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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
日常は「系列作品」から
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壊れゆくブレイン(82)

2012年07月28日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(82)

 それから何ヶ月か経って、広美は大学受験を迎える。あの小さかった少女が自分の未来を自分の手で捉まえようとしていた。ぼくは途中から彼女の生活に関与するようになった。愛してしまったひとの娘として。だが、いまではぼくと雪代は出会って恋に落ち、別れて結婚をしたという一連の流れから逃れられなかったように、ぼくと広美との関係もそういう強い絆のようなものが以前からあったような気もしていた。例え、別の男性の子どもであったとしても。

 広美はコートを着て、受験会場に向かう。何校かのひとつだ。ぼくもいつもより早起きして出掛けるのを見送った。彼女がもし失敗しても、ぼくと雪代が彼女に示す愛情は何ら変わらず、きちんと成功したとしても大げさに喜びすぎることはないだろうと思っていた。ただ、毎年花を咲かすのが決まった宿命のように、ぼくらはただ同じ営みを一定につづけていくことだろう。でも、早起きしたという事実が、いつもより入れ込んでいる証拠でもあった。ぼくは顔を洗い、雪代が入れたコーヒーを飲んだ。

「ひろし君が大学に受かったとき、多分、わたしが一番よろこんだ」
「大した自信だね」
「大学生同士の交際は許されるだろうけど、高校生を騙している年上の女性みたいな立場はあまり居心地の良いものじゃなかったからね」
「けっこう、古風だね」
「これでも、古風だよ。あんまり周りからも良く思われていなかったし。それでも、前にすすまない訳にはいかなかった」

 ぼくらはその10代の未熟な経験と感情で将来を見極め判断しようとしていた。もちろん、間違いの入り混じらない人生など決してなく、ぼくもいま思い返しても冷や汗がでそうなことが多々あった。だが、雪代とぼくとのつながりかけた関係は誰にも断絶することはできなかった。だが、ぼくらは何年後かにその関係を意図的か無意識か分からないまま絶ってしまった。それでも、お互いに配偶者をなくした状態で再会した。そして、雪代には広美を守るという立場がうまれていた。その関係に自分も入る以上、ぼくにも同じ問いかけが投げかけられた。あの少女を大人になるまで見守られるのかと? それで、彼女は大人になりかけていた。後は自分の手で好きなものを伸ばし、嫌いなものにもきわめて功利的に対処して成長するのだ。その存在はコートを着て、寒い外を歩き、試験の問題を埋める。

「それで、ぼくは大学に受かった」
「わたしは、陰で祈っていた。いま、娘にもしていないのに」
「それだけ、心配されていた」
「違う。若くて、バカみたいに好きだった」

 お互い、長い時間が経過したことを知っていた。その流れゆく時間に身を任せつづけるだろうということをこれからも楽しもうと思っていた。だが、任せるしか方法はないのだ。ぼくらには激流も、分岐点も与えられていない。あとは、残された大人ふたりが大河に運ばれるような気持ちでゆっくりと自然に身を任す。そして、その状態はとても素晴らしいものに思えた。

「その新聞、そんなに離して読んでいたっけ?」ぼくは新聞をテーブルに置き、コーヒーカップを片手に読んでいた。その距離のことを雪代は訊いた。
「もう18才じゃないからね」
「もう1杯どう?」

「うん、入れて」娘は未知の問題を読み解く。でも、同じような傾向の問題はたくさん解いたはずだ。ぼくらの人生も同じようなものだろう。似たような問題がある。だが、それを実際の自分に当てはめるようなことはしてこなかったかもしれない。ひとは死に、そして、産まれる。ぼくは、裕紀を亡くし、社長を失った。ぼくには子どもができなかった。だが、ぼくを慕ってくれた数々の子どもたちの瞳の輝きを覚えている。最初にあらわれたのは、まゆみだった。彼女はバイト先の店長の娘。なぜ、いま、この朝に思い出したのかは知っている。彼女は大人になり広美の勉強を手伝ってくれたのだ。まだ、レールも定まっていない少女の歩みのことを心配し道筋をつけてくれた。「そうだ、まゆみは、広美が受かったらいちばん喜んでくれるかもしれない」

「そうだろうね。まだ、隣の部屋でふたりが勉強しているかもしれないと思うことがある」
「母になる役目なんて誰も教えてくれないと思うけど、良く頑張ってるね」
 それは、まゆみに対しての言葉だったが、当然、雪代のことも念頭にあった。もちろん、自分の母や妹も。その役割を奪われてしまったゆり江という女性の存在もぼくは同時に思い出していた。彼女は、あのことから立ち直れたのだろうか? そもそも、ぼくも同じような立場である裕紀の死という不幸な事柄を忘れ、立ち直れてきたのだろうか?

「本能なんでしょう、そういうのって」
「たくさんの絵にも写真にもあるからね」
「不変の美。与えられた本能。でも、うるさくて仕方がなかったときも、いまは良い思い出にもなっている」
「東京に行っちゃうかもね」
「ふたりに戻ったら、こういう生活をするって、何か約束をして」雪代は決意を含んだ表情をしていた。ぼくらは力強くあろうとしながらも、どこかで心細かったのかもしれない。運命をつかみにいく立場の人間ではもうなく、そこから追われる人間のように感じていた。ぼくは真っ当な返事をしたかったが、早起きした脳はまだ起きていなかったのかもしれない。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(20)

2012年07月28日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(20)

 ぼくと由美はファミリー・レストランにつづく階段をのぼっている。1階には駐車場があり、私服の中高生が自転車にまたがり、なにやら話していた。そして、大声で笑っていた。彼らも娘の手を握り、こうして階段を登る将来が来るのだろうかと考えていた。

「こんにちは、由美ちゃん。と、先生」
「こんにちは、お姉ちゃん」
「何にする?」児玉さんの娘の方。彼女はいつも生き生きと仕事をしていた。ぼくらはそれぞれ注文を頼むと、彼女は手の平の端末で注文したものを入力して奥に消えた。
「あの児玉さんはお姉さんで、水沼さんはおばちゃんなんだ?」
「お姉ちゃんは結婚してないから。たっくんのお母さんは結婚しているから、おばちゃん」
「そういう使い分けなんだね。じゃあ、ママは?」
「え? ママは、ママだよ」決まったことを訊くなという表情を娘はした。それでは、おじさんとお兄さんの差もそこにあるのか?

「明日、クラスがあるんでしょう? 先生」
「うん、2週間ぶりかな」
「宿題を出したとか?」
「そう、みんなにも書くという苦痛を味合わさないと・・・」
「苦痛なの?」
「いや、ぜんぜん。なるべくなら、ずっと机の前に座っていたい。ところで、お母さんは相変わらず自伝を?」
「書いている。この前、盗み読みした。お風呂に入っている間に」
「それで、どうだった?」
「わたしが産まれて、そこから成長している。学校に行って、いじめられて、そのことに母が抗議するかで悩んでいるみたいなことが書かれてあった」
「いじめに遭ってたんだ?」
「ぜんぜん。男の子にもケンカで負けたことがない。お転婆。由美ちゃん、お転婆って、分かる? 静かに座っていられない女の子のことよ」

「じゃあ、なぜ、そんなことを書いているんだろう?」
「そういう女の子が良かったんでしょう。白い清楚なワンピースが似合って、麦藁帽子でもかぶって。静かに絵本なんか読んでね」
「でも?」
「虫を拾ってきて、カマキリはいつのまにか卵から孵化して、部屋中を歩き回っていた。ひじや膝はいつも擦りむけ、絆創膏とおともだち」
「さっき、カタツムリがいた」由美はアイスを食べている。健康そうな頬を動かしていた。
「嘘の自伝でも注意ができないね」ぼくは、その作り上げた架空のものに加担する側にいたのだ。
「あれって、アルツハイマーなのかしらね?」
「それ、なに?」由美は新しいアイスの名前でもたずねるかのように質問を投げかけた。
「あとで、教えてあげる」

 ナンシーは探し物のために費やす時間が増えていた。そのことにもまだ自分自身では気付いていない。いまも裁縫の道具を探していた。ひとりごとを言い、部屋のあちらこちらを動き回っていた。

「どうかしたの?」マーガレットは母のことが心配になり、声をかけた。「それなら、ここにあるじゃない」返事をもらい、簡単に探し当てた。ナンシーは安堵して、自分の椅子にすわった。そして、そのときに家の扉が力強く叩かれた。その叩き方はレナード特有のものだった。部屋に入って自分の絵の道具をひろげる前から、レナードは自分を主張していた。
「時間に正確になるって、ここで教わりました」と、レナードは言ったが、それでも約束の時間には遅れていた。以前よりその時間は早まったが、それでも、遅れていることに変わりはなかった。

 マーガレットは彼が必要とするものを既に熟知し、その準備を済ませていた。そして、鏡の前で髪型も化粧も整い終えていた。それで、その言葉に自然と笑みがこぼれた。

「車掌にだってなれるぐらいに正確ですよ」と、マーガレットは笑いを半減させ、そう言った。その言葉が聞こえないかのようにレナードは仕度をはじめた。ナンシーは編み物をしながら自分の結婚生活のことを思い出していた。最近は、むかしのことをよく振り返るようになった。それは自分に起きた出来事とは別に歴史という範疇に入ってしまったかのようにも感じていた。もう動かせないという事実がそう思い込ませたのかもしれない。それで、編み物という未来を構築する作業をしながら、動かない思い出を楽しんでいた。それは、もう誰にも奪われることはないのだ。でも、それは確かなことだろうか?

