壊れゆくブレイン(82)
それから何ヶ月か経って、広美は大学受験を迎える。あの小さかった少女が自分の未来を自分の手で捉まえようとしていた。ぼくは途中から彼女の生活に関与するようになった。愛してしまったひとの娘として。だが、いまではぼくと雪代は出会って恋に落ち、別れて結婚をしたという一連の流れから逃れられなかったように、ぼくと広美との関係もそういう強い絆のようなものが以前からあったような気もしていた。例え、別の男性の子どもであったとしても。
広美はコートを着て、受験会場に向かう。何校かのひとつだ。ぼくもいつもより早起きして出掛けるのを見送った。彼女がもし失敗しても、ぼくと雪代が彼女に示す愛情は何ら変わらず、きちんと成功したとしても大げさに喜びすぎることはないだろうと思っていた。ただ、毎年花を咲かすのが決まった宿命のように、ぼくらはただ同じ営みを一定につづけていくことだろう。でも、早起きしたという事実が、いつもより入れ込んでいる証拠でもあった。ぼくは顔を洗い、雪代が入れたコーヒーを飲んだ。
「ひろし君が大学に受かったとき、多分、わたしが一番よろこんだ」
「大した自信だね」
「大学生同士の交際は許されるだろうけど、高校生を騙している年上の女性みたいな立場はあまり居心地の良いものじゃなかったからね」
「けっこう、古風だね」
「これでも、古風だよ。あんまり周りからも良く思われていなかったし。それでも、前にすすまない訳にはいかなかった」
ぼくらはその10代の未熟な経験と感情で将来を見極め判断しようとしていた。もちろん、間違いの入り混じらない人生など決してなく、ぼくもいま思い返しても冷や汗がでそうなことが多々あった。だが、雪代とぼくとのつながりかけた関係は誰にも断絶することはできなかった。だが、ぼくらは何年後かにその関係を意図的か無意識か分からないまま絶ってしまった。それでも、お互いに配偶者をなくした状態で再会した。そして、雪代には広美を守るという立場がうまれていた。その関係に自分も入る以上、ぼくにも同じ問いかけが投げかけられた。あの少女を大人になるまで見守られるのかと? それで、彼女は大人になりかけていた。後は自分の手で好きなものを伸ばし、嫌いなものにもきわめて功利的に対処して成長するのだ。その存在はコートを着て、寒い外を歩き、試験の問題を埋める。
「それで、ぼくは大学に受かった」
「わたしは、陰で祈っていた。いま、娘にもしていないのに」
「それだけ、心配されていた」
「違う。若くて、バカみたいに好きだった」
お互い、長い時間が経過したことを知っていた。その流れゆく時間に身を任せつづけるだろうということをこれからも楽しもうと思っていた。だが、任せるしか方法はないのだ。ぼくらには激流も、分岐点も与えられていない。あとは、残された大人ふたりが大河に運ばれるような気持ちでゆっくりと自然に身を任す。そして、その状態はとても素晴らしいものに思えた。
「その新聞、そんなに離して読んでいたっけ?」ぼくは新聞をテーブルに置き、コーヒーカップを片手に読んでいた。その距離のことを雪代は訊いた。
「もう18才じゃないからね」
「もう1杯どう?」
「うん、入れて」娘は未知の問題を読み解く。でも、同じような傾向の問題はたくさん解いたはずだ。ぼくらの人生も同じようなものだろう。似たような問題がある。だが、それを実際の自分に当てはめるようなことはしてこなかったかもしれない。ひとは死に、そして、産まれる。ぼくは、裕紀を亡くし、社長を失った。ぼくには子どもができなかった。だが、ぼくを慕ってくれた数々の子どもたちの瞳の輝きを覚えている。最初にあらわれたのは、まゆみだった。彼女はバイト先の店長の娘。なぜ、いま、この朝に思い出したのかは知っている。彼女は大人になり広美の勉強を手伝ってくれたのだ。まだ、レールも定まっていない少女の歩みのことを心配し道筋をつけてくれた。「そうだ、まゆみは、広美が受かったらいちばん喜んでくれるかもしれない」
「そうだろうね。まだ、隣の部屋でふたりが勉強しているかもしれないと思うことがある」
「母になる役目なんて誰も教えてくれないと思うけど、良く頑張ってるね」
それは、まゆみに対しての言葉だったが、当然、雪代のことも念頭にあった。もちろん、自分の母や妹も。その役割を奪われてしまったゆり江という女性の存在もぼくは同時に思い出していた。彼女は、あのことから立ち直れたのだろうか? そもそも、ぼくも同じような立場である裕紀の死という不幸な事柄を忘れ、立ち直れてきたのだろうか?
