爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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償いの書(75)

2011年06月26日 | 償いの書
償いの書(75)

 その日の仕事を終え、ビジネスホテルの一室についた。シャワーを浴び、外出して食事を済ませた。自分を知っている人間は誰もいなく、そのために開放感と、また恐ろしいほどの空虚感があった。誰かと話したくもあり、またこの状態を逆に快適なものだと思おうとした。結局は、缶ビールを数本買い込み、自室に戻った。

 テレビをつけ、スポーツ番組をつけた。高校のサッカーの試合が行われていた。数秒のダイジェストだが、そこに松田という男の子が映った。もしかしたら、彼はぼくの友人の子どもかもしれなかった。それを確かめたいと思ったが、番組はある引退を決めた野球選手のインタビューに変わってしまった。愛らしい女性のアナウンサーはきっとその選手の全盛期を知らないのかもしれないが、いま見てきたかのようにうまく質問していた。それで、いつも無口な印象を与えていたそのひとは軽快に口をすべらせていた。

 それも終わるとテレビを消した。今日の仕事で書き込んだメモの内容をもう一度だけ調べた。そこに含まれるであろう利益と、成功を求められる条件をのせ、さまざまなことを考えていた。しかし、そうしながらも、さっきの男の子を思い出すことになる。

 ぼくらの友人で松田という男性がいた。サッカーがうまく、ぼくとも相性があった。彼はまだ若いときに交際していた女性に子どもができたため、学校を辞めた。翌年、男の子が生まれた。彼らは17歳のときに、もう親になっていた。その子が成長し、高校生になって親と同じようにサッカーを愛することになったのだ。ぼくは、その子であろうテレビのなかの人間を観察し、ひとからよく思われなかった時代のふたりのことも考えていた。しかし、多分その子はあそこで皆から愛されているのだろう。それが、報いというものなのだろう。ぼくと裕紀も同じような経験をするかもしれなかった。若い裕紀は妊娠してしまう可能性だってあったのだ。高校生の息子をもつこともありえたのだ。だが、ぼくらはまだふたりで暮らしている。ぼくらの宇宙は小さなものだった。ぼくはビジネスホテルの一室で、その宇宙を大切にしようとも思っていたが、それは壊れやすいもののようにも思えていた。

 翌朝、目を覚ましテーブルの空の缶ビールを片付けた。歯を磨き顔を洗った。カバンをぶら提げ、鍵をフロントに返し、また空港に向かった。お土産を買い込み、飛行機の時間を待つ間にスポーツ新聞を買った。そこに昨日の名前を探そうと努力すると、彼の名前があった。下の名前を確認すると、やはり、あの子だった。ぼくと雪代は、彼らの家に遊びに行き、あの小さな男の子の寝顔を見た。彼は、いつの間にか良いことで、自分が成し遂げたことで新聞に載るようにもなっていた。ぼくはそれを畳み、バックの中の荷物をさらに重いものにした。

 会社に着き、お土産を渡し、上司へ簡単に面会の内容を説明してから、それを来週中にでもまとめることを提案して、帰途についた。戸を開けると裕紀が待っていた。
「早かったんだね」
「疲れただろうということで、早目に帰してくれた。仕事もうまくいきそうなので、そのご褒美もかね」
「じゃあ、外食でもする?」
「そうだね。たまには早いから、あそこでもまた行こうか」とある店名を出した。
 ぼくは、その後、新聞を取り出し、裕紀にも見せた。
「那美ちゃんだっけ?」
「そう、松田の子どもみたい」
「凄いね」
 ぼくらは着替え、あるレストランに行った。買い物をする主婦や塾に向かう子どもたちがいる商店街を歩いている。サラリーマンはまだ帰る時間には早いのか、それほど歩いていなかった。ぼくは、ある店を覗き、そのような場所にいた父を思い出している。ぼくは、彼の働く姿を見てきた。松田の子どもは、自分の父をどのように見ているのかを知ろうとした。まだ兄のような存在の父なのだろう。ぼくは、彼のことがうらやましかった。また、那美さんのような気持ちを裕紀にも味合わせたかった。しかし、それはぼくらから遠かった。

「一緒にサッカーを教えてたんだよね」
「ぼくが辞めるときに、それを彼に全部、譲った」
「そのチームにお子さんも入ったんだろうね?」
「うん、彼なら平等に教えられると思う」裕紀は不思議そうな顔をした。スポーツで誰かと比較して勝つとか負けるとかを経験しない彼女には、分からないこともあるのだろう。
「那美ちゃんも、それを応援して」ぼくらは、同じようなイメージをふたつの頭のなかに作り上げる。お弁当を食べ、スポーツ・ドリンクを飲む。芝生は限りなくみどりであり、空は雨の予兆を知らせない。
 ぼくらの前に料理が運ばれる。ぼくは、昨日、ひとりで見知らぬ町でご飯を食べた。その空虚感が、もちろん今日はまったくなかった。

「昨日、誰かとご飯を食べた?」
「叔母さんの家で、そこで一緒に。ひろし君は?」
「ひとりだよ」ぼくは、その単語以上にひとりであるような気がした。そうならないいまの自分の生活がとても魅力的なもののように感じて、楽しそうにぼくは料理を口に運ぶ。裕紀も同じようにそうしていた。
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償いの書(74)

2011年06月23日 | 償いの書
償いの書(74)

 裕紀は、ぼくが雪代と会ったかどうかを質問しなかった。その名前を出さないことを再び、決意したようだった。彼女は家で熱心に働き、ぼくも外でまじめに働いた。裕紀は新しい洋服を買い、ぼくは新しいステレオを買った。彼女は、それで音楽をかけ、夕方の家事の仕度をしている。ぼくは躍動感のあるメロディーを聴きながら、夕飯ができるのを待った。

 日々、そうした暮らしの繰り返しになっていく。雪代とその娘もそうした日常に戻れたのかを考えている。戻れないとしても、やはり、戻るしか方法はなく、その流れていく日々が与えられてしまったダメージを消してくれることを願った。

 言葉にしない名前がぼくらの間のしこりとなって挟まっているかといえばそうでもなく、ただ、ぼくらはその事実を忘れるようにしていた。ところが実際は裕紀のこころのなかはそれほどに分かってもいなかった。ただ、ぼくと結婚を決めた何年か前に過去のことを許しているという安堵をぼくは確かに受け取った。過去はそれで終わったが、これからの未来にぼくらは雪代の存在を出してはいけなかったのだ。

 だが、何かのきっかけで新たな展開が来るというのを望むほど、ぼくらの生活に起伏はなく、どちらかといえば凡庸なものだった。子どもでもいれば互いを真正面から見ることから抜け出せ、それなりに成長へと結びついたかもしれないが、そういう部外のものに期待を寄せることは、なぜかぼくたちにはできなかった。それで、日常をふたりのこころだけで満たすよう心掛けた。

 ぼくは喋り、彼女は聞いた。彼女が話すと、ぼくは頷いた。すると、電話が鳴り、彼女は仕事の話をしている。使っている言葉は外国語で、ぼくは意味が分からないのでそのときだけ、彼女を他人に感じる。彼女の思考回路が別の人間のように思えるからかもしれない。電話が終わると、またぼくの横に座り、話し出す。その転換をどこでしているのか分からないが、彼女は自然とやってのけた。

 ぼくは、また西の方に出張する。そこまで手広く仕事をすることもないと思うけど、受注がくるものはしょうがない。そちらに支店もないのでより近い東京からぼくは出掛ける。その場所をきき、裕紀は安心したようだった。その様子を見て、彼女はぼくが地元に帰るのを望んでいないことを知った。

 飛行機が準備されるのを空港内で待っている。同じようなビジネスの目的で乗るひとが多くいることをその服装でしる。彼らにもそれぞれの家庭があり、それぞれのドラマがあるのだろう。もちろん、そのどれをもぼくは知らない。誰かを最近亡くしたのかもしれないし、誰かの誕生を喜んだのかもしれない。そう空想していると、飛行機はガラスの向こうに大きく写り、アナウンスが流れた。

 ぼくは、横のバックに手をかけた。バックのポケットから手探りでチケットを探していると別の白い紙があった。その二つを同時に抜き取り、チケットをカウンターの女性に渡し、飛行機内に乗り込んだ。バックを上に載せ、飛行機は飛び立つ。ぼくはジュースをもらい、先程の畳まれた紙を開いた。電話の横にあるのを目にする裕紀と同じ筆跡だった。

「出張、お疲れ様です。
 わたしのためにたくさん働いてくれてありがとう。
 わたしは、ひろし君のために、たくさん良いことをしてこれているでしょうか。
 わたしは、優しく接してあげているでしょうか。
 楽しいことをもたらしているでしょうか。
 そうなら、いいんだけど。
 もっと笑ってくださいね。
 心配事も増えてきてしまうと思うけど、私なりに助けます。
 無事に着いたら、連絡ください。
 ゆうき」

 と、書かれてあった。いつの間にか忍ばせていたのか分からないが、それがバックのポケットに入っていた。ぼくは、知らないうちに裕紀に心配をかけるほど、別の地点にこころが行ってしまうことがあるようだった。雪代の娘のことを心配し、妹のふたりの子どものことを心配した。

「おかわり、どうですか?」と、きれいな女性が笑顔でぼくに訊いた。ぼくは、直ぐに答えることが出来ず、彼女の笑顔は途中でいくらか不安な顔に変わったような気がした。ぼくが電話で話す裕紀の外国語を不安視する気持ちもそのようなものかもしれない。ぼくは慌てて返事をして新しいカップをもらった。適度ににおうコーヒーが、これからの仕事の予想を計るようにぼくに迫った。感傷的な気分はなくなり、いくらか戦闘的な気分になった。それは、ぼくがラグビーの試合の直前に感じるものと同様のものだった。あの日の自分に恥ずかしがらせないような大人になりたかった。今日の自分は、どうだろう?