「パパ、アルツなんとかって、なに?」
「どうしたの、由美?」夕飯の席で、妻が好奇心のある目で娘のことを覗き込んだ。
「アルツハイマーって言うんだよ。年を取るにつれ、記憶を思い出せなくなる病気。引き出しには入っているけど、どこにおもちゃを入れたか忘れちゃうことと同じ」
「誰が?」

「誰って、ぼくが教えているうちのひとりの娘がね、ただ、あることないことを母が書いているから心配しただけだよ。応対だってばっちりだし、いつもぼくの痛いところを言い当てるぐらい理路整然としている」
「だったら、あなたもじゃない。無いことを見てきたみたいに書く」
「それが、創作っていうんだよ。我が使命」
「パパも、由美のことを忘れちゃうの?」
「忘れちゃうのよ。それでアサリの身だけじゃなくて、貝がらまで食べちゃうの」妻がそう言うと、娘は、ぼくのことをはじめて他人のようなひとと認識して視線を向けた。
「変なこと言うなよ。信じるだろう」ぼくが貝がらに手を伸ばすと心配した娘がそれを取り上げた。

壊れゆくブレイン(81)

2012年07月27日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(81)

「瑠美からチケットが送られて来た」広美が封を開けながら、そう言った。
「そういうのは、郵送でいいんだ?」
「え、なんのこと? ああ、これ。プレゼントとは違うから」彼女は文面を読み、返事もおろそかだった。「その前日に泊まらないかだって」
「どこで?」
「瑠美の家で」
「違うよ。その演劇のことだよ」
「高校の文化祭。何枚か入っているので、ひろし君とママもどうかと」
「何日? わたし、その日は無理だね。ひろし君は、どう都合」と、雪代が言った。

 ぼくはカレンダーを眺める。ぼくは東京の支社の仲間からサッカーの試合のチケットを譲り受けていた。彼は弟の結婚式があるとかでなくなくそのチケットを手放した。ぼくは2枚あったものがまだ机の引き出しに入っていることを思い出していた。できれば、甥を誘おうかとも考えていた。彼も大学受験に向けて勉強をしていたが、ときには息抜きも必要だ。それが前日で翌日は東京の街をぶらつこうと考えてはいた。そもそも、そのふたりはどこかで出会わなければならないのだ。

「前日にサッカーの試合があって外国からチームが来る」
「なら、ちょうどいいじゃない。どこかで待ち合わせて」
「うん、文化祭か」
「どこかで、食事でもおごってもらいなさい。きれいな女の子の特権なんだから」
「そうしてもらう。ねえ、聞いてる?」広美はまたチケットを封にしまった。

 ぼくはあることを思い出していた。まだ、大学生だったのだろう。上田さんの大学でも文化祭があった。そこに出演したある女性がいた。歌がうまく、ステージの上で魅力を放ち、その存在よりおおきく見えた。あとで会ったときに、意外と小さくシャイで引っ込み思案な態度が印象的であった。でも、名前も思い出せない。若いまだ未完の人間が自分の能力に気付き、その才能を生かし、ときには無駄にして、さび付き劣化する過程を考えていた。あの女性はいったいどういう未来を作ったのだろう? ぼくはその女性と瑠美という女性を重ね合わせていた。彼女の未来はぼくの前からなくならないのかもしれない。もし、本当に甥と結婚するようなことになれば、ぼくと甥とのつながりが消えない限り、彼女もぼくの周辺にいることになる。ぼくは、あの言葉を信じているのだろうか? 本当であるか、嘘であるかのどちらの保障もない言葉を。そして、ぼくは誰かが目の前から消えるということをどこかで脅えていた。

 何週間か経って、ぼくと甥はサッカーが行われている試合のスタンドにいた。華麗なパスや的確に狙われたゴールを喝采とともに見た。未来はまだ誰の手元にもあり、それを自分の気分ひとつで変えられる魔法がサッカーにはあった。その未来の瞬時の判断や選択を見誤ると、劣勢でいる立場に甘んじなければならない。ぼくは、頭で考えるより、実際にあのグラウンドで動き回りたかった。でも、それはもう無理だった。歌声を盗られた鳥たちのように。

「腹へったな?」ぼくは、いくらか若やいだ気分になっていた。
「うん、同じく」
「いつも、出張のときに来る店があるんだけど、そこでいいか? お酒がメインの店だけど」
「いいよ、どこでも」甥のかずやは感動と能力の限界を味合わされたひとのようにぼんやりとしていた。

 ぼくはそこで焼酎のロックを飲み、煮付けられた魚を食べた。甥は鳥がていねいに焼かれたものが乗っている丼を食べていた。そこで、勉強の話をしたり、サッカーの話をしたり未来のことも話題に取り上げた。それから歩いて帰れる距離であるビジネス・ホテルに泊まった。いつもはシングルの部屋だが今日は少しだけひろいツインの部屋だった。ぼくはビールを買って甥がシャワーを浴びている間、ベッドの上で足を伸ばしテレビを見ていた。こうしていると、女性がいない気楽さを感じていることに気付く。ぼくはいつも妻と義理の娘のなかで暮らしている。それはもちろん嫌なことではなかったが、自分の振る舞いに注意を払っていることも同時にあったのだろう。

「ひろしさん、明日は?」かずやは大きいタオルで髪の毛を拭いている。
「渋谷にでも行こう。それから娘と会わなければならないんだ。お前も、来るだろう?」
「いいけど」
「高校の文化祭だって。東京の高校ってどういうもんなんだろう」
「さあ。どうぞ、シャワー使って。オレ、眠くなった。テレビ変えてもいい?」

 ぼくがシャワーを浴びて出てくると彼はもう寝ていた。手の平にテレビのリモコンがつかまれていた。ぼくはそれを取りチャンネルを変えたが、直ぐに消した。それから室内の照明も暗くして、ベッドのなかに身体を入れた。

 翌日の夕方、瑠美も含めて4人で夕方、食事をした。それで、満足できないのか、帰りの電車のなかで広美もかずやも弁当を食べていた。

「瑠美って子は、なんだか都会の子の顔付きになったね?」
「なんだか、嫌味に聞こえるよ」広美は、弁当のおかずを口に含み、にやけた顔でそう言った。
「かずやもそう思わない?」
「さあ、とくには」無関心であるように、それが演技でもなく実体のまま彼はそう答えた。ぼくはなんとなく窓の外を見て、ひとつの言葉で運命など作られることはないのだ、と喜ばしいような期待が裏切られたような思いがしていた。しかし、あの女性は裕紀の死を知っていたのだ。それこそが自分にとって重要な宣告だったはずなのだ。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(19)

2012年07月26日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(19)

 エドワードの仕事もひと段落つき、夏の休暇を貰えることになった。その休みを有意義に過ごすためにエドワードは小さな下宿先の部屋で荷物を詰め、どこかに出掛けようとしている。いまのエドワードはなにか新しいことが無性にしてみたかった。そういう気持ちになっていた。いままでは自分の生きている範囲が狭かった。自分の視野をもっと拡げ、この下宿と職場以外にも自分の世界を作ってみたいと願っていた。

 だが、気持ちがあせるばかりで目当ての場所はなにも浮かんでこない。ただ、なんとなく足は海辺の町に向かっていた。たくさんの船がそこでは往来している。対岸からは陽気な顔付きをしたひとびとが。こちらからはしずんだ顔をしたひとが太陽と気分転換を求めて船に乗っていた。エドワードもチケットを買い、そのひとつの船の乗員になった。風に吹かれデッキで汽笛の音をきき、青い空を眺めた。船の針路方向にはもっと青いものが。後ろを振り向くと、それはいくらかグレーに見えた。エドワードは上着を一枚脱ぎ、白い肌を容赦なく太陽の刺激にぶつけた。

 その向かっている町には、マーガレットとナンシーが避暑をしているはずだ。彼女らに会う気持ちはなかったが、同じ空気を吸ってその雰囲気を感じたいとは思っていた。同じものを見て、こころが通じ合うことを予感する。そういう淋しさの除去の予兆も感じてみたかった。

 エドワードは海峡を越える。新鮮な経験を、自分の目を通して勝ち得たものをマーガレットにも伝えたいと思っていた。そして、一緒に見るべき価値あるものを印象に残して自分にインプットする。あとでお弁当の箱を広げるようにマーガレットにも見せるのだ。

「おばちゃん、昨日、パパね、結婚した日を忘れたことで、ママに叱られていた」
「叱られてないよ。あの言葉の裏には愛情があった」ぼくと妻には愛があるのだ、と娘にまでアピールしなければならない。
「いやよね、男性って、由美ちゃんも気をつけてね。直ぐいろんなことを忘れる生き物なんだから」水沼さんは滑り台の上の息子の様子を見守りながら、しっとりとそう言った。一瞬にして男の子は上から下に落ちる。まるで、自分の存在意義と価値のように。

「由美、なにしてるの?」急にいなくなった娘は小さな背中をこちらに見せていた。そして、こちらに走ってきた。
「パパとおばちゃんに見せたいものがある」由美は、閉じられていた手の平を開く。中には貝がらのようなものがあった。「かたつむりがいた」

「なんだ、気持ち悪いな。大事なものかと思った」ぼくは、のぞきこんでいた顔をのけぞらせた。
「あら、今ごろの時期もいるんだね。由美ちゃんは平気なの?」
「なにが?」
「触れるんだ、そういうのも。わたしみたいに田舎育ちなら分かるけど。パパは、駄目なんだね」水沼さんは快活に笑った。となりに来た彼女の息子も、由美の手の平からそれをすくい上げた。

 エドワードは銀行に通っている日頃の服装とは違い、ラフな格好をしていた。太陽の日射しは強く、彼の青みがかった瞳は、その光線に負けそうになっていた。それで、何度も目をしばたいた。
「お客様、ご注文はなにに致します?」

 既に午後を過ぎ、そろそろレストランも閉めて、夜の準備にとりかかる時間になっていた。その前に、長い昼休みがあることはもちろんだった。気だるそうでありながらも人懐っこい笑顔をもった店主は、エドワードに訊いた。いつもの味気ない食事ではなく、食べ物自体が主張するようなものを食べてみたいと彼は思っていた。

 それで、エドワードの前には、ムール貝とエスカルゴが並べられていた。彼は白ワインを飲みながら思案している。注文したのは良いが、それをどのようなペースで食べるのかも分からない。それで、横に置いてある読み慣れない本をパラパラとめくった。スタンダールは旅をしている。旅をするということを文章に残している。それはなぜだか反比例のことのようにエドワードには思えた。数々の経験は消えるという前提にあってこそ美しいものなのだ。だが、その美しい体験を自分はマーガレットと共有したいということをエドワードは失念している。

