草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

気負い

2015年05月02日 19時47分13秒 | 
 気負いの語源は「競(きお)い」からとされる。意味は、「自分こそはといった態度や気持ち」(大辞泉)。
 明解国語辞典は、「人に負けまいとして事に臨む、強い意気込み」と説明する。文語動詞 競(キホ)ふの連用形が名詞としてはたらいている。
 以上の定義にもかかわらず、わたしは、「気」を「負う」ことと解したい。
 何事も、この気負いが思考、ひいては体を縛り、思うように結果を出せないこととなる。
 好村兼一「伊藤一刀斎」には次のように描かれている。
  気負いを見せない相手は一人もいなかった。六人が六人とも、、決死の形相の裏に、敵を斃(たお)そう、己を生かそうとの欲がありありとしており、心身凝り固まった彼らが躍起になればなる程、隙は水面に映るように、一刀斎の心眼に歴然となる。観じた相手の「起こり」に太刀を一閃させれば、向こうは血を噴いて倒れた・・・。

 いかがであろうか。
 先ほどのわたしの解釈は、気を負う、であった。気を背負うといったほうがより明確になる。
 「決死の形相の裏に、敵を斃(たお)そう、己を生かそうとの欲がありありとしており、心身凝り固まった彼らが躍起になればなる程、隙は水面に映るように、一刀斎の心眼に歴然となる。」
 必死になればなるほど、欲が出てくる。欲が必死にさせるといったほうが自然かもしれない。しかし、この欲が心身を狂わせる。「心身凝り固まった」状態では成すべきこともなせないままに一瞬にして勝負は決する。
 考えてみれば、「気」というのはいかにも重いものであろう。「気」を支えるのは「心身」である。心身は気の重みで凝り固まるのである。凝り固まった心身では自由に動くことも、自由に思考することもままならない。
 わたしたちは、心身が気の重みを支えているということにいかにも無頓着ではなかろうか。
 いくらでも気をのせてしまう。気は欲である。欲が失せれば気も消える。気が消えれば軽くなる。心身は解放されて本来の動きをするようになる。
 気負いがあれば勝てない。
 好村一刀斎はこうも言う。
 「生死を意の外に置き、あらゆる執着を捨て、己を渾身の一刀に託して勝負を天に委ねるのみ。勝ちとは己から求めるものにあらず、向こうからやって来るもの」
 「あらゆる執着を捨て」るは、欲を捨てることである。「己を渾身の一刀に託して」とは、無心で問題に取り組むことである。「勝負を天に委ねるのみ」とは、もはや勝敗のゆくえは神のみぞ知ることと達観し、ひたすら竹の会の神に祈ることである。
 そうすれば合格は向こうからやってくる。
 
この記事についてブログを書く
« 中学初めての定期考査の思い... | トップ | 広葉樹 »