草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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平成嘘事典 1 人権派弁護士

2005年02月09日 11時28分19秒 | 
人権派弁護士
 この言葉が脚光を浴びたのは、少年の残虐事件が起きたときであった。このとき加害者である少年の人権を護るという錦の御旗が加害者の審判手続き等の一切の情報をシャット・アウトした。例のオーム真理教事件の公判では、人権派弁護士といわれる国選弁護人の面々があれやこれやと訴訟を遅らせる戦術をとったことは周知の事実である。
 こうした被害者の人権よりも加害者の人権が絶対的とされることに疑問を呈するものもいた。被害者の人権は殺人という最大の人権侵害にあっていながら、一顧だにされないというのは理不尽だということである。加害者の人権が手厚く保護されるという建前に疑問を投げかける人々も少なくない。死んだものよりも今生きている未来ある少年の矯正教育こそ重視されなければならないというのが、近代矯正法の精神なのか。被害者の家族の精神的な苦痛はどうなるのか。確かに、加害者側の家族のその後も悲惨である。まじめに生きてきた加害者の家族ほど悲惨なことはない。その精神的苦痛は別の意味で推測に難くない。社会の非難は一斉に加害者の親に向けられる。
 そもそも加害少年の人権は不可侵かつ絶対的なものなのか。凶悪な犯罪を犯した少年が人権保護の名の下にめでたく社会復帰を果たし、社会に出て、あげく凶悪事件を起こしたという例も枚挙に暇がない。
 人権絶対の思想は、旧憲法下の拷問を始めとした人権蹂躙の歴史に根ざした根深い公権力への懐疑がある。具体的な個々人の人権を護るということは、抽象的な将来の人権侵害への警鐘となる。憲法の教科書で憲法学者が説く論理はたいていこんなものだ。
 しかし、少年事件はこれでもかというほど凶悪性の度を増している。残虐でかばいようのない凶悪な少年たちに厳罰の風潮が次第に強まってくるのもいたしかたない流れではある。
 凶悪事件が増えれば増えるほど、人権派弁護士という名が宙に浮く。
 以前、ある人権派弁護士の子どもが暴漢に殺されるという事件があった。そのとき、その人権派弁護士がとった行動は示唆的であった。その加害者を強く憎み、厳罰を求めて、法的に戦い続けたのである。その弁護士は「自分の子が殺されて初めて被害者の気持ちがわかった」といみじくも独白している。
 ある真実を物語る話である。
 「人権」を過度に唱えるのは、権威主義である。世の中には、真正の権威というものがあることは否定しない。この権威が有害だと言う気もない。ただ、世の中には、もともと権威もないのに、あたかも権威があるかのように振る舞い、人を威圧するやからのあまりに多いことか。社会には様々な権威主義がはばかり、罷り通る。オレオレ詐欺などは、社会に浸透した権威主義の虚をついたものである。消防署というと法外な消火器も買ってしまう。警察だというとすぐに信じこんでしまう。人は権威もどきに弱い。昨今はこうした権威主義的な人々の虚を突く犯罪がものの見事に成功する例があとを絶たない。そういえば、大阪のおばちゃんたちは、オレオレ詐欺にかからないという報道があった。本音で動く大阪人の真骨頂だ。警察だってやたら信じないというのが大阪人かな。しかし、大阪人が権威主義的でないというわけではない。彼らが別の何かに権威を見ているのは間違いないわけで、その虚を突かれるということはありうる。
 人権、人権とあまりに言い過ぎると、人権絶対思想、人権という権威に盲従するだけになり、内容的に不毛な結果にしかならない。凶悪犯罪と人権の問題は、困難な問題であり続ける。冤罪が重大な人権侵害であることは当然で、そのために正当な手続きのもとに裁判が進められなければならない。
 しかし、冤罪と凶悪犯の人権を護るということはその本質において異なる。冤罪を防ぐために凶悪犯の人権を護るというのは少なくとも観念的には受け入れられない。現実問題としてその区別が難しいことはありうる。しかし、真実犯人が確定しその点に疑問がない場合にまで人権の嵐を撒き散らすのは納得し難い気もする。
 人権派弁護士という面々には、権威主義的な臭いが強く、深いところで嘘の臭いがする。
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