爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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11年目の縦軸 27歳-4

2013年11月28日 | 11年目の縦軸
27歳-4

 策略を練る。言葉としては、表立って使いたくないものだ。そこには明るみに出したくないものが含まれており、成分としていささかの悪も内在されている。だが、ひとは追いつめられると、多少は計画を練る。反対だろうか? 追いつめられると自暴自棄なことをして、八方ふさがりになると、いろいろな可能性を探る。そして、自分の利益にならないよう計画を立てることもしない。だから、自分にとって好都合なこと、優遇されることを望んで計画を立てた。

 ぼくは請求書を渡辺さんに持っていく。毎月、欠かせない仕事だった。普段、準備ができれば午前中の早いうちに手渡していた。ずっと。ある朝、考えた。策略を練った。夕方のぎりぎりの時間に持参すれば、その後の時間を自分のものにできるのではないかという浅はかなプランを。ぼくは、仕事でこの辺を廻っていたので、といういくらか誇張した言い訳を見出し、渡辺さんに会った。仕事として会った。

「いつも、午前だったかしら?」

 ぼくが非礼でもないが、時間を変えたことを敢えて詫びると、渡辺さんはそう答えた。なんだ、本当のところは気にもしていなかったのか。渡辺さんは、今日の仕事は一段落していたようで、いつもより寛いでいて、慌ただしさなど微塵もない様子だった。ぼくらは対面に座り、どうでもよい内容の会話をつづけた。朝に立てた予定はすべて消化されている。早い時間に来た先月までは、その予定はもちろん途中でいろいろと片付けなければならないことがあったのだろう。用事が済むとぼくは直ぐに立ち去って、止める必要もない渡辺さんは簡単に挨拶をすますと未練のないひとの特徴のように、背を向けて奥にと消えた。ぼくはエレベーターのボタンを押し、振り返って何度も入口を見たが、そこに渡辺さんの姿などあるわけもなかった。

「お腹、空きますね、この時間になると」ぼくは、意味ももたせない口調でそう言う。
「お腹、空きますよね」
「この辺に、どこか、おいしい店ってあるんですか? たまにしか来ないところだから、珍しく外食でもして帰ろうかな」ぼくは誘い水のように仕向ける言葉を出した。
「ありますよ。たまに顔を出すところ」
「どこですか?」

 彼女はもって生まれた性格通りにきちんと説明しようとする。だが、場所を特定することが不案内のようで、ぼくは空想の路上でさまよった。歩いてきた駅はそちらにはない。左に見えた商店がなぜだか反対にあった。

「ごめんなさい。もうすぐ終業なので、いっしょに出ましょう」彼女は困惑と笑顔の完全なる比率で合体した表情があることをぼくに教えてくれた。
 一隅は都心のそばでありながら外気のすがすがしい場所だった。

「ひとりでご飯を食べるって、味気ないですよね」ぼくに歩くペースを合わそうと意識している彼女のリズミカルな歩調は愛らしかった。
「でも、なれっこだから」ぼくは意に反してそう答える。事実は、事実だ。策略のない事実だ。
「ひとりでお店でご飯食べるの、まったく気にしない? 平気?」仕事を離れると彼女の言葉遣い、特に語尾が多少かわった。
「あまり長居もしなければ、平気だよ」
「ここ。おいしんだよ。わたしも食べたくなったな」
「じゃあ、いっしょにどう?」
「いいの?」

「いいよ、もちろん」策略を練る。そうそう思い通りに運ばないのも計画の一端だ。ラフやバンカーを目指して球を打つわけではない。結果として、そちらに行っただけなのだ。結果として。だが、まぐれの確立など誰も数値として証明できない。そして、世の中は数値だけで計るべきものでもない。もしくは、大まかな数字だけをつかんでいるに過ぎないのだ。ご飯、一膳と、茶碗内のご飯粒の絶対数など相容れない脳でもある。

 好き嫌いのある女性もいたし、これほど旨いものを敬遠するひともいるのか、と思うひとなど様々なひとと食事をしてきた。渡辺さんはゆっくりと味わいながら食べている。ぼくは彼女の可憐な手首についている、これまた可憐な腕時計を見た。時というものをひとは大事にする。あるときから、時というものがぼくたちを無残に置き去りにする。自分の味方だと思っていたものが、急に敵に回った。時間を奪い、ゆっくりと進むことを軽蔑した。その一定に運行する時はまた、様々な苦悩を時間をかけて濾過した。エスプレッソのようにその抽出された傷を、ぼくはあるこころのポケットにしまった。もう湿度もそれほどない。しかし、乾ききってもいない。いくつかの思い出の抽出が、ぼくの生きた形跡のすべての証拠となり得た。

「これ、苦手?」

 ぼくが皿の横にはじいたものを彼女は目ざとく見とがめた。
「食べられないというほど、嫌いじゃないけど、なるべくなら入っていない方がいい」

 悲しみもなるべくなら遠ざけたかったが、もし、それがひとつもなければ、ぼくの形跡も同時に消えた。
「食べると、おいしいのに」

 泳げると、楽しいのに。いくつかの外国語が話せると、もっと、楽しいし潤うのに。別れがなければ、悲しみは少なくなるのに。ぼくらは選択の結果を、自分が選ぼうが、選ばされようが、逃げてしまったある目標のことや、挑まなかった経験を受け入れざるを得なかった。でも、できないものはできないし、できなかったことはできなかったのだ。こぼれたミルク。何リットルだろうが、数滴だろうが、こぼれたミルクも戻らない。

11年目の縦軸 16歳-4

2013年11月26日 | 11年目の縦軸
16歳-4

 ふたりは別の惑星にいるわけではない。周りのひとと同じく地面に足を着け、同じような時間の流れに逆らうこともないまま日々を過ごしていた。誰かを熱烈に欲するということが違うかもしれないが、もしかしたら、多くのひともそうしているのかもしれない。だが、別の誰かがそうした感情に支配されていたとしても、ふたりにはまったく関係ないことだった。地球のどこかの白夜と同じで。

 ぼくと彼女は自分の町を歩き回る。車もバイクの免許ももっていない。大人に満たない年齢といえばそれまでだが、この数年、もっと短く区切ればこの数か月を通過するころがいちばん楽しいのかもしれない。同伴者もいることだし。

 しかし、自分たちのふたりだけの惑星ではないことを思い知る。彼女の視線を通して。自分がなにを見るということだけではなく、相手がなにを見るのかということをも少しずつ気にしていくことになった。

 ぼくらには、数百人の同級生がいた。彼らにも数人ずつ、兄弟や姉妹がいた。ぼくは友人の兄の姿を目にする。同じ期間に、同じ学校に通うほど年は近くない。向こうがぼくのことを認識しているかどうかも不明だ。だが、ぼくは知っている。格好良い先輩というシンボリックなイメージを伴ったひととして。挨拶をする程度でもない。さらに彼から見れば若造という範疇にいるだけのぼくらかもしれない。だから、ぼくは横を素通りするときも何も話さない。

 驚いたことに彼女も無言でも、彼女のふたつの目は冗舌だった。ぼくはいささかも劣等感を抱かなかったが、容姿は目に留まりやすい長所であるということを思い知った。

「見惚れてなかった?」と、ぼくはとがめる口調でもなくそう訊いた。
「○○のお兄ちゃんだよね、格好いいよね!」と、羨望の気持ちが加わった声を発した。

 ぼくも数歳下の、年の離れた女性たちから冷やかされるような言葉を望んだ。しかし、やはりそれも本心ではない。ぼくを認めるのは彼女だけでいいのだ。そして、その兄は手放しで誉めたくなるような外見の持ち主で、ぼくがどう否定しようとも素晴らしさは消えないのだろう。ぼくらはふたりだけの世界には住めない。それだから、ぼくは彼女といる時間が貴重であり、かつ貴いのだとも思おうとした。

 テレビの中にいる男性をもし彼女が好きになったとしても嫉妬するにあたらない。それは別世界の話なのだから。友人の兄も同じ境遇にいた。彼女とその男性は同じ時間を共有していない。目にするのと、身近に感じるのはあまりにも違うことだった。違うことや隔たったことに、ぼくらは嫉妬さえ容易にできなかった。

 といっても、ぼくは嫉妬という状態がどういうものであるのか知りもしなかった。そのやりきれない経験の箱を受け取ったこともなく、もちろん開封したこともなかった。どこかの私書箱にたまっているのかもしれないが、ぼくとは無関係であった。だが、未来のどこかで感じるであろうことは薄々と知っていた。白髪や、年金と同じように。

 架空のことをぼくはまだうまく説明できない。失うものを貴重なものだったとして後悔し、その再取得が難しいことが嫉妬につながるのだろう。ぼくは得ている。得ている状態が普通であり、通常のことだと決めていた。どこに嫉妬の萌芽があるのだろう。まったくないのだ。

 山火事がメラメラと面積をひろげていく。もうどうすることもできない。ニュースで目にしたことのある場面だ。あの見慣れた道路を歩くぼくには、奪われるという心配もない。彼女はただ美しい花に目をとめただけなのだろう。可愛い犬を目で追っただけなのだろう。そのぐらいの意味しか、あの友人の兄への視線に含まれていなかった。

 ぼくもテレビに出るタレントのことを好きになるぐらいのことはあった。だからといって彼女への忠信や、疑念や、彼女そのものの価値が目減りすることもなかった。そのテレビのなかの女性たちには、青空が美しいとか、ひまわりが咲いたという別次元の美をあらわしているに過ぎない。もっと身近にいて、自分の言葉に反応して、さらには自分が思った以上の愛らしさを返してくれるという副次的な喜びがあるべきだった。別れが近づけば淋しそうな顔をして、次回の会う約束を数学者が理論を解明したときのようにじわじわと喜んで、それでも、淋しさをまぎらわすように陽気に手を振って、という流れがあった。

