草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

わたしは「わからない」という事実にこだわってきた

2015年09月26日 09時27分02秒 | 
 おはようございます。昨日は帰宅したのが零時近くになってしまいました。夜と雨の二重の視界の悪さでかなり緊張して運転をしました。義母は手術を選ぶ以外に生きる道はないということで手術が終わったのは夜9時近くになっていました。それからわたしたち家族は遅い食事をとるために雨の国道を2キロほど走って目当ての沖縄料理の店に飛び込んだのです。初めて食べた本場のゴーヤチャンプはとても美味しかったです。ゴーヤは好きで家でもよくやりますが、家の料理とは似ても似つかぬ、本物でした。母がよく作ってくれたのは、ニガウリとナスを混ぜ合わせたこねりという料理でした。東京に出てきて、ゴーヤとニガウリのちがいに戸惑いました。同じ? いや、ちがう、と未だによくわかりません。ただニガウリはその名の通り、かなり苦い、そしてゴーヤに比べて小ぶりです。こねりも郷里の大分には名人級の人がいた。母もそのひとり。母のいない今はもう食べられませんが。
 たまたま大手の塾に通う人たちのことを考える機会がありました。
 大手に通う子どもたちの実態は予想していましたが、思ったよりはひどい現状でした。 わたしは大手という組織が、資本に飽かせて生徒を集めることに成功し、見事に偽装の学習システムを権威づけることに成功している姿を半ば呆れて、半ば感心して、見てきました。
 なにしろネットの世界では、塾を探せば大手の名前が出るようにありとあらゆる対策を講じている。塾を探すサイトが上位に上げるのは大手のみです。つまりは、どれだけ宣伝にお金を使っているかのランクに過ぎないのに、これを見た親というのはますます大手を信用することになる、なんとも巧妙なシフトです。 新聞のチラシにつぎ込む資本も半端ではない。たとえば、東京23区だけでも1回チラシをまけば何百万かは投じるはずである。 テレビのスポットや新聞、雑誌とありとあらゆる媒体を駆使して親たちの大手信仰を大手しかないというほどまでに洗脳せしめる。赤信号みんなで渡れば恐くない、という標語があったけど、みんなが通っているという安心感は日本人の心性にピッタシ合うようだ。大勢が通っている、この安心感が親たちの脳を麻痺させるにちがいない。
 これは言い古されてきたことだけれど、小学校でも巷の塾でも、「割合」を学ぶのは、教科書やテキストの一単元としてだけで、その単元が終われば子どもたちがわかっていようがいまいが先へ進む。次に、割合を勉強する機会はもはやない。中学受験をする子なら、何度も割合の問題に接する機会はありそうだが、ここでもできない子、分からない子に本質的な解決が図られることはない。家庭教師や塾の講師が、わかりやすく問題の解き方を説明する、それで終わりだ。もっとも、大手の学生講師がどこまで本質を踏まえた説明ができるかは疑問だけど。算数も数学もやったことのない文系の学生にいったい何を期待できるのかということである。慶應、早稲田レベルの文系学生でもわたしから言わせればこと算数、数学に関してはアホだ。 大手の中には慶應の理工の学生を雇うところもあるが、確かに慶應の理工には天才もいるが、下から上がってきたのにはたいした学生は少ない。算数を知らない学生が、教本を使って、教えているという実態も知っている。方程式的発想で教えるバカ学生も多い。
 こういうことを言うのは、わたしの長男が学生時代に某大手で6年間塾講師のアルバイトをしていたことや次男の大学の学生たちが大手塾でバイトをしていた話しをよく聞いた、それも裏話ばかりで、とにかくひどいものばかりだったからだ。学生はまずバイトだということを忘れてはならない。別にやることがあって塾の講師はカネを稼ぐ手段でしかない。いい加減、ごまかしは、学生の本性だ。
 わたしから言えば騙される親が悪い。
 大手に通う小6というのは、昔から竹の会でもよく面談をした。日能研とか四谷大塚、あと学習指導会というのが、多かった。サピや早稲アカの子は知らないが、栄光ゼミナールに通っているという児童や中学生は昔から竹の会に漂着することはあった。正直、栄光にはいい印象を持っていない。