 空港に着き、公衆電話を探した。先ずはお客様に連絡を取り、再度、待ち合わせの時間を確認した。それは、しつこさの手前だったが、こうするよう自分の性格が要求した。それから、ぼくは自宅に電話をかけた。聞き慣れた声が受話器の向こうでする。
「手紙、読んだよ。ありがとう。裕紀が安心できるように毎日を過ごしたいと思っているけど、いくつか失格かな?」と気軽に訊いた。

「ごめんね。仕事の前に。どこかで、わたしは両親が突然いなくなったことを恐れている。また帰ってからでもゆっくり話すね」
「そうだね、じゃあ、頑張ってくるよ。裕紀の新しい服のためにも」ぼくは笑い声で電話を切った。それから、タクシーに乗り、中心街のビルに向かった。その名前を告げると、
「安全運転で行きますね」と運転手はしっかりとした口振りで言った。
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償いの書(73)

2011年06月19日 | 償いの書
償いの書(73)

 ぼくは、先に店に着き、カウンターに座り、瓶ビールを自分で注ぎ、ひとりで飲み始めている。会社に入って10年程が経ち、社長も10歳だけ年をとった。彼は最初は先輩のお父さんだったが、いまは、古くから知っている旧友のような感情もどこかでもっている。

 そして戸が開き、社長が入ってくる。後ろからもうひとり店内の様子を伺う姿が見えた。それはぼくの胸の鼓動を乱した。見慣れた顔がそこにあった。

「いま、そこで偶然に、ばったりと会った」それは明らかに嘘だった。だが、ぼくは、そういうしか理由を見つけられないことを知り、その場は騙されていようと思った。
「そうですか、そういうこともあるんですね」
「こんばんは。久し振り」そう発したのは雪代だった。

「やっぱり、近藤君は連絡してないんだな。友人というものは、そういうものじゃないぞ」と言って、それから友情論のようなものを語り、それを大切にするものだと助言した。「オレは、君らのふたりとも好きなんだ。だから、友情を育んでほしい」
「連絡するって約束したつもりだったのに、会わないで帰ろうとしてた?」

「うん、時間もなかったし」
「こうして、飲む時間はあるのに」
「まあ、そう責めないで」と社長は、メニューに雪代の目を向けさせようとした。
「甥っ子と、遊んだりしたから」
「あの子は、わたしの娘と同じ年だと思う」

 ぼくは、ふたりを並列に置くことはなぜだかしなかった。それで、その新しい事実が新鮮であった。
「そうなんだ、じゃあ、どっかで会うのかもね」ぼくは、彼女の表情を探ろうとしている。だが、ポーカー・フェイスで具体的なことは分からなかった。「それで、最近は元気になったの?」
「みなが心配しているよりは」
「そうなんだ、それは良かった」

 社長は、ぼくと飲むことを楽しみにしているはずなのだけれども、今回は、用を勝手に作りいつの間にか抜け出してしまった。それで、ぼくは雪代とふたりきりになってしまった。
「あの子はわたしに会うことを許してくれたんでしょう?」
「直前に会うなと言われた」

「それで、連絡もしてくれなかったんだ。悲しんでいるのに」
「それだけでもないけど」
 ぼくは裕紀と再会してからの期間がいとも簡単に消えてしまうことに驚いている。ぼくが東京で作り上げた生活はまぼろしのようなものだと感じた。ぼくはタイムカプセルに突っ込まれ、26歳のまだ地元で生活していた頃に戻ってしまっていたようだった。

「責めてるわけじゃないよ」
「そう。いま、娘は?」ぼくは話の流れを変えようとして、目の前にないことを探した。
「私の親が遊びに来ている。彼女は母になついているから」
「そうなんだ、安心だね」
「ひろし君は?」
「何が?」
「子ども」
「この前も言ったと思うけど、ぼくらにはできないらしい」
「残念?」

「まあ、少しはショックだけどね」ぼくは、頭の回転が酒でか、雪代といることでかが分からないまま鈍っていくままに任せていた。「夫を亡くすよりショックはないけど」
「彼は、あの若い頃にすべてを使い尽くしてしまったようだった」
「ぼくらにとっても魅力的なひとだった」ぼくは、そこで口をつぐむ。訊きたかった質問があり、それを口に出しても良いものか判断しようとした。「ぼくが、東京に行って欲しかった? ぼくを、東京に行かせたかった?」
「もう、忘れた」
「ずるくない?」

「ずるくないよ。忘れたんだもん」そこで、空白の時間があり、彼女は泣き始めたようだった。
「どうしたの? いままで涙なんか見せたこともないのに」
「本当に、そう思ってる?」
「少なくとも、ぼくは知らない」

「こっそりと、浮気をしてたのに? 彼もそうだった。わたしは浮気されるようにできているのかも」
「雪代といると安心するんだろう」ぼくは、うまい言い訳も思いつかず、そうごまかそうとした。
「安心すると、浮気するんだ」彼女は、こうなると理詰めになり、手がつけられなかった。「ごめん、感情がどうにかしてしまったの、あの日以来。ひろし君は悪くないよ」

「ぼくも、悪かった。つれなくして帰ろうともしたし」
「可愛い奥さんがいるから仕方がない」
「でも、人間としてするべきこともある。友情としても、過去の知り合いとしても」
「その気持ちだけで充分だよ」彼女は、そして笑った。その顔が、ぼくの16歳のこころを射止め、その後の人生を縛り、決めたのだった。

 それから、ぼくらは思い出話に話題を変えた。それは箱に入れられ、手が入らない、変化を求められないということで安全だった。ぼくらは、お互いに若く情熱的だった。それを思い出しながらも、挟まった月日の早さを痛ましく感じた。彼女はある面では思い通りの人生を送っている。その代償として、夫をとられてしまった。ぼくもまたある面では、望ましい生活を過ごせている。それなのに、子どもは相変わらず、ぼくらの生活に訪れなかった。

「もっと、元気になったわたしも見てね」と雪代は最後に言った。本社がここにあり、そして、この街が思いのほか小さいゆえに、ぼくらは疎遠でありつづけることはできないようだった。そのことをぼくは自身に許し、それを許さないであろう裕紀の頑ななこころをも同時に恐れていた。
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償いの書(72)

2011年06月18日 | 償いの書
償いの書(72)

 仕事は金曜に終わり、それから、実家に泊まった。土曜一日をそこで過ごし、日曜の昼に帰る予定だった。そういう予定ならば、裕紀を連れて来ても良かった気がした。

 遅い朝食を食べていると、妹夫妻がやってきた。新たに女の子が増え、子どもがふたりになっていた。
「たまたま、タクシーに乗ったら、運転手の息子がラグビー部員と言って、それから、お前のこと誉めていたよ」と、ぼくは山下に告げた。

「あいつの父親ですね。素行が悪いんだけど、いまはラグビーに熱中して、悪いことを辞めました」と、その子の物語を語った。「それで、父親も嬉しいんでしょう。よく試合も見に来てくれます」
 ぼくは、そうした人間関係を構築できる身分をうらやましく感じた。だが、練習があるとかで彼は直ぐにそこを去った。ぼくは、妹の2人目の子を抱いた。その間、妹と母はとりとめもないことを話していた。しかし、ぼくの抱いている様子を見ると、いつものように、
「ひろしにも子供がいるといいのにね」と、希望を述べた。