 ぼくはひとりになって歩く。そこに居なくなった人間を不思議と想像できるような仕組みに頭はなっていた。ぼくは惑星にひとりでいる。途中にバイクが横を通り過ぎる。ガソリンスタンドがあり満タンにした車を見送る働き手を、ぼくが見る風景の一部として機能させていた。居なくなった飼い主を改札の外で待ちつづける犬がいる。高等な人間はもっとその存在をあでやかに、つややかに想像することができるのだろう。ぼくは帰り道にそうしていた。妨害するものはなにもなく、いくつかの信号が停まることを命じるが、その時間もぼくは味方にして、彼女の今日の姿をもう一度、再現した。

11年目の縦軸 38歳-3

2013年11月24日 | 11年目の縦軸
11年目の縦軸 38歳-3

 原島さんはビルの横にあるベンチでサンドイッチのようなものを同僚といっしょに食べている。話に夢中でぼくにはまったく気付かないようだ。ぼくは近くの定食屋に向かい、サバの味噌煮を食べた。帰りにそこをまた通ると、もういなかった。ベンチには別のひとが座り、雑誌を読んでいた。

 午後になり、彼女から電話がかかってくる。ぼくらは電話だけで仕事のスケジュール運びを決め、また電話を切った。ぼくはサンドイッチを食べている彼女を思い浮かべる。中身の判断まではできない。きらいな具材や好物もあるのだろう。その趣味や味覚の傾向はぼくと似ているかもしれず、似ているからといっても、だからどうしたと一蹴されそうだった。

 ふたつの生物は決して一致することはなく、周囲をつかず離れず廻っているぐらいの近さしか手に入れることはできないとぼくは思っていた。虚無感ではなく、だからこそその近さと遠さに憧憬をも抱くことになるのだろう。

 近くなりたいと願うひとを思い浮かべるだけで夢想は成立する。ほとんどのひとに対して近くなりたいという素材は与えられないことになる。少なく見積もっても、五十九億人には出会うことすらできない。両親や身近な家族間でも関係性をうまくもてないこともあった。磁石の同じ極のようにある程度の距離を保つ必要がある場合もある。大人になればその距離を一定の時間だけ挟むことは許される。もう同じ食卓を囲む義務も生じない。大人というのは、そう考えるとなんだか淋しいものでもあった。それを自立と呼び変えているだけかもしれないのだが。

 ぼくはビルを出て、ある顔を探すということが習慣になりつつあった。もう声という神秘的なだけの存在ではない。きちんと肉体を有しており、声以上にそれは近づくことを要求するようだった。すると顔というものは構成するものは少ないながらも、当然ながら千差万別であることに気づくことになる。双子でもなければ、ほぼいっしょの顔はない。声というものもそう例えられるかもしれないが、電話を通すと隔絶というものは薄まっていった。

 翌日もぼくは彼女の声をきく。段々と姿は忘れていきながらも、勝手に自分の頭は再構成していくようだった。印象というものは数字とまったく違う。髪の長さは、耳が隠れるぐらいとか、肩ぐらいとかアバウトな表現でまかなうことができた。地肌から何センチなどとは言わない。目はぱっちりと、鼻はなだらかな感じ。そこに多くの差はない。その微妙な差によって好悪をつけ、好みとかと評しているだけだ。

 几帳面やルーズさ。前向きな性格や悲観的。向上心と現状維持。新しいものを求める気質と、あるひとつのことを突き詰めたがる性向。内面も異なっている。でも、やはり全般的にまとめてしまえば、出会わないひとが多くいる。出会ったなかのひとりに執着するようになる。愛とか恋という感情があれば、そのこだわりは善になり、許される。それはこっちが勝手に自分に許しているだけで、相手からみれば迷惑のひとことで片付く場合もあった。だが、当初はあのひとのことが苦手でした、という女性の感想もあった。ぼくは空想の支配下にいて、そこに安住していれば傷つかないことも知っていた。喪失と回復。出会いと別れの有無や隔たり。

 ぼくはある顔を探しているが、思いがけなく後方から肩を叩かれる。原島さんの指と笑顔。そこにはすべてを許した笑顔ではなく、戸惑いというものが微量に含まれていた。こういう行為は迷惑にあたらないのか? という心配感が。

 ぼくらは肩を並べて歩く。

「あのベンチで、この前お昼ご飯を食べてましたね?」と、いまは暗くなっているベンチを指さす。
「なんだ、見かけたなら声をかけてくれればよかったのに!」と彼女は言った。

 ぼくは、言い訳のように近くの定食屋のメニューや安価なことを述べる。今度、連れて行ってと彼女は返答する。あまり若い女性たちがいないことも説明に加える。
「いっしょに行きたくないとか?」と彼女は訊く。ぼくは否定する。ぼくは彼女と会ったら話すであろうプランがあったはずだが、どれも空想の自分のペースで行われていただけで、実生活では役に立たない代物であったことを今更ながら痛感する。ぼくらは別れるタイミングをどうやら上手くはぐらかせお茶だけ飲んだ。

 結局、明日いっしょに昼食を取ることになった。規則正しくない休憩時間だが、なんとかやりくりして明日は調整可能であることを確認しあった結果だ。もし、時間が会わなければ連絡を取り合うだけでいいのだ。声の持ち主の彼女。叩かれたぼくの背中。ぼくはいつもと多少、異なった時刻の電車に乗った。頭のなかには快適な音楽が流れているようだった。ここで強くという譜面の記述をぼくはわざと間違えて解釈する。あくまで快活に、とか、どこまでも陽気に、とかという陳腐な表現で。でも、幸福の兆しなんてものは、どこまでも陳腐で愚かであるべきものなのだ。悲壮もなく、切なさもなく。いつか、犬のふんを踏んでしまうおそれもあるにはあるが、まだ卸したてのスニーカーというこの新品の恋は手あかも付いておらず、ピカピカと輝きただまっすぐに進めばよいだけなのだ。昼の定食屋という舞台が相応しいかどうかを気にもかけなければ。

11年目の縦軸 27歳-3

2013年11月23日 | 11年目の縦軸
27歳-3

 相手のことを考える時間と、自分が気に入ってもらえる方法を天秤にかけ模索する時間がつづいた。仕事の合間や通勤途中の短い間に。ひとはひとりで考え、友人たちの間で思いの包みを開くように話題にする。ぼくは渡辺さんのことを話頭にのぼらす。

「相変わらず、女性の外見のことがいちばんなんだ」
 と、いささか軽蔑の念が感じられるような口調で友人は言う。ぼくはただ彼女を表現するきっかけとして外見のことを話したに過ぎない。ひとがひとをイメージするには、髪の長さや、どういった印象を与えるのかが具体例として適切で必須だった。ミケランジェロのピエタ像を説明するのに内面の如何など関係がないように。

「違うよ」

 と、否定しながらもぼくはその疑念を打ち消すだけの言葉をもっていなかった。そして、さらに重要なこととしてぼくは彼女の内なるスペースに秘められていることなどまったく知らなかった。ひとの内側にはなにがあるのか? 休日の過ごし方。目標。勉強していること。趣味や教養。なにかの資格。家族と会う頻度。そもそも、ひとり暮らしをしているのかも分からない。だが、出身が岐阜と言っていたので、おそらく、東京のどこかの町でひとりで住んでいるのだろう。あの地下鉄がつながる路線で。

 ぼくは自分のストーリーの手持ち分がなくなり、代わりに友人の話を聞く。女性というのは簡単に彼に身を任せた。永続ということも誰もが念頭にないようだった。季節ごとに咲く花のように自分の一瞬の美を彼に見せつけ、しぼむ姿など見せないで彼の前から消えた。もしかしたら、彼がただ鉢を変えるように仕向けているのかもしれないが、本当のところは介在者ではない自分に分かるわけもなかった。

 ぼくは友人というものがいっしょに育つ環境にいた時代を懐かしがっていた。同じグラウンドを走り回り、同じ教室でノートをとるという範疇にいたころを。ぼくは目の前にいる友人のそのころの姿をまったく知らない。似たような趣味をもち、気が合うということが関係をつづけていくひとつの理由で、彼の家庭環境も、もちろん両親の顔もしらない。幼少のころ遊んだ友だちの誰々のお母さんという立場ではない。喧嘩をくりかえしながらも、また遊んだ仲というものを非常に貴く感じていた。

 だとしたら、渡辺さんのこともまったく同じだった。ぼくは彼女のスカートをめくって泣かすこともできない。夏のある夜、少女から大人に変化する一ページを見ることもできなければ、浴衣姿をからかうこともできないし、動揺や驚きを隠すこともできなかった。ぼくは貴重な瞬間の数々を失ったことを思い知る。みな、ひとりで大人になったような顔をして、ぼくの前にあらわれていた。ぼくも、やはり、誰の手もわずらわせないで、母の乳などもふくんだことがないような顔をもった大人として生活していた。

「ビール、お代わりするだろう?」友人はぼくの返事もほとんど待たずにカウンターに新しいグラスを取りに行った。

 ぼくは内面というものを考えている。となりの高いスツールの椅子にすわって足を組んでいる女性というものも説明するのには外側しかできなかった。彼女はちらとぼくを見る。ぼくの全身を視線でかるくなぶった。どれだけの収入があり、それを外側にどれだけ向けているのかを判断する一瞥だった。そろばんというものが彼女の頭のなかに横たわっている姿をイメージする。それは、もう足されたり引いたりされることもないようだった。バーゲンにもかからない店の奥の品物。ぼくはなぜかしら悲観的な気持ちが支配するままに任せていた。

