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佐藤紅緑著 「ああ玉杯に花うけて」「少年賛歌」 その1

2020年02月11日 09時28分10秒 | 読書記

昭和30年代前半、高校進学か就職か、進路問題で大いに悩んでいた一時期が有ったが 丁度 その頃に 確かに読んだ記憶だけが残っている1冊の書が有る。
単行本の「ああ玉杯に花うけて」だ。
当時は その作品が 1927年(昭和2年)から1928年(昭和3年)に 雑誌「少年倶楽部」に連載された、明治7年、青森県生まれの作家、佐藤紅緑の少年少女向け文学小説であったこと等 知る由もなかったと思う。
戦後の貧しい暮らしの中、おいそれと単行本等買ってもらえる家では無かった。
誰かに借りて読んだものなのか、何故、どこで読んだのか等の記憶は全く無くなっているが 何故か 脳裏に焼き付いた作品になっているのだ。もしかしたら 小説の内容に、自らの境遇をダブらせて、感動が大きかったのかも知れない。
あれから60年以上の歳月が流れ、小説の筋書きもなにもかも忘れかけているが 先日 図書館で ふっと「ああ玉杯に花うけて」が目が止まり、改めて読んでみたい気分になり 借りてきた。
借りてきた書は 1997年(平成9年)10月20日第1刷発行の講談社・文庫コレクション佐藤紅緑著「ああ玉杯に花うけて・少年賛歌」であることから、中学生の時に読んだ単行本とは異なること明白。「ああ玉杯に花うけて」と 同じく佐藤紅緑著の「少年賛歌」の2篇が収録されている書である。

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著者佐藤紅緑について、
本書巻末の「著者紹介」で 今更になって知ること多しで 目から鱗になっている。

佐藤紅緑は 1984年(明治7年)、青森県の弘前で生まれる。本名、洽六(こうろく)。
父親佐藤弥六は 津軽藩の微禄な藩士の子で 明治維新後上京し 福沢諭吉の門下生となるが 兄の死後、郷里に帰り兄の未亡人と結婚し、和洋雑貨店の店主となった。郷土史研究や農業改善等に尽力、偉大な地方の名士で 何かにつけ「無礼者!」呼ばわりする頑固一徹な人物だったという。
その弥六の4人の息子の一人が 佐藤洽六(後の佐藤紅緑)。
学校が嫌いで、喧嘩が好きな子供で、弘前中学校を4年で中退、父親に無断で上京。
「日本新聞社」に入社したのを皮切りに、「東奥日報」「東北日報」「河北新報」「富山日報」等の記者生活を送り、自らも「陸羽新報」を起こし、文筆活動も多彩になる。
「紅緑」は 俳句の師、正岡子規が付けてくれた俳号。
1917年(昭和2年)、53歳になっていた佐藤紅緑は 雑誌「少年倶楽部」の編集長加藤謙一氏の依頼を受け、「日本の少年諸君のために人肌脱ごう」という意気込みで、「ああ玉杯に花うけて」を 書き始めた。次々に 少年達に理想を説き、夢を与える小説を書き続けたが、昭和15年 65歳の時、執筆を停止、文筆家としての生命を絶ってしまった。
正義を希求してやまない理想主義者でありながら、一方では 寝技、裏取引きなんでもござれの先天的策士で、女性についても言行一貫せず、華というものが無い妻ハルを大事にしながら、女優に溺れたり、妾を囲ったり、私生活も順境でなく、4人の息子達は世間でいう不良で 佐藤紅緑は苦しめられた。作詞家のサトウハチロウ、作家の佐藤愛子の父親で知られている佐藤紅緑は、1949年(昭和24年9、75歳で生涯を閉じた。

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(つづく)


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