草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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 失敗する可能性、成功する可能性

2011年10月18日 11時23分10秒 | 
 お早うございます。本日は、お休みです。今週は水曜日が指導日で、金曜日がお休みです。私はこういうお休みの日に新規に原稿を起こすことをやりますので、私にはなくてはならない日です。新しいアイデアを具体化するときは、ほんとうにあれやこれやと悩みますから、とにかく一日はあっという間に終わってしまいます。
 十月の竹の会は、ほんとうに落ち着いています。もの静かに勉強する中学生、純真で素直な小学生たち、みんな私の心を和ませてくれます。
 塾というのは、子どもたちの「わからない」をどう解消するか、でいつも頭を悩ませていると思うのです。順調に波に乗った子というのは見ていて微笑ましいものです。しかし、ふと気がつくと中々提出してこない子というのが必ずいるわけです。私は商売柄、すぐにようすのおかしい子どもには気がつきます。そのへんからこれにどう対処するかでまたいろいろ考えます。正直子どもの知能の見極めということは瞬時にできてしまいます。問題は知能を見極めたあとの指導です。どこまで私の指導が可能か、いつも悩むところです。それにしても直感的には結果が予測できたりす。悪いほうの直感というのはよくあたる。中学生になって「理科ができない」という子はたいてい知能の問題がかかわっている。国語はどうか。中学だ数学がずば抜けてできるのに国語はさっぱりだという子が意外と多い。英語ができて数学がダメという子はもう腐るほどいる。数学がいいのは知能が高いからである。よく数学の文章題が苦手という子がいるが、これは知能限界線にある可能性が強い。理科も数学の延長で能力判断できる。ただ数学はだめだが理科はできるという子も時々いるからややこしい。国語や英語は語学であるから、早くから馴染んでやってきた子ができる。知能に関わらないところがある。かつて筑波大附属駒場の中2を指導したことがあったが、数学の才能は天才的なのに、英語はからっきし駄目であった。好き嫌いが強い性格で嫌いな科目は全くやらないのが裏目に出て結局東大にはいけなかったようだ。総じて、理科や社会はその子の勉強姿勢を推し量るのに絶妙である。理科や社会の点が悪い子というのは、勉強をしていない、不真面目な子が多い。若いのにもう怠ける子たちである。
 選科がまるでできない子たちというのがいる一方、音楽でも保体でも美術でも技術家庭でも万遍なく「いい」という子もいる。選科というのは、例えば、絵が苦手とか、工作が不器用でダメとか、走るのは遅いとか、音痴で歌えないとかもって生まれた才能もあるわけで、そうした科目もそつなくこなす子たちがいるというのもまた事実であり驚きである。私は選科はどうであったのだろうか。音楽5、職業家庭5、図画工作5,保体4となっていた。音楽は楽譜が苦手でよく最初の一小節のドレミを丸暗記していた記憶がある。絵は得意で小学校からよく銀賞や銅賞をとったが、金賞はとんと記憶がない。やはり得意といってもその程度だったということだ。手先は器用なほうで、他人の真似がうまかったから工作は真似ばかりだ。体育は運動神経は普通で保体はいつも学科試験がよかった。とにかく万遍なくすべての科目に気を遣い勉強してきた。選科ができない子たちを見ていると、やはり楽譜のしくみがわからないとか、「わかる・わからない」レベルの問題だということがわかる。知能が大きく影響しているのである。
 私は子どもたちの「わかる」という知能の段階というものをいつも探っているのだと思う。私の指導の本質というか、真実はいつもそこにいきつくのだと思う。「本当にわかったのか」といつも子どもの反応を疑っている。「わかった」という子が次に持ってくる「わからない」で実は何も理解していないことを悟る。指導というのは、子どもたちとのそういうやりとり、せめぎ合いなのである。本当にわかった子というのは、目の輝きでわかる。わかっていない子の目は死んでいる。変化がない。ものうい。そこに知能の限界、性格的な限界が一瞬透けて見えることがある。この点に関してだけは、私は天才かもしれない。子どもの一瞬のしぐさで子どもの知能を見極めることができる。どの程度のものか、どの程度の質なのか、実は私には瞬間的にわかる。その子の未来まで見えてしまう。
 マーフイーの法則では、「失敗する可能性のあることは失敗する」というのが言い得て妙である。受検というのは、結果的にはその通りであった。なにしろ倍率8倍であるから落ちるほうが圧倒的に可能性が高い。そういう中で私は「合格するか否か」を判定する。様々な指導を通しての要素が勘案される。模擬試験の結果も侮れない。
 「成功する可能性」はどうかと問いかける。「失敗する可能性はどうか」と問いかける。私はいつも自分に問いかける。
 土日に10時間「勉強した」という子たちの報告を聞きながら、「成功する可能性はどうか」と問いかける。土日は行事で潰れたという子の報告を聞きながら「失敗する可能性はどうか」と問いかける。これからはいつもそうした問いかけが私の心の中で反芻されるのであろうと思う。なにいつものことである。私が「成功する可能性」のみを考えるようになったときは成功する。逆に「失敗する可能性」ばかりを気にするようになったときは失敗する。その子の今これからの勉強姿勢が私に訴えかけるということなのであろう。

 長年「指導」という恐ろしいほど経験と勘を要する仕事に没頭従事してきた。子どもたちの「心」と接する真剣勝負であった。「逃げる心」、「怠ける心」、「甘える心」、「驕る心」と様々な心が子どもたちに棲みつこうとする。子どもたちが救われるのは、知能という神から与えられた天賦の才である。「わかる」という心が、それのみが子どもたちの支配された精神に、飛躍する龍の力を授けるような気がする。子どもたちの心が喜び躍動する。まるで龍のように躍動する。目は光り輝き、体は躍る。塾というのは、子どもたちに「わかる」という商品を提供する仕事である。私はすべての子にその商品を与えられずにずっと苦しんでいる。
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