償いの書(75)
その日の仕事を終え、ビジネスホテルの一室についた。シャワーを浴び、外出して食事を済ませた。自分を知っている人間は誰もいなく、そのために開放感と、また恐ろしいほどの空虚感があった。誰かと話したくもあり、またこの状態を逆に快適なものだと思おうとした。結局は、缶ビールを数本買い込み、自室に戻った。
テレビをつけ、スポーツ番組をつけた。高校のサッカーの試合が行われていた。数秒のダイジェストだが、そこに松田という男の子が映った。もしかしたら、彼はぼくの友人の子どもかもしれなかった。それを確かめたいと思ったが、番組はある引退を決めた野球選手のインタビューに変わってしまった。愛らしい女性のアナウンサーはきっとその選手の全盛期を知らないのかもしれないが、いま見てきたかのようにうまく質問していた。それで、いつも無口な印象を与えていたそのひとは軽快に口をすべらせていた。
それも終わるとテレビを消した。今日の仕事で書き込んだメモの内容をもう一度だけ調べた。そこに含まれるであろう利益と、成功を求められる条件をのせ、さまざまなことを考えていた。しかし、そうしながらも、さっきの男の子を思い出すことになる。
ぼくらの友人で松田という男性がいた。サッカーがうまく、ぼくとも相性があった。彼はまだ若いときに交際していた女性に子どもができたため、学校を辞めた。翌年、男の子が生まれた。彼らは17歳のときに、もう親になっていた。その子が成長し、高校生になって親と同じようにサッカーを愛することになったのだ。ぼくは、その子であろうテレビのなかの人間を観察し、ひとからよく思われなかった時代のふたりのことも考えていた。しかし、多分その子はあそこで皆から愛されているのだろう。それが、報いというものなのだろう。ぼくと裕紀も同じような経験をするかもしれなかった。若い裕紀は妊娠してしまう可能性だってあったのだ。高校生の息子をもつこともありえたのだ。だが、ぼくらはまだふたりで暮らしている。ぼくらの宇宙は小さなものだった。ぼくはビジネスホテルの一室で、その宇宙を大切にしようとも思っていたが、それは壊れやすいもののようにも思えていた。
翌朝、目を覚ましテーブルの空の缶ビールを片付けた。歯を磨き顔を洗った。カバンをぶら提げ、鍵をフロントに返し、また空港に向かった。お土産を買い込み、飛行機の時間を待つ間にスポーツ新聞を買った。そこに昨日の名前を探そうと努力すると、彼の名前があった。下の名前を確認すると、やはり、あの子だった。ぼくと雪代は、彼らの家に遊びに行き、あの小さな男の子の寝顔を見た。彼は、いつの間にか良いことで、自分が成し遂げたことで新聞に載るようにもなっていた。ぼくはそれを畳み、バックの中の荷物をさらに重いものにした。
会社に着き、お土産を渡し、上司へ簡単に面会の内容を説明してから、それを来週中にでもまとめることを提案して、帰途についた。戸を開けると裕紀が待っていた。
「早かったんだね」
「疲れただろうということで、早目に帰してくれた。仕事もうまくいきそうなので、そのご褒美もかね」
「じゃあ、外食でもする?」
「そうだね。たまには早いから、あそこでもまた行こうか」とある店名を出した。
ぼくは、その後、新聞を取り出し、裕紀にも見せた。
「那美ちゃんだっけ?」
「そう、松田の子どもみたい」
「凄いね」
ぼくらは着替え、あるレストランに行った。買い物をする主婦や塾に向かう子どもたちがいる商店街を歩いている。サラリーマンはまだ帰る時間には早いのか、それほど歩いていなかった。ぼくは、ある店を覗き、そのような場所にいた父を思い出している。ぼくは、彼の働く姿を見てきた。松田の子どもは、自分の父をどのように見ているのかを知ろうとした。まだ兄のような存在の父なのだろう。ぼくは、彼のことがうらやましかった。また、那美さんのような気持ちを裕紀にも味合わせたかった。しかし、それはぼくらから遠かった。
「一緒にサッカーを教えてたんだよね」
「ぼくが辞めるときに、それを彼に全部、譲った」
「そのチームにお子さんも入ったんだろうね?」
「うん、彼なら平等に教えられると思う」裕紀は不思議そうな顔をした。スポーツで誰かと比較して勝つとか負けるとかを経験しない彼女には、分からないこともあるのだろう。
「那美ちゃんも、それを応援して」ぼくらは、同じようなイメージをふたつの頭のなかに作り上げる。お弁当を食べ、スポーツ・ドリンクを飲む。芝生は限りなくみどりであり、空は雨の予兆を知らせない。
ぼくらの前に料理が運ばれる。ぼくは、昨日、ひとりで見知らぬ町でご飯を食べた。その空虚感が、もちろん今日はまったくなかった。
「昨日、誰かとご飯を食べた?」
「叔母さんの家で、そこで一緒に。ひろし君は?」
「ひとりだよ」ぼくは、その単語以上にひとりであるような気がした。そうならないいまの自分の生活がとても魅力的なもののように感じて、楽しそうにぼくは料理を口に運ぶ。裕紀も同じようにそうしていた。
