草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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答えは問いの中にあり

2012年08月22日 16時37分21秒 | 
 ネットがつながっているということがこんなにも幸せなことなのかとひしひしと感じています。書きたいときに好きなこと書ける、これほどの幸せがあるでしょうか。
 今日はまた特に暑く感じます。渋谷教室では渋谷駅から10分ほど歩いてくる子たちのためにいつもアイスを用意しています。暑い中をごくろうさんという気持ちです。女子はオレンジのアイスが好きですね。ガリガリ君なんかも人気です。男子はシロクマ君に凝っている子もいます。
 さて、今日は子どもたちにもっと「問い」というものを丁寧に大事に読んでほしいという思いがありまして、表題のようなテーマで書いてみようかと思いました。
 適性の問題文というのは、なにかごちゃごちゃしていて整理されていないわけです。会話文のなんでもないような言い回しに実は重要なキィー・ワードがふくまれていたりするわけです。問いがこれだけごちゃごちゃしていると、なおさら余程に注意深く読まなければと思うのですけども、子どもたちというのは、見落としといっていいのか、読んでいないのではないかと思われるような答案が多いわけです。問題が実は何を求めているのか全く気づかないままに自分で解答と思ったものを書くわけです。
 これはやはり訓練していくしかない。とにかく塾というのは、訓練の場ですよね。
 今日は、これとは別に、実は「問いのたてかた次第で答えが導ける」ということを述べたいと思います。
 考えるという精神作用というのは、いったいどういうものなのか。私たちは、「問い」について、その意味するところをひたすら考えるわけです。その場合に、「問い」の中になにか概念があれば、まず「定義」というものを頭の中で反芻してみなければならないと思うのです。問題文に「平行四辺形」とあるのに何も考えないというのはやはりおかしい。ここで「平行四辺形の定義は何か」と問いをたてて、その答えを考える、そういうことが「考える」という精神作用なわけです。
 「問い」をさらに「問い」で問い直すということです。この問いのたてかたをいろいろ考える過程で正解への道筋というものが見えてくるのだと思うのです。
 よく国語の読解問題でもわたしは゛問いから読解を見直す」ことが大切なのではないかと思うのです。
 本文を読みながら意味を考える、それは「問い」の連続なのではないか。私たちは「問い」を発し、その答えを探すのではないか。それが思考ということなのではないか。
 してみると、問いの立て方というのがとても重要なことのように思えてくる。
 私は「問うことから答えを見つける」というのがもっともいい解答の態度なのではないかと思っています。
 「問い」がわからなければ次から次に問いを立ててみるがいい。問いとその答えの連続したつながりこそが思考ということなのであるから。
 
By 竹の会
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