 中3の9月だったか、英語の3単元のSも知らない生徒が漂着したことがあった。数学の才能はあったのにそれもまるで生かされていない状態だった。中1になってすぐ体験学習コースに申込、そのまま中3の7月までいて、高校受験どころではなくなって竹の会に相談にきた、というものだった。 このとき、この塾は、基本的なものを理解したかどうかなどどうでもいい、責任は個人が負担する、ということを平気でやり、親たちもそのことを全く意に介していない、ということを知った。 親たちにしてみれば、大勢が通う大手の塾に預けているほうが、得体の知れない、塾長の強烈な個性も煩わしい、個人の塾にやるより、ずっと安心という意識がはたらいているのであろうかな、と推測もしてみる。
 確かに、わたしの目から見ても、弱小塾、巷の塾にはなんともいい加減な塾が多すぎる。親たちの見る目も強ち間違っているとばかりは言えない。 東京という塾がひしめくところで理想的な、良心的な、本物の塾を見つけることなど至難とも言える。それならまだ大手の方がいいというのも一理ある。
 少なくともわたしは理想の塾の姿を追い求めてきた。 大手は生徒を引き留めるというのは、本当の話である。たくさんの美味しそうな講座メニューを見せながら「これを受ければ大丈夫」とでも言うのであろうか。中身のない、謳い文句を並べた、立派なパンフは、ただそれだけの意味しかない。 「引き留める」塾は、中身がない、こう理解しておいたほうがいい。 それから子ども、ひいては親におもねる講師、塾長の塾は、塾としては信用できない。 退塾させる、という英断をする塾はほとんどない。 が、そういう塾こそ信用できる。 もちろん私見である。 どこの塾もウソをつく。これは知っておいた方がいい。
 わたしは、いわゆる塾の団体には、これまで誘われてきたけれど、一切無視してきた。 塾というものそのものというか、個人塾の塾長というのが、自分がそうでありながら、信用できないのだ。 そういう団体はどうしたら金儲けできるかという話しをする場所としてわたしの性には合わない。
 もちろんわたしだって報酬をもらうために塾をやっている。しかし、わたしには報酬をもらうにはそれだけの仕事をしたのだからという心の落としどころがある。わたしはいい加減な仕事をしてカネをもらうということはできない。だからそこにはプロとしての自負、プロ意識、プロの自覚がある。
 だから、割合という子どもたちを悩ませる、仕組みに正面から取り組んできた。わからないということにいつも真摯に正面から取り組んできた。 自分にできないことをできる、というウソをつきたくなかった。わたしにはどうにもならない子ども、それは能力的なものと性格的なものがあるけれど、そういう子どもの指導は「わたしには無理です」と正直に認めてきた。
 知能は高いのに、母親の呪縛が強すぎて、自滅する小学生というものをわたしは知っている。そういう小学生にはなんとかしようと腐心し、暗に母親にもその問題性を草枕を通して示してきたけれど結局そういう母親は自らの呪縛から逃れることはできずに問題性の指摘を「ダメだしされた」と曲解しヒステリックに挑戦的であった。
 わたしは子どもたちひとりひとりと常に対峙し、もっとも効果的な指導は何かを問い続け、わからないという子どもたちには、辛抱強くその成り行きを静観してきた。
 見捨てるのは簡単だが、少しでもいい方向に向かう芽があるのならとあれこれとレジュメを工夫してその反応を見てはまた次の手を試してきた。
 今年桜修館に合格した女子のためには、生活をなげうって、いつも最良のレジュメをと、この子をさらにさらに押し上げる最良のレジュメをと、生活のすべてを捧げてきた。もしこの途中で倒れて死ぬことがあってもそれでかまわない、と思った。こんなにも竹の会を信じて一生懸命にがんばっている子がいる。どうしてわたしがなにもしないでいられようか。
 子どもが竹の会を信頼すればするほどわたしはその信頼に応えるために、いや応えなければならないと、自らに負荷を課してきた。
 子どもが子どもの真摯な素直な心がわたしを引っ張ってくれている。そうとわかっている。
 それでもプロといえるのか。 
 最近のわたしは掲示板に立っても、いつも恐い、恐ろしい、動揺して止まない、もうプロなんかではない。合格を祈るただの弱い人である。

 
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