数も調べる。同じであることを許されるのは自然の風景だけだ。昭和の行楽地はのどかだった。わたしは過去の調査時代をなつかしがっている。癒着が起きないように担当が常に変わる。必要以上の愛着は悪に傾きやすい。

 アトラクションに並ぶ列ができている。むかしのソ連のマーケットのようだ。だが、両者の表情は異なっている。正反対ともいえる。期待と絶望。わたしはあの日々、ナターシャという女性を受け持っていた。品薄との戦いだ。人間は国に属す。国同士は共有より仲違いを優先させる。個人はまた別だが、いざとなれば国が中心となる。わたしはナターシャのその後を知らない。情報の管理がきびしい。しかし、望遠鏡で熱心に探せばいるだろう。時間に追われているのでその余裕がなかった。

 夜になると盆踊りのようなパレードがある。ひとは一体感というものを大事にする。

「次は彼氏とくる」とみゆきが言う。さらに言い訳のようなセリフも付け足す。「ちがうのよ、きょうが楽しくなかったわけじゃないけど」
「わたしも」とさゆりがいう。さゆりは空腹になり、足が痛かった。楽しみにすら相応の仕返しがある。

 彼女らは向かってすわる。遠いむかしにひとりの男性を奪い合った仲なのだ。あれは奪うということには満たなかったか? サスペンスの映画ならば、どちらかが恨みをひた隠しにして復讐の機会をうかがっている、ということにでもした方が魅惑的だが、実際はそんなにうまく運ばない。そもそも彼女らの頭から木山くんという男性はまるっきり消えていた。

 食事とともにワインの小瓶をふたりで分け、いまはデザートを食べながらコーヒーを飲んでいる。一日は終わろうとしている。明日からまた仕事がある。わたしのきょうの仕事も終わる。

 最後に火事の現場を見る。鎮火されている。もう少し視線をずらすとさゆりの洗濯物がベランダで揺れている。だが、ふたりが店をでると、ぽつぽつと雨が降りはじめた。ふたりは傘を用意していない。小走りで駅の改札に向かう。わたしの業務も終わった。リ・クリエーションとひとりごとを言う。自分自身の再生。遊園地を題材にした映画でも見たいが、なかなかその主題に合うものが分からなかった。交代の夜勤の観察者が来て、わたしは席をゆずる。引き継ぎのノートを見て、「火事があったんだな。災難だ」と夜の観察者は感想を漏らしてから任務に入った。



傾かない天秤(6)

2015年10月03日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(6)

 さゆりは玄関でハイヒールに足を入れている。人間は不思議なものを多く発明したが、その最たるものとして際立つのはわたしはこの形状だと思っていた。

 その頃、みゆきは目覚まし時計を止めている。さらに数分後にもうひとつが鳴った。あくびをして、頬のあたりを指先で掻く。それから、コーヒーをセットして洗面所に向かう。何分か経つと卵が焼ける匂いがする。わたしは昨年の統計表を眺める。全世界で食べられた卵の数。産んだにわとりたち。別のところには、ウズラやダチョウの累計もあった。地球上をにわとりで埋め尽くすことなどできない相談なのだ。

 みゆきはサンプルをもってデパートに出向く。デパートの前で先輩社員と合流する。ちょっと先に物産展の予定があり、彼女の会社の和菓子も出展される。ブースを確認して、納品する品数や日程を決める。世の中には無数においしいものがあり、味覚に精通している方々もいる。宇宙空間でも栗羊羹の味にこだわるひともいる。わたしは地球外の飛行物体を見る。重力や摩擦は負ではなく正しいものだった。

 同業他社のサンプルが持ち寄られ、和気あいあいと試食会になってしまった。チョコがあり、クッキーがあった。ケーキやマカロンもある。甘いシロップのような飲み物もある。少しアルコール分が含まれているのか、その微量な液体だけで酔うひともいる。

