草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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下準備

2008年04月02日 21時41分15秒 | 
 あることをマスターさせたいと思うとき, 必ず必要となる下準備がある。正負の数を教えたいと思うとき, いきなり正負の数の扱いを教えてもその効果はほとんど期待できないだろう。少なくとも小学生のときに, 分数の四則混合演算をこなしていることは必要である。その上で, 負の数の扱いを練習させる。小学生の間「5-3」は, 「5引く3」と概念してきたものを「5とマイナス3」と概念することは, コペルニクス的転回かもしれない。長い間染みついた「引く」の習慣はなかなかぬけきらない。そのためにここでは完全に内在化するまで練習させる。負の数を内在化させるという下準備にどれだけの指導時間を要することか。正負の数はこれから学ぶ文字式・方程式といった文字を扱う計算の土台となるものだ。ここをじっくりと固めておかないとこれからの数学に確実に影響する。方程式では多くの中学生が文章題ができないと悩む。この文章題にしても小学生のときに割合や速さをきちんとマスターしておけば簡単にクリアできる。下準備とはそういうものだ。私は何かを指導したいとき, 必ずまず下準備から入っていく。割合をマスターするためには分数の扱いができていなければ無理だ。その分数ができるためには, 最小公倍数の理解が必要だ。今小5にやっていることは, いろんな意味で下準備といえるものばかりだ。天声人語だって彼らには荷が勝ちすぎる。だからいつか意味がとれればよい。とにかく辞書をひいて言葉を知ることだ。少なくとも天声人語が入試標準であることは間違いないのだから。いずれ理解できなければ入試には通用しないことははっきりしている。これも下準備である。
 新中1にはとにかく単語を覚えさせている。家では付属のCDを毎日聞くようにと指示している。まず100語を書けるようにする。これもこれからの英語の指導を視野にとらえた下準備だ。
 私はある事柄を指導したいとき, 必ず前提となる下準備から入る。ストレートに教えてみても, 教えられる側にその能力水準が準備されていなければ指導は虚しく終わることは長年の経験で分かりきっている。夏休みなどの休暇は私には十分に下準備のできる期間として貴重なものだ。だが長期休暇にこそ娯楽を優先させるという方もいる。がこれはこと勉強に関してはマイナスが大きすぎる。継続は力なりというが, その継続の中断はこれまでに習ってきたことをほとんど忘れさせるに十分だ。その上長い休暇で緩んだ生活の惰性はそのまま休み明けに持ち越される。いつまでたっても勉強に身が入らないという生活が続く。特に竹の会の基本コースだと下準備にかける時間もままならない。こうして休み明けに成績が極端にまで下がるのはいつものことだ。そういう母親からあるとき「塾に行っているのに成績が下がった」というクレームをいただいた。しかし, 夏休みは全期間休んでレジャーに明け暮れた子の成績がよくなるはずはない。私ははっきりとそういった。その後その親は反省したのかその子どもは熱心に通うようになった。その結果かどうかわからないが都立青山に合格していった。
 「文字式ができない」という子が突然入会してきたとき, 文字式を教えてもだめということだ。その子が文字式ができないのは, 小学校の分数から分かっていない可能性もある。正負の数の扱いがわかっていない可能性もある。だから文字式ができるようにするためにその辺のところをいろいろ調べて下準備をする必要がある。なのに基本コースで入会を決めて後はお任せということもある。しかし, これではなにもよくならない。第一家庭学習はほとんどゼロなのだ。この子が改善する何があるというのだろうか。よく文章題がだめだとう中学生がやってくる。それで家庭教師に文章題を教えてもらう。しかし, いつまでたってもよくならない。当り前だ。その子が文章題がわからないのは, 計算が未熟な上に, 小学でマスターしておくべき割合がまるでわかっていないということもある。そういう子に当面わからないという問題について説明することは無駄だ。この子には長い期間と時間をかけての下準備が必要なのだ。
 最小公倍数をやらせていると, 単調で面白くないに決まっている。だから集中しない。私もいろいろ考える。が面白くないものはやっぱり面白くない。計算ができるようになっても今度は「割合」のしくみを理解させるのにこれは苦労する。子どもの立場からすれば実に面白くない。わからないから面白くない。
 私も割合を教えるときは下準備の下準備と徹底して下準備で子どもの心にいろいろ概念構築をしかけていく。これは私の指導の見せどころと私も真剣だ。子どもたちとの心のせめぎ合いを通じて何をわからせ何がわからないのかいつも神経を研ぎ澄ましてうかがっている。今日がだめなら次にまた考える。子どもたちに学ぶという素直な意思がある限り。
 竹の会の私の指導はいつも下準備から入る。見学に来た親たちが「何をしているの」「こんな基礎をやっているの」と奇異な目で見ても私は無視だ。指導とはその子が知識を受容できるような状態をつくりあげることだ。そのためにする下準備こそが指導の本体だ。本体ができれば自然当初の教えるべき事柄はあたかも自身で考えたかのごとく吸収理解されるだろう。
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