草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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継続は力なり

2013年08月14日 08時44分27秒 | 
 お早うございます。明日からまた夏の指導が開始します。竹の会としては珍しくお盆にお休みをとりました。以前はお盆も休まず普通にやりました。わたしはお盆とかお正月だとかいって勉強を中断するのは結局受験に失敗する人たちなのではないかと思っているからです。よく受検すると言いながら、他方で頻繁にスポーツや家族旅行、お稽古事・習い事などを絶対欠かせないものとしてやる親子がいましたが、まず受験・受検に成功することは決してありませんでした。中学だと部活の邪魔にならないように時間や日程を合わせてくれる塾を親子で探しているというのが時折やってきましたが、もともと勉強というものに対する意識が低調な子が塾にきてもうまくいくはずもないのです。親の勉強に対する意識もかなりに低レベルというか、ちょっと住んでる世界がちがうようです。「勉強ばかりしてもしかたない」というような勉強を軽視したことを平気で言いますから、やはりわたしにはちょっと無縁な方たちでした。
 勉強というのは、「続ける」ことが、大変なのです。いや勉強に限らず何かを極めようと志したら、それを続けるというのがやはり難しい。平気で雑用や世間の行事に勉強を中断させてしまうのが凡人なんです。凡人というなのはいつも成功者の背中を見ているしかないのです。自分が成功者になることはないのですから。よくある誘惑に、「たまには息抜きを」とか、「お正月くらい」とかいう類いの大義名分がありますが、これは魔女に甘い誘惑でいくら話しかけられても声をだしてはいけないという、あの物語と同じです。
 声を出したら即「石」になるというあれです。
 わたしは「継続」した努力で成功した人たちのことを知っています。余人の真似のできない意思の強さです。鉄の意志です。真夏のエアコンもない湿気だらけの木造の一室で粗末な扇風機を回しながら10時間の勉強を盆も正月もなくやり抜いた友人がいました。
 わたしの母校のその世界では有名であった井上正治教授は、学生の時、指導教授に「大学に残りたい」と言ったところ、「それなら司法試験で1番をとってこい」と言われたそうです。それで友人たちとの接触を断つため、だれも知らないところに部屋を借りて、半年間こもって勉強したそうです。目が覚めたら勉強したそうです。風呂や食事をとるのも時間が惜しくて栄養が十分にとれずに後に結核になってしまうのですが、とにかく枕元に本を積み、目が覚めたら気になって本を読んだということです。そのおかげか、司法試験には2番で合格し、無事大学へ残ることを許されたそうです。これは井上先生のことを紹介した本で読んだものです。
 わたしの大学時代の友人には今裁判官をしているのがいますが、彼は4年生のときに司法試験に合格しました。しかも55番でした。わたしが彼のことで思い出すのは、彼は福岡の地元だったのですが、夏休みにもうほとんどの学生が実家に帰省していたりしたときに、なぜか始めた少林寺拳法の練習を、早朝6時にあるのだそうですが、盆とか正月とか関係なくとにかく一日も休まずに練習に通っていたということです。彼はそういう人でした。わたしは彼が司法試験に合格したと聞いたとき、そこが凡人とちがうところなのだなと思いました。「続ける」という意思の強さはまさに鉄の意志でした。続けるのは彼にはなんの疑いもない、あたりまえのことだったのです。周りが驚くほど彼には奇異なことではなかったのです。
 なにかあたりまえのように、なぜ休むの?と反対に不思議がられてしまいました。
 継続こそ勉強の、いやなんにでもいえることなのですが、力です。
 「中断」はどんなにもっともらしい言葉で言い訳されても、それは凡人にはあたりまえの凡人たる証しにすぎないのです。
 わたしがよく受検の子たちにお正月は「テレビは観てはいけない」というようなことを言うのは、直前の中断がもたらす緊張のリズムの破壊が怖いからです。なによりも緊張するあまりに、逆に、弾けて焦点が定まらず、注意散漫になってしまうことが、弛緩してしまう精神が怖いからです。「継続」というのは、合格する、成功するためにまず要件となる前提、あたりまえの前提なのです。
 自らその前提を壊した者が、人一倍に「合格する」ことに期待を持つのは世の常ですが、前提を欠く者に合格そのものがありえないことだったのです。
 

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