その日の仕事を終え、ビジネスホテルの一室についた。シャワーを浴び、外出して食事を済ませた。自分を知っている人間は誰もいなく、そのために開放感と、また恐ろしいほどの空虚感があった。誰かと話したくもあり、またこの状態を逆に快適なものだと思おうとした。結局は、缶ビールを数本買い込み、自室に戻った。
テレビをつけ、スポーツ番組をつけた。高校のサッカーの試合が行われていた。数秒のダイジェストだが、そこに松田という男の子が映った。もしかしたら、彼はぼくの友人の子どもかもしれなかった。それを確かめたいと思ったが、番組はある引退を決めた野球選手のインタビューに変わってしまった。愛らしい女性のアナウンサーはきっとその選手の全盛期を知らないのかもしれないが、いま見てきたかのようにうまく質問していた。それで、いつも無口な印象を与えていたそのひとは軽快に口をすべらせていた。
それも終わるとテレビを消した。今日の仕事で書き込んだメモの内容をもう一度だけ調べた。そこに含まれるであろう利益と、成功を求められる条件をのせ、さまざまなことを考えていた。しかし、そうしながらも、さっきの男の子を思い出すことになる。
ぼくらの友人で松田という男性がいた。サッカーがうまく、ぼくとも相性があった。彼はまだ若いときに交際していた女性に子どもができたため、学校を辞めた。翌年、男の子が生まれた。彼らは17歳のときに、もう親になっていた。その子が成長し、高校生になって親と同じようにサッカーを愛することになったのだ。ぼくは、その子であろうテレビのなかの人間を観察し、ひとからよく思われなかった時代のふたりのことも考えていた。しかし、多分その子はあそこで皆から愛されているのだろう。それが、報いというものなのだろう。ぼくと裕紀も同じような経験をするかもしれなかった。若い裕紀は妊娠してしまう可能性だってあったのだ。高校生の息子をもつこともありえたのだ。だが、ぼくらはまだふたりで暮らしている。ぼくらの宇宙は小さなものだった。ぼくはビジネスホテルの一室で、その宇宙を大切にしようとも思っていたが、それは壊れやすいもののようにも思えていた。
翌朝、目を覚ましテーブルの空の缶ビールを片付けた。歯を磨き顔を洗った。カバンをぶら提げ、鍵をフロントに返し、また空港に向かった。お土産を買い込み、飛行機の時間を待つ間にスポーツ新聞を買った。そこに昨日の名前を探そうと努力すると、彼の名前があった。下の名前を確認すると、やはり、あの子だった。ぼくと雪代は、彼らの家に遊びに行き、あの小さな男の子の寝顔を見た。彼は、いつの間にか良いことで、自分が成し遂げたことで新聞に載るようにもなっていた。ぼくはそれを畳み、バックの中の荷物をさらに重いものにした。
会社に着き、お土産を渡し、上司へ簡単に面会の内容を説明してから、それを来週中にでもまとめることを提案して、帰途についた。戸を開けると裕紀が待っていた。
「早かったんだね」
「疲れただろうということで、早目に帰してくれた。仕事もうまくいきそうなので、そのご褒美もかね」
「じゃあ、外食でもする?」
「そうだね。たまには早いから、あそこでもまた行こうか」とある店名を出した。
ぼくは、その後、新聞を取り出し、裕紀にも見せた。
「那美ちゃんだっけ?」
「そう、松田の子どもみたい」
「凄いね」
ぼくらは着替え、あるレストランに行った。買い物をする主婦や塾に向かう子どもたちがいる商店街を歩いている。サラリーマンはまだ帰る時間には早いのか、それほど歩いていなかった。ぼくは、ある店を覗き、そのような場所にいた父を思い出している。ぼくは、彼の働く姿を見てきた。松田の子どもは、自分の父をどのように見ているのかを知ろうとした。まだ兄のような存在の父なのだろう。ぼくは、彼のことがうらやましかった。また、那美さんのような気持ちを裕紀にも味合わせたかった。しかし、それはぼくらから遠かった。
「一緒にサッカーを教えてたんだよね」
「ぼくが辞めるときに、それを彼に全部、譲った」
「そのチームにお子さんも入ったんだろうね?」
「うん、彼なら平等に教えられると思う」裕紀は不思議そうな顔をした。スポーツで誰かと比較して勝つとか負けるとかを経験しない彼女には、分からないこともあるのだろう。
「那美ちゃんも、それを応援して」ぼくらは、同じようなイメージをふたつの頭のなかに作り上げる。お弁当を食べ、スポーツ・ドリンクを飲む。芝生は限りなくみどりであり、空は雨の予兆を知らせない。
ぼくらの前に料理が運ばれる。ぼくは、昨日、ひとりで見知らぬ町でご飯を食べた。その空虚感が、もちろん今日はまったくなかった。
「昨日、誰かとご飯を食べた?」
「叔母さんの家で、そこで一緒に。ひろし君は?」
「ひとりだよ」ぼくは、その単語以上にひとりであるような気がした。そうならないいまの自分の生活がとても魅力的なもののように感じて、楽しそうにぼくは料理を口に運ぶ。裕紀も同じようにそうしていた。