「パパ、お腹すいた」
「じゃあ、手を良く洗わないと」由美は公園の水道で手を洗っている。かたつむりはもうどこかに消えた。自分の居場所にみな帰るのだ。
「今日、夕飯のおかずは何にするんですか?」水沼さんは参考ということを求めて、ぼくと由美に訊いた。
「あさりのバター焼き」由美が言う。
「あら、渋い」
「ママが好きだから。いっしょにお酒を飲んで、誰かの悪口をそれで言うの」
「結婚記念日を忘れちゃう夫とかね」

 ぼくらはそこで水沼さん親子と別れ、ぼくは由美のきれいになった手を握り、いつものファミリー・レストランに向かった。

 エドワードは会計を済ませた。この食事もマーガレットと食べられたらどんなに楽しいだろうかと考えている。彼は日陰にたたずみ、ゆっくりと水が流れている終点でもある石の壷に手を入れた。それで汗ばんだ顔を両手でぬぐった。

 由美の額も汗ばんでいた。ぼくはきれいなハンカチを出し、その汗を拭いた。ちょうど、魚屋の前を通りかかり、今日のおすすめを訊いた。その横であさりは水の中で潮を吹き、自分の主張を小さなあぶくを通して発しているようだった。

流求と覚醒の街角 (1)橋

2012年07月21日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角

(1) 橋

 橋の上からはじめる。

 サイモン&ガーファンクルは橋についての唄をつくって歌っていた。曲はラジオから流れ、そのいくつかのフレーズをぼくはその橋の上で口ずさんでいる。その憶えているフレーズが少ないため、ぼくの考えは別のものに移動することとなる。ヴィヴィアン・リーという女優が演じた踊り子はウォータールーブリッジで出会ったひとのことで、恋と間違った選択を手にして、後悔する。後悔の結果は、映画的に美しくもあり無残でもあった。生きるため。何事も生きることが先決なのだ。

 子どものころに読んだ頓智の一休さんは、橋を渡るなという無理難題を突きつけられ、結果として堂々と真ん中を歩いた。橋と端っこの考察。

 ぼくは、なぜこんなことを、この橋の上で思い浮かべているのかというと、いつも約束の時間に遅れる彼女を待っているからなのだ。彼女は、大体待ち合わせの時刻から20分以上遅れ、決して30分以上過ぎてしまうことはなかった。だったら、それを見越して待ち合わせの時間を設定すれば解決するではないかという賢い提案が生じそうだが、なんとなくぼくはこの時間を活用して、あのときの彼女はこうだったということを思い出し、野球選手が素振りでもするように身体を暖め、活力を生み出そうとしているのだ。人間には空想の時間が絶対に必要なのだ。仕事が終わり、その現実味を帯び過ぎた気分を転換させるのもこの時間のもつ役目だった。

 ぼくらが出会って間もない頃、ぼくと彼女は鎌倉にいる。八幡宮の太鼓橋を背にぼくは彼女の写真を撮る。別の時には、大きな川にかかる橋の上で花火を見た。花火を見たというより、大きな爆発音を聞いたというほうが意味合いとしては近いのかもしれない。下には屋形船が川面にあり、そのなかの優雅で風流なひとびとも想像していた。

 ぼくらは鎌倉をあとにして、江ノ島に行った。あれは橋と呼べるのだろうか? 長い道路を歩き、空中を縦横無尽に飛び回るカモメだかを見て、島に渡った。あれは、カモメとは違う種類の鳥だったのだろうか。

 ソニー・ロリンズというサックス・プレーヤーは橋の上で楽器を練習している。自分の成し遂げたことですら疑問に思い、新たな表現方法を模索している。賢い人間には悩みと戸惑いが不可欠なのだ。ぼくは、そこを通りかかっている自分を想像する。ある芸術が生まれる現場に立ち会えるという喜びがあるのだろう。そこは大学ではない。講堂でもない。ただの橋の上。そこに彼がいるならば、音楽が生み出される。そのサックスの音がカモメの悲鳴に似た音に化ける。

 ローマ時代には既に水が貴重な資源であり、橋を使ってまでも、それをわざわざ運んだ。トレビの泉につながるというイメージ。またサンフランシスコの赤い橋の上からひとが飛び降りる。そのなかにヴィヴィアン・リーが演じた不幸な女性を持ってくる。ぼくは、暇なのだ。

 彼女は江ノ島であの西海岸の橋と同じような色の真紅のコートを着ていた。ぼくは転勤していた土地から戻り、ひさびさにここに来た。友人の結婚式の二次会で彼女を見てから、たしか3度目か4度目のデートだった。その二次会のときはもちろん約束の時間に遅れがちだという情報などまったく知らない。話していて直ぐに気が合うことが分かっただけだ。それで充分だったのだ。橋の上には車が通り、クラクションを鳴らした。その音もサックスの曲がりくねった管から出てきたように聞こえた。ぼくは今日、家に帰ったらソニー・ロリンズの音楽を聴こうと決めた。何がいいだろう? ドン・チェリーと共演しているものがあったはずだ。その前に女性があらわれる予定になっている。

 ぼくは腕時計を見る。6時23分。そろそろ彼女は来るだろう。そこに高いヒールの彼女が出現。身体の一部のようにその靴は彼女に馴染んでいた。ぼくならもちろんそのように器用に歩けない。試す機会にも恵まれないが。

「ごめん、待った?」
「少しね」
「今日、なにする? なにしたい?」

 ぼくは、まだルイ・アームストロングもビリー・ホリディもいるニューヨークに行きたい。根源的な望みだ。それは頭の中では白黒の世界だった。その色が抑えられた場所であるナイト・クラブや音楽が夜な夜な演奏されている小屋みたいなところでそれぞれの音を堪能したい。それに、そこから離れてひとりサックスの練習を繰り返すソニー・ロリンズも見てみたい。だが、もちろん、そんなことは言わない。

「橋の上って、風が気持ちいいね。ねえ、そう思わない?」
「パリかなんかで、セーヌ川が流れていて、あまりパッとしないサックス奏者が古いメロディーを吹いているとしたら、もっとロマンチックだと思わない?」
「じゃあ、今度、連れて行って。その理想の国へ」

 橋の上からはじまる。彼女はぼくの腕に自分の腕をからませる。これが彼女の癖だった。橋の上からはじまる。今夜の思い出も橋の上でスタートし、ぼくの彼女に対する気持ちも橋の上で20数分振り返ったことによって、より鮮明になり、飛び出す絵本のように浮き上がりだすのだ。

壊れゆくブレイン(80)

2012年07月20日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(80)

「東京で瑠美という子に会ったよ。これ、預かった」ぼくは小さな荷物を広美に渡す。
「ほんとに行ったんだ。ひろし君の会社は近いとは言ったけど」
「正直な子なんだろう」あの子は、ぼくの甥と将来、結婚することになるとある女性が明確に言った。ぼくはそれが消化不良の食べ物のように体内に残っていることに気付いていた。だが、その不明確な思いは直ぐに解消できるわけでもない。また、傍観をきめこむわけにもいかない。何だか宙ぶらりんな状態にいた。しかし、意識はしている。「ああいう高校生も好きなひとがいて、そのひとのことを思い出して、狂おしい気持ちになったりするのかね?」

「どうしたの、突然?」広美が封を開けた箱から目を離し、こちらを凝視した。「それは、なるでしょう。ロボットじゃないんだから。どう、似合う?」

 それは小さな飾りがついたネックレスだった。雪代の店にもたくさん同じようなものが売っている。ぼくは、そのことを告げた。
「でも、友だちの目を通して選ばれたものを身につけるということが、ここでは大事なんだから」女心が分かっていないとでもいうような表情を彼女はした。そして、胸のまえにあてがっていた状態から、首の後ろに両腕をまわし、器用にそれを着けた。その姿を鏡で見るべく、広美は奥の洗面所に消えた。
「東京でのアパート、ありそうだった?」居なくなったのを合図にしたように雪代が声をかける。
「あ、そうだね。何だか仕事が忙しかったから」
「あら、そうだったの。じゃあ、また来月にでも。来月もやっぱり行くんでしょう、東京に?」

「うん、行くよ」ぼくは、ある人間の未来の選択という問題にこころが奪われていた。広美は大学を選ぶ。そして、受験する。もちろん、運だけじゃないが受かったり、落ちたりする。東京で暮らすことになるのかもしれない。いや、まだこの土地を捨て切れないでいるのかもしれない。もし、東京に行ったら旧友との交流を再開することになるのだろう。どの時点であの女性とぼくの甥はふたたび出会うことになるのだろう。すれ違うというような単純なものではなく、相手に好意を持っているということにどの段階で気付き、どの段階で、当人に言葉や素振りで説明するのだろう。ふたりはともに大切な存在だと理解することになって、喧嘩ややり直す機会をもって、結婚することになるのかもしれない。その一連の行程は遅いようでありながら、また素早く駆け抜けるのかもしれない。それを既に自分は知らされた。やはり、ぼくは知らない方が良かったのだ。そうなると結論として、ぼくは裕紀の突然の死も知らない方が良かったのだということに答えを導かざるを得ない。それで教えてくれなかったということだけで、誰かを恨むということは正当な考えではなかった。

「どうかしたの? ぼんやりしている」
「いやね、東京でひとりで住んだときって不安だった?」
「不安でもしなければいけないという決意みたいな気持ちがあったから。大きかったから。でも、懐かしい。ただ、懐かしい。あのときの東京って、なんだかきれいでエネルギーがあったよね」

