草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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「主語」のこと

2008年09月11日 22時25分06秒 | 
 ここのところ明治神宮の参道をよく歩く。鬱蒼とした大木に囲まれた道が延々と続く。東京の中心にこんなところがあることに奇異な感じがする。道に人は全くいない。ほんとうに稀に, 車が走り抜ける。ようやく出口にたどり着いて「車専用道路」なる立て札に気がつく。見ると前方に守衛らしき人がじっとこちらを見ている。まずかったかなと思ったが, 素知らぬ顔をして通り抜ける。歩くのはかなりの意志がいった。歩いた後の全身の軽さ感がなんともいえない充足感となってさわやかな気分に満たされる。それでまた歩く。長く歩けば歩くほどあとで身体が軽い。
 最近読んだ本に, 英語は主語と動詞だけでできている, というのがあった。面白いので主張するところにつきあった。この著者はさらには動詞さえも主語の説明にすぎないと言い切る。目的語は動詞の説明だと言い切る。何か真理をついたようなところがあり, 考えさせられる。動詞といっても, be動詞になると動詞そのものに意味はなく, ただ主語と何かの言葉をつなぐだけの働きしかない。鎖みたいなものだ。だからbe動詞のあとにくることばは, まさに主語を説明したものだ。伝統的な理解では, そのことばは補語とよばれる。補語が現われる別の場面がいわゆる英語5文型の第5形式の場合である。動詞の次に目的語, 補語と続く。この場合の補語は前に置かれた目的語を説明する。こうして, 私は長い間, 受験英語を5文型によって体系的に理解してきた。研究社の新英和中辞典は5文型によって動詞を徹底分解している。5文型で英文の骨格を分析しようとする者にはこれほど便利な辞書はない。長く日本でいちばん売れてきた辞書であるわけだ。ところが最近は高校生の間では, ジニアース英和辞典が主流となってきているようである。
 いずれにしても, 英語は, 主語と動詞の対応をまず見つけることであるというのは, 私の考えと全く同じある。ただそのあと私は5文型を手がかりに, 修飾関係を手がかりに, 英文の骨格を分析するのが常であった。もしこの場面で, 後は主語を説明する語句は何か, 動詞を説明する語句は何かと思考を進めていくのだとしたら, これはかなりに楽しいかもしれない。どの語句がどの語句を説明しているのかということが実は結局の英語の思考なのであるから。英文の読解は究極のところ修飾関係の分析に尽きるのであるから。
 ここのところ国語の読解指導についてよく思索する。ある種の考えが離れない。文のいうところをそれが意味するところをまるで理解しないという子が現実にいるということ, いや過去にもそういう子どもが少なからずいたということ, そしてそういう子の算数指導というものが, 意味のレベルを解決しないかぎり早晩暗礁にのりあげるであろうということをである。そのために最近の私の創作はそうした視点にたってのものが多い。子どもたちに, 主語は何かとまず立ち位置を安定させること, そのうえで主語を説明することばが何をどう説明しているのかを考えさせること, これが意味の認識である。慶応やらなにやらの過去問から意味を認識するタイプの問題を探すのがこのところの日課である。割合の理解もつまるところは意味の理解ができないからできないということではないか。「読んで」意味がわからないというのが, 読解のない子の特徴だ。それでこの意味を認識する能力部分を鍛えていく必要があるのではないかと思念したわけだ。能力が低いから指導はあきらめるというのでは, 指導のプロとはいえまい。そういう事態にさらに子どもたちの脳内意識を想像して何らかの意味を構築できる能力を作り上げていきたいというのが私の野心的なねらいである。そのへんのところをついたレジュメの創作にこのところ悩みながら没頭していることが多い。難局に突き当たればそこでその対処法に悩む。これがいつもの私のスタイルであるのだから, プロと肩を張ってみてもなんとも情けない話である。必ずなんとかするという意志だけは持ち続けているけれど・・・。
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