「本能なんでしょう、そういうのって」
「たくさんの絵にも写真にもあるからね」
「不変の美。与えられた本能。でも、うるさくて仕方がなかったときも、いまは良い思い出にもなっている」
「東京に行っちゃうかもね」
「ふたりに戻ったら、こういう生活をするって、何か約束をして」雪代は決意を含んだ表情をしていた。ぼくらは力強くあろうとしながらも、どこかで心細かったのかもしれない。運命をつかみにいく立場の人間ではもうなく、そこから追われる人間のように感じていた。ぼくは真っ当な返事をしたかったが、早起きした脳はまだ起きていなかったのかもしれない。
それから何ヶ月か経って、広美は大学受験を迎える。あの小さかった少女が自分の未来を自分の手で捉まえようとしていた。ぼくは途中から彼女の生活に関与するようになった。愛してしまったひとの娘として。だが、いまではぼくと雪代は出会って恋に落ち、別れて結婚をしたという一連の流れから逃れられなかったように、ぼくと広美との関係もそういう強い絆のようなものが以前からあったような気もしていた。例え、別の男性の子どもであったとしても。
広美はコートを着て、受験会場に向かう。何校かのひとつだ。ぼくもいつもより早起きして出掛けるのを見送った。彼女がもし失敗しても、ぼくと雪代が彼女に示す愛情は何ら変わらず、きちんと成功したとしても大げさに喜びすぎることはないだろうと思っていた。ただ、毎年花を咲かすのが決まった宿命のように、ぼくらはただ同じ営みを一定につづけていくことだろう。でも、早起きしたという事実が、いつもより入れ込んでいる証拠でもあった。ぼくは顔を洗い、雪代が入れたコーヒーを飲んだ。
「ひろし君が大学に受かったとき、多分、わたしが一番よろこんだ」
「大した自信だね」
「大学生同士の交際は許されるだろうけど、高校生を騙している年上の女性みたいな立場はあまり居心地の良いものじゃなかったからね」
「けっこう、古風だね」
「これでも、古風だよ。あんまり周りからも良く思われていなかったし。それでも、前にすすまない訳にはいかなかった」
ぼくらはその10代の未熟な経験と感情で将来を見極め判断しようとしていた。もちろん、間違いの入り混じらない人生など決してなく、ぼくもいま思い返しても冷や汗がでそうなことが多々あった。だが、雪代とぼくとのつながりかけた関係は誰にも断絶することはできなかった。だが、ぼくらは何年後かにその関係を意図的か無意識か分からないまま絶ってしまった。それでも、お互いに配偶者をなくした状態で再会した。そして、雪代には広美を守るという立場がうまれていた。その関係に自分も入る以上、ぼくにも同じ問いかけが投げかけられた。あの少女を大人になるまで見守られるのかと? それで、彼女は大人になりかけていた。後は自分の手で好きなものを伸ばし、嫌いなものにもきわめて功利的に対処して成長するのだ。その存在はコートを着て、寒い外を歩き、試験の問題を埋める。
「それで、ぼくは大学に受かった」
「わたしは、陰で祈っていた。いま、娘にもしていないのに」
「それだけ、心配されていた」
「違う。若くて、バカみたいに好きだった」
お互い、長い時間が経過したことを知っていた。その流れゆく時間に身を任せつづけるだろうということをこれからも楽しもうと思っていた。だが、任せるしか方法はないのだ。ぼくらには激流も、分岐点も与えられていない。あとは、残された大人ふたりが大河に運ばれるような気持ちでゆっくりと自然に身を任す。そして、その状態はとても素晴らしいものに思えた。
「その新聞、そんなに離して読んでいたっけ?」ぼくは新聞をテーブルに置き、コーヒーカップを片手に読んでいた。その距離のことを雪代は訊いた。
「もう18才じゃないからね」
「もう1杯どう?」
「うん、入れて」娘は未知の問題を読み解く。でも、同じような傾向の問題はたくさん解いたはずだ。ぼくらの人生も同じようなものだろう。似たような問題がある。だが、それを実際の自分に当てはめるようなことはしてこなかったかもしれない。ひとは死に、そして、産まれる。ぼくは、裕紀を亡くし、社長を失った。ぼくには子どもができなかった。だが、ぼくを慕ってくれた数々の子どもたちの瞳の輝きを覚えている。最初にあらわれたのは、まゆみだった。彼女はバイト先の店長の娘。なぜ、いま、この朝に思い出したのかは知っている。彼女は大人になり広美の勉強を手伝ってくれたのだ。まだ、レールも定まっていない少女の歩みのことを心配し道筋をつけてくれた。「そうだ、まゆみは、広美が受かったらいちばん喜んでくれるかもしれない」
「そうだろうね。まだ、隣の部屋でふたりが勉強しているかもしれないと思うことがある」
「母になる役目なんて誰も教えてくれないと思うけど、良く頑張ってるね」
それは、まゆみに対しての言葉だったが、当然、雪代のことも念頭にあった。もちろん、自分の母や妹も。その役割を奪われてしまったゆり江という女性の存在もぼくは同時に思い出していた。彼女は、あのことから立ち直れたのだろうか? そもそも、ぼくも同じような立場である裕紀の死という不幸な事柄を忘れ、立ち直れてきたのだろうか?
「本能なんでしょう、そういうのって」
「たくさんの絵にも写真にもあるからね」
「不変の美。与えられた本能。でも、うるさくて仕方がなかったときも、いまは良い思い出にもなっている」
「東京に行っちゃうかもね」
「ふたりに戻ったら、こういう生活をするって、何か約束をして」雪代は決意を含んだ表情をしていた。ぼくらは力強くあろうとしながらも、どこかで心細かったのかもしれない。運命をつかみにいく立場の人間ではもうなく、そこから追われる人間のように感じていた。ぼくは真っ当な返事をしたかったが、早起きした脳はまだ起きていなかったのかもしれない。