 ぼくは高校を卒業して直ぐにひとりで雪代に会いにいったことを覚えている。まだ、どの道も、その町も雪代という目の前の存在も踏破していないということから生じる新鮮な驚きの連続と、未体験ゆえの多少の恐れがあった。武者震いにも似た気持ちを抱え、また違った場所にいる雪代の姿を眺められるという期待もあった。あの頃の年代の女性は一日ごとに変わる。また変わることが必然的に求められる職業に雪代はついていた。それで、数週間会わないだけで彼女の印象は変わった。その変化をぼくは見逃したことで後悔を抱き、その雪代を自分の腕のなかに抱くことによって、この日の分はつかまえられたという納得がいった満足を覚えるのだった。この時だけは誰のものでもなくぼくのものであった。彼女の抱擁は甘く、ぼくを大人にしてくれる過程が鮮やかな姿として、いくらかは錯覚とも思いながら、しかし確かに現実でもあった場面が、コマ送りのように自分の脳裏に写っていた。東京での過ぎ去ったある夜。

 それはぼくの視線が対象を見つけ、その視線から派生した一環の流れでぼくの記憶として生き残ったのだ。ぼくの視線が伴っていなければその雪代の姿はとうになく、歴史の渦に消えてしまうかもしれず、第三者の視線によって女性の美とその瞬間が切取られ、記憶されていったのだ。そのようなことが広美にもある将来に起きるかもしれず、瑠美という女性にも訪れるのかもしれない。その瞬間の連鎖を今度は覚えていくのはぼくの甥かもしれなかった。

「ありがとうって、いま、メールした」広美は、首にネックレスをつけたまま、またこちらの部屋に戻ってきた。
「持ってくるのは大変だったけど、返事は簡単だな」
「大変じゃないでしょう、あんな小さい箱なんだから」雪代はその箱を手の平に乗せ計るような仕種をした。
「そういう意味だけじゃないよ。突然、会社に若い子が来れば、みな驚いたりするから」
「そうか、ごめんね」まるで嫌な頼みごとをさせた弟にでも言うような口調で広美は言った。
「別にそういう重いことでもないけど、また友情を東京ではじめられるといいね。メールなんかじゃつまんないよ」ぼくはひととひととの繋がりを、有限ゆえに美しいものだとこのときは感じていた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(18)

2012年07月19日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(18)

 駅から停めてあった車に乗り込む。妻が運転して、ぼくは助手席にすわり、由美は後ろで横たわっていた。これからそのまま妻の両親の家に向かう。そこで預けていた犬のジョンを取り戻し、代わりに人質として由美を差し出す。こんがりときれいに日にやけた娘を、父と彼らとの隔絶された関係を修復すべき貴い犠牲として。

 娘は車から降りる。大事なぬいぐるみが片方の手にあり、もう片方には祖母の手があった。高価そうな指輪が嵌められている。父はそういうものを自分の妻にあげられない淋しさを感じている。
「パパ、朝顔にきちんと水をあげてね。枯れたら、由美、怒るよ」
「分かってるよ」
「あと、金魚にも餌をあげてね」
「分かったよ」
「青春の金魚なんだから」
「分かった。充分、太らせておいてあげる」
「きちんと迎えに来てね」
「お祖母ちゃんの家も楽しいよ」当然というように妻の母は笑った。

 ぼくらは再び車に乗り込む。夏休みの道路はいつもより比較的にすいていた。信号は明滅し、街路樹は夏の暑さでいくらかくたびれているようだった。それは窓ガラスの乱反射でか少しにじんで見えた。
「あなた、泣いてるの?」妻の指摘がなくても、ぼくは淋しさをこらえられないでいるようだった。「あなた、そんなに子ども好きじゃなかったでしょう? むかしは」
「デパートでおもちゃを買ってと泣き叫ぶだけの存在。自分の主張を全世界の要求のように塗り替えるのを厭わない存在」
「むずかしく考えるのね」
「それが子ども。大人であるべきの自分もたまにそうしている」
「うん、そうね」と妻が大口を開けて笑った。

 マーガレットは家の前の花壇に水をあげている。昨日、近くの教会の絵を見るためだけにレナードと暗い室内にいた。ある信仰あふれる男性は、自分の息子を生贄にするという要求のもと鋭い刃をためらいもなくその首に向けている。
「大事なものをなにか差し出すっていうことをしましたか?」暗い中で視線も感じられずレナードの低い声が響いた。
「さあ、分からない。なにかされたんですか?」
「ぼくはいつも自分の主題を見つけるために方々をまわって、絵を描いている。そこでこのような素晴らしい絵にも出合えるし、生きた才気溢れる人間にも出会える」
「当然ですよね」

「スコットランドの山奥で泊まった宿で世話をしてくれた女性を運命のひとだと思った」
「従業員?」
「いいえ、家族で住んでいる場所の一室を無理やりに空けてもらい、そこに泊り込んだようなものだから、そこの娘。あとは弟もいた」
「彼女はあなたの気持ちを知っていたの?」
「多分。でも、ぼくの気持ちはそこで生き続けることを芳しいものとは思っていなかった」
「それで、こうしていろいろなところを廻っている」
「憑かれたように。ぼくはいまあのときのことを思い出していました。ぼくの犠牲はあの気持ち自体だったなと。見返りとしては、あったのか。自分の能力を生かしてこられたのだろうかとも。未来も含めてね」
「これからの頑張り次第」
「確かにそう。次の絵も見ますか?」暗い中でマーガレットは静かに頷いた。それが見えたのか、レナードの靴底の音が反響した。それから、マーガレットのそれより高い音も後を追うように鳴った。

「ジョン、金魚っていうのは優雅な生き物だね。尻尾を揺らしてさ」話し相手のいない自分は返事をしない犬に向かって独り言を言った。「悩みがないように思える。お前も悩みがないように、いつも寝ているけど。ほんとは、あるんだろう? ひとに、いや、犬の仲間にいえない秘密とか。世界中の犬の匂いを嗅ぎ分けたい野望とか? ないか。寝てばっかりだもんな。いま、由美、なにしてると思う?」

 それから数日して由美は帰ってきた。仕事帰りに妻が実家に寄り、夕食を両親と娘といっしょに食べてから帰宅した。
「パパも、ご飯食べた?」
「外で食べたよ。金魚もたくさん食べた」
「元気? パパも元気だった?」
「元気だよ。向こうの家でなにしてた?」
「遊園地に連れて行ってもらって、デパートで洋服も買ってもらった。でも、パパといるのがいちばん楽しい」
「あら、由美、あんまりね」妻は不服そうであった。「この机もランドセルもママとおばあちゃんと買いに行ったんじゃない」
「でもね、この机で勉強を教えてくれるのもパパだし、あのランドセルに忘れないようにノートを入れて、用意してくれるのもパパだから」
「結婚記念日を忘れちゃうようなひとなのに・・・」
「あ、そうだ」

「はい、これ、プレゼント。娘を育ててもらっているお礼」
「やだな、パパ、忘れてるの? 女のひとにとって重要なんだから」
「忘れてないよ。楽しみは先延ばしにするっていうもんだよ」
「パパ、お風呂入ったら、寝る前になにか読んで」
 それで、ぼくはベッドの横に座っている。扇風機が自然に軽やかに首を振っている。
「むかし、神さまがひとりの男性を選んでね、大切なものを一回だけ手放せるかどうか試したんだ。それが、また戻ってくるかも分からずにね。ところで、由美の大切なものは?」
「さあ。でも、神さまっているの?」
「いたら、パパの本も、もっと売れてるわよ」妻が小さく畳まれた由美の衣類を抱え、部屋に入って来た。
「そう、茶化してばかりじゃいけないよ」と、ぼくは投げやりな口調になる。

壊れゆくブレイン(79)

2012年07月12日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(79)

 翌朝にぼくはまた遅めの時間に東京の支社に出勤する。午前はそこで予定があったが、昼前には開放され、帰りの電車に乗るために駅に向かおうとしていた。そこで、久々に会うことになるひとを見つける。彼女は不本意ながら未来が分かる。
「久し振りね」
「本当です。あれ、いつもの犬は?」
「あれから、何年経っていると思っているの? 人間にも寿命があれば、犬のはもっと短い」
「そうなんですね。残念です」
「失うって、悲しいものね」
「そうですけど、こればっかりは仕方がない」
「昨日、女の子に会ったんでしょう? 可愛い子」
「それも分かったんですか?」
「違うのよ。ただ、見ただけ。そこの出入り口を通ったところを偶然に。あの子、あなたの人生にも重要になる子なんですよ」
「そうなんだ、それも分かる?」彼女はただうなずく。そのうなずき方のひとつでぼくらが過ぎ去った年月が表現されているようだった。

「はっきり言うと、あの子、あなたの甥と結婚するのよ。その前に、いろいろな試練に遭うけど」
「そういうことを言っちゃうんですか。ぼくの楽しみを取り除くように」
「あなたはわたしが言わなかったことでいまでも恨んでいるから」
「恨んでいませんよ」彼女は、裕紀の若過ぎる死を知っていた。その力で予見していた。だが、当然のようにぼくには告げなかった。もういまでは恨みとも思っていないが、過去の一時期そのことに拘泥した。ぼくは知っていれば、もう少しましな夫にもなれたかもしれなかったのだ。時間を割き、裕紀のためにそれを用い、その愛情を注ぎ。だが、そのチャンスは知らないからこそ棒に振った。責任を誰かにただなすり付ける必要があったのだろう。「恨むのには、もう疲れたし。そうだ、ふたりはまだ互いのことを意識もしていないと思うけど。甥っ子も瑠美という女性も」
「いまはまだ。あなたたちみたいに偶然に東京で再会するのよ。あと何年後かして。そこで互いの気持ちに気付く」
「それは変わることはない?」

「多分。あなたと前の奥さんが会ってしまったように」彼女はある一点を指差すように振舞った。ぼくと裕紀はここからは陰になっているが、あの店で仕事前の朝のひととき見つめあったのだ。
「ぼくは知ってしまったことを、どうすればいいのかな?」
「あなたは、なにもする必要がないでしょう。サイコロは振られ、ルーレットは廻っている。ただ、落ち着く先を知っているだけ」