「できないから、しょうがないじゃん」と妹がそのことについて代弁する。だが、母は不満らしく、理論だっていないことを滔々と述べた。ぼくは、聞こえないかのように、サンダルを履いて外にでた。男の子もそれにつられてついて来た。
「あの公園に行きたい」と彼は言う。そこは自然の芝生が生えた地元の人間が遊ぶ場所だった。ぼくらもそこで小さなころはたくさんの時間を過ごし、裕紀と高校生のときに散歩をした。

「じゃあ、行くか」と言って、サッカーボールを小さな自転車のかごに乗せて、彼はゆらゆらと走った。ぼくはスニーカーに履き替え、横を歩いてついて行った。

 ぼくらはボールを蹴り、それに疲れると池を眺めて、ゆっくりと進む水鳥をみた。それは、ぼくと裕紀が眺めたものから随分と時間が経ったが、同じようなものに見えた。それにも飽きると、ジュースを買い、ふたりでベンチに座り、たくさんのことを話した。いつの間にか会わないうちに彼のこころには、しっかりとしたものの考え方が宿っていた。この瞬間は、彼にとって先の長い人生の一瞬であり、まどろむことを許さない人生のスタートの瞬間でもあった。ぼくはもう、自分が出来ないことを見極めるようになってしまった。彼にとっては、まだそのようなものは存在しなかった。

「学校に行って、お父さんを見ようか」彼は、うなずき、またゆっくりと自転車を動かした。
 ぼくは母校につく。まだぼくの半分くらいの年齢の生徒が無心にボールを追っていた。ぼくは校庭の中まで入り、それを眺めていた。身体は動くことを求めていたが、自分はもうそれには不充分な能力しかもっていなかった。練習は一時中断し、山下はぼくらに気付いた。

「パパ」と行って甥っ子は走り出したので、ぼくもそっちに向かった。座って冷たいスポーツ・ドリンクや水を飲んでいる生徒たちは、コーチの息子に興味を示した。だが、山下はぼくに注意を向けようとした。
「きみたちの先輩」と言って、ぼくの方に手のひらを向けた。「オレの一学年先輩でキャプテンだった。あっちの学校に行かないで、ここを選んだのはこの先輩のお陰だ。ですよね、近藤さん」
 ぼくは、笑顔とでも評したらいいのか、自分でも分からない表情でうなずいた。彼らは、いったいぼくのことをどう見ているのかが気になった。

「じゃあ、まゆみの店でバイトをしていたひとだ」とあるひとりが言う。彼の口調からすると、まゆみちゃんに対して能動的な関心が感じられた。好きな子のすべてが知りたいという欲があるようだった。

「ああ、そうか」とぼくはつぶやいた。もっと、気のきいた言葉を言うべきだったが、冴えない先輩でこの場は終わるようだった。

 彼らは、また練習に戻った。ぼくは、この年代のときに後輩たちにテニスを教えにきていた雪代とはじめて会った。その水飲み場がいまでも残っていた。ぼくは感慨深くそれを思い出している。彼女の記憶は残り、夫になった島本さんの実体は消えた。ぼくはその蛇口をひねり、少量の水を出した。それを口に含み、むかしの甘さを思い出そうとした。だが、それはただの水だった。なにかが配合され、ぼくをあのときに戻してくれそうな気配はなかった。それにしては、記憶は鮮明で、あの日のことがぼくの目の前にあった。

「練習、疲れた?」と彼女は訊いてくれた気がする。ぼくに表れた念願の女性だった。あの日に、ぼくらが会わなかったら、どのような違う将来が待っていたのか考えようとする。しかし、いままで以上の人生などなかったような気もする。ぼくは会うべきひとに会い、別れる最良のタイミングで別れるのだ。それは不思議なようでいて、また逆に確実なもののようでもあった。

「帰ろうか?」ぼくは甥っ子の手をひき、自転車の置いてある場所まで戻った。その角を曲がれば、むかしの自分の背中が見えるような幻があった。雪代は、ぼくに声をかけ、その映像を胸に痕跡として残してしまった。ここにはあれからさまざまなことを経験した雪代がいるのだ。だが、会ってはいけないという悲壮な顔をした裕紀との約束を忘れることもできない。

 家に着くと、「夕飯どうする? 美紀たちも食べていくけど」と母の言葉があった。ぼくは社長との約束を告げ、着替えてもう一度外に出た。
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償いの書(71)

2011年06月18日 | 償いの書
償いの書(71)

 あの雪代との電話を終えてから何ヶ月かが経ち、ぼくと裕紀との間には再び彼女の話題がのぼることはなかった。それは以前のような無意識であるというよりか、意識が働いたうえでの無視のようだった。

 だが、やはり会社員である以上、さまざまな拘束があり、それに縛られていた。ぼくは近い将来に会社の会議で地元に戻らなければならなかった。そこには、雪代がいた。彼女は、いまではひとりになっていた。
 いつものように簡単な荷物を作り、資料をカバンに突っ込み、用意を整える。その前の晩に裕紀はくつろいだ様子でありながらも、どこか違った雰囲気を発していた。
「地元にもどるの、楽しみ?」

「まあ、仕事だからね、それほどでも。それに飽きるぐらい帰っている」
「あのひとに会わないで」
 ぼくは、首を傾げる。以前と約束が違かった。あのときには会えとしつこく要求したのは裕紀だった。
「え、誰に?」
「あのひとに会わないでって言ったの。絶対に」

「そう思っているなら、会わないよ。だって、会議に出るために行くんだよ。会う時間もないよ」ぼくは、安心させるためにそう言葉をつないだ。「分かってもらってほしいんだけど、ぼくは疑われるようなことはしてないよ」
「ひろし君は、たまにいやな言い方をする。わたしが悪いみたいじゃない」
「そういう意味じゃないけど、あのひとは悲嘆にくれているので、優しくされる必要がある。だけど、ぼくはしないよ」
「わたしが悲しみの感情を持っていないとでも?」
「もちろん、裕紀ももってる。誰しもがもってる」
「一般論にしないで、わたしの悲しみを」

「しないよ。そういう誤解をあたえてしまうなら、もちろん、ぼくが悪いんだ」その誤解は複数の意味にとれた。雪代との関係への誤解があり、ぼくが裕紀の気持ちを理解していないという誤解もあった。ぼくは、間隔を空けるために、ビールを冷蔵庫に取りにいった。そこで小さなため息をつき、互いを分かり合えないもどかしさを感じた。それが嫌いになりたいというような感情と結びつくかといえばそうでは決してなく、ただ、もっと愛されたいという渇望にも通じているようだった。
 ビールは空になり、ぼくらは電気を消し、ベッドに入った。
「怒った? ねえ」と裕紀は言う。

「まったく」
「たまに自分でもどうしようもなくなる。自分の感情が誰かにのっとられるようで怖い。わたしは、もっと優しい人間だよね?」と、同意を求めた言葉を出した。それに答えは必要でもないようだった。
「いまでも、今日も優しい人間だよ」
「ゆり江ちゃんみたいな、優しい子が良かった?」
「嘘でも、そういうことは言うべきじゃないよ」
「ごめん、明日は早いから寝て。もう、話しかけない」だが、それからも裕紀は、切れ切れにだが話した。ぼくは段々と返事が無愛想になる。そして、いつの間にか朝を迎えた。

「いってらっしゃい、気をつけて。わたしは、もう家族がひろし君しかいない」実際には疎遠になっている兄がいた。
「おじさんたちに会ってくるといいよ」
「そうするね」

 ぼくは特急電車の網棚に自分の荷物を置く。彼女が昨日の夜に言った言葉たちを噛み締めている。そして、朝の別れのときに言ったことも胸に響いていた。雪代もひとりなら、裕紀の状況もぼくがいなければ似たようなものだった。彼女はすでに両親を失い、ぼくのこころが離れることを心配した。その不安を植えつけてしまう要素は過去の自分が作ったのだ。そのことをぼくは身に染みて感じて、もし、その過去が裕紀になかったら、今以上もっと穏やかな人間だったかもしれない可能性を信じた。
 うとうとしているうちに、駅に着いた。急いで網棚から荷物を引きずり降ろし改札に向かった。タクシーの運転手は手始めに高校野球やラグビーの話をした。

「えらいコーチが入ったんですよ。そのコーチが鍛え上げたチームが段々、上達しているんですよ」
「よく知ってますね?」
「うちの息子が部員なんですよ。お客さんは、こっちは初めて?」
「いや、地元です。本社があるので戻りました」
「そうですか。東京のひとかと思いました」ぼくは、その言葉を聞き、裕紀と築き上げた向こうでの生活の重みを感じた。だが、そもそもあちらに行くよう仕向けたのは社長であり、また遠回りだが雪代でもあった。ぼくは、この町に戻ると、それでもこちらに残しているものが意外と多いことに気付く。雪代の存在も、またそのひとつだった。そして、ここを土台として名声を高めつつある山下がいた。ぼくが山下と義理の兄弟の関係でもあることをしらずに運転手は彼の良い面を述べ続けた。ぼくは、それをやはり自分のことのように嬉しい気持ちで耳にする。

「息子さんは、それでレギュラーに?」ぼくは、いくつかのポジションの名称を告げた。その問いに驚いたように彼は、「詳しいですね?」と言って首を後ろに向けた。今度は、ぼくが驚き、
「危ないですよ」と前を見るよう注意を向けた。
「すいません」と言ったときには、車はもう本社の前に着いていた。名残惜しくぼくは料金を払い、靴を車外の地面に着けた。
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償いの書(70)

2011年06月16日 | 償いの書
償いの書(70)

 ぼくが、丁度外線の電話をとると、聞き覚えのある声がきこえた。だが、名前の方は聞き覚えのない名前を告げた。平日の2時ごろでブラインド越しに日差しを感じるほどの陽気だった。
「島本雪代です。ひろし君にこうして名乗るとは思わなかったけど」
「電話番号、知ってたんだ」
「わたしはきちんと賃貸料を払っているお客さんだよ」
「そうでした。ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。手紙もありがとう」
「やっぱり、読んだんだ」
「そのために書いたんでしょう」
「そうだけど、ポストに投函した後は無頓着でいた」
「とても嬉しい反面、ある意味では嬉しさも半減した」
「どうして?」
「手紙を書いた後は、もう終わりなんだと思って。もしかしたら、どんな悲しみを味わっているか、顔ぐらい観に来てくれるのかとも思っていた」

「そうだよね。でも、いろいろ立場もあったし」
「奥さんもいるしね。妹さんも来てくれた。嬉しかった。あの後輩、いいコーチらしいね。たまに噂を耳にする」
「あいつも過去にお世話になったから、それを忘れて欲しくなかった。いまは、立ち直った?」
「そう簡単にはいかないけど。彼は急にわたしの前から消えたことをずるく感じている。終わりの方はすっかり遊び人になって、仕事も人生も過去の精彩がなくなっていった」
「そうなんだ。知らなかった」
「そう? 一度、彼は東京でひろし君に会ったと言ってた。仕事でいっしょの女性を関心のある視線で見ていたとも言ってたけど」

「そんなことあったかな」
「わたしは、そんな彼をゆっくりと憎もうと思い始めたけど、その機会がなくなってしまった。わたしは残された思い出に浸る女性を演じなければならない。まあ、当然、そういう風にも思っているけどね。ひろし君は幸せ?」
「まあ、考えられる限りにはね」
「彼女は優しい?」
「うん。雪代に会いに行って慰めろとしつこく言った。ぼくは頑なにそれを断ってしまったけど」
「どうして?」
「ぼくは、むかし一度そうしてしまったから」
「それを悔いているの?」
「そんなことは微塵も考えていない。だが、2度は精神としてできない」
「彼女は、とても優しいんだね。見直した。でも、友達にはなってくれないだろうけど」
「なってくれないね」
「わたしのこと恨んでる?」

「恨んでないよ。ただぼくの揺れやすいこころを恐れている」
「島本雪代も終わってしまった。彼が去ってしまうと。名前も戻そうかなと。島本って使う意味あると思う?」
「さあ、そんなこと出来るとも思っていなかった。娘は?」
「まだ、学校に行ってないから、それほど、気にならないと思う」
「あの子は元気でいる?」
「彼は父親らしいことを毎日していたわけでもないし。たまに、もの凄く可愛がったと思えば、母子ふたりで生活しているような日々も多かった」

「店の方は?」
「順調だよ。軌道に乗ってしまえば、あとはうまく転がるのをすこしだけ方向転換しながら維持するだけ。ひろし君はどう? たまにあの社長に情報はきくけど」
「そんなことも話すんだ。まあ、順調だよ」
「子どもは?」
「ぼくらには出来ないみたいだ」ぼくは、そのときは、そのような気分になっていた。だが、その存在を望んでいなかったわけでは決してない。
「あの子は、お母さんになってたくましく生活するようなタイプではないと思うよ」
「そう?」
「なんとなく。確信はないけど。また、こっちに仕事で来る?」

「会議かなにかで、行く必要もそのうち出てくると思う」
「そのときは手紙のお礼をする」
「立場が違うよ。ぼくが、慰める必要がある」
「そういう弱い女性に思える?」
「さあ、ぼくが知ってる頃と変わったかもしれない」
「変わらないかもしれない」
「元気そうでよかった」
「これも、演技かもしれないけど」
「そうなんだろうか。もう、ぼくには分からない」
「会っても、彼女は大丈夫?」

「仕事で地元に戻っても、あまりその状況はきかれない。意識してかもしれないけど」
「別に古い友人のひとりだしね。あの後輩君と同じように」
「そういわれればそうだけど、そんなすんなりとは理解してくれないし、ぼくもそう思えないかもしれない」
「とにかく、戻ってくるときに連絡して」
「元気になった、むかしと寸分変わらない雪代の顔を見て安心したいよ」
「女のひとがむかしのままでいられるわけないじゃない」

「そのことは分からない。観て確認する」ぼくは、話の流れでそう口にしただけで、実際に会うとも思っていなかった。また、もう一度かすかにでも裕紀が悲しむことはしたくもなかった。そう意識すればするほど、雪代の存在はいまのぼくに、また少なくとも過去のぼくにとって大きな存在であることを身に染みて感じていた。
「じゃあ、またいつか。手紙もありがとう」

「いや、電話で元気そうな声がきけて良かった。こちらこそ、ありがとう」とぼくは言い受話器を置いた。ぼくの気持ちはもう何年も前の自分に戻っていた。未来は未知であり、足がかりも持たない自分がそこにいた。だが、それは錯覚であり、別の電話が鳴り続け、ぼくをまた忙しい渦中に戻してしまった。
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償いの書(69)

2011年06月14日 | 償いの書
償いの書(69)

 夕刻になり、愛用のカバンを手にして、ぼくは職場をあとにする。カバンのなかには使い慣れたペンがあり、先程、何枚かつかんできた綺麗なデザインの便箋がはいっていた。ぼくは、それを使って手紙を書くつもりだった。だが、それをする場所は限定されていた。職場でも駄目だったし、無論、ゆっくり自宅で推敲するかということも不可能だった。ぼくは、あるカフェに入り、ビールを頼んで隅のほうに座った。何人かの女性は仕事から解放された喜びのため、目の前の友人たちと、また電話で談笑していた。ぼくは、それを聞き流しカバンを横の椅子に置き、ペンと紙をだした。カバンの上に上着をかけ、ネクタイを幾分緩めた。以前の恋人に、その旦那が亡くなったときに書く手紙の内容のマニュアルなど、どこにもなかった。そして、ぼくは、きちんと自分の気持ちが伝わることを望んでいたので、もし仮りに手本があったとしても、決して真似はしなかったのだろうが。

 ぼくはペンを持つ。

 島本雪代様

 この度は、たいへんな事柄に遭遇され、ご心痛の深さをお察しします。
 ぼくは、ある時期、島本さんを目標にして高校生の時代を送ってきました。彼こそが、ぼくらの敵であり、彼のいるチームを倒すことが、ぼくらの目標でした。彼はそのぐらい華やかな存在でした。彼はそれに見合い、匹敵するほどの見事なスポーツマンでした。

 ぼくは、そのことを叶えることができず、不満とともに安堵の気持ちもあります。そう易々と思いが自分の望みどおりにいかないこともきちんと学べました。

 そのことは、ぼくらの後輩が成し遂げてくれ、それは雪代さんも知っていると思います。

 彼は、別の意味でも憧れの存在でした。ぼくが理想とした女性と交際をしていました。ぼくらは、その関係を冷やかすことすらできませんでした。なぜなら、ふたりは完璧に見えたからです。そして、彼はぼくの手に入らないものをたくさん有していた存在として記憶されています。

 大学に入り、不遇な時代を送ったと思います。それが、どのようになったか自分の生活が忙しく、追いかけるようなことはなくなりました。それも、雪代さんは知っていると思います。

 彼らは、いつの日か別れ、ぼくは最愛のひとと何年かを楽しく、美しく過ごすことができました。その女性はたえず目を前方に向け、願いや希望が叶うことを知り尽くし、行動する凛々しいひとでした。実際に自分で作った費用でお店を出すこともできました。その糸口をぼくは知り、とても幸せでした。ぼくらは、ある日、別れる日がやってきてしまいましたが、ぼくは嫌われてしまったという事実に負けそうになりました。だが、もしかしたら、ぼくのステップアップをその女性は望んでいてくれたのかもしれないという希望も捨て切れませんでした。

 だが、ぼくらは別々の道を歩み、雪代さんは島本さんと結ばれました。ぼくは、ある日抱いた生まれたばかりの幼い女の子の匂いやぬくもりを忘れることができません。彼女がこれから、父親がいないということにどれほどの悲しみを持っているか、ぼくの気持ちが雪代さんにも通じればよいとも思います。

 こういう運命が待っていたなら、島本さんと縒りを戻すことが良かったのかとも考えますが、いままでの生活でたくさんの楽しみや思い出をふたりは、そして、三人は築き上げたのかもしれないでしょう。

 ぼくは、目標を前に置き、挑むことが好きだった女性のことを思い出しています。今後、いくつかの段階があると思いますが、いずれ、あのような女性にふたたび戻る日を待ち望んでいます。

 希望を捨てないでくださいね。実際に助けることはできなくても、あなたのことを考えている人はたくさんいます。都合の良い、机上の空論ではありません。ぼくも、自分の意思だけで生活できるのであれば、それを望むでしょう。だが、こうして遠い地で手紙を書くことぐらいしかできません。

 ごめんなさい。
 島本さんが知らずにぼくらに教えてくれたことがたくさんあったような気がします。負けそうな相手に挑み、またそれでやはり負けても、ぼくらには爽快感がありました。ベストを尽くして負けたのだから、それはどうしようもないじゃないかという爽快感です。ときには苦々しいこともありましたが、ぼくらはあれから10数年経ち、もっと負ける勝負を挑んできました。いずれ、それすらも恐れるようになるのでしょうね。

 彼の思い出だけで、今後、行き続けるのは難しいかもしれませんが、雪代さんが愛したのはそういう男性でした。ぼくは、彼の敵であってよかったと思います。そのためにたくさんの工夫がうまれ、いくつかの作戦もつくりあげました。
 いつか、落ち着いたら、もっとゆっくり話せればと思います。

 そのときまで、こうした手紙しか方法がありませんが、少しでも元気になるお手伝いができるならば、すすんで何でもしたいと思います。

 近藤ひろし

 ぼくは、何度も読み直し、どこかに間違いが入ってしまっているような気持ちも拭えないまま封をして、目の前のコンビニエンス・ストアで切手を買い、その前にあった赤いポストに押し込んだ。それはポトリという音を発するかとも思ったが、落下して床についたのか分からないままぼくは不安な気持ちを抱き、そこから立ち去った。
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償いの書(68)

2011年06月13日 | 償いの書
償いの書(68)

 何日か経つ。だが、ぼくのこころは微動だにしなかった。ある女性のことが心配でならなかった。ぼくと裕紀との間にその女性の話題のことが再びでることはなかった。だが、ぼくは身近なひととそのひとについて話したかった。その欲求はおさえられそうにない。

 妹は地元に戻っていた。彼女の夫は、ぼくらの母校で学問を教えながら、ラグビーを懸命に教えていた。もしかしたら逆かもしれない。スポーツの楽しみを覚えさせ、その合間に勉強を教えていたのだろう。それで、妹と雪代は比較的に近いところにいた。ぼくは、それを理由に電話をかける。

「どうだった?」
「美しい妻だったひとが、きれいな黒い服を着て、泣いていた」ぼくは、その映像を簡単に思い浮かべることができた。髪の毛や爪の先まで見通すことができるようだった。
「女の子は?」

「自分の置かれている状況が分からずに、ちょっと、はしゃいだり困惑した表情をしたりした。自分をいつものように構ってくれないひとに囲まれていたからでしょう」
「いたいたしいね」

「うちの子と、彼女は同じ年。それで、わたしは息子をぎゅっと掴んで、家に帰ってから泣いてしまったの。それで、突然そうされたもんだから、チビもまた困惑したよ」
「大切にしないとね」
「やっぱり、来なかったんだね」
「それは、いけないよ」
「でも、心配だった?」
「もちろんだよ」
「人間として? それとも、もっと違った感情で?」
「ぼくには、裕紀がいる」

「しかし、こころが残っているんでしょう? 駄目だよ、彼女を、裕紀さんを悲しませては」ぼくは、15、6年も前にもその選択があったことを思い出している。しかし、ぼくはもっと今では鎖に縛られているのだ。自分の感情だけで、なにかを選ぶ立場には当然のこと、もう置かれていないのである。

「落ち着いたら、手紙でも書くよ。いちばん、それが離れた人間にとって自然な形式に思えるから」
「自然でも、こころは不自然なまま」

 ぼくらは電話を終え、受話器をもとに戻す。そこは、会社近くの公衆電話だった。そこから出ると、空気が違った様子でぼくを取り巻いた。ぼくは、もうひとりではなく、雪代は、娘はいるがひとりだった。金銭的に急に困る状況にはいないだろうが、頼れる人間がいないということは後にどのような変貌を彼女に突きつけるのだろうかと、また心配した。
 そこで、ある女性に会う。彼女は他のひととは違う能力を有していた。上杉という名前だった。
「岐路に立ち尽くすひとみたいね」

「そうですね」ぼくは、なにもかも見抜かれているような捨て身な気持ちになった。
「掛け替えのないひと。そう何人も表れなかった。自分の人生で。わたしは、こんなことをしたくない・・・」彼女は最後に自分の意見を言った。彼女の能力は、持ち主である自分自身を苦しめるようだった。ぼくは、それが分かるゆえに多くを質問することができなかった。「だけど、あなたたちは、いつか分かり合えるようなときが持てるのよ」
「そうなったら、そうなったで」

「あなたには得るものも、失うものもあるということ。わたしもだけど。これ以上は分からない」
「なぜ、上杉さんはぼくにアドバイスするんですか?」ぼくは、いままでしてこなかった当然の質問をする。それは、いまの挑戦的になっている気分から生まれたものだった。雪代だけがなぜ苦しまなければならないのだろう、という気持ちからだ。
「わたしに何が分かっていると思うの? 自分の意思なんかわたしにはないのよ。ただ、写真を見せられて、それを口に出しているだけ。あなたは、それに写りやすいだけなんでしょう」

 ぼくも、その自分自身の不可思議な未来や過去の写真を見てみたかった。だが、いまの喜びや苦しみに対処するだけでも自分自身を持て余していた。

 社内に戻る。テーブルにメモが載っている。社長の名前と時刻が書かれている。ぼくは、それを手にして、誉められるか、叱られるかのどちらかの要素を考えたが、これといって何もなかった。

「近藤さん、なんかやらかしたんですか?」メモを置いたであろう同僚は冷やかし気味にそう言った。
「お前は、いつも注意されることに慣れてるけど、オレは、そういうのに向いてないから心配だよ」と少しおどけ、電話をかけた。

「お、近藤。あの件は聞いているのか?」それは仕事の話ではないようだった。「あの子の夫が事故にあったとか」
「知ってます。さっき、妹からも状況を教えてもらいました」
「可愛そうだな。小さな女の子もいるのに、ほんと、可愛そうだな。こっちに来るか?」それは、会社の用事と称して呼びつけてやろうかという意味のようだった。
「いや、いまは。妻が心配するもんで」

「そうだよな。智美ちゃんも、そんなことを言ってたっけ」と、義理の娘とどのような話をしたのかは分からないが大体の予測はついた。「ま、気が向いたら、また電話をくれよ。お前の味方だからな」と言って、いつもと違い少ししんみりした様子で電話を切った。

「叱られたんですか?」ぼくの表情が浮かないようだったので、同僚はそのような言葉をかけたのだろう。ぼくは相手にするのも面倒くさく、「そんなに遠くはないよ」という曖昧な返事をした。
 何人かは、雪代のことよりぼくの行く末を心配しているようだった。そのいまの置かれている自分の状況にただ漠然と戸惑っていた。
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償いの書(67)

2011年06月12日 | 償いの書
償いの書(67)

「大事な話があるんだ」
「どうしたの、まじめな顔して。わたしのこと、嫌いになったとか?」嫌われることなど考えてもいないだろう裕紀の安心した顔があった。
「島本さんが亡くなったって」

「どうして? あの島本さんでしょう」彼女は笑みを辞め、悲しげな顔になった。そうした表情を彼女に浮かべさせる必要など島本さんは持つべきでもないし、するべきでもないのだ。「誰から、聞いたの?」ぼくは、理由から説明した。「うちの家族と同じ」

 彼女にとって、二重の意味で苦痛だったのかもしれない。それは、片方は誤解でもあるのだが。ひとつは、彼女の両親と島本さんは車の事故でどちらも生命を失なった。もうひとつは、ぼくと雪代はこっそりと連絡を取り合っている仲かもしれないという疑念でだ。

「きいたのは、あの画廊を経営している女性だよ。裕紀も会ったよね」
「ああ、あのひと。じゃあ、島本さんと・・・」彼女はたくさんの感情と戦っているようだった。大切な命がある日、急に取り上げることを誰しもが経験したくないし恐れるだろうが、裕紀はそれに特別な感情を持っていた。実際に、それを取り上げられたのだ。いま、あの瞬間に戻り、それを追体験しているような表情を無意識に浮かべていた。ぼくは、その日を知らない。別の女性のもとでぬくぬくと暮らしていた。

「会いに行ってあげてもいいよ」裕紀は突然、ぼそっと声を出した。
「誰に?」
「誰にって、あのひと」ぼくは、ひとりの女性の顔を思い浮かべる。彼女は絶対にその名前を口にしなかった。名前を与えることによって、それは具体化され、目の前の箱から飛び出してしまうとでも思っているようだった。
「あのひと?」

「あのひとって言ったら、あのひと。今回だけは許してあげる。わたしだって、そんなことに遭遇したら、ひろし君に慰めてもらいたいと思うかもしれないから」
「ぼくは、むかし、しなかったのに」ぼくは、彼女の優しさに打たれている。自分の若い未来を奪った人にも、優しさを見せないことを罪とでも考えているようだった。「会いにいかないよ」
「どうして?」

「どうしてって、決めたんだよ。裕紀と再会して、ぼくの気持ちがまた裕紀とのあの関係に戻りたいと思ったとき、誰のことも、もうぼくのこころに入れないと、そう決めたんだよ」それは事実であり、また数割は守れなかったのも虚飾のない真実だった。
「後悔するよ。そうすると」
「後悔なんかしてもいいよ」
「駄目だよ。その感情にいつか苦しめられるから」

「その場合は、苦しむよ」何度かの感情の行き違いと、摩擦と抵抗にぶつかった。こうなると、どちらも頑固だった。彼女にとって、それは昔の古い記憶を払拭する機会であったかもしれない。ぼくにとっては、裕紀を大切にする、ただひとり大切にするという意思表明でもあるのだ。彼女が勧めれば勧めるほど、ぼくは意固地になった。彼女はベッドのなかで背を向け、
「ひろし君は冷たい人間なんだ」と、小さな声で言った。それは本心のように響いたが、やはり、受け止めざるを得ないし、はね返すこともできず、痛々しい言葉を流すしか方法がないようだった。

 翌日も裕紀の機嫌は戻らなかった。ぼくは妹に電話をして、彼女の持っている情報を仕入れた。すべてが事実だった。ぼくは幼いころの妹を思い出し、あの年齢のころの妹が急に父親がいない状態になったら、その後、どのような性格の変化があったのだろうと考えようとした。

「お前も、いろいろお世話になったみたいだから、顔ぐらいだしておけよ」
「お兄ちゃんは、絶対、来ちゃ駄目だよ」
「行く気もないよ」裕紀の言葉を思い出しながらも、それは身体だけが行かないだけで、気持ちは雪代のそばにいようと思い続けていた。誰かが彼女を慰めるべきで、それをぼくは勝手に自分が適任だと考えようとした。実際、それをしたら、裕紀は口とは反対にぼくのことを生涯に渡って、恨み続け、ぼくらの生活は破綻するだろうと思った。ぼくらは砂の城に住み、そこはいつでも大きな波に飲み込まれてしまうようだった。

「ごめん、言い過ぎた。わたしのそばにずっといて」裕紀はぼくが仕事から帰ると、態度を変え甘えてみせた。「でも、行ってもらっても本当に構わなかった」
「その後、裕紀はひとりで、この部屋でたくさんのことをクヨクヨ考えたかもしれない」
「しないよ、絶対に」
 ぼくは、10代の彼女をそういう状態に置いた。それから、どのように立ち直ったのか、ぼくはしらない。今度は、雪代が失ったものを嘆き、それでいながらも、ある日、目の前にはひかりがあることに気付くようになるのだろう。それを手助けできればよいが、ぼくの身体はひとつしかなかった。

 ぼくらは、暗い中で抱き合った。ぼくをこの世界にとどめたのは筒井さんだった。裕紀には、ぼくが必要だった。
「ひろし君のこと、冷たい人間なんて一度も思ったことないよ。ごめんね。誰より温かい人間」

 ぼくを雪代のもとに駆け付けさせようとした裕紀の気持ちがぼくには大切なものだった。彼女こそ最高に優しいこころをもつ女性だった。それゆえに、ぼくは裕紀を永久に大切に思うだろう。そして、この女性を選ぶしか根源的にはぼくには認められておらず、またそれを選び、掴んだ大きな意図を暗い中で感じないわけにもいかなかった。
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償いの書(66)

2011年06月11日 | 償いの書
償いの書(66)

 ある女性からの電話がある。声の持ち主は筒井という女性だ。ぼくは結婚後にその女性との関係を持ち、計り知れない後悔をしていた。また、それを乗り越える甘美な思い出も持っていた。なるべくなら話したくはなかったが出ないわけにもいかなかった。なぜなら、ぼくらの会社が管理しているビルの一室を彼女に貸していたのだ。いや、彼女の会社に貸していた。もし、そちらの不具合があれば、それに真摯に応えなければならない。

「どう、されました?」
「島本さんが死んだ」
「また、あんな元気なひとが死ぬわけがないでしょう?」ぼくの身近には、若者の死などなかった時代なのだ。
「突然だけど、事故にあった。高速で」

「ほんとなんだ。仕事が終わったら会いましょう」という約束を彼女と取り付けた。具体的な消息を知りたい気持ちがあったが、また、そこから遠ざかりたい希望ももっていた。段々と、ぼくは仕事を思いから消していってしまった。それは、本意ではないがひとひとりの命とは比べられないほど大切なものではない気がした。当然のことだ。だが、ぼくは、島本さんのことばかりを考えているわけではないことに気付く。ぼくは、雪代と、雪代に含むものを考えているのだ。彼女の幸福。笑顔。雪代の大切な娘。あの子はいま何歳になっているのだろう? 4歳か5歳か。その年で、もう父親が不在になるのか。

 だが、筒井さんの情報は間違っているかもしれないという気持ちも捨て切れなかった。彼女が嘘というか偽りの情報しか掴んでいないのかもしれない。事故にあっても、多少の打撲とか骨折で不運を免れるということもないわけではない。ひとが死ぬなど簡単なことではないのだ。ぼくが好きでもない人間についてだが、そう思わないとやっていられなかった。無性に悲しさもこみ上げてきた。その感情はぼくの芯からぼく自身に向かって突き上げてきた。ぼくは、彼の勇姿を思い出し、その映像を眺める。ぼくの脳にその姿は正確な形でインプットされていた。だが、その姿には雪代のことも同時に入っているようだった。彼が勝利者になったあと、雪代と寄り添って歩いている後ろ姿がそこにはあった。ぼくは、自分が島本さんだったら、と何度も思っていたのだ。それで、彼を憎む結果になったのだろうか? ぼくは卑劣な人間のような気がした。ぼくが、彼をいなくなってほしいという感情を持っていたことが憎かった。その結果は、今日になって訪れ、ぼくの気持ちが解決したのだという思いと戦った。いてほしくない人間だが、実際には、いつまでもいてほしかったのだ。逆説だが、それも事実だった。

「近藤さん、残業してぼくの仕事を手伝うって、いってましたけど」という後輩ののんびりとした言葉を振り切り、ぼくは筒井さんとの待ち合わせの場所に向かった。

「ありがとう、来てくれて」彼女は自分の身内が死んだように悲しんでいた。その姿を見ると、やはりあのことは事実だったのだと、受け入れるしか方法はなかった。
「やっぱり、そうなんですね」

「死んだって。終わりだって」彼女は口をつぐんだ。しかし、その後たくさんの思い出を声にして出す。その言葉から連想される映像は、ぼくが知っている彼の一面とは違かった。また、雪代がもっている彼についての印象も当然のことだが、違うだろうことが予想された。

 そして、ぼくらは忘れることを念頭にして、彼の思い出をそれぞれ吐き出した。しかし、口にすればするほど、生きている頃より、彼の実像がリアルに迫った。ぼくらは、その気持ちをどうにか処理しないと、明日まで持ちこたえられないほど消耗した。ひとの死は、ぼくらのこころを踏みにじった。筒井という女性がこれほど悲しんでいることで、ぼくはさらに島本さんを憎もうとした。だが、死人に対して憎しみなど持てる訳もなく、それは一瞬だけ訪れたかもしれないが、継続はさせてくれなかった。

 ぼくらは追悼の気持ちのように抱き合う。ぼくは浮気などするべきではないのだ。だが、この日だけは自分を許そうとした。その行為がなければ、ぼくの悲しみも筒井さんの憐憫も消滅しなかったのだ。ぼくはそれを無理にでもなく正当化しようとした。ぼくらは抱き合うことによって、自分らがこの世界に留まっていることを知った。実感としてもった。彼女はぼくの下で確かに存在し、ぼくもまた彼女の指がぼくの背中に絡まることで自分はまだこの命があり求められていることを確認した。それは、ぼくらなりの追悼だったのだ。

「島本さんとも関係をもった?」ぼくは、その言葉を無粋ながらも口にすることをとどめられなかった。

「何回かは」ぼくは、そして、なぜだかその言葉に安心した。それで、雪代の悲しみが減るような誤解をもった。彼が死んで放つ悲しみの数パーセントは、筒井さんが受け持つのだという錯覚があった。そこで、ぼくは雪代の悲しみの軽減を最前列に置きたいという卑劣な感情をもった。ぼくは、今日、何回も卑劣でいるのだ。それを認めることによって、彼の死を自分なりに衝撃を減らすかたちで受け止めることにしたのだろう。

「奥さんに、どう言う?」
「今日のこのこと?」
「違う。彼の死のこと」ぼくは、その問題を考えてもいなかった。ぼくと雪代の話はふたりにとってタブーであり、繊細な彼女の気持ちをぼくは掻き回すようなことはしたくもなかった。
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償いの書(65)

2011年06月07日 | 償いの書
償いの書(65)

 新しい恋の話を若い女性からきき、自分はそうした類いのものをもう探さなくてもよいという自分の立場を、安堵とともに軽い失望をなぜだか感じており、不思議と自分自身を不憫にも思えるようだった。いったい、なぜそのような気持ちが訪れたのだろう? ぼくは今の生活に対して満足感を覚えていたはずだ。それで、それを払拭すべくぼくは、何人かの知り合いの若い女性に思いを馳せる。彼女らが将来どのような男性に会い、また痛ましい別れを感じなければならない仮の運命を呪い、しかし、具体的な顔というのは実際のところ思い浮かばなかった。ひとりだけ、もう高校生になっているであろうぼくが学生のときにバイトした店長の娘のまゆみちゃんのことを考えていた。彼女は、ぼくと裕紀が会ったころの年齢になっているはずだ。彼女にも大切なひとができ、それをどのように相手に告げるのか、また、告げられないのだろうかと勝手に空想した。それは、ぼくが雪代とも会い、彼女への憧憬を深めていった年代でもあった。

「なに、考えているの?」
 旅行から帰ってきた裕紀は荷物を広げながら、ぼくの様子を見守っていた。
「若い子に男性を紹介して、それをどうするかは自分たちの問題だけど、もっと運命が介在するとか、ロマンチックな方面のことを考えていた」
「それで?」

「ぼくの知ってる若い女の子って、まゆみちゃんぐらいだなと。彼女は自分の気持ちをきちんと伝えられる女性になるのかな、と要らぬ心配までした」

「若い子って、きちんと進歩するものよ」裕紀は、自分が習い事をしていたときに触れた数人の女性のことを話した。彼らは、いつの間にか大人になり、自分ではできないと思っていたことを、簡単に克服するようにもなっていた。それは、ピーマンが食べられるようになったという簡単なことから、もっと精神性の話にまで及んだ。「だから、心配しても始まらない」

「別に、心配してるわけじゃないよ」
 それから、彼女は旅先で経験したことを話す。ふたりが独身に間違われたこと。そのために店先でおまけをしてもらったこと。店を出て、ふたりで笑い転げたこと。それらをいきいきと話した。
「でも、それはひろし君と会わなかったことにもなるのよね」
「なんだよ、しみじみして」
「いや、ひろし君はわたしと再会したときにずっと気付かなかったかもしれないとか、そのときに別の女性に夢中になっていたりとかしたら、そもそも、東京のあの場所に現れなかったりしたら、いまのような時間もないんだなと思った」
「でも、会ってしまったからね」

「言葉遣いには、もっと気を使うべきだよ。とくに若い女性の後輩なんかには」
 彼女は荷物を片付け、一部を洗面所の棚に、一部を冷蔵庫に、また一部を洗濯機のふたを開け放り込んだ。
「終わり?」

「やっと片付いた。お風呂にはいる」と言って、廊下に消えた。ぼくは、またさまざまなことを空想する。東京に来なかったら、ぼくの運命はどうなっていたのだろう。そして、雪代の気持ちはどうなっていたのだろう。思い返せば、彼女はもっとましな男性になるべく、ぼくを東京に送ったのだと考えるようになっていた。別れた当初は恨んでいたのかもしれないが、いまは暖かい気持ちで一杯だった。だが、ぼくらはそれぞれの道を歩んだ。彼女は母になり、ぼくには新しい最愛の女性と巡り合う将来が待っているというふうになっていたという訳だ。それを振り返ると、それしかぼくの未来はなかったようにも考えられた。だが、それすらも、もっと時代のさまざまな波を被ったあとではないと事実として箱には収められないのかもしれない。

「空いたよ、入る?」彼女は濡れた髪をタオルで拭っている。顔は白く、頬だけがすこしピンクがかっていた。電気は消されず、ぼくはすれ違うようにして浴室に向かった。洗面所にはふたつの歯ブラシがあり、その情景がぼくを過去へと誘った。最初に女性と住み始めたことや、自分とは別の種類の洋服や道具がある生活。長い髪用のブラシがあり、化粧のためのものがあった。その品物全体が女性なのだとぼくは錯覚をする。いや、理解をする。それは減っていかない。増えていくものなのだ。その日は確かにそう感じていた。

 ぼくは、ベッドに入り、横で聞き慣れた寝息を暗いなかで感じる。「独身に間違われた」と言った嬉しそうな表情。ぼくから見たら、数年間、裕紀の外見の変化はないに等しかったが、当人にはまた別の感情があるのだろう。

 ぼくらは会わず、また言うべきことを最善のタイミングで口に出すことを躊躇したら、それを裕紀が断ったら、例えば、「わたしに不快なことをしたことを、あなたは覚えていないというつもり?」と返答されたり、彼女の両親が健在で、「わたしの娘に辛い思いをさせたのは誰だったのだろう」とでも言われたりしたら、ぼくのここ数年の幸せはなかったし、崩れ去る前に存在もしなかったのだ。そのときに、ぼくは気の許せる友人からでも新しい女性を紹介され、彼女よりずっといい、などと考えられるのだろうかと想像した。しかし、その空想ははじめから無意味で、かつ答えも最初から決まっていた。そのとき、彼女は寝返りを打ち、うめきのような音声を口から漏らした。
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償いの書(64)

2011年06月05日 | 償いの書
償いの書(64)

 先日、智美と会って裕紀は旅行のプランを作る。彼女らは同じような立場にいた。ふたりとも子供はいなかった。その自由な面を生かせば、もっと頻繁に会うこともできるはずだが、なかなか計画はまとまらない。しかし、ふたりとも都合が良い日を見つけ、一泊の旅行に出掛けることにした。

 ぼくが、いつも通り出社するときに、玄関の横には裕紀の旅行カバンが置かれていた。そして、奥の方で念入りに彼女は化粧をしていた。

「行って来るよ」
「ごめんなさい、だから、今日はどっかで食べて来てね」
「ああ、そうするよ。楽しんできて」

 ぼくは、償いと言われたことを気にかけている。負い目や引け目を自分のどこかに隠しているのだろうかと点検した。しかし、外見からではなにも分からなかった。

「奥さん、きょうはいらっしゃらない? ご飯は?」
 外回りをしているときに、電話がかかってきた。午後のやる気が一時的に消える時間にある女性の声が耳に飛び込んでくる。それは、笠原さんだ。

「なんで、知ってるの。まあ、どうにかすると思うけど。どうしようかな?」
「上田さんが、妻がいないと大喜びしてるので。たまには、一緒にどうですか? お礼もあるし」
「あのことなら、気にしなくていいよ」ぼくは償いという二文字に拘泥している。だが、結局は約束を取り付け、彼女と食事をすることにした。ぼくは、上田さんも来るものだと思っていたが、仕事を終え、待ち合わせの場所に着くと、彼女しかいなかった。
「上田さんは?」

「来ませんよ。来るって、私言いましたっけ?」
「そういえば、言ってないけど、なんとなく勘違いしてた」
「妻がいないときぐらい、会社のひとと仕事が終わったあとも会いたくないって。とくに、私とかだからかも。近藤さんもそうですか?」

「ぼくは、そういわれると、いつも、きちんと家に帰るからな」
「愛している?」ぼくは返答ができない。それは、愛ではなく償いなのか? いや、そうばかりではない。ぼくの思案もお構いなしに、笠原さんはリズム良く話した。考えていることを思い留めるという段階が存在しないようだった。それでいて、口を閉ざしているときは、上品な印象を残していた。すると、ぼくの思案癖も消えていってしまっていた。
「うまくいきました」突然、彼女はそう宣言する。

「良かったね」
「近藤さんのことも聞きました。若かりし、泥にまみれる青春時代」
「高井君が、どう見てたかも分からない。ただ、ぼくらはライバル関係にある学校にそれぞれ所属していた。ぼくらはよくもしらないのに、どこかで軽蔑したり憎んだりするように思いがちだったね」
「彼は、近藤さんを尊敬していた」

「嬉しいけど、ぼくらは2番手にいつもいて、不屈ということしかアピールすることはできなかった。その健気さを、彼も後輩だからベンチかスタンドで見ていたのだろう。負け戦を恐れないひとたちって」
「そのライバル校のキャプテンから女性を奪った」
 ぼくが忘れようとする度に、誰かが雪代の存在を思い出させようとした。事実は曲げられ、興味本位で語られているような気もして不快になることもあったが、それを正す必要も感じなかった。ぼくの真剣さを当人だけが知っていればよかった。だが、会話の行き掛かり上、少しだけは弁解もした。

「奪ったわけじゃないよ。彼らは、きちんと別れていたから」
「だが、他のひとはそう見ない」
「見ないけど、彼らはいまでは夫婦でもある。可愛らしい子どももいるはずだよ。それより、自分のことを話してよ。私の前に表れた素敵な男性という題で」

 彼女は、そういうきっかけを待っていたようで、滔々と話し出した。ぼくは、彼女の別れ話をつい先日にきき、今度は新しい恋の話を聞かされた。それが、どういうめぐり合わせによるものか、自分でも謎だった。しかし、彼女の人生に対して責任のようなものも含まれていった。ぼくは、頭の中で別の映像を作り上げる。シアトルでできた友人に裕紀も自分の終わってしまった恋の話をしたのかもしれない。それは別の言語を介しての話だったのだろうか? その女性は、きょうはぼくらの家にいなかった。そして、旅先でいまごろ、裕紀と智美はどのような会話をしているのかを想像していた。ぼくは、どのように評価され、どのように点数を増減させているのかを考えた。

「もう遅くなったね」会話にも区切りがつき、夜も終わろうとしている。彼女と話していると楽しい会話のせいなのか時間は短く感じられた。ぼくらは名残惜しい気持ちを残しながらも夜の町にでた。ぼくは何人かの女性のこころに強く印象を残したいという気持ちが過去にあったことを思い出している。しかし、いまは、もうどうでもよかった。ただ、離れた妹に感じているような気持ちを笠原さんにももっていた。後輩の山下に対しての感情と同じようなものを高井君にも持ったのかもしれない。

 ふたりは別れ、ぼくも家に着く。ドアを開けるといないはずの裕紀の匂いがした。いないだけに逆にそれは鮮明さを帯びていた。
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償いの書(63)

2011年06月04日 | 償いの書
償いの書(63)

 自分とは別の人間の存在が気にかかり、そのひとからの連絡を待ったりする。待ちきれなくなって、こちらから電話をかける。とくに、用件もないはずだが、用件のない会話から段々と話は弾み、それが長いものになっていく。ぼくも、裕紀と再会したころのことを思い出していた。だが、ぼくらは勤務地が近いゆえ、朝のひとときに会うことができた。笠原さんという女性はいま、どういう立場に自分を置いているのだろう、ということが多少だが気にかかった。裕紀もそのようであり、朝食をとりながら、

「あのひとたち、どうなったかしらね?」と、それとなく訊いた。ぼくに答えはなく、いくつかの予想を膨らませた言葉しか出てこなかった。ただ裕紀も期待の言葉をいうのみだった。だが、うまくいくのが正しいのか、あのひととやっぱり縁がなかったみたい、というのが将来的に間違っていないのかは誰にも分からなかった。だが、ふたりは似合いそうな感じがしたのも事実だった。

 その答えは遠くない日に訪れた。ぼくらは上田さんの会社が企画した写真展に行った。それを見終わったあと、久し振りに智美にも会う予定だった。そこに行くと、受付に笠原さんがいた。最初に見たときから、彼女の顔は恋をしている女性の顔であることが分かった。

「なんだ、うまくいったみたいだね」とぼくは気軽に声をかけた。間違った発言をしていないという充分な確信が込められていたかもしれない。
「え、なにか聞いたんですか?」

「聞いてないよ。なんか表情が語っている」彼女は自分の表情を確認できないもどかしさのようなものを表していた。それ以上、言葉を交わす暇がないほど、次々とぼくらの後方にお客さんがいた。それで、ぼくらは薄暗い照明のなかに入り、写真を見た。上田さんはラグビーをしながらも、こうしたことに関心がある一面をぼくらに教えてくれなかった。ただ、練習の合間にふざけた話をする先輩だった。だが、それから大人になって離れた場所から眺めてみると、硬派であり一途な面があるまじめな人間であることが理解できた。その仕事ぶりは真摯なものであり、続々と素晴らしい企画を打ち立てては、地道に成功させていった。笠原さんもそういう一面があることがときには素敵に見えるとこの前、語っていた。だが、近くにいるとやはりやんちゃ坊主のような片鱗もあらわす先輩でもあるらしい。ひとの評価をする場合、ある程度の距離が必要であるかもしれないと、ぼくはその部屋で考えたことを思い出す。それゆえに、ぼくは裕紀をうまく評価できず(それは生ものである)、近いところにいない雪代の過去の行いをぼくは積極的に肯定していた。それが思い出の利便でもあり、象徴でもあった。

 ぼくらは夕方になる前にそこを出た。出る前にまた受付の方に戻り、笠原さんに遠くから会釈した。

「彼女、きれいになったね」と裕紀が素朴な感想を言った。そこには時間の距離もあり、また、空間の距離もあった。ぼくに別れ話をした彼女はある店の隣にいた。椅子にすわる彼女と接近していて直ぐにでも触れられそうな距離にいた。そのときの魅力と、ちょっと遠目からみた彼女の魅力をぼくは天秤にかけている。そして、声の質や、独自の匂いというものが、そもそも人間には備わっていることをぼくは思い出している。「そう思わない?」

「きれいになった。あいつも、いい奴そうだったしね」
「ラグビーをしていた人間にいつも甘い」と彼女は自論を吐く。ぼくの人間の採点にはスポーツをしていた有無がいつも入り込むらしい。それは、机の上での論議をいっさい信じていないことにつながった。ぼくらは同じような汗をかき、苦しみを分かち合ったのだ。高井君が乗り越えた辛さをぼくは知っており、そこから開放された喜びと切なさも想像できた。

「裕紀は、誰にでも甘いよ」と、苦し紛れにぼくは言った。以前、苦しませた過去のあるぼくとこうして生活するぐらいなのだからそれは事実なのだが、ぼくはその実例を言うことをためらった。

 あるところに行くと、智美が壁にもたれかかるように立っていた。
「こんにちは、彼は仕事から離れられないみたい」と上田さんのことを伝えた。
「智美ちゃん、きれいな奥さんになってる。雑誌のモデルみたい」と裕紀はその様子を述べた。
「きれいな服装をしないと彼がうるさくって」と満更でもない表情を作っていた。「裕紀はいつまでも若い。まだ20代前半でも通るような感じ」

「さすがに、それは」とぼくは余計なひとことを追加した。その後、ぼくらは立ち話をやめ、ある店にはいった。
「彼の後輩の女の子に男性を紹介したんだってね。その子が嬉しそうにしているって。ひろし君って、自分のことにしか関心がないのかと思っていた。自分の幸福を追求することしか興味がないのかと」と智美は感想を言う。それは、ぼくらの仲を知らなければ悪口ともとれた。しかし、ぼくらの長い関係があれば、それはお世辞にも聞こえた。いや、それは言い過ぎだろうか。やはり、嫌味と受け取るべきなのだろうか。

「ひろし君は、ただ、約束を破れない。わたしたちが10代のときにした約束を覚えていてくれた」その証拠を出し、裕紀はぼくを弁護した。
「それは、約束ではなく、償いというのよ、ね?」やはり、嫌味なのだろう。
 ぼくは、うんざりとした表情をして、店員に新しいお酒を注文する。そう、約束を果たさなければならない義務感というのは、裕紀に対しては償いなのかもしれなかった。
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