草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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のぞかな春の日に心も和む

2014年04月09日 10時39分12秒 | 
 厳しかった「寒」の季節もようやく去り「桜」が春の到来を告げるという営みがこんなにも愛おしく思えるとはと自分の心境の変化に驚くのです。お早うございます。今日は4月第2回目の指導日になります。いつもこの季節は憎きスギ花粉で苦しんでいたのですけれど今年は症状が軽くてすんでおります。というのは、医師に勧められて呑み始めた抗アレルギー薬がどうも効いているらしいこと、そして例の噴霧器タイプの花粉対策もかなりに効果的であることなどからです。特に後者はお薦めと思います。
 血圧は冬は鬼門なのですが、今読んでいる本には血圧160までは薬は呑まなくていいなどと書かれていて薬を呑むことの害が述べられていまして、考えさせられています。
 現代の医学というのは、対症療法だけなのかとよく考える。血圧が高いから血圧を下げる薬を呑ませる、尿酸値が高いから尿酸値を下げる薬を呑ませる、・・・。外科だと「切り取る」のが治療ということか。
 医学が進歩したことの恩恵というのはどうなのかということにも正直疑念を感じている。寿命が延びたのは医学の進歩のおかげであると言われる。対症療法にも延命効果があるということか。しかし、長生きすることが本当に幸せなことなのか、それは自然の摂理に逆らうことにはならないのか。医学の進歩は医学では解決不能の数々の難病というものを浮き彫りにし、そこでは対症療法しかもたない医学の無能・無力ぶりを露呈しているのではないか、など思うことは尽きない。
 そしてより本質的な問題として、対症療法は結局自然治癒力というものを前提しなければ成り立たないという現代医学の根源的な懐疑へといきつくのである。
 慢性疾患、生活習慣病、ガンなどに対して西洋医学は根治の術を持たない、いや対症療法しか持ち得ないのではないかという疑義、そこから薬という利権と結びついた医療機関に何を期待できるのか、わたしの心はいつも不信の芽に苛まれている。人間というのは痛みにはからっきし意気地がない。当面の痛みを和らげてくれる薬に飛びつくのだけれども・・。
 対症療法による薬の多用がもたらす結果を想像してみた。体内の菌がすべて殺されて皆無になることはいいことなのか、免疫力を削ぐのはいいことなのか、自然治癒力に先んじるのはいいことなのか、生命力を破壊することにはならないのか、・・わたしの思いは尽きない。
 子どもたちの指導でも同じようなことがいえる。「わからない」というとき、その「わからない」ということを「わかりやすく教える」のが塾だと考えている親や子、そしてその考えに迎合する塾がほとんどであろう。ある問題が「わからない」というとき、その問題をわかりやすく教えるというのである。まさに対症療法である。家庭教師などは対症療法師と言い換えた方がいいかもしれない。中学生になって文章題が解けないという生徒がよくいる。そこで塾は文章題の解き方をいちいち説明していく。バカな話である。割合の基本的な枠組みというものを無垢の脳に組み立てその組み立てた枠組みで思考の訓練を重ねてきた結果、文章題にはなんのアレルギーもないというのが自然な学習のありようなのではないか。「わからないから教える」というのは、医者が患者を手放さないのと同じで、塾が生徒には常に必要だという縛りを裏からやっているだけなのではないか。子どもは最後まで塾から離れられない、独立できない、従属した状態から解放されることはない。
 竹の会では思考力を鍛え抜かれた子どもたちがめでたく小6の2月には巣立っていく。それは中学でも十分にトップレベルをとれるほどに思考力をつけた子たちの旅立ち、独立の時にほかならない。

 割合を説くとき、子どもの「わからない」には、「わからない」の意味が「わからない」というのがあることがわかる。知能的に見て「わからない」という子どもの頭の中は、自然科学的な「わからない」しかないのではないか。割合というものが、約束から出発しているというこが理解できていないのである。だから、最初の定義で、割合とは、比べる量を元にする量で割ったときの倍率のことだよ、と言って、そこからいろいろと訓練を重ねて、2か月ほど経って、「500円は1500円の何倍ですか」、「500円は1500円の何%ですか」という問いに「先生、いまひとつこの問題がわからないのですけれど」などと言ってくるわけです。この子の頭の中には、「なぜ」というのが自然科学的なそれとしてしかないのです。この問題はそもそも「なぜ」の対象ではなく、定義そのものなんです。
 割合でもなんでも定義から仮説を積み重ねていくという、そこのところが、欠落しているわけです。これを能力的なものとすることもできますが、いずれにしても、そういう子は早晩壁に突き当たる、それは自分で、つまり定義と仮説で切り抜けていくことのできないという壁です。医者は対症療法で効きもしない治療をとにかくやるでしょうけれども、わたしは正直に「できません」と言います。
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