「あと、二、三杯は飲めるかな?」と言って友人はうまそうに泡に口をつけた。となりの女性は友人のことも採点表をもって眺めたようだった。彼はそれに気づき、押しつけがましくない素振りでほほ笑んだ。冷たそうな女性の頬がいくらか紅くなった。パプリカやトマトまではいかない。淡いさくらんぼのような色。彼女の外見にもたらせたものは内面のテクニックではごまかせない気持ちの変化のようだった。ぼくはそれを明るみにだすことができなかった。

「今度、国代にあうとき、その子のことも見たいな」と、最後に彼はいう。ぼくは彼に渡辺さんを会わせたときのメリットとデメリットを比較する。良きことなどひとつもなかった。悪いことはたくさんありそうだが、そうきっちりと決めつけるのもフェアでも妥当なことでもないので直ぐに辞めた。ぼくは、歩きながら昔のことを振り返っている。いっしょに育つなかでは近所にいたりすれば、ぼくより情報をたくさんもっていることもある。またその小さな生き物を異性として認識することなど、最初は全然、思ってもいなかったのだ。ぼくは目の前にいる女性を、女性として判断しないことなど不可能な生き物になっていた。口説くということとは別問題で、自分とは違う価値観に支配されているものとして、近づこうと努力をしたり、一線を置こうと見えない膜のようなものを張り巡らせたりしていた。たったの十年で世の中の仕組みが複雑になるとすれば、自分の脳もいらないものまで取り込み、正確に設計されなかった迷路のようにゴールにもたどり着けないまま、おなじところをただグルグルと廻った。

11年目の縦軸 16歳-3

2013年11月20日 | 11年目の縦軸
16歳-3

 考えてみれば、その年は終戦後から四十年が経っていた。もし、国家にも年齢と成長があるならば、働き盛りの、まさに脂がのった年代のように、この国の経済は潤っていた。ぼくは早めに学ぶことを辞めた。正確にいうと、学ぶ枠組みから外れた。ぼくらの周囲ではそうした選択が稀なことではなかったが、両親は、がっかりとする。ぼくは、勉強でのテストの点数で低い評価を受けたことはなかった。根気や努力などということばとは無縁のところに住みながらも、総じてぼくに甘い採点をつける世界であった。しかし、この領域に永住する資格のようなものをぼくは保有していないらしかった。

 みなが学校で過ごす時間にぼくはバイトをしている。彼女も放課後や空いた時間にバイトをしていた。ぼくはその姿を思い浮かべる。ここでぼくは彼女の視点に立つ。社会での成功から隔絶された人間に好意を持続させることは、大人は遠慮する。あの年代の少女だから、彼女は疑うこともしらず、自分に信頼を保つことを拒否しなかったのだろう。

 生活とか将来とか結婚とか、すべての長期的な展望もない年代で、幸せは針の先ぐらいの小さなものでありながら、それゆえに、ぼくらには永続性への確たる自信があった。どんな障害があっても関係は壊れないのだという根拠の提示もできないものであったが。ひとが、ある状況を信頼するとか、信仰をいだくとかは煎じ詰めれば、もしかしたら、そういう無心のうえにだけ成り立つものかもしれない。

 背景はそういうものだった。経済は上向きで、貧困による略奪や暴行などは存在しない。繁栄の一員であり、それを幸運とも思わずに、素直にただ受容していた。イデオロギーで世界は敵対し、二分することをおぼろげながらに知っていても、ぼくには融和があった。西ドイツと東ドイツが永久に存在するならば、ぼくらの関係も終止符を打つことなどはあり得なかった。

 彼女のことを毎日、考えてはいるがぼくは友人たちとも当然に遊ぶ時間をもつ。夜のファミリーレストランで何杯もコーヒーを飲んだ。ぼくらには移動する車もなく、バイクの免許を取得する年齢も来ていない友人たちもいた。その工面のために友人たちもバイトをしている。九時ごろまでガソリン・スタンドがある国道沿いで働いている。その労働と対価の証拠に爪は汚れる。

 彼らがバイトを終えるころから、それぞれの自由時間に恵まれるのだ。そして、コーヒーを飲む。ぼくらは会うために実際に家の前まで行き、バイトが終わる時間を見計らって、その前まで行った。不便であるということもまったく思わなかった。ぼくらはあるひとつの町で不自由もなく暮らしている。偉くなることも選択肢になければ、困窮に陥ることも考えにくかった。その数人には恋人がいて、彼女らの存在もぼくはずっと知っている。世界はあまりにも狭いものであった。しかし、学生生活があれば、彼らの行動範囲も限度はありつつも自然と広まっていく。ぼくはそれとは別に平日のバイトの休みに都心をひとりでうろうろすることを覚えていく。男性が洋服にこだわるということへのブームに火がつくころだった。デザイナーという職業がクローズアップされる。それは人気ある誰かに着られ、その人気ある誰かをお手本にして、ぼくらは自分らの今後のあるべき姿を作ろうとしはじめるころでもあった。

 格好よくなるのも、話題が豊富になるのも、彼女がいてこそだったと思う。彼女自身もきれいでいたいと願うのは、ぼくという存在を念頭に置いてのことだったかもしれない。彼女を見かけたぼくの友人たちは、「最近、あいつ、すごい可愛くなった」と言った。そのセリフは、ぼくに対しての誉め言葉かもしれない。誰かの雰囲気を善い方向へ変える力を自分は有しているのだ、という漠然とした優越感のくすぐったさが自分の周囲を覆った。

 だが、ぼくはそのことを彼女に告げない。またその変化をそばにいるぼく自身は見抜けないのかもしれない。単純にぼくの愛情は、客観的な判断ができるほど冷静なものではなかった。ぼくは当事者であり、一介の観客ではない。批評も加えられず、移り変わりを眺められるほど悠長でもない。ただ、彼女が可愛くなれば、多くの男性の視線を浴びるであろうことは想像できた。不利益をもたらすかもしれないその視線の集中砲火は、彼女の気持ちが変わらないという安心感を揺るがすことはなかった。揺るがさないであろうと信じたかっただけなのだろう。目の前の彼女を身近に感じれば、その動揺を疑うことなどない。だが、それ自体も常に接しているわけでもないので根拠もないことなのだが。

 ぼくは飽きるほど今夜もコーヒーを飲んでいる。自分が愚かなほど彼女のことを好きだということを友人たちに知られたくないという不可思議な見栄があった。彼らの判断も分からない。おそらくはすべてを知ってしまっているのだろう。正直にいえば隠す必要などまったくない。なかには別れを経験して数人目の女性と付き合っているひともいる。それは誰かの後釜ということであり、心変わりの確かな証拠を目にしながらも、ぼくには絶対に訪れないと思っていた。このコーヒーだって、空になれば永久に継ぎ足されるぐらいだから。

11年目の縦軸 38歳-2

2013年11月18日 | 11年目の縦軸
38歳-2

 暗い中で音楽に耳をすまし、ぼくは彼女の匂いを感じる。香水なのか他の別のものなのか、そういうジャンルにうとい自分には分からなかった。だが、不思議と安堵感があった。ぼくは途中うとうとしてしまったようだ。それが音楽のもつ効用のひとつならば、充分にその責務は果たせられたのだろう。

「寝ちゃったのかな?」

 間の休憩時間になると照明はまた点き、暗い状態に直ぐになれた自分の目はまぶしさを感じていた。原島さんはパンフレットのページを開いていた。
「はじめまして、おかしい挨拶だけど・・・」と、彼女は照れたように言った。「会ったことないですよね? でも、どうしてわたしだと分かったんですか?」と訊いた。
「いつも、電話で話していたから、さっきの、ひとの前を掻き分ける言葉で」
「それだけで?」
「そう」
「耳がいいんですね」
「耳がよくても、音楽に向かわず、ちょっと、眠っちゃったけどね」

 直ぐに館内は暗くなり、音楽がはじまった。配布していたパンフレットを開かなかったぼくには曲名も分からなかったが、その旋律にこころを動かされたという正直な気持ちがあった。遠い国のどこかで遠い時代のひとが作曲をする。それを元に再現する。近くには仕事で関連したひとがいて、その時代も地域も分散されていながらも、ここで一点に集中したことを不思議に思っていた。もう、眠くない。音楽は次の楽章にいき、クライマックスに向かった。音楽が終わると、拍手の波が何度かあり、その都度、指揮者は出たり入ったりを繰り返した。それから、徐々に聴衆は席を立ち、奥まった自分たちは通行できるころを見計らって立ち上がった。ぼくは軽食をその前に口にしていたが、空腹をすでに感じていた。音楽が果たすもう一面の分野なのか高揚した気持ちが伝染したかのように、ぼくは原島さんの気持ちも訊く。

「お腹、空かないですか?」
「はい、何も食べてないんで」
「どっか、寄ってみます? せっかくなんで」

 空腹になれば食事をする。当然の営み。ひとりでもすれば、男性の友人ともする。女性とも食べる。そこに絶対的な専心など、もうどこにもないのだ。二十二年間の時間がぼくを賢くし、かつ同時に愚かに不明瞭にする。

