草枕

都立中高一貫校・都立高校トップ校 受験指導塾「竹の会」塾長のブログ
※2015年10月より竹の会公式HP内にブログ移転

夏期第5回 夏酣 観念的記号社会の毒

2015年08月06日 07時38分23秒 | 
 おはようございます。今日、明日は連続して指導日となっております。ほんとうに去年と同じ猛暑の渦中にいるのだなという実感ですね。昨日は朝早くから雑用と仕事に追われてとうとうブログの更新まで手が回りませんでした。それでアクセス数はないだろうと思っておりましたが、開いてみるとなんとたくさんの方が訪問されている、、これには驚きました。
 竹の会のホームページを刷新するという計画がありまして、大手のHPを見てみましたが、なんともにぎやかでキャッチコピーや煽動的なコンテンツが目立ちます。なにやら魅惑的なコンテンツが並び、とにかく手を変え品を変え客の取りこみに余念がないという印象です。竹の会のHPはどちらかと言えば読む人の理性に訴えて賢い判断を選択を前提としているようなところがあります。
 しかし、世の中の親というのは必ずしもそういう知性を持ち合わせているとは限らない人たちが多数なのだということにはわたしも気づいてはいたと思うのです。
 大手の塾のキャッチコピーや謳われるコンテンツ等に目を通してみると、どうも現実性というものがない。しかし、実に商売熱心だという情熱だけは確かに感じました。
 耳目を引くコンテンツが並んでいるけれど果たしてその一つを申し込んで見て授業を受けてみて言われるような効果があるのか、ということです。もうこれで受かってしまうという錯覚を持ってしまいそうなコンテンツ満載ですが、たとえば割合の授業がもう簡単に1回か2回の授業で会得してしまうかのような口吻ですが、これだけ捉えても嘘ですね。
 大手の塾の宣伝を読んでいると、だれもがそれさえやれば受かるということを言っているわけです。しかし、ちょっと待ってくれ、すべての子どもはみなそれなりの能力差を有する、同じ資質の子どもを前提とするのはあまりにも不自然ではないか、と突っこみたくなります。それは現実に即さない、現実的ではないでしょ、ということです。
 一回聞いただけではなにもわからないという子もたくさんいる、「わかった」と言って実は何も分かっていない、という子もいる。そもそもどんなりっぱな授業でもその子の理解の枠組みからすれば全く意味がないということがあるのである。
 すべての子がそれなりに「できる」という前提がおかしいのである。
 コンテンツをそろえているからと呼び込んで、愚昧な人たちがたくさん申し込むの図は想像に難くない。しかし、すべての子どもが「できること」という前提は見事に塾の側は触れないで、親たちも特に問題とはしない。
 わたしは昨今の政治状況をめぐる国民の判断についてもものごとを深く考えない人たち、いや「自分が興味がなく知らないことは知るに値しない」という精神態度の人たちの増殖を懸念せずにはおれない。自民党に限らず、国会議員の質の低さが必ずしも学歴とは比例していないということも今ではあたりまえである。そもそも偏差値教育で知識を覚えることだけに特化してきた人間たちに、深い洞察力に導かれた態度などというものを期待するのが間違っている。高学歴の国会議員や官僚たちが、進学校や大手塾、予備校では「できる人」として、予備校の用意するコンテンツを有意義に活用して成功してきたというのは確かなことなのであろう。しかし、そうしてできあがった人たちの言動というものが、どうも信用できない、嘘くさいというのはどういうことか。
 安保法案に合憲だという3人の憲法学者がいたけれど、そういう人間でも学者として遇する日本社会はそれなりに自由なところなのであろうが、わたしにはなにか社会のゆがみの一端を見た気がしてならない。偏差値教育では負け組の私大の教授たち3人の言説は、御用御用と吠える、負け犬の遠吠えにしか写らなかった。
 偏差値教育の弊害は、高い偏差値をとって社会の勝ち組と言われる人たちにおいて顕著である。かれらの厄介なところは、とにかく自分が何でも知っていると自信に満ちていることである。「戦争に行きたくないから安保法案には反対だ」というのは自己中だ」と言った、バカ議員がいたけれど、あれで東京外語大を出ている、それであの程度の理解なのである。偏差値教育が作り上げてきたものとは、「自分が何も知らないということを知らない」人間たちなのではないか。
 それから昨今の大手塾の宣伝にそのまま鵜呑みして飛びつく親の行動に顕著であるが、観念で動く人の増殖がある。それはほとんど思い込みで、現実性欠いた人たちの増殖である。
 安倍は自説を補強するのにさかんに著名な知識人を援用するけれど、現実性のない観念だけ、つまり思い込みだけで行動する人というのは、都合のいいときだけ、都合のいいように権威に名を借りるのが得意である。安倍には「美しい国へ」という文春新書から出た本があるけれど、これもおそらく口述したものを編集者が書いたものに違いない。養老先生は「バカの壁」を初めとする新書本はすべて、自分では書いていない、と言っている。話したことを録音したものを編集者がさも養老さんが書いたように書いただけである。養老さんの本にはそれでも知性を感じるが、安倍の本には実がない。観念論、思い込み論しかない。現実性が欠落している。安倍は戦争というものを体験していない、だから知らないのに知ったようなことをいう。ただ自分の観念、つまり思い込みだけで知ったかぶりをする。父方の祖父は衆議院議員、母方の祖父は岸信介、大叔父は佐藤栄作、そういう環境に育った次男の安倍が、つまり庶民の生活は一切知らない安倍が、本の中で「いまの時代にわすられがちな家族の情愛や、人と人とのあたたかいつながりが、世代を超え、時代を超えて見るものに訴えかける」などと、多分ゴーストライターが書いているのであろうけれど、いちおう安倍が言ったのかもしれない、戯言を書いている。
 安倍にとって「人と人とのあたたかいつながり」というのは、どのような現実性をもったものとしてあるのか。巷の庶民が義理と人情で助け合う、そういう情景ではありえまい。「わすれられがちな家族の情愛」とはどうなのか。安倍の頭の中だけで言葉として、つまり観念として、つまり思い込みとしてある、そういうものではないか。
 近頃の人間は、見てもいないのに、聞いてもいないのに、体験もしていないのに、よくよく知ったかぶりをする。それはネットでなんでも調べられるという社会だからということもある。情報だけは豊富な親たちが、観念論だけで学校の先生を批判し、塾を評価する。
 いや国会議員が、自分が何も知らないということを知らない人間だ、ということは考えてみると恐い。国立競技場騒ぎでは、バカ政治家たちが、観念だけで、つまり思い込みだけで動いて、利権予算をでっち上げてしまった。偏差値教育というのは、知識を覚えるのが勉強としてたたき込まれるというものである。
 昨今は適性検査も偏差値化してしまう、大手塾の煽動が目につくけれども、そんな小手先の技で騙せるものではあるまい。
 

 
道ばたで見つけた花たちシリーズ
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