草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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諸事雑感'11.7.31

2011年07月31日 10時32分51秒 | 
 お早うございます。本日と明日はお休みです。小6は、「小学思考の素」でもたもたしている子が大半ですっきりしません。小5の頃「3時間指導」できた子はやはり苦労してるようですが、2月入会組には伸びている子もいて能力、家庭学習などいろいろな事情が重なり一概になんとも言い切れない様相です。小5の頃、旅行など家族の行事を優先していた子は一般的には失敗する確率が高いと思います。小石川に合格した男子は、小5の夏は長時間指導でしたが、家庭学習もしっかりしていました。量も質も申し分なしでした。早くから始めていたはずの女子がもたついているのは女子にはよく見られる傾向です。女子は、伸び止まりになることがあります。
 算数は、「小学思考の素」をまず終わらせることです。「わからない」が多く、自分で解けなかった問題ばかりだとまず先へ進んでも独力で解けることはほとんどないと思います。「小学思考の素」は、算数の基本が網羅されていますから、これをもう一度、いやほんとうにイメージ化できるまで何度も何度も繰り返すことがいいと思います。問題を見たら頭の中に予め下絵を描くようにします。解き直しは解く過程をイメージに描いて頭の中に下絵を描く要領でやるのがいいと思います。
 
 ◯「日常性」という虚構・国家の背信・報道の背信
 3.11の震災による原発事故で私たちは、一瞬にして「日常性」というものを喪失してしまいました。都会人は日常というものが当然あるものとして享受してきましたし、田舎の人にとっても田舎の日常は生活のすべてであったはずです。福島は今や「人の住めない」土地と化しつつあります。私たちは、チェルノブイリを彼岸から眺めてきましたが、今や私たちの生活空間はチェルノブイリを超えていますし、超えようとしています。政府は、事態を「できるだけ小さく見せかける」ことばかり考えているかに見えました。「たいしたことではない」と思わせることに必死の体でした。原発推進の経産省や経済界、国会議員、知事たちの意思もそういうことであったと思います。
 今や福島の人たちには、「日常性」はありません。人々は非日常を生きるしかないのです。農水省は、セシウム牛が市場に流通するにまかせて何もしませんでした。福島の農家のことを考えて知らんぷりしていたのでしょうが、結果として消費者は一切の牛肉を拒否することとなりました。初めから「だめなものはだめ」として断固とした行政指導をしておけばよかったのです。福島では放射能にまみれた土壌で米が作られることが黙認されています。収穫の時に基準値超のセシウムが検出されるまで、いや出荷されて他県産とブレンドされて市場に流通して問題が表面化するまでまた放置しておくつもりのようです。いや福島の近隣の県の土壌も汚染は深刻化しているはずです。
 私たちは、3.11の事故以来、ずっと国家にウソをつかれてきました。中国の高速鉄道の事故における中国政府の対応を日本のテレビは笑っていましたが、彼らに中国を笑える資格はない。これまでもそしてこれからも政府と電力会社のポチとなって原発洗脳放送を流し続けるテレビが、中国の事故ではいかにも識者を装ってもその欺瞞性が露わで笑止千万である。
 国家が平気で国民を見殺しにするという現実を私たちは知りました。実は原発を推進するということは、そういうことだったのです。最初から国民の生命は軽視されていたのです。今福島第一原発では、作業員が過酷な現場で作業に従事しています。彼らの浴びる放射能は半端なものではありません。このような高濃度の放射能の中で作業をしなければならない人たちが絶対的に必要だということからして、ローマの奴隷制と本質的にどこが違うのかはともかくとして、原発は社会の底辺にいる人間を犠牲にして成り立っているものだということなのです。そしてひとたび事故が起これば、何万人かの国民が死んでも「かまわない」という見通しの上に原発推進政策は成り立っているし、推進者たちの暗黙の理解なのではないかと思います。
 朝日・読売といった日本の大新聞も真実を報道しないということが、3.11の事故により証明されました。このような新聞がこれから先も大多数の国民に支持され続けるということはおそらくあり得ないことでしょう。近い将来新聞は、ネット世界にとって変わられることは間違いないと思います。政府の言うことをそのまま伝える新聞なんていらないでしょう。国民に避難を呼びかけることもなく、かえって安全を喧伝し、結果大多数の国民が被曝してしまったという事実を国民は決して許しはしない。真実は今やテレビや新聞にではなく、ネットの中にある。
 政府の示している放射能基準値はなんの根拠もないものです。それどころかあのチェルノブイリの許容する基準よりもはるかに高い基準で食品の流通を認めています。政府の基準は、国民の健康に害があるか否かではなくて、ここまでなら農がも出荷できそうだというところから決めている節があります。
 福島の非日常、震災被災地の非日常を、いや福島第一原発という非日常を、東京に住む人たちは、いつしか自分たちの日常性(実は虚構の日常性)がもどってきたということに安堵し、心の中から削除してしまったように見えます。テレビは、まるで原発事故などなかったかのように、日常性を喧伝しています。相も変わらずバラエティーやお笑い、どうでもいい番組を垂れ流し、電力を過大に消費しています。一方では、節電を訴えながら、テレビ局がいちばん電気を使っているという事実はおくびにも出しません。昼間や深夜の放送を自粛すればあっという間に一般消費者の電力需要はカバーできるはずなのに。
 私たちは、これから国家のウソ、報道のウソ、そして虚構の日常を生きていかなければならないのか。福島の原発はかなり危険なままに推移し、さらにはいつどこの原発が緊急事態になるやもしれないという状態のままに、私たちは国家によって創られた虚構の日常を生きるしかないのか。あの映画「マトリックス」のように現実界は非日常で虚構の日常に自分を置き安らぐことでいいのか。いつか現実の自分の消滅が現実になったとき私たちは実は非日常の中にいたことを悟るしかないのか。

 
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