草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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5月の空気

2011年05月20日 09時45分35秒 | 
 お早うございます。本日は指導日です。雲は多くても晴れのようです。5月から6月というのは、何か無心に黙々ととにかく前へ歩いているようなところがあります。竹の会の小6はみなそれぞれにそれぞれの思いを秘めて算数に取り組んでいます。初めて向かい合う適性過去問にも面食らっているようです。割合を理解するほどの理解段階でなければまずほとんど解答できないと思います。割合を理解する子でも最初は答案にならないと思います。とにかく適性問題という「考える」ための応用事例に「慣れる」ことです。やがてくる暑い夏は「耐える」季節です。正直竹の会の夏は長くて(勉強も)進まないというのが実感です。7月と8月は「耐える」季節です。私はようやく新しいパソコンにも慣れてきました。これからの指導のためのアイデアを形にしていかなければ決意しています。来年の適性に向けての新作の執筆、低学年のための割合の新作の執筆は急務です。充実した夏休みにするための準備がこれからの私の最優先事項です。ほとんど仕事となっている読書は、実は3つほどにその関心が分けられます。今私の「これから読む本」を乗せるための小さな3段ほどの本棚には、原発関連の書籍が25冊ほど、趣味の時代小説や江戸時代研究書がこれはもう多すぎて数えられないほど、それから適性検査問題がどっさり、さらに高校数学に関する書籍と少しの英語書籍が並べられています。隙間時間があれば何かを読んでいます。
 一昨日のネットニュースでしたか、英国の物理学者スティーブン・ホーキング博士のインタビューが紹介されていました。2010年にはその著書「The Grand Design」の中で「宇宙の創造に神の力は必要ない」という主張を展開して、宗教界の批判を浴びています。
 私が興味を惹かれたのは、英紙ガーディアンのインタビューの中で、「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なし」「壊れたコンピューターにとって天国も死語の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」と述べた点です。博士のこのような達観の裏には、博士が21歳の時に筋萎縮性側索硬化症という進行性の神経疾患と診断され、余命数年とされたこと、そしてそのときから「49年間にわたって若くして死ぬという可能性と共生してきた」という過酷な常に死と隣り合わせの人生が潜んでいると推測されます。
 私の父も母も信仰に厚い人です。父は先祖の墓に随分とカネをかけています。母が死んだ後、100万はしたはずの古い仏壇を200万以上もするなんとも立派なものに買い換えてしまいました。毎日の勤行は欠かしませんが、私には理解不能です。毎月の母の命日には真宗のお坊さんがやってきて経を唱えて帰ります。私は長男ですが、不肖の息子で、父のこのような考え方について行けずに家を飛び出しました。今は弟が後を継ぐことに決まり、父から毎日いろいろと教わりながら修行しています。信仰の厚い両親から私のようなさっぱり信仰心のない人間ができてしまい、両親はほとんど何も言いませんでしたが、心の中では嘆いていたことでしょう。真宗では天国の世界というのが出てきます。キリスト教も同じです。「死んだら天国に行く」などという情緒的なことばが私にはどうも理解できないのです。私の考えは実はホーキング博士と同じです。私が以前に書いていた「納屋味先生の独白」も実はそういうところに私の思いがあったことから書き始めたものでした。納屋味先生はいずれ自死を選ぶというのが私の結論にはおぼろげにですがありました。それまでに納屋味先生には実在の中で悩んでもらいたかったわけです。
 博士は「死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。まだやりたいことがある」と述べています。そして人はどのように生きるべきかという問いに「自らの行動の価値を最大化するために努力すべきだ」と答えています。つまり、天国を否定したからといって、決して現実を生きることを否定することにはならないと言っています。私の本棚にはホーキング博士の「宇宙と人間を語る」という本が(実は昨日買ったばかりなのですが)並んでいます。週末に時間ができれば読めそうです。
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