 少し離れた場所に手ごろな店があった。奥まったところに小さなテーブルがあり、そこだけが空いていた。薄暗い場所で、ひとの声は大音量を発するのに向いていないものとして認識されていた。ぼくは頭のなかで女性を分類する。ひとは大雑把に分けることができた。それを抜きにして、新たな最初の経験などもう得られないのだというあきらめも次第に生まれる。だが、こうしてあまり知らない女性といると瞬時にその確信も消えてしまうのも確かだった。

「やっぱり、割り当てられた口ですか、きょうのチケット?」と、ぼくは訊く。
「半分はそうだけど、半分は行ってもいいなと考えていたから」

「そう。じゃあ、似たり寄ったりですね」次のセリフをぼくは思案する。「でも、曲名も分からなかったけど、後半の曲、良かったですね」
 彼女はある作曲家の名前を口にする。自分の肉声を発するのが音楽だと思っていた年代もあった。いまでもそう思うことには変わらないが、楽器だけで、それも複数の音がブレンドされてここちよさ、たまには印象的なものに化けることも経験から知るようになっていた。

 注文した料理が出される。この味も似たようなものだった。子どものときに食べていたものとは好みも違った。単一なものではなく、複雑な味覚を手に入れ、ある面では口うるさくなった。いっしょに酒を飲んでくつろいだ気持ちになることを覚え、気軽に冗談を言い合うこともできる。そこには無我夢中などもまったく垣間見られない。すべては演技が入り込む余地を作りつづけ、その役柄を多少だが変更させながら、見えないゴールを紆余曲折をわざわざ入り込ませ楽しんで向かうのだ。ゴールがすべてではなく、道中こそが大人の楽しみでもあった。

 ぼくは彼女の声と匂いを知っていたが、外見がその大元であるのだという判断になかなかいかなかった。彼女の声はその体格が母体となり、屋台骨であるはずだった。その周囲に振り撒くものの源も彼女自身であるのだった。だが、ぼくはその口から発する声や、ある種のテリトリー外のものを気に入っていた。少しずつ、指や髪や彼女に付随するものを確認していく。服や靴も視線に入る。ぼくはいったい女性に何を求めるのだろう。

 空腹も満たされ、他の刺激の音楽も、先ほどの演奏で充分に堪能していた。幸運をわざと先延ばしにするという選択肢もあった。それで逆に逃がしてしまうこともあるが無論、それで構わないことも多くある。一日を競うほどのせっかちさは、もうぼくにはなかった。だから、ぼくらは最寄りの駅で別れる。いつか、こういう場面をなんどかしたなという記憶の幻影をさぐり一日も終わる。ふと、ぼくはあるメロディーを口ずさむ。だが、聞いたばかりの音楽でもなく、いま出てきたばかりの店でかかっていた曲でもない。ずっと前の音楽がもうとっくに忘れていたと思っていたのに、この時点で戻ってきた。ぼくはその場面に出てくる女性のことも同時に思い出す。永遠にぼくのなかで十代で閉じ込められてしまった女性。彫刻が変更を加えられないように、彼女の姿も永久に変わらない。変わるものはぼくだけなのだ。しかし、変わっていると思っていることも煎じ詰めれば、まったく同一な状態を保っているのかもしれなかった。それを間違っていると指摘するひとも当然のこといないので正解かどうかも明らかではなかった。

11年目の縦軸 27歳-2

2013年11月17日 | 11年目の縦軸
27歳-2

 何回か請求書を渡した。仕事の提案もした。彼女は社内で掛け合うということを言ったが、それ以上、発展もなかった。仕事でも、仕事を離れた間でも。

 ぼくは美を見つけたと思っていたが、交際をしてこれからの生活で横にいるのが彼女であることを望みながらも、絶対に彼女でなければダメだという確信もなかった。だが、当然のこと横にいた方が自分の生活がカラフルになることは知っていた。しかし、月に一度だけ会うという関係ではなかなか進展もない。もっと奇跡的ななにかが起こらなければならない。それにしても、そんな奇跡的ななにかなど普段の生活ではあまり訪れてはくれなかった。

 そんな時、経営のセミナーが行われることになった。大して役に立たないと思いながらも、上司の「行って来れば、繁忙期でもないことだし」という簡単なひとことによってぼくの名前で申し込まれてしまった。ぼくは朝から日常の通勤範囲とは別のところに向かう快適さを感じ、知らない大きな会議室のようなところに座っていた。気持ちも入っていないので睡魔と戦うことが大きな使命でもあった。他の後ろ姿を見ても、同じような戦いに挑んでいるひともいれば、完全に負けているひとも数人いた。昼の休憩を挟み、午後の部に入ったらその人数も増えていた。

 午前には気付かなかったが、ぼくはある女性の後方からの映像に目を留める。髪型や多少のあごのラインが分かる。渡辺さんにとても似ているとぼくの脳は判断したが、渡辺さん以外ではないという確証も同時にあった。そこから休憩を挟むこともなかったので、彼女に声をかけるタイミングもない。彼女は姿勢よく聞いていたが、ときどき、身体や首を左右に揺らしたときに、彼女特有の立体感がぼくの心臓を高鳴らせた。

「こんにちは、渡辺さんも来ていたんですね」とぼくは言う。
「あ、びっくりした。国代さんも?」そう言って、彼女はほんとうに驚きの表情の見本のような顔になった。目を丸くする。口が楕円になる。

 時刻は三時四十五分。中途半端な時間だ。ぼくは今日は職場に行かないと告げていた。渡辺さんはどうか分からない。だから、訊いた。

「渡辺さん、これから職場に戻るんですか?」訊きながらチャンスの気持ちを隠すように腕時計を見た。
「まさか。今日は予定はない。国代さんも?」
「ぼくも帰らないです。疲れたな、どこかでお茶でも飲んでいきます?」
「いいですね」

 それから、混んだエレベーターを何回か見送り、一階に着いた。外は晴れている。新鮮な外気を吸うのは久し振りのような気がしていた。それに前を向いて歩いているのでぼくが話しかけると彼女の特徴的な横顔が目に入る。思いがけなくぼくは幸運に恵まれたのだ。

 彼女は岐阜の出身であるらしかった。そこからぼくが想像できるものはそれほど多くなかった。昔の民家の屋根のことをもちだしたが、それが富山のものでもあるのかもしれないかという疑問もあった。彼女はていねいに説明してくれる。時おり、質問の意図が分からないと困ったような表情になり、眉間に細い筋が入った。最初に仕事以外のことを話す機会でもあったので、多くは疑問と質問で会話は構成されており、その彼女の魅力につながる表情を見るのも増えていった。

 話すことは尽きず、いつまでもお茶の時間でもないので、裏の路地にあった居酒屋にぼくらは場所を移した。お腹も空き、緊張からの解放の所為か、いつになく酔いが回るのも早かった。ぼくは知れば知るほど、彼女のことを好きになっていくことだけは予感できていた。彼女も同じような気持ちを幾分かでも持っていてくれるなら嬉しいなという期待もあった。いきなり交際相手がいまはいるのか訊くこともできなかった。今後、月に一回という少ないペースだが仕事の相手として会いつづける必要も生じるため、あまり愚かな関係性も作りたくなかった。ただ、話がおもしろく、ある程度はまじめで、頼りになってという些細な好印象を残せればいい。しかし、彼女がどういうことに関心があり、何が苦手で、何を敬遠させるのかなども一回の出会いですべてを掌握できるわけにもいかない。それでも、彼女を数回笑わせることもでき、この場を和やかな場面にすることはできた。

 ぼくらは店を出る。八時を少しまわったところだ。かれこれ四時間ぐらいいっしょに過ごしたことになった。ぼくには楽しさがもたらした将来への未知なる信頼に包まれ、その将来を刻むかのようにコツコツと彼女のかかとが地面に接する音をきいていた。その音はぼくの心臓にも響く。心拍音とも重なる。

 間もなく駅に着いた。ぼくは階段を登り、彼女は地下鉄の駅に向かうことになった。「繁忙期でもないから」と言った上司の顔を思い出して感謝を伝えたくなった。繁忙期でもないが、ぼくのこころは慌しかった。彼女は多少、紅い顔をしている。この不思議な邂逅をぼくは一時の思い出になってしまうことへの淋しさがあった。幸運によりかかり、それが奪い取られてしなうことがないよう、未練をはらませた。

「また、仕事以外でも会えるといいですね」と彼女は最後に口にした。

 社交辞令以外の何物でもない言葉かもしれない。しかし、それ以上のものにするのか否かは自分次第でもあった。ぼくは手を振り、彼女は両手でバッグを前に握り、小さく会釈をした。正面の彼女。横顔の彼女。彼女は階段をくだっていく。直ぐにスーツ姿の男性が彼女を隠してしまった。すると、彼女のことを思い出すのは段々とむずかしくなるような錯覚だけが残っていた。

11年目の縦軸 16歳-2

2013年11月16日 | 11年目の縦軸
16歳-2

 電話をかける相手がいる。この前世紀の偉大な発明の機械が将来、自分の役に立つとは、充分に理解していなかった。もっと幼少期のころは。忘れ物を繰り返すぼくに業を煮やした教師は、その機器を存分に活用しぼくの行状を母に伝えた。つれない機械は違う一面も宿していた。夜のひととき、別の場所にいながら同じ時間を共有する。同じ気持ちも共有している。互いに相手を必要としているのだ。疑うこともなく。

 会う約束をする。途端に彼女の声は輝きを帯びる。ぼくは誰かに、とくに自分にとっても大事なひとから重要視されていることにプライドが満たされる。声の小さな変化だけでぼくの気持ちが高揚する。あさっての彼女はどれほどの喜びを体内に宿しているのだろうか。ぼくには計る単位も分からない。ただ真正面から受け止めるだけでいいのだ。

