草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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塾で難しい問題をやらないでどうする

2014年06月02日 14時36分46秒 | 
 本番で歯が立たなかった、難しすぎて手が出なかった、よく聞く話です。そういえば、去年は「早稲田進学会の模試で難しくて解けなかった」という女子もいた。
(本番の)問題が、難しくてわからなかった」という話は受検後の子どもの話としてわたしもよく聞きました。よくあるのは、「できた」という子の話です。こういう子はたいてい落ちています。「できた」と思っているだけで、実はできていないだけのことですが、浅い理解しかしない頭には、問題の深いところがわからないので、思い込みで答案をうめてきたにすぎないのです。「難しかった」という子のほうが、実は問題の深いところで悩んでいたということが多いものです。つまり、戦っている次元がちがうのです。
 大手のやる「類似問題をやる」というのは親や子には受け入れやすい。漠然と同じような問題が出ると考えている節がある。似たような問題を解いていれば、解けるようになるという楽観論もあるのであろう。
 よく予想問題で騒いでいる予備校、そして親子もいるけれど、ナンセンスである。問題の本質はそんなことではない。
 わたしが、高校受験、特に、都立受検を「わかった」、「見切った」と思ったのは、平成20年の都立西に合格させたときであったろうか。あのとき、豊島岡女子に「受かった」とき、わたしは自分の思い通りに事が運んでいくさまをまるで他人事のように見ていた。しっかりとコントロールしていた。指導の糸はしっかりとつながれていた。わたしは思い通りの手を打ち、思い通りの結果を出して見せた。
 今、都立中の指導の最中にいるこのときに、わたしは思い返せば、都立高校受験の指導技術をわたしの言うところの抽象的段階で完成させていたのだと思う。「どうすれば合格できるのか」ということを知ったということである。
 平成18年4月初めて都立中高一貫校のための指導をした。小6はひとりだけ。19年2月9日区立九段中に合格。いとも簡単に11倍の難関を突破した。
 その年に集まった子たちは、「猫も杓子も」の子たちばかりであった。小6になって通分もできない、割合もわからない、そういう子たちが集まってきた。それまで私立受験など考えたこともない親子が「都立なら」と一挙に受検を始めた。過去問合格法も使えないほどの子たちが集まった。結局2合格したのは、1人だけ。桜修館であった。20年、21年にかけてわたしは本格的に都立中の研究に入った。21年8月には、23年に小石川にごうかくすることになる男子が入会。21年は、22年に両国、桜修館に合格していく子たちがいた年でもあった。今、竹の会でさかんに使われているレジュメの元となった原稿はこの時期に作られたものが多い。わたしが、まだ都立中の正体をつかみきれずにもがいていた時代であった。具体的な段階にあった。
 24年、初めて渋谷駅近くに進出。竹の会渋谷教室スタートの年であった。このとき、竹の会のレジュメ指導は、小学の指導において、画期的な段階、境地に入ったといえる。
 同年9月から執筆を始めた「算数をクリアーにする」は、積極的に、難問に取り組んでいったものであった。このレジュメ指導で、25年2月、小石川、白鴎に合格。前年の10月退塾した子も桜修館に合格。竹の会のレジュメ指導世代であった。
 本番で難問が解けない。落ちた子はそういうことなのである。
 本番で難問しか出ないのなら、普段平易な問題ばかり解いて練習していても本番で解けるわけがない。そもそもだれもが解ける問題なんか練習する意味がない。
 塾で難しい問題をほとんどやらないでいったいどうするのか。本番で突然解けるということなどないでしょ。
 塾ではこれでもかというほど難しい問題で頭を悩ます程度がちょうどいいのである。
 わたしはそう考えるようになった。それならば、良質の難問をとにかく子どもたちに「これでもか」というぐらいに訓練させること、これが塾の使命であろう。
 わたしは無意識でそういう問題ばかりを作るようになっていた。今年の2月9日、その日を境にわたしは何かに憑かれたように問題を作り続けてきた。
 ようやく最近になって、わたしは具体的段階から抽象的段階へと踏みいっていることを実感し始めている。都立高校受験で極めた抽象的段階域への到達をわたしは都立中でも実感し始めている。
 都立を極めつつある。それが今のわたしの実感である。
 子どもたちを合格へと導く、竹の会が道案内をしなければならない。

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