爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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傾かない天秤(20)

2015年11月16日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(20)

 最後の日。

 無菌室。地球にはさまざまな微生物がいる。ウィルスや微小な細菌や酵母がある。パスツールやコッホの理屈のように。

 さゆりとみゆきの身体にはうごめく無数の異物がある。それぞれの交際相手から受容したものだ。異物はある瞬間から拒絶の固い殻を突破して、もうひとつの身体のなかで立派に生きるようになる。

 わたしは風邪薬のカプセルのようなものに閉じ込められている。小指の爪ほどもない。もっと小さく、爪を切ったものより微細だ。これから、洞窟の吸引力に身を任せる。それでも、地球は動いている。

 もしかしたら、わたしはさゆりかみゆきのどちらかに移植される可能性もあることに気付いた。皆無ではない。実際のところは分からないが、そういう淡い期待も捨てがたかった。だが、世界中に幅広く人類はいる。本日、総計として何人がその種子の授受に果敢に挑むのだろう。

 それにしてもさゆりとみゆきは思いがけなく生命の神秘の当事者になった事実を知らされたら、どういう行動を取るのだろう。片方は結婚につながり、片方は早まって堕胎をするかもしれない。そのときにわたしという個体はいったいどこに行ってしまうのだろう。もう、ここに戻ってくることはできないのだろうか? 門前払いか。それとも、数ヵ月後に調査未報告という不甲斐ないベルトを巻き、たすきをしょ気た肩にかけてもらいしらじらしく帰ってくるのか。途中リタイア。脱水症状。わたしは永久追放の憂き目にあうのか。なにも分からない。賭け率も不明だ。

 カプセルは台にしっかりとセットされる。恐怖感が増す。わたしは未体験者である。ライカ犬でもあった。それこそ、ガガーリンであり、リンドバーグでもあった。ザトペックでもありアベベでもある。前人(前犬)未到である。そして、オズワルドでもあった。混乱したわたしをさらに支離滅裂さが支配する。

 わたしの昨日までの任務。あれは賞にも値しない。読み返されることもなく、どこかに放置されたままだろう。悪質な者なら富士山にでも不法投棄するだろう。わたしは新たな場で使命を全うする。いつかオリンピックに出る若者になっているかもしれない。ノーベル賞にノミネートされるべく研究をこつこつとつづけるかもしれない。一流の詐欺師になるかもしれず、戦場でカメラを担いだまま撃たれるかもしれない。残ったフィルムだけがわたしである。

 安全ベルトが金属的な音とともに締まる。さらば、この場所。

 わたしはモナリサのモデルを知っていた。だが、本物の絵をパリのあそこに見に連れて行ってもらおう。ピサの斜塔を分度器で計ろう。ピラミッドのいちばん上に真ん丸の小石を置こう。恐怖感をけん命に拭うように、わたしは呪文になることばを探して、のべつ並べつづけた。

 見繕いは終わらない。イルカと泳ごう。赤ちゃんの虎をひざの上に載せてもらおう。たまには星空を見上げよう。わたしはあそこの住人であったことを突然、思い出してしまうのだろうか。みゆきやさゆりはどこかにいるのだろうか。最後の任務の対象物。もし会ってしまったら、わたしはすんなりと気付くのだろうか。

 おいしいものをたくさん食べよう。ゲテモノでもかまうものか。お酒もたまには飲もう。誰かを誉めて、ときには誰かの悪口を言おう。人間など完全なものではないのだ。むしゃくしゃすることも稀にある。感情の扉を開き、試しに誰かを好きになってみよう。誰かから好意をもたれたらどれほど嬉しく、どれほど恥かしくなるのか。同じぐらいに嫌われてもみよう。報告という使命こそがもっとも大事なのだ。