「しかし、こういうのも困った立場ですね」ぼくは正直な気持ちを伝える。自分の側から理解できる範囲で。
「わたしは、物心ついてからずっとそれと向き合ってきたのよ。いくらかお金は手元にできたけど、ただ虚しかった。利用されることを知ってからは、もっと自分の価値が汚されるような気もしてきた」
「ぼくは甥の未来の一部を知っただけで、こうしてうろたえた」ぼくは自分の身を守るようなことばかりを言っていた。「でも、そのことをなぜいま言ったんです?」

「ひとつは、あなたの恨みを消してほしかったから。わたしが奥さんの未来をすぼめた訳でもない。事実を知ってしまっていただけ。あとは多分だけど、こうして会うのも最後のような気がしている」
「最後?」

「わたしはずっと小さいころから自分が住むべき場所を探していた。母につれられ、誰かの未来を見ているときにも。わたしは無名で狭い路地かなんかで洗濯物がたくさん干され、美しくもないけど、ほっとできる場所を。やっと、その場所が分かったような気持ちになっている。ちょっとばかり遅くなってしまったような感じはしているけど。これから、そこに住む。だから、あなたとも会わない。結果として」

「良かったですね。それに、ぼくにはなにか大きなことが起こるんですかね?」
「ただ、きれいな女性とふたりでしみじみと暮らしている姿が見えている。ふたりともなにかを失ったけど、大切なものを手に入れている表情。それで、充分でしょう?」
「充分ですね」
「前の奥さんはなにかを書くのが好きだった?」
「好きだったと思うけど、なにも残っていないから、そういうものは」
「そう。どこかにあるような気もしている。錯覚かしら」ぼくも同じように考える。彼女の衣類やアクセサリーは処分した。他に残っているものはなかった。裕紀の叔母は手紙をいくつか保管していた。でも、それは普通のひとより好きという範疇にも入らないぐらいの量だった。

 ぼくらは別れる。これで、きっと最後になるという再会だった。そう宣言されたから分かることで、普段はどんなひととも最後になる可能性だってあるのだった。もちろん、裕紀のことを持ち出さなくても、彼女と過ごした時間は突然終わり、短いものになってしまった。ぼくは何人かのひとと再会したいとそのときに切に願った。社長のこと。島本さんにも会って、力ずくで雪代を奪うとでも言ってみたかった。その後、喧嘩になろうともかまわない。ぼくは彼を殴ることもできるのだ。死んだひとには危害も優しさも加えられない。ただそれだけが残念だった。

 ぼくは特急電車に乗り、トンネルの中で暗い窓にうつる自分の姿を見つめた。あの小さかった甥が誰かと結婚することになるとは。甥と姪は裕紀のことが好きだった。その少年が東京で、ぼくと裕紀のようにある女性と再会する。その更新されていく思い出がぼくの顔をほころばせ、より一層悲しい出来事を鮮明にさせた。列車はトンネルを抜け、ぼくの耳はそれによって閉塞感をおぼえた。そのつまった耳に裕紀の声がとつぜん聞こえたような気がした。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(17)

2012年07月12日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(17)

 ぼくらはビーチで寝そべっている。収穫の秋の前の楽しめる日々。波の音と子どもたちの歓声。大きなアンブレラの下でさらにいろいろなものを羽織った妻は日陰で寝ていた。いや、ただ目を瞑っているだけなのかもしれない。その違いは傍目には分からない。

「パパ、となりのひと変な言葉をつかっている」由美が小声で語った。足元には砂で作った四角い建物が構築されている。なかなかの腕前。
「あれはね、聞き慣れないかもしれないけど、方言っていうんだよ。日本は細長く伸びていて、そこの地方によってちょっとずつ言葉が違う」ぼくは四本の指で本土の形を作ってみる。それから、空中に北海道と四国と九州を足した。

「そうなんだ」
「もっと世界というものは広く、そこでも言葉は違う。由美も勉強して、どれかひとつでもふたつでも話せるようになると、いろいろな文化に接して、もっと楽しい人生がおくれると思うよ」
「パパも話せるの?」
「残念ながら話せない」
「ママは?」
「どうだろう」ぼくは横目で寝ている妻を見る。起きているなら必ず会話に加わるはずだ。
「話せるよ。ジュ・テームとか、アモーレとか。ほら」
「それ、なんのこと?」
「愛してるってこと。若い頃、遊びに行った先でたまに言われた」
「ほんとに?」

「パパも言った?」ぼくの疑問は直ぐに由美の質問に打ち消された。
「パパはあまり言わない。あの頃は日本も景気が良くて、長い休みには海外によく行ったもんよ。まぶしい」
「景気がいいってなんのこと?」
「日本という国のお財布には少しばかりお金が余っていたの。それでお小遣いみたいなものが多いのよ。ちょっとだけ気晴らしのために余分につかえる」
「じゃあ、なんでも買える?」

「なんでもは無理だけど、いろいろなものに使える。外国に行く飛行機代とか、そこで、バッグを買ったり洋服を買ったりするぐらいは。でもね、由美、そういう風に言葉って外に出て来ないと、ないと同じことなのよ。愛してるって言わないと、愛してないっていうのと同じこと」
「でも、わたし勉強したくないって言うけど、ちゃんと後で黙って宿題する」
「由美は偉いのね。ただ、わたくしの夫は言葉は書くために使うものだと思っているみたいなので軽い忠告なのよ、今のは」
「パパも、いろいろ言った方がいいよ」
「ほんまやな」とぼくは隣のひとの声音を真似る。

 レナードはそこでは外国になる船乗りたちと自分の容易に使える言語で会話をする。そうすると、自分の家の懐かしさを覚えるのだった。この夏の滞在が過ぎれば、久し振りに家に帰る。妹夫妻には子どもが生まれたそうだ。まだ、レナードはその顔を見ていなかった。その子どもが最初に覚える言葉はどんなものだろうかと考えている。船乗りたちが使う猥雑な言葉に和みながらも、それらの語彙は覚えてほしくなかった。

 船乗りたちは両替して膨らんだ財布を後ろのポケットに入れている。仲間内で場違いの言葉を使い、大声で笑い合っていた。レナードも酒をおごられ、その輪に加わっていた。若い頃に同じように友人たちと振舞ったことも懐かしかった。彼らには足場があり、風景を求めて絶えず旅を続けている自分とは違かった。羊に餌を与える心配もない。牛の乳を搾る必要もない。ただ白い布に自分の裁量で色をつける。それが形となって満足感を得る。だが、ほんものの満足はまだ抱いたことはなかった。これから来るのかもしれない。努力しだいでは。

 由美はその日は疲れたのか早いうちに眠ってしまっている。ぼくはベッドに寝そべり、ひとが書いたものを読んでいる。妻は誰かと電話で話していた。その話し方からすると、母のようだった。いまは犬を預かってもらっている。もともとなにかの面倒を見ることが好きな彼女はすぐに了解する。さらにそのことで由美を何日か泊まらせる約束も取り付けていた。犬の面倒を見たからには、孫の顔も見せなさいという交渉ごとだ。

 ぼくは自分で由美に話した外国の文化のいくつかを考えてみる。なかには犬を食べられるものと判断するひとびともいるようだ。納豆を毛嫌いするひとびともいる。臭いといってチーズを敬遠するひともいた。だが、人間なんてそう違う生き物ではないのだ。鼻があり、目がある。ふたつの目では足りないのか見落とすことをするひとがいて、忘れ物を捜すことで大切な人生の数時間を失うことに甘んじるひとびとがいる。でも、由美にいうのにはまだ早い。

「帰りにジョンを迎えに来て、そこで由美は何日か泊まってもらうことになった。旦那さんの仕事もそれで捗るでしょうとも言われた」

 ケンもマーガレットに愛しているとまだ言っていなかった。ただ、交際は求めている。エドワードは結婚をする未来を提示した。それは愛という事実から発生する事柄だったが、まだ言葉として愛は告げられていなかった。それは徐々に育てていくものだとエドワードは思っていた。結果として愛は何十年後かに実をつけるというように。ぼくは本を閉じる。変わりに妻の唇は、適度な幅に開く。

壊れゆくブレイン(78)

2012年07月10日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(78)

 ぼくはまた東京に行く特急に乗っている。いまでは月に一度ぐらいの頻度で通っていた。そういう状態になるとたまに見かける顔というものがあった。お互い話すわけでもないが、似たような環境にいるということは理解できた。だが、仕事をするという環境が似ているだけであって、そのひとが妻を大病で失った訳でもないだろう。辛いような出来事もあったかもしれないし、ぼく以上に壮絶な痛みを経験したのかもしれない。だが、いまはこうして少し離れた席で、東京に向かう電車のなかで座っていた。見知らぬもの同士として。

「ねえ、東京で広美が暮らせそうな家を探してきてくれない?」と妻が前日、こっそりと言った。
「やっぱり、離れてもいいんだ。どんな感じのものを?」
「なんとなく落ち着いていて、親しみやすそうな場所で。言いたいこと、分かるでしょう?」
「惣菜なんかが売ってある商店街があって、可愛い子には値引きしてくれて」
「それは、テレビのファンタジー」
「いいよ。考えておく」

 ぼくは特急の列車に揺られ、その雪代の言葉を思い出している。ぼくは再婚してからずっと広美と暮らしてきた。離れて悲しいとかは考えてもなかったが、実際にその状態が近いうちのいつかに来ると思うと、こころは穏やかなものではなかった。だが、いつの間にか眠ってしまい、電車は終点に着いていた。同乗者は消え、ぼくは急いで荷物を掻き集めホームに降りた。

 その日は東京の支店のビルで一日会議をしていた。ぼくはいくつかの提案をもらいそれを具体化させる必要ができた。その途中経過をメールで説明するにせよ一ヵ月後に最終案を見せる。そして、また同じく再来月になるのだった。だが、その日はいつもとその後の予定が変わった。

