草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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勝つ極意

2014年12月15日 19時17分37秒 | 
 今日は試験に勝つ極意についてお話ししたいと思います。  平成23年2月の受検のとき、桜修館を受検した子の話です。彼は試験の間、ずっと「問いに答える」と心の中で何度も口にしたそうです。算数はようやく割合というものが、本当にわかってきた域でした。苦手の作文はもはや打つ手なしでした。その彼が合格した。わたしは彼が、わたしがいつも口を酸っぱくして言ってきた「問いに答える」という言葉をまるで呪文のように唱えていたということを彼のお母さんから聞かされました。なんという素直な子であったことだろう。  素直な子が受かりやすい。これは真理と思います。いくら頭がよくても何事にも、特に、教えを請う師に素直でない子というのは往々にして落ちるものです。よく合格した子とその親御さんが、わたしのことを神様のように敬うのは実はそういう素直さというのが合格と表裏ということを示しているのです。自分のやりかたにこだわるのは、結構なことですが、これは師の言うとおりにやらないということであり、かなりの確率で失敗するものとみて間違いありません。難関国家試験などではこの差が如実に表れることは知られています。  毎度、真剣勝負にたとえて恐縮なのですが、わたしの趣味が江戸時代の剣客小説が好きなので、ご容赦ください。真剣勝負というのは、恐いと思います。相手の刀が触れればスパリと切れる。真剣の立ち会いでは相手の懐に入らなければ自分は決して斬れないのですから、これはもう死を覚悟してしかありえないわけです。一瞬の遅速で生死の境が分かれる。恐くて離れいてれば刀は届かないから斬るということはまずないわけです。福沢諭吉が中津にいた頃、刀を差して夜道を家に急いでいた。暗い道で向こうから武士らしき人がひたひたと近づいてくる。これはてっきり辻斬りと思ってすれ違ってもう斬られると思って一目散に走り出した。振り返ると相手の武士も一目散に走って逃げていたということが書かれてありました。真剣勝負というのは命のやりとりをするということであり、普通の武士にはその覚悟がないということも往々にしてありえたことと思われます。腕に自信の輩のみが自分の腕を試したくて無謀な勝負をやったということはあると思います。  さて、この真剣勝負の極意とは何か、です。極度の、死に直面した緊張感、それは並々ならぬ恐怖の襲い来る状況です。なんとその状況だけとらえれば、試験直前の空気に似てなくもない(強引)。  この真剣の極意は、ずばり勇気です。具体的には、「相手より深く踏みこむことができる」ことです。恐怖に打ち勝ち、勇気をふりしぼって思い切り、存分に、踏みこむ、ことです。ボクシングの試合で踏み込み不足のパンチが流れる、効かないという光景はありふれたものですが、切れるパンチというのは、踏み込みのいいパンチのことです。真の戦いの相手は己の心にあり。弱い、臆病な心にあり。恐れる心にあり。恐れるな、恐れたら負けだ。恐いのは当たり前だ。それに打ち勝つのだ。勇気だ。勇気を持て。作家鈴木英治の言葉です。  試験は近い。ここで客観的に、いや一歩引いて自分を鷹揚に眺める心境の受検生というものがいます。自分を自分の外から見ているのです。一見冷静になっているかに見えますが、これは敗北の前兆です。戦いというのは、真っ直ぐ敵を直視するものです。  桜修館という敵に対して、桜修館の繰り出す見たこともない難問にたじろいでいては負けです。踏み込む、思い切り踏み込むことです。それが具体的にどういうことなのかは自分で考えることです。  
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