 カウントダウンがあって、どこかに点火されて勢いよく発射した。トラトラトラ! エアバッグは搭載されていなかった。リコールの対象ではないのか? 疑問も解決しないままにテレポーテーションで即座に湿地帯にまぎれこむ。てるてる坊主の効き目はなかった。わたしは衝撃で首を痛める。しかし、直ぐに立ち上がりキックボクシングのまねごとをする。数ヵ月後に母の身体を内側から叩いたり、蹴ったりして存在をアピールして、以降は相互の意志疎通を繰り返さなければならないのだ。最初は片思いにせよ。時間がない。継続が力であり、蝶のように舞い、蜂のように刺すのだ。これぞ、胎児の母体虐待である。相手も上手でモーツァルトの軽やかなメロディーでうっとりとさせて注意と集中力を奪うかもしれない。無駄な企み。それにしても、この母体の主は誰なのだろう。かすかに声がする。どうも、日本語のようでもある。

 テレビでは夜のニュースが流れているようだ。ドルという通貨に対していくらとか、アメリカの雇用統計が話題にされている。わたしは失業者になるにはまだまだ早過ぎる。

 段々と麻酔が効いてきたようだ。無性にねむい。わたしは九ヶ月間ほどの時間をかけてゆっくりと記憶を抹消される。産声の発声方法しかのこされない。音程も狂わされる。そのままでいけば音痴の道しかない。

 天気予報の音がしてテレビが切れた。最後に国歌が流れたような気もする。幻聴だろうか。

 女性は歯をみがきながら鼻歌を口ずさんでいる。陽気で朗らかなひとのようだ。わたしは直前の移動によって疲労困憊していた。片足ずつ身体が前後に動くたびに、このわたしのプライベートの小さな部屋は振動を受ける。天井は上下に、天秤は左右に揺れる。その影響下にありながらも眠くて仕方がない。一先ずは、侵入は成功したようだ。すると突然、身体は横たわる。男性の声も聞こえた。聞き覚えのあるような気もするし、まったくの他人にも思える。運がよければ顔を見る機会がある。ぜひとも、拝見させていただきます。優しい父なら尚いいだろう。厳しさもまた愛情の裏のページであるのだが。

 わたしは完全な睡魔に包まれた。拘束されている。早く地上に出て、たくさんのひとに抱っこされたかった。お相撲さんにも泣きながらでも抱いてもらおう。父は毛深いのか? ひげの濃い男性の頬との密着だけは、敏感な愛らしいわたしか、あるいは泣き虫のぼくの肌には手に負えないだろう。

終わり

2015.11.14


傾かない天秤(19)

2015年11月15日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(19)

 友人の恋人。兄弟の恋人。両親の新たな配偶者、子どもが我が家に連れてくるはじめての恋人。

 そこに脚本家の技術と無尽蔵な想像力をまぶせば一本のハリウッド映画になる。世界はわだかまりと信頼の狭間で暮らすようになっている。

 好意をもっていた相手が、耐えられない存在になり、不快な仕草を発するものと認識するところにまできてしまう。その差や、経過した変化を分析したくも、きちんとした解答はない。ひとは飽きるものだし、また反対に安全に保護された状態で、すっぽりと包まれているのも好むものである。

 さゆりとみゆきは四人で会っている。遠いむかし、ふたりはひとりの青年に好意を向けた。あれから十年近く経ち、それぞれの好みも変わる。取捨選択をする。打算から発生するのでもなく。この部分は必須で譲れない。ここは、まあまあ妥協しよう。その駆け引きと兼ね合いを入れても、最終的には恋心というハリケーンに襲われたら解決は簡単だった。いつか、急激に気圧を下げたとしても、あとの祭りである。

 優越感があり、劣等感があるのが人間だった。友人通しでも、いや、友人通しだから多少、見え隠れする。容姿と懐具合と会社名と実家の実力とか、いろいろな長短を対面しながら点検する。男性ふたりはなかなか打ち解けないが、大まかにでも一致できる共通の趣味をさがしている。さゆりの恋人は加点方式を取り、みゆきの彼はフラットな立場を維持しながらも、減点方式を採用している。