 それほど伸びないヒゲを剃る。その肌に清涼感が満載のローションをすりつける。にきびはそれほどできなかった。今後も増えることはないだろうが、この数日で急にできないことをささやかながら願う。

 好意という感情の究極の形を求めるならば、ぼくは彼女以外の誰かを、これから好きになるということなどはあり得なかった。もし、彼女がぼくに対しての一途な気持ちを仮に揺らがせることがあれば、ぼくの世界はあっさりと終わってしまうだろう。その瞬間に。同時進行の世界でも、三本のホームランをバック・スクリーンに打ち込んだところで、阪神タイガースの快進撃も同じ不運を帯びて急速に幕を閉じるのだ。もちろん、未来の優勝も日本一もなければ、カーネル・サンダースも道頓堀に落とされることもない。その白い人形にとっては幸運でも、ぼくにしてみれば世界の終りだ。だが、やはりぼくは彼女のこころがわりなど微塵も信じていない。あの電話の声を聞いてしまったあとでは。

 別の高校にすすむまでは同じ学校に通っていた。彼女はぼくの認識の中では十四才ぐらいで目の前に訪れる。その前からいたはずだが、ここから、はっきりと愛らしい容貌の少女として具現化された形をとって。同じクラスでもなく、他の課外活動でもいっしょにならなかった彼女とひざを突き合わせて話し合ったことなど皆無だ。いくら話し合ったとしてもその年代の自分にとって、「気が合う」という簡単なことすら理解できなかったはずだ。物事の選択の基準で、同性以外といっしょにいて楽しいという感情をもちこむことなども知らなかった。いっしょにいれば必然的に緊張がともない、恥ずかしさも生じ、より良い自分を取り繕って見せる必要もあった。まだ異性に対して判断材料がとぼしい。その乏しさによって、淡い恋の純度も増した。

 別の学校に通うようになってからだが、彼女はぼくの交際の求めに応じる。小さな結実しない好意など、感情豊かなこころにもよるが、その年代には多く表れるのだろう。その小さなものが、大人が使う言葉で表現すれば契約という口頭での約束をしたことによって、思い出のいくつかが生まれることになる。やっと、スタート地点に立ったのだ。スタートの合図とともにさらに自分の感情の機微を表出させることになった。

 ぼくは十四才で彼女の存在を知ったときから、いつかそういう関係性をもちたいとこころの奥で漠然と思っていたのだろう。だが、レースには何人かが前に加わっており、ぼくは先頭に立つチャンスを得られないでいた。バック・スクリーンを狙うバッターは山ほどいるのだ。かといってこの恋が本物に化けるのか判明させるのも、その年齢の自分にとっては数学の公式の定義よりもむずかしいことだった。

 だから、ぼくもその空白の期間を埋めるべく、別の女性を探した。直ぐそこにいた。

 だが、お互いのその永続性も期待しなかった関係も間もなく、とんぼの命くらいの短い期間で終息し、ぼくらはそれぞれをその地点で必要とした。ぼくは彼女を約束の時間に目にする。ぼくにとってはその日という概念しかなく、この数時間がたいへん貴重なものだった。運動会の種目のひとつで異性と手を触れるのをあれほど避けた自分は、自分の右手に包まれている彼女の左手のぬくもりを確認するだけで誰よりも幸福であった。たまには、彼女の腕はぼくの腕にからんできた。いや、からませるよう望んだので、彼女はしてくれたのだ。小さな接触を積み重ねることによって、ぼくらの関係の密度も深度も深まっていくようだった。

 身長が十センチ以上も低い彼女の小さな身体。男性とは確実に違う流線型でできている表面。ひまわりのような純粋な明るさをもつ笑顔。曲がったことがキライな一面を見せたときの口調。夜の公園のベンチ。彼女は女子高でできた友だちの話をしてくれた。そこには引っ越しでいなくなったぼくの小学生のクラスメートがいた。共通の話題になり得る可能性のあるものを隅々まで探した。だが、会話がなくても彼女の手のひらは、それ以上に能弁であったのかもしれない。とくにぼくにとってだけは。

 一日が終わる。両親がいる家に戻らなければならない。彼女の家のそばまで送る。見たこともない家族の顔を想像する。家族の構成も知る。犬もいる。しかし、当然のことすべては付属品で中心にあるのは彼女だけだった。ぼくはその中心を弓で貫く。周辺に到達することは絶対にない。彼女はお風呂に入って眠る。翌日、弁当をつくって学校にいく。その世界にぼくはいない。だが、彼女の気持ちのなかにはきっと居場所を見つけていることだろう。そう思いながら、ぼくはそこから遠くない自分の、兄や弟もいる自分の家に向かった。

11年目の縦軸 38歳-1

2013年11月11日 | 11年目の縦軸
38歳-1

 ぼくは彼女の声に騙されたのだろうか? 騙された、という表現が正当なものかどうかは分からない。はっきりといえば声が示せる情報以上のものが、ぼくのこころに錨を下ろしたのだ。

 仕事の関係でやり取りをしている。どこにいるのかも大体は分かっている。会社がどんどんと業務を発展させると、関連会社がレゴという組み立て式のおもちゃを継ぎ足すように、周囲のビルに移転してきた。そこのひとつにいる。実際の電話以外の行き来がないので、ぼくはすれ違っている可能性もなくはないが、本人かどうかの区別もつかない。首から社員証をぶら下げており、それを目印に見つけることができるだろうが、一歩、会社をでればずっと着けているわけにもいかない。もしくは、昼の近くのコンビニや売店で前後して並んでいるのかもしれない。そして、数日に一度、多い日は一日に数回、電話で話すことになる。手掛かりは、それだけ。良くあるように声が気に入ったとしても、当人を見てがっかりということも充分にあり得る。別にそれでも構わない。彼女は、仕事の効率がよく、ぼくの見落としも効果的に発見してくれていて、助けになってくれていたのだ。これ以上、何を望むべきであろう。

 もちろん、メールもする。相手に意図を理解してもらう際に、文章でもれなく伝達するには個性など欠けらも混ざらないほうがいい。正確さと美は相容れないものなのだ。何日、発注。期限は、いつ。桜が咲く頃。梅雨の真ん中。目隠しをされてスイカを海で割った日。

 念のために、電話で確認をする。彼女の声は正確さと美を許容していた。日によって、多少の印象は変わることもある。仕事がどうやっても片付かない日。のんびりとした口調。午後の眠たさ。ぼくはその小さな差を感じる。そして、いくらか伝染する。

「あの声の持ち主、どういうひとなんですかね?」ぼくに電話をとりついでくれた隣の席の男性が訊いた。
「やっぱり、本人のこと知らないよね?」と、ぼくも訊きかえす。
「うん、テキパキとこなすけど、落ち着きもあって」そう言いながらも、彼は別の電話に出る。それ以降、もうその話題は出ることもなかった。

 声というものは一日を通して影響を与えつづけるものでもなかった。ぼくらは様々な音に囲まれて生活している。地下鉄のアナウンスやレールの軋む音。居酒屋のざわめき。スーパーの特売品の案内。重要でもないものでもいったんは取り込み、取捨選択を自動でしている。毎日、マヨネーズを安い値段で買う必要もない。通勤経路も毎日かわりようもないので、路線の案内に敏感にならないで済んだ。多くは耳を通り過ぎるものだ。だが、勤務の時間がはじまれば原島さんの声は耳に残った。さらに、いったいどういう姿をもつ女性なのだろうという想像を今日もはじめた。具体的になればなるほど、それは本人と遠くなる気もしたが、正解もないので将来の子どもの名前を決めるように無責任に、想像をもてあそんだ。

 そんなある日、会社がスポンサーになっているコンサートのチケットを社内で配っていた。クラシックということでみなの興味を引くものでもない。だが、会社の面子ということもあり空席が散見されるのも望ましいものではないようだった。各グループごとに割り当てが決められ、最後はくじ引きでもするように行くべきひとが選ばれた。ぼくは誰かに押し付けるのも面倒だったので、はじめから引き受ける気でいた。しかし、フロアの端のどこかでは自分の不運をなげくひともいた。

 数日後、仕事も終わり軽食を口にして、コンサートの場所に向かった。数人、見覚えのある顔があったが、どこで、どういう仕事をしているのかは謎だった。となりに住むひとを知らない町ならば、となりのビルに勤務する関係ある仕事の従事者のことも知らない町だった。そんなことを考えながらも徐々に席は埋まっていく。緊張感の気配がその場の全体を覆っていくようだった。無駄に咳払いをするひと。意味もなく、靴のひもを結びなおすひと。足を執拗に組みかえるひと。人間がある期限を待つためにする行為というのは様々であることを確認する。ぼくの右隣は空いていた。くじに当たりながらも逃げることも簡単だったし、誰かに罰せられるほど強要されるものでもなかった。だが、開演を知らせる一度目のブザーが鳴り、そろそろ本番のブザーが予想される頃、座席の狭い通路を詫びながら歩いてくるひとが見えた。柔らかな素材のスカート。当然、このまま行くとぼくの前も通るのだろう。空いているのは、この列で、ぼくの右側だけだった。

「すいません、ごめんなさい、失礼します」と、その女性は謝る種類の言葉が意外とあることを教えてくれながら窮屈そうに歩いてきた。ぼくは、その声を知っている。もちろん、近所のスーパーのなかで特売品を告げる声ではない。乗換駅をスムーズに誘導する声でもない。今日も、さっきまで聞いた声だった。電話の向こうで。

