草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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 入試本番直前の諦観

2008年03月06日 09時21分51秒 | 
 長年, 受験指導をやってきた。そしていつも受験直前に子どもたちの致命的欠陥に遭遇する。受験直前という特殊な心理状況において子どもたちにそれまで見え隠れしていた本質的な弱点というものが顕現化してくる。受験直前とはそういう時期なのだ。指導の中盤の時期, やや応用の割合の問題に白紙で出す子がいた。ここですでにこの子には本質的な算数の思考センスというものが欠如しているということは自明だった。そしてそれからの受験指導でそれなりに力をつけていった感はあっても受験直前の特殊な心理状況がその子の弱点を白日のもとにさらけ出す。これはいつも私にはわかっていたことだ。私の定番的指導が外見うまくいっていたように見えたとしても, 本質的なものが受験という高度に心理的ストレスにおおわれた時期に突如として現れる。私にはわかっていたことだ。子どもが突如として慶応や早稲田を受けるというとき, わたしの戸惑いは尋常なものではない。中3の場合, それまでの自分の成績と相談しての流れだから, 志望校が決まるのが遅くなるのはある意味当然ともいえる。しかし, 指導する側からすると, これはきつい。竹の会にいるとまじめにやる子は力がついていくので, 次第に志望校が高くなっていく。そしてとうとう慶応を受けるとまで言いだす。確かに力がついているのでそう思うのは無理もない。しかし, 慶応や早稲田の英語は直前ではどうにもならないところがある。直前12月・1月に見せる竹の会の指導の卓越さは抜群のものと思う。それは合格実績が証明するところであろう。もしこの時期のこのレベルの指導が6か月間とれるなら, 合格にもっていけると確信している。しかし, この直前レベルの指導に持っていくにはそれなりのスパンを要する。春の指導から始めて11月頃までに高めていく指導の結果, 数学レジュメだけでも20cmほどの厚さになる。竹の会ではそうしたレジュメ類を7回以上解き直しさせるのが定番的なやりかたである。これを12月と1月にやらせるのだ。この指導時期が合格を実感させるほどに力がつく時期なのだ。この2カ月と同じ状況をたとえば10月に作れたとしたら慶応合格も可能とと思う。しかし, そうなると指導は前倒し的に早くなるしかない。ところがほとんどの公立中の生徒がそうした指導を可能にするだけの状況にはないのだから所詮かなわぬことなのである。だからどうしても受験指導の始まり, つまり竹の会でいう下ごしらえの時期は春頃からになってしまう。トップ都立はどうか。 本年の都立西合格者は中学に入学したときから, 秘かに都立西入学を夢見ていた。だから中1のときからそれは熱心だった。彼女のお母さんによると「淡々として」竹の会に通い勉強していたという感想であられた。私の指導が都立西を意識した指導であったのはいうまでもない。
 昨今独自校入試の難化傾向は高まり私立難関校並である。新宿の数学・英語・国語の合格最低点は50点台である。しかし, 新宿・青山レベルだと竹の会では7~8割はとれている。しかし, 戸山や日比谷になると途端に5割の攻防になる。都立西も同じようなものだ。こうした攻防を通して「何をやるべきか」が見えてくる。受験指導というものは, 毎年の入試の度に, 直前にしかそして直前だからこそ「見える」ものがある。それが次の入試にやるべきことを示唆してくれる。。入試本番直前に様々な現実を見せつけられて指導者も成長していく。
 ところで小学生は難敵だ。小学生の場合は「ここを受けたい」という目的意識ははっきりしている子が普通だ。しかし, 力がついてきてそういうのではなく, 飽くまで夢と現実が混合した状態だ。今は未知数だが勉強すればという気持ちも強い。そして小学生にはいつも私は騙さる。 小学生は見誤ることが多い。それはもともと未熟であった知能がどこまで伸びたかという微妙な判断がつきまとうからだ。「わかった」と思っていたはずの子が突然先祖返りする。これが日常のことだ。だから, いつも「ほんとうにわかっているのか」というリトマス試験紙的問題が必要となる。こうして「わかる」ようになったはずの子が, 受験本番という特殊心理の中で突如として「白紙答案」を書く。今年は, 私立でも公立でもこの「白紙答案」に悩まされた。そして試験は正直だった。白紙答案を出す子が合格することは決してなかった。どんなに優秀と思えた子でも「白紙」のままに提出する子はやはり落ちた。未知の問題に対して「わからない」という状況が乗り越えがたい壁になった。少なくともその子の頭の中では「わからない」つまり思考停止した。想像力の欠如というか, あまりにも思い至らないことへの諦めにも似たはがゆさが私の中にぶすぶすとくすぶり続けた。そしてそのとき「はっ」に思ったことがあった。最初に「白紙」だった子は最後も「白紙」だったなと。
 本番直前の私の心の中。それは「諦観」といったものかもしれない。直前に見た白紙が私を不安に恐怖に陥れる。私の定番指導つまり「繰り返しの復習」をしても私の強い不安はぬぐい去れなかった。あの「白紙」答案という強い衝撃が私を苦しめた。私にはあってはならないことだった。過去合格者で白紙はなかった。これだけははっきりしていた。そして今年は白紙を出す子が続出した。何もかけないという事態に私は為す術をもたなかった。日常の簡単なことに思考停止してしまう子たち。少しひねった算数的問題に正直に白旗をあげる子たち。いとも簡単に白旗をあげてしまう子たちに私は強い懸念を持ち続けた。そして初めて適正問題をやったとき, 初めて私立中入試過去問をやったとき, ほぼ全員が出したほぼ白紙答案を眺めながら「これからどう指導していったらいいのか」を真剣に悩んだことを昨日のことのように思い出す。初見が真理。試験本番前の私の心理。それは諦観。
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