 そのままの隙間がありながら四人は公園を歩いている。間もなく、ひとつのボールを彼らは投げ合った。身体というのは正直な器官である。そうすることによって、彼らの壁はくずれつつある。そもそも、最初から憎もうとしているわけでもないのだ。効果的なとっかかりさえあれば成功する。

 四人で食事をする。好みも違う。愛するふたりでも違うものは違う。その差異を大げさにすることもできるし、埋め合わせることも可能だ。

 わたしも離乳食をすませ、当初は小さな乳歯にせよ、きちんと自分の歯で咀嚼する時期になるのだろう。いったい、どんなものを好むのだろうか。クスクス。ラザニア。サボテンのステーキ。蜂の卵。

「極端すぎますよ」
「普通って、なんだろう?」
「デリバリーのピザ」
「市民権」

 そして、わたしも労働者になる。どんな仕事に着き、どんな技能を身につけるのだろう。おしゃべりが過ぎると呼ばれる男性なのか。無口なデパートの受付の女性になるのか。美は、どの程度あった方がよいのか? 生命と生活は疑問だらけでもある。

 四人はふたりの二組になった。もっとも簡単な割り算である。誰かがゼロを発見する、なくて、あるもの。あっても、ないもの。わたしの頭は混乱する。賢い父や母が必要である。

「あっちに行ったら、どうしたいですか?」
「だって、記憶もないんだよ。返答に窮するよ」
「ま、そういわずに。モットーみたいなものがあるはずでしょう? 生きる指針とか……」
「無事之名馬。ブジコレメイバ」
「ブフッ」新たな観察者は急にむせた。「若いときは、もっとがむしゃらな方が頑張れると思いますよ」
「そうだろうな」

 ふたり同士は、夜の仕上げをする。睡眠時間を削ってまで。それも若者の仕事なのだ。出生率が低下すれば、わたしの降下の順番も遅れてしまう。今朝、ついに辞令がでたのだ。愚かで、賢い人類の一員として調査生活をする。パスポートに似たものを与えられる。入国のハンコはまだない。我輩はひとである。変な名前を付けられても拒否できない。

「でも、どこなんですかね? 場所」
「アラスカはやだな」
「妊婦の分布図でも出してみます?」担当者はデータを探す。「前年度の統計ですけど」
「ふむふむ」わたしはしばし眺める。「アジアは一部をのぞき、減少しているんだね」

「対策もやっているんでしょうがね」
「でも、今年のこれからだからね。最中」
「ま、そうですね」最中が終わり、モニターが起動する。「まさに真っ只中」
「しかし、わたしを観察する者もでてくるわけだよね。ここのどこかに」

「当然」
「誰なんだろう?」
「収賄は厳重に禁止されてますよ」担当者は突然、まじめな顔になった。「そろそろ、勤務も終わり。明日、最後ですよね。いろいろありがとうございました。簡単に打ち上げでもします?」
「それもいいね。チェーン店にでも予約しておいて」ふたりは笑う。

 人間界にはあっても、ここにはない。憂さを晴らしたり、上司の悪口をいう機会もない。絶対的な君主もいない。酔うということ自体が分からなかった。今後、二十年以上経てば、その気持ちも、そして翌日の不快感も、さらには無鉄砲や八方破れになることも分かるようになるのだ。

 わたしは部屋にいる。わたしはささやかなコレクションを手放す。わたしは見返りにもらえるものなど一切ない。すべてを放棄してこそ、地上に降りられるのだ。身軽でなければ困る。一財産を抱え込んだ赤ん坊など、どこにもいないのだ。