 彼女はぼくの前を通過し、座る前にチケットと座席の番号を見比べて、やっと、砂漠のなかで蜃気楼のオアシスが現実であったかのように安堵した表情をして優雅にすわった。多分、ぼくはラクダのような顔をしていたのだろう。間もなく、開演のブザーは鳴る。数時間、疑問にしたままの方が良いのか、それとも、間違っている恥を忍んでも名前を聞いてしまった方がこの後の音楽をすんなり受け止められるのかの比較と判断をして、ぼくは勇んで声をかけた。

「原島さんですか、もしかして?」

 彼女は左側を向く。「わたし?」というびっくりとした表情をしながら、自分の右手の人差し指を鼻先に向けた。

「はい、違ってたら、すいません」ぼくは、不安になる。でも、「わたし?」という声こそが、彼女本人の証拠でもあるようだった。彼女は、この男性と会ったことがあるだろうか? もしあれば、それはどこかの遠い過去でか、それとも、最近なのか分析するような顔をつくった。ぼくは、もっと自分の情報を差し出すことをためらいそうになっていた。でも、意を決して、「国代です。電話でしか話したことはないけど」と、付け加えた。

「そうだったんだ、やっと、会えましたね」と、にっこりと笑ったが、直ぐに館内は暗くなり、その顔も識別できなくなった。ぼくの耳は音楽を聴くためにもあり、原島さんの声をもっと聞くためにもあるようだった。

11年目の縦軸 27歳-1

2013年11月10日 | 11年目の縦軸
27歳-1

 ぼくは理想の顔を発見する。人間のもつ立体感の豊かな実りだった。ひとは正面だけで判断するのではないことを知った。さまざまな角度が物事を照らし、その微妙な差異によって変化がもたらす美しさが訪れているようであった。

 もし仮にぼくに彫刻をする腕前があるのなら、この顔や首からうえの像をつくったことだろう。そして、飽きることもなく眺める。次第に魂のようなものが注ぎ込まれ、表情を得るようになる。だが、決して視線はぼくには向かわない。この世に産み落とされてしまった戸惑いを永久に持ちつづけているのだ、その像は。

 ぼくは実際に粘土を捏ね繰りまわす才能などないのだ。家の一角に飾って、始終、見惚れているという願望も叶うことはない。たまに彼女を目にする程度が関の山だ。ぼくは毎月、請求書をもって取引先に向かう。以前まで対応してくれたひとが部署の変更で辞め、彼女が担当になった。前任者が、「ちょっと、渡辺さん」と彼女を呼び、引継ぎが行われた丁度ひと月前に、ぼくは彼女のことをはじめて目にした。名刺を手渡し、彼女の軽やかな会釈を目にする。声は発したのだろうが、まったく覚えていない。特別の事情がない限り、請求する金額も変わらないので、事前に変更を伝えるなどの用件の電話をする理由もなく、次月までただ実在する人物なのか思い出すだけにとどまっていた。

 実際に見たら、あのときには何となく美人に見えただけで、彼女もまた普通の人間に過ぎないことを思い知らされる結果になるだろうと、半分以上、ぼくのこころはそう決めていた。どこかで、性格を深くしったらとか、声があきれるぐらいひどい、という減点になる材料を逆にたくさん探そうともしていた。ぼくは防御を覚える年齢になってしまったのだろうか、とぼんやりする時間に思いをあれこれさすらわせ、あちらこちらに浮遊させていた。だが、一瞬の邂逅を長持ちさせるぐらいののどかな、十九世紀のような時代に生きられるわけもなく、日々の慌しさによって鮮烈な印象も薄められていった。炭酸が自然に泡をなくすように。

 ただ泡がなくなってもその原料は甘いものとしてコップのなかに残っていた。ぼくは経理部に立ち寄り、請求書をうけとって彼女がいる会社に向かった。

 ぼくは応接スペースに通され、柔らかなソファに座った。初恋というものは、もう決して味わえないが、恋がもつ新鮮さも完全に消滅し、ぼくから奪われてしまうものでもなかった。ぼくは待っている間に、話すべきことを探し、それはぼくの印象をあげるという策略によって、行われようとしているようだった。手の内もすべて明らかにする必要はないが舞台の裏は、そういうものだった。それにしても調査するものが少なすぎる。把握しているのは彼女の名前と、おおよその年齢。話し方のアクセントも、もちろん趣味も知らない。ぼくは彫刻になった彼女を思い浮かべる。微動だにしない顔。それでもやはり魅力は横溢するのだろう。

「ごめんなさい、お待たせしました」
 いつもなら、前の担当者とぼくの馴れ切った関係の終焉地として数字が記入された紙切れを手渡せば済むだけだったものが、彼女は新しい仕事に疑問をもっていて、その解決策としてぼくにたくさんの質問を投げかけたがっていた。ぼくは急いで帰る身でもない。あらゆる知識を総動員して(そんなに難しいことではない)受け答えをした。
「いろいろ、ありがとうございました。また、分からないことがあったら電話してもいいですか?」

 ぼくは彼女の会社がスムーズに機能し、かつ自分の会社の売り上げがあがる些細な提案をして、幕を閉じた。ぼくの一ヶ月間の疑問の答えもきちんと得られ、見事に立証された。彼女は理想の顔を有していたのだ。いくらか胸のふくらみは乏しい。爪はあまりにも深く切り過ぎているようでもあった。だが、情熱を奥深く潜めているような瞳は、すべてに対して雄弁であった。わたしはいまは檻のなかにいるが獰猛さにいつだって帰れるのだと主張するようだった。試しに、放してみる? と、身勝手なぼくのこころはその叫びを聞く。

 紙切れ分だけ薄くなったぼくのカバンだが、こころは重くなり、同じ意味で充分すぎるほど軽くなった。あとひと月先にはまた会えるのだが、それも長い時間だった。先ほどの提案の枠組みをざっとイメージする。横顔も首もない紙切れとしての薄っぺらな資料の作成。彼女の深い瞳。ぼくは透明度の高い湖を想像していた。石ころをなげる。いくら透き通っていたとはいえ、あまりにも深いために底に到着したのかも分からない。ぼくの印象がどうだったかの答えでもあった。みな、仕事は仕事として頑張っているのだろう。それにしても、ぼくは気持ちを簡単に切り替えられなかった。地下鉄のホームのベンチでぼんやりと座り、周囲で立体に見えるものを探そうとした。新聞や雑誌の束。詰め替えられる缶ジュースの箱。それらはみな角張り過ぎていた。だが、球体やなめらかな角度をもつものはあまりないようだった。この座る椅子の安っぽい固さが、それにもっとも近いようだった。内面は抜きにして、外側だけの判断では。

11年目の縦軸 16歳-1

2013年11月09日 | 11年目の縦軸
16歳-1

 ぼくは目当ての公衆電話に向かっている。まだ十六才。ぼんやりと照らされた電話ボックスには遠目だが人影がないのが確かめられる。数十歩分を歩いてからそこに入り、緑色の受話器をとる。片足でドアを開けたままにして覚えている七桁の電話番号を押す。未来を自分自身で作っている実感があった。

 声がする。目的の声ではない。家のみんなが使えるスペースに設置された電話には誰が出るかは分からない。取り継がれて彼女が出る。好きな女性。女性と定義するのには、もう少しだけ早いのかもしれない。猶予がいる。少女との決別が直きにすむ。ゴールは近い。だが、あどけなさが残ろうが最愛の女性だ。間違いや誤りを正すこともなく。当時、自分の愛情の度合いを測れるほどの分際でもなかったぼく。その事実が過去になることもなく、もっと好きになる女性があらわれる可能性すら皆無だったあの頃の自分。電話ボックスの外の国道には普通車やトラックが途絶えることなく流れている。いったい、みなはどこに向かっているのだろう。ぼくの思いは電話線を通して、目的地に着いていた。

 その電話の線の距離だって、たかがしれていた。世界の果てでもない。地球の裏側でもない。何分か歩けば、彼女の家の前まで行けるぐらいの路程だ。だが、その年代のぼくは、このことだけで満足していた。これ以上、彼女の言葉が自分だけに語られていること以上に、何かを求めることすら自分に許していなかったのかもしれない。

 彼女は笑う。彼女は黙る。そのひとつひとつがぼくに影響を与える。笑った原因を作れたことに喜び、黙る瞬間を与えてしまったことにも戸惑った。だが、生きている人間はどちらもするものなのだ。深い意味もなく。

 交際をはじめるために発したぼくの意志は彼女のもとに届く。彼女は同意する。その頷きや、柔らかな眼差しを含んでいる表情がぼくの幸福の根源だった。彼女はぼくの言葉を、やはり、幸福に似たものに感じていたのだろうか。コップから水が溢れてしまうというような例えも気分として近いのだろうか。それとも、幸運が接近するのを象徴する流れ星の到来を予感させる存在としてのぼく。

 だが、ぼく自身には幸福の実感がない。つかめないという意味で確かな形あるものではない。それは、つかまえるという能動的なものでもなかった。ぼくの体内でみなぎっているものなのだ。目が覚めたときから、眠る寸前まで彼女の存在が張り巡らされている。ぼくはつかまえずに受容する。それは選択でさえもなかった。彼女はその当時のぼくの目の前にあらわれる必要が絶対的にあり、微笑みも、かすかに手の平が触れるというような単純な接触も必要としていなかった。ぼくは好きになってしまうのだ。だが、大人の視線を差し向けてしまえば、誰かを好きになるという若者にプログラムされている仕組みが発動した際に、彼女がその場にいただけなのか。決して、そうではないだろう。でも、女性に対する趣味は内臓されている。その近似値に彼女はいる。これも、分析のし過ぎだった。

