草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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クスリはリスク 薬という毒薬のこと

2015年05月05日 20時11分03秒 | 
 今日は五月晴れのいい天気でした。日差しは熱かったけれど陰に入ればひんやりとした空気がシャツと一体の肌に気持ちよく触れわたりました。新緑をしっかりとこの目に確かめて厳しかった冬から解放された喜びをかみしめています。
 一年中、教室とパソコンと読書ばかりで生の自然というものを知らないままにきました。北アルプスというのはわたしには自然の怖さを目で見た、最初かもしれません。郷里の別府にも標高1300メートルほどの鶴見岳という活火山がありますが、わたしが頂上へ行ったのは一度しかなく、自然の怖さを知るほどのところには近づいたことはありません。冬の奥別府の内山はそれでも荒涼としたところだと想像できますが、北アルプスの峰峰の織りなす景観はわたしが普段から安易に親しみをもってきた柔らかい自然ではありませんでした。ひとたび足を踏み入れれば死しかない、荒涼とした風景がどこまでも続く、恐ろしい世界でした。
 福島の子たち117人に甲状腺ガンが見つかったというのに、「これは原発事故とは関係ない」と暴言する御用学者が国に身分を保障される構図というのが、裸の王様が確かに服を着ていると言い張る大人たちのように見えるのはわたしだけでしょうか。
 昨今は「投薬医療」という言葉が医療の現実を言い表しているかに思いますが、投薬では日本のさらに先を行くのがアメリカです。日本の政治という職にある方たちがあげてアメリカの方を向いて、つまりは国民には背を向けて、いや尻を向けて、最敬礼しているの図が今の日本の姿なのかと思います。薬漬けといいますが、アメリカは薬漬け先進国で一人で何種類もの薬を何十錠も毎日呑む高齢者が最後には薬の副作用としか思えない症状で死んでいくのは、これはどう見ても製薬会社、それに協力的な医師、それを制度として固めてきた国、もちろん天下り先を確保する官僚の利権構造の犠牲としか思えないのですが、これもわたしは一人の思い過ごしでしょうか。
 アメリカのマネをすることが大好きな日本ももちろん薬漬けの国です。医師というのは学生時代、大学で薬の処方しか習ってこないのでしょう。
 手術というのは、これは頭と関係ありません。職人と同じだと思うのです。ですから、どこどこ大学の教授が手術が上手いということは決してないのです。これはもう手術の経験数がすべてです。
 さてわたしがここで述べたいと思ったことは世の中にはびこるそうした嘘を権威で本物としてしまう社会のことではありません。
 今日は、薬のことです。今の医学というのは、もうとにかく次から次へと新薬を開発して、患者を救うという建前を大声で言いながら、実は製薬会社がいかにして莫大な利益をあげるか、ということしか考えていないのだと思います。
 そしてその薬というのが、対症療法を基幹に置いていることも忘れてはなりません。
 血圧が高いとなれば「下げる」薬を使うのが今の医療です。「痛み」に対してはさすがにやたらと「痛み止め」を出すのは憚れるのか、呑むか呑まないかを患者の意志に委ねてとにかく渡すということがよく行われます。痛み止めというのはそれだけ副作用があるということを認めているからでしょう。薬がある症状に効くとして、そのためにその薬が健康な他の細胞に及ぼす毒薬としてのはたらきについては医師はほとんど口にしないものです。
 例えば、血圧が高いというとき、それは体のどこからか発せられるSOSでしょ。ただ血圧を下げただけで、そのSOSの元が解消されたことにはならない。熱が出るのは体の細菌などに対する防御活動であり、そこで熱冷ましを呑んで熱を下げるのは細菌の活動を助けることになるから逆効果であると言われます。とすればです。血圧が高いというのもある意味体の何かの防御反応かもしれないではないですか。あるいは、どこか不健康な細胞群が不調を訴える信号かもしれない。
 人間の体というのは実に合理的にできている。
 とにかく今の医師のように闇雲に薬を出すのはおかしい。薬というのが、その名の通りに薬であるのかが疑わしい。知らずに毒薬を飲み続けて悪くしているということが普通に行われているように思えてしかたない。
 製薬会社は人間の体の中に化学薬品を何十種類も溶かし込んで、何も起こらないとほんとうに信じているとはとても思えない。
 自然由来の物質ではない、本来人間の体にはないものを、化学結合をくり返し、薬と称して、体内に蓄積させていく、これが恐くないという人が国民の多数なのだろうか。
 さて、ここでわたしは塾の先生ということで、本業の話へと転じていくことにします。
 今の大手塾、いや塾一般の姿が前期のような投薬医療と変わらないことをやっているのではないかということです。
 「勉強がてぎない」というので、まるで薬を与えるようなことをやっている。薬というものがその効き目を誇大宣伝するように、塾は、「うちの対策」を誇大宣伝する。薬の実際の効き目の何十倍、何百倍も宣伝をする。実際の薬を呑んで治ったのかわからないのに「うちの薬のおかげ」と言い立てる。「わかるまで教える」というのは、どんな石頭で教えれば、教え方を工夫すれば「わかるようになる」という前提が真の命題なら成り立つが、そのような命題が偽であることはだれでも知っている。昨今は偏差値29から始めて東大に合格したなどという、特効薬の吹聴も、金儲けだけしか頭にない、バカなメディアが一緒になって、どう見ても嘘くさい塾講師をカリスマと崇めているほどにあほらしい世の中である。
 頭が悪ければ教えるというのはありえない。成績なんかいくら教えてもよくなるはずがないのに、親を騙していつまでも通わせる。親もまじめそうな先生の言葉になんとかすがる思いで託すのだが、そんな都合のいい話なんかないのである。都合のいい薬がないの同じである。
 塾の世界で、対症療法をやるバカ塾、バカ講師など信じるのがおかしいのに、世の親というのは、薬の効能と同じレベルで大手塾を崇拝する。
 わたしがやっていることなど大手や他塾がやるはずがないのである。それは基本的に投薬医療と同じ、根は同じ思想だからである。
 わたしは勉強というのは教えてできるようになるなどということは考えたことがない。勉強は当の本人が考える、考えるようになることで、できるようになるのである。
 決して、知識を与えたからではない。知識を与えても咀嚼しない知能に知識は何の意味も持たない。
 塾というのは、基本的に「考える」ということを芽生えさせ、その芽を育てていく、それぐらいしかできないものである。
 「できない子」は考えられないからできないのである。できない子、つまり考えられない子に、「考え方」を教える、つまり「考える」薬を与えるなどという矛盾したことを平気でいう巷の大手塾の口当たりのいい、いい加減さをすんなりと信じる親が普通にいるのがこの世の中であるのは、薬の論理と全く変わらないのであるから、不思議ではない。考えるのは本人であり、考える力は自ら切り開いて手に入れていくしかできない性質のもである。
 子どもができるようになったのは、自ら考えられるようになったからであるのに、まるで薬の効果が出たように吹聴する大手の宣伝がそのまま信じられるというのも今の世の中では普通のことである。
 大手の塾が特別の薬を出すかのような、それでできるようになるという信仰はもういい加減に気がついた方がいい。
 知識は必要最低限あればいい。大切なのは「考える」ことのできることなのであるから。

 
 氷の壁
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