 意識の生物が、肉体を備えて重力の世界に飛び込む。歩く、走る、抱く、叩く、という肉体の機能をつかった運動もできる。年齢という有限のものの奴隷となる。最後には、歩くこともままならなくなって帰ってくるだろう。宇宙旅行から帰還する飛行士のように関節も筋肉も衰えてしまう。だが、希望はずっと大きい。見るという受動的なことから、自発的に動くという能動的な世界の住人になる。使い古された表現で例えれば、失うものはなにもなかった。わたしは最後の夜を迎える。遠足の前日の子どもたちは、もしかしたらこんな浮かれた気持ちだったのかもしれない。てるてる坊主ぐらいは軒下に吊るしておくことにするか。


傾かない天秤(18)

2015年11月14日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(18)

 みゆきはダイエットについて心配している。頭のわずかな部分だが、常にシグナルを発している。警告音はしばしば遅れてやってくる。だが、その体型をあえて好む男性もいる。そして、意に反してなのか不明だが、彼女は最近、きれいになったという評判を得ている。

「うまくいっているんだ?」と、さゆりが訊く。自分自身も順調だった。友人通しが同じタイミングで幸運をつかむことなどなかなかないことかもしれない。世の中はシーソーのようにできているのだから。

 みゆきは概略を話している。だんだんと支流にすすむ。はた目には文句をいっているようにも聞こえるが、本心とは違うのだろう。第三者に対して自分の恋人を誉めるという行為はかなりむずかしいものだ。分析もされたくないし、必要以上の同意も恥ずかしい。男性の心理はどういうものだろう。異なる文化。別個の民族。

 話しながら甘いものを食べている。カロリーも知っている。凡その体積も把握している。だが、頭を麻痺させることも重要だ。スポーツの試合で興奮するより、テーブルにケーキがあった方が彼女の体内のエネルギーはより柔軟に、縦横に動いた。異なる解釈の男女。

 いつかそれぞれのカップルと四人で会うことが相談される。恋人が友人関係に及び、家族の一員に達する。両親は選べないが、配偶者は選べる。義理の息子や娘は理想に背くかもしれないが、孫の姿は見たい。よそよそしい関係も段々と打ち解けてくる。その前に恋人の両親の前で譲渡、贈与の儀式がある。

「ものじゃないよ!」

 お叱りが入る。わたしは小津映画をこの場で見過ぎたのだ。過剰に。家族の原型をあそこに求めている。旧式な考えに縛られている親がいる。ジェネレーション・ギャップがいつの時代にもあるが、小さなトラブルを乗り越え、ひとつずつ摩擦を解消してゴールに近付く。そのゴールを切った地点が新婚夫婦のスタートでもある。

 みゆきにもさゆりにもその幻想があるだろう。だが、直ぐにという訳にもいかないのかもしれない。急いては事を仕損じる。それぞれの仕事があって、生きがいや純粋な楽しみも感じている。ひとはハンモックのうえで、心地よい風を浴びながら寝転がって暮らしてばかりもいられない。腹を満たし、家賃や月々の光熱費をはらう。

「それに比して、ここは恵まれた環境だな。店賃もいらないし」

 税もなく、立ち退き料もない場所。浮世の辛さもない。人類の何人かの疑問を有しがちな頭にはユートピアの執拗な恋慕があった。片思いにも似た。現実の恋にいそしむ男女には不必要なものである。その脳は充分に手近なところで快感を得ている。

 みゆきは手帳に計画を書き込む。カレンダーという便利な発明品がある。なにげなく時計をみゆきは見る。刻々と時間は過ぎて、夜になって朝が訪れる。わたしの任務の日々も尽きようとしていた。

 わたしは本日で観察の結果を記す義務から解放される。とくに思い出にのこったものはどういう瞬間だったのか。ふたりが偶然に都会のある店で再会したこと。わたしたちには睡眠時の夢もないが、人間だったらあの日を何回か夢のなかで再現するのかもしれない。これもすべて想像だ。

 トータルではどうだろう? 何度かの大きな戦争。虐殺。殺戮。そこの住人すべてを無知な野蛮人だと誤解するまでに至った。だが、美しい義務感以上のものを有しているひとびとも確実にいた。