 ぼくは、電話ボックスにいる。分析などはいらない。ぼくは自分自身の物語の主人公であり、書きかけの脚本のつづきを書きなぐる当人でもあった。消しゴムでたどたどしい部分を失くし、改めたりする時間の猶予もない。給水のボトルもつかむ時間も惜しいほどのランナーなのだ。まっしぐらに進むのみ。でも、誰よりも幸福だ。彼女も同じ気持ちでいてくれたらと願っている。そのために、ぼくはもっと冷静さを前面に出し、彼女のことばかりを優先させていればよかったのだろうか。だが、これはぼくの幸福の動機であり、動力源の問題でもあるのだ。もし、ぼくは彼女に会わなかったら、この気持ちは一生、この場に存在しなかったことになる。十六才の自分を証しする最大の理由が消滅する。すると、ぼく自身の痕跡も情熱も消え去る。正直なところ消えるのでもない。はじめから起こらなかったのだ。ぼくは夜に入った時間に電話ボックスに立っていることもなくなり、電話番号も押さない。その数字の羅列も覚えることもないし、女性の声がぼくのこころに波風を立てることも知らない。知らなければ、幸福も不幸もなかった。だが、ぼくには未だ不幸などまったくもってない。小さなものでいえば、この電話を切るタイミングを考えることぐらいなのだ。長い時間をぼくはこの国道沿いで過ごし、電話を切る。足取りは軽い。恋というものが、ぼくのあらゆるところにある。電話をかけるための小銭にもそれは内在され、ぼくのポケットに忍び入っている。ぼくは手の平で恋が達する幸福の音を確かめるように小銭を揺する。金属的な音がする。それは使えばなくなるが、ぼくのこの気持ちは使い果たされることもないと思っていた。どこからか無尽蔵に湧き出し、補充される。さらに、その気持ちは発展され、強固なものになる。いつか、声だけでは物足りなくなる。それは彼女の肉体が放つ魅力を独占することなのか、彼女のこころの奥深くにあるぼくへの気持ちを膨らませている核心をつかみ、奪うことなのかぼくには分からない。分からないだけではなく、気付いてもいない。足取りは軽い。缶コーヒーを自動販売機で買い、飲みながら歩く。彼女との電話での会話を反芻する。ぼくのものであり、彼女ひとりだけのものともその会話はいえた。それを彼女は友だちと共有するともぼくは思っていない。眠る直前までぼくは彼女のことを考えている。彼女の家族や親友なども含め、一員として彼女が所属するべきである社会のことも想像していない。多分、世界にはぼくと彼女しかいないと思い定めることが近いのだろう。さっきまで使った電話を作ったひとや会社も存在していない。ぼくと彼女の世界なのだ。つまりは、ここは。

流求と覚醒の街角(70)時

2013年11月04日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(70)時

 ぼくは奈美を待っている。いつもの時間。腕時計はずっと見ていると時はゆっくりとすすみ、目を離したすきに急に時間が経っていることを知らせるようだ。いつもなら。そして、ぼくはこの奈美を待っている時間を気に入ってしまっていたのだった。無駄とも呼べるが、この真空の時間がぼくのこころの濃度や透明度を測ってくれるらしかったので。だが、この日は、まったく時は動かないようだった。

 ぼくは奈美とはじめてあった日を思い出そうとしている。友人の結婚の披露宴があった。ぼくは用意をする。シャワーを浴びてひげを入念にそり、タオルで拭きながらきちんとアイロンのかかったシャツを見る。横にはこの季節にはあまり着たくないスーツがハンガーによそよそしくかかっていた。ネクタイの色も柄もそれなりに華やかなものだが、実際は個性もないものだった。きょうの主役は自分ではないのだ。

 仕度をしながら見るともなくテレビをつけている。どこかの地方の高校野球の予選だった。ぼくにはどちらの学校にも思い入れもなかったが、有名になりかけているエースが投げると、そこだけは画面が締まって見えた。ぼくは今日、結婚する友人と同じようにスポーツで汗を流した日々を思い出していた。ふたりともあの日には戻れないが限定された時間が共有の財産であることは知っていた。ぼくらはそこでの生活とは別の部分でそれぞれの人生を作りかけていた。ぼくは真剣な愛に破れ、彼は最愛の女性を見つけているのだ。ぼくはそれを祝う。そのために着たくもないスーツを暑い最中に無理をして袖を通すのだ。

 ぼくはトラックでリレーのアンカーだ。ただ走るということがすがすがしさと懸命さを持ち込む。ぼくのチームは三人で一位を死守してぼくにつなぐ。その貴重な貯金を、アンカーであるぼくは切り崩して使い果たし、さらには借金までしてゴールを迎える。数人に追い抜かれて、すがすがしさは霧散する。仕方がないのだ。周りは各チームの強豪たちなのだ。ぼくはひとりたたずむ。慰められもしない。ただ、負けるのを薄々は知っていて、覚悟もままならないまま走っていた。ぼくは友人である前の走者とグランドをあとにする。そのバトンを渡すのはぼくではなく、嫁になるひとなのだと、この日にずるく思うとした。ぼくは、誰に慰められたら良いのだろう。ぼくの真剣なる愛は数ヶ月も前に終わったのだ。次の試合があっても良いころで、今日もまた友人たちに特定の彼女がいないことをからかわれるのだろう。

 その日に奈美に会った。あの高校野球の予選は当然のようにエースのひとりの力で勝ち抜いた。ぼくはその嬉しさを根本的には理解できないのかもしれない。負ける側になることをその少年は知ることになるのか考えようとしたが、はっきりいえばぼくとは無縁で、それほど理解することに能動的でもなかったのだ。他人という範疇にずっと存在するべきひとたち。あの日の奈美は当初は他人だった。ぼくらはどこかで流れを同じくし、澱みにいったん紛れ込み、同じ流木を手と手を合わせて運んでいった。一致するというのは存外に心地の良いものであった。だが、まだここに来ない。

 いつも遅れる奈美だが、もうその猶予の時間は過ぎていた。多分、来ないのだろう。事故にあった訳でもなければ、誰かの死や病気で病院に駆けつけたわけでもないのだ。ただ、もうぼくの前に姿を見せないことを決めただけなのだ。それは彼女にとっても簡単な選択ではない。楽しいことだけのことでもない。ぼくは心残りのひとのようにちらと電話を見る。着信もメールもない。ぼくから、かけることも考えなかった。未練がなかったはずもないが、バトンをもつ友人はぼくにつなぐことを放棄しただけだという映像をぼくは勝手に、無断で作り上げて丹念にもてあそんだ。これも楽しさをもたらすだけでもなく、傷を深める意味しか有しないようだった。

 ぼくは路上で呼びかけられるままある店に入った。メニューを見ることもなくビールを頼んだ。どれほどのお客がいるかも考えられなかった。ただ、また大切なひとをひとり失うだけなのだ。

 お客さんは歓声をあげる。ぼくはテレビに目を移す。ある投手がボールを放って無残にくず折れていた。あの予選で同じ年代では敵がいなかった少年も、負けることがあることを知ったようだった。だが、男の子は立ち上がらなければならない。勝っても負けることがあると知っていても、もう一度、立ち上がって向かわなければならないのだ。そう客観視できた自分は、自分の試合に負けてばかりいるようだった。しかし、ぼくには奈美との二年ばかりの貴重な思い出が残った。そのすべてをぼくはビールを飲みながらだが思い出そうとしていた。週に一度会えば、最低でも百近い奈美の姿があるはずだった。当然、別れることを前提にして記憶を刻み付けているわけでもない。記憶というぼんやりとしたものを前にぼくには選択の自由などもない気もする。しかし、男の子は立ち向かうべきなのだ。投手は代えられた。数日後には次の出番があるのだろう。そこで憂さを晴らせばいいだけだ。ぼくにはブルペンもない。敗戦の詳細や原因を記事にする記者もいない。ただ、ビールの泡を前に、自分で思い出すだけだ。これが、普通のひと。これがスポットライトの照らさない場面と、他人の耳を意識せずにひとりごとを言って。

(完)


流求と覚醒の街角(69)傘

2013年11月03日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(69)傘

 急に雨が降る。一本の傘を買う。もちろん雨になる予感はうっすらとはあったのだが、前兆も、はっきりとした予告をすることもなく、したしたと雨は落ちてきた。その一本の傘の中で寄り添うようにぼくと奈美は歩いていた。これも、覚えておかなければならないことのひとつだ。奈美がいた確かな情景。

 傘を買ったのはいいが、本降りになってしまったので雨宿りをした。奈美はコーヒーを飲んでいる。気がつくと外は明るくなりかけていた。嬉しいことだったが、手元には傘があった。ぼくらはそれを大事に持ち歩くことになるが、いずれ忘れた場所も思い出せずに置いてきてしまう。こうして、何本もの傘が失われてくる。すると、世界でいちばん大事にされないのは傘のようでもあった。