 みゆきと職場のひとは片付けを終えると、会社に戻らないで近くの喫茶店にはいった。彼女はまた別のケーキを食べている。その様子を見ていると、不思議とこちらまで幸せな気分になる。彼女は最近できた友人の話をしだす。そこで発行しているおしゃれな雑誌の内容には甘いものの特集が含まれており、彼女はその全部を食べてみたい誘惑に駆られたらしい。

「どんなタイプ?」男性は見果てぬ女性を探す生き物である。ネクスト。次の患者さん、どうぞ。
「すらっとして、きりっとして、はっきりしている」
「女性を例えているんだよね?」
「そうだけど、おかしい?」
「そんなんでもないけど、どこで知り合ったの?」
「もともとは同じ高校だった」
「恋敵だったとか?」彼は表情を読み取る。「図星?」

 わたしは、人間のつかっている辞書を取り出す。まさにその通りと探りをいれたことによる指摘の当確。わたしはことばが段々と分からなくなる。

 ある場所で再会してから、休日に遊ぶ関係になった。今度の休みはふたりで遊園地に行くらしい。そういう発言がなされている。わたしたちには移動などない。いつも、ここで人間たちの営みを観察している。一日の半分は。入場料をはらって怖い乗り物に敢えて乗る。生きるというのは刺激を追い求めることなのだ。恐怖感はうれしさにもつながり、高い場所もあるひとにとっては快感の一種となる。反対に絶対にダメなひともいる。苦手も快感だという場合もある。いや、苦手の強要ということでの上かもしれない。

 ものを製造して売る。商品経済というものが成立している。ものには賞味期限があり、普通は日付けを偽ったりはしない。だが、悪知恵のあるものはたまにその誘惑に屈する。のちのち大打撃になることを予想しながらも。

 みゆきの母はウソや泥棒はいけないと古風なことを厳しく言った。親が伝えられるのは、ほんのわずかなことなのだろう。みゆきは守ったが、過去に二股をかけられたことがある。その当人の両親は、どういうことを教えたのだろう。

 さゆりはまたオフィスで肩をもんでいる。このふたりを比べる。細身とぽっちゃりとした異なった外見。高校生の彼はなぜ、彼女らを同一に置いたのだろう? 違っているから興味を魅かれたともいえる。ないものねだり。彼は現在の彼女らを見たら、どういう感想をもつだろう。未来を想定して恋するわけでもない。現在のやむにやまれぬ内なる衝動に突き動かされているだけだろう。男の子には棒がある。ある時期はそれがその彼の肉体の支配人なのだ。分量として少ないのにもかかわらず。

 わたしはその密接さに恋焦がれているだけなのかもしれない。高等であると自任している我々は、意識だけで交流できる。意識はある種の触角である。先鋭化されたアンテナでもあった。アンテナの感度が良ければ良いほど通信は早く終わる。だらだらとか悠然と、そういう類いのものがうらやましい。まわりくどさもビジネスでもなければ楽しいのだろう。

 みゆきは会社に戻り、パソコンに今度の予定を打ち込んでいる。その後、発注する品の個数を再確認して、上司の承認を得る。売れ行きが良ければ、次の日、翌々日と生産量を増やす計画だ。どこかでパートのおばさんが饅頭にアンコをいれて包んでいる。その女性は甘いものが苦手なのかもしれない。仕事というのは好悪と無関係の場合がたびたびある。飛行機の整備士が旅行に励んでいるわけでもないだろう。船での世界一周を目論んでいるのかもしれない。

 みゆきは周りの職場のひとに挨拶をして帰社する。週に五日。今週は土日も働く。デパートは書き入れ時なのだ。さゆりは髪をうしろで束ね、残業をしている。締め切りこそが全世界を司る神だった。その審判の日は間もなくに迫っている。コーヒーを飲む。みゆきは自宅で小さな缶ビールを飲んでいる。