 自室にもどったわたしは人間でいうところの喪失感と等しいものに包まれている。別れにともなう感情。何に対してなのか明確なポイントが分からない。漠然とした焦燥のような感情の震えが波となってくる。だが、大して長持ちはしない。わたし個人のこれからの未来もあるのだ。

 太陽がまた昇る。わたしは担当の横でぼんやりとみゆきは眺めている。毎日、劇的なことばかりが起こったらくたくたに疲れ果ててしまうだろう。いつもの朝と、いつもの出勤の風景。痴漢は毎朝、同じ車両でつかまることもない。冤罪にしろ。昼の献立程度はすこし変わる。一般のひとはどれぐらいの種類の料理をシャッフルしているのだろう。九十ぐらいあれば三ヶ月。だが、豆腐や納豆や味噌汁は毎日、食卓にあがることも許される。あるチームの送りバントという戦術ほどに。

 横の担当者はシャキシャキと仕事をすすめている。有能であることは疑問の入口と出口のトンネルに渋滞など含ませないのだろう。機微というテイストもある。落語は主人公が迷い、漫才はぎくしゃくする会話で成立していた。わたしはなぜだか腹をかかえて笑いたかった。抱腹絶倒という感じで。この狭い一室で世の中のすべてを理解した気でもいた自分を呪い、あざけり、あるいは腹を立て、最終的には、手品師が鳩の姿をすっぽりと黒い幕で隠すように、すべてを覆い尽くして無心に笑いたかった。

「うわさだと次、地球に降りる順番らしいですよ」有能な担当者は電車内で居眠りしているみゆきを起こす方法を模索しながら、小声で言った。彼女はとなりの男性の肩にもたれすぎている。男女七歳にして。

「誰が?」
「誰がって、ここにいるのはわたしとあなた」
「トワエモア」

 わたしは喜びと驚きと怖さという咄嗟の感情の複合体となる。わたしも遂にあそこに行けるのか? 妊娠の予兆の前に誰かの胎内に入り込むチャンスが到来する。その間に記憶を抹消され、普通の男の子や女の子として誕生する。選べることはいたって少なく、その後に経験した一通りの人生を箱につめこんで、ここでの生活に再活用される為に帰還する。わたしは生意気にも多くの事柄を無節操に批判してきた。だが、あれ以上の貴さを自分は発揮できるのか? わたしは母や父の顔を予想する。病院で産声をあげる。あと一年弱であの地球の一員になっているのだ。カレーの宣伝の文句を借りれば、ただ、感激であった。


傾かない天秤(17)

2015年11月08日 | 傾かない天秤
傾かない天秤(17)

 銃口があれば対象物に向けるのがひとの性だ。そして、ど真ん中の十点を狙う。

 遍歴。相手を通したさゆりの歴史。

 ルー・リードとエリオット・スミスが好きな年上の男性。彼はこの後者の悲しげな声の持ち主と同じ日に生まれたことが大層、自慢だった。だから、別れてもさゆりはその日を忘れられなくなる。他の要因とも重なってだが、その日付は広島の日でもあったのだ。

 彼の次(明確な順番はタッチの差だ)は、とにかく車と洗車が好きな男性がいる。さゆりは礼儀正しく車に乗る。彼の場合は、単なる移動手段ではないからだ。そこは応接間でもあり、快適なリビングでもあった。ときには寝室にもなる。海に行った翌日、彼は一粒の砂ものこらないように丹念に、入念に掃除した。その割に自室はマンガ本や車の雑誌が散乱していた。大人の女性のディスクもある。さゆりは自分とタイプが異なる女性を選ぶ彼を変な目で見た。反対に自分と似ていても困った展開になっただろうと思う。

「目の男性と皮膚感覚の女性」
「王道の意見ですね」

 統計を見る。独身男性の平均的な所持率。もちろん、マニアやコレクターはどこの世界にもいる。既婚男性の処分数の割合。泣く泣く手放した我が子。数字で計れる問題ではないのかもしれないが。

