草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

無根拠な安心に浸り続ける国民と常に国民を騙す無能政府

2011年08月21日 12時06分49秒 | 
 お早うございます。本日はお休みです。明日から夏期第6周目がスタートします。6周目は4日目が3時~8時の実施です。続く第7周目も同じ時間帯で月・火のみ実施です。お間違えのないようにしてください。なお、9月の指導は、5日(月)開始です。すでに日程表は配布済みです。  竹の会の算数指導技術は日々の指導の実践を経てさらに錬磨され洗練され続けています。今夏は小5に施した割合指導用レジュメが、思わぬ効果のあることが判明し、これからの算数レジュメの執筆の方向性が明確に見えてきたという慮外の収穫がありました。「割合」の理解の浸透をするのを日々確信しながらの指導でした。一般に「説明してもらってわかる」という子が伸びないのは、説明を聞いた子のほとんどが、「なるほど」とか、「あっ、そうか」といった反応がないためです。「なるほど」と反応する子は、理解が「つながっている」のです。レジュメでこのような反応が得られるレジュメは成功したレジュメであり、まさに進化していくレジュメであり、淘汰されていくレジュメです。頭の中での構想で製作されたレジュメはどれほどの効果が見込めるか未知数です。いくら自信作でもそうです。実際に使ってみて子どもたちの反応をみて初めてわかることが多いのです。もちろんレジュメだけの問題ではありません。子どもたちの質も求められます。潜在的にいいものを持っているなと実感させる子からそのいいものを引き出すことができるようなレジュメを淘汰させていかなければとは思っています。 ◯無根拠な安心に浸り続ける国民と常に国民を騙す無能政府    内田樹は、日本人の危機に対する無防備性を指摘している。長い間に、正確には、戦後60年間戦争をしたことがなかったということのために培われたなぜか「間違っても大丈夫」という無根拠な安心にどっぷりと浸かってきたというのである。今度の3.11の福島の原発事故で見せた政府の無能さは目を覆うものがあった。危機に対する確固とした指針を示すこともできないで、泥縄式のあたふた振りにはさすがにこれが近代国家の指導者だったのかとむしろ自分たちのこれまでのバカさ加減に虚脱した感が強い。「絶対安全」といい、最悪の場合を微塵も想定しない国民と国家であった。原発が絶対安全といい、最悪の場合を全く想定しないでいて、起きた事故はすべて「想定外」というのが、この国の政治・経済・学問のトップにいる人たちなのだから、これほど不幸な国民もいまい。確かに、私たちは、内田の言うように、「致命的なリスク」を引き当てるということがどういうことを意味するか、ほとんど忘れてしまっていたのです。目の前の爆発の映像の意味することがどういう事態なのかも多くの国民は自覚しなかったと思います。政府と大新聞が率先して嘘をついて大量の国民を被曝させたのだということを私たちはそれで悪びれることもないこの国の政府の指導者たちや全く無関係を装う大新聞に事故から4か月も後に「実は」と知らされるのです。読売新聞が原発新聞であることは自明ですが、朝日もその本質においてはなんら変わることはないと思います。読売が積極的に原発を推進する新聞であるとしたら、朝日は消極的に推進してきた新聞であったといえるでしょう。その分、陰湿であり、罪も深いと思います。時に、私のブログに対して、真面目かつ自尊の念の強い人間からの批判コメントをいただくこともありますが、その人間が「匿名」による批判という一事をもって私は無視することとしています。何かを言うのであれば、きちんと責任の所在を明らかにして述べるべきです。「匿名」という隠れ蓑を着て言いたいことを言う人間を私は信用しません。  日本の政府、地方政府はいつも「正しい答え、つまり正解、正しい解決がある」と前提して、その正解を採択するのが正しい方法であるとしてきたのではないでしょうか。デカルトの「方法序説」には、いったんある道を決めたら、途中でたとえほかに今の道より数段優れた道が見つかったと思ってもその道を進むべきだといった趣旨の一節が述べられています。結局よりいい道に変えてもまた振り出しであり、そういうことを繰り返していたら永久に目的に達することができないというのです。「正しい」解決があると前提して、延々とその正しい解決を確定するために費消される損失をなんとも思わないのが今の政治過程ではないでしょうか。それよりも不完全なことは十分承知の上で、つまり不正解であることは自明の決定の上に、さまざまな想定され得るリスクのために代替の方法を用意しておくというほうが十分に合理的ではないかと思うのです。原発の絶対安全性を想定して、一切のリスクヘッジを止めてしまうという思考がこの国のトップ層のとってきた頭脳の中身です。リスクに対する方策は、なんとも稚拙でド素人そのものでした。これが無能と言わないでなんと言えるのか。次から次に国民を無邪気に騙してきた事故後の政府・官僚たちの無策は今も変わらないままに続いています。3.11で国民はもういい加減に悟らなければならない。私たちが依拠していた安心というものが、実は何の根拠もないものであったということを。そして「致命的なリスク」を今引き当てて、今こそ国民の有り様が試されているのだと言うことを。私たちは、あまりにも不確定要素の多い世界に身を置いて生活しています。だからこそ常に致命的なリスクに対して、代替する方策をあれこれと考えておく必要があるのです。津波の対策はしたから大丈夫などということはない。今度は、直下型で原発そのものが地中に沈む事態かもしれない。もう安全は確認したから大丈夫などと海江田が言って玄海を稼働させようとしたが、大丈夫などという言葉が使われるのは大丈夫じゃない証拠です。玄海原発には耐用年数をはるかに超えて外部電源喪失の際の冷却注水で98度で原子炉がパリンと割れるリスクが指摘されています。そういう事態に備える方策は何も示されていないのです。なにが大丈夫なのかさっぱりわかりません。とにかくスイッチを入れれば動くから大丈夫と言っているに過ぎないだけなのです。リスクを想定しない、リスクに対して無策な政府の輩に私たちは全権を託してしまっているのです。なんと恐ろしいことでしょうか。しかも、そういう輩はみな無責任なのです。あの3.11の爆発の時、インサイダー情報でいち早く妻子を関西に逃がしたという枝野や大新聞の社員たちを見れば彼らの無責任さをもう自明だったのですが。  
この記事についてブログを書く
« 一時の涼風に一息をつく | トップ | 基準値というまやかしで国民... »