 取り戻すことも考えないし、わざわざ探すこともしなかった。空は快晴に戻っていた。樹木は最後の雨粒を落として自分たちの栄養の源になるものすら忘れてしまうようだった。

「あれ、さっきの傘は?」
「あ、ほんとだ」ぼくは空になった両手を自分のではないように眺める。
「でも、もういらないか。こんなに晴れてるし」奈美は上空を見上げる。

 ぼくは思い出している。奈美の写真のなかに以前の交際相手が写っていた。その写真を見つけたときにも、「こんなのがまだあったんだ」という感情が入っていないことばを。幼いときのノートや洋服がでてきても、もっと大きな揺れがこころに表れるはずだった。それすらも浮かばせることのない過去たちが実際にあった。あれもいらない。これも、もういらない。

 周りを見ると、誰も傘をもっていない。そして、どこにも置き忘れた傘の存在を示すものもなかった。世間は移り行くものであり、過去を放擲することが使命のようでもあった。遠くのベランダではどこかの母が洗濯物を干し始めていた。洗濯物をそのまま放置することは許されない。過去にはならず、乾燥させまた着たり、シーツならば布団を覆うことが求められる。ぼくは湿った衣類のようなものをこころのなかに残している。ある種の直らないウィルスのようなものかもしれない。菌は増殖もしないが、かといって反対に根絶することもない。ただ昔の形状のまま残ろうとしている。生きるのは体内に自分が生まれたときにもっていたものだけで構成されていくわけではない。多少の切り傷が、肌のうえに永久に残ることもあり、遺伝とは別の抗体が自分自身を守る役目を担ってくれるようにもなった。

 洗濯物の一部がある女性の手から離れて、地面に落下する様子が見えた。女性はその落ちていくものを眺めて唖然としている。ほんとうは遠くて良くは見えない。勝手にこちらが想像しているだけだ。なす術がもうないが、あとで拾いに行くのだろう。探すのは容易だ。また洗い、また干す。ときにはそうした驚きが含まれるのが人生だった。一瞬だけ手元から離れ、また自分のものになる。

 傘の中におさまる必要がないぼくらには適度な距離が保たれていた。ぼくらが数年かけて作った適度な幅。居心地の良いほうの側。ぼくはまた新たにそれを作り直すのを考えることすらできなかった。一度、エッフェル塔が建てば、ぼくらの短い歴史以上に永続する。ぼくと奈美にもその永続性を求めたかった。だが、傘は失われたことすら主張もしない。あの傘たちはいったいどこに行くのだろう。

 ぼくらはあるベンチに座る。日当たりもよく雨の名残はなにもなかった。だが、日陰を見るとまだ地面は湿っていた。それを知っているのか分からないが猫が脅えた様子でそろそろと歩いていた。急にその不自由な立場に飽きたのか嫌気がさしたのか、高い壁を無造作に駆け上った。

「あれなら、ダンク・シュートもできるね。ま、ボールはつかめないけど」奈美は手を丸め、ぼくに突きつけた。ぼくは手の平の部分をくすぐった。奈美は引っ込めるのでもなくそのままにしていた。幸運を告げ知らせる手相が世の中にはあるらしい。奈美にはどういう未来が待ち受けているのだろう。いつか、ぼくの写真も、こんなものが残っていた、となんの感情も紛れ込ませることもなく無心に言うのだろうか。それとも、ぼくらはこんなこともあったね、と一緒に見る機会に恵まれるのだろうか。後ろを見ると、さっきの猫が回りこんで来ていた。空いている日当たりの良さそうなベンチに乗り、体勢を整えるように何度か体をずらし、眠る準備をはじめた。

「悩みもなさそうだね」と奈美は言う。「友だちも恋人もいないみたいだし、やっぱり、どこかにいるのかもしれないけど」
「味方とシュートを決めたことを喜び合うこともない。手の平でハイタッチもしない。あの手の裏ではね」

 猫は片目だけを開け、うるさそうにこちらを見た。もうそれぐらいで自分のうわさは中断してもらいたいという意志のようなものも感じられた。奈美は唇に人差し指をもっていき、「シー」と言った。傘を永久にもたない存在。身軽であることを生活の主義にしているものたち。引越しも別れもなさそうに思えた。勝手にベンチで寝て、勝手にどこかに帰る。ぼくらは声をひそめて話そうとお互いが考えているようだが、実際には何も語り合わなくても充分に幸福に近い領域にいつづけていた。

流求と覚醒の街角(68)涙

2013年11月02日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(68)涙

 涙にきちんとした形などあるのか? 様々な状況で涙というものが訪れる。嬉しさが込み上げた瞬間に。念願が、時間が相当かかったが叶ったときに。それらは歓迎すべきものである。ぼくは、この期間に何度か奈美の涙を見た。テレビのドキュメンタリーで困難な立場ながら全力で尽くし頑張ったひと。奈美は泣き、ぼくも涙を誘発された。しかし、ぼくの発した言葉や態度がきっかけで生じたこともあった。それは少ない回数だと思いたいが、どれほどの頻度で泣かすぐらいが適正なのか、ぼくはその平均値をもっていなかった。

「結局、女は泣くんだよ」と、友は言った。その言葉の裏には山でマツタケを見つけたほどの驚きもなかった。「あれは、浄化作業の一環。自分自身へのリンス」
 そう宣言されても、ぼくの落ち込みが減るわけでもなかった。前夜、奈美は泣いた。ぼくがいなければ、彼女の悲しみはひとつなかったことになる。だからといって、ぼくが奈美の喜びの源泉の機会だって度々はあったのだ。恐らく少なくない程度には。

「あれは爆弾でもなければ、決してテロでもない。でも、奈美ちゃんも泣くんだね?」と、友は付け足した。彼の認識では奈美には弱い要素がないようだった。先ほどの彼の理論とは一致しないようだが、自分の発言自体をもう忘れているようだった。

「もう、どれぐらいだっけ?」
「どれぐらいって?」ぼくは質問の内容が分からなかった。
「付き合ってだよ」
「二年近く」

「あいつの結婚のときに会ったんだよな、お前ら。すると、あいつも、もう二年か・・・」友はそのふたりの不仲を暴き立てていた。それを聞くと、ぼくと奈美はいかに親密であり、互いを必要としているかが深く理解できた。その別の友人には申し訳なかったが。だが、それも本質的には相対的なものではない、ぼくと奈美だけの問題でもあった。しかし、あの完璧なる結婚を遂げたと思っていたふたりの仲が亀裂するならば、世の中に安泰などひとつもないことも彼らが身をもって教えてくれているようだった。

 友は、それから新しい恋人の話をした。ぼくは映像をうまく思い浮かべられず、そのぼくにとっては架空に近い人物の容貌を、前の女性として想像していた。彼らのはじまったばかりの愛は手垢もついておらず、すべては新鮮でみずみずしくあった。友は常に会うたびに驚きを得られ、一日の別れにはその見返りとして寂しさを感じていた。継続をつづけるたびに、ぼくらは激流を捨てる。だが、激流には魅力があった。荒々しいざらざらとしたもののなかにだけ眠る真実もあった。そのうちに石は角を削られ、磨耗していった。表面がなめらかになり互いがぶつからなくなることもまた歓迎すべきことだったが、刺激が足りなくなるという諸刃の面もあった。だが、いつまでも刺激を求めることも間違いに通じそうだった。

 ぼくらは別れる。ひとりになって自分だけの思考に戻った。すると、彼との会話がさっき以上に耳と脳に響いてきた。今度、彼は新しい恋人を紹介するともいった。奈美もその女性に会うことになるかもしれない。ふたりは融和するかもしれず、反対に、相性が合わないかもしれない。永続する関係を構築する必要もないふたりの仲を心配することもない。ぼくと奈美の今後だけが問題なのであった。ぼくは自分が未来に目を向けるのが単純に下手であることに、その道で気付いていた。気付くのもかなり遅かった。ぼくは過去と過ぎてしまった変更が不可能な時間にただようことを愛しており、そのぬかるみで転げまわりたかった。だから、ぼくは奈美の涙にこれほどまでに拘泥しているのだろう。明日、奈美を死ぬほど笑わせればいいだけなのだ。結論としては。いや、笑いなど必要もなく、安心感を与えられれば終わりなのだ。それでも、未来はなんだか本音をぼくに対して現してくれそうにもなかった。誰もがそう思っているのだろうか。

 ぼくはきょう何度も奈美に電話をするタイミングがあった。身近に電話を保有して生活するようになっているのだ。その為、鳴らない電話は必要以上に存在を主張した。バッグやポケットのなかで身を潜めて。

 涙は、どこに身を隠しているのだろうか。製造するのはどのときなのだろう。他人のことばが信号となり、傷をつけたり、怒りを誘ったりする。涙として結実するにはあまりにも時間が短すぎる。咄嗟に言い訳を考えつくのも時間がかからない。重みもない言い訳。永遠に泣くこともできない身体。だが、ずっと悲しみを引き摺ることはできる。涙以上にそれは重いものだろうか。ただ、煩わしいだけのものだろうか。過去を愛する自分はその煩わしさにも愛着をもっていた。肩を寄せ合って、夜を徹して会話したいぐらいに。

 夜、だいぶ遅くなって奈美から電話がかかってきた。ぼくは友との会話を再現し、彼の新しい恋人と今度、会おうと奈美に告げた。

「何人目の恋人だろう、多くない?」と、奈美は言った。
「彼も彼なりに、別れれば泣いたりしたんだよ」ぼくは友人の弁護をした。
「ほんとう?」疑念はどこにでもある。質問になったり、涙になったりする。黙られることがいちばん怖かった。ぼくはそれを避けるためにできるだけ言葉を費やした。彼女の笑い声を聞く。乾燥した笑い。湿度の多い悲しみ。どちらも奈美の一部であり、どちらも愛さなければならないと、ぼくは電話の距離を考慮に入れながらも考えていた。