 別れたときに悲しんでも、永続的な悲哀をもたらすには至らなかった。酷い傷になる場合もあるが、さゆりには幸運なのか不運なのか訪れていない。ひとは契約もなく口約束で交際をする。その過程を省くときすらある。婚約や結婚には指輪と薄い紙切れが必要だった。並んで署名して。

 一夫一婦制が間違った形式であると考えているひともいる。アニメのヒロインの感情も無視して。たくさんの妻がいるうちのひとりという主人公(四番目の妻)ではアニメ制作会社の社長はゴーサインを出さないだろう。なかにはきちんとした戸籍や名簿をもたない民族もいる。文字にして文書化することが文明の最初であると仮定するなら、文明の範疇に入らない人々もいた。それを有したからといって無限に寿命が延びるわけでもないので、一先ずはどうでもいい問題かもしれない。

 さゆりのある方面の歴史はあっさりと終わる。これからが増えていくのだ。未然に分からない日々を毎日、更新して生きていく。可能性の袋はまだたたまれたままで品物が放り込まれるのを待っている状態だ。

 だが、未来をともにするひとがいる。いや、希望の段階だ。部屋も片付き、掃除も行き届いている。収入も定期的に入る。変な趣味もくせもない。ものすごい方言も使用しない。

「美人で優しいひとに会えると思わなかった」と、お世辞のようなことばもすらすらといえる。よどみない華麗な話術。
「朴訥な日本人は絶滅したのかな?」
「いやいや、まだ主流ですよ」わたしの業務の引継ぎも順調だ。

 欠点ですら受け入れてしまうのが恋の魔力でもあるのだろうが、この男性にはそれらしきものは見当たらなかった。他人の目を通せば、嫉妬や羨望につながってしまう恐れがあったが、これまた彼には寄りつかないらしい。完璧な恋人。その役割が夫や父としても転用できるのか、それは未来にしか分からない事柄だ。即座の決定を拒み、保留や棚上げということにする。一介の観察者に過ぎないのだ。

「それも仕事の勧め方だよ」わたしは、もっと早く手を抜く方法を身につけるべきであった。

 大人は服を着る。文明人の最たる証しだ。大人は服を脱ぐ。わたしの目の前のモニターは消える。監視者ふたりは照れたように沈黙する。

「大人は自分で判断して、また、相手との成り行きに任せられるひと」

 ふたりはひとりに勝る。ひとりっこは愛情で多くの兄弟に囲まれるものより得る。そして、多くの人生上での真実により失うものも多い。

 愛情の交換により子孫がどこかの段階で発生する。意図しなくて芽生え、意図してもプレゼントが来ない場合もある。わたしはコレクションとしてもっとも似ている親子の写真と、もっとも似ていない親子の写真をこの時間に見比べる。まるでコピーの機器の会社の宣伝に打ってつけのような写真だった。もう一枚は、難解なクイズのように組み合わせを一致させるのに時間がかかる。すると電気がつく。彼らふたりの混合物はいったいどういう姿をするのだろうか想像する。どう否定的な考慮を加えようともハンサムな男の子や可愛らしい女の子しか考えられなかった。わたしの苦手なアニメ映画のような結末になる。銀の匙を咥える。ふたりはひとりに勝る。三人もより良いものかもしれない。

 わたしの一日の業務は終わる。あと数日しかない。客観的な報告に終始するつもりが、観察者の自叙伝のようなものが紛れ込んでしまった。これも宇宙の片隅には必要だったのだろう。重要と不要の間にあるのがほとんどで、その中心を狙いながらも、逸れていくのがコントロールの悪いピッチャーの常である。しかし、九回まで投げ抜きました。コーチや監督の才能があれば、次の生活も楽しくなるだろう。また一から練習し直すのも、それはそれで楽しいものかもしれない、な。