今6時半ほどですが、外は暴風です。まるで台風ですね。人間など自然の営為には為されるがままです。福島第一原発の2号機ではなんと73シーベルトというなんとも恐ろしい放射線量だそうです。人間などひとたまりもありません。即死です。これでいったいどうやって廃炉にするのでしょうか。M7クラスの地震が襲えば4号機プールは崩壊すると言われています。そうなるともはや手のつけようがなくなるのです。今大飯原発の再稼働に向けて財界や政界が動き出しています。腹立たしいのは、3.11前の原子力予算4000億円超が、本年度もそのまま計上されたことです。そんなカネがあるのなら、福島第一原発の廃炉のための費用にあてろと言いたいのですが、こちらにはほとんど出さないことのようです。福島の状態を正常に戻すことこそが今いちばん必要なことでしょ。いったい民主党や自民党は何を考えているのでしょうか。今福島第一原発に全力をかけておかなければ取り返しのつかないことになる。いったい政治家とはどういう人たちなのでしょうか。
この前の土日は、じっくり時間をかけてレジュメ制作に打ち込めました。近頃の私は、微に入り細に入り、指導レジュメを作り上げることにこだわっています。そして竹の会の指導というのは、この私のレジュメなしには考えられず、どうしてもそのための時間は確保しなければならない、そうでなければ竹の会の指導そのものが廃れるとさえも思い詰めています。指導には十分な準備が必要です。それが、効率的な指導を実現することは疑いないと確信しています。
今の私は、最高レベルの完成度の高いレジュメを制作可能であり、そのレジュメを適宜使いながら、子どもたちを教え導くことに絶対の自信を持っています。子どもたちに「割合」を理解させながら思考力をつけてゆく過程はすでに高度に完成された指導技術としていいと思います。私は子どもたちを指導しながら子どもたちが確実に着実に思考力をつけてゆくのを実感しています。竹の会の子どもたちというのは、「わかる」ということを知っている子たちです。ですから、「わかる」ことに喜びを感じ、竹の会に通うことが楽しくなるのです。
私は「考えなさい」とは言いますが、決して突き放すわけではありません。上級者が「わかりません」と簡単に言うのには厳しく「もっと考えろ」と叱りますが、初心者には、懇切丁寧な解説をしてあげます。私の解説は、自分で言うのもなんですが、たぶん名人級だと思いますよ。かつて講義をしていた時代には、「わかりやすい」講義として人気でした。講義をする日が不定の時代は、親たちが「講義の日」を尋ねて問い合わせてきたものです。なにしろ私はもう三十年近く子どもたちの「わからない」とつき合ってきましたからね。子どもたちの「わからない」の壺がわかっているのですよ。それに子どもたちはことばが多いほど迷路に入るのですよ。少ないことばで、簡潔に説明するのがこつなんです。それも幼い子どもたちの理解できることばを使って説明するのです。ただこの説明の道具としてのことばを実は私は予め子どもたちの頭の中に仕込んでおくのです。そして私が仕込んだことばを使って「わかる」ということを作り上げるのです。説明の技術というのはそういう意味なんです。
今の私の指導技術ならたいていの子どもたちを仕上げることができると思います。竹の会では今は入会テストをして一定の能力水準にある子しかとらないことにしていますが、それまで入会テストのなかった時代には、今の入会テストには決して受からないであろうような子たちを私は普通にできる子たちに仕上げていました。ただそれでは都立中に合格するほどの子には育たないということです。私は竹の会に入会した子たちが全員都立中に合格できるようにしたいのです。もう子どもたちの涙を見るのはごめんということです。
私は真の指導家でありたい。プロの指導者でありたい。指導の準備に十分に時間をかけられない状態で指導をすることには耐えられないのです。それにそういうことになれば、たちまち指導の質が落ちるに決まっています。私は真のプロの指導家として、5月以降の新体制に臨みたいと決意しています。
プロとしての矜持が保てないのなら、指導者としてある意味がない。納得のゆく指導をするためには、犠牲もやむを得ない。
この前の土日は、じっくり時間をかけてレジュメ制作に打ち込めました。近頃の私は、微に入り細に入り、指導レジュメを作り上げることにこだわっています。そして竹の会の指導というのは、この私のレジュメなしには考えられず、どうしてもそのための時間は確保しなければならない、そうでなければ竹の会の指導そのものが廃れるとさえも思い詰めています。指導には十分な準備が必要です。それが、効率的な指導を実現することは疑いないと確信しています。
今の私は、最高レベルの完成度の高いレジュメを制作可能であり、そのレジュメを適宜使いながら、子どもたちを教え導くことに絶対の自信を持っています。子どもたちに「割合」を理解させながら思考力をつけてゆく過程はすでに高度に完成された指導技術としていいと思います。私は子どもたちを指導しながら子どもたちが確実に着実に思考力をつけてゆくのを実感しています。竹の会の子どもたちというのは、「わかる」ということを知っている子たちです。ですから、「わかる」ことに喜びを感じ、竹の会に通うことが楽しくなるのです。
私は「考えなさい」とは言いますが、決して突き放すわけではありません。上級者が「わかりません」と簡単に言うのには厳しく「もっと考えろ」と叱りますが、初心者には、懇切丁寧な解説をしてあげます。私の解説は、自分で言うのもなんですが、たぶん名人級だと思いますよ。かつて講義をしていた時代には、「わかりやすい」講義として人気でした。講義をする日が不定の時代は、親たちが「講義の日」を尋ねて問い合わせてきたものです。なにしろ私はもう三十年近く子どもたちの「わからない」とつき合ってきましたからね。子どもたちの「わからない」の壺がわかっているのですよ。それに子どもたちはことばが多いほど迷路に入るのですよ。少ないことばで、簡潔に説明するのがこつなんです。それも幼い子どもたちの理解できることばを使って説明するのです。ただこの説明の道具としてのことばを実は私は予め子どもたちの頭の中に仕込んでおくのです。そして私が仕込んだことばを使って「わかる」ということを作り上げるのです。説明の技術というのはそういう意味なんです。
今の私の指導技術ならたいていの子どもたちを仕上げることができると思います。竹の会では今は入会テストをして一定の能力水準にある子しかとらないことにしていますが、それまで入会テストのなかった時代には、今の入会テストには決して受からないであろうような子たちを私は普通にできる子たちに仕上げていました。ただそれでは都立中に合格するほどの子には育たないということです。私は竹の会に入会した子たちが全員都立中に合格できるようにしたいのです。もう子どもたちの涙を見るのはごめんということです。
私は真の指導家でありたい。プロの指導者でありたい。指導の準備に十分に時間をかけられない状態で指導をすることには耐えられないのです。それにそういうことになれば、たちまち指導の質が落ちるに決まっています。私は真のプロの指導家として、5月以降の新体制に臨みたいと決意しています。
プロとしての矜持が保てないのなら、指導者としてある意味がない。納得のゆく指導をするためには、犠牲もやむを得ない。