 受付からぼく宛てに内線がかかってきた。受付嬢という決まった人間がいるわけでもない。それは前の社長が決めたことだがいまでも守られていた。一階のオフィスで手の空いたものが受け持つ。そこからの内線だ。ぼくは自分のデスクも電話もないのでそばの電話を借りて、それに出た。「平川さまという女性がお見えです。ここで、お待ちいただきましょうか?」
「誰か分かんないけど、そうしてもらって。どんなひと?」

 彼女は小声になる。東京勤務のときに親しくしていた間柄なのだ。「制服を着て、高校生みたい。うんと、若い。誰ですかね?」彼女も逆に質問をする。

「さあ」ぼくは受話器を置き、まわりに挨拶をして帰る仕度をした。エレベーターを待つのもしんどかったのでぼくは非常口の階段をつかった。そこまで降りるとロビーには制服姿の女性がいた。その子はぼくの姿を確認すると安心したかのように顔をほころばせた。

「あ、君か」それは広美の友だちで東京に引っ越した女性だった。ぼくは、情けなくも名前を思い出せずにいる。「ごめんね、名前を忘れちゃった。正直に言うと」
「瑠美です。平川瑠美」
「そうだった。演劇をしていたね。その制服、この近くでもたくさん見るけど」
「学校は直ぐそこです」彼女はそとを指差す。
「そうだよね。でも、会社にあんまり高校生の女の子なんか来ないから、ちょっとびっくりしている。外に出ようか?」ぼくは、彼女の目的を知りたく外に出た。多分、広美が関係していることには間違いがなかった。

 ある店に入り、ぼくはコーヒーを頼み、彼女は変わった名前の飲み物を注文した。それをストローで吸っている。
「いまでも、広美とメールをしていて、誕生日のプレゼントを渡すって約束したのに、それを果たせなくてどうしようかと思っていたら、ああいうものって、どうしても手渡しにするもんですよね? 郵便とかで送るものじゃない。そういうことを言ったら、ひろしさんが、ごめんなさい、広美のクセで、近藤さんが東京の会社に来ているから、いいえ、用事があるから行くので、渡してと言われたので、つい、来てしまいました。学校も近いんで」

「そうなんだ。なら、受け取るよ。ありがとう」ぼくは小さな包みを受け取る。その荷の重さを量るように軽く揺すった。「まだ、仲良くしてるんだ。してくれているんだ」
「わたし、多分ですけど、いままででいちばん気の合った友だちです。引っ越したのが、いまでも、とても残念です」
「君がいなくなったとき、彼女もずっと泣いていた」ぼくはその日の姿を思い出している。
「ほんとうですか? 嬉しいな。いや、淋しいな」
「だけど、彼女も大学は東京のに通いたいって言っているから、もう直き会えるよ」
「きいてます」
「そうだ。いまでも、演劇をしているの?」
「はい」

「どういう練習をするのか、全然、思いつかないね。そうだ、ごめんね、突然。広美は東京のどこに住みたいんだろう? なんか聞いている?」

「とくには。いまの距離に比べたら、どこでも近いですからね。私たちだけの話だとしたらですけど」ぼくはこの瑠美という女性と広美との距離を若い頃の自分と雪代に当てはめている。ぼくらは彼女らと同じ年代だった。ただ、そばに居たいという気持ちが強い年頃でもあった。だが、自分の仕事での成功という確信のもと、雪代は東京で暮らしていた。ぼくは地元の大学に通い、そこでぼくらは互いの都合が良いときに行き来した。女性同士と男女とでの差でどういう違いがあるのか分からなかったが、そこには信頼しあった仲としての希望を含んだ愛情が確かにあるのだろう。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(16)

2012年07月09日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(16)

 レナードは早速、仕事にとりかかる。決めたことは早いうちにはじめる方が良いのだ。港町の酒場の壁面に飾られてしっくりとくるもの。彼は数日前からその風景が気にかかっていた。誰も寄りつかない海に打ち上げられ朽ち始めた船。彼はその全貌と波の穏やかな海を描いていた。だが、ある題材のため、それだけでは物足りなくなる。それで、その小型の船のなかを覗くと漁でつかうものがまだ無造作に置かれていた。彼は勝手に歩き、操縦する場所に立ち入った。長年の手による磨耗された舵。それはある部分では節くれ立ち、また別の箇所では手垢がつき黒光りしていた。それを前景にして、窓から見える海も入れる。それを壁に飾れば、そこだけ下界とつながったような錯覚をいだくだろう。手に触れられるものと、視野をひろげるもの。レナードは満足して真っ白なキャンバスに黄土色の舵を描き込みはじめる。

「パパ、青い葉っぱがきれい」

 ぼくらは、妻の休暇に合わせ海辺のホテルを予約し、いまは電車の最前列に横並びで座っていた。由美はただ座っているという状態に次第に飽き、制服姿で運転する後ろ姿といくつかの計器と目盛を見ている。
「そろそろ、前方には海が見えてくると思うよ」

 ぼくは目をつぶり、日頃の雑踏から離れてリフレッシュして、自分の脳の創作意欲にも風を吹き込みたいと思っていた。妻は大きなサングラスをして軽い寝息をたてている。
「パパ、あれ、わたしも運転したいな」
「だって、あれはどこかの学校を卒業して、電車の会社に入り、当然、なんかの免許もいるんだろう。簡単には駄目だよ」
「免許って、なに?」
「それをしてもいいっていうね、資格。バスを運転してもいいとか、お医者さんとか看護師さんになって身体を調べてもいいとか」

「パパは、なにかもっているの?」
「車を運転してもいいっていう免許をね」
「運転しないのに? 本を書くのも免許があるの?」

 妻が目を覚ましたのか、小さな声で笑う。「パパはないのよ。無免許で本を書いているの。いつか、警察官がうちに取り締まりにくるのよ。それでパパはコンピューターを抱えて裸足で逃げるの」

「やだな。ママは?」
「ママは車を運転するでしょう。それに、どこかの学校で先生をしてもいいっていう約束ももらってあるの。それにお薬を調合してもいいの」
「パパも、いまから本を書いてもいいですかって、どこかに訊きにいけば・・・」

 娘は失望をした顔をする。いや、心配なのか。
「パパは最初の本を書いて、お金をもらってるから、勝手に書いているわけじゃないよ。ただ、となり町のパン屋さんのほうがおいしいパンを作るようになったから、だからね、ちょっと、お客さんが減っただけなんだよ」
「じゃあ、おいしいパンをもう一回作ればいいのに」さすが。子どもにも分かる正論。比喩が分かる娘。「あ、海だ」前方に海が見える。運転手の背中はいつになく大きく見えた。

 レナードは午前中にその作業に没頭して、昼は近くの食堂で簡単に済ませ、約束があるマーガレットの家に行った。肖像画は順調にすすんでいる。レナードは自分の力に新しい方面を与えてくれた彼女に感謝していた。となりの部屋では母であるナンシーが習い始めたキルトを編んでいる。そこでレナードから発せられる風来坊的な印象のことを手作業をしながら考えていた。彼女は大きな旅をしたこともなかった。毎年、夫と娘と夏の一時期、この場所に来ることだけが彼女にとっての変化だった。そのことに疑問をもったことはないが、絵を描き終えたレナードと会話をしながら、その画家が自分の望む風景を求めながらさすらった場所の思い出を話すとき、手遅れになった自分の未知なる人生をすこしだけ虚しく思うのだった。

「船の絵は描けたんですか?」今日の作業も終わり、テーブルには紅茶とクッキーが並べられている。マーガレットは先日そこで目にした彼の絵の出来具合をたずねた。

「あれは、もう少しで。あともうひとつ題材を見つけまして。いまは、それに取り掛かりはじめました」それから、いままでは山を描くことが多く、雪が被った山の神秘なる夜明けのことを話し始めた。それをナンシーは丹念に聞く。レナードには筆の力もあったが、それより、こうして無頓着な気持ちのときの話術のほうが彼にとっての才能だとナンシーは思いはじめていた。

「パパ、こっちに来て。窓からも海が見えるよ」ぼくらは荷物を置き、仲居さんのいなくなった部屋で寛いでいた。妻はお茶を入れる。さらに、お茶菓子の値踏みをして、旅行代理店のひとであろう誰かの名前を言い合格点をあげていた。

「どれどれ?」

 窓の外には青い海があり、白い雲がある。奥の方ではモーター音がきこえている。ジェットスキーかなにかだろう。ぼくはキーボードがない生活を楽しむ。小さな部屋で大衆に本のことを説明しなくてもいい。児玉さんの辛らつな批評も受けず、書かれた自伝ともおさらばだ。しかし、誰かが書いた本がバッグのなかに入っている。この休暇の間に読むべきもの。もし、似たような誰かが自分のものを選んでくれていたら、それは幸福な状態であるとも呼べるだろうが、どこかの本屋や倉庫でそれらも束の間の休息のため横たわっているのだろう。無免許の人間によりしたためられたものとして。

壊れゆくブレイン(77)

2012年07月05日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(77)

 秘密という隠し事の別名の数が増え、それを大事にしまいこんで大人としての生活を送る。たまにばれない程度に思い出し、自分に起こったことではないような気持ちをもった。その量が少なかったさっぱりとした時代のことも考えている。だからといってすべての悩みがなかった時などなかったことを知る。勝ち続けられないぼくらのラグビー・チーム。自分の怪我や不調。外国にまで押し出してしまった初恋に近かったひと。

「そろそろ、勉強をしっかりとまじめにしないと」と、広美が宣言する。ぼくは彼女の秘密の分量を考えてみる。母親に知られたくはないこと。義理の父には見つけられたくはないこと。しかし、秘密ゆえにぼくはその手応えも実際のありかも分からずにいる。

「自分がそういうことに追われていた頃がなつかしいな。世界の宗教のことも一切知らずに地域と年代を覚えたっけ」
「それがテストに受かるってことだから」と雪代が言った。ただの事実というだけで皮肉も含まれていなかった。「お得意さんにはお中元のセールのハガキを出しましょうとか誰も教えてくれなかったしね」彼女はメガネをかけて小さな白い紙に字を書き込んでいた。

 ぼくは広美がひろげていた参考書をパラパラとめくる。英語の例文があり、ふたつの空の升目があり、そこに適当な前置詞だかの用語を入れる。その具体的な活用の場面をぼくは思い出せなかった。裕紀はシアトルに留学した。結婚をしていた間にたくさんの思い出をきいた。それはぼくには日本語で話されていたが、実際は外国語での思い出だったのだ。その差異がどんな影響を与えるのか理解しようとしたが、それも無意味だった。

「勉強って大事だと思う?」机の前で集中することに飽きたのか、広美がぼそっと言う。
「頑張ったな、あのときは、という事実がね。あとは、ぼくは体験重視だから」そもそも集中することを強いていなかった自分は思いついたことを何でも言った。ラグビーでの試合でぶつかった相手の勢いを数式と重量で知ったとしてもぼくには無意味だっただろう。事実の重み。自分が吹き飛ばされたという無様な格好のほうがより一層真実だった。
「大学で楽しい思い出ができるんだから。東京での生活もあるし」
「まだ、決まってないよ」
「わたしは、ひろし君といっしょに子どもに邪魔されずに生活するんだから」
「分かったよ。そのかわりに、きれいな部屋を用意してよ」
「そんなの自分でバイトをしなさいよ」

 ぼくはそれを他人事のように聞いている。親子のみでできる会話。誰も干渉できない関係。ぼくはすることもなくなってひとり外に散歩にでかけた。だからといって、急にすることができるわけもなかった。ふと、ぼくは電車に乗って数駅先まで出かけることにした。映画館の前にひとりぼんやりと立ち、見るべき映画を探した。そこで時間が無為に過ぎていった。主人公が経験する不幸も自分にとってはリアルに響いてこなかった。また歩き、そこに隣接されているファッションビルで本を立ち読みした。世界は成功への渇望で餓えているようで、いやな気持ちになりそこもあとにした。それから近くの店で冷えたビールを飲んだ。

 話す相手もいなかったぼくは笠原さんのことを思い出した。彼女のある一日の思い出にぼくがいる。ぼくのあの日には必ず笠原さんが結びつく。その単純な事実にただ驚いていた。ぼくはさっきの広美の参考書のふたつの空欄に笠原さんの笑顔と自分のむかしの姿を当て嵌めた。それがしっくりきたかといえばそれも違く、彼女のときおり見せる悲しいようなやり切れないような表情のほうがうまくフィットした。

 ぼくは帰りの電車に乗った。そこに裕紀に似た、いや、若かったころの裕紀に似た女性を発見する。あれが、もしかしたら裕紀の姪っ子なのだろうかと思った矢先、ドアが開きその子は友だちと笑い合って群集のなかに消えてしまった。ぼくはそのことが悲しいのか、こうして何度も裕紀の亡霊を思い出し、また、群集のなかでしっかりと掴み切れないことが悲しいのか分からないままそこで瞬間立ち尽くしてしまった。すると、改札に向かっていた野球部員がぼくにぶつかった。同時にその子の持つバットの角がぼくの脛にもぶつかった。彼は丁寧に謝ったが、どちらにしろ悪いのはぼくのほうだった。だが、その痛みはぼくが裕紀を忘れていたことの罰にも思えた。ぼくが彼女のことをどれほどの頻度でなつかしがるのが相応しいのかと改札を抜けても考えていた。ぼくと、その彼女に似た子の接点は、この町のどこかに隠れているのだろうか? いや、実際にはないだろう。ただ数秒のことだけだったのだ。幻としては理想的な数秒だった。

「どこ、行ってたの?」雪代がくつろいだ姿のままたずねた。彼女と広美はテレビに映る映像を見ていた。そこには無数のペンギンがいた。それらには脛の痛みがあるのかぼくは疑問をもった。多分、ないのだろう。
「ただ、ぶらぶらしていた」
「これ見てみて、面白いから」雪代はテレビに視線を戻し、食い入るように見ていた。ぼくはその白と黒のコントラストを無心に眺めた。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(15)

2012年07月05日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(15)

 夕飯も終わり、一休みしていると、隣の家の久美子がやってきた。あんなにも待ち望んでいた由美はその前に寝てしまった。額には汗で濡れた髪の毛が貼り付いていた。ぼくは、扇風機のスイッチを消し、壁の照明のスイッチも押した。そこには暗闇がおとずれる。

 高校生はシャンプーの匂いをさせている。化粧もしていない顔。自然なほんのりと朱色を帯びた頬。妻はそのことに触れる。
「すいません、突然に。これ、途中まで書いたものをプリント・アウトしてきたんですけど。読んでもらってもいいですか」
「川島先生は暇だからいいのよ、そんなに気をつかわないでね。そうだ、アイス、食べる?」
「ぼく?」冷蔵庫の前にたたずむ妻にぼくは返事をする。
「久美ちゃんにだよ、あと、わたし」彼女はアイスの大き目のカップを取り、冷たそうな透明のガラスの入れ物に入れ替えた。
「どんなことを書いているの?」
「品物を輸出することと、その品物を通じて文化がその地域に広まることをまとめています」
「なんか、最近の高校生って、むずかしいこと考えているんだね」と、ひとりごとを言いながらぼくは読む。だけど、ぼくは捏造に近い物語が好きで、それを守備範囲としているのだ。だが、なかなか上手に書かれていて、ただ順番を入れ替えることによって、物語の盛り上がりの効果を説明しただけだった。フィナーレにつづく序章。

 レナードの一日も終わり、シャワーを浴び、一日の疲労と絵の具の汚れを落とした。彼は気軽なものに着替え、港のそばにある酒場に行った。そこは港の荷物を集約する場所でもあり、肉体自慢の男性たちが強い酒をあおっていた。レナードも腕力に自信があったが、そのことを現実の生活で活用することはなかった。ただそれを発することによって無駄ないさかいが少なくなっていた。

「わたしにも読ませて」妻はぼくの手から離れる隙にその紙の束を手に取った。
「どうぞ」久美子は的確な批評を待ち望んでいた。
「妻はね、化粧品の会社で研究所もそとにある。それを使ってきれいになる外国のひとびとがいるんだ」ぼくは、そうして話しながら、ぼくより実際の適任者がすぐそばに居ることを知ったのだった。
「久美ちゃん、ここね、こういうふうに説明を入れると、もっと知らないひとも把握できると思うよ。あと、ここは少し省いて簡潔にしようっか。ちょっと重複もしているし。あとここは具体的な数字を入れて、仕事ならグラフでも視的に示すこともできると思うけどね・・・」

 久美子の目は輝いている。それに比べ、ぼくの役割ってなんだったんだ。人生はオペラのように盛り上がるようにできている世界ではないのか?

「おばさん、凄いですね」ぼくには、それがおば様という風にきこえた。
「ちょっと言い過ぎたかな。部下に説明している口調になっちゃった」
「いいえ、分かりました。ありがとうございます。参考になりました」久美子は申し訳程度にぼくのほうをちらっと見る。このひとのアドバイスを貰いに来たと思っていたのに。ぼくは重複の美学を知っている。何度も繰り返される説明に戻ると、ひとは自然に安堵するのだ。ぼくらは本を読み、ゲームで新たな場所での活躍に刺激を受けているわけではないのだ。本では主人公が同じ間違いを繰り返す。その説明を何度も入れる。

「アイス、溶けるね。おかわり、もってこようっか。ぼくは自分にコーヒーを入れてと」ぼくが台所に向かうと、彼女たちの親密な笑い声が聞こえる。妻は自分の有能さを端的に示す。ぼくは自分の世界が、世の中から隔絶されていく事実を知る。

「マエストロ、今日もワインを?」カウンターの向こうから店主が注文を伺う。
「いつものを」ハウスワインの白がレナードの前でグラスになみなみと注がれる。質より量が問題でもある港町の酒場。
「マエストロだって?」目の焦点が合わなくなった二の腕に女性の名前が刻まれたある男が声を張り上げる。自分ではささやき声ぐらいに思っているのだろうが、壁の奥にいるひとまで届いたようだった。だが、世間の喧騒を避けるために集まったひとびとは無関心を装っていた。だが、その反面船の上で鍛えられた耳はどんな音も聞き逃さなかった。

「絵を描いているんですよ」店主は、その行末を楽しんでいるのか、簡単に説明した。
「軟弱だな。若い女性を寝そべらせて、おっぱいを描く。それが仕事」
「そうだね。ゴヤもそうだ。おっぱいをうまく正確に描く」
 酔った男性は意に反して笑う。「だけど、手触りは分からない。君のゴヤという友人にも」その手は荒縄を結び続けた結果のように繊細さやデリケートさが欠けたり抜けたりして表面が固くなっていた。

 レナードは考えている。あの絵のりんごは? レンブラントの光は? それは手で触れるような印象を残していないのだろうか。

「あなた、アイスは?」ぼくは手の平のなかにあった冷たいもののことを忘れていた。別の場所に行き、港町でのふたりの男の喧嘩の予兆を考えていただけだった。
「ぼくが旅立つ前に、手で触れそうなものを描き、ここの壁に飾ってもらうよ。それで判断してもらいたい」
「そう思えたら、酒をおごる」酔った男性もそう悪い人間には思えなかった。ただ、店主は自分の存在を度外視して約束されたことについて面白くない気持ちをもっていた。

壊れゆくブレイン(76)

2012年07月01日 | 壊れゆくブレイン
壊れゆくブレイン(76)

「あの日のこと覚えてる?」と、潤んだ目で笠原さんが訊いた。翌日、ぼくは職場の自分の席で資料を作っていた。出来栄えはあまり良いものではなく、さらに時間をかけての手直しが必要だった。ぼくはその問いかけの出来事をもちろん忘れることはなかったが、彼女にとって、そのことは、夏の蚊に刺されたぐらいの印象しか与えていないものだとばかり思ってきた。

 ぼくの返事も待たずに、笠原さんは言葉を付け足していく。
「運動会でヒーローになるためにいっぱい練習したのに、ゴールも勝利もそこまで来たのに、直前で転がって、その失敗自体を認めたくなくて、いや、違うな、気付きもせず、納得もいかずにいるような感じの呆然とした少年がいた」
「それは、ぼくのことを言ってるの?」彼女は黙っていて、というようにただ強く小刻みに頷いただけだった。

「わたしは、そのことに気付いてしまった。そばにいて慰めてあげるしか方法がなかった。愛情かもしれないし、ただの世話をやきたかったおばさんのようなものかもしれない。それがうまくいったのかどうかも分からない。でも、うまくいくってどういうこと?」

 それが質問なのか分からなかったがただ語尾があがってはいた。
「うまくいった。ぼくは無事にまだこちら側の世界にとどまっているし」
「感謝されるようなことでもない、言葉も必要ない。でも、今日みたいに元気そうな顔をもっと早く見られていれば良かったな、とすこし時間が経ちすぎたことを残念に思っている」
「ごめん」

「どうして、あやまるの?」理解ができないというような表情を笠原さんは作っていた。
「ただ、こうして元気だから」君の差し出した肉体がこの世界に留めてくれた。「ぼくは恩も知らずに新たな妻を持ち、若い娘と週末には楽しく酒を飲んでいる。死にそうな人間でも、もうとっくになくなっている」
「それで、良かったのよ」

「もっと早く、そういうことを報告する義務があったのかもしれない」
「わたしの身体は跳び箱みたいに役立ったとか?」彼女は笑う。ぼくが知っているころより数段大人っぽい女性の笑い方だったが、それゆえにそこには相反して、はにかみと清純さも含まれているようだった。「内緒のことがある人生って、つまりはいいことだよ」
「そうかね?」

「お婆ちゃんは孫に囲まれ、ひっそりと自分の過去に訪れた不思議な体験を思い出す」
「でも、ぼくのことは好きなタイプでもなかっただろう? 転がった少年が可哀想であっただけで」
「分かんない。裕紀さんのこともわたしはとっても好きだった。ああいうひとがいなくなることを許すことがわたしもできなかったし、抵抗したかったんだと思う」
「楽しかった夏休みも終わってしまう」
「どういうこと?」

 ぼくは自分の口から出た言葉に自分自身で驚いていた。ぼくと裕紀との関係は夏休みのような儚く楽しい幻影に過ぎなかったのだろうか。九月にでもなれば、これから来る冬のためにまじめに暮らすことだけが必要でもあるというようなものなのか。うつむき、額にしわをよせ、冷たくなる手をこすり合わせ暖めるような努力の要る人生。ぼくはいまそのような状態を歩んでいるのか?
「なんだか楽しかった夏休みも終わり、宿題もなんとなく体裁は整い、明日からはじまる新学期のために、久し振りに引っ張り出したカバンにそれを放り込む。ある日の決別の象徴のように」

「わたしは決別のために、ひろし君と抱き合ったのかな。そうなると」
「決別と再生だよ」だが、そういう関係は笠原さんとだけではなかった。ぼくはゆり江ともそういう象徴的なローソクを灯す行為をした。さらに、別のひととも。そのローソクは弔いのために河口に流れていく。裕紀は、ぼくのそういう浅はかで無残で愚かしい行為を知らない。ただ、いまは、それを無意識に死体にもなった彼女は求めたのかもしれないと考えている。ぼくと叔母の記憶に残るだけでは不服で、ぼくの悲しみを鎧として味方に取り込み、何人かの女性の身体に刺青のように自分の死を刻み付けさせた。それは、ここでぼくと笠原さんがお互いに起こったことを話しながらも、それを裕紀という人物と切り離せないことだと理解しているような状態に無抵抗に甘んじさせることによっても。「裕紀に病気が襲わなかったとしたら、ぼくらはそういうことをしなかっただろうか?」

「分かんない。きっかけを探していたのかもしれない」彼女はバックからハンカチを取り出した。「ごめん、わたし、酔ってる」

 ハンカチを取り出した隙間から携帯電話の振動が伝わってきた。彼女は画面を開き、そこに書かれているだろう文字を読んでいる。
「高井君?」
「うん、そろそろ迎えに来るって。近くのスタンドでガソリンを入れている最中だって」
「秘密の上塗りをした。きょうは」
「また、思い出してね」

 そう、昨日の笠原さんは最後に言った。ぼくは思い出しているし今後の人生でも何回となく、あの日のことも、昨日の再会も思い出すことだろうと事前に知っていた。孫に囲まれている笠原さん。ぼくは裕紀の叔母をなぜだか思い出していた。もし、仮りに彼女の最後の日が来るならば、ぼくは裕紀とそこにいたかったのだと悲しくなった。その悲しみは誰にも裕紀の叔母にも訪れる死のことなのか、それとも、裕紀となにかを新たにはじめることができない無気力さの心痛のためなのか分からなかった。

夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(14)

2012年07月01日 | 夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて
夏の朝ひとりキーボードに指を乗せて(14)

 ぼくは娘が夏休みの一日、いつも通り犬のジョンを散歩させている。頭には作りかけの発酵にはまだ満たない小説の影が宿っていた。レントゲン写真でもきちんと把握できないぐらいの小さなものとして。いつか無事に産まれてくれるように。健康なら男の子でも、女の子でも。

「おはよう、久美ちゃん」
 ぼくらが家に戻ってこようとしていると、制服姿のとなりの高校生の久美子が自転車をひいてあらわれた。その姿を見て由美が言った。
「おはよう、由美ちゃんとジョン」
 犬は尻尾を振る。わたしはあなたに対して敵意を一片すらもっていませんという証明のように。
「おはよう。今日も泳ぐの? そうだ、貰った金魚も元気に泳いでいるよ」ぼくも話しかける。
「青春の金魚」由美がそう言う。
「なんのことなの? 由美ちゃん」
「いやね、男の子が金魚をすくい、それを久美子ちゃんがもらって、由美のもとに来たって話をしてくれたから。妻が淡い恋を羨ましがってね」

「やだな、由美ちゃんはおしゃべりで」
「だって、パパがつねって、由美に白状しろってしつこく言ったから・・・」
「ほんとうなんですか?」高校生は非難の目をぼくに向ける。濁りのない白い目。
「まさか、ぼくがどんなに娘と関わっているか、知ってもらってほしいぐらいだよ。なんで、由美はそんな嘘をつくの?」
「だって、ママがパパにいつも嘘みたいなものを書いてるって言ったから」論点がすり替わっている。
「あれは、嘘って言わないんだよ。創作って言うの。河から人体が入った大きな桃が流れてくることを皆、嘘とは思わないだろう?」久美子は笑う。そこに太陽があるようだった。

「そういう告げ口するなら、由美ちゃんともう遊ばないからね! そうだ、川島さん、わたしレポートを書く宿題があるんです。なにかアドバイスしてもらってもいいですか。そのうち、資料をもって伺いますね」
「いいよ。役に立てるなら」

 エドワードの銀行で横領のうわさがあった。彼もそれに関わっているという内部の情報があるようだった。マーガレットと母はそれを信じたくはなかった。その虚偽を証明してくれる夫であり父でもある人物は既に亡くなっていた。しかし、彼はその日々、マーガレットの家に近寄らなくなっていた。関係を繋ぐ先輩は他界し、女性だけの家庭にそう気安く足を運ぶ機会を控えていた。

 やはり、最終的には根が誠実な人間の疑いは晴れたが、それでも渦中にいた結果として、彼は疲れた様子を見せていた。それはナンシーが家の財産の相談に行ったときに明らかになった。それで、夫はいなくなったが、また近々家に来てほしいと懇願した。

「久美ちゃん、わたしのこと嫌いになったかな?」
「え? ああ、あのさっきのこと。大丈夫だよ。だけど、思春期といってバランスがくずれるころが若者にはあるんだよ。そのときには皆なぜか神経を必要以上につかって大事に扱う。にきびをつぶさないのと同じことだね。あとで、大きな痕になるかもしれないから」
「パパもあったの?」
「それはあるよ。ママにもあったしね。でも、それを通過して大人になる。乳歯も入れ替わるし、こころも入れ替わる」

 エドワードはまた家にやって来る。しかし、マーガレットがある店でいっしょにいた男性のことは訊けない。訊きたくても口に出さないことがある。だが、それは言葉にしないだけで、表情には出るようだった。しかし、自分からすすんでマーガレットも語らなかった。それに語るような関係でもなかったのだ。ただの気が合う同級生。いっしょに勉強と青春時代をおくる仲間。

 エドワードは疲れていたのか、その疲れがある場所にいることで安心した結果なのか食事が終わり、ソファで寛いでいると眠ってしまったようだった。その自然な弱味を発見することによりマーガレットのこころはサイレンにも似たなにかを発令する。わたしは、もしかしたらこのように正直になれるひとを望んでいるのかしら? という気持ちだった。だが、それは父を亡くしたゆえに父と似た状況にいるひとを見たかっただけなのかもしれない。

「ただいま。疲れた女性を迎えに来てくれるのはジョンだけなのかしら?」
 ぼくは軌道に乗り出した指先と頭を放り出し玄関に向かった。想像力はたしかに大気圏を越えそうだった。
「ごめん、雨、大丈夫だった?」夏の特有の夕立がさっきまで降っていた。
「駅に着いたら途端にあがった。でも、久美ちゃんは自転車を漕ぎながらも服は濡れていた。それにしても真っ黒にやけていた。青春だよね」
「久美ちゃんに怒られた」由美は、いまだにしょんぼりしていた。
「どうしたの?」

「お祭りの男の子のことをパパたちに話したから。金魚のことで」
「大丈夫だよ。あとで、パパになにか書いたものを持ってきたいっていってたから。そこで、謝ってみなさい」
「分かった」
 ぼくはひとの書いたものをあれこれ言えるほど自分の基準も完成されていなかった。だが、それを無下に断るほど冷酷にもできていなかった。ただ、娘との関係の修復が図れるなら、そのきっかけぐらいにはなろうと思っていただけだ。