草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
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何がわからないのか

2007年05月31日 10時43分33秒 | 
次の問題は日大二中平成16年の6番の問題です。
「仕入れ値の1割5分増しの利益があるように定価を460円とした商品があります。30個までは定価, 31個からはこえた分について定価の5分引き,51個目からはこえた分については定価の1割引きの値段になります。
 (1) この商品1個の仕入れ値は何円ですか。
 (2) この商品を40個買うと何円になりますか。
 (3) 35000円ではこの商品はもっとも多くて何個買うことができますか。」

前回は,なぜ算数がわからないのかということについて,少々抽象的な議論をしましたので,今日は少し具体例をふまえてお話ししてみたいと思います。上の例は日大二中の過去問です。しかも最後の6番の問題です。ふつうこのラスト問題だとかなり難しい問題をもってくるものですが(事実日大二中の過去問のラスト問題にはそれなりの難問が過去何度も出ている), 本問はそれほどでもありません。この問題は「1あたりの考え方」を何重にも問うという構成になっています。そこで,わたしは,そろそろ1あたりの考え方に慣れてきた子どもたちに出してみました。
その際, 私は次のようなヒントとなる小問をつけてみました。
「(1) 仕入れ値は何円ですか。
 (2) 定価の5分引きとは何円ですか。
 (3) 定価の1割引きとは何円ですか。
 (4) 50個買うと何円になりますか。   」
ついでに言っておきますが,出題者がここのところにこのレベルの問題をもってきたのは,制限時間50分ということで,それなりに思考を要する問題を配置した関係上,最後は基本中の基本を問うことにしたものと推測されます。しかも,5問まで考えたところで頭はかなりへとへとのところに勘違いミスを起こしやすい基本問題をもってきています。とはいっても1番から順番に解く平均的受験生を念頭においた話しですが。実際には解く順番としては,1番から順に解く必要はなくこのような基本問題をさっさと片付けるのが受験対策ということですが。
 さて,このように小問に分けても,多くの小学生はパニックと「とまどい」を隠しません。まず30個までが定価つまり460円,31個から50個までが定価の5分引き,51個からが定価の1割引きということ(これがこの問題の意味あいです)をきちんと把握できないのが実状なのです。
 しかも,ヒントとして出してみた各小問についてもいかにもあやふやな解答が返ってきます。1あたりの基本は何十回も繰り返しやっています。それでもとんちんかんな答えを書いて出してくるのです。問題の意味が何なのかなどはまるで考えられることはありません。出された数値に脳は萎縮し意味もなく数値をかけたりわったりして解答欄だけはうめます。思考の跡のみられない解答です。「どうしてこの数が出たの?」と問うと何も返答はかえってきません。これが現実なのです。私はその度に今度はどう1あたりの説明を説き起こしていこうかとまた考え込んでしまいます。ある問題を出して1あたりの理解度を確かめる,ずっとこの繰り返しです。理解していないなとわかると, また次なる指導の方法を模索し悩み続けます。ある1あたりの指導レジュメに慣れてきた子どもたちは,何度もやって覚えてしまったやり方を機械的に使いこなして答えを出します。本当に理解しているのか怪しいのです。そこでいろいろと姿を変えて出します。理解していない子はその度に頓挫します。ある程度わかったなと思って今度のようなレジュメを出します。すると「定価の5分引きとは何円ですか」レベルがわからないという現実にまたまた私は愕然とするのです。いままでの指導は何であったのか,何度も私はこういう局面に遭遇し続けるのです。私が子どもが理解したかどうかを信用しない前提でいつも指導にあたっているということの心情をお分かりいただければと思います。わたしが「この子は本当に1あたりの思考がわかったな」と実感した子は必ず「受かります」。本年九段合格者は私がそう確信した子の一人です。私が竹の会が奇跡的合格者を出すというのは,決して偶然の幸運というわけではありません。合格する子には私は受験前から「合格する」ということをいっております。かつて早稲田実業高校に合格したS君のお母さんに「私はおそらく合格すると思います」といってしまいました。ところがその後の新聞に出た受験倍率は18倍という数値でした。いつも私はこの数値に自分の自信をぐらつかせます。しかし,時は非情に過ぎ去り,耐え難い合格発表までの数日間,そして奇跡的に「先生,合格しました」という報告,何度もこういう瞬間を経験しました。恐ろしいほどのすごい受験倍率。私はいつもその倍率を見たとたん心が沈みます。そして自分のやってきた指導を後悔しながら思い返します。「あれでよかったのか。こうすればもっとよかったのではないか。などなど…」。本当に私は試験の恐ろしさを毎年毎年くぐりぬけてきました。今の私の指導のひとつひとつには,そうした非情で恐ろしい試験に対する恐怖心がわたしをいつもいつもさいなみ続けているのです。
 だから,わたしは私が確信して「この子は1あたりが本当にわかったな」と思われる子を執拗に作り出そうと日々